ARCHIVE 01国産旋盤の系譜
旋盤は「機械を作る機械」の中でもいちばん基本の機械で、日本の工作機械づくりも旋盤から始まりました。幕末に輸入された機械から、1889 年に東京・芝の小さな工場で作られた英式旋盤、大正の展覧会、戦時の統制、戦後の高速旋盤、1957 年の最初の NC 旋盤、そして生産額世界一と複合加工機まで。社史・当時の業界誌と年鑑・技報・機械遺産と国立科学博物館の資料で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典(国立国会図書館の資料はコマ番号)を付けました。
年と機種名は
ぜんぶ
出典つき!

⚓輸入と模倣の時代(幕末〜明治前半)
日本で最初に工作機械がまとまって使われたのは、幕府が開いた造船所でした。長崎の製鉄所はオランダから技師と職工を招き、機械をそろえました。そこに残っていた工作機械には安政 3 年(1856 年)製の銘板があり、おそらくオランダ製で、1930 年の時点でもまだ使われていたと記録されています[1]。横須賀の造船所(1864 年に建設)の工作機械はフランス製で、慶応 3 年(1867 年)に買い入れ、銘板には「Mulhouse 1866」とありました[1]。
明治に入ると、陸軍の東京砲兵工廠が工作機械を輸入して使うだけでなく、自分の工場で作るようになります。関東大震災で焼けるまでに 1,500 台を超える工作機械を自製し、民間の専門メーカーが育つ 1905 年ごろまでは、国産の工作機械の中心でした[3]。民間人が作った旋盤で古いものとしては、山形の伊藤嘉平治が鍛えた鉄で作った足踏み旋盤が残っています。田中久重の工場でオランダから来た旋盤を見て学んだとされ、機械遺産第3号として愛知県犬山市の博物館明治村で見られます。機械遺産の解説は「明治 8(1875)年頃」の製作とし、1989 年の『日本の技術 100 年』は 1876 年としています[2][3]。同じ明治村には、工部省赤羽工作分局が 1879 年に作った門形平削り盤(機械遺産第67号)もあります[4]。なお、薩摩の集成館で作られたと伝わる旋盤も九州に残っていますが、作り手と年は言い伝えで、確かめられていません[61]。
このころの「作る」は「写す」こと。手本は輸入機で、図面も輸入機から起こしました。工具や親ねじ(ねじを切るための基準のねじ)など、精度の元になる部品はしばらく輸入に頼ります。大正の大隈の旋盤でも、親ねじは米国から買っていました[9]。
①国産の始まり:池貝の英式旋盤(1889 年〜)
1889 年(明治 22 年)5 月、田中久重の工場(のちの芝浦製作所)で旋盤工をしていた池貝庄太郎が、東京・芝の借り工場で独立しました。工場には英式の旋盤が 2 台あるだけで、はじめはレース機械の部品やロール(布のつや出し用)を削る仕事でした[3][1]。その年の末、自分の工場で使うために英式の 9 フィート旋盤を 2 台作りました。これが民間で作られた最初期の動力旋盤で、社史をもとにした研究書も「明治 22 年 池貝鉄工場における英式旋盤の自家製造」を日本の工作機械づくりの出発点に挙げています[3][6]。
池貝工場製第 1 号旋盤(機械遺産第53号)
池貝兄弟(庄太郎と弟の喜四郎)が作った旋盤の 1 台は今も残り、東京・上野の国立科学博物館で見られます。日本機械学会は 2012 年、これを国産の動力式旋盤として最古のものとして機械遺産第53号に認定しました。作ったとき工場にあった旋盤は英式の 12 フィートと 6 フィートの 2 台だけだったといわれ、乏しい設備で旋盤を作り上げたことが、機械を作る機械(マザーマシン)の国産化の道を開いたと評価されています[5]。
仕様は機械遺産の解説による[5]。ベッドや往復台のすべり面、歯車、軸受をどう作ったかは分かっていません。
売る旋盤へ:海軍と日露戦争
池貝は 1898 年に自家製の旋盤 2 台を海軍機関学校に納め、以後、海軍の各部から旋盤・平削り盤・ボール盤の注文を受けるようになります[1]。ただし明治 30 年代の池貝の主力は石油発動機で、工作機械は柱の 1 つでした[6]。
旋盤の需要を一気に押し上げたのは日露戦争(1904〜05 年)です。新潟鉄工所は 1904 年 11 月、東京陸軍砲兵工廠から砲弾を削る旋盤 50 台(心高 300mm・ベッドの長さ 2,120mm・1 台 850 円)を受注しました。同社はそれまで工作機械を作ったことがなく、これが工作機械づくりの始まりです[8][6]。名古屋の大隈麺機商会(1898 年創業の製麺機メーカー)も同じ年、砲兵工廠から図面を受け取って兵器用の旋盤を作り始めました[9]。日露戦争のころ民間で工作機械を作った経験があったのは、池貝と若山鉄工所くらいだったといわれます[3]。
英式から米式へ:フランシスの指導
1903 年 8 月、東京高等工業学校が米国人チャールス・A・フランシスを実地指導の教員に招きました。フランシスは精密な工作の研究の大切さを説き、学校で教えるとともに池貝などの工場も指導します[1]。池貝は 1905 年、フランシスの仕様書にもとづいて米式の旋盤を作りました。それまでの池貝の旋盤は主に英式でした[1]。
研究書は、これを「本格的な製作技術」が日本に根づいた転機と位置づけています。工具をそろえ、部品の規格をそろえて作る、という米国流のやり方です。池貝はこの米式旋盤を月に 30 台ほど量産しようとしましたが、鋳物や鍛造品の質が追いつかず、うまくいかなかったとも記されています[6]。
大正〜昭和初期:メーカーが育つ
第一次世界大戦(1914〜18 年)でヨーロッパからの輸入が細ると、国内の工作機械メーカーが一気に増えます。池貝はこのとき英国・ロシア・メキシコなどへ多くの旋盤を輸出しました[1]。1920 年には池貝・新潟・唐津の 3 社で国内の工作機械の生産額の約 3 分の 1 を占め、池貝は 1920 年代のほとんどの年に 200 台以上を作っていました[6]。
手本は米国の旋盤
大隈の製品の記録には、手本にした旋盤がはっきり書かれています[9]。
- KE 形普通旋盤(1916 年):英式の旋盤。精度の元になる親ねじは米ブラウン・アンド・シャープ社から 2 本買って使った
- OS 形普通旋盤(1918 年):「安くて良い機械」といわれた米セバスチャン社の旋盤を改良して市販。タレットやテーパ削りの装置も付けられた
- OP 形普通旋盤(1919 年):名古屋陸軍工廠から米プラット・アンド・ホイットニー社の旋盤の図面を渡されて作り、昭和 18 年ごろまで作り続けた。送りの切り替えはクイックチェンジギヤ
1921 年の工作機械展覧会
大戦が終わると注文が急に減り、業界は不況に入ります。農商務省は 1921 年 10〜11 月、日本で初めての工作機械の展覧会を大阪で開きました。出品者は 126 社にのぼります[3]。旋盤では池貝の GC 形、新潟鉄工所の歯車式の米式旋盤や万能タレット旋盤、唐津鉄工所の旋盤などが 1 等賞を受けました。値段は国産機が輸入機の半分から 8 割ほどで、例えば池貝 GC 形は 4,800 円、唐津の 14 インチ工具旋盤は 4,000 円、新潟の歯車式の米式旋盤は 3,600 円でした[6]。一方で、旋盤を出品したメーカーの多くは製作の経験が 10 年に満たない若い会社でした[6]。
この展覧会がきっかけで、機械学会は 1926 年に旋盤の規格を定めます(1929 年にボール盤、1931 年にフライス盤)[3]。昭和の初めには鉄道省が、省内で使う工作機械を国産でそろえる計画を立て、標準旋盤の機種と大きさをそろえました[6]。
名古屋・岡山からも:山崎鉄工所と瀧澤鐵工所
いまの大手につながるメーカーもこのころ生まれます。山崎鉄工所(いまのヤマザキマザック)は 1919 年に名古屋で製材・木工機械のメーカーとして創業し、1927 年 9 月に旋盤とフライス盤の製造を始め、1928 年に商品として最初の 4 尺旋盤を完成させました[14][15]。岡山では 1922 年 8 月に瀧澤鐵工所(いまの TAKISAWA)が創業し、のちに旋盤専業のメーカーになります[16][15]。1936 年には国産精機が設立され、1941 年 12 月にほか 2 社と合併して日立精機になりました[15]。
ドイツの VDF に学ぶ
昭和に入ると手本は米国だけでなくドイツにも広がります。池貝はドイツの旋盤メーカーの連合 VDF の旋盤を手本に、部品をユニットにまとめた普通旋盤を 1935 年から 1956 年まで作りました。1937 年製の 1 台が日本工業大学の工業技術博物館に残っています[18]。池貝の標準旋盤 D20(1933 年)はモーター 5.5kW・重さ 2,350kg でした[17]。
戦時の増産と統制(1937〜1945 年)
工作機械工業が再び伸び始めたのは 1933 年ごろからです[6]。軍需が増えるにつれて工作機械の輸入も増え、1938 年には貨物の輸入総額の 3.4% を工作機械が占めました。輸入の 8 割以上は米国からでした[6]。
1938 年 3 月に工作機械製造事業法が公布され、国は一定の規模(1 つの工場に工作機械 200 台以上など)を持つメーカーを「許可会社」に指定して、資材と資金を優先して回しました[20][6]。昔からの代表的なメーカーでは池貝・新潟・東京瓦斯電気工業・大隈が許可を受け(大隈は 1938 年 7 月)、中には許可を受けるために急いで設備を増やした会社もありました[6]。1941 年にはトヨタ自動車工業の工機工場が独立して豊田工機ができ、事業法にもとづいて自動車の部品を量産する半自動多刃旋盤 HD200 形・自動多刃旋盤 FB12 形などを作りました[20]。当時の国産は中小形の汎用機が中心で、自動旋盤や精密ねじ切り旋盤などの量産用の高性能機は輸入に頼っていたためです[20]。国も試作の奨励金を出し、その品目にはタレット旋盤・自動旋盤・精密ねじ切り旋盤・二番取り旋盤が並びました[6]。
1940 年に米国が工作機械の対日輸出を止めると、国内で作るしかなくなります[6]。大隈は海軍航空技術廠の注文で、独米の旋盤(ケルガー・モナーク・VDF など)を参考に LT 形超高速旋盤を 1939 年 1 月から設計し、1943 年 11 月に審査を終えました[9]。資材が足りなくなると、旋盤とフライス盤には部品を減らして単純にした「戦時型」が作られます[3]。工作機械の生産額は 1944 年まで増え続けました[6]。
戦時中の雑誌・社史には宣伝のための書き方が多いため、この節の数字は戦後にまとめられた研究書(一寸木俊昭 1963 年)と社史の記述を使い、当時の記事の言い回しは使っていません。
戦後の復興と高速旋盤(1945〜1960 年代)
終戦直後は工作機械の工場の多くが賠償の対象として指定され[9]、注文の大半は国鉄向け、作れる旋盤も戦時型を含む昔の機械のままでした。立ち直るきっかけは朝鮮戦争(1950〜53 年)の特需です[3]。
戦後の新しい旋盤の第 1 号とされるのは、新潟鉄工所が 1952 年度の通産省の補助金で作った 45SD 型強力高速旋盤です。同じ年に池貝が H14 型高速精密旋盤を出し、1953 年には主軸の回転速度が毎分 3,200 回転という A18 型高速ならい旋盤を完成させました[3]。超硬バイトで速く削れる時代になり、池貝の標準旋盤は戦前の D20(1933 年、5.5kW)から戦後の DA20(1955 年、11kW)へと、モーターの出力が倍になりました[17]。
1956 年に機械工業振興臨時措置法ができ、工作機械メーカーは国の合理化計画で設備を新しくしました[6]。工作機械の生産額は 1955 年の 37 億円から 1956 年に 72 億円、1957 年に 150 億円と、2 年で 4 倍になります[29]。
大隈の LS 形:コンベアで組み立てた旋盤
大隈の LS 形実用高速旋盤は 1956 年に設計を始め、1958 年 7 月に誕生しました。第 3 回大阪国際見本市に出品し、1962 年には LS 形を流れ作業で組み立てるコンベアの組立ラインを作っています[9]。別の資料(社史の写真集)では、4 月の大阪国際見本市で初めて公開して月産 30 台で作り始め、主軸を転がり軸受の 3 点で支え、インチとミリのねじ切りをレバー 1 本で切り替えられるようにしました。累計 3 万台を超えるロングセラーになります[34](社史は「昭和 33 年 7 月に誕生」と書いています[9])。
自動旋盤と技術提携
日本の自動旋盤(自動盤)は、軍需と時計の量産から育ちました。戦前・戦中は軍需のために、米国のアクメ・グリッドレー(池貝)やブラード・マルチオートマチック(豊田・荏原)などの形式が作られています[25]。戦後の自動盤づくりは 1948 年ごろ、通産省計量課が時計工業の合理化のために奨めたところから始まり、池貝はドイツのインデックス、津上は米ブラウン・アンド・シャープ、三井精機と島本鉄工はスイスのペーターマンの形式を受け持ちました。国の計画で 1953 年度には三菱造船が 6 軸自動盤、1954 年度には島本鉄工が小形精密自動盤を作っています[25]。時計の部品を削るためにスイスで 1872 年に考えられた主軸台移動形(スイス形)は、1968 年には島本・野村・シチズン・津上・スターなどが国内で作っていました[25]。戦後は海外メーカーとの技術提携も進み、新潟鉄工所は米サンドストランド社と 1954 年に生産フライス盤、1959 年 5 月に単軸自動旋盤で提携しました[8]。
旋盤ブームと輸出の始まり
1960 年ごろは「旋盤ブーム」で、日本工作機械工業会の会員 66 社のうち 26 社が旋盤を作っていました[28]。1952 年 7 月の津上製作所(フランスのクリダン社、ねじ切り旋盤)、1953 年の昌運工作所(フランスのカズヌーブ社、ならい旋盤)のように、海外メーカーとの技術提携で新しい旋盤を作る会社も増えます[28]。繊維機械から転じた森精機製作所は 1958 年 5 月に高速精密旋盤を作り始め、普通旋盤 MS-850 で伸びて 1960 年に輸出を始めました[26][35]。山崎鉄工所は 1962 年 6 月に LE 型旋盤 200 台の対米輸出を決め、翌年「MAZAK」のブランドを打ち出します[14]。池貝鉄工が 1964 年に出した A20 型旋盤は 1965 年に日本機械学会賞を受け、その振りを大きくした A25 型がのちに A25 型 NC 旋盤の元になりました[7][28]。
NC 旋盤の誕生と普及(1957〜1970 年代)
NC(数値制御)は、刃物の動きを数字の指令で動かすしくみです。米国の研究の報告が日本に届くと、大学と国の研究所が先に試作を始めました。
1957 年:日本で最初の NC 旋盤(東京工業大学)
1957 年 2 月、東京工業大学の精密工学研究所が、1955 年から研究していた NC 旋盤の試作に成功しました。日本で最初の NC 旋盤です[3][33]。油圧のならい旋盤を改造した同時 2 軸の連続切削の機械で、横送りはならい用の触針を電磁ラチェットで動かし、縦送りは電話交換機のステップモーターの小さな力を油圧で大きくして動かしました[3]。工業技術院の機械試験所も 1956〜57 年から NC の研究を始めています[3][33]。
「最初の NC 旋盤」はいくつもある。1957 年の東京工業大学の機械は、1960 年の専門書が「わが国で最初に完成したもの」と書いています[33]。一方、2020 年の論文は、それより前の 1954 年に東京工業大学が池貝鉄工と組んで NC 旋盤の試作品を作ったが、実用にはならなかったと紹介しています[28]。メーカーの製品としての最初、量産の最初、輸出の最初はそれぞれ別の出来事なので、このページでは何の「最初」かを書き分けています。
NC 装置を作った富士通
メーカーの NC を支えたのは、富士通信機製造(1972 年に NC 部門が富士通ファナックとして独立、いまのファナック)です。1956 年に民間で初めて NC 装置とサーボを開発し(最初に動かしたのはタレットパンチプレス)、1958 年に商用の 1 号機を牧野フライス製作所の NC フライス盤に納め、1959 年には電気・油圧パルスモーターを作りました[30][31]。1965 年に普及版の FANUC 260 を出すと、1965〜66 年に日本工作機械工業会の会員が作った NC 工作機械 129 台のうち 105 台が富士通の NC になりました[28]。
1963〜68 年:メーカーの NC 旋盤が出そろう
メーカーの NC 旋盤で早いのは立旋盤でした。1962 年の第 1 回日本国際工作機械見本市に、オーエム製作所が立タレット旋盤に富士通信機製造の NC 装置 207A の 1 号機を載せた機械を出品し、「わが国初の NC 立旋盤」とされています[37][27]。翌 1963 年 4 月の富士通の技報によると、電気油圧パルスモーターでボールねじを回すオープンループの方式で、タレットの割出しやテーブルの回転速度もテープの指令で切り替えました[38](型式は科博の資料で VT5-14、技報では VT2-14)。
大隈は NC 装置を自分で作る道を選びます。1961 年に OSP Ⅰ形を試作し、1963 年に今とほぼ同じ「位置を絶対値で読む」方式にしました。1966 年の第 3 回日本国際工作機械見本市にはオートローダ付きの LA-N 形数値制御全自動旋盤を出品し、1967 年 7 月に旋盤用の OSP1022 形を載せた LA-N 形を完成させています。LA-N 形は 1 ロット 20〜30 個以下の少量の部品向けでした[9]。
日本工作機械工業会が 1968 年にまとめた NC 工作機械のカタログを見ると、NC 旋盤(立形・タレット形を含む)を載せているのは池貝・大隈・山崎鉄工所・日立精機・昌運工作所・滝沢鉄工所・東芝機械・オーエム製作所・大日金属などで、NC 装置は富士通の FANUC と大隈の OSP が中心でした[40]。山崎鉄工所の機種名はすでに「MAZAK TURNING CENTER」です[40]。
1968 年:NC 旋盤の年
1968 年は、各社が NC 旋盤の量産に踏み出した年です。池貝鉄工は 1 月に A25 型 NC 旋盤を主力にして月産 10 台をめざすと発表し、溝の口工場に専用の組立ラインを作りました[28]。森精機製作所は 4 月に NC 旋盤の製造・販売を始め[26]、瀧澤鐵工所は 8 月に生産を始めます[16]。山崎鉄工所は 9 月に NC 旋盤の第 1 号機「マザックターニングセンター(MTC)」を完成させ、1 台 730 万円で売り出しました[14][28]。江黒鉄工所はくし刃形の NC 旋盤 ENC101 を出しています[41]。NC 旋盤の生産台数は 1967 年の 8 台から、1968 年 66 台、1969 年 282 台、1970 年 589 台、1973 年 1,459 台と、6 年で 180 倍になりました[28]。
MTC-2500R:米国へ渡った NC 旋盤(機械遺産第126号)
1970 年に作られた山崎鉄工所の MTC-2500R(製造番号 200)は、国産の NC 旋盤として初めて米国へ輸出されました。X 軸・Z 軸を電気・油圧パルスモーターで動かし、NC 装置は FANUC 240、プログラムは紙テープで読ませます。2008 年に米国から引き取って動く状態に直し、岐阜県美濃加茂市のヤマザキマザック工作機械博物館に置かれ、2024 年に機械遺産第126号になりました[42]。翌 1971 年 9 月には、切削の状態に合わせて条件を変える国内初の適応制御旋盤 MTC-1500R-AC も完成させています[14]。
自動盤も NC に
時計の部品から育った自動盤にも NC が入ります。シチズン時計は 1970 年 3 月に NC 自動旋盤「シンコム D16」を開発し[43][44]、スター精密は 1976 年 10 月に CNC 自動旋盤を出し[52]、津上は 1978 年 6 月に CNC 複合自動旋盤「マーキュリー」を発売しました[55]。
1972 年:CNC へ
1972 年、コンピュータを組み込んだ CNC が登場します。富士通の NC 部門が富士通ファナックとして独立して CNC を発表し、大隈も自社の CNC(OSP2000)を出しました[30][31][12][45]。この年から、日本の工作機械は輸出が輸入を上回り続けます[46]。
町工場へ:ターニングセンタと SL-2
1974 年ごろから、刃物台に多くの工具を並べた「ターニングセンタ」が各社から出ます。池貝鉄工の FT500NA は自動化機械開発賞を受け、中村留精密工業は初の NC 旋盤 ATM-4N を 10 月の見本市で発表しました[7][48]。大隈は 1975 年に LS 形をもとにした中小企業向けの NC 旋盤 LS-N を 900 万円台で出し[28]、1976 年 10 月には高松機械工業が画面(CRT)付きで対話しながらプログラムを作れる CNC 旋盤 TCC-8 を発表しています[53]。1978 年の森精機製作所の SL-2 は、それまで機械の横に別に置いていた NC 装置を機械に組み込んだ機電一体型で、9 年間に約 2,500 台が売れ、いまの SL シリーズの元になりました[54]。前の機種 NCPL-300(1974 年)は NC 装置が別置きでした[49]。1977 年には池貝鉄工が小型 NC 旋盤にオートローダを載せた「限定無人化」の機械を、1979 年にはファナックが NC 旋盤にワークを出し入れする電動ロボットを作り、旋盤が人の手を離れていきます[7][56]。
NC が当たり前になるまで
1973 年の NC の手引き書は「今年は全工作機械の生産額の 15% 以上が NC 機になろうとしている」と書き、当時の目安として普通旋盤 200 万円・NC 旋盤 1,500 万円という値段を挙げています[47]。NC 旋盤は普通旋盤の 7 倍以上の値段でも、段取りと熟練の手間が減ることで元が取れる、という計算がされていました。新潟鉄工所は 1971 年 12 月に、NC 旋盤 40CDN のプログラムを計算機で作る「AUTOLAT」を完成させています[8]。
★CNC・世界一・複合加工機へ(1980 年代〜)
1981 年、日本の工作機械の生産額に占める NC 機の割合(NC 化率)が 50% を超えました。旋盤だけを見るとこの年に NC 化率が 70% を超え、NC 旋盤の生産額は 1,613 億円でいったんの山を迎えます[29]。そして 1982 年、日本の工作機械の生産額は米国を抜いて世界一になりました[29]。1985 年に生産額と受注額が初めて 1 兆円を超え、1990 年には生産額 1 兆 3,000 億円、NC 化率 75.7% まで上がります[29]。
対話型 CNC と複合加工機
1981 年 6 月、山崎鉄工所は図面を見ながら画面の質問に答えるだけでプログラムが作れる対話型 CNC「MAZATROL T1」と、CNC 旋盤 QUICK TURN 10 を完成させました(同社は世界初とします)[14]。1982 年には大隈が CNC 旋盤 LB15 の生産を始め、中村留精密工業が CNC の大型複合機械 TMC-5LAM を発表します[12][48]。
旋盤に回転工具を足して、穴あけやフライス加工まで 1 台でこなす複合加工機(ターンミル)もこのころ形になります。オーエム製作所は 1974 年から立旋盤に回転工具を足す複合機械の開発を始め(1984 年に普及型の TDC-12N)[50][51]、山崎鉄工所は 1983 年 4 月に複合加工機「SLANT TURN 40N ATC ミルセンタ」を完成させました[14]。池貝は 1990 年にマシニングターン TM25YS を[7]、ヤマザキマザックは 1997 年 9 月に Y 軸を持つ複合加工機 INTEGREX 200Y を[14]、森精機製作所は 2005 年に複合加工機 NT シリーズ(2010 年に NTX)を出しています[26]。
世界一の座と、その後
生産額の過去最高はいまも 1990 年の 1 兆 3,034 億円です。2007 年に 1 兆 3,032 億円まで戻したあと、2009 年には 4,863 億円に落ち、この年に中国が生産額で世界一になりました。日本の首位は 1982 年から 2008 年までの 27 年間でした[46]。メーカーの顔ぶれも変わります。2002 年に森精機製作所が日立精機から営業の一部を譲り受け、2006 年に豊田工機は光洋精工と合併してジェイテクトに、2013 年に森精機製作所は DMG 森精機になりました[26][60]。
現場で何に効くか。今の NC 旋盤の当たり前(タレット、刃先の位置を絶対値で読む NC、チャックの自動化、対話型のプログラム、回転工具とY 軸)は、ここに挙げた 1960〜90 年代の機械で 1 つずつ足されてきたものです。工場に長くある機械を直すとき、古い取扱説明書を読むとき、「この機能はいつからあるか」を知っていると、仕様書の読み方が変わります。
⑂メーカーの系図
旋盤の歴史に出てくる主なメーカーの、社名の移り変わりと合併です。帯の色が変わるところで社名が変わっています。
見に行ける名機
実物を見られる所です。公開日・見学の予約は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。
⌛年表
この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典、「コマ」は国立国会図書館デジタルコレクションのページで、押すとその資料が開きます(個人送信の資料はログインが要ります)。
輸入と模倣幕末〜明治前半
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1856年幕末 | 長崎製鉄所の工作機械(銘板から安政3年=1856年製、おそらくオランダ製)。1930年の時点でもまだ使われていた | — | [1・コマ59] |
| 1867年幕末 | 横須賀造船所がフランス製の工作機械(銘板に Mulhouse 1866)を購入 | — | [1・コマ60] |
| 1875年ごろ明治8年 | 山形の伊藤嘉平治が鍛えた鉄で足踏み旋盤を作る。機械遺産第3号(博物館明治村)機械遺産は「明治8(1875)年頃」、1989年の『日本の技術100年』は1876年と書く | — | [2][3・コマ25] |
| 1879年明治12年 | 工部省赤羽工作分局が門形平削り盤を作る(旋盤ではないが、現存する最初期の国産工作機械。機械遺産第67号、博物館明治村) | — | [4] |
国産の始まり1889〜1910 年代
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1889年5月明治22年 | ★池貝庄太郎が東京・芝金杉で池貝工場を創業(5月)。英式旋盤 2 台付きの借り工場から始め、同年末、弟の喜四郎と自家用の英式 9 フィート旋盤を作る。動力式で現存最古の国産旋盤(機械遺産第53号、国立科学博物館) | 池貝 | [5][3・コマ45][3・コマ25][6・コマ26][7] |
| 1895年6月明治28年 | 日本石油の新潟鉄工所として創業(のちの新潟鐵工所) | 新潟鐵工所 | [8・コマ10] |
| 1898年明治31年 | 大隈栄一が名古屋で大隈麺機商会を創業(製麺機) | 大隈 | [9・コマ6] |
| 1898年明治31年 | 池貝が自家製の旋盤 2 台を海軍機関学校へ初めて納入。以後、海軍各部から旋盤などの注文 | 池貝 | [1・コマ65] |
| 1903年8月明治36年 | 東京高等工業学校が米国人チャールス・A・フランシスを実地指導教員に招く | — | [1・コマ64] |
| 1904年明治37年 | 日露戦争。大隈が東京陸軍砲兵工廠から図面を支給されて単能旋盤など兵器用の工作機械を作り始める | 大隈 | [9・コマ18][9・コマ20] |
| 1904年11月明治37年 | 新潟鉄工所が東京陸軍砲兵工廠から砲弾旋盤 50 台(心高 300mm・床長 2,120mm・単価 850 円)を受注。同社の工作機械づくりの始まりニイガタマシンテクノの沿革は「1907年 工作機械の製作を開始」と書く | 新潟鐵工所 | [8・コマ30][6・コマ40][10] |
| 1905年明治38年 | ★池貝がフランシスの仕様書にもとづいて米式旋盤を作り、「池貝式標準旋盤」の量産を始める(それまでは主に英式)。月産 30 台ほどの量産も試みた | 池貝 | [1・コマ65][7][6・コマ43][6・コマ44] |
| 1906年明治39年 | 熊本高等工業学校が米国製の 15 尺・10 尺旋盤などを入れる。1908 年竣工の機械実験工場と工作機械は国の重要文化財で、今も動く(機械遺産第2号) | — | [11] |
メーカーが育つ大正〜昭和初期
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1914〜18年大正3年 | 第一次大戦中、池貝が英国・ロシア・メキシコなどへ旋盤を輸出。1915 年には英国へ旋盤 5 台 | 池貝 | [1・コマ66][7] |
| 1916年大正5年 | 大隈が KE 形普通旋盤を作る。親ねじは米ブラウン・アンド・シャープ社から 2 本買って使った | 大隈KE形 | [9・コマ21] |
| 1918年大正7年 | 株式会社大隈鐵工所が発足し、米セバスチャン社の旋盤を改良した OS 形普通旋盤を市販 | 大隈OS形 | [9・コマ22][12][13] |
| 1919年大正8年 | 大隈が名古屋陸軍工廠から米プラット・アンド・ホイットニー社の旋盤の図面を支給され、OP 形普通旋盤を製作(昭和18年ごろまで続く) | 大隈OP形 | [9・コマ23] |
| 1919年大正8年 | 山崎鉄工所が名古屋で創業(はじめは製材・木工機械)。1927 年 9 月に旋盤・フライス盤の製造を始め、1928 年に商品第 1 号の 4 尺旋盤 | ヤマザキマザック | [14][15・コマ68] |
| 1920年大正9年 | 池貝・新潟・唐津の 3 社で国内の工作機械生産額の約 3 分の 1 を占める | — | [6・コマ47] |
| 1921年10月大正10年 | ★農商務省が日本初の工作機械展覧会を大阪で開く(出品 126 社)。旋盤では池貝 GC 形・新潟の歯車掛け米式旋盤などが 1 等賞。国産機は輸入機の半値から 8 割ほど | — | [3・コマ46][6・コマ49][6・コマ57] |
| 1922年8月大正11年 | 瀧澤鐵工所が岡山で創業(のちの旋盤専業メーカー) | 滝澤鉄工所 | [16][15・コマ61] |
| 1926年昭和元年 | 展覧会をきっかけに機械学会が旋盤の規格を定める(1929 年ボール盤、1931 年フライス盤) | — | [3・コマ46] |
| 1933年昭和8年 | 池貝の標準旋盤 D20(5.5kW・2,350kg)。戦後の DA20(1955 年、11kW)と比べると出力は半分 | 池貝D20 | [17・コマ69] |
| 1935〜56年昭和10年 | 池貝がドイツの VDF 旋盤を手本にユニット化した普通旋盤を作る(1937 年製が日本工業大学に残る) | 池貝 | [18] |
| 1936年昭和11年 | 国産精機が設立される。1941 年 12 月、ほか 2 社と合併して日立精機に | 日立精機 | [15・コマ37][15・コマ39] |
戦時の統制1937〜1945 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1938年昭和13年 | ★工作機械製造事業法(法律第40号、3 月公布)。1 工場に設備工作機械 200 台以上などを条件に許可会社を指定し、池貝・新潟・東京瓦斯電気工業・大隈などが許可会社に(大隈は 7 月) | — | [19][20・コマ22][6・コマ71][6・コマ72][6・コマ75] |
| 1939年昭和14年 | 東洋機械のコーハン 400 型旋盤。戦前の日本でもっとも普及した精密旋盤とされる | 東洋機械コーハン400 | [21] |
| 1939年1月昭和14年 | 大隈が海軍航空技術廠の注文で LT 形超高速旋盤の設計に着手(ケルガー・モナーク・VDF などを参考)。1943 年 11 月に審査完了 | 大隈LT形 | [9・コマ34][9・コマ58] |
| 1940年昭和15年 | 米国が対日工作機械輸出を禁止。それまで輸入の 8 割以上は米国からだった | — | [6・コマ78][6・コマ94] |
| 1941年4月昭和16年 | 豊田工機の創立総会(トヨタ自動車工業の工機工場を分離)。事業法の許可を受け、半自動多刃旋盤 HD200 形・自動多刃旋盤 FB12 形などを作る | 豊田工機 | [20・コマ23][20・コマ24] |
| 1943年昭和18年 | オーエム製作所が政府の命令で車輪旋盤(T 型タイヤ中ぐり盤 1500 型)を完成 | オーエム製作所T型1500 | [22] |
| 1943年昭和18年 | 大隈が戦時形旋盤の試作の中で「大隈式非真円平軸受」を開発したとされる(1958 年 大河内記念技術賞)機械遺産第59号は 1954 年の開発と書く | 大隈 | [23][24] |
| 1944年昭和19年 | 工作機械の生産額は昭和19年まで増え続けた。旋盤とフライス盤には資材を極度に切り詰めた「戦時型」が作られた | — | [6・コマ86][3・コマ66][8・コマ79] |
戦後の復興と高速旋盤1945〜1960 年代
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1948年ごろ昭和23年 | 通産省計量課が時計工業の合理化のため自動盤の製作を奨め、池貝(インデックス形)・津上(ブラウン・アンド・シャープ形)・三井精機と島本鉄工(ペーターマン形)が作り始める。戦後の自動盤の始まり | — | [25・コマ18] |
| 1948年10月昭和23年 | 森精機製作所が奈良で設立(はじめは繊維機械) | 森精機製作所 | [26] |
| 1951年昭和26年 | 池貝鉄工が国内初のならい旋盤を完成 | 池貝 | [7] |
| 1951年昭和26年 | 日本工作機械工業会が創立 | — | [27] |
| 1952年昭和27年 | 戦後の旋盤の新機種第 1 号とされる新潟鉄工所の 45SD 型強力高速旋盤(通産省の試験研究補助金)。同年、池貝が H14 型高速精密旋盤 | 新潟鐵工所45SD | [3・コマ66] |
| 1952年7月昭和27年 | 欧米メーカーとの技術提携が始まる。1952 年 7 月 津上製作所(仏クリダン社、ねじ切り旋盤)、1953 年 昌運工作所(仏カズヌーブ社、ならい旋盤) | — | [28] |
| 1953年昭和28年 | 池貝が主軸 3,200min⁻¹ の A18 型高速ならい旋盤を完成 | 池貝A18 | [3・コマ66] |
| 1953〜54年度昭和28年 | 国の計画で三菱造船が SIX-65 形 6 軸自動盤(1953 年度)、島本鉄工が MLA-10 形小形精密自動盤(1954 年度) | — | [25・コマ19] |
| 1956年昭和31年 | ★機械工業振興臨時措置法。合理化基本計画で工作機械メーカーの設備が改まる。生産額は 1955 年 37 億円→1957 年 150 億円 | — | [6・コマ110][29・コマ18] |
| 1958年4月昭和33年 | ★大隈の LS 形実用高速旋盤(1956 年着手)。4 月の大阪国際見本市で初公開し月産 30 台で生産開始、1962 年に組立コンベアを完成。累計 3 万台を超える社史(1968)は「昭和33年7月に誕生」と書く | 大隈LS形 | [34][9・コマ65][9・コマ74][9・コマ77] |
| 1958年5月昭和33年 | 森精機製作所が繊維機械から高速精密旋盤へ転換。普通旋盤 MS-850 が伸びるきっかけになり、1960 年に輸出を始める | 森精機製作所MS-850 | [26][35] |
| 1959年昭和34年 | 山崎鉄工所が高速精密旋盤 LA・LB・LC・LD の生産を始める | ヤマザキマザック | [14] |
| 1959年5月昭和34年 | 新潟鉄工所が米サンドストランド社から単軸自動旋盤の技術を導入(1954 年に生産フライス盤で提携) | 新潟鐵工所 | [8・コマ243][8・コマ247] |
| 1960年昭和35年 | 旋盤ブーム。日本工作機械工業会の会員 66 社のうち 26 社が旋盤を作っていた | — | [28] |
| 1961年昭和36年 | 大阪機工がフランスのラモ社から汎用旋盤の技術を入れ、OKK-RAMO 旋盤 T-37 などを製品化 | 大阪機工T-37 | [36] |
| 1962年6月昭和37年 | 山崎鉄工所が LE 型旋盤 200 台の対米輸出を成約。1963 年 5 月に「MAZAK」ブランドを発表 | ヤマザキマザックLE型 | [14] |
| 1964年昭和39年 | 池貝鉄工が A20 型旋盤を発売(1965 年 日本機械学会賞)。振りを大きくした A25 型が、のちの A25 型 NC 旋盤の元になる | 池貝A20 | [7][28] |
NC 旋盤の誕生と普及1957〜1970 年代
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1954年昭和29年 | 東京工業大学が池貝鉄工と組んで NC 旋盤の試作品を作るが、実用には耐えなかったとされる(日本の NC 旋盤の最初の試み) | 池貝 | [28] |
| 1956年昭和31年 | 富士通信機製造(のちのファナック)が民間で初めて NC 装置とサーボを開発(最初の対象はタレットパンチプレス)。工業技術院 機械試験所も NC の研究を始め、1959 年に NC ジグ中ぐり盤 JIDIC を試作 | ファナック | [30][31][32] |
| 1957年2月昭和32年 | ★東京工業大学精密工学研究所が NC 旋盤の試作に成功=日本で最初の NC 旋盤。油圧ならい旋盤を改造した同時 2 軸制御 | — | [3・コマ75][33・コマ34] |
| 1958年昭和33年 | FANUC の NC の商用 1 号機を牧野フライス製作所に納入(NC フライス盤)。1959 年に電気・油圧パルスモータを開発 | ファナック | [30][31] |
| 1962年昭和37年 | ★第 1 回日本国際工作機械見本市にオーエム製作所の NC 立旋盤が出品される。立タレット旋盤に富士通信機製造の NC 装置 207A の 1 号機を載せ、電気油圧パルスモータでボールねじを回す。「わが国初の NC 立旋盤」とされる型式は科博の資料では VT5-14、1963 年の富士通の技報では VT2-14 | オーエム製作所VT5-14 | [37][27][38・コマ4][38・コマ16] |
| 1963年昭和38年 | 大隈が自社の NC 装置 OSP を完成。位置を絶対値で読む方式(1961 年に OSP Ⅰ形を試作)。工作機械メーカーが NC 装置まで自分で作った例 | 大隈 | [9・コマ84][12][39] |
| 1965年昭和40年 | 富士通が普及版の NC「FANUC 260」を出す。1965〜66 年に日本工作機械工業会の会員が作った NC 工作機械 129 台のうち 105 台が富士通の NC | ファナックFANUC 260 | [28] |
| 1966年昭和41年 | 大隈が第 3 回日本国際工作機械見本市にオートローダ付きの LA-N 形数値制御全自動旋盤を出品。1967 年 7 月に OSP1022 形付きの LA-N 形を完成 | 大隈LA-N形 | [12][9・コマ85][9・コマ86] |
| 1967年昭和42年 | ★NC 旋盤の生産台数:1967 年 8 台 → 1968 年 66 台 → 1969 年 282 台 → 1970 年 589 台 → 1973 年 1,459 台(日本工作機械工業会の統計による) | — | [28] |
| 1968年昭和43年 | 日本工作機械工業会の NC カタログに、池貝・大隈・山崎・日立精機・昌運・滝沢・東芝機械・オーエム・大日金属などの NC 旋盤が並ぶ。NC 装置は富士通の FANUC と大隈の OSP が中心 | — | [40・コマ5][40・コマ6][40・コマ7] |
| 1968年昭和43年 | 主軸台移動形(スイス形)の自動盤を島本・野村・シチズン・津上・スターなどが国内で作る | — | [25・コマ15] |
| 1968年昭和43年 | 江黒鉄工所がくし刃形の NC 旋盤 ENC101 を発表(同社は「日本初のくし刃形」とする) | エグロENC101 | [41] |
| 1968年1月昭和43年 | 池貝鉄工が A25 型 NC 旋盤を主力にし、月産 10 台のロット生産をめざすと発表。溝の口工場に専用の組立ライン | 池貝A25型 | [28] |
| 1968年4月昭和43年 | 森精機製作所が NC 旋盤の製造・販売を始める科博の資料は 1974 年の NCPL-300 を「当社が初めて開発した NC 付旋盤」と書く | 森精機製作所 | [26] |
| 1968年8月昭和43年 | 瀧澤鐵工所が NC 旋盤の生産を始める | 滝澤鉄工所 | [16] |
| 1968年9月昭和43年 | ★山崎鉄工所が NC 旋盤の第 1 号機「マザックターニングセンター(MTC)」を完成。発表時は 1 台 730 万円、FANUC 260 をもとにした簡易な NC | ヤマザキマザックMTC | [14][28] |
| 1970年昭和45年 | ★山崎鉄工所の NC 旋盤 MTC-2500R(製造番号 200、FANUC 240・紙テープ・電気油圧パルスモータ)。国産の NC 旋盤として初めて米国へ輸出された。2008 年に里帰りし、2024 年に機械遺産第126号 | ヤマザキマザックMTC-2500R | [42][14] |
| 1970年3月昭和45年 | シチズン時計が NC 自動旋盤「シンコム D16」を開発 | シチズンCincom D16 | [43][44] |
| 1971年9月昭和46年 | 山崎鉄工所が国内初の適応制御旋盤 MTC-1500R-AC を完成 | ヤマザキマザックMTC-1500R-AC | [14] |
| 1971年12月昭和46年 | 新潟鉄工所が NC 旋盤 40CDN 用の自動プログラミング「AUTOLAT」を完成 | 新潟鐵工所40CDN | [8・コマ431][8・コマ433] |
| 1972年昭和47年 | ★コンピュータを内蔵した CNC の時代へ。富士通の NC 部門が富士通ファナックとして独立して CNC を発表、大隈も自社の CNC(OSP2000)を出す。この年から工作機械の輸出が輸入を上回り続ける | — | [30][31][12][45][46] |
| 1973年昭和48年 | 全工作機械生産額の 15% 以上が NC 機に。当時の目安は普通旋盤 200 万円・NC 旋盤 1,500 万円 | — | [47・コマ46][47・コマ47] |
| 1974年昭和49年 | ターニングセンタが並ぶ。池貝鉄工 FT500NA が自動化機械開発賞、中村留精密工業が初の NC 旋盤 ATM-4N(10 月の見本市)、森精機製作所 NCPL-300 | — | [7][48][49] |
| 1974年昭和49年 | オーエム製作所が、立旋盤に回転工具の加工を足した複合機械の開発を始める(1984 年に TDC-12N) | オーエム製作所 | [50][51] |
| 1975年昭和50年 | 大隈が LS 形をもとにした中小企業向けの NC 旋盤 LS-N を 900 万円台で発売 | 大隈LS-N | [28] |
| 1976年10月昭和51年 | スター精密が CNC 自動旋盤を、高松機械工業が CRT 付きの対話型 CNC 旋盤 TCC-8 を出す | — | [52][53] |
| 1977年昭和52年 | 池貝鉄工が小型 NC 旋盤にオートローダを載せた「限定無人化」の機械を開発 | 池貝 | [7] |
| 1978年昭和53年 | ★森精機製作所の NC 旋盤 SL-2。NC 装置を機械に組み込んだ機電一体型で、9 年間に約 2,500 台を売り SL シリーズの元に | 森精機製作所SL-2 | [54] |
| 1978年6月昭和53年 | 津上が CNC 複合自動旋盤「マーキュリー」を発売 | ツガミ | [55] |
| 1979年昭和54年 | ファナックが NC 旋盤にワークを出し入れする電動ロボット ROBOT-MODEL0 を作る | ファナックROBOT-MODEL0 | [56] |
CNC・世界一・複合化1980 年代〜
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1981年昭和56年 | ★工作機械の生産額に占める NC 化率が 50% を超える。旋盤の NC 化率は 70% を超え、NC 旋盤の生産額は 1,613 億円でピーク | — | [29・コマ21][29・コマ46] |
| 1981年6月昭和56年 | 山崎鉄工所が対話型 CNC「MAZATROL T1」と CNC 旋盤 QUICK TURN 10 を完成(同社は「世界初の対話型 CNC」とする) | ヤマザキマザックMAZATROL T1 | [14] |
| 1982年昭和57年 | ★日本の工作機械生産額が米国を抜いて世界一に。2008 年まで 27 年間首位 | — | [29・コマ9][29・コマ22][46][57] |
| 1982年昭和57年 | 大隈が CNC 旋盤 LB15 の生産を始め、中村留精密工業が CNC 大型複合機械 TMC-5LAM を発表 | — | [12][48] |
| 1983年4月昭和58年 | ★山崎鉄工所が複合加工機「SLANT TURN 40N ATC ミルセンタ」を完成 | ヤマザキマザックSLANT TURN 40N ATC Mill Center | [14] |
| 1986年昭和61年 | 森精機製作所が立形 NC 旋盤 partner L-100V(くし刃形)を発売 | 森精機製作所partner L-100V | [58] |
| 1987年昭和62年 | 北川鉄工所の高速中空パワーチャック B-200 シリーズ。NC 旋盤の標準的なチャックとして 30 年以上使われる | 北川鉄工所B-200 | [59] |
| 1990年平成2年 | 生産額 1 兆 3,034 億円で今も過去最高。NC 化率は 75.7% でピーク(1985 年に初めて 1 兆円を超えた) | — | [46][29・コマ45][29・コマ15] |
| 1990年平成2年 | 池貝がマシニングターン TM25YS を開発 | 池貝TM25YS | [7] |
| 1997年9月平成9年 | ヤマザキマザックが Y 軸を持つ複合加工機 INTEGREX 200Y を完成 | ヤマザキマザックINTEGREX 200Y | [14] |
| 2002年9月平成14年 | 森精機製作所が日立精機から営業の一部を譲り受ける | 森精機製作所 | [26] |
| 2005年平成17年 | 森精機製作所が複合加工機 NT シリーズを開発(2010 年に NTX) | 森精機製作所 | [26] |
| 2006年1月平成18年 | 光洋精工と豊田工機が合併してジェイテクトに。同じ年、オークマが大隈豊和機械などと合併 | — | [60][12] |
| 2009年平成21年 | 中国が工作機械生産額で世界一に。日本の生産額は 2007 年の 1 兆 3,032 億円から 2009 年に 4,863 億円へ | — | [46] |
| 2013年10月平成25年 | 森精機製作所が DMG 森精機に社名を変える(独 DMG と 2009 年に提携) | DMG森精機 | [26] |
| 2019年11月令和元年 | ヤマザキマザック工作機械博物館が開館(岐阜県美濃加茂市) | ヤマザキマザック | [14] |
この先と関係するページ
出典
国立国会図書館の資料は、個人向けデジタル化資料送信サービスの全文検索とページの画像で 2026 年 10 月に確かめ、使ったコマを書いています。機械遺産・博物館・メーカーの沿革は各ページを同じ月に確かめました。社史や沿革の年は、同じ機械でも資料によって 1 年ほどずれることがあります(着手・完成・発表・発売の違い)。
- 日本工学会『明治工業史 機械・地学篇』(1930)コマ 59・60・64・65・66
- 日本機械学会「機械遺産 第3号 足踏旋盤」
- 『日本の技術100年 ビジュアル版 第7巻』筑摩書房(1989)コマ 25・45・46・66・75
- 日本機械学会「機械遺産 第67号 国産機械 門形平削り盤」
- 日本機械学会「機械遺産 第53号 池貝工場製第1号旋盤」
- 一寸木俊昭『日本の工作機械工業の発展過程の分析』(1963)コマ 26・40・43・44・47・49・57・71・72・75・78・86・94・110
- 池貝「企業情報(沿革)」
- 『新潟鉄工所八十年史』(1977)コマ 10・30・79・243・247・431・433
- 大隈鉄工所『製品沿革写真集:創業70周年記念』(1968)コマ 6・18・20・21・22・23・34・58・65・74・77・84・85・86
- ニイガタマシンテクノ「歴史・沿革」
- 日本機械学会「機械遺産 第2号 熊本大学の旧機械実験工場と文化財工作機械群」
- オークマ「沿革」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「普通旋盤 OS型」
- ヤマザキマザック「沿革」
- 『工作機械業界』教育社(1978)コマ 37・39・61・68
- TAKISAWA「会社概要・沿革」
- 『日本の工作機械』ポプラ社(1961)コマ 69
- 国立科学博物館 HITNET 産業技術史資料共通データベース「普通旋盤」(日本工業大学 工業技術博物館の収蔵品)
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「工作機械製造事業法・御署名原本・昭和十三年・法律第四〇号」
- 豊田工機『技に夢を求めて:豊田工機50年史』(1991)コマ 22・23・24
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「旋盤 コーハン400型旋盤」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「車輪旋盤 T型タイヤ中ぐり盤1500型」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「大隈式非真円平軸受」
- 日本機械学会「機械遺産 第59号 大隈式非真円平軸受とGPB形円筒研削盤」
- 『実用自動盤ハンドブック』工業調査会(1968)コマ 15・18・19
- DMG森精機「History」
- 日本工作機械工業会「日工会の沿革」
- 日髙千景「NC工作機械に関する考察(2):1950年代・1960年代の日本」『三田商学研究』62巻6号 pp.73-94(2020年)
- 日本工作機械工業会『成長、変革-。10年の記録 1982-91』(1992)コマ 9・15・18・21・22・45・46
- ファナック「ファナックの歴史」
- 電気学会「でんきの礎 NC装置(数値制御装置)」(2013年顕彰)
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「数値制御ジグ中ぐり盤 JIDIC」
- 『工作機械の数値制御』日刊工業新聞社(1960)コマ 34
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「実用高速旋盤 LS540×800形」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「普通旋盤 MS-850」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「OKK-RAMO旋盤 T-37」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「立旋盤 VT5-14 NC付立旋盤」
- 『Fujitsu:技術情報誌』13(6)(1963年4月)コマ 4・16
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「数値制御装置 OSPIII形」
- 日本工作機械工業会事務局『数値制御工作機械カタログ 1968年版』(1968)コマ 5・6・7
- エグロ「会社概要・沿革」
- 日本機械学会「機械遺産 第126号 米国輸出を果たしたNC旋盤 MTC-2500R」
- シチズン時計「沿革」
- シチズンマシナリー「沿革」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「数値制御装置 OSP2000シリーズ」
- 日本工作機械工業会「日本の工作機械産業のあゆみ」
- 『NC工作機械ハンドブック』大河出版(1973)コマ 46・47
- 中村留精密工業「沿革」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「NC旋盤 NCPL-300」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「立型ターニングセンタ TMM-35/40N」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「立型ターニングセンタ TDC-12N」
- スター精密「沿革」
- 高松機械工業「沿革」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「NC旋盤 SL-2」
- ツガミ「沿革」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「電動ハンドリングロボット FANUC ROBOT-MODEL0」
- 発明協会「戦後日本のイノベーション100選 NC工作機械」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「立形NC旋盤 partner L-100V」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「高速中空パワーチャック B-200シリーズ」
- ジェイテクト「沿革」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「島津の旋盤(片状黒鉛鋳鉄)」
- 日本機械学会「機械遺産 第91号 日本工業大学の所蔵する歴史的工作機械群」
- 日本機械学会「機械遺産 第120号 三共工作機械資料館の歴史的工作機械群」