ARCHIVE 05ボール盤・中ぐり盤の系譜

穴をあけるボール盤と、あいた穴を正確な大きさ・位置に削り広げる中ぐり盤は、どちらも「穴」の工作機械です。ボール盤には、柱に主軸頭が付いた直立ボール盤、腕を振って大きな工作物のあちこちに穴をあけるラジアルボール盤、何本もの主軸で一度にあける多軸ボール盤があります。中ぐり盤には、横向きの主軸で大きな箱物を削る横中ぐり盤、穴の位置を μm の単位で決めるジグ中ぐり盤(ジグボーラー)、エンジンのシリンダーなどを量産する精密中ぐり盤があります。日本では明治の終わりにボール盤を国産化し、戦時に精密な中ぐり盤を国産化し、戦後は大形の横中ぐり盤とジグ中ぐり盤を育てて、NC 化と横形マシニングセンタへつなげました。社史・当時のカタログ・国立科学博物館の資料・メーカーの沿革で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典(国立国会図書館の資料はコマ番号)を付けました。

穴の位置が
0.01mm ずれたら
組み立たない!

マスコットのチップス
1920 年代直立ボール盤1940〜50 年代ジグ中ぐり盤1960 年代大形の横中ぐり盤今横形マシニングセンタ
ボール盤・中ぐり盤の移り変わり(イメージ図。特定の機種ではありません。左の 2 台は主軸が縦向き、右の 2 台は主軸が横向きです)

門形の精密立中ぐりフライス盤(新日本工機の RB 形)、機械試験所の数値制御ジグ中ぐり盤 JIDIC、大隈鉄工所の JV 形精密立中ぐり盤の NC 化は、第 2 章「フライス盤・マシニングセンタの系譜」で書いています[32][33]。この章は、ボール盤と中ぐり盤そのものと、それを作った会社の側からたどります。NC で穴をあけるときのプログラムは穴あけの固定サイクル一覧で解説しています。

ボール盤の国産化と最初の横中ぐり盤(1881〜1926 年)

明治の初め、工作機械はほとんどが輸入でしたが、国の工場ではボール盤も作られていました。工部省の赤羽工作分局が 1881 年に出した製品目録『製造機械品』には、直立ボール盤にあたる「鑚孔器械」などが載っています[1]。民間では池貝が 1898 年に自家製の旋盤を海軍機関学校に納め、以後、海軍の各部から旋盤・平削り盤とともにボール盤の注文を受けるようになりました[2]。

枝型ボール盤:外国技術の導入の第一号

1912 年、碌々産業は米国で身につけた技術で枝型ボール盤を国産化します。国立科学博物館の産業技術史資料データベースは、これを日本の工作機械にとって外国技術の導入の第一号と考えられる画期的な出来事とし、この形がボール盤の標準になって近年まで作られたと書いています。1 号機はいまも同社に残っています[3]。大正期には大隈鉄工所も、旋盤のほかにボール盤・研削盤・中ぐり盤・フライス盤など主な汎用機のほとんどを作るようになりました[1]。

砲身旋盤と最初の大きな横中ぐり盤

大きな穴を削る機械は、大砲と大形の機械から始まります。唐津鐵工所は 1915 年に、旋削と穴ぐり(中ぐり)を 1 台でこなす砲身旋盤を完成させました[4]。新潟鉄工所の社史は、1922 年と 1924 年ごろに作った機械のうち特記すべきものとして、日立製作所に納めた 7 インチ横中ぐり盤(重さ 30 トン)を挙げています[5]。横中ぐり盤の大きさは主軸(中ぐり棒)の太さで呼び、7 インチは約 180mm です。

枝型ボール盤1912 年碌々産業。外国技術の導入の第一号とされる[3]
砲身旋盤1915 年唐津鐵工所。旋削と中ぐりを 1 台で[4]
横中ぐり盤7 インチ・30 トン1922〜24 年ごろ、新潟鉄工所[5]

昭和の初め:ジグ中ぐり盤が入ってくる(1926〜1937 年)

1921 年の工作機械展覧会をきっかけに、機械学会は 1926 年の旋盤に続いて 1929 年にボール盤の規格を定めます[1]。量産の工場では、穴あけと中ぐりの専用機が工夫されました。豊田自動織機製作所は 1927 年、G 型自動織機を量産するため、ボール盤(データベースでは三菱電機製)で鉄や鋳物の部品に穴をあけ、さらに織機のフレームを組んだまま 3 本の軸受穴と両側面を一度に削り通す 3 軸同時中ぐり専用機を作りました。穴の中心線がそろい、精度と組立ての能率が上がります[6][7]。1929 年には大阪で安田工業の前身が創業し、自動車のエンジンのシリンダーのボーリング(中ぐり)加工を始めています(同社は「わが国で初めて」とします)[8]。

ジグ中ぐり盤

ジグ中ぐり盤(ジグボーラー)は、治具や金型の穴を、テーブルの位置をきわめて正確に決めて中ぐりする機械です。日本には 1930 年代に入ってきました。1936 年の『機械学会誌』は、独リンドナー社のジグ中ぐり盤を、顕微鏡で位置を読む「精密機械の新鋭機」として紹介しています[9]。日本工業大学の工業技術博物館には、スイス SIP 社が 1931 年に作り始めた型のジグ中ぐり盤があり、この型で日本に最初に輸入された機械とされます[10]。

戦時:ジグ中ぐり盤の国産化と砲身中ぐり盤(1938〜1945 年)

1938 年の工作機械製造事業法は、精密な機械を作る会社を特に後押ししました。精密卓上ボール盤・ジグ中ぐり盤など「命令で定める」自動機・専用機・高精密機を作る会社は、許可の条件が設備の工作機械 50 台に下げられ(一般は 200 台)、試作奨励金の品目にもジグ中ぐり盤とファイン中ぐり盤が入りました[11]。同じ 1938 年 7 月に許可会社になった大隈鉄工所は、主な製品に中ぐり盤とラジアルボール盤を挙げています[11]。

1938 年:ジグ中ぐり盤の国産化

同じ月に許可会社になった東洋精機(いまの三井精機工業)は、ジグ中ぐり盤(4 型)の生産を始めます。同社の沿革は「我が国初のジグ中ぐり盤」としています[12]。日本工業大学の工業技術博物館にある同社の 1943 年のジグ中ぐり盤は、スイス SIP 社の機械を手本にし、1938 年から終戦までに約 220 台作られて、精密機械の工業のマザーマシンになったとされます[10]。SIP 社の機械そのものも、1939 年製の MP-4G 型が輸入されたあと海軍の命令で民間のメーカーに移され、国内の技術の向上に使われました[14]。

社名の注意。三井精機工業は 1928 年に「津上製作所」として創立し、1937 年に東洋精機、1942 年に三井工作機と合併して三井精機工業になりました(同社の沿革による)[12]。1937 年に新潟県長岡市で設立された津上製作所(いまのツガミ。第 1 章)とは別の会社です[34]。

砲身中ぐり盤

大砲の砲身の長い穴を削る中ぐり盤は、戦時の大形機の代表です。唐津鐵工所は 1938 年に、戦艦大和・武蔵の主砲のための超大型の砲身中ぐり盤を完成させて呉海軍工廠に納めました。同社の沿革は全長約 64m としています[4]。1938 年 12 月に芝浦製作所の出資で生まれた芝浦工作機械(いまの芝浦機械)[13]は、1939 年と 1941 年に特殊中ぐり盤を作り、横須賀工廠(砲・爆弾の加工)や、播磨造兵廠・大阪造兵廠(砲身の中ぐり)などに納めています[11]。

精密中ぐり盤:航空機と自動車のエンジン

エンジンのシリンダーや軸受の穴を量産で正確に仕上げる精密中ぐり盤も、この時期に国産になります。1941 年に設立された豊田工機は、在来の工作機械会社が作っていなかった多軸専用ボール盤・精密中ぐり盤などを生産機種として申請し[11]、精密中ぐり盤 EJ/ES 形は戦時は航空機、戦後は自動車の部品の量産に使われました[15]。新潟鉄工所は 1941 年 1 月に国家総動員法で指定された機種として、独クラウゼ社の機械を手本にした精密中ぐり盤 9Fb 形と、砲身中ぐり盤を作ります[5]。池貝鉄工所も 1942 年に FBI 形精密中ぐり盤を試作し、電気装置・油ポンプ・クラッチ・計器などの付属品は国内の専門業者と協力して作りました[11]。

ジグ中ぐり盤1938 年〜東洋精機(三井精機工業)、終戦までに約 220 台[12][10]
砲身中ぐり盤全長約 64m1938 年、唐津鐵工所(同社の沿革)[4]
精密中ぐり盤1941〜42 年豊田工機・新潟鉄工所・池貝鉄工所[11][15][5]

戦後:ラジアルボール盤・ジグ中ぐり盤・大形の横中ぐり盤(1945〜1964 年)

戦後の立て直しでは、国の補助が新しい機種を後押ししました。1952 年に工作機械の輸入補助金、1953 年からは工作機械等試作補助金が毎年交付されます[16]。1950 年代の補助の一覧には、油圧式ラジアルボール盤、ジグ中ぐり盤、精密横中ぐり盤、傾斜形の多軸精密中ぐり盤、油圧光学式ジグ中ぐり盤、「光学式ジグ中ぐり及びジグ研磨盤の研究試作」などが並んでいます[16]。

ジグ中ぐり盤の精密化

三井精機工業は 1955 年 3 月に第 3 号型ジグ中ぐり盤の製造を始め、精機学会の第 1 回明石記念賞を受けました[12]。1963 年の『国産工作機械綜合カタログ』で、同社は光学式ジグ中ぐり盤 No.3・No.5 形を「25 年の豊富なジグ中グリ盤製造の経験」を生かした製品としています[23](1938 年からの 25 年)。国の機械試験所は 1956 年から、戦時に入った SIP 社のジグ中ぐり盤の構造と性能を徹底的に調べ、1959 年に数値制御ジグ中ぐり盤 JIDIC を見本市に出しました[14][20](第 2 章)。シリンダーの中ぐりから出発した安田工業は、1964 年に横精密中ぐりフライス盤「ジグマスター」を開発し、ジグ中ぐり盤の精度を横形の機械に持ち込みます[8]。

ラジアルボール盤とボール盤のメーカー

大きな工作物の穴あけに使うラジアルボール盤も、速く正確になります。大隈鐵工所が 1958 年に出した高速強力ラジアルボール盤 DRA-J 形は、剛性を高めてジグボーラー並みの精密な穴あけと高速加工ができ、加工中に次の切削条件を前もって設定できる工夫もあって、3,000 台を超えて売れました[18]。1963 年のカタログのラジアルボール盤の欄には、DRA-J 形のほか大阪機工の DRB-17 形なども載っています[23]。小さなボール盤は中小のメーカーが多く、1960 年代の初めの集計でも、立形ボール盤だけは日本工作機械工業会の会員外のメーカーの比率が高い機種でした[11]。愛知県の三河内燃機工業は 1956 年に卓上ボール盤・タッピング盤を作り始め、1957 年に吉良鐵工所と名を変えて 1958 年に直立ボール盤を出しています(いまのキラ・コーポレーション)[17]。

中ぐりの道具も国産になります。黒田精工は 1958 年ごろ、高価な輸入品だった万能ボーリングヘッドを通産省の助言で国産化し、1962 年に UFB-3 としてシリーズにしました。汎用のフライス盤やボール盤で中ぐり・面削りができ、マシニングセンタが広まるまでの加工を支えました[22]。

大形の横中ぐり盤:三菱イノセンチと東芝機械

発電所のタービン、船のディーゼルエンジン、車両などの大きな箱物を削るには、大形の横中ぐり盤が要ります。三菱は 1959 年、伊イノセンチ社と、仏 C.W. ベルチェの設計による大形のフライス・中ぐり複合機で技術提携し、広島精機製作所で作り始めました。1960 年から「三菱イノセンチ CWB フライス中ぐり複合工作機」(MIB マシン)として売り出し、「大型工作機械の革命児」と呼ばれて、1968 年 10 月までに 122 台を作っています[19][21]。1960 年代の初めの日本工作機械工業会の集計では、横中ぐり盤は東芝機械と池貝が競い合い、精密中ぐり盤は新日本工機が 7 割以上を作っていました[11]。1963 年のカタログの横中ぐり盤の欄には、新日本工機・東芝機械・池貝鉄工・若山鉄工所・唐津鉄工所などが並びます[23]。

NC 化と横形マシニングセンタへ(1965〜1993 年)

ボール盤と中ぐり盤は、テーブルを決まった位置に止めて穴を加工する機械なので、テーブルを順に動かして止める「位置決め」の NC で動かせます。1968 年のカタログでも、東芝の NC 装置がボール盤・中ぐり盤のテーブルの位置決め用として載っています[26]。

NC ボール盤

碌々産業は 1965 年、富士通(NC の部門はのちのファナック)と共同で、テープで動く自動ボール盤 501-HANC を作って山梨大学に納めました。同社の最初の NC 機で、国立科学博物館のデータベースは「NC のボール盤としては日本初ではないか」と推測しています。翌年にはプリント基板の穴あけ機 SS-55 へ発展しました[24]。1968 年の量産形の NC ボール盤 RND-1003 は、ベッド・コラム・主軸頭を箱形にした高い剛性の構造で、これがのちの立形マシニングセンタの基本形になったとされます。上下(Z 軸)は高価な NC を使わずリミットスイッチで制御し、ドリルの長い切りくずを切るために送りを断続させるなどの工夫もありました[27]。

日本工作機械工業会の 1968 年の NC 工作機械カタログには、数値制御ボール盤の欄(池貝鉄工・碌々産業ほか)と数値制御中ぐり盤の欄があり、中ぐり盤の欄には池貝鉄工の数値制御横フライス中ぐり盤、東芝機械の BFT 形テーブル形横中ぐりフライス盤、野村製作所の NB-100、三井精機の数値制御装置付き光学式ジグ中ぐり盤 4BN・6BN・7AN などが載っています[26]。

MAF マシン:国内初の NC 中ぐりフライス盤

三菱重工業は MIB マシンの後継として、自社で開発した「三菱フライス中ぐり複合工作機」MAF マシンの初号機を 1967 年 11 月に完成させます。造船・原子力の機械の大形化に応える機械で、同社は「国内初の NC 中ぐりフライス盤」としています。タービンケーシングを削るための大形の横中ぐり複合機で、総重量は 320 トンありました。1971 年に重機械開発の国産第一号機に指定され、1972 年に機械振興協会賞を受けています[19][21][25]。1983 年には ATC・アタッチメントの自動交換・大形のパレットチェンジャーを持つ CNC 横中ぐりフライス盤 MAF マシン RS シリーズへ[19]、1986 年には門幅 13m・総重量 1,300 トンの超大形 NC 複合フライス盤「スーパーミラー」を作りました(同社は世界最大級とします)[25][21]。

NC ボール盤1965 年碌々産業 501-HANC(日本初ではないかとされる)[24]
MAF マシン1967 年 11 月三菱重工業。国内初の NC 中ぐりフライス盤(同社)[19][21]
重さ320 トンタービンケーシング用の MAF[25]

横中ぐり盤から横形マシニングセンタへ

横中ぐり盤に工具の自動交換(ATC)と割り出すテーブルを付けると、1 回の取付けで箱物の 4 面を削れる横形マシニングセンタになります。ジグ中ぐり盤と中ぐり盤の会社は、そのまま MC の会社になりました。三菱重工業は 1968 年にダイヤマチック MPA シリーズを完成させ(同社は日本の MC の草分けとします)[21]、三井精機工業は 1970 年 10 月に初めての MC、Jidic H5B・H6B の生産を始めます[12]。大隈鉄工所は 1980 年に横形 MC MC-H の製造を始め[29]、ボール盤の吉良鐵工所も 1981 年に MC の製造・販売を始めました[17]。

量産のラインの穴あけでは、福井の武田機械が 1975 年ごろに出した 4 軸全自動タレットボール盤が、センタ穴・下穴・面取り・タップを自動で続けて行い、それまで専用機だった自動車・家電の部品のラインの穴あけを、安い汎用の機械で置き換える先駆けになりました[28]。

★今(1994 年〜)

ジグ中ぐり盤と横中ぐり盤の会社の多くは、マシニングセンタと大形の複合機の会社として続いています。安田工業のジグマスター YBM50J-S は、2007 年に日本工業大学 工業技術博物館の「歴史的価値のある工作機械の顕彰」でベストテクニカル賞に選ばれています[8]。

会社の名前も変わりました。吉良鐵工所は 1994 年にグループ 3 社の合併でキラ・コーポレーションになり[17]、東芝機械は 2020 年に芝浦機械に[13]、三菱重工業の工作機械事業は 2015 年に三菱重工工作機械として分かれて 2021 年にニデックの傘下に入りました(いまのニデックマシンツール)[30]。唐津鐵工所は 2016 年に唐津プレシジョンに社名を変えています[4]。いまのボール盤・マシニングセンタのメーカーは工作機械メーカー一覧にまとめています。

現場で何に効くか。中古のボール盤・中ぐり盤を見るときは、「主軸の太さ(横中ぐり盤の呼び)」「テーブルの位置を何で読むか(ねじとダイヤル・光学式のスケール・NC)」「主軸のテーパの種類」「送りが手動か自動か」を見ると、その機械の世代と、どのくらいの精度の穴を任せられるかがわかります。

⑂メーカーの系図

ボール盤・中ぐり盤の歴史に出てくる主なメーカーの、社名の移り変わりです。帯の色が変わるところで社名が変わっています。芝浦機械は 1949 年に工場ごとに会社が分かれ、1961 年に再び 1 つになって東芝機械になった流れを、沼津の会社の側で描いています。三菱は工作機械の事業が分かれた流れだけを描いています。新日本工機(前身の若山鐵工所)は第 2 章の系図にあります。

18801900192019401960198020002020芳谷炭鉱 唐津鐵工所唐津鐵工所唐津プレシジョン津上製作所東洋精機三井精機工業東洋精機三井精機工業前身(大阪で創業)安田工業芝浦工作機械芝浦工機芝浦機械製作所東芝機械芝浦機械吉田鉄工所三河内燃機工業吉良鐵工所キラ・コーポレーション三菱重工業(京都・広島)三菱重工工作機械ニデック帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [4][12][8][13][17][19][30]

見に行ける機械

博物館に残る機械と、国立科学博物館の産業技術史資料データベースで「公開」とされている会社の資料です。公開日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設・会社の案内で確かめてください。旋盤の章・フライス盤・MC の章の見に行ける機械もあわせてどうぞ。

日本工業大学 工業技術博物館埼玉県南埼玉郡宮代町スイス SIP 社のジグ中ぐり盤(この型で日本に最初に輸入されたとされる機械)と、それを手本にした三井精機工業のジグ中ぐり盤(1943 年。1938 年から終戦までに約 220 台)。工作機械 232 台を機種別・年代順に展示(機械遺産第 91 号)。入館無料(休館日は施設の案内で)[10][31]
トヨタ産業技術記念館愛知県名古屋市西区豊田自動織機製作所が 1927 年に G 型自動織機の部品の穴あけに使ったボール盤と、織機のフレームの軸受穴を 3 本同時に通す中ぐり専用機(複製)[6][7]
産業技術総合研究所 つくばセンター茨城県つくば市スイス SIP 社のジグ中ぐり盤 MP-4G 型(1939 年)と、それを調べ尽くして作った数値制御ジグ中ぐり盤 JIDIC(1959 年)。国立科学博物館のデータベースでは「公開」。見学できるかは行く前に問い合わせを[14][20]
碌々産業静岡県志太郡(焼津の工場)1912 年の枝型ボール盤 1 号機、1965 年の NC ボール盤 501-HANC、1968 年の RND-1003。データベースでは「公開」。見学は会社に問い合わせを[3][24][27]
オークマ愛知県丹羽郡大口町1958 年の高速強力ラジアルボール盤 DRA-J 形。データベースでは「公開」。見学は会社に問い合わせを[18]
ニデックマシンツール(旧 三菱重工業 工作機械事業部)滋賀県栗東市1967 年の横中ぐり複合工作機 MAF の資料。データベースでは「公開」。見学は会社に問い合わせを[25]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典、「コマ」は国立国会図書館デジタルコレクションのページで、押すとその資料が開きます(個人送信の資料はログインが要ります)。

ボール盤の国産化昭和初め戦時ジグ中ぐり・大形横中ぐりNC 化と横形 MC今1880190019201940196019802000202019121922193819581965黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

ボール盤の国産化と最初の横中ぐり盤1881〜1926 年

年出来事メーカー・機種出典
1881年明治14年工部省の赤羽工作分局が刊行した製品目録『製造機械品』に、直立ボール盤にあたる「鑚孔器械」などの工作機械が載る。国の工場でボール盤を作っていた—[1・コマ19]
1898年明治31年池貝が自家製の旋盤を海軍機関学校に納め、以後、海軍の各部から旋盤・平削り盤・ボール盤の注文を受ける池貝[2・コマ65]
1912年大正元年★碌々産業が、米国で身につけた技術で枝型ボール盤を国産化。国立科学博物館のデータベースは、日本の工作機械の外国技術導入の第一号と考えられるとし、この形はボール盤の標準になって近年まで作られた碌々産業枝型ボール盤 1 号機[3]
1915年大正4年唐津鐵工所が、旋削と穴ぐり(中ぐり)を 1 台でこなす砲身旋盤を完成唐津鐵工所砲身旋盤[4]
大正期大正9年大隈鉄工所が旋盤のほか、ボール盤・研削盤・中ぐり盤・フライス盤など主な汎用工作機械のほとんどの機種を作るようになる大隈鉄工所[1・コマ45]
1922〜24年ごろ大正11年★新潟鉄工所が日立製作所向けに 7 インチ(主軸の太さ)の横中ぐり盤を作る。重さ 30 トンで、社史がこの時期の特記すべき機械に挙げる新潟鉄工所7インチ横中ぐり盤[5・コマ237]

昭和の初め:ジグ中ぐり盤が入ってくる1926〜1937 年

年出来事メーカー・機種出典
1927年昭和2年豊田自動織機製作所が G 型自動織機の量産のため、ボール盤(三菱電機製)で部品の穴をあけ、織機のフレームの 3 本の軸受穴を一度に通す 3 軸同時中ぐり専用機を開発する(専用機は複製が展示されている)豊田自動織機製作所[6][7]
1929年昭和4年機械学会がボール盤の規格を定める(1921 年の工作機械展覧会がきっかけ。旋盤は 1926 年、フライス盤は 1931 年)—[1・コマ46]
1929年昭和4年安田信次郎が大阪で創業し、自動車のエンジンのシリンダーのボーリング(中ぐり)加工とピストンの製造を始める(同社は「わが国で初めて」とする)安田工業の前身[8]
1936年7月昭和11年『機械学会誌』が独リンドナー社製のジグ中ぐり盤を、顕微鏡で位置を読む精密機械の新鋭機として紹介する—[9・コマ30]
1937年ごろ昭和12年スイス SIP 社のジグ中ぐり盤(1931 年に生産が始まった型)が輸入される。この型で日本に最初に入った機械とされ、いま日本工業大学の工業技術博物館にある—[10]

戦時:ジグ中ぐり盤の国産化と砲身中ぐり盤1938〜1945 年

年出来事メーカー・機種出典
1938年昭和13年工作機械製造事業法。精密卓上ボール盤・ジグ中ぐり盤など「命令で定める」自動機・専用機・高精密機を作る会社は、許可の条件が設備の工作機械 50 台に下げられる(一般は 200 台)。試作奨励金の品目にもジグ中ぐり盤・ファイン中ぐり盤—[11・コマ72][11・コマ74]
1938年昭和13年★唐津鐵工所が戦艦大和・武蔵の主砲のための超大型の砲身中ぐり盤を完成し、呉海軍工廠に納める(全長約 64m、同社の沿革による)唐津鐵工所砲身中ぐり盤[4]
1938年昭和13年シリンダーボーリングマシンとスリーブ工具を開発(1940 年から本格生産)安田工業の前身[8]
1938年7月昭和13年大隈鉄工所が事業法の許可会社になる。主な製品に旋盤・形削り盤とならんで中ぐり盤・ラジアルボール盤大隈鉄工所[11・コマ75]
1938年7月昭和13年★東洋精機が事業法の許可会社になり、ジグ中ぐり盤(4 型)の生産を始める(同社は「我が国初のジグ中ぐり盤」とする)。スイス SIP 社の機械を手本にし、終戦までに約 220 台を作った東洋精機(いまの三井精機工業)ジグ中ぐり盤 4 型[12][10]
1938年12月昭和13年芝浦製作所の出資で芝浦工作機械が創立(いまの芝浦機械)。1939 年に鶴見工場で強力な大型工作機械を作り始める芝浦工作機械[13][11・コマ78]
1939・1941年昭和14年芝浦工作機械の特殊中ぐり盤が横須賀工廠(砲・爆弾の加工)や、播磨造兵廠・大阪造兵廠(砲身の中ぐり)などに納められる芝浦工作機械[11・コマ94]
1939年昭和14年スイス SIP 社のジグ中ぐり盤 MP-4G 型。性能・精度とも世界の一級品とされ、輸入後に海軍の命令で民間の工作機械メーカーに移されて国内の技術の向上に使われた(戦後は機械試験所へ)スイス SIP 社MP-4G No.420[14]
1941年昭和16年豊田工機が設立時に多軸専用ボール盤・精密中ぐり盤などを生産機種として申請(在来の工作機械会社が作っていない新しい試作品)。精密中ぐり盤 EJ/ES 形は戦時は航空機、戦後は自動車の部品の量産に使われた豊田工機EJ/ES 形[11・コマ77][15]
1941年1月昭和16年国家総動員法で各社に機種を指定して研究・製造を命じる。新潟鉄工所の指定機種に精密中ぐり盤・砲身中ぐり盤など。精密中ぐり盤は独クラウゼ社の機械を手本にした 9Fb 形新潟鉄工所9Fb 形[5・コマ238]
1942年昭和17年池貝鉄工所が FBI 形精密中ぐり盤を試作。電気装置・油ポンプ・クラッチ・計器などの付属品は国内の専門業者と協力して作った池貝鉄工所FBI 形[11・コマ96]

戦後:ラジアルボール盤・ジグ中ぐり盤・大形の横中ぐり盤1945〜1964 年

年出来事メーカー・機種出典
1953年昭和28年工作機械等試作補助金が始まり、毎年交付される(前年の 1952 年は輸入補助金)。1950 年代の一覧には油圧式ラジアルボール盤・ジグ中ぐり盤・精密横中ぐり盤・傾斜形多軸精密中ぐり盤・油圧光学式ジグ中ぐり盤などが並ぶ—[16・コマ23][16・コマ25][16・コマ26]
1955年3月昭和30年三井精機工業が第 3 号型ジグ中ぐり盤の製造を始め、精機学会の第 1 回明石記念賞を受ける三井精機工業第 3 号型[12]
1956年7月昭和31年愛知県の三河内燃機工業が卓上ボール盤・タッピング盤の製造を始め、1957 年に吉良鐵工所と改称、1958 年に直立ボール盤を出す三河内燃機工業(いまのキラ・コーポレーション)[17]
1958年昭和33年★大隈鐵工所の高速強力ラジアルボール盤 DRA-J 形。剛性を高めてジグボーラー並みの精密な穴あけと高速加工ができ、加工中に次の切削条件を前もって設定できた。3,000 台を超えて売れた大隈鐵工所DRA-J 形[18]
1959年昭和34年三菱が伊イノセンチ社と、仏 C.W. ベルチェの設計の大型工作機械(フライス・中ぐりの複合機)で技術提携し、広島精機製作所で作り始める三菱(広島精機製作所)[19・コマ382][19・コマ545]
1959年5月昭和34年通産省工業技術院の機械試験所が数値制御ジグ中ぐり盤 JIDIC を見本市に出す。研究では 1939 年の SIP 社のジグ中ぐり盤の構造と性能を徹底的に調べたJIDIC は第 2 章でも扱う機械試験所JIDIC[20][14]
1960年昭和35年★「三菱イノセンチ CWB フライス中ぐり複合工作機」の販売を始める。大型のタービン・ディーゼルエンジン・車両の部品を削る機械で、「大型工作機械の革命児」と呼ばれた。1968 年 10 月までに 122 台三菱(広島精機製作所)三菱イノセンチ CWB(MIB マシン)[19・コマ383][19・コマ546][21]
1960年代の初め昭和36年日本工作機械工業会の会員の機種別の集計で、1 社が 70% 以上を作る機種は日立精機のタレット旋盤・新日本工機の精密中ぐり盤・東芝機械のロール研削盤の 3 つだけ。横中ぐり盤は東芝機械と池貝が競う。立形ボール盤だけは会員外の小さなメーカーの比率が高い—[11・コマ123][11・コマ129]
1962年昭和37年黒田精工が万能ボーリングヘッドをシリーズ化(1958 年ごろ、高価な輸入品だったものを通産省の助言で国産化)。汎用のフライス盤やボール盤で中ぐり・面削りができる黒田精工UFB-3[22]
1963年昭和38年『国産工作機械綜合カタログ』の横中ぐり盤の欄に新日本工機・東芝機械・池貝鉄工・若山鉄工所・唐津鉄工所など。三井精機の光学式ジグ中ぐり盤 No.3・No.5 形は「25 年の豊富なジグ中グリ盤製造の経験」をうたう。ラジアルボール盤には大隈 DRA-J 形・大阪機工 DRB-17 形など—[23・コマ53][23・コマ207][23・コマ209][23・コマ266]
1964年昭和39年安田工業が横精密中ぐりフライス盤「ジグマスター」を開発(1966 年に MC「プレシジョンセンター」)第 2 章の MC の節も参照安田工業ジグマスター[8]

NC 化と横形 MC へ1965〜1993 年

年出来事メーカー・機種出典
1965年昭和40年★碌々産業が富士通(NC の部門はのちのファナック)と共同で、テープで動く数値制御の自動ボール盤 501-HANC を作り山梨大学に納める。同社の最初の NC 機で、国立科学博物館のデータベースは「NC ボール盤として日本初ではないか」と推測する。翌年、プリント基板の穴あけ機 SS-55 へ碌々産業501-HANC[24]
1967年11月昭和42年★三菱重工業が MIB マシンの後継として自社で開発した「三菱フライス中ぐり複合工作機」MAF マシンの初号機を完成。造船・原子力の大型化に応える機械で、同社は「国内初の NC 中ぐりフライス盤」とする。タービンケーシング用で総重量 320 トン三菱重工業MAF[19・コマ383][19・コマ546][21][25]
1968年昭和43年日本工作機械工業会の NC 工作機械カタログに、数値制御ボール盤の欄(池貝鉄工・碌々産業 RND-1003 ほか)と、数値制御中ぐり盤の欄(池貝鉄工 ANC 横フライス中ぐり盤、東芝機械 BFT 形テーブル形横中ぐりフライス盤、野村製作所 NB-100、三井精機の数値制御装置付き光学式ジグ中ぐり盤 4BN・6BN・7AN)—[26・コマ8][26・コマ10][26・コマ31]
1968年昭和43年碌々産業の量産形の NC ボール盤 RND-1003。箱形のベッド・コラム・主軸頭の構造はのちの立形マシニングセンタの基本形になった。上下(Z 軸)は高価な NC を使わずリミットスイッチで制御碌々産業RND-1003[27]
1968年昭和43年三菱重工業がダイヤマチック MPA シリーズを完成(同社は日本のマシニングセンタの草分けとする)三菱重工業ダイヤマチック MPA[21]
1970年10月昭和45年三井精機工業が初めてのマシニングセンタ Jidic H5B・H6B の生産を始める。ジグ中ぐり盤の会社が MC へ三井精機工業Jidic H5B・H6B[12]
1971年昭和46年MAF マシンが重機械開発の国産第一号機に指定され、1972 年に機械振興協会賞を受ける三菱重工業MAF[25][21]
1975年ごろ昭和50年福井の武田機械の 4 軸全自動タレットボール盤。センタ穴・下穴・面取り・タップを自動で続けて行い、それまで専用機だった自動車・家電部品のラインの穴あけを、安い汎用の機械で置き換える先駆けになった武田機械TK4s-600FA-T[28]
1980年昭和55年大隈鉄工所が横形マシニングセンタ MC-H の製造を始める大隈鉄工所MC-H[29]
1981年5月昭和56年ボール盤の吉良鐵工所がマシニングセンタの製造・販売を始める吉良鐵工所[17]
1983年昭和58年三菱重工業が ATC・アタッチメントの自動交換・大形パレットチェンジャーを備えた CNC 横中ぐりフライス盤 MAF マシン RS シリーズを出す三菱重工業MAF RS[19・コマ383][19・コマ548]
1986年昭和61年三菱重工業が門幅 13m・総重量 1,300 トンの超大形 NC 複合フライス盤「スーパーミラー」を完成(同社は世界最大級とする)三菱重工業スーパーミラー[25][21]

今1994 年〜

年出来事メーカー・機種出典
1994年3月平成6年吉良鐵工所など 3 社が合併してキラ・コーポレーションになるキラ・コーポレーション[17]
2007年平成19年安田工業のジグマスター YBM50J-S が、日本工業大学 工業技術博物館の「歴史的価値のある工作機械の顕彰」でベストテクニカル賞に選ばれる安田工業YBM50J-S[8]
2020年4月令和2年東芝機械が芝浦機械に社名を変える(2017 年に東芝グループを離れていた)芝浦機械[13]
2021年令和3年三菱重工工作機械が事業譲渡でニデックの傘下に入る(いまのニデックマシンツール)ニデックマシンツール[30]

この先と関係するページ

出典

国立国会図書館の資料は、個人向けデジタル化資料送信サービスの全文検索で 2026 年 10 月に確かめ、使ったコマを書いています。国立科学博物館のデータベースとメーカーの沿革は同じ月に確かめました。「国産初」「国内初」「日本初」は、本文で「同社は〜とします」「データベースは〜とします」と書いたものは、その資料自身の記述です。社史や沿革の年は、同じ機械でも資料によって 1〜2 年ずれることがあります(試作・完成・発表・発売の違い)。

  1. 『日本の技術100年 ビジュアル版 第7巻』筑摩書房(1989)コマ 19・45・46
  2. 日本工学会『明治工業史 機械・地学篇』(1930)コマ 65
  3. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「碌々ボール盤一号機(枝型ボール盤)」
  4. 唐津プレシジョン「沿革」
  5. 『新潟鉄工所八十年史』(1977)コマ 237・238
  6. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ボール盤」(トヨタ産業技術記念館)
  7. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「織機フレーム用3軸同時中ぐり専用機」
  8. 安田工業「YASDAのあゆみ」
  9. 『機械学会誌』39(231)(1936年7月)コマ 30
  10. 国立科学博物館 HITNET 産業技術史資料共通データベース「ジグ中ぐり盤」(日本工業大学 工業技術博物館の収蔵品 2 件)
  11. 一寸木俊昭『日本の工作機械工業の発展過程の分析』(1963)コマ 72・74・75・77・78・94・96・123・129
  12. 三井精機工業「沿革」
  13. 芝浦機械 有価証券報告書の「沿革」(EDINET DB)
  14. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ジグ中ぐり盤 SIPMP-4G型 No.420」
  15. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「精密中ぐり盤 EJ/ES形」
  16. 工作機械研究会編『世界の工作機械工業』富士弘報社(1963)コマ 23・25・26
  17. キラ・コーポレーション「会社概要」の沿革
  18. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「高速強力ラジアルボール盤 DRA-J形」
  19. 『海に陸にそして宇宙へ:続三菱重工業社史 1964-1989』三菱重工業(1990)コマ 382・383・545・546・548
  20. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「数値制御ジグ中ぐり盤 JIDIC」
  21. ニデックマシンツール「製品の歴史」
  22. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ボーリングヘッド UFB-3」
  23. 『国産工作機械綜合カタログ 1963年版』コマ 53・207・209・266
  24. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「数値制御方式テープコントロール自動ボール盤 501-HANC」
  25. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「横中ぐり 複合工作機 MAF」
  26. 日本工作機械工業会事務局『数値制御工作機械カタログ 1968年版』(1968)コマ 8・10・31
  27. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「汎用数値制御ボール盤 RND-1003」
  28. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「4軸全自動タレットボール盤 TK4s(6s)-600FA-T」
  29. オークマ「沿革」
  30. ニデックマシンツール「沿革」
  31. 日本機械学会「機械遺産 第91号 日本工業大学の所蔵する歴史的工作機械群」
  32. 新日本工機「会社概要」の沿革
  33. 『Fujitsu:技術情報誌』13(6)(1963年4月)
  34. ツガミ「沿革」