ARCHIVE 06放電加工機の系譜
放電加工機は、刃物で削る代わりに、油や水の中で電極と工作物のすき間に小さな火花(放電)を 1 秒に数百〜数万回飛ばし、その熱で金属を少しずつ溶かして飛ばす工作機械です。焼入れした鋼や超硬合金のような硬い材料でも、刃物の入らない細い溝や鋭い角でも加工できます。形を彫った電極を押し当てて形を写す形彫り放電加工機と、細い金属線(ワイヤ)を糸のこのように動かして輪郭を切り抜くワイヤ放電加工機の 2 つがあり、日本では用途の 7〜8 割が金型といわれます[2]。放電加工は戦時中のソ連で生まれ、日本は世界でも早くから研究を始めて、1980 年代には世界の生産額の半分以上を占めるようになりました。国立科学博物館の調査報告と資料データベース、当時の技術書とカタログ、メーカーの沿革で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典(国立国会図書館の資料はコマ番号)を付けました。
刃物を使わず
火花で
削るんだ!

日本の工作機械全体が 1982 年に生産額で世界一になった流れは第 1 章、1958 年に富士通の NC で動いた牧野の NC フライス盤は第 2 章で書いています。この章は、放電加工機そのものと、それを作った会社の側からたどります。現場で放電加工を使う場面の一つは折れたタップの取り方で解説しています。
放電加工の発見と日本の研究の始まり(1943〜1952 年)
放電で金属が傷む現象は 18 世紀から知られていましたが、それを加工に使う方法は、1943 年にソ連の物理学者ラザレンコ夫妻が論文で提唱し特許を出したものが今の放電加工の始まりとするのが定説です。2 人は電気接点が放電で減るのを防ぐ研究から、逆にその減り方で金属を削ることを思いつきました[2]。1955 年の技術書『精密仕上法』は、夫妻が 1946 年にこの業績でスターリン賞を受けたことと、英国が 1952 年ごろから商品を出していることを伝えています[1]。
日本にも戦時中に話が届いていました。同じ本によれば、1942 年ごろ海軍の航空関係の情報として「米国では火花か電弧で孔あけ・切断をしている」と伝わり、のちに放電加工機の会社をつくる井上潔の話では、三菱重工業の水島製作所でも実験したものの溶断ほどで終わりました[1]。
東大の鳳誠三郎と「放電加工法」
戦後の 1947 年、夫妻の研究はニュース映画と文献で東京大学の鳳誠三郎教授に伝わります。電弧放電で電極が減る現象を研究していた鳳教授はすぐに原理を理解し、1948 年に研究を始め、翌年には実験設備を整えました。この加工法を「放電加工法」と名づけたのも鳳教授です。1950 年代には東北大・千葉大・新潟大などの大学、鉄道研などの研究所、会社の研究所が次々に加わり、1955 年に「電気加工研究会」ができて、のちの電気加工学会(1967 年)につながります[2]。
最初の国産機とメーカーの誕生(1953〜1964 年)
1953 年、老舗の工作機械メーカー池貝鉄工所の関連会社として日本放電加工研究所が生まれます。創業者の井上潔は三菱重工業で放電加工を研究していた技術者で、当時の池貝鉄工所の社長 岡崎嘉平太と意気投合して会社をつくりました[2]。
1954 年:Japaxtron D3
翌 1954 年 3 月、同社は国産の実用の放電加工機の第 1 号「Japaxtron D3」を完成させて東京工業大学に納めました。欧米とは違う独自の発想の機械で、火花放電穿孔機とも呼ばれました。いまは日本工業大学の工業技術博物館にあり、2024 年に未来技術遺産(第 373 号)になっています[3][4]。同じ 1954 年に出た鳳誠三郎・倉藤尚雄の『放電加工』(日本で初めての学術書)は、国産のメーカーとして日本放電加工研究所・小池酸素工業・旭ポンプ発動機製作所・大澤製作所の 4 社を紹介しています。ただし小池酸素の事業は 10 年余りで途絶え、ほかの 2 社はごく短命でした[2]。
三菱と西部電機工業の参入
1958 年には三菱造船と三菱電機が組み、機械の部分を三菱造船(広島)、電源などの電気の部分を三菱電機が受け持って放電加工機 DM-101 の生産を始めました[2]。1963 年の小型機 DM-50B は、放電が 1 か所に集中しないようにする高周波重畳回路の電源で加工を安定させています[5]。1964 年に事業は三菱電機にまとめられ、名古屋製作所で作るようになります[2]。1962 年 10 月には福岡の西部電機工業(今の西部電機)が、1953 年ごろから放電加工を研究していた安川電機の協力で形彫り放電加工機を開発し、見本市に E-304 型を出しました[2][7]。
そのころの放電加工機はまだ珍しい機械でした。1963 年の『世界の工作機械工業』は、米国の 1958 年の工作機械設備調査で放電加工機が 578 台、全体のごく一部だったと紹介しています[6]。それでも日本では広がり始め、1963 年の『金型工作技術』は、池貝・ジャパックス、三菱造船・電機、小池酸素、西部電機、日立造船、マキノフライスなど 10 社のメーカーがあって千数百台が動いていると書き、代表的な機械にジャパックスの D-104H 形を挙げています[9]。日本放電加工研究所は 1960 年にジャパックスと名を変えていて[3]、1963 年の『国産工作機械綜合カタログ』では、池貝鉄工の「自動精密放電型彫盤」D104H 形など 4 機種と、三菱造船の「三菱ダイアックス放電加工機」DM-50・DM-102 形が並んでいます[8]。
形彫り放電加工機が金型に広まる(1965〜1971 年)
初めのころの放電加工は、焼入れした鋼に穴を抜く「貫通穴」の加工が中心でした。電極そのものも減ってしまうので、底のある複雑な形(金型の彫り込み)には向かなかったのです。1960 年代の後半に半導体の電源が生まれて電極の減りが大きく減ると、金型の 3 次元の底付き穴に使えるようになり、放電加工機はようやく本格的に広まり始めます。家電や自動車の会社が欧米に追いつこうと投資を増やし、金型の会社も設備を増やしていた時期でした[2]。
この時代はジャパックスと三菱電機が「2 強」と呼ばれました。ジャパックスの D100M は D3 の流れをくむ機種で、累計の販売台数は業界で最も多く、1969 年にトランジスタ電源が加わります。三菱電機が 1967 年に出した DM-250 形は主軸を油圧サーボで動かし、50kg の大きな電極を付けられるようにしました。鍛造の金型の底付き穴を彫るためで、売れ筋の機械になります[2]。海外では 1965 年にソ連で NC 付きのワイヤ放電加工機が、1969 年にスイスのアジエ社の NC ワイヤ放電加工機 DEM-15 が生まれていました[2]。
ワイヤ放電加工機の誕生と NC 化(1972〜1979 年)
形彫りの次は、ワイヤです。細いワイヤを電極にして糸のこのように輪郭を切り抜けば、抜き型(プレス型)のパンチとダイを、電極を作らずに焼入れしたまま切り出せます。ただし、ワイヤを図面どおりに動かすには NC が要り、その NC が高かったため、日本で製品になるまで最初の国産機から約 20 年かかりました[2][10]。
1972 年:DWC-50 と EW-20
1972 年、三菱電機が国産で最初のワイヤ放電加工機DWC-50(DWC50S-LT1 形)を出します。高い NC を使わず、米国で開発された光学式の図面倣い装置で図面の線を光で追い、縮めてテーブルを動かしました。待ち望まれていた市場にいち早く応えた機械で、2024 年に未来技術遺産(第 374 号)になっています[10][2][11]。ただ、アナログの倣いでは精度に限りがあり、デジタルの NC の必要がはっきりしました[2]。
同じ 1972 年 10 月、西部電機工業はミニコンピュータを使った NC で動くEW-20 形を作り、第 6 回日本国際工作機械見本市に出しました。国産で最初の NC ワイヤ放電加工機で、同社は CNC のワイヤ放電加工機として世界初としています。2025 年に未来技術遺産(第 395 号)になりました[12][2][7][13]。ワイヤ放電加工は、加工の速さに合わせた送りや、ショートしそうなときに下がる制御など計算の多い制御が要るので、リレーで組んだ当時の NC ではなくミニコンやマイコンの NC が必要でした[2]。三菱電機は同じ年、形彫り放電加工機用の NC 装置 DAC-10・20 も出しています[2]。
1974 年:3 社が出そろう
1974 年に大阪で開かれた第 7 回日本国際工作機械見本市には、西部電機工業の EW-30 形(マイコン NC)、三菱電機の DWC-50M-H(ミニコン NC)、ジャパックスの L250A(ミニコン NC)が並びました。当時の主要 3 社の NC ワイヤ放電加工機が出そろい、この年が本格的な普及の始まりになります[2]。形彫りでも、トランジスタで電極の減りを 1% 以下にした「電極無消耗電源」UF105C などが出ました[14]。
ファナック・牧野・ソディックの参入
1975 年、のちの有力メーカー 2 社が入ってきます。富士通ファナック(今のファナック)は 7 月に NC ワイヤ放電加工機 TAPECUT MODEL A など 3 機種を、安い値段でシェアを取る作戦で売り出しました(当時の新聞の見出しは「他社の半値以下で販売」)[2][16]。1976 年の TAPECUT SERIES D は、CNC でワイヤを傾けて抜き型の勾配(テーパ)を付けて切れる機械で、データベースは世界初としています[18]。牧野フライス製作所は 1975 年にスイスのアジエ社と技術提携し、1976 年にワイヤ放電加工機 DEM-15 の国産化を始めました[2]。
1976 年 8 月には、ジャパックスから分かれてソディックが横浜で生まれます[2][19]。同じ年に、電極を上下だけでなく XY にも小さく動かして側面をきれいに仕上げる日本初の揺動加工装置 SIX-LORAN を出し、牧野フライス製作所と組んで日本で最初のマイコン NC の形彫り放電加工機を作りました(機械は牧野、電源と NC はソディック)[2][17]。牧野はのちに 2 社との提携を解き、1980 年から自社の技術で放電加工機を作ります[2]。
自動結線・高精度化と世界一のシェア(1980〜1997 年)
ワイヤ放電加工機は、加工の途中でワイヤが切れると止まってしまいます。φ0.2mm ほどのワイヤを、すき間の狭いガイドと 1m もある曲がった経路に自動で通すのは難しく、1980 年ごろから各社のワイヤ自動結線装置が出始めました。日本で最初の装置はファナックがドイツのシーメンス社から技術を入れたもので(1979 年)、1980 年代の半ばまでに主要メーカーの装置が出そろいます。加工の途中でワイヤが切れても、機械が自分で通し直して続きから加工する機能も、各社の装置に初めから付いていました[2]。
世界の生産額の半分以上
日本の製品は、国内のメカトロニクスの発達と急に伸びた金型の需要に支えられて、欧米の製品に性能で追いつき、値段では有利になりました。1981 年の日本の放電加工機の生産額は 446 億円で、世界の推計 900 億円の約 50%、1984 年には 796 億円(5,600 台)で 55% になります[2]。ワイヤ放電加工機の生産台数は 1975 年から 1985 年の 10 年で約 10 倍になり、同じ 10 年に金型の出荷額も約 5 倍に伸びました[2]。欧州のメーカーから特許の争いを何度もしかけられた時期でもありました[2]。
機械も速く、正確になります。三菱電機は 1982 年に、MOSFET を使った電源を世界で初めて積んだ F シリーズで最大の加工速度を約 2 倍の 110mm²/min にし、1984 年の DWC-90G で 200mm²/min にしました[22]。ソディックは 1982 年に、超硬合金のさびを防ぐため油の加工液を使える日本初のワイヤ放電加工機 330W を出します[23]。牧野フライス製作所が 1980 年に出した形彫りの EDNC64 は、加工槽の 3 面が下がる構造を日本で先がけて取り入れ、のちの業界の標準になりました[20]。西部電機工業の EWP-300A(1984 年)は門形のコラムとリニアスケールで熱による狂いを抑えた高精度機です[24]。
ジャパックスからソディックへ
1980 年ごろまで国内のトップだったジャパックスは、2 度の石油ショックのあと不振になり、1991 年 4 月にソディックの資本参加を受けて傘下に入りました。分かれて出た会社が元の会社を引き受けたことは、当時大きな話題になりました[2][19]。放電加工機全体の国内の生産台数は 1990 年ごろが一番多く、そのあとは円高で各社が海外に工場をつくっていきます[2]。
微細と 10 秒結線
1990 年代は、小さく軽い電子機器を作る金型が求められた時代です。牧野フライス製作所の UPH-1(1993 年)は半導体のリードフレームなどの金型のために、ワイヤを横に走らせる独自の構造で、業界で初めて φ0.03mm のワイヤを自動で通しました。2024 年に未来技術遺産(第 376 号)になっています[25][26]。西部電機は 1995 年に、平均 90 秒ほどだったワイヤを通す時間を 10 秒にし、「10 秒結線」は他社の目標になりました[2][7]。熟練者の勘を取り入れるファジィ制御も、1991 年に三菱電機、1993 年にソディックが入れています[2]。
★今:リニアモータ・微細・新しい用途(1998 年〜)
1998 年、ソディックは主軸(Z 軸)をリニアモータで動かす形彫り放電加工機を出しました(世界初)。それまで数 m/min だった Z 軸の速さを 36m/min にし、電極を素早く上下させて加工くずを外へ出すことで加工を速くしたもので、業界全体が Z 軸を速くする開発に向かうきっかけになりました[27][2]。2000 年代には、機械の温度を測って熱による狂いを補正する機能(三菱電機 EA8PV ADVANCE、2008 年、精度 ±3μm を保証)や、板の厚さが変わる所に筋が出ないように電気の条件を自動で変える制御(2001 年 三菱電機、2005 年 牧野フライス製作所、2009 年 ファナックの「AI パルス制御2」)が出ます[2]。
放電は金属を削るだけでなく、盛ることにも使われています。三菱電機は 1998 年から、放電で電極の材料を表面に付けて膜をつくる放電表面処理を売り出し、2013 年には何本ものワイヤで硬い SiC(炭化ケイ素)を一度にウエハに切り分ける加工機を発表しました[2]。2010 年代からは、ネットワークで稼働の管理や保守・故障の診断をするサービスが実用になっています[2]。
2023 年の国立科学博物館の調査は、ミドル〜ハイエンドの世界の市場を、スイスの GF Machining Solutions(旧アジエと旧シャルミーが一緒になった会社)、スペインの ONA、ドイツの EXERON と、日本の 5 社(西部電機・ソディック・ファナック・牧野フライス製作所・三菱電機)が分け合っているとまとめています。東欧・米国・英国・ドイツ・フランスにあったメーカーの多くは消え、台湾・中国には安い機械のメーカーがたくさんあります。日本のメーカーの生産の半分以上は海外の工場になりましたが、世界の中のシェアは高いままと見ています[2]。2024 年には Japaxtron D3・DWC-50・22-NC・UPH-1 の 4 台が、2025 年には EW-20 が未来技術遺産に登録されました[4][11][21][26][13]。
現場で何に効くか。中古の放電加工機を見るときは、「形彫りかワイヤか」「NC の世代(光学倣い・ハードワイヤード・ミニコン・マイコン)」「電源の種類(RC 回路・トランジスタ・MOSFET)」「加工液が水か油か」「自動結線があるか、通せる最も細いワイヤ」を見ると、その機械の世代と、どんな金型・部品を任せられるかがわかります。
⑂メーカーの系図
放電加工機の歴史に出てくる主なメーカーの、社名の移り変わりです。帯の色が変わるところで社名が変わっています。ジャパックス(もとの日本放電加工研究所)は 1991 年にソディックの傘下に入りました(矢印)。牧野フライス製作所とファナックは工作機械・NC の会社としての流れ全体を描き、三菱は放電加工機の事業の流れだけを描いています。
見に行ける機械
博物館に残る機械と、国立科学博物館の産業技術史資料データベースで「公開」とされている会社の資料です。公開日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設・会社の案内で確かめてください。旋盤の章・フライス盤・MC の章の見に行ける機械もあわせてどうぞ。
⌛年表
この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典、「コマ」は国立国会図書館デジタルコレクションのページで、押すとその資料が開きます(個人送信の資料はログインが要ります)。
放電加工の発見と日本の研究の始まり1943〜1952 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1942年ごろ昭和17年 | 海軍の航空関係の情報として「米国では火花か電弧で孔あけ・切断をしている」と日本に伝わる。のちに日本放電加工研究所をつくる井上潔の話では、三菱重工業の水島製作所でも実験したが、溶断ほどで成功しなかった | — | [1・コマ55] |
| 1943年昭和18年 | ★ソ連の物理学者ラザレンコ夫妻が、電気接点が放電で侵食される現象を金属の除去加工に使うことを論文で提唱し、特許を出願する(これが今の放電加工の原理の始まりとするのが定説)。1946 年にこの業績でスターリン賞 | — | [2][1・コマ55] |
| 1948年昭和23年 | ★1947 年にラザレンコ夫妻の研究を知った東京大学の鳳誠三郎教授が研究を始め、翌年には実験設備を整える。この加工法を「放電加工法」と名づけた | 東京大学 | [2] |
| 1952年ごろ昭和27年 | 英国で放電加工機が商品として発表される(1955 年の『精密仕上法』による) | — | [1・コマ55] |
最初の国産機とメーカーの誕生1953〜1964 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1953年昭和28年 | ★池貝鉄工所の関連会社として日本放電加工研究所が設立される。創業者の井上潔は三菱重工業で放電加工を研究していた技術者で、当時の池貝鉄工所の社長 岡崎嘉平太と意気投合して会社をつくった。安川電機もこのころ放電加工の研究を始める | 日本放電加工研究所 | [2] |
| 1954年昭和29年 | 鳳誠三郎・倉藤尚雄『放電加工』(コロナ社)が出る。日本で初めての放電加工の学術書で、国産のメーカーとして日本放電加工研究所・小池酸素工業・旭ポンプ発動機製作所・大澤製作所の 4 社の製品を紹介する | — | [2][1・コマ56][1・コマ57] |
| 1954年3月昭和29年 | ★日本放電加工研究所が、国産の実用の放電加工機の第 1 号「Japaxtron D3」を完成させ、東京工業大学に納める。欧米とは違う独自の発想の機械で、火花放電穿孔機とも呼ばれた。2024 年に未来技術遺産(第 373 号) | 日本放電加工研究所Japaxtron D3 | [3][2][4] |
| 1955年昭和30年 | 大学・研究所・会社が集まる「電気加工研究会」ができる(2 年後に関西で「電子加工懇話会」。2 つが母体になって 1967 年に電気加工学会) | — | [2] |
| 1957年昭和32年 | ソ連の ENIMUS 研究所が、世界で最初のワイヤ放電加工機「A207 形」を作る。NC はまだなく、図面を光学で 10〜50 倍に拡大し、その線を光で追ってテーブルを動かした | — | [2] |
| 1958年昭和33年 | ★三菱造船(機械の部分)と三菱電機(電源などの電気の部分)が分担して、放電加工機 DM-101 の生産を始める | 三菱造船・三菱電機DM-101 | [2][5] |
| 1958年昭和33年 | 米国の 1958 年の工作機械設備調査(マグロウヒル社)で、放電加工機は 578 台。工作機械全体のごく一部だった | — | [6・コマ50] |
| 1960年昭和35年 | 日本放電加工研究所がジャパックスに社名を変える。同じ年にプラハで第 1 回の国際放電加工シンポジウム(ISEM) | ジャパックス | [3][2] |
| 1962年10月昭和37年 | 西部電機工業(今の西部電機)が安川電機の協力で形彫り放電加工機を開発し、国際工作機械見本市に E-304 型と卓上型を出す。日立造船も油圧サーボの試作機を出したが、事業にはならなかった | 西部電機工業E-304 型 | [2][7] |
| 1963年昭和38年 | 三菱の小型の形彫り放電加工機 DM-50B。放電が 1 か所に集中しないようにする高周波重畳回路の電源で、加工を安定させた。同じ年のカタログには、池貝鉄工の自動精密放電型彫盤 D104H 形など 4 機種と、三菱ダイアックス放電加工機 DM-50・DM-102 形が載る | 三菱造船・三菱電機DM-50B | [5][8・コマ83][8・コマ447][8・コマ448] |
| 1963年昭和38年 | ★『金型工作技術』が、放電加工機のメーカーとして池貝・ジャパックス、三菱造船・電機、小池酸素、西部電機、日立造船、マキノフライスなど 10 社を挙げ、千数百台の放電加工機が動いていると書く。代表的な機械はジャパックスの D-104H 形 | — | [9・コマ146][9・コマ162] |
| 1964年昭和39年 | 三菱造船との分担をやめて事業を三菱電機にまとめ、名古屋製作所で放電加工機の生産を始める | 三菱電機 | [2] |
形彫り放電加工機が金型に広まる1965〜1971 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1965年昭和40年 | ソ連で、NC 装置を積んだ世界で最初のワイヤ放電加工機が作られる | — | [2] |
| 1966年昭和41年 | ブルノ(チェコスロバキア)の第 2 回 ISEM に日本が初めて参加する | — | [2] |
| 1967年昭和42年 | 三菱電機が DM-250 形を出す。主軸(Z 軸)を油圧サーボで動かし、50kg の大きな電極を付けられるようにした。鍛造の金型の底付き穴を彫るためで、電源は高周波重畳・サイリスタ・トランジスタから選べた。売れ筋の機械になった | 三菱電機DM-250-DE-90T | [2] |
| 1967年昭和42年 | 電気加工研究会と電子加工懇話会をもとに、電気加工学会ができる | — | [2] |
| 1969年昭和44年 | 1960 年代の後半はジャパックスと三菱電機が放電加工機の 2 強と呼ばれた。ジャパックスの D100M は D3 の流れをくむ機種で、1969 年にトランジスタ電源(QC 電源)が加わる。半導体の電源で電極の減りが大きく減り、金型の 3 次元の底付き穴に広まり始める | ジャパックスD100M | [2] |
| 1969年昭和44年 | スイスのアジエ社が NC ワイヤ放電加工機「DEM-15」を完成させ、パリの展示会に出す | — | [2] |
ワイヤ放電加工機の誕生と NC 化1972〜1979 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1972年昭和47年 | 三菱電機が放電加工機用の数値制御装置 DAC-10・DAC-20 を出す。紙テープを読んで XYZ 軸を動かし、たくさんの穴を順に加工したり、加工条件を自動で切り換えたりできた | 三菱電機DAC-10・DAC-20 | [2] |
| 1972年昭和47年 | ★三菱電機が国産で最初のワイヤ放電加工機 DWC-50(DWC50S-LT1 形)を出す。高い NC を使わず、米国で開発された光学式の図面倣い装置で図面の線を追った。2024 年に未来技術遺産(第 374 号) | 三菱電機DWC-50 | [10][2][11] |
| 1972年10月昭和47年 | ★西部電機工業が、ミニコンピュータを使った NC で動くワイヤ放電加工機 EW-20 形を作り、第 6 回日本国際工作機械見本市に出す。国産で最初の NC ワイヤ放電加工機で、同社は CNC のワイヤ放電加工機として世界初とする。2025 年に未来技術遺産(第 395 号) | 西部電機工業EW-20 形 | [12][2][7][13] |
| 1974年昭和49年 | ★大阪の第 7 回日本国際工作機械見本市に、西部電機工業の EW-30 形(マイコン NC)、三菱電機の DWC-50M-H(ミニコン NC)、ジャパックスの L250A(ミニコン NC)が並ぶ。主要 3 社の NC ワイヤ放電加工機が出そろい、本格的な普及の始まりの年になった | — | [2] |
| 1974年昭和49年 | 形彫り放電加工機の電源 UF105C。スイッチにトランジスタを使い、電極の減りを 1% 以下にして「電極無消耗電源」と呼ばれた。国立科学博物館のデータベースは、のちにソディックを創業する古川利彦が開発を主導したとする | —UF105C | [14] |
| 1974年昭和49年 | 西部電機工業の形彫り放電加工機 E-202H。当時の主流だった油圧サーボで主軸を動かし、荒加工を速く・仕上げをきれいにする重畳電圧回路(DP 回路)を積む。今も福岡県の会社で生産に使われている | 西部電機工業E-202H | [15] |
| 1975年昭和50年 | 牧野フライス製作所がスイスのアジエ社と技術提携し、1976 年にワイヤ放電加工機 DEM-15 の国産化を始める。同じ 1976 年にソディックとも提携し、ソディックの NC 電源を組み込んだ形彫り放電加工機を作る。のちに 2 社との提携を解き、1980 年から自社の技術で作る方針にする | 牧野フライス製作所 | [2] |
| 1975年7月昭和50年 | ★富士通ファナック(今のファナック)が NC ワイヤ放電加工機 TAPECUT MODEL A など 3 機種を売り出し、安い値段でシェアを取りにいく(当時の新聞の見出しは「他社の半値以下で販売」) | ファナックTAPECUT MODEL A | [2][16] |
| 1976年昭和51年 | ソディックと牧野フライス製作所が、日本で最初のマイコン NC の形彫り放電加工機を作る(機械は牧野、電源と NC はソディック) | ソディック・牧野フライス製作所 | [17][2] |
| 1976年昭和51年 | ファナックの TAPECUT SERIES D。CNC でワイヤを傾けて抜き勾配(テーパ)を付けて加工でき、データベースは世界初とする。翌年からジャパックス・三菱電機・西部電機工業もテーパ加工装置を出す。同じ年、ジャパックスは精度 5μm 以下とうたう精密小型の L200 を出す(高精度機の始まりとされる) | ファナックTAPECUT SERIES D | [18][2] |
| 1976年8月昭和51年 | ★ソディックがジャパックスから分かれて横浜で創業する。同じ年に日本で最初の揺動加工装置 SIX-LORAN(電極を XY にも動かして側面を仕上げる)を出す | ソディック | [2][19] |
| 1979年昭和54年 | ★ファナックが、ドイツのシーメンス社から技術を入れて日本で最初のワイヤ自動結線装置を出す(ワイヤが切れても機械が自分で通し直す)。1980 年代の半ばまでに主要メーカーの装置が出そろう。同じ年に三菱電機は精度 3〜5μm の DWC-90P を出す | ファナック | [2] |
自動結線・高精度化と世界一のシェア1980〜1997 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1980年昭和55年 | 牧野フライス製作所が自社技術の形彫り放電加工機 EDNC64 を作る。加工槽の 3 面が下がる構造を日本で先がけて取り入れ、工作物の出し入れと段取りが楽になった。この構造はのちに業界の標準になる | 牧野フライス製作所EDNC64 | [20][2] |
| 1980年昭和55年 | ソディックの形彫り放電加工機 22-NC。XYZ と電極を回す C 軸を同時に制御でき、複雑な金型に使える。現存し公開されているマイコン NC の形彫り放電加工機では最も古い。2024 年に未来技術遺産(第 375 号) | ソディック22-NC | [17][21] |
| 1981年昭和56年 | ★日本の放電加工機の生産額が 446 億円になり、世界の生産額(推計 900 億円)の約 50% を占める | — | [2] |
| 1982年昭和57年 | 三菱電機が、MOSFET を使った電源を世界で初めて積んだワイヤ放電加工機 F シリーズを出し、最大の加工速度が約 2 倍の 110mm²/min になる。同じ年、ソディックは超硬合金のさびを防ぐため油の加工液を使える日本初のワイヤ放電加工機 330W を出す | 三菱電機F シリーズ | [22][23] |
| 1984年昭和59年 | ★日本の放電加工機の生産額が 796 億円(5,600 台)になり、世界の 55% を占める。統計で数えられるワイヤ放電加工機だけの生産台数は、この年の 3,481 台が最も古い | — | [2] |
| 1984年昭和59年 | 三菱電機の DWC-90G が業界最高の 200mm²/min を出し、パイプで案内する初期の自動結線装置を積む。西部電機工業は門形のコラムとリニアスケールで熱による狂いを抑えた、同社で最初の高精度機 EWP-300A を出す | 三菱電機・西部電機工業DWC-90G・EWP-300A | [22][24] |
| 1975〜85年昭和60年 | ワイヤ放電加工機の生産台数が 10 年で約 10 倍になる。おもな売り先の金型の出荷額も 1975 年の 2,721 億円から 1985 年の 1 兆 3,067 億円へ約 5 倍に伸びた | — | [2] |
| 1990年ごろ平成2年 | 放電加工機の国内の生産台数がピークになる(金型の生産額のピークは 1991 年)。円高で各社が海外に工場をつくり始める(ソディックは 1988 年にタイ、1994 年に中国の蘇州、2006 年に厦門) | — | [2][19] |
| 1991年平成3年 | 熟練者の勘を取り入れるファジィ制御が放電加工機に入る。三菱電機が 1991 年に V シリーズ、ソディックが 1993 年にニューロ・ファジィの NF シリーズ | 三菱電機・ソディック | [2] |
| 1991年4月平成3年 | ★1980 年ごろまで国内のトップだったジャパックスが、石油ショックのあとの不振でソディックの資本参加を受けて傘下に入る。分かれて出た会社が元の会社を引き受けたことは当時大きな話題になった。1992 年 10 月にソディックがジャパックスの放電加工機部門の営業の一部を譲り受ける | ソディック・ジャパックス | [2][19] |
| 1993年平成5年 | ★牧野フライス製作所が、半導体のリードフレームなど微細な部品の金型のためのワイヤ放電加工機 UPH-1 を出す。ワイヤを横に走らせる構造で、業界で初めて φ0.03mm のワイヤを自動で通した(同じ年、ソディックは φ0.05mm の自動結線)。2024 年に未来技術遺産(第 376 号) | 牧野フライス製作所UPH-1 | [25][2][26] |
| 1995年8月平成7年 | 西部電機が自動結線装置 AWF-3 で、ワイヤを通す時間を 10 秒にする(それまでは 90 秒ほど)。「10 秒結線」は他社の目標になった | 西部電機AWF-3 | [2][7] |
今:リニアモータ・微細・新しい用途1998 年〜
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1998年平成10年 | ★ソディックが、主軸(Z 軸)をリニアモータで動かす形彫り放電加工機 AM シリーズを出す(世界初)。数 m/min だった Z 軸の速さが 36m/min になり、電極を素早く上下させて加工くずを出すことで加工が速くなった | ソディックAM シリーズ | [27][2] |
| 1998年平成10年 | 三菱電機が、放電で電極の材料を表面に盛り付けて膜をつくる放電表面処理(EDC)を売り出す | 三菱電機 | [2] |
| 2008年平成20年 | 三菱電機の形彫り放電加工機 EA8PV ADVANCE。機械の温度を測って熱による狂いを計算し、位置を補正する。加工精度 ±3μm を保証した | 三菱電機EA8PV ADVANCE | [2] |
| 2009年平成21年 | ワイヤ放電加工で、板の厚さが変わる所に段(筋)が出ないように電気の条件を自動で変える制御が各社で広まる(2001 年 三菱電機の SL 制御、2005 年 牧野フライス製作所の TG コントロール、2009 年 ファナックの AI パルス制御2) | ファナック | [2] |
| 2013年平成25年 | 三菱電機が、何本ものワイヤで硬い SiC(炭化ケイ素)の塊を一度にウエハに切り分けるマルチワイヤ放電スライス加工機を発表する。同じ年、西部電機と三菱電機が油の加工液のワイヤ放電加工機を出し、主要各社は水と油の両方をそろえるようになる | 三菱電機 | [2] |
| 2016年平成28年 | 第 18 回 ISEM が東京で開かれる(1989 年の第 9 回は名古屋) | — | [2] |
| 2023年令和5年 | 国立科学博物館が「放電加工機技術の系統化調査」をまとめる。ミドル〜ハイエンドの世界の市場は、スイスの GF Machining Solutions(旧アジエと旧シャルミー)、スペインの ONA、ドイツの EXERON と、日本の 5 社(西部電機・ソディック・ファナック・牧野フライス製作所・三菱電機)が分け合い、日本のメーカーの生産の半分以上は海外の工場になっている | — | [2] |
| 2024年9月令和6年 | ★Japaxtron D3・DWC-50・22-NC・UPH-1 の 4 台が、国立科学博物館の重要科学技術史資料(未来技術遺産)に登録される(第 373〜376 号)。2025 年には西部電機の EW-20 も(第 395 号) | — | [4][11][21][26][13] |
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出典
国立国会図書館の資料は、個人向けデジタル化資料送信サービスの全文検索で 2026 年 10 月に確かめ、使ったコマを書いています。国立科学博物館の「放電加工機技術の系統化調査」(第32集)は同館の「技術の系統化調査報告書」の一覧(産業機械関連)から全文を読めます。著者は三菱電機で放電加工機の開発に長く携わった技術者です。データベースとメーカーの沿革は同じ月に確かめました。「国産初」「日本初」「世界初」は、本文で「同社は〜とします」「データベースは〜とします」と書いたものは、その資料自身の記述です。
- 『精密仕上法』小峰工業出版(1955)コマ 55・56・57
- 岩崎健史「放電加工機技術の系統化調査」国立科学博物館『技術の系統化調査報告』第32集(2023)
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「形彫放電加工機 Japaxtron D3」
- 国立科学博物館 重要科学技術史資料(未来技術遺産)第00373号「形彫放電加工機 Japaxtron D3」の登録資料票
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「形彫放電加工機 DM-50B」
- 工作機械研究会編『世界の工作機械工業』富士弘報社(1963)コマ 50
- 西部電機 有価証券報告書の「沿革」(EDINET DB)
- 『国産工作機械綜合カタログ 1963年版』コマ 83・447・448
- 『金型工作技術』朝倉書店(1963)コマ 146・162
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ワイヤ放電加工機 DWC-50」
- 国立科学博物館 重要科学技術史資料(未来技術遺産)第00374号「ワイヤ放電加工機 DWC-50」の登録資料票
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ワイヤカット放電加工機 EW-20形ほか」
- 国立科学博物館 重要科学技術史資料(未来技術遺産)第00395号「ワイヤ放電加工機 EW-20」の登録資料票
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「形彫放電加工機用電源 UF105C」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「形彫放電加工機 E-202H」
- ファナック「ファナックの歴史」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「形彫放電加工機 22-NC」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ワイヤ放電加工機 FANUC TAPECUT-SERIES D」
- ソディック 有価証券報告書の「沿革」(EDINET DB)
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「形彫放電加工機 EDNC64」
- 国立科学博物館 重要科学技術史資料(未来技術遺産)第00375号「形彫放電加工機 22-NC 8000」の登録資料票
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ワイヤ放電加工機 DWC-90G」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ワイヤ放電加工機 330W」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ワイヤ放電加工機 EWP-300A」
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ワイヤ放電加工機 UPH-1」
- 国立科学博物館 重要科学技術史資料(未来技術遺産)第00376号「ワイヤ放電加工機 UPH-1」の登録資料票
- 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「形彫放電加工機 AM35L」
- 日本機械学会「機械遺産 第91号 日本工業大学の所蔵する歴史的工作機械群」
- 牧野フライス製作所「沿革」