UK 01工作機械の誕生:Maudslay と弟子たち
旋盤・中ぐり盤・平削り盤・形削り盤。町工場にある工作機械の多くは、18 世紀の終わりから 19 世紀の半ばまでの、およそ 60 年の間に英国で形になりました。きっかけは蒸気機関です。シリンダを真円に削れなければ蒸気が漏れ、機関は動きません。そこから大きな物を正確に削る機械、どこでも同じねじを切る機械、平らな面を作る機械が次々に生まれます。その中心にいたのが London の Henry Maudslay(ヘンリー・モーズリー)と、彼の工場から巣立った弟子たちでした。この章は、Roe(1916)の研究書、Smiles(1863)の伝記、Nasmyth の自伝(1883)、Whitworth 本人の論文集(1858)、英国の特許の記録、Science Museum の工作機械の目録(1966)などで年と中身を 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。
ねじと平面の
基準は
ここから!

この章は「時代の章」です。機械ごとの仕組みの移り変わりは機種の章にまとめます。旋盤は第 5 章「英国の旋盤の系譜」、中ぐり盤・平削り盤・形削り盤・蒸気ハンマは第 9 章、歯車は第 8 章で詳しく扱います。同じころのアメリカの兵器廠の動きはアメリカ第 1 章にあります。ねじの規格の今はねじのページで解説しています。
蒸気機関と中ぐり盤(1769〜1800 年)
Watt を悩ませたシリンダ
James Watt(ジェームズ・ワット)が蒸気機関の改良を始めたころ、金属を正確に削る道具はほとんどありませんでした。機械の骨組みは木で、金属の部品は鋳物か鍛造品をやすりで合わせます。旋盤も、足で踏んだひもで工作物を前後に回し、刃物を手で当てるものが普通でした。Roe によれば、Watt は 18 インチ(約 46 cm)のシリンダの長い径と短い径が 3/8 インチ(約 9.5 mm)も違うと嘆き、ピストンのすき間をコルクや油を含ませた布、古い帽子で埋めようとしています[1]。
当時の中ぐり機は、細い棒の先に刃物の頭を付け、片持ちのまま鋳物の穴に押し込むものでした。1769 年に John Smeaton(ジョン・スミートン)が Carron 製鉄所に作った機械もこの形で、Science Museum にはその模型があります[1][2]。棒が細くて刃物が案内されないので、刃物は鋳物の穴の曲がりにそのままならってしまいます。どんなに丁寧に削っても、「元の穴の形を少しきれいにする」以上のことはできませんでした。
Wilkinson の中ぐり棒:両端で支える
製鉄業者の John Wilkinson(ジョン・ウィルキンソン)は、大砲を作る中で答えを見つけます。1774 年 1 月 27 日の特許(No.1063)は、大砲を中実に鋳て、水車か蒸気機関で回しながら、中ぐり棒の刃物で穴をあける方法です[3]。シリンダでは、太い中ぐり棒をシリンダの中に通し、両端の軸受で支え、刃物の頭をその棒に沿って送りました。棒そのものが真っすぐな定規になるので、鋳物がいくら曲がっていても、削りしろさえあれば真っすぐで真円の穴が削れます[1][2]。
1775 年、Wilkinson は Bersham の製鉄所で Boulton & Watt の最初のシリンダを削り、以後長く Watt の機関のシリンダを引き受けます[1][2]。Boulton は 1776 年、Wilkinson が削った直径 50 インチ(約 1.27 m)のシリンダは、どこでも古い 1 シリング硬貨の厚さほども狂っていないと書きました[1]。Science Museum の目録は、これを最初の本当に大きな動力の工作機械とし、Watt の回転式の機関、そこから動力で動く工場を可能にした機械だと位置づけています[2]。Bersham に据えられたとされる長さ 4.5 m ほどの中ぐり棒の実物も、同館の所蔵品です[2]。
今の加工につながる考え方。「刃物の通り道を、工作物ではなく機械の側の正確な要素(ここでは中ぐり棒)で決める」。これがこの機械のいちばん大事な点です。今の横中ぐり盤で長い穴を削るときに、中ぐり棒を両端で支えたり、ガイドブッシュで案内したりするのも同じ理屈です。逆に、片持ちの長い中ぐりバイトがびびったり、穴が曲がったりするのは、Smeaton の機械と同じ弱点を抱えているからです。
工場が自分の機械を作る
蒸気機関の需要が増えると、機関を作る工場も自前の工作機械をそろえ始めます。Watt の特許が切れる前の 1798 年、Boulton & Watt の Soho Foundry では Murdock の設計の横形のシリンダ中ぐり機が 64 インチのシリンダを削り、1801 年の機械の一覧には旋盤 10 台・ボール盤 3 台などが並びました[2]。この時代の工作機械は、売り物ではなく、まず自分の工場の仕事のために自分で作るものでした。それが外へ売られるようになるのは、次に見る Maudslay の弟子たちの時代です。
Bramah と Maudslay、Portsmouth の滑車工場(1784〜1831 年)
錠前のための工作機械
London の Joseph Bramah(ジョセフ・ブラマー)は 1784 年に錠前の特許を取ります。この錠前は長くだれにも開けられないと言われましたが、精密な部品の寸法がそろわないと成り立ちません。腕の良い職人の手でも、同じ品質のものを数多くは作れませんでした[4][2]。Bramah は、錠前を作るための専用の機械を工房に置くことにします。
そこで呼ばれたのが、Woolwich の兵器廠の鍛冶場で働いていた 18 歳の Henry Maudslay です。1789 年に Bramah の工房に入り、すり減った万力を 1 日で新品同様に直して職人の仲間入りを認められ、1 年ほどで職長になりました[4][1]。Science Museum の目録が引く同時代の証言によれば、Bramah の秘密の工房にあった錠前の部品を作る機械は、Maudslay が自分の手で作ったものでした[2]。Bramah が 1795 年に特許を取った水圧プレスも、ラムのパッキンが漏れて動かないところを、Maudslay が圧力がかかるほど締まる革のカップを考えて実用にしています[4][1]。
ねじ切り旋盤:親ねじと換え歯車
1797 年、週 30 シリングの給料を上げてもらえなかった Maudslay は Bramah の工房を辞め、職人 1 人と小さな工房を開きます[1][2]。ここで取り組んだのが、正確なねじを切る旋盤でした。
刃物を手で持たず、ねじで動く台(刃物台、スライドレスト)に固定する考えは、それ以前の時計職人や飾り旋盤の世界にもありました。主軸と親ねじを歯車でつなぐ発想も、フランスの古い本や Bentham の 1793 年の特許に出てきます[1][2]。Maudslay がしたのは、それを全部金属で、がっしり作り、ふだんの仕事に使える形にまとめたことでした。1797 年ごろの最初の旋盤は、三角形の鉄の棒 2 本をベッドにし、主軸と親ねじを歯車でつないで刃物台を送ります。はじめはピッチごとに親ねじを取り替えていました[1][2]。
1800 年ごろの 2 台目では、鋳鉄のベッドに 1 インチ 30 山の親ねじを 1 本だけ付け、15〜50 枚歯の換え歯車 28 枚を組み替えて、1 インチ 16〜100 山のねじを切り分けました。大きさの違う歯車にかみ合わせるため、中間の歯車は振り動かせる腕に載っています[1][2]。1 本の正確な親ねじと換え歯車で、いろいろなピッチを切る。今の旋盤のねじ切りの基本の形がここにあります。最初の正確な親ねじを作るために、Maudslay は柔らかい金属の円筒に、傾けた刃を当てて回すと刃が自然に進む性質を使い、何百本ものねじを作って比べたといいます[1]。刃物台は当初「Maudslay の手押し車(go-cart)」とからかわれましたが、やがてどの工場にも入っていきました[4]。
現場で何が変わったか。刃物台が刃物を持ち、ねじが送るようになって、削る精度は「職人の手の確かさ」から「機械の案内面と送りねじの確かさ」に移りました。良い機械を作るには良い機械が要る、という順番もここから始まります。旋盤でねじを切るときにギヤボックスのレバーを合わせるのは、この換え歯車の組み替えを箱に収めたものです。
ねじをそろえる
Maudslay はタップとダイスも改良し、ねじ山を押しつぶさず「削る」形にしました。径は 1/8・1/16 インチきざみにそろえ、径ごとのピッチを工場の中で決めます[1][2]。弟子の Nasmyth によれば、それまではボルトとナットが 1 組ずつ専用で、組ごとに印を付けておかないと合いませんでした[1]。工場の中で決めたこの寸法は、弟子たちを通じてほかの工場に広がり、のちの Whitworth のねじの土台になります。
Portsmouth の滑車工場
帆船は 1 隻で何百、何千もの滑車(ブロック)を使います。Roe によれば、海軍が買う滑車は年に約 10 万個にのぼりました[1]。熟練工の不足に悩んだ海軍の Samuel Bentham(サミュエル・ベンサム)は、1790 年代から木工の機械で滑車を作る工場を Portsmouth の工廠に計画していました[1]。そこへ、フランス革命を逃れて米国に渡り、1799 年に英国に来た技術者 Marc Isambard Brunel(マーク・ブルネル)が、滑車を機械で作る案を持ち込みます。Bentham は自分の案より Brunel の案がすぐれていると認め、採用しました[1]。
Brunel の図面を形にできる職人を探して行き着いたのが、開業したばかりの Maudslay でした。1800 年に模型づくりが始まり、1801 年に海軍が承認します[4]。のこ盤、穴あけ盤、角穴を掘るほぞ穴盤、外形を削る機械、ロープの溝を付ける機械、滑車の車を削る旋盤など、全部で 44 台。骨組みは鋳鉄、速く動く部分は焼入れした鋼で、Maudslay は部品を削るのに自分の刃物台が欠かせなかったと Smiles は書いています[4][1]。Science Museum の目録は製作を 1802〜1807 年とし、工作機械を使った最初の大規模な量産工場と呼んでいます[2]。
工場が本格的に動いた 1808 年には、未熟練の 10 人で、それまで熟練工 110 人がしていた仕事をこなし、年に 13 万個を超える滑車を作りました(Smiles は 16 万個)[1][4]。工程を分け、工程ごとに専用の機械を置き、決まった基準の位置で材料をつかむ。Roe は、この工場は「互換方式」をすでに実現していたのに、二世代のあいだ英国のほかの工業にほとんど影響しなかったと指摘し、1855 年に英国が米国から Enfield の機械を買い「アメリカン・システム」と呼んで取り入れた皮肉を書いています[1]。その話は第 2 章で続きます。
Lambeth の工場と「大法官」
滑車の機械で名を上げた Maudslay は、1810 年に Thames 川の南の Lambeth に工場を移します[4]。Portsmouth で製図をしていた Joshua Field(ジョシュア・フィールド)が加わり、Maudslay & Field(のちの Maudslay, Sons & Field)は、工作機械・製粉機・造幣の機械・陸用と船の蒸気機関を作る、何百人もが働く工場になりました[1][2]。
Maudslay は正確さにこだわりました。作業台の横には、Maudslay が「大法官(Lord Chancellor)」と呼んだ卓上の測定具がありました。焼入れした鋼の平らな面 2 枚の間に物をはさみ、細いねじで片方の面を進めて、軽く触れたところで止めます。目盛は 1/10 インチと、ねじの頭の 100 等分。Nasmyth は、これで 1/1,000 インチの違いまで分かったと書いています[5][1]。Science Museum の目録は、0.0001 インチまでの精度があったとしています[2]。今のマイクロメータの祖先の一つです。
平面についても同じでした。Nasmyth によれば、Maudslay の工場では 3 枚 1 組の定盤を作り、互いにすり合わせて高い所を消し、最後は硬い鋼のきさげで小さな当たりを取って、職人の作業台に置いていました。2 枚だけだと片方が凸、片方が凹でも合ってしまいますが、3 枚が互いに合えば全部が平面です[5][2]。この定盤で自分の仕事を確かめることが、職人に「本当に平らとはどういうことか」を教えました。1831 年に Maudslay が亡くなったあとも、工場は息子たちと Field が続け、弟子たちが英国中に Maudslay の基準を持ち出していきます[1]。
弟子たちと平削り盤(1813〜1844 年)
Roe は、英国の初期の工作機械の作り手を一つの系図にまとめています。Bramah の工房から Maudslay と Clement が出て、Maudslay の工場から Roberts・Nasmyth・Whitworth・Muir らが出る。腕の良い職人が、良い工場で働き、独立して次の工場を作るという鎖です[1][2]。この鎖の中で、旋盤の次に大事な機械である平削り盤が生まれました。
だれが平削り盤を発明したか
平らな面を作るのは、19 世紀のはじめまで、のみで荒く削り、やすりで仕上げる大変な仕事でした。1856 年の Whitworth の講演によれば、30 年前に鋳鉄の面を手で正しく仕上げる手間賃は 1 平方フィート 12 シリング、それが平削り盤で 1 ペニー足らずになりました[2][4]。
平削り盤の発明者は一人に決められません。Leeds の Matthew Murray(マシュー・マレー)は、蒸気機関のすべり弁の平面を削る機械を 1814 年には使っていたと、のちに職人が証言しています。特許は取らず、鍵をかけた小部屋に隠していました[1][4]。Derby の James Fox(ジェームズ・フォックス)も 1814 年ごろに、自動で往復を切り替える平削り盤を作ったと伝わります。Fox は 1829 年には平削り盤 5 サイズ・旋盤 7 サイズの価格表を出し、1826 年にはポーランドの工場に工作機械一式を納めた、工作機械を売る商売の早い例でした[1][2]。
いま残る最古の平削り盤は、Maudslay の工場で働いたあと 1817 年に Manchester で独立した Richard Roberts(リチャード・ロバーツ)のものです。テーブルは長さ 52 インチ・幅 11 インチで、手でチェーンを回して往復させ、刃物は縦と横に送れ、戻りでは逃げるように蝶番で留めてありました。本体の案内面には、のみとやすりの跡が残っています。平削り盤がない時代に、平削り盤を手で作ったのです[1][2]。
London の Joseph Clement(ジョセフ・クレメント)は、1820 年に旋盤の三角形のベッドの棒を削る平削り盤を作り、1825 年には 6 フィート角まで削れる大形の平削り盤を完成させます。テーブルはころの上を走り、行きと帰りの両方で削る刃物を持っていました。Clement は「ころの 1 本の下に紙を 1 枚はさむと全部が止まる」と言ったほどの精度で、10 年ほどは同じ大きさの機械がなく、1 平方フィート 18 シリングの賃加工が Clement の主な収入になりました[4][2][1]。
平削り盤が変えたこと。工作機械の精度は、案内面の平らさと真っすぐさで決まります。平削り盤ができて、案内面そのものを機械で削れるようになりました。Science Museum の目録は、平面を作る工具がない時代に梁式の蒸気機関が長く使われたのは、平らな面が少ない形だったからだという説を紹介しています[2]。機械の形まで、平面を作る力に縛られていたのです。
Roberts のバックギアと立て削り盤
Roberts は同じ 1817 年に、背面歯車(バックギア)を持つ旋盤も作ります。ベルトの段車の回転を歯車で落とし、主軸の速さの幅を大きく広げる仕組みで、太い物や硬い物をゆっくり強く削れるようになりました。長い親ねじは、ねじ切りではなく刃物台のふだんの送りに使い、決めた位置で送りが自動で切れます。この旋盤は 1854 年まで Roberts の工場で使われ、いまも Science Museum にあります[2][1]。Roberts はさらに、歯車のキー溝を掘る立て削り盤を考え、Holtzapffel はボール盤の工夫でも Roberts にかなう者はいないと書きました[1][2]。1825 年には紡績業者に頼まれて自動ミュール紡績機を作り、Sharp, Roberts & Co. は機関車を作るようになります。その機関車は型板とゲージで部品をそろえて作られ、互換方式を英国で早く取り入れた工場の一つでした[1]。
Clement のタップと Babbage の計算機
Clement は 1817 年、500 ポンドの元手で London の Newington Butts に工房を開きました。働き手は最大でも 30 人ほどでしたが、全員が腕利きです[4][1]。1828 年からは Maudslay のねじの寸法をもとにタップとダイスを量産し、タップの溝を回転するフライスで削り、柄を細くしてねじ穴の下へ抜けるようにしました[1]。Charles Babbage の計算機(差分機関)の精密な部品を作ったのも Clement の工房で、そこで働いた職人の一人に Joseph Whitworth がいました[1][4]。
Manchester へ
1830 年に Liverpool & Manchester 鉄道が開くと、機関車と、それを作る工作機械の注文が北へ集まります。William Fairbairn(ウィリアム・フェアベアン)は 1817 年に Manchester で小屋を借り、木の太い軸を錬鉄の細い軸に替えて工場の伝動装置の回転を 2〜3 倍に上げました。弟の Peter Fairbairn は 1828 年に Leeds の Wellington Foundry を引き受け、中ぐり・平削り・立て削りの大形の工作機械を作ります[1][4]。歯車の歯の大きさを直径で表す「直径ピッチ」も、スイス出身の Bodmer の Manchester の工場で始まり、「Manchester ピッチ」と呼ばれました。1837 年に Cambridge の Willis がこれを名付け、同じ直径ピッチならどの歯車ともかみ合う考えを示しています[1](歯車の話は第 8 章)。
Manchester と Whitworth:平面とねじの基準(1833〜1857 年)
Nasmyth の形削り盤と蒸気ハンマ
1829 年、Edinburgh の 20 歳の James Nasmyth(ジェームズ・ナスミス)は、自作の機関の模型と図面を持って Maudslay を訪ね、私室の工房で助手として働くことになります。在職中には、六角ナットの側面を割り出して削るフライス盤を考えました[1][2]。Maudslay の死後、Nasmyth は Edinburgh で自分の工作機械を作り、本人の年表によれば 1834 年に Manchester で開業、1836 年に郊外の Patricroft に Bridgewater Foundry を建てて 8 月に本格的に動かしました[5]。新しい鉄道と Bridgewater 運河にはさまれた、材料と製品の出し入れに便利な土地でした[1]。1841 年の Buchanan の本に図で紹介された工作機械 54 台のうち、21 台が Nasmyth の機械でした[2]。
1836 年に Nasmyth が考えた形削り盤(シェーパ)は、クランクで刃物の台を往復させ、小さな平面やキー溝を削る機械で、「Nasmyth の Steam Arm」と呼ばれました。大きな平削り盤を動かすほどでもない小物の平面を、手軽に機械で削れるようになります。のちに Whitworth が、戻りを速くする早戻り機構を加えました[2][1]。
1839 年 11 月 24 日、汽船 Great Britain の直径 30 インチ(約 76 cm)の外輪軸を鍛える方法を相談された Nasmyth は、30 分ほどで蒸気ハンマの絵を手帳に描きます。重い鉄の塊を蒸気のシリンダで真上に持ち上げ、案内に沿って落とす。それまでのてこ式のハンマは、大きな物を置くと振り上げる高さが足りませんでした[5][1]。船は結局スクリューに変わって外輪軸は作られず、Nasmyth はフランスの Le Creusot の工場で自分の手帳の絵から作られた蒸気ハンマを見て、1842 年 6 月にあわてて特許を取りました[1][5]。1843 年には共同経営者の Wilson が弁を自動で動かす仕掛けを考え、打つ強さと回数をそろえて続けて打てるようになります[2]。1851 年の博覧会の目録は、卵の殻を割るだけの力にも加減できると驚いています[2]。
Whitworth:平面
Stockport 生まれの Joseph Whitworth(ジョセフ・ホイットワース)は、1825 年に Maudslay の工場に入り、腕利きの John Hampson の隣で働きました。ここで 3 枚の平面を互いに合わせて仕上げる仕事に取り組み、その後 Holtzapffel と Clement の工房を経て、1833 年に Manchester で「London から来た工具屋」の看板を掲げます[1][2]。
Whitworth の考えの出発点は、1856 年の講演の言葉を借りれば、正しい平面と、測る力の二つでした[1]。1840 年の Glasgow での論文で、Whitworth は平面を研磨剤で擦り合わせる仕上げを否定します。研磨剤は縁にたまって縁を丸め、どこをどれだけ削るかを人が加減できない。きさげで当たりを見ながら一点ずつ削ることだけが、当たりを均一に細かく散らした正確な平面を作れる、と主張しました[6]。平面がよく合っていれば、上の定盤は空気の層に浮くように滑り、乾いた面どうしは大気の圧力でくっついて離れなくなる、という実験も書いています[6]。Roe は、3 枚合わせ自体は Maudslay の工場にもあった古い技で、Whitworth が加えたのはきさげで仕上げきる点だろうとみています[1]。
いまの「きさげ」と同じ理屈。工作機械の案内面や定盤の仕上げに今もきさげが使われるのは、この 1840 年の主張と同じ理由です。当たりを細かく均一に散らすと、油だまりができて滑らかに動き、局所の当たりで摩耗が進むこともありません。研削で仕上げた面をあえてきさげで整える工場があるのも、この理屈の延長です。
Whitworth:ねじ
1841 年、Whitworth は Institution of Civil Engineers で「ねじの統一の方式」を発表します。工場ごとにねじが違い、修理のたびにねじ切りの道具をそろえ直す無駄を、ねじを統一してなくそうという提案でした[6]。決め方は実際的です。英国中の主な工場からボルトを集め、径ごとのねじ山の数の平均を取り、いくつかの径を基準にして間の大きさを決め、6 インチまで広げました。ねじ山の角度は、1 インチのねじの平均がおよそ 55 度で、ほかの径でもほぼ同じだったので、全部を 55 度にそろえます。山の先と谷は高さの 1/6 ずつ丸めて、ねじとタップ・ダイスが欠けにくいようにしました[6][1]。
理屈で最適を求めるのではなく、みんなが使っているものの平均を取って全員が合わせる。Whitworth は、ねじの形は原理から決められない以上、歩み寄りで決めるしかないと書いています[6]。論文には、この方式をすでに多くの鉄道と大きな工場が採用し、Woolwich の工廠にも入ったとあり、1858 年の論文集の注には「1841 年以来、この方式は広く採用された」とあります[6]。Roe は 1860 年までに英国中で使われるようになったとしています[1]。これがウイットねじです。規格としての続きは第 2 章(1905 年の British Standard Whitworth)で扱います。
1851 年、頂点で
Whitworth の工作機械は、目新しさより、精度と作りの良さで抜きん出ていました。中が空洞の箱形のベッドで、同じ重さでも三角の棒のベッドよりずっと剛く、親ねじをごみから守り、割りナットで親ねじにかみ合わせます[2]。1835 年に特許を取った平削り盤は、動力で動き自動で送り、行きも帰りも削れました[2]。1851 年の London の万国博覧会では、旋盤・平削り盤・形削り盤・立て削り盤・ボール盤・ねじ切り・歯切りの機械と測長機・ゲージなど 23 点を出品し、ほかの 20 社は 1〜3 点でした[2]。Roe は 1850 年の Whitworth を世界一の工作機械メーカーと呼んでいます[1]。
ただ Roe は続けて、Whitworth のやり方が英国の工作機械を何世代も支配したことが、かえって英国が先頭を失う一因になったのではないかとも書いています。その後 50 年の新しい動きの多くは米国で起きた、と[1]。同じ 1851 年の博覧会には、米国の互換方式の小銃と、Bramah の錠前を 16 日かけて開けてみせた米国人 Hobbs がいました[1][4]。英国が工作機械を生んだ時代は、ここで頂点を迎え、次の章の「追い上げられる時代」へ入っていきます。1857 年、Nasmyth が蒸気ハンマの動く模型を South Kensington の新しい博物館に贈り、これが Science Museum の工作機械コレクションの始まりになりました[2]。
⛩日本とのつながり
この章の時代、日本はまだ工作機械を持っていませんでした。けれども、明治の日本の工場が最初に手本にしたのは、Maudslay から Whitworth までの英国で形になった旋盤でした。1889 年に池貝庄太郎が東京で開いた池貝工場には「英式」の旋盤があり、それを手本に作った英式 9 フィート旋盤が、動力で動く国産の旋盤として現存最古のもの(機械遺産第 53 号、国立科学博物館)です[11]。
機械遺産の解説によれば、この旋盤は 3 段のベルト車と背面歯車(バックギア)で 6 段に変速し、大きな物を削れるようにベッドに切り欠きがあります[11]。背面歯車は、この章で見た Roberts が 1817 年に旋盤に付けた仕組みで、70 年後の東京で、英国式の旋盤の当たり前の形として受け継がれていました[2][11]。明治の英国式から米国式への切り替えと、工部大学校の英国人教師 Henry Dyer の話は第 2 章で、国産の旋盤の歩みは国産アーカイブ第 1 章「国産旋盤の系譜」で扱います。
ねじも同じです。Whitworth の 55 度のねじは、日本でも「ウイットねじ」の名で知られています。今のねじの規格と基本はねじのページを見てください。
⑂メーカーの系図
この章に出てくる工作機械の作り手の、名前の移り変わりです。帯の色が変わるところで名前が変わっています。帯の右端は、この章で確かめた時点までで、そこで会社が終わったとは限りません(Whitworth・Maudslay のその後は第 2 章)。
見に行ける所
この章の機械を見られる博物館と、史跡です。開館日・展示の内容は変わることがあるので、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。
⌛年表
この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料が開きます。「p.」は本の印刷のページ、「コマ」は Internet Archive のスキャンの番号です。
蒸気機関と中ぐり盤1769〜1800 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1769年 | John Smeaton がスコットランドの Carron 製鉄所に、大砲と Newcomen 機関のシリンダを削る中ぐり機を作る。刃物の頭を細い棒の先に片持ちで付けたため、鋳物の曲がりに刃物がならってしまい、真円・真っすぐのシリンダは作れなかったRoe は 1769 年の中ぐり機を図 1 に載せる。Science Museum には Carron の機械を元にした模型(目録 138)がある | Carron Iron Works | [1・p.2][2・コマ69] |
| 1774年1月 | ★製鉄業者 John Wilkinson が「鉄の大砲を鋳造し中ぐりする新しい方法」の特許を取る(No.1063、1 月 27 日)。大砲を中実に鋳て、水車または蒸気機関で回し、中ぐり棒に付けた刃物で穴をあける | John Wilkinson | [3・コマ41][1・p.2] |
| 1775年 | ★Wilkinson が Bersham(Wrexham の近く)の製鉄所で、Boulton & Watt の蒸気機関の最初のシリンダを中ぐりする。太い中ぐり棒をシリンダに通して両端で支えたので、鋳物が曲がっていても真っすぐ・真円に削れた。Watt の初期のシリンダはすべてこの機械で削られたGilbert はこれを「最初の本当に大きな動力の工作機械」とする | John WilkinsonBersham の中ぐり機 | [1・p.11][1・p.13][2・コマ10][2・コマ69] |
| 1776年 | Boulton が、Wilkinson の削った直径 50 インチ(約 1.27 m)のシリンダは、どこを測っても古い 1 シリング硬貨の厚さほども狂っていないと書く。それまで Watt は 18 インチのシリンダで長径と短径が 3/8 インチ(約 9.5 mm)も違うと嘆いていた | Boulton & Watt | [1・p.2][1・p.3] |
| 1798年 | Watt の特許の期限が近づき、Boulton & Watt の Soho Foundry が自前の工作機械をそろえる。Murdock の設計の横形シリンダ中ぐり機が 64 インチのシリンダを削った。1801 年の Soho の機械の一覧には旋盤 10 台などが載る | Boulton & Watt | [2・コマ13] |
Bramah と Maudslay、Portsmouth の滑車工場1784〜1831 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1784年 | Joseph Bramah が錠前の特許を取る。精密な部品が要る錠前を、手仕事ではそろった品質で量産できず、Bramah は錠前を作るための専用の機械を工房で作らせることになる | Joseph Bramah | [4・p.186][2・コマ10][1・p.16] |
| 1789年 | ★Woolwich 兵器廠の鍛冶場で働いていた 18 歳の Henry Maudslay が Bramah の工房(London・Pimlico)に入り、1 年ほどで職長になる。錠前の部品を作る機械の多くを Maudslay が自分の手で作ったRoe は Bramah の工房にいた期間を 1789〜1797 年とする | Joseph Bramah | [1・p.17][1・p.19][4・p.201][4・p.204][2・コマ11] |
| 1791年 | ロシアで熟練工の不足に悩んだ Samuel Bentham が帰国し、木工機械の最初の特許を取る。1793 年の特許には、刃物の送りを歯車で回転と結び付ける考えまで書かれていた | Samuel Bentham | [1・p.24][1・p.25][1・p.38] |
| 1795年 | Bramah が水圧プレスの特許を取る。ラムを押さえるパッキンが漏れて動かなかったところを、Maudslay が圧力で締まる革のカップ(カップレザー)を考えて実用にした | Joseph Bramah | [4・p.188][4・p.205][1・p.18] |
| 1797年 | 週 30 シリングの給料を上げてもらえなかった Maudslay が Bramah の工房を辞め、London の Wells Street 近くで職人 1 人と小さな工房を開く | Henry Maudslay | [1・p.19][1・p.34][2・コマ11] |
| 1797年ごろ | Maudslay が、三角形の鉄の棒 2 本をベッドにした長さ約 3 フィートのねじ切り旋盤を作る。主軸と親ねじを歯車でつなぎ、刃物台(スライドレスト)を親ねじで送る。はじめはピッチごとに親ねじを取り替えたScience Museum の所蔵品。Roe は図 15 を「1797 年ごろ」とする | Henry Maudslayねじ切り旋盤(最初の型) | [1・p.40][2・コマ11] |
| 1800年ごろ | ★Maudslay が鋳鉄のベッドを持つねじ切り旋盤を作る。親ねじは 1 インチ 30 山で、15〜50 枚歯の換え歯車 28 枚を組み替えて 1 インチ 16〜100 山のねじを切れた。1 本の親ねじと換え歯車でいろいろなピッチを切る方式が、今の旋盤のねじ切りの原型になる | Henry Maudslayねじ切り旋盤(換え歯車つき) | [1・p.41][2・コマ11][4・p.214] |
| 1800年 | Marc Isambard Brunel が、船の滑車(ブロック)を作る機械の図面を持って Maudslay の工房を訪ね、模型づくりが始まる。同じ年、工房は Margaret Street(Cavendish Square の近く)に移る | Henry Maudslay | [4・p.220][1・p.29] |
| 1801年 | 滑車製造機械の動く模型を、海軍の Bentham と海軍本部が見て承認する。Bentham はすでに自分でも滑車の機械を考えていたが、Brunel の案のほうがすぐれているとして採用した | Marc Isambard Brunel | [4・p.221][1・p.28] |
| 1802〜08年 | ★Portsmouth の海軍工廠に、のこ盤・穴あけ盤・角穴を掘るほぞ穴盤・外形を削る機械など 44 台の滑車製造機械が順に据え付けられる。機械を何台も並べて工程を分け、熟練工の手仕事を置き換えた、工作機械による最初の大規模な量産工場とされるGilbert は製作を 1802〜1807 年、Smiles は新しい方法での製造開始を 1808 年 9 月とする。Science Museum にはほぞ穴盤(1803 年)と外形を削る機械(1804 年)などが残る | Henry MaudslayPortsmouth の滑車製造機械(44 台) | [2・コマ12][4・p.221][4・p.222][1・p.29] |
| 1804〜05年 | Portsmouth で Bentham の下の製図工だった Joshua Field が Maudslay の工房に入る。のちに共同経営者になり、Maudslay & Field の名が広まるGilbert は 1804 年、Roe は海軍本部に移った 1804 年の「1 年後」とする | Henry Maudslay | [2・コマ11][1・p.35][1・p.89] |
| 1808年 | 滑車工場が本格的に動き出し、未熟練の 10 人で、それまで熟練工 110 人がしていた仕事をこなす。年産は Roe によれば 13 万個を超え、海軍の六つの大きな工廠が作っていた量を上回ったSmiles は年 16 万個とする | — | [1・p.31][4・p.222] |
| 1810年 | Maudslay が工房を Thames 川の南の Lambeth(Westminster Road)の古い乗馬学校の跡に移す。ここで工作機械・製粉機・造幣の機械・蒸気機関を作り、何百人もが働く工場になる | Maudslay & Field | [4・p.223][1・p.35][1・p.43] |
| 1800〜10年ごろ | Maudslay がタップとダイスを改良し、径を 1/8・1/16 インチきざみにそろえて、自分の工場のねじのピッチを決める。それまでボルトとナットは組ごとに印を付けないと合わなかった | Henry Maudslay | [1・p.42][1・p.88][2・コマ11] |
| 1820年代 | ★Maudslay は、焼入れした平らな鋼の面 2 枚の間に物をはさみ、細かいねじで面を進めて長さを読む卓上の測定具を作業台に置き、「大法官(Lord Chancellor)」と呼んだ。目盛は 1/10 インチと、ねじの頭の 100 等分で、1/1,000 インチの違いまで分かったGilbert は 0.0001 インチまでの精度があったと書く。作った年ははっきりせず、Nasmyth が働いた 1829〜31 年には使われていた | Henry Maudslayベンチマイクロメータ「Lord Chancellor」 | [5・p.149][5・p.150][1・p.45][2・コマ11] |
| 1831年 | ★Henry Maudslay が亡くなる。工場は Field と Maudslay の息子たちが Maudslay, Sons & Field として続け、Clement・Roberts・Whitworth・Nasmyth・Muir らの弟子が英国中に Maudslay の仕事の基準を広めた | Maudslay, Sons & Field | [1・p.35][1・p.46][2・コマ11] |
弟子たちと平削り盤1813〜1844 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1814年ごろ | Leeds の Matthew Murray が、蒸気機関の D 形すべり弁の平面を削る平削り盤を使っていたと、のちに職人が証言する。機械は特許を取らず、ほかの職人が入れない小部屋に鍵をかけて置いていた平削り盤の発明者は Murray・Fox・Roberts・Clement などが挙げられ、一人に決められない | Matthew Murray | [1・p.55][4・p.260][2・コマ12] |
| 1814年ごろ | Derby の James Fox が、レース機械の部品を削る平削り盤を作ったと伝わる。自動で往復を切り替える仕掛けを持ち、1859 年まで使われた。Fox は 1829 年には平削り盤 5 サイズ・旋盤 7 サイズの価格表を出す、売り物の工作機械の早いメーカーだったGilbert は「1814 年に作ったと伝えられる」とする | James Fox | [1・p.53][1・p.54][2・コマ12][2・コマ13] |
| 1814年4月 | 製図にすぐれた Joseph Clement が Bramah の工房の製図主任・監督になる(5 年契約、4 月 1 日付け)。Bramah の死後は Maudslay & Field の製図主任になる | Joseph Clement | [1・p.58][4・p.244] |
| 1817年 | ★Maudslay の工場で働いたあと Manchester で独立した Richard Roberts が平削り盤を作る。テーブルは長さ 52 インチ(約 1.3 m)・幅 11 インチで、手でチェーンを回して往復させ、縦と横の送りと、戻りで刃物が逃げる仕掛けを持つ。現存する最古の平削り盤とされる | Richard Roberts平削り盤 | [1・p.51][1・p.60][2・コマ12][4・p.267] |
| 1817年 | ★Roberts が背面歯車(バックギア)を持つ旋盤を作る。段車の回転を歯車で落として主軸の速さの幅を広げ、長い親ねじで刃物台を送り、決めた位置で送りを自動で切る。この旋盤は 1854 年まで Roberts の工場で使われた | Richard Roberts背面歯車つき旋盤 | [2・コマ12][2・コマ47][1・p.60] |
| 1817年 | Clement が 500 ポンドの元手で London の Newington Butts に工房を開く。働き手は最大でも 30 人ほどだったが、全員が腕の立つ職人だった | Joseph Clement | [4・p.244][1・p.58][1・p.59] |
| 1817年 | William Fairbairn と James Lillie が Manchester で週 12 シリングの小屋を借り、自作の旋盤 1 台で製粉・紡績工場の伝動装置の仕事を始める。木の太い軸を錬鉄の細い軸に替え、回転数を 2〜3 倍に上げた | Fairbairn & Lillie | [1・p.72][1・p.73][4・p.315] |
| 1818年1月 | Maudslay の工場の Joshua Field らの若い技術者の集まりから Institution of Civil Engineers(土木学会)が生まれ、Field が最初の議長になる | — | [1・p.90] |
| 1820年 | Clement が旋盤の三角形のベッドの棒や織機の側板を削るために、最初の平削り盤を作る | Joseph Clement | [1・p.52][4・p.249] |
| 1823〜24年 | Clement が 3 段の滑り台を持つ複式刃物台を作る(同種の 2 番目)。ねじ切り旋盤の改良で Society of Arts から何度もメダルを受けた | Joseph Clement | [2・コマ49][1・p.59] |
| 1825年 | Clement が 6 フィート角までの工作物を削れる大形の平削り盤を完成させる。テーブルはころの上を走り、行きと帰りにそれぞれ刃物を当てた。10 年ほどは同じ大きさの機械がなく、1 平方フィート 18 シリングの賃加工が Clement の主な収入になった | Joseph Clement大形平削り盤 | [4・p.249][4・p.250][2・コマ12][1・p.52] |
| 1825年 | Manchester の工場で働いていた Joseph Whitworth が London の Maudslay & Field に入り、腕利きの John Hampson の隣で働く。ここで、3 枚の平面を互いに合わせて仕上げる仕事に取り組んだ | Maudslay & Field | [1・p.98][1・p.99] |
| 1825年 | Manchester の紡績業者に頼まれた Roberts が自動ミュール紡績機を作る(Sharp, Roberts & Co.)。同社はのちに機関車を作り、部品を型板とゲージで互換に作った英国の早い工場の一つになるGilbert は自動ミュールの発明を 1825〜1830 年とする | Sharp, Roberts & Co. | [1・p.61][1・p.62][2・コマ12] |
| 1826年 | Fox の工作機械をそろえた工場が、ポーランドの Sielpia Wielka に作られる。工場は今も博物館として残る。英国製の工作機械は早くから外国に売られていた | James Fox | [2・コマ13] |
| 1828年 | William Fairbairn の弟 Peter Fairbairn が Leeds の Wellington Foundry を引き受け、繊維機械に加えて、中ぐり・平削り・立て削りなどの大形の工作機械を作る | Peter Fairbairn | [1・p.74] |
| 1828年 | Clement が Maudslay のねじの規格をもとに、タップとダイスの量産を始める。タップの溝を回転するフライスで削り、柄を細くしてねじ穴から下へ抜けるようにした | Joseph Clement | [1・p.58][1・p.59] |
| 1829年 | Edinburgh の 20 歳の James Nasmyth が Maudslay を訪ね、自作の模型と図面を見せて、Maudslay の私室の工房で助手として働くことになる。在職中に六角ナットの側面を削るフライス盤を考えた | Maudslay & Field | [1・p.87][1・p.89][2・コマ13] |
| 1830年 | Roberts が歯車のキー溝を掘る立て削り盤(スロッタ)を考える。Brunel の滑車工場のほぞ穴盤から出た機械とされる | Richard Roberts | [2・コマ12][2・コマ79][1・p.61] |
| 1844年 | Clement が亡くなる。晩年には Charles Babbage の計算機(差分機関)の部品を作り、当時もっとも精密で複雑な機械の一つと言われた | Joseph Clement | [1・p.58][1・p.59][4・p.251] |
Manchester と Whitworth:平面とねじの基準1833〜1857 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1833年 | ★Whitworth が Manchester で動力付きの一室を借り、「London から来た工具屋 Joseph Whitworth」の看板を掲げる。旋盤・平削り盤・ボール盤・立て削り盤・形削り盤の改良を始めた | Joseph Whitworth | [1・p.99][2・コマ14] |
| 1834年 | Nasmyth が Edinburgh で自分の工作機械を作ってから Manchester で商売を始める。Liverpool & Manchester 鉄道(1830 年開業)の成功で、機関車と工作機械の注文がふえていたRoe は Manchester に移った年を 1831 年とするが、Nasmyth 本人の年表は 1831 年に Edinburgh へ戻り 1834 年に Manchester で開業とする。本人の年表を採った | James Nasmyth | [5・p.399][1・p.91] |
| 1835年 | Whitworth が動力で動く自動送りの平削り盤の特許を取る。行きと帰りの両方で削れるように刃物を反転させる刃物箱を持っていたGilbert によれば 1860 年ごろには、片方向だけで削りテーブルを速く戻す方式が普通になった | Joseph Whitworth平削り盤 | [2・コマ13][1・p.47] |
| 1836年 | ★Nasmyth が形削り盤(シェーパ)を考える。クランクで刃物を往復させて小さな平面やキー溝を削る機械で、「Nasmyth の Steam Arm」と呼ばれた。のちに Whitworth が戻りを速くする早戻り機構を付ける | James Nasmyth形削り盤 | [2・コマ13][2・コマ79][1・p.92][1・p.99] |
| 1836年8月 | Nasmyth が Manchester 郊外の Patricroft に Bridgewater Foundry を建て、8 月に本格的に動かす。鉄道と Bridgewater 運河の間の土地で、Holbrook Gaskell と 16 年間共同経営した | Nasmyth & Gaskell | [5・p.205][5・p.213][1・p.91] |
| 1837年 | Cambridge の Robert Willis が歯車の歯形の論文を ICE の論文集に出し、同じ直径ピッチの歯車どうしならどれでもかみ合う考え方を示す。Manchester で使われた歯の大きさの表し方を、Willis は「直径ピッチ」と名付けた直径ピッチは Bodmer の工場で始まり「Manchester ピッチ」と呼ばれたと Roe は書く | — | [1・p.64][1・p.69][1・p.70] |
| 1839年11月 | ★汽船 Great Britain の直径 30 インチの外輪軸を鍛える方法を相談された Nasmyth が、11 月 24 日、重い鉄の塊を蒸気で持ち上げて真下に落とすハンマを手帳に描く。打つ力を卵の殻が割れる程度から大きな鍛造まで加減できた | James Nasmyth蒸気ハンマ | [5・p.240][2・コマ13][1・p.93][1・p.94] |
| 1840年 | ★Whitworth が Glasgow の British Association で平面の論文を読む。平面を研磨剤で擦り合わせて仕上げると縁が丸まり誤差が残るとし、キサゲ(きさげ)で一点ずつ当たりを直す方法だけが正確な平面を作れると主張した | Joseph Whitworth | [6・p.3][6・p.5][1・p.100] |
| 1841年 | ★Whitworth が Institution of Civil Engineers で「ねじの統一の方式」を発表する。英国中の主な工場のボルトを集めて径ごとの平均を取り、ねじ山の角度を 55 度、山と谷を 1/6 ずつ丸めることにした。これがのちのウイットねじになる | Joseph Whitworth | [6・p.23][6・p.31][6・p.33][1・p.102] |
| 1841年 | Robertson Buchanan の『Practical Essays on Mill Work』(1841 年版)が工作機械 54 台を図で紹介し、そのうち 21 台が Nasmyth の機械だった | — | [2・コマ13] |
| 1842年 | Maudslay の工場で働いた William Muir が Manchester で独立する。1851 年に Strangeways に Britannia Works を建て、工作機械の会社 William Muir and Co. に育てた1894 年の機械学会の工場案内は 1842 年、1944 年の鉄道誌は「創業 101 年」とする | William Muir | [7][8] |
| 1842年6月 | フランスの Le Creusot の工場で、自分の手帳の絵をもとに作られた蒸気ハンマを見た Nasmyth が、急いで英国の特許を取る(No.9382、6 月 9 日) | James Nasmyth | [1・p.95][1・p.96][5・p.247][2・コマ24] |
| 1843年 | Nasmyth の共同経営者 Robert Wilson が、蒸気ハンマの弁を自動で動かす仕掛けを考え、打撃の回数と強さを決めて続けて打てるようにする | Nasmyth & Gaskell | [2・コマ24][1・p.96] |
| 1847年 | 機械技術者の学会 Institution of Mechanical Engineers(機械学会)ができ、鉄道の George Stephenson が初代の会長になる(1847〜48 年) | — | [7] |
| 1850年 | Roe は 1850 年の Whitworth を「世界一の工作機械メーカー」と評する。重い鋳鉄の箱形のベッドで機械を剛く作り、親ねじを割りナットでかみ合わせるなど、精度と作りの良さで英国の標準になった | Joseph Whitworth | [1・p.106][2・コマ14] |
| 1851年 | ★London の万国博覧会で、Whitworth は旋盤・平削り盤・形削り盤・立て削り盤・ボール盤・ねじ切り・歯切りの機械、測長機、ゲージ類など 23 点を出品し、ほかの 20 社は 1〜3 点だった。Nasmyth の蒸気ハンマも展示された | Joseph Whitworth | [2・コマ13][2・コマ14][1・p.99] |
| 1851年 | 同じ博覧会の期間に、米国の Alfred C. Hobbs が、60 年来だれも開けられなかった Bramah の錠前を 16 日(作業 51 時間)で開ける。錠前は若い Maudslay が作ったものだった | Joseph Bramah | [1・p.16][4・p.204] |
| 1856年 | Nasmyth が 48 歳で事業から退き、Kent に移って天文学に打ち込む。Bridgewater Foundry は後継者が続けた | James Nasmyth | [5・p.372][5・p.399][1・p.97] |
| 1857年 | Nasmyth が蒸気ハンマの動く模型を新しい South Kensington Museum に贈る。これが Science Museum の工作機械コレクションの始まりになった | James Nasmyth | [2・コマ6][2・コマ24] |
よくある質問
- ねじ切り旋盤を発明したのは Maudslay ですか?
- 刃物台や、主軸と親ねじを歯車でつなぐ考えは、それ以前のフランスの本や時計職人の機械、Bentham の 1793 年の特許にもあり、米国の David Wilkinson も 1798 年に特許を取っています。Maudslay の功績は、それらを全部金属でがっしり作り、1 本の親ねじと換え歯車でいろいろなピッチを切れる、ふだんの仕事に使える形にまとめて広めたことです。1797 年ごろと 1800 年ごろの 2 台が Science Museum に残っています。
- 最初の平削り盤はだれのものですか?
- 一人には決められません。Leeds の Murray と Derby の Fox が 1814 年ごろに使っていたと伝わり、Clement は 1820 年と 1825 年に作りました。現存する最古のものは、Manchester の Roberts が 1817 年に作った平削り盤で、Science Museum の所蔵品です。
- ウイットねじの 55 度はどうやって決まったのですか?
- 1841 年に Whitworth が、英国中の工場から集めたボルトのねじ山の角度を測り、1 インチのねじの平均がおよそ 55 度で、ほかの径でもほぼ同じだったことから、全部を 55 度にそろえました。ピッチも同じように、工場で実際に使われていたねじの平均から決めています。理屈で最適を求めるより、みんなが合わせられる値を選んだ規格でした。
- Portsmouth の滑車工場は、アメリカン・システムより先だったのですか?
- 工程を分けて専用の機械を並べ、熟練工の手仕事を置き換えた量産工場としては、1802〜08 年の Portsmouth の滑車工場が早い例です。ただ Roe が指摘するように、この工場の方式は英国のほかの工業にはほとんど広がらず、英国は 1855 年に米国から Enfield の小銃工場の機械を買って「アメリカン・システム」を取り入れることになりました。
この先と関係するページ
出典
本・特許の記録・目録は Internet Archive の公開資料で 2026 年 10 月に確かめ、使ったページを書いています。「p.」は本の印刷のページ、「コマ」は Internet Archive のスキャンの番号(n 番号)です。Smiles(1863)は人物を大きく書く伝記で、Nasmyth の自伝は本人の回想なので、年はほかの資料と照らし、食い違うものは年表の注に書きました。日本側の出来事は国産アーカイブの出典を使っています。
- Joseph W. Roe『English and American Tool Builders』Yale University Press(1916。Internet Archive は 1926 年の McGraw-Hill の刷り、同じページ)p. 2・3・11・13・16・17・18・19・24・25・28・29・31・34・35・38・40・41・42・43・45・46・47・51・52・53・54・55・58・59・60・61・62・64・69・70・72・73・74・87・88・89・90・91・92・93・94・95・96・97・98・99・100・102・106
- K. R. Gilbert『The Machine Tool Collection: Catalogue of Exhibits with Historical Introduction』Science Museum/HMSO, London(1966)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号)コマ 6・10・11・12・13・14・24・47・49・69・79
- 英国特許庁『Patents for Inventions: Abridgments of Specifications relating to Fire-arms and other Weapons』(1859)の 1774 年 1 月 27 日 No.1063(John Wilkinson「A new method of casting and boring iron guns or cannon」)※番号はスキャンのコマコマ 41
- Samuel Smiles『Industrial Biography: Iron Workers and Tool Makers』John Murray, London(1863)p. 186・188・201・204・205・214・220・221・222・223・244・249・250・251・260・267・315
- James Nasmyth(Samuel Smiles 編)『James Nasmyth, Engineer: An Autobiography』John Murray, London(1883)p. 149・150・205・213・240・247・372・399
- Joseph Whitworth『Miscellaneous Papers on Mechanical Subjects』Longman, London(1858)※平面の論文(1840 年)・ねじの論文(1841 年)・1856 年の講演を収めるp. 3・5・23・31・33
- 『Proceedings of the Institution of Mechanical Engineers』1894 年(巻頭の会の概要と、7 月の Manchester 大会の工場案内 pp.420–421)
- The Railway Gazette 第 81 巻 24 号(1944 年 12 月 15 日)「David Brown & Sons and Muir Machine Tools」(「Muirs は創業 101 年」)
- Science Museum Group Collection(所蔵品の検索)
- Science and Industry Museum(Manchester)公式サイト
- 日本機械学会「機械遺産 第53号 池貝工場製第1号旋盤」