UK 05英国の旋盤の系譜

旋盤の「当たり前」の形、つまり金属のベッドの上を往復台が走り、親ねじと換え歯車でねじを切り、バックギヤで回転を落とす形は、1800 年ごろから 1850 年までの英国でそろいました。Henry Maudslay と、その工場から出た Roberts・Clement・Nasmyth・Whitworth たちの仕事です。その後、新しい形の旋盤(タレット旋盤・自動盤)は米国やドイツで生まれますが、英国は自転車と自動車の町 Coventry でキャプスタン旋盤を磨き、多軸自動盤、模型づくりの小形旋盤、汎用の普通旋盤で世界に機械を送りました。この章では、旋盤の仕組みがどう変わり、現場の加工で何が変わったかを、Science Museum に残る実物の記録、当時の業界誌(The Engineer・Engineering・Machinery)、研究書で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典(ページが分かるものはそのページ)を付けてたどります。

親ねじと
換え歯車は
ロンドン生まれ!

マスコットのチップス

言葉を 3 つだけ先に。送り台(スライドレスト)は、刃物を手で持たずに、ねじで前後・左右へ動かす台です。親ねじは、主軸と歯車でつながって往復台を一定の速さで送る長いねじで、主軸と親ねじの間の換え歯車を替えると、切れるねじのピッチが変わります。キャプスタン旋盤は、英国でよく使われた呼び名で、何本もの刃物を付けた回転刃物台(キャプスタン)を回して、穴あけ・外径削り・ねじ切りを順に行う旋盤です(米国ではタレット旋盤と呼ぶことが多い型)。今の旋盤の使い方は旋盤のページに、日本の旋盤の歴史は国産アーカイブ第 1 章「国産旋盤の系譜」にまとめています。Maudslay と弟子たちの時代そのものは第 1 章、19 世紀後半の英国の工作機械工業は第 2 章で詳しく扱います。

時計師と計器職人の旋盤(1740〜1796 年)

飾り旋盤と送り台

18 世紀の英国で、金属を正確に削る旋盤を持っていたのは、工場ではなく、時計師・計器職人と、旋削を趣味にした裕福な人たちでした。趣味の旋盤の代表が飾り旋盤(ローズエンジン)です。主軸に波形の板(ロゼット)を付け、それを当て金に押し付けながら主軸をゆっくり回すと、主軸が揺れて工作物に花模様のような線が刻まれます。Science Museum には、王立協会の会長も務めた 2 代 Macclesfield 伯の持ち物とされる 1740 年ごろの 1 台が残っています[1]。大事なのは、こうした旋盤では刃物を手で持たず、送り台で機械的に支えていたことです。この送り台が、のちに工場の旋盤へ持ち込まれます[2]。

ねじを「写す」道具

時計師は、ぜんまいの力をならす円すい形の部品(フュジー)に、らせんの溝を切る小さなねじ切り機を使っていました。主軸に切ったねじにナットをはめ、ナットの動きをてこで刃物台に伝えて、てこの比でピッチを変える仕組みです。英国の工具商 Ford, Whitmore & Brunton の 1775 年ごろのカタログにも同じ型が載っています[2]。飾り旋盤でも、主軸の端に付けた何種類かの「案内ねじ」で主軸ごと工作物を送り、短いねじを写していました。ただ、どちらも小さく、写せるのは元のねじの精度までです。

Ramsden の精密ねじ

精度そのものを追ったのが計器職人の Jesse Ramsden です。円や直線に細かい目盛りを刻む機械(分度機)を作るため、1777 年と 1778 年に精密なねじ切り旋盤を作りました。案内には、2 面を仕上げるだけで正確になる三角断面の棒を使い、親ねじと換え歯車で刃物を送りました。できたねじを目盛りと比べると 100 山で 1 山ほどずれていたので、198 対 200 の換え歯車で補正してねじを切り直しています[3]。1793 年には Samuel Bentham が特許の中で、刃物を進める動きを歯車で工作物の回転とつなげれば送りが一定になると書きましたが、図はなく、機械にはなりませんでした[4]。

現場で何が変わったか。この時代の工場の旋盤は、木の枠に、手で持つ刃物でした。精密な旋盤は時計と計器と趣味の世界にあり、工場の機械を削るには小さすぎました。Woodbury は、金属でできた精密な旋盤という考えは、計器職人たちとつきあいの広かった Maudslay を通じて工場の旋盤に入ったと書いています[3]。

Maudslay のねじ切り旋盤と弟子たち(1797〜1849 年)

全部を金属で作った旋盤

Henry Maudslay は、錠前で知られる Joseph Bramah の工場の職長として、錠を作る専用機を手で作った人です。1795 年ごろには、心押台と一体の送り台を作りましたが、まだ軽く弱いものでした[4]。1797 年に独立すると[2]、Maudslay は工作機械を枠まで全部金属で作り始めます。それまでの工場の工作機械は木の枠でした。金属にすると、かたくなるだけでなく、正確な平面の案内面を作れるようになります[2]。

親ねじと換え歯車

Science Museum に残る Maudslay の最初のねじ切り旋盤(1800 年ごろ)は、平行な三角棒 2 本をベッドにしています。片方の棒に主軸台を載せ、送り台は 2 本にまたがって走り、その間の親ねじが送り台を動かします。送り台の刃物台には切り込みのねじとマイクロメータの目盛りが付き、親ねじは換え歯車(いまは失われています)で主軸とつながっていました[5][3]。Roe によると、初めは切りたいピッチごとに親ねじそのものを替えていたといいます[4]。

すぐ後の 2 台目は、鋳鉄のベッドに 1 インチ 30 山の親ねじを持ち、15〜50 歯の換え歯車 28 枚を備えていました。中間の歯車を振り腕に付けて、どの組み合わせでもかみ合うようにし、1 インチ 16 山から 100 山までのねじの見本が残っています[2][4]。1 本の親ねじと換え歯車でいろいろなピッチを切る。この組み合わせを工場の道具として使えるものにしたことが、Maudslay のいちばんの仕事でした。Roe は、同時代の人が送り台を「Maudslay の go-cart(手押し車)」と呼んでいたことを、Maudslay が元祖と見られていた証拠に挙げています[4]。

原ねじ・平面・測る道具

正確なねじを切るには、まず正確な親ねじが要ります。Maudslay は、円柱に斜めのナイフを当てて回し、ナイフが自分の切った溝に沿って進むことで「原ねじ」を作る道具を作りました[6]。木や柔らかい金属の原ねじの良いものを仮の親ねじにして鋼の親ねじを削り、さらに親ねじの両端を入れ替える、2 本の親ねじの平均で送るなどの工夫で誤差を減らしています[3]。案内面の平らさは、定盤を 3 枚同時にすり合わせて確かめ、作業台に置いて職人に使わせました[4][2]。長さの基準には、1805 年の卓上マイクロメータ「Lord Chancellor」を使っています[7]。案内面・親ねじ・測る道具の 3 つがそろって、はじめて旋盤は精度を「作れる」機械になりました。

Maudslay の会社は、三角棒のベッドの足踏み旋盤をアマチュアや小さな工場向けにも売りました。それまで飾り旋盤の道具だった送り台を、技術者の道具として作り直したものです[8][2]。飾り旋盤の側でも、London の Holtzapffel が 1815 年に、主軸を揺らす代わりに後ろの軸のロゼットで送り台を動かして模様を削る旋盤を作っています[2]。

Roberts のバックギヤと自動送り

Maudslay の工場で 2 年働いた Richard Roberts は、1816 年に Manchester で独立し[11]、1817 年に今の普通旋盤によく似た旋盤を作りました。Science Museum の 1 台は、センタ高さ 9.5 インチ、心間 6 フィートで、三枚の縦板を横の補強でつないだかたいベッドを持ちます。主軸にはバックギヤがあり、4 段の段車の回転を歯車で落として重い切削ができました。往復台はベッドの端から端まで親ねじで自動送りされ、止めに当たると送りが外れます[2][3]。この旋盤は 1854 年まで Roberts の工場で、その後は機関車メーカー Beyer, Peacock の工場で使われ、1909 年に博物館へ入りました[2]。Woodbury は、1817 年には本当の意味の工場用の旋盤が使われていたと書いています[3]。

Fox・Clement と、親ねじを守る工夫

Derby の James Fox は、レース機械を作りながら工作機械も売り、1830 年に長さ 22 フィートの大形旋盤を作りました。ねじを切らないときはラックで往復台を送り、別の送り軸とウォームで往復台を動かして、親ねじをねじ切りだけに使います。親ねじが減らなければ、ねじ切りの精度が長持ちします[3]。Fox の旋盤はフランス・ドイツ・ポーランドにも出ていき、1826 年に Fox が機械一式を入れたポーランドの工場は、今も博物館として残っています[2][3]。腕の良い製図家だった Joseph Clement は、長さ 12 フィートのベッドに足踏みを 2 つ付け、2 人が同じ旋盤で別の仕事をできるねじ切り旋盤を作り、計算機の Charles Babbage のために 3 段の複式送り台も作っています[2]。

Whitworth の箱形ベッドと半割りナット

Maudslay・Holtzapffel・Clement のもとで働いた Joseph Whitworth は、1833 年に Manchester で独立しました[4][3]。1835 年の特許には、往復台と親ねじを好きなときにつなぐ半割りナットと、親ねじから取る自動の横送りが入っています。横送りが自動になると、正面削りの面がそろいます[3]。1837 年には、正面削りで刃物が中心に近づくほど送りを変えて削る速さを一定にしようとする仕組みまで特許にしました。今の CNC 旋盤の「周速一定」と同じ考えです[3]。

そして Whitworth は、三角棒をやめ、中が空洞の箱形のベッドにしました。同じ重さなら三角棒よりずっとかたく、親ねじもごみや傷から守れます。1843 年の 5 インチ旋盤には、箱形ベッド・半割りナット・親ねじから取る横送り・推力を受ける円すいの主軸受がそろっていました[2]。Woodbury は、Whitworth が骨組みを「建築風の」細い形から箱形に変え、金属の量を増やしてかたさを得たことを、精度の基準と並ぶ大きな貢献としています[3]。

現場で何が変わったか。ねじは、やすりと鏨で一本ずつ作る物から、換え歯車を計算して旋盤で「切る」物になりました。同じ親ねじから切ったねじは互いにはまり、ボルトとナットを工場の中でそろえられます。バックギヤで重い鉄の部品を削れるようになり、往復台の自動送りで、長い軸も人の手の加減に頼らずに同じ太さに削れるようになりました。蒸気機関・紡績機械・機関車の部品は、この旋盤で作られました[3]。

Whitworth の時代からキャプスタン旋盤へ(1850〜1913 年)

1851 年の頂点と、主役の交代

1851 年の London 万国博覧会で、Whitworth の工作機械は別格でした。ほかの 20 社が 1〜3 台を出したのに対し、Whitworth は旋削・平削り・形削り・穴あけ・歯切り・ねじ切り・測長機など 23 点を並べ、1862 年の博覧会でも 60 社の首位で、工作機械の面積の 4 分の 1 を使いました[2]。Woodbury は、1850 年の Whitworth を世界でいちばん大事な工作機械メーカーと呼んでいます[3]。

ところが同じころから、旋盤の新しい形は米国で生まれるようになります。刃物を回転台に並べるタレット旋盤、カムで全部を動かす自動盤です(米国の旋盤の章)。Gilbert と Woodbury は、1850 年ごろを境に先導は米国、のちにドイツへ移ったとし[2][3]、Woodbury は Whitworth の設計があまりに尊敬されたことも一因かもしれないと書いています[3]。Whitworth 自身も、1855 年に銃身の倣い旋盤、1857 年に刃物を自動で送るテーパ削りの旋盤の特許を取っていて、専用の自動旋盤の考えは持っていました[3]。

送り軸とエプロン

普通旋盤の細部は英国でも進みました。1862 年の博覧会で Shepherd, Hill & Co. は、ベッドの後ろの送り軸から縦送りと横送りを円すいクラッチで取り出す仕組みを出しました。切り込みが重すぎるとクラッチが滑って機械を守り、親ねじはねじ切り専用にできます[2]。1870 年ごろの Whitworth の 6 インチ旋盤では、4 段の段車とバックギヤで 8 速を出し、半割りナットのレバーや送りの切り替えを往復台の前板(エプロン)に集め、手送りはベッド下のラックで行いました[14][2]。今の普通旋盤の操作の配置は、このころにほぼ決まっています。

キャプスタン旋盤:同じ部品をたくさん

19 世紀の終わり、蛇口などの真鍮部品、ミシン、自転車の部品を大量に作るため、英国でも刃物台を回して刃物を替える旋盤が広がります。Manchester の Smith & Coventry の 1890 年ごろの「真鍮仕上げ旋盤」は、数本の刃物を持つ回転刃物台(キャプスタン)で、機械を止めずに次の刃物に替えられました[20]。1892 年には A. Muir が、普通旋盤に付ける 4 面のキャプスタン刃物台の特許を取っています[2]。

この流れの中心になったのが Coventry の Alfred Herbert です。Herbert と William Hubbard は 1889 年に Coventry の小さな機械工場を買い、自転車の工場向けに研磨旋盤や手旋盤を作り始めました[18]。Science Museum には同じ年の Herbert & Hubbard の動力旋盤(4 段の段車とバックギヤ)が残っています[19]。1894 年に Alfred Herbert Ltd. になり、1895 年に No.4 キャプスタン旋盤を作ります。右ねじも左ねじも切れる追い切り(チェーシング)の往復台を持ち、レバー 1 本で刃物とナットを同時に引けました。この型は 1961 年までに 2 万 4,000 台以上作られています[18]。1899 年には材料をマガジンから送る全自動のねじ切り機、1900 年には段車の代わりにベルト 1 本で回して主軸台の中の歯車で変速する single-pulley 主軸台を出しました[18]。工具が炭素鋼から高速度鋼に替わり、削る速さが 3 倍ほどになった時代で、回転を上げ、変速を楽にする工夫が求められていました[2]。

平タレットと、米国との行き来

1901 年の Glasgow 博覧会で、Smith & Coventry は平タレット旋盤を出し、The Engineer はそれを「米国のメーカーへの挑戦」と書きました。主軸を中空にして棒材を手で引き出せるようにし、ラックを往復台の側に付けて往復台を軽くしています[22]。平タレット旋盤は米国の Hartness が 1891 年に出した形で(米国の旋盤の章)、1909 年ごろには Keighley の Dean, Smith & Grace が Hartness 式の 21 インチ平タレット旋盤を作っています[24]。同じ Glasgow の会場で、Scotland の Johnstone の John Lang & Sons は、ありの形ではなく四角い案内面のベッドを持つ旋盤を出しました。砲弾旋盤は左右 2 つの往復台で同時に削り、半径の棒で弾頭の丸みを削ります[22]。

現場で何が変わったか。キャプスタン旋盤で、熟練工が 1 本ずつ刃物を付け替えていた小物の仕事は、止めの位置を合わせておけば同じ寸法が出る「段取りの仕事」になりました。英国では一般に、ラム(往復する腕)の上に回転刃物台を載せた小物向けの型をキャプスタン旋盤、往復台の上に載せて往復台ごと動かす大物向けの型をタレット旋盤と呼び分けます。

戦争と量産の旋盤(1914〜1945 年)

砲弾を削る旋盤

第一次世界大戦で、英国は大量の砲弾を必要とし、旋盤工場は砲弾の旋盤を作りました。1916 年 1 月の Engineering は、Colchester Lathe Company の砲弾荒削り専用の 9.5 インチ旋盤を紹介しています。1 つのサイズの砲弾しか削らないので主軸は 1 速だけ、頭上の中間軸も要らず、未熟練の人でも扱えるがっちりした作りでした[25]。汎用の旋盤を「1 つの仕事しかしない機械」に絞り込んで、熟練工の足りない分を補ったのです(戦争と工作機械の全体は第 3 章)。

電動機・超硬と、主軸台の前選択

19 世紀の終わりから電気が使えるようになり、天井の軸からベルトで回す代わりに、機械ごとに電動機を付ける個別駆動が広がりました。1920 年代には刃先に超硬(炭化タングステン)を付けた工具も出てきます[2]。削る速さが上がると、刃物を替えるたび・径が変わるたびに回転数を替える時間が惜しくなります。

そこで Herbert が 1934 年に出したのが Preoptive(前選択)主軸台です。削っている間に次の回転数をダイヤルで選んでおき、レバー 1 本で切り替えます[18]。1944 年の教科書は、No.4 キャプスタン旋盤の Preoptive 主軸台が毎分 42〜1,000 回転の 8 速を持ち、どの速度へも削りながら切り替えられると説明しています[26]。キャプスタン旋盤の段取りの中に「この刃物はこの回転数」という段取り表が入り、刃物と回転数の組み合わせを作業者の勘でなく機械の操作で守れるようになりました。

Wickman の多軸自動盤

同じ部品をもっと速く作るには、主軸を何本も持つ多軸自動盤です。米国では 1890 年代に生まれた機械ですが[2]、Coventry の Wickman は 1930 年代の初めから自社の多軸自動盤を開発し、1937 年に 1 号機を出荷しました。特徴は「自動設定」の仕組みで、仕事ごとに専用のカムを作らなくても段取りができました。1939 年には Tile Hill に新しい工場を建て、第二次世界大戦中には 5 軸の自動盤を 300 台以上作り、さらに約 300 台を技術者を付けて外部の工場に作らせています[30]。

現場で何が変わったか。カム式の自動盤では、カムを作ることそのものが段取りの大仕事でした。専用のカムなしで段取りできれば、数千個単位の注文にも多軸自動盤を使えます。前選択の主軸台と合わせて、この時代の英国の旋盤の工夫は「段取り替えの時間を減らす」方向に向いていました。

戦後:模型の旋盤から NC へ(1946〜1979 年)

Myford ML7:家と学校の旋盤

Beeston(Nottingham)の Myford Engineering Co. は、Cecil Moore が始めた会社で、遅くとも 1935 年には模型工作の雑誌に旋盤と付属品の広告を出していました[28][29]。1946 年 2 月、模型工作の雑誌 The Model Engineer は、Beeston(Nottingham)の Myford の新しい旋盤 ML7 を紹介しました。センタ高さ 3.5 インチ、心間 20 インチの小形旋盤ですが、ギャップ付きのベッド、研削で仕上げた案内面、最初から組み込んだ電動機、主軸台の下に置いたバックギヤの軸など、戦時生産で得た工夫が入っています。記事は、英国の旋盤の良いところとして、ギャップ付きベッド・大きな中ぐり台・中空の心押し軸を挙げています[31]。記事は模型工作の読者に向けたもので、ML7 は Science Museum にも 1 台が収められています[32]。

ドイツの自動盤と、米国の旋盤

戦後の英国には、外国の旋盤の技術も入ってきます。BSA Tools の J. E. Maclaren らは、戦争の賠償としてドイツ Esslingen の Index-Werke の機械工場を Redditch へ移し、Index Automatic Machine Co. で Index の自動盤を作りました[33](Index はドイツの旋盤の章)。1959 年には John Lang & Sons が米国 Wisconsin 州の Gisholt と Lang Gisholt Machine Co. をつくり、Johnstone の工場で Gisholt の機械も作り始めます[36]。1952 年の London・Olympia の国際工作機械展では、Dean, Smith & Grace が超硬と高速度鋼の両方に合わせた 26 インチ旋盤(20 馬力、レバー 3 本で 24 速、送り 48 種)を出していました[34]。主軸台は全部歯車になり、変速はレバーで選ぶ時代です。

Colchester と Harrison

汎用の普通旋盤では Colchester が伸びました。1954 年に George Cohen の 600 Group に入り[35][17]、1967 年には輸出の実績と「旋盤の製造方法の技術革新」で Queen’s Award to Industry を受けています[37]。1968 年 2 月に量産 1 号機ができた Triumph 2000 は、角ばった形と人の手に合わせた操作、明るい塗装で、小さな工場や腕のよいアマチュアにも買える汎用旋盤でした[38]。600 Group は 1971 年に T. S. Harrison & Sons も買い、Colchester と Harrison という英国の普通旋盤の 2 大ブランドを持つことになります[35]。

プラグボードと NC

自動化は、カムとレバーから電気へ移ります。Herbert-BSA の NC 単軸旋盤 Batchmatic 50 は、少ない数の部品を速く安く削るための機械で、1971 年の米国の見本市で米国市場に初めて出ました[39]。1977 年ごろの Herbert の Auto Robot キャプスタン旋盤は、機械の動きを電気のシーケンスで制御し、順番をプラグボード(差し込み盤)で組みます。3 つの横送りと変速は油圧、タレットは空気で動き、8 本の刃物を小さなロットの仕事で使い回せました。H. W. Ward のキャプスタン旋盤にも Gearaid というプラグボードの制御が付きました[41][42]。数字のプログラムの NC と、配線で順番を組むプラグボードが並んでいた時代です(NC の全体は第 4 章)。

Herbert の行き詰まり

1961 年の Herbert は従業員 7,336 人を抱える英国最大の工作機械メーカーでした[18]。しかし 1970 年代に経営が苦しくなり、1975 年 7 月、政府は Industry Act 1972 にもとづく最大 2,500 万ポンドの長期資金を出すと発表します。資金の大部分は株式とし、設立を控えた国家企業庁(NEB)が持つとしました[40]。

★1980 年から:縮小と再編

1980 年 7 月、Alfred Herbert の最終的な閉鎖が発表され、10 月に任意清算に入りました[43][44]。キャプスタン旋盤とともに 90 年あまり続いた英国最大の旋盤メーカーの終わりです。

代わりに英国で新しく NC 工作機械の大きな工場を動かしたのは、日本のメーカーでした。ヤマザキマザックは 1980 年 7 月に英国の会社を設立し、1987 年 6 月に Worcester の欧州工場(CIM 工場)を稼働させます。1988 年 3 月には英国の工場で作った NC 工作機械が初めて日本へ出荷されました[46]。Worcester の工場は今も欧州向けの機械を作り続けています[48]。

英国の旋盤ブランドも CNC 化します。Colchester の 2000L は FANUC の NC 装置 6-TB を載せた CNC 旋盤で、Science Museum は、カムや人の腕に頼らず図面の寸法をそのまま刃物の動きに変える CNC の例として収蔵しています[47]。会社の形は変わり続け、1992 年に Colchester と Harrison が合わさって 600 Lathes、2009 年にチャックの Pratt Burnerd International と合わさって 600 UK、2018 年に Colchester Machine Tool Solutions と名前を変え、2022 年に 600 Group の手を離れました[17][35]。今の旋盤の選び方は旋盤、NC のプログラムはNC プログラム、刃物は工具のページにまとめています。

日本とのつながり

日本の旋盤づくりは、英国式から始まりました。1889 年 5 月、池貝庄太郎は東京・芝金杉で、英式旋盤 2 台の付いた借り工場から仕事を始め、その年の暮れに弟の喜四郎と自家用の英式 9 フィート旋盤を作ります。これが動力式で現存最古の国産旋盤で、機械遺産第 53 号として国立科学博物館にあります[52][53][55]。池貝が米国人技師の仕様書にもとづく米式旋盤の量産に移ったのは 1905 年で、それまでは主に英式でした[54]。第一次世界大戦中には逆に、池貝が英国へ旋盤を輸出しています(1915 年に 5 台)[54]。日本側の出来事は国産アーカイブ第 1 章の年表にあります。

戦後のつながりは NC です。Colchester の CNC 旋盤 2000L は FANUC の NC 装置を載せていました[47]。そして 1987 年、ヤマザキマザックの Worcester 工場が稼働し、翌年には英国製の NC 工作機械が日本へ出荷されます[46]。英国での工作機械づくりの一部を、日本のメーカーの工場が担うようになったのです。

⑂メーカーの系図

英国の旋盤の主なメーカーの、社名の移り変わりと買収です。帯の色が変わるところで社名が変わります。帯の左端は、資料で確かめられた最初の年です(John Lang は 1901 年の博覧会、Wickman は 1937 年の多軸自動盤の 1 号機、Myford は 1935 年の模型工作の雑誌の広告、Dean, Smith & Grace は同社の広告の「創業 1865 年」)。点線で続く会社は、その後の行方を一次資料で確かめきれなかったものです。Maudslay, Sons & Field は 19 世紀の終わりまで続いたと Gilbert は書いています。

179018301870191019501990Henry Maudslay(London)Maudslay, Sons & Field(Lambeth)Joseph Whitworth & Co.(Manchester)Herbert & HubbardAlfred Herbert Ltd.(Coventry)Colchester Lathe Co.600 Group の傘下600 Lathes→600 UKColchester Machine Tool SolutionsT. S. Harrison & Sons600 Group の傘下600 Lathes へJohn Lang & Sons(Johnstone)Lang GisholtWickman(Coventry)Myford(Beeston)Yamazaki Machinery U.K.Worcester 工場(いまの Yamazaki Mazak U.K.)Dean, Smith & Grace(Keighley)親会社の Monarch が事業をやめる帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。点線はその先が未確認。
出典:各社の沿革と社史 [2][4][12][18][44][17][35][22][36][30][28][31][32][46][48][15][49][50]

見に行ける所

英国の旋盤の実物は、Science Museum Group の 2 つの館に集まっています。公開日・展示の有無は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

Science MuseumLondon(England)「Making the Modern World」の展示室に、Maudslay の最初のねじ切り旋盤(1800 年ごろ)と、ねじ切り旋盤の模型が並ぶ。Science Museum Group の収蔵品には Roberts の 1817 年の旋盤、Holtzapffel の飾り旋盤、Herbert のキャプスタン旋盤、Myford ML7、Colchester の旋盤もある[5][51][10]
Science and Industry MuseumManchester(England)Science Museum Group の Manchester の館。Roberts の足踏み旋盤(1817〜23 年)、Whitworth の旋盤 No.4(1841 年)、Smith & Coventry のキャプスタン旋盤(1890 年ごろ)を収蔵する。展示されているかは行く前に確かめてください[11][12][20]
Sielpia Wielka の工場博物館Sielpia Wielka(ポーランド)1826 年に Derby の James Fox が工作機械一式を入れた工場が、博物館として残る。Fox の旋盤の実物と元の図面が見られると Woodbury は書く[2][3]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「p.」は本のページ、「コマ」はスキャンの通し番号(Woodbury と Gilbert の本、業界誌、政府の刊行物、国立国会図書館の資料)です。

時計師と計器職人Maudslay と弟子キャプスタン旋盤戦争と量産戦後と NC縮小と再編1750180018501900195020001777180018151843189519161934194619681980黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

時計師と計器職人の旋盤1740〜1796 年

年出来事メーカー・機種出典
1740年ごろ飾り旋盤(ローズエンジン)。主軸に付けた波形の板(ロゼット)を当て金に押し付けて主軸を揺らし、工作物に模様を削る。刃物は送り台(スライドレスト)で機械的に支える。Science Museum には 2 代 Macclesfield 伯の持ち物とされる 1740 年ごろの 1 台が残る持ち主が Macclesfield 伯かどうかは「確かではない」と同館は書く(作者不明)ローズエンジン[1][2・コマ10]
1775年ごろ時計のぜんまいの力をならす円すい形の部品(フュジー)に溝を切る小さなねじ切り機が、時計師の道具として作られていた。英国の工具商 Ford, Whitmore & Brunton の 1775 年ごろのカタログにも載る型同じ型は 1741 年の Thiout『Traité de l’horlogerie』にも描かれている(Gilbert)時計師の工具フュジー切り機[2・コマ43]
1777年★計器職人の Jesse Ramsden が、目盛りを刻む機械(分度機)のためのねじを切る精密ねじ切り旋盤を作る。三角断面の案内棒と親ねじ・換え歯車を使い、できたねじの誤差を 198:200 の換え歯車で補正して切り直した1778 年には直線の目盛り用の旋盤も作った(Woodbury)。Roe は「1775 年に換え歯車と親ねじの小旋盤を作ったと言われるが図も記述も見つからない」とするJesse Ramsden精密ねじ切り旋盤[3・コマ34][3・コマ35]
1793年4月Samuel Bentham の英国特許 No.1951(4 月 23 日)が、刃物を進める動きを歯車で工作物の回転とつなげれば送りが一定になると書く。図はなく、実際の機械にはならなかったSamuel Bentham[4・p.38]
1795年ごろJoseph Bramah の工場で、職長の Henry Maudslay が心押台と一体になった送り台(slide-tool)を作る。軽く弱い作りで、数年後の Maudslay の送り台とはまったく違うものだったRoe は 1795 年ごろ、Woodbury は 1794 年とするBramah / Maudslayslide-tool[4・p.38][3・コマ51]

Maudslay のねじ切り旋盤と弟子たち1797〜1849 年

年出来事メーカー・機種出典
1797年Maudslay が Bramah の工場を辞め、London で自分の工場を開く。1804 年に Portsmouth 造船所の製図工 Joshua Field が加わり、のちの Maudslay, Sons & Field になるField の参加を Gilbert は 1804 年、Roe は「1804 年に海軍本部へ移った翌年」とするHenry Maudslay[2・コマ11][4・p.34][4・p.35]
1800年ごろ★Maudslay の最初のねじ切り旋盤。三角棒 2 本をベッドにし、その間の親ねじで送り台を動かす。送り台にはマイクロメータ目盛り付きの切り込みねじがあり、親ねじは換え歯車(いまは失われた)で主軸とつながっていた。手回しで、長さは約 3 フィート(約 0.9m)年は Science Museum が 1800 年ごろ、Woodbury が 1797 年ごろ、Roe が「1800 年より数年前」。親ねじを替えてピッチを変えたとする説もある(Gilbert)Henry Maudslayねじ切り旋盤(Science Museum 1900-20)[5][3・コマ50][3・コマ51][4・p.40][2・コマ46]
1800年ごろMaudslay の 2 台目のねじ切り旋盤。鋳鉄のベッドに 1 インチ 30 山の親ねじ、15〜50 歯の換え歯車 28 枚を備え、中間歯車を振り腕に付けてどの組み合わせでもかみ合わせた。1 インチ 16〜100 山のねじの見本が残るHenry Maudslay換え歯車 28 枚のねじ切り旋盤[2・コマ47][4・p.41]
1800〜05年Maudslay が、斜めに当てたナイフで木や柔らかい金属の円柱に「原ねじ」を切る道具を作る。良いものを仮の親ねじにして鋼の親ねじを削り、さらに両端を入れ替える・2 本の平均をとるなどで誤差を減らした長さ約 7 フィートの真鍮のねじで計算上の長さとの差は 1/16 インチ(Woodbury)Henry Maudslay原ねじを作る道具[6][3・コマ52][3・コマ53][4・p.40]
1805年Maudslay が、作業場の長さの基準にした卓上マイクロメータ「Lord Chancellor」を作る。ねじと目盛り盤で 1/10000 インチまで読めたとされるHenry MaudslayLord Chancellor[7][2・コマ11][4・p.45]
1810〜20年ごろMaudslay の会社が、三角棒のベッドと頭上の駆動装置を備えた足踏み旋盤を、アマチュアと小さな工場に売る。それまで飾り旋盤の道具だった送り台を、技術者の道具として作り直した。付属品一式で約 200 ポンドMaudslay三角棒の足踏み旋盤[8][2・コマ47]
1815年ごろ★London の Holtzapffel の飾り旋盤。昔のローズエンジンのように主軸を揺らさず、後ろの軸に付けたロゼットで送り台のほうを動かして模様を削る。ねじは主軸側の案内ねじか、主軸から歯車で回す送り台で切ったScience Museum は Holtzapffel & Deyerlein の鉄ベッドの旋盤(1804〜15 年)も持つHoltzapffel飾り旋盤[2・コマ46][9]
1817年★Maudslay のもとで 2 年働いて 1816 年に Manchester へ移った Richard Roberts が、バックギヤ付きの旋盤を作る。往復台がベッドの端から端まで自動で送られ、止めに当たると送りが外れる。センタ高さ 9.5 インチ、心間 6 フィート1854 年まで Roberts の工場、のち Beyer, Peacock の工場で使われ、1909 年に Science Museum へ。バックギヤが当初からのものかは分からないと同館は書くRichard Robertsslide lathe(Science Museum 1909-65)[10][11][2・コマ12][2・コマ47][2・コマ48][3・コマ54][3・コマ55]
1820年ごろJoseph Clement のねじ切り旋盤。ベッドは 12 フィート、親ねじは 1 インチ 4 山で、足踏みが 2 つあり 2 人が同じベッドで別々の仕事をできた。Clement は 1823〜24 年、Charles Babbage の旋盤のために 3 段の複式送り台も作るJoseph Clementねじ切り旋盤[2・コマ49]
1826年Derby の James Fox が、ポーランドの Sielpia Wielka の工場に工作機械一式を入れる。この工場は博物館として残る。Fox は 1806 年にはロシア向けの旋盤も作り、1829 年の価格表には 7 サイズの旋盤が並ぶJames Fox(Derby)[2・コマ13][3・コマ55]
1830年Fox の大形旋盤(長さ 22 フィート、振り 27 インチ)。ねじ切りでないときはラックで往復台を送り、親ねじを傷めない。送り軸とウォームで往復台を動かし、往復台と心押台の案内面を分けた。旋盤はフランス・ドイツ・ポーランドへも輸出されたJames Fox(Derby)大形旋盤(模型が Paris の工芸院に)[3・コマ55][3・コマ56]
1830年Maudslay の工場で作られた大きな正面旋盤。主軸に大きさの違う歯車を 3 枚並べ、中間軸の小歯車をずらしてかみ合わせを選ぶ。Woodbury はこれを、のちの歯車式の変速箱の先駆けとみるMaudslay, Sons & Field正面旋盤[3・コマ53]
1833年Maudslay・Holtzapffel・Clement のもとで働いた Joseph Whitworth が、Manchester に「London から来た工具職人」の看板を出して工場を開くJoseph Whitworth[4・p.99][2・コマ14][3・コマ56]
1835年Whitworth の英国特許 No.6850。往復台と親ねじを好きなときにつなぐ半割りナット、親ねじから取る自動の横送り(正面削りの送り)、円すいで広げるコレットを含むJoseph Whitworth[3・コマ57][2・コマ50]
1837年Whitworth の特許 No.7441。正面削りで刃物が中心に近づくにつれ横送りの速さを変え、切削の速さを一定に保とうとした仕組み今の CNC 旋盤の周速一定制御と同じ考え。実用になったかは書かれていないJoseph Whitworth[3・コマ58]
1839年Whitworth の特許 No.8188。長い工作物のためにベッドを機械の力で動かし、往復台と心押台の位置を変えられる旋盤。1840 年の No.8705 で改良Joseph Whitworth[3・コマ57][12]
1841年Whitworth の旋盤 No.4。2 本の鋳鉄の脚にベッドを載せ、バックギヤで重い切削の遅い回転と軽い切削の速い回転を切り替えた。Manchester 大学の機械工学科が使っていたものJoseph WhitworthLathe No.4[12]
1841年Buchanan が 1841 年の本に描いた 54 台の工作機械のうち、21 台が Nasmyth の機械だった。Nasmyth は自分の工場をまず旋盤と平削り盤から作り始め、1836 年には形削り盤を考えたJames Nasmyth[2・コマ13][4・p.91]
1843年★Whitworth の 5 インチ自動送り足踏み旋盤。中空の箱形のベッド(三角棒より重さあたりのかたさが高く、親ねじも守る)、半割りナット、親ねじから取る横送り、推力を受ける円すいの主軸受を備えるJoseph Whitworth5 インチ自動送り旋盤[2・コマ50][2・コマ14][3・コマ56]
1849年Whitworth の特許 No.12,988。向かい合う 2 つの送り台の刃物で同時に削り、時間を短くし振動も打ち消そうとした。軸受の設計が悪く実用にはならなかったJoseph Whitworth[3・コマ57]

Whitworth の時代からキャプスタン旋盤へ1850〜1913 年

年出来事メーカー・機種出典
1850年代旋盤の新しい形はこのころから米国で生まれるようになる。刃物を回転台に並べるタレット旋盤(1850 年代)、カムで全部を動かす自動盤(1873 年)と続き、Woodbury は 1850 年以後、英国の先導は米国、のちにドイツに追い抜かれたとするWoodbury は、Whitworth の設計があまりに尊敬されたことも英国が先導を失った一因かもしれないと書く—[2・コマ14][2・コマ15][3・コマ59]
1851年★London 万国博覧会で Whitworth が工作機械の首位に立つ。ほかの 20 社が 1〜3 台なのに対し、旋削・平削り・形削り・立て削り・穴あけ・歯切り・ねじ切り・測長機など 23 点を出した。1862 年の博覧会でも 60 社のうち首位で、工作機械の面積の 4 分の 1 を占めたJoseph Whitworth & Co.[2・コマ13][2・コマ14][3・コマ56]
1855〜57年Whitworth の特許 No.903(1855 年)は銃身を削る倣い旋盤、No.1645(1857 年)は刃物を自動で送ってテーパの部品を削る旋盤。専用の自動旋盤の考えを早くから示したJoseph Whitworth[3・コマ57]
1859年Smith & Coventry が Salford の Chapel Street で商売を始め、1861 年に Ordsall Lane に Gresley Works の最初の建屋を建てる。屋根から光を入れた吹き抜けの組立場を走行クレーンで見渡し、両側に機械場を置く工場の早い例だったSmith & Coventry(Salford)[13]
1862年London の博覧会で Shepherd, Hill & Co. が、送り軸から縦送り・横送りを円すいクラッチで取り出す仕組みを出す。重すぎる切り込みでは滑って機械を守り、親ねじをねじ切り専用にして精度を保てたShepherd, Hill & Co.[2・コマ50][2・コマ51][14]
1865年Keighley(Yorkshire)の旋盤メーカー Dean, Smith & Grace は、創業を 1865 年としている。のちに普通旋盤・工具室旋盤・正面旋盤で知られた1905 年の同社の広告「Established 1865」と、1961 年の業界誌の工場紹介によるDean, Smith & Grace(Keighley)[15][16]
1870年ごろWhitworth の 6 インチ工場旋盤。4 段の段車とバックギヤで 8 速、操作をエプロン(往復台の前板)に集め、手送りはベッド下のラック、自動送りはベッド後ろの溝付き送り軸から取るJoseph Whitworth & Co.6 インチ旋盤[2・コマ50][2・コマ51][14]
1887年John Ernest Cohen が Colchester Lathe Company を始める(同社の沿革による)創業年は同社の沿革の記述によるColchester Lathe Co.[17]
1889年Leicester で一緒に見習いをした Alfred Herbert と William Hubbard が、Coventry の小さな機械工場を買い Herbert & Hubbard を始める。自転車の工場向けに研磨旋盤・手旋盤・専用機を作った。同年の動力旋盤(4 段の段車とバックギヤ、径 10 インチ×長さ 2 フィート)が Science Museum に残るMachinery 1961 は会社を買ったのを 1889 年とする。1888 年とする資料もあるHerbert & Hubbard[18・コマ174][19][2・コマ52]
1890年ごろManchester の Smith & Coventry のキャプスタン旋盤。真鍮の蛇口などにねじを切る「真鍮仕上げ旋盤」で、数本の刃物を持つ回転刃物台(キャプスタン)で機械を止めずに刃物を替えたSmith & Coventryキャプスタン旋盤[20]
1892年A. Muir が、普通旋盤に付けるキャプスタン刃物台の特許を取る。四角い台の 4 面に刃物を留め、回してばね止めで位置を決めるWilliam Muir & Co.capstan slide rest[2・コマ62]
1894年共同経営を解いて Alfred Herbert Ltd. が生まれるAlfred Herbert Ltd.[18・コマ174]
1895年★Herbert の No.4 キャプスタン旋盤の 1 号機。右ねじ・左ねじを切る追い切り(チェーシング)往復台を持ち、レバー 1 本で刃物とナットを同時に引いた。1961 年までに 2 万 4,000 台以上作られるScience Museum に 1907 年ごろの No.4 が残るAlfred Herbert Ltd.No.4 キャプスタン旋盤[18・コマ180][21]
1898年Thomas Strickland Harrison が T. S. Harrison & Sons を始める(のちの Harrison 旋盤)T. S. Harrison & Sons[17]
1899年Herbert が、材料をマガジンから送る全自動のねじ切り機(自動盤)を出すAlfred Herbert Ltd.自動ねじ切り機[18・コマ180]
1900年Herbert が single-pulley 主軸台の特許の設計を出す。段車を掛け替える代わりに 1 本のベルトで回し、主軸台の中の歯車で変速する。工具は 1850 年の炭素鋼(毎分約 40 フィート)から 1900 年の高速度鋼(約 120 フィート)へと速くなっていたAlfred Herbert Ltd.single-pulley 主軸台[18・コマ180][2・コマ16]
1901年★Glasgow 博覧会で Smith & Coventry が平タレット旋盤を出す。The Engineer は「米国のメーカーへの挑戦」と書いた。主軸は中空で棒材を手で引き出せ、ラックを往復台の側に付けて往復台を軽くした同誌は「この型で作った最初の機械」とする(同社にとっての最初)Smith & Coventry平タレット旋盤[22・コマ3]
1901年同じ博覧会で Johnstone(Scotland)の John Lang & Sons が、ありの形でなく四角い案内面のベッドを持つ旋盤を出す。Armstrong Whitworth の Scotswood 工場向けの砲弾旋盤は、左右の往復台 2 つで同時に削り、半径の棒で弾頭の丸みを削ったJohn Lang & Sons砲弾旋盤[22・コマ15]
1904年Manchester の Armstrong Whitworth が、親ねじの誤差を補正する旋盤を作る(Science Museum 蔵)。ねじの精度を親ねじで決める Maudslay 以来の課題は、20 世紀も続いたArmstrong Whitworth親ねじ補正旋盤[23]
1909年ごろKeighley の Dean, Smith & Grace が、米国の Hartness 式の 21 インチ平タレット旋盤を作り、カタログを出すDean, Smith & GraceHartness 平タレット旋盤[24・コマ196]

戦争と量産の旋盤1914〜1945 年

年出来事メーカー・機種出典
1916年1月★第一次世界大戦中、Colchester Lathe Company が砲弾の荒削り専用の 9.5 インチ旋盤を作る。1 つのサイズの砲弾だけを削るため主軸は 1 速で、未熟練の人でも扱えるがっちりした作りにしたColchester Lathe Co.砲弾旋盤[25・コマ27]
1920年代1920 年代、刃先に超硬(炭化タングステン)を使う工具が出てくる。19 世紀の終わりから電気が使えるようになり、各機械に電動機を付ける個別駆動が広がって、天井のベルトの林は少しずつ消えていった—[2・コマ16]
1934年★Herbert が「Preoptive」主軸台を出す。削っている間に次の回転数を前もって選んでおき、レバー 1 本で切り替える。No.4 キャプスタン旋盤では毎分 42〜1,000 回転の 8 速を、削りながら替えられたAlfred Herbert Ltd.Preoptive 主軸台[18・コマ180][26・コマ152][27]
1935年ごろBeeston(Nottingham)の Neville Works の Myford Engineering Co. が、模型工作の雑誌 The Model Engineer に旋盤と付属品の広告を出している。創業者は Cecil Moore創業を 1934 年とする資料(Grace's Guide)は手がかりで、一次資料では確かめきれなかった。広告は The Model Engineer 第 73 巻(1935 年下期)から見えるMyford Engineering Co.(Beeston)[28][29]
1937年★Coventry の Wickman が、1930 年代初めから開発した多軸自動盤の 1 号機を出荷する。「自動設定」の仕組みで、仕事ごとの専用カムを作らずに段取りできた。1939 年に Tile Hill に新工場Wickman多軸自動盤[30・コマ3]
1939〜45年第二次世界大戦中、Wickman は 5 軸の自動盤を 300 台以上作り、さらに約 300 台を外部の工場に技術者を付けて作らせたWickman5 軸自動盤[30・コマ3]

戦後:模型の旋盤から NC へ1946〜1979 年

年出来事メーカー・機種出典
1946年2月★The Model Engineer が、Beeston(Nottingham)の Myford の新しい ML7(センタ高さ 3.5 インチ、心間 20 インチ、ギャップ付きベッド)を予告する。電動機を最初から組み込み、案内面は研削仕上げ記事の時点では量産前で、仕様は変わる可能性があると断っているMyfordML7[31・コマ18][31・コマ19][32]
1947年Herbert が、重い送りの歯車箱の代わりに、サイラトロンで制御する直流電動機の無段送りを使い始めるAlfred Herbert Ltd.[18・コマ180]
1952年までにBSA Tools の J. E. Maclaren らが、戦争の賠償としてドイツ Esslingen の Index-Werke の機械工場を Redditch へ移し、Index Automatic Machine Co. で Index の自動盤を作るBSA Tools / Index Automatic Machine Co.Index 自動盤[33・コマ19]
1952年9月London・Olympia の国際工作機械展。Dean, Smith & Grace は超硬と高速度鋼の両方に合う 26 インチ旋盤(20 馬力、レバー 3 本で 24 速、送り 48 種)を出す。John Lang は新しい 17 インチ旋盤の試作機を並べたDean, Smith & Grace / John Lang & Sons[34・コマ4][34・コマ15]
1954年George Cohen の 600 Group が Colchester Lathe Company を買う600 Group / Colchester[35][17]
1958年Wickman の多軸自動盤は 11 サイズになり、生産は 1947 年の約 5 倍、10 年間の機械のほぼ半分が輸出だったWickman[30・コマ3]
1959年11月John Lang & Sons と米国 Wisconsin 州の Gisholt が、Johnstone の工場で Lang Gisholt Machine Co. をつくり、Lang の旋盤に加えて Gisholt の機械も作り始めるLang Gisholt Machine Co.[36・コマ23]
1961年Herbert は英国最大の工作機械メーカーで、従業員 7,336 人、工場 4、子会社 5。生産の大半はキャプスタン旋盤・複合タレット旋盤・自動旋盤だったAlfred Herbert Ltd.[18・コマ174][18・コマ179]
1967年4月Colchester Lathe Company が、輸出の実績と「旋盤の製造方法の技術革新」で Queen’s Award to Industry を受けるColchester Lathe Co.[37・コマ18]
1968年2月★Colchester が Triumph 2000 の量産 1 号機を作る(2 月)。角ばった形と人の手に合わせた操作、明るい塗装で、小さな工場や腕のよいアマチュアにも買える価格の汎用旋盤だったColchester Lathe Co.Triumph 2000[38]
1971年600 Group が T. S. Harrison & Sons を買い、Colchester と Harrison の 2 つの旋盤ブランドを持つ600 Group / Harrison[35][17]
1971年5月米国の工作機械見本市で、Herbert-BSA の NC 単軸旋盤 Batchmatic 50 が米国の市場に初めて出る。少ない数の部品を速く安く削るための機械Herbert-BSABatchmatic 50[39・コマ49]
1975年7月経営が苦しくなった Alfred Herbert に、政府が Industry Act 1972 にもとづき最大 2,500 万ポンドの長期資金を出すと発表(7 月 9 日)。資金の大部分は株式とし、設立を控えた国家企業庁(NEB)が持つとしたAlfred Herbert Ltd.[40・コマ5]
1977年ごろHerbert の 2M/3M Auto Robot キャプスタン旋盤。機械のすべての動きを電気のシーケンスで制御し、プラグボード(差し込み盤)で順番を組む。3 つの横送りと変速は油圧、タレットは空気で動かす。Ward も Gearaid プラグボード付きのキャプスタン旋盤を出したHerbert / H. W. WardAuto Robot・Ward 2A[41][42]

1980 年から:縮小と再編1980 年〜

年出来事メーカー・機種出典
1980年★Alfred Herbert の最終的な閉鎖が 7 月に発表され、10 月に任意清算に入るAlfred Herbert Ltd.[43][44][45]
1980年7月ヤマザキマザックが英国に Yamazaki Machinery U.K. Ltd. を設立する(7 月)ヤマザキマザック[46]
1985〜2000年Colchester の CNC 旋盤 2000L。FANUC の NC 装置 6-TB を載せるColchester Lathe Co.2000L CNC[47]
1987年6月★ヤマザキマザックの英国 Worcester の欧州工場(CIM 工場)が稼働する(6 月)。1988 年 3 月には英国工場製の NC 工作機械が初めて日本へ出荷されたヤマザキマザック[46][48]
1992年Colchester と Harrison が合わさって 600 Lathes になる。2009 年に Pratt Burnerd International(チャック)と合わさって 600 UK600 Lathes[17]
1992年Dean, Smith & Grace を子会社にしていた米国 Ohio 州の Monarch Machine Tool が、DS&G の事業をやめる。1992 年の決算に廃止の費用約 850 万ドルを計上し、Keighley の工場(約 2 万 1,000 m²)を処分することにした1995 年の清算とする資料もあるが、Monarch の 1992 年の年次報告書と 1996 年の年次報告は 1992 年の事業停止とするDean, Smith & Grace / Monarch Machine Tool[49][50]
2018年600 UK が Colchester Machine Tool Solutions に名前を変える。2022 年 4 月、600 Group は機械事業を売り、同社は InCompass Group に移るColchester Machine Tool Solutions[17][35]

よくある質問

ねじ切り旋盤を発明したのは Maudslay ですか?
親ねじ・換え歯車・送り台という部品は、Maudslay より前から時計師や計器職人の旋盤にありました(1777 年の Ramsden の精密ねじ切り旋盤など)。Maudslay の功績は、1800 年ごろにそれらを全部金属の、工場で使える大きさの旋盤にまとめ、1 本の親ねじと 28 枚の換え歯車でいろいろなピッチのねじを切れるようにしたことです。その最初の旋盤は London の Science Museum にあります。
Roberts と Whitworth は旋盤の何を変えたのですか?
Richard Roberts は 1817 年の旋盤で、バックギヤ(歯車で回転を落として重い切削をする仕組み)と、ベッドの端から端まで走る往復台の自動送りを使いました。Joseph Whitworth は 1835 年の特許の半割りナットと自動の横送り、そして三角棒に代わる中空の箱形ベッドで、旋盤をかたく、操作しやすくしました。
Herbert の Preoptive 主軸台とは何ですか?
Alfred Herbert が 1934 年に出した、回転数を前もって選んでおける主軸台です。削っている間に次の回転数を選び、レバー 1 本で切り替えます。No.4 キャプスタン旋盤では毎分 42〜1,000 回転の 8 速を削りながら替えられ、刃物を替えるたびの段取りの時間を減らしました。
Myford ML7 はどんな旋盤ですか?
Nottingham 近くの Beeston の Myford が 1946 年に発表した小形の旋盤です。センタ高さ 3.5 インチ、心間 20 インチで、ギャップ付きのベッド、研削仕上げの案内面、組み込みの電動機を持ち、模型工作の雑誌で紹介された、アマチュアにも手の届く旋盤でした。Science Museum にも収められています。

この先と関係するページ

出典

Science Museum Group の収蔵品は同館のコレクションのデータ(2026 年 10 月)で、業界誌・政府の刊行物・本は Internet Archive のスキャンで、メーカーの沿革は各社のページで確かめました。Woodbury・Gilbert の本と業界誌・政府の刊行物の番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号)、Roe の本は印刷のページ、国立国会図書館の資料はコマ番号です。貸出のみの本(Redwood 1984 など)は、全文検索の抜粋で該当の記述を確かめました。「最初」「初めて」は何の最初か(特許・試作・製品)を書き分け、メーカー自身の記述は「同社は〜とします」としています。特許の年と製品の年は数年ずれることがあります。

  1. Science Museum Group Collection「Rose engine lathe, Lord Macclesfield, about 1740」
  2. K. R. Gilbert『The Machine Tool Collection: Catalogue of Exhibits with Historical Introduction』Science Museum・HMSO(1966)※番号はスキャンのコマコマ 10・11・12・13・14・15・16・43・46・47・48・49・50・51・52・62
  3. Robert S. Woodbury『History of the Lathe to 1850』Society for the History of Technology(1961)※番号はスキャンのコマ(n50〜n58 = pp.98〜116 ごろ)コマ 34・35・50・51・52・53・54・55・56・57・58・59
  4. Joseph W. Roe『English and American Tool Builders』Yale University Press(1916。スキャンは 1926 年の再版)p. 34・35・38・40・41・45・91・99
  5. Science Museum Group Collection「Henry Maudslay's original screw-cutting lathe, c.1800」
  6. Science Museum Group Collection「Machine-Screw thread making tool, by Henry Maudslay」
  7. Science Museum Group Collection「Maudslay's Lord Chancellor bench micrometer, 1805」
  8. Science Museum Group Collection「Triangular Bar Lathe by H. Maudslay & Co., London, 1812-1820」
  9. Science Museum Group Collection「Holtzapffel lathe, on iron bed and mahogany frame, 1804-1815」
  10. Science Museum Group Collection「Richard Roberts' Original slide lathe, 1817」
  11. Science Museum Group Collection「Treadle operated lathe, Richard Roberts, 1817-1823」
  12. Science Museum Group Collection「Whitworth Lathe No. 4, 1841」
  13. 『Proceedings of the Institution of Mechanical Engineers』1894 年(7 月の Manchester 大会の工場案内)pp.419–421
  14. Science Museum Group Collection「Early Whitworth 6" lathe」
  15. Page's Weekly 1905 年 4 月 28 日号 p.15 Dean, Smith & Grace の広告「Established 1865」
  16. Machinery 第 99 巻(1961 年 7 月 19 日)p.131「Building Dean, Smith & Grace Lathes」
  17. Colchester Machine Tool Solutions「Our History」
  18. P. A. Sidders「Machine Tool Building in Britain—1: Alfred Herbert, Ltd., Head Works, Coventry」Machinery(London), Vol.99 No.2554(1961 年 10 月 25 日)pp.963〜コマ 174・179・180
  19. Science Museum Group Collection「Herbert Centre Lathe (Herbert & Hubbard), 1889」
  20. Science Museum Group Collection「Smith & Coventry Capstan Lathe, c.1890」
  21. Science Museum Group Collection「Herbert No. 4 Capstan lathe, c. 1907」
  22. 「British Machine Tools at the Glasgow Exhibition」The Engineer, Vol.91 Supplement(1901 年 6 月 28 日)コマ 3・15
  23. Science Museum Group Collection「Lead screw correcting lathe and accessories by Armstrong Whitworth and Co, 1904」
  24. Engineering, Vol.87(1909 年 1〜6 月)p.168(Dean, Smith & Grace の Hartness 平タレット旋盤のカタログの紹介)コマ 196
  25. 「9½-in. Centre Projectile Lathe; Constructed by the Colchester Lathe Company」Engineering, Vol.101(1916 年 1 月 14 日)p.44コマ 27
  26. William H. Atherton『Workshop Practice』Vol.IV, Sir Isaac Pitman & Sons(1944)コマ 152
  27. American Machinist 第 79 巻(1935 年 1 月 16 日)新製品「Lathe Headstock, “Preoptive” — Alfred Herbert, Ltd., Coventry」
  28. The Model Engineer 第 73〜74 巻(1935 年下期〜1936 年)Myford Engineering Co.(Neville Works, Beeston)の広告
  29. Eric C. Ball『One Hundred Years of Model Engineering: The Society of Model & Experimental Engineers 1898–1998』SMEE(1997)
  30. 「Developments in the Production of Wickman Multi-spindle Automatics」Machinery(London), Vol.92 No.2364(1958 年 3 月 7 日)p.528〜コマ 3
  31. 「A New Myford Lathe」The Model Engineer, Vol.94 No.2337(1946 年 2 月 21 日)pp.201〜203コマ 18・19
  32. Science Museum Group Collection「Myford ML7 lathe」
  33. Foundry Trade Journal, Vol.92 No.1850(1952 年 2 月 14 日)p.183(J. E. Maclaren の訃報)コマ 19
  34. 「International Machine Tool Exhibition」The Engineer, Vol.194 Supplement(1952 年 9 月 19 日)コマ 4・15
  35. The 600 Group PLC「About」
  36. 「Lang/Gisholt Agreement」Foundry Trade Journal, Vol.107 No.2242(1959 年 11 月 26 日)p.529コマ 23
  37. 「The Queen’s Award to Industry, 1967」Board of Trade Journal, Vol.192(1967 年 4 月 28 日)p.1050コマ 18
  38. Science Museum Group Collection「Colchester Triumph 2000 lathe, 1971」
  39. Trade and Industry, Vol.3 No.7(1971 年 5 月 19 日)p.389(米国の工作機械見本市での英国の展示)コマ 49
  40. 「Government support for Alfred Herbert Ltd.」Trade and Industry, Vol.20 No.3(1975 年 7 月 18 日)p.132コマ 5
  41. Science Museum Group Collection「Herbert 2M/3M Auto Robot Capstan lathe, c 1977」
  42. Science Museum Group Collection「Ward 2A capstan lathe」
  43. 『Industrial Policy and Innovation』Heinemann Educational Books(1981)
  44. John Redwood『Going for Broke: Gambling with Taxpayers' Money』Blackwell(1984)
  45. Financial Times 1980 年 9 月 26 日(NEB の Alfred Herbert の損失と任意清算の臨時株主総会)
  46. ヤマザキマザック「沿革」
  47. Science Museum Group Collection「Colchester 2000L CNC lathe」
  48. Yamazaki Mazak U.K.「About Mazak Europe」
  49. The Monarch Machine Tool Company 1992 年の年次報告書(Form 10-K)(マイクロフィルムの合本)
  50. The Monarch Machine Tool Company『Annual Report 1996』(マイクロフィルムの合本)
  51. Science Museum Group Collection「Model of Henry Maudslay's screw-cutting lathe, 1800-1820」
  52. 日本機械学会「機械遺産 第53号 池貝工場製第1号旋盤」
  53. 『日本の技術100年 ビジュアル版 第7巻』筑摩書房(1989)
  54. 日本工学会『明治工業史 機械・地学篇』(1930)
  55. 一寸木俊昭『日本の工作機械工業の発展過程の分析』(1963)