UK 09英国のその他の工作機械
工作機械の歴史は、旋盤だけでは語れません。蒸気機関を実用にしたのは、シリンダの穴を丸くまっすぐ削る中ぐり盤でした。機械の土台になる平らな面は平削り盤と形削り盤が、歯車の穴のキー溝は立て削り盤が作りました。重い鍛造品は蒸気ハンマが打ち、穴はボール盤が、正確な穴の位置はジグ中ぐり盤が受け持ちます。そして「削ったものを測る」測定機の分野では、英国は 19 世紀の Whitworth から 20 世紀の Ferranti の三次元測定機、Renishaw のプローブまで、世界の工場の当たり前を作ってきました。この章では、これらの機械が英国でどんな仕事のために生まれ、仕組みがどう変わり、現場の加工がどう変わったかを、機種ごとの節に分けてたどります。年や機種は、Science Museum が 1966 年に出した工作機械の収蔵目録、Roe の 1916 年の研究書、Nasmyth の自伝、Whitworth の講演録、当時の業界誌(The Engineer、Machinery ほか)、特許で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。
平らな面と
丸い穴と
測るひみつ!

この章の機械は、時代の章と重なるところがあります。Wilkinson・Maudslay とその弟子たちの時代は第 1 章、万国博覧会と米国式の機械の導入は第 2 章、二つの大戦は第 3 章、Ferranti の NC と Renishaw を含む戦後は第 4 章で、人と会社の動きを中心に扱います。この章では機械の仕組みを中心に書きます。日本のボール盤・中ぐり盤と放電加工機の歴史は、国産アーカイブの第 5 章「ボール盤・中ぐり盤の系譜」と第 6 章「放電加工機の系譜」に、米国の同じ機種はアメリカのその他の工作機械にまとめています。
中ぐり盤:蒸気機関を動かした最初の大形工作機械
中ぐりは、あいている穴の内側を刃物で削り広げて、穴を丸く、まっすぐ、決めた大きさに仕上げる加工です。18 世紀の英国でこの加工がいちばん切実だったのは、蒸気機関のシリンダでした。シリンダとピストンのすき間が大きいと、蒸気が漏れて力が出ません。Watt は最初、直径 18 インチのシリンダで、いちばん悪い所では長い径と短い径が 8 分の 3 インチ(約 9.5mm)も違うと嘆いていました[2]。
Smeaton の片持ちの中ぐり棒
それまでの最良の機械は、1769 年に John Smeaton がスコットランドの Carron の製鉄所に作った中ぐり機でした。刃物を周りに付けた頭を、片側だけで支えた長い棒の先に付け、台車に載せたシリンダを鎖と巻き上げ機で刃物の方へ引き寄せます。ところが棒の先が支えられていないので、刃物の頭の重さでシリンダの下側ばかり削れ、穴は鋳物の形に引きずられて曲がりました。Smeaton の工場では、シリンダを 90 度ずつ回して 4 回に分けて削り、少しでも丸くしようとしていました[1][2]。
Wilkinson:棒を通して両端で支える
この問題を解いたのが製鉄業者の John Wilkinson です。彼はまず大砲で工夫しました。1774 年 1 月 27 日の英国特許 第 1063 号は「鋳鉄の砲を鋳て中ぐりする新しい方法」で、砲を中子を使わずに無垢で鋳て、水車か蒸気機関で砲の方を回し、ドリルで穴をあけてから刃物を付けた中ぐり棒で仕上げるというものでした[3]。
シリンダでは、Wilkinson は太い中ぐり棒をシリンダの中に通し、棒の両端を軸受で支えました。刃物の頭は棒と一緒に回りながら棒に沿って滑り、棒の中を通した送り棒とラックで少しずつ進みます。シリンダは木の受け台に鎖で固定します。棒が両端で支えられているので、棒そのものが定規になり、鋳物が曲がっていても、削り代さえあればまっすぐで丸い穴になりました[1][2][4]。Wrexham の近くの Bersham の工場で 1775 年に Boulton & Watt の最初のシリンダを削り、1776 年に Boulton は、直径 50 インチ(約 1.27m)のシリンダでも古いシリング銀貨の厚みほども狂わないと書いています[2]。1776 年から 1795 年まで、Watt のシリンダは Bersham で鋳て削られました[1]。Roe は、この中ぐり盤を「大きな仕事を今日に近い精度でこなせた、おそらく最初の金属の工作機械」と評価しています[2]。
送りねじと、縦に置く中ぐり盤
その後の改良は「送り」と「置き方」でした。Boulton & Watt は 1795 年に新しい Soho Foundry を建て、1798 年に William Murdock の設計の横形の中ぐり盤で直径 64 インチのシリンダを削ります[1]。1800 年ごろには、重りとラックの代わりに中ぐり棒の中のねじで刃物の頭を送る方式が Soho で使われ始めたとされます。Bersham に残っていた中ぐり棒も、のちに中に送りねじを足して、棒が 1 回転するごとに刃物の頭が一定量進むように改造されていました[1]。
大きな船の機関のシリンダは、寝かせると自分の重さでゆがみます。そこでシリンダを立てて削る立て中ぐり盤が考えられました。Soho では 1795 年に Peter Ewart が設計し(作られず)、1802 年には Michael Billingsley が特許を取って作っています。1838 年に Nasmyth, Gaskell & Co. が Woolwich の海軍工廠に据えた立て中ぐり盤は、直径 6 フィートのシリンダを床に固定し、直径 16 インチの中ぐり棒の中のねじを遊星歯車でゆっくり回して刃物を下ろしました。縦にすると、シリンダも棒もたわまず、切りくずは下へ落ちて刃物にからまず、床も狭くて済みました[1]。
横中ぐり盤へ
19 世紀の終わりから、中ぐり盤は「大きな箱物の穴を、置いたまま何か所も削る」機械になります。Manchester 近郊 Broadheath の George Richards の万能機は、基本は中ぐり盤ですが、穴あけやフライス削りまで 1 回の段取りで済ませられ、主軸の速さを 48 段に変えられました[20]。1961 年には Halifax の Asquith が、重さ 270 トンを超えるラム形の横中ぐりフライス盤を電子制御の主軸と送りで作っていました[18]。工具室向けでは、Kearns が光学式の座標読み取りを付けた横中ぐり盤を売っています[34]。
現場で何が変わったか。「穴は刃物の通り道に倣う」のが Smeaton まで、「穴は案内(中ぐり棒)に倣う」のが Wilkinson からです。今の中ぐりでも、長い穴は工具の突き出しを短くし、反対側でも支える(ラインボーリングや後ろ支え)のが基本で、考え方は 250 年前と同じです。
平削り盤:「平らな面」を機械で作る
平削り盤は、工作物を載せたテーブルを前後に往復させ、止まっている刃物で 1 本ずつ削っては刃物を横へずらし、平面を仕上げる機械です。機械の案内面、蒸気機関のすべり弁の面、繊維機械の棒。平らな面はどこにでも要るのに、19 世紀の初めまでは、たがねとやすりで削り、きさげで合わせる手仕事でした。
だれが最初か:Murray、Fox、Roberts
平削り盤の「発明者」は 1 人に決められません。Leeds の Matthew Murray は蒸気機関の D 形すべり弁の面を削る平削り盤を 1814 年には使っていて、特許を取らずに鍵のかかった小部屋に隠していたと、当時働いた人が証言しています。Derby の James Fox も 1814 年ごろに平削り盤を作り、刃物台の自動送りと、3 つのかさ歯車で往復を切り替える自動の反転装置を備えていました。この機械は 1859 年まで使われていたといいます[2][1]。
いま現物が残る最古の平削り盤は、Manchester の Richard Roberts が 1817 年に作ったものです。テーブル(長さ 52 インチ・幅 11 インチ)は片側を平らな面、反対側を逆 V の案内で受け、鎖とドラムを手で回して往復させます。横けたは 2 本の柱に載り、刃物台は角度を変えられ、刃物は戻りのときに跳ね上がるちょうつがいの押さえに付いていました。ベッドにはたがねとやすりの跡が残っていて、平削り盤そのものは平削り盤なしで作られたことが分かります[1][7][2]。テーブル・横けた・刃物台という形は、もう今の平削り盤と同じです。
Clement の大形平削り盤:1 平方フィート 18 シリング
London の Joseph Clement は 1825 年、6 フィート四方の物まで削れる大形の平削り盤を作りました。テーブルはころの上を走り、行きと帰りの両方で削る 2 本の刃物を持ち、手回しでした。10 年以上この大きさの機械はほかに無く、Clement は 1 平方フィート 18 シリングで削りを請け負い、それが主な収入になりました[1][2]。平面を削ること自体が商売になったのです。1829 年には Fox の価格表に、平削り盤が 5 つの大きさで並んでいました[1]。
Whitworth の「Jim Crow」と早戻り
往復の機械の弱点は、帰りが空振りになることです。Manchester の Joseph Whitworth は 1835 年に特許を取った平削り盤で、行程の終わりに刃物台がくるりと向きを変え、帰りも削る仕組みを作りました。工場では、流行歌の「くるっと回って Jim Crow」にちなんで「Jim Crow」と呼ばれました。1842 年の機械では、ベッドの中央のねじでテーブルを動かし、テーブルの止め金がラック棒を押すたびに、ベルトで刃物台を反転させ、横送りも 1 段進めます[1][12]。
ただ、この反転の仕組みは広まりませんでした。Science and Industry Museum は、複雑で、重い仕事には丈夫さが足りなかったのではないかと説明しています[44]。1860 年ごろには、刃物は一方向で削り、テーブルを速く戻す(早戻り)方式が普通になりました[1]。Nasmyth の工場は、ラックで動かす早戻りの平削り盤と、小さな機械向けに静かで速い「マングル車」(ピンの歯車の内側と外側を小歯車が行き来して往復を切り替える)式の平削り盤を作っていました[1]。
平面のコストが 100 分の 1 に
1856 年、Whitworth は機械技術者協会の会長講演で、30 年前は鋳鉄の平面を手で正しく仕上げるのに 1 平方フィート 12 シリングの労賃がかかったが、いまは平削り盤で 1 ペンス足らずだと述べました。1 シリングは 12 ペンスですから、労賃は 100 分の 1 以下です。代わりに、職人 1 人の道具は数シリングで済んだのに、平削り盤には 1 人あたり 500 ポンド以上の資本が要るようになり、高い機械を遊ばせないために交代勤務が始まったとも話しています[10]。工作機械が「人の技能」を「機械と資本」に置き換えた様子が、この数字によく表れています。20 世紀に入ると、大物の平面は平削り盤と同じ門形・長いテーブルに回るフライスの頭を載せた平削り形フライス盤(plano-miller)へ移ります。Asquith が 1920 年に自社用に作った機械は、長さ 30 フィートのテーブルに 4 つのフライス頭を載せ、1961 年にも超硬のフライスで重い荒削りに使われていました[18]。フライス盤の歴史は第 6 章で扱います。
現場で何が変わったか。平削り盤が出ても、最後の仕上げはきさげでした。Whitworth は、研磨粉ですり合わせると削れ方を制御できないので、3 枚の面を互いに当ててきさげで仕上げるべきだと説いています[10]。今の工作機械の案内面に残るきさげの模様は、この「機械で削ってきさげで合わせる」伝統の続きです。
形削り盤・立て削り盤:小さな面とキー溝
滑車の角穴機から立て削り盤へ
歯車や車輪を軸に止めるには、穴の内側にキー溝を刻みます。昔はたがねとやすりの重労働でした。Nasmyth の自伝によると、Maudslay が Portsmouth の滑車工場のために作った木の角穴機(mortising machine、後の節)は金属にも使える原理をすべて備えていて、Richard Roberts がそれを改良して金属の車輪のキー溝を刻めるようにしました[8]。Gilbert(1966)は、Roberts が 1830 年にこの立て削り盤(スロッタ)を始めたとしています[1]。
Manchester の Science and Industry Museum には、Sharp, Roberts & Co. が 1835 年に作った立て削り盤があります。Liverpool & Manchester 鉄道の貨車の車輪にキー溝を刻んだ機械の仲間で、縦の刃物棒をはずみ車の軸のクランクで上下させ、クランクピンの位置で行程を最大 6 インチまで変えます。テーブルは回転・前後・左右に動き、傾けるとテーパの溝も削れました[1][9]。ただ、この形の機械は、工作物の半径が刃物棒から柱までの距離より大きいと入りません。Nasmyth は、どんな径の車輪にも使え、ばねのようにしなる所が無く、場所も値段も 3 分の 1 で済むキー溝の機械を自分で設計したと書いています[8]。
Nasmyth の「Steam Arm」
平削り盤は大物には便利でしたが、機械の小さな部品は、相変わらずたがねとやすりで削られていました。Nasmyth は 1836 年、平削り盤を小さな部品向けに縮めた形削り盤を作ります。自伝によると、この機械は「Nasmyth's Steam Arm」と呼ばれ、注意深い少年が 1 人で付けておけば、熟練工の手仕事に負けない部品を安く削れたといいます[8]。仕組みは、回る円盤の溝に付けたクランクピンが、刃物台を付けたラム(腕)の縦の溝を押して往復させるもので、ピンの位置で行程を変えます。工作物の台は手かつめ送りで少しずつ横へ動きます[1]。Nasmyth, Gaskell & Co. は 1856 年までに形削り盤を 236 台作りました[17]。
この形削り盤に Whitworth が早戻りの機構を足し、行きはゆっくり削り、帰りは速く戻るようにしました。この機構はいまも「Whitworth の早戻り機構」と呼ばれます[2][1]。Whitworth は大物向けに、旋盤のようなベッドの上を刃物の頭が走り、刃物がベッドの端から外へ出て働く形削り盤も作っています[19]。
現場で何が変わったか。形削り盤と立て削り盤で、ナットの六角面やキー溝のような「小さな平面」が機械で削れるようになり、部品の寸法がそろい始めました。今はキー溝はフライスやブローチ、ワイヤ放電で削ることが多いですが、穴の中の一か所だけの溝には、立て削りの考え方の工具(スロッタ工具)が今も使われています。
⚓Portsmouth の滑車工場:専用機を並べた量産の始まり
帆船には、ロープを通す木の滑車(ブロック)が大量に要ります。Roe によると、英海軍は当時、手作りの滑車を年に約 10 万個買っていて、フリゲート艦 1 隻で約 1,500 個を使いました[2]。1802 年、Marc Isambard Brunel が滑車を機械で作る計画を出し、海軍工事監督の Samuel Bentham の推薦で海軍本部が採用します。機械は Brunel が設計し、Henry Maudslay が作りました[1][2]。
工程ごとの専用機
この工場の新しさは、1 つの工程に 1 種類の機械を当て、工作物を順に次の機械へ回したことです。ニレの丸太を振り子形の丸のこで切り、丸のこ盤で角材にし、穴あけ機で車輪の軸の穴と、角穴の下穴を直角に 2 つあけます。次に角穴機が下穴から車輪の入る角穴を刻み、成形機が外形を削り、溝削り機がロープの溝を付けます。車輪の方は、硬い木を輪切りにし、丸めて中心に穴をあけ、軸受の金具(coak)を入れる座をフライスで削りました[1]。
機械の仕組みにも後の工作機械の部品がそろっています。角穴機は、はずみ車と軸の間に円すいクラッチとブレーキを最初期に付け、のみの往復ごとに送りねじとラチェットで滑車の胴を進め、決めた長さで自動的に送りを止めました[1][2]。成形機は、10 個の胴を 2 枚の輪の間にはさんで回し、型板に沿って刃物を動かして外形を削り、10 個を歯車で同時に 90 度ずつ割り出しました[1][2]。Roe は、加工の基準になる点を決めて全工程で守る考え方がはっきり見えると書いています[2]。
1805 年までに滑車工場は海軍の必要な滑車をすべて作り、年に約 1 万 7,000 ポンドを節約しました。熟練工 110 人分の仕事を未熟練の 10 人でこなしたとされます[1]。Roe は、1808 年に本格的に動いたときの生産を年 13 万個以上としています[2]。機械はよくできていて、いくつかは 150 年近く使われました[1]。London の Science Museum の展示室 Making the Modern World では、穴あけ機と coak 削り機を見られます[6][42]。
ただ、博物館の解説は、これほどの成功がなぜ「一品もの」で終わり、ほかの産業に広がらなかったのかを謎として挙げ、英国の工場と政府が米国式の量産に目を向けたのは 50 年以上あとだったと書いています[6]。その 50 年後の話(Enfield の小銃工場と米国の機械)は第 2 章で扱います。
蒸気ハンマ:鍛造の大きさと加減を変えた機械
蒸気ハンマは削る機械ではありませんが、大きな軸やクランクの素材を打ち出す鍛造の機械として、機械工場を支えました。それまでの水車や蒸気で持ち上げる「ティルトハンマ」は、腕の先に頭が付いたてこの形で、振れ幅が小さく、厚い物は打てませんでした[2]。
1839 年、汽船 Great Britain の設計者から、直径 30 インチの外輪軸を打てるハンマが無いという相談を受けた Nasmyth は、11 月 24 日、重いおもりを蒸気で持ち上げて案内に沿ってまっすぐ落とすハンマを手帳にスケッチしました[8][1]。船は外輪をやめてスクリューに変わり、軸は作られませんでした。その後 Nasmyth は、フランスの Le Creusot の工場で自分の構想どおりのハンマがすでに使われているのを見て、1842 年 6 月 9 日に英国特許 第 9382 号を取ります[2]。Science Museum は、Nasmyth が最初に考えた人でも最初に作った人でもなく、Le Creusot の技術者 Bourdon との間で先後の争いがあったと説明しています[13]。
最初の型は、蒸気でピストンを押し上げ、決めた高さで蒸気を抜いて頭を自分の重さで落とすものでした。1843 年に共同経営者の Robert Wilson が、頭が決めた高さまで上がると弁を切り替えて落とし、打ち終えると持ち上げに戻す自動の弁装置を考えます。やがて落ちるときにも上から蒸気を入れて勢いを足す「複動式」になりました[1]。加減がききすぎるほどきき、Nasmyth は 2.5 トンのハンマでワイングラスに置いた卵の殻だけを割って見せたといいます[8]。1857 年に Nasmyth が新しい South Kensington Museum に贈った蒸気ハンマの模型が、Science Museum の工作機械コレクションの始まりになりました[1]。
ボール盤:自動送りからラジアルボール盤へ
穴あけは、昔から機械に任せやすい仕事でした。1801 年の Soho Foundry の設備の目録にも、ボール盤が 3 台あります[1]。19 世紀の英国のボール盤の進歩は、送りの自動化と穴の位置の決め方の 2 つでした。
Nasmyth と Whitworth の自動送り
1840 年ごろの Nasmyth, Gaskell & Co. のボール盤は、2 本の柱に渡した横げたに主軸を載せ、かさ歯車で主軸を回しました。送りは手回しのねじのほか、主軸の偏心輪とつめで少しずつ送る自動送りも付いていました[1][11]。Whitworth が 1830 年代の終わりに特許を取った自動送りはもっと巧みです。主軸の上部に切ったねじに 2 つのウォーム歯車がかみ合い、ふだんは主軸と一緒に空回りしています。歯車の軸にブレーキをかけて回りを遅らせると、歯車がナットの役をして主軸が下がり、ブレーキの強さで送りを加減できました[1]。
穴の位置を型板で決める
同じ配置の穴をたくさんあけるには、位置を毎回けがいていては間に合いません。Roberts は 1848 年、時計の地板の穴を、拡大した型板の穴に案内ピンを差しながらあける機械で特許を取りました。型板と工作物はアームの上の位置で比を変えられました[1]。1855 年の Sharp と Furnival の特許は、回る刃物を往復させて長穴を削る機械で、だ円の歯車で往復の速さをそろえていました[1]。型板で位置を決める考え方は、のちのジグ(治具)とジグ中ぐり盤につながります。
Halifax のラジアルボール盤
大きく重い物は、工作物を動かして穴の位置を合わせられません。柱から出た腕(アーム)に主軸頭を載せ、腕を回して主軸頭を腕に沿って動かすラジアルボール盤なら、刃物の方が穴の位置へ行きます。英国でこの機械の産地になったのが、ヨークシャーの Halifax でした。Science Museum には 1914 年ごろの Kitchen & Wade のラジアルボール盤があります[21]。Kitchen & Wade は 1936 年に株を公開し、1959 年に工場が隣り合う Asquith に買われました[23][30]。
同じ Halifax の William Asquith は 1865 年に工場を開き、初めは旋盤・平削り盤・形削り盤など何でも作っていましたが、創業者が 1901 年に亡くなったあと、1903 年からラジアル・直立・横形のボール盤と重い横中ぐりフライス盤に絞りました。のちに Sydney Harbour Bridge の建設に使うボール盤をすべて納めたと、1961 年の業界誌は書いています。その年の工場は敷地 12 エーカー・従業員約 1,000 人で、OD 形ラジアルボール盤を月に約 30 台作り、腕の長さ 12 フィート、無垢から直径 5 インチの穴をあける機械まで並べていました。Kitchen & Wade や Drummond、形削り盤の Ormerod などと Asquith Machine Tool Corporation というグループを作り、ボール盤と中ぐり盤だけを作る工場として世界最大とうたっていました[18]。
現場で何が変わったか。ラジアルボール盤で、大きな鋳物や溶接構造の穴を、クレーンで動かさずにあけられるようになりました。日本の工場でもラジアルボール盤は長く定番で、その歩みは国産アーカイブ第 5 章の年表にあります。
ジグ中ぐり盤:Enfield に来た最初の 1 台
量産の穴あけには、ドリルを案内するブシュを正確な位置に埋めた治具(ジグ)が要ります。その治具の穴をあけるのがジグ中ぐり盤です。Science Museum には、スイスの SIP(Société Genevoise d'Instruments de Physique)が 1921 年に作った最初の工業用ジグ中ぐり盤があり、これは英国 Enfield の王立小火器工場のために作られた機械でした。SIP は 1912 年に時計の地板にけがく位置決め機を作っていて、それが工業用のジグ中ぐり盤に育ちました。その間に米国の Pratt & Whitney も 1917 年にジグ中ぐり盤を出しています[22][1]。
この機械は平削り盤のように 2 本の柱に横げたを渡し、主軸頭が横げたを左右に、テーブルが前後に動きます(能力 18×24 インチ、重さ約 2 トン)。精度の工夫が 2 つありました。1 つは送りねじの誤差の補正で、ねじごとに、顕微鏡で読む精密な尺を基準に 1cm ごとの誤差を写した金属の型板を作り、200 対 1 のてこで目盛りの副尺を回して誤差を打ち消しました。もう 1 つは、テーブルの重さでベッドがたわむのを見込んで、案内面をわずかに凸に削ってあったことです。Science Museum は、ジグ中ぐり盤は温度を一定に保った部屋に置くべき精度の機械だと説明しています[22][1]。
英国のメーカーも戦後に工具室向けのジグ中ぐり盤を作りました。1958 年、Newall はテーブル 15×20 インチ、主軸 67〜3,000 回転の 1520 形を、ジグ中ぐり盤の開発に 20 年を費やしてきた成果として広告しています[29]。
現場で何が変わったか。ジグ中ぐり盤で、治具や型の穴の位置を 1,000 分の数 mm の桁で決められるようになりました。日本にも SIP の機械が 1930 年代に入り、国産のジグ中ぐり盤の手本になっています(国産アーカイブ第 5 章)。今の位置決めの精度の考え方はマシニングセンタの解説もどうぞ。
ブローチ盤:一度通すだけの加工
ブローチは、少しずつ高さの違う歯を何十枚も並べた長い工具で、穴に押し通すか引き通すと、最後の歯が通ったときにはキー溝やスプライン、歯車の形が仕上がっています。Science Museum の目録は、歯の切れ目を互い違いにして切りくずが詰まらないようにしていること、最後の数枚が正確な仕上げの形になっていることを説明し、この考え方は Leonardo da Vinci の図や 1729 年のスウェーデンの Polhem の時計の歯車づくりにまでさかのぼるとしています。19 世紀半ばには、「ドリフト」と呼ぶ工具を打ち込んだり押し込んだりしていました。工具が高く複雑なので、実用になったのは高速度鋼と工具研削盤がそろった 19 世紀の終わりからで、目録は今のブローチ加工を米国の Lapointe が 1902 年に工場を開いたことに始まるとしています[1]。
英国でも、Watford の Lapointe Machine Tool Co. Ltd(米国 Hudson の同名の会社を広告に併記)が、1960 年に引き力 24〜50 トン・行程 30〜78 インチの横形油圧ブローチ盤と、長さ 80 インチまでのブローチを研ぐ研ぎ盤を広告しています[34]。ブローチは研ぎ直して何度も使う工具なので、研ぎ盤とひと組で売られたのです。米国でのブローチ盤の始まりはアメリカのその他の工作機械で扱っています。
測定機とプローブ:「測る力」の英国
Whitworth の測長機:触れて測る
Whitworth は 1856 年の講演で、機械づくりの二大要素は「正しい平面」と「測る力」だと説きました。正しい平面は、3 枚の面を互いに合わせ、きさげで仕上げて作ります(1840 年に発表)。測る力の方では、目で目盛りを読むのでなく、手で触れて確かめる測定を勧めました。2 枚の平行な平面の間に物をはさみ、手でやっと感じるほどに合わせてから、面を 5 万分の 1 インチ近づけると、はっきり固くなります。Whitworth の測長機は、標準のインチ棒と測定面の間に「重力片」と呼ぶ薄い板をはさみ、板が自分の重さでちょうど落ちる所に合わせます。そこから面を 100 万分の 1 インチ近づけると、摩擦で板が落ちなくなるというのです。1 ヤードの棒では、指でちょっと触れた熱の伸びで板が止まったといいます[10]。
Whitworth は、工場では 2 フィートの物差しの線で 100 分の 1 インチに合わせるより、端の面で測る標準(端度器)で 1 万分の 1 インチに合わせる方が易しいと述べ、はめあいの仕事にはすべて端度器を使うべきだとしました[10][2]。1851 年のロンドン万国博覧会では、工作機械とともに測長機とゲージを出品しています[1]。ただ Science Museum は、1855 年の測長機(Making the Modern World に展示)について、百万分の 1 インチという主張は室温の変化を考えると誇張で、のちに国立物理学研究所(NPL)が否定したと説明しています[15]。数字には誇張があっても、「端面で測る」「温度で長さが変わる」という考え方は、今のブロックゲージとマイクロメータの基本になりました。
表面粗さ計 Talysurf
20 世紀には、寸法だけでなく面の粗さも測るようになります。Leicester の Taylor, Taylor & Hobson の Talysurf は、細い針で面をなぞり、針の上下を電気で大きく拡大してペンで記録する触針式の粗さ計です。1943 年 4 月の生産技術者協会の誌面には、戦時の工場で、重さ 1.2 トンのロールのところまで Talysurf の検出部を運び、3 点で受ける台で工作物に固定して 5 分で測った例が載っています[24]。Science Museum には 1946 年の Talysurf があります[25]。
Ferranti の三次元測定機(1959 年)
機械加工の検査は長く、定盤の上でダイヤルゲージ・ブロックゲージ・ハイトゲージを組み合わせる手間のかかる作業でした。1959 年、NC 装置を作っていた Ferranti が、座標で測る検査機(co-ordinate inspection machine)を発表します。工作物を台に置き、片持ちのはりから下がるプローブを穴の中心などに当てると、X(24 インチ)・Y(15 インチ)の位置が数字で表示されます。位置の検出は、軸ごとに付けた回折格子のモアレ縞を光電管が数える方式で、0.001 インチ(約 0.025mm)まで読めました。プローブは上下に 10 インチ動きました[32]。同じ年の Mechanical World は、この種の機械で世界最初と紹介し、値段を約 2,200 ポンドとしています[33]。モアレ縞の尺は、同社が NC の位置決めに使っていた技術で、NC 機を作る会社だからこそ測定機も作れたのです。1965 年には 500 台目が据え付けられました[35]。
Renishaw のタッチトリガープローブ(1972 年)
初期の三次元測定機のプローブは、硬い先端を穴に押し当てて手で位置を合わせるものでした。1972 年、Rolls-Royce の技術者 David McMurtry は、超音速旅客機 Concorde の Olympus エンジンの部品を検査するため、触れた瞬間に信号を出すプローブを考えます[39]。特許(英国の 1972 年 9 月 21 日の出願を優先とする米国特許 4,153,998)によると、触針は 3 つの球で決まる位置にばねで押し付けられ、球と接点で電気の回路を作っています。触針が工作物に触れてわずかに傾くと回路が切れ、その瞬間の座標を読み取ります。触針はどの向きに押されても、離れると同じ位置に戻ります[38]。
McMurtry と同僚の John Deer は 1973 年に Renishaw Electrical を登記し、三次元測定機用のプローブ TP1 を売り出しました。1977 年には工作機械に付けるプローブを出し、機械の上で工作物の位置決めと加工後の検査を自動でできるようにします[39]。
現場で何が変わったか。三次元測定機で「定盤とゲージの職人芸」だった検査が座標の数字になり、タッチプローブでそれが自動になりました。いまマシニングセンタの上で工作物の芯出しや加工後の寸法確認をするのは、この英国の 2 つの発明の続きです。測定の誤差の考え方は読みもの「測定の誤差」とゲージもどうぞ。Ferranti の NC と Renishaw の会社の歩みは第 4 章で扱います。
放電加工・超音波・トランスファーマシン・積層造形
放電加工。1954 年 7 月、英国の技術誌 The Engineer と Automobile Engineer は、Sparcatron の放電加工を紹介しました。電気の火花で金属の粒を吹き飛ばす加工で、刃物では削れず砥石でも研ぎにくい超硬合金や、焼入れしたままの鋼に、穴や型の形を彫れます。火花は一瞬で、間に流す液で冷えるので、焼入れの硬さも落ちないと説明されています。装置は Sparcatron のライセンスで Impregnated Diamond Products が作り、当時はまず、工作物を止めたまま穴や型を彫る仕事に使われていました[26][27]。
超音波加工と電解加工。Science Museum には 1957 年の超音波ボール盤があります。工具を毎秒 2 万回振動させ、研磨粉の泥で少しずつ削るので、工具が回らず、四角や異形の穴もあけられ、ガラスやセラミックスに使われました[1]。1966 年の目録は、20 世紀半ばに生まれた新しい加工として、超音波加工、電気めっきの逆の電解加工、火花で削る放電加工を並べています[1]。
トランスファーマシン。工作物を自動で次の工程へ送る機械の列(トランスファーマシン)について、Gilbert(1966)は、最初の機械が 1923〜24 年に Coventry の Morris のエンジン工場のために作られたと書いています[1]。Portsmouth の滑車工場の「工程ごとの専用機を順に並べる」考え方を、自動の搬送でつないだ形です。米国の自動車工場の展開はアメリカの大量生産の章で扱います。
積層造形。タッチプローブで始まった Renishaw は 2011 年に積層造形(3D プリンタ)の製品群を始め、測る会社が、形を足して作る機械まで手を広げました[39]。
日本とのつながり
三次元測定機。1971 年 10 月、Ferranti と東京精密(TSK)が 7 年の相互ライセンスを結びました。東京精密は Ferranti の三次元測定機と、旋盤などの工作機械のデジタル表示を、日本・中国本土・ソ連で作って売る権利を得ます。Ferranti の方は、東京精密の電子ゲージや真円度・平面度の測定器を欧州とアフリカで作り、売ることになりました。ロイヤリティは売上の 4% でした[36][37]。英国生まれの三次元測定機の技術が、日本の測定機メーカーに入った例です。その後、日本の三次元測定機は世界に広がり、1983 年には London の Science Museum が、ミツトヨの三次元測定機 FN-403 を一式収蔵しています[40]。
ジグ中ぐり盤。SIP のジグ中ぐり盤の最初の 1 台は 1921 年に英国 Enfield の王立小火器工場に納められました[22]。日本にも SIP の機械が 1937 年ごろと 1939 年に入り、国産のジグ中ぐり盤の手本になっています(国産アーカイブ第 5 章の年表)。
放電加工機。国産アーカイブの第 6 章の年表は、1955 年の『精密仕上法』によって、英国で放電加工機が商品として発表されたのを 1952 年ごろとしています。この章で確かめられた Sparcatron の記事(1953〜54 年)は、そのころの英国の放電加工の様子を伝えるものです[26]。
⑂メーカーの系図
この章の主なメーカーと工場の、確かめられた期間です。帯の色が変わるところで社名が変わります。Wilkinson は Bersham の中ぐり工場(1775〜95 年)、Maudslay の会社は Gilbert(1966)の「世紀の終わりまで続いた」に合わせて 1900 年まで、Nasmyth は本人が引退した 1856 年まで、Whitworth は本人が亡くなった 1887 年まで描きました(その先の社名の移り変わりはこの章では確かめていないので点線)。Kitchen & Wade は名前が確かめられた 1914 年ごろから、Asquith に買われた 1959 年まで、Taylor Hobson は Talysurf が確かめられた 1943 年から描いています。
見に行ける所
英国の初期の工作機械は、Science Museum Group が多く持っています。展示は入れ替わることがあり、収蔵庫にある機械は前もって申し込むと見られる場合があります。公開日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。
⌛年表
この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「p.」は本のページ、「コマ」はスキャンの通し番号(Science Museum の 1966 年の目録は印刷のページとずれるため、コマで示します)です。
蒸気機関と中ぐり盤1769〜1800 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1769年 | Smeaton がスコットランドの Carron の製鉄所に、Newcomen 機関のシリンダを削る中ぐり機を作る。中ぐり棒は片持ちで、刃物の頭の重さでシリンダの下側ばかり削れるため、90 度ずつ回して 4 回に分けて削った。それでも丸くもまっすぐにもならなかった | John Smeaton(Carron Ironworks)シリンダ中ぐり機 | [1・コマ69][2・p.2] |
| 1774年1月 | ★製鉄業者 John Wilkinson が「鋳鉄の砲を鋳て中ぐりする新しい方法」で特許を取る(1774 年 1 月 27 日)。砲を中子なしの無垢で鋳て、水車か蒸気機関で砲の方を回し、ドリルで穴をあけてから刃物を付けた中ぐり棒で仕上げる | John Wilkinson英国特許 第 1063 号 | [3][2・p.2] |
| 1775年 | ★Wilkinson が Bersham(Wrexham の近く)の工場で、太い中ぐり棒をシリンダに通して両端で支える中ぐり盤を使い、Boulton & Watt の最初のシリンダを削る。刃物の頭は棒の上を滑って送られ、棒そのものが定規になって、鋳物が曲がっていてもまっすぐで丸い穴になった | John Wilkinson(Bersham)シリンダ中ぐり盤 | [1・コマ69][2・p.11][2・p.12][4] |
| 1776年 | Matthew Boulton が、Wilkinson は直径 50 インチ(約 1.27m)のシリンダでも古いシリング銀貨の厚みほども狂わずに削ったと書く。Watt の蒸気機関が商売になったのはこの中ぐり盤のおかげだった | Boulton & Watt | [2・p.3] |
| 1795年 | Bersham の工場が閉じる。1776〜95 年の Watt のシリンダはここで鋳て削られていた。大きい方の中ぐり棒(長さ約 15 フィート・直径約 12 インチ)は他社に買われ、のちに送りねじを足されて使われ、1850 年代に Science Museum の前身へ渡った | John Wilkinson | [1・コマ70][1・コマ71][5] |
| 1795年 | Peter Ewart が Soho Foundry のために、シリンダを吊って縦に削る立て中ぐり盤を設計する(作られず、横形が作られた) | Boulton & Watt(Soho Foundry)立て中ぐり盤の設計 | [1・コマ71] |
| 1798年 | William Murdock の設計の横形シリンダ中ぐり盤が Soho で使われ始め、最初に直径 64 インチのシリンダを削る。1801 年の Soho の設備の目録にはボール盤 3 台・ラップ盤 1 台・旋盤 10 台がある | Boulton & Watt(Soho Foundry)横形シリンダ中ぐり盤 | [1・コマ13] |
| 1800年ごろ | 中ぐり棒の中のねじで刃物の頭を送る「ねじ送り」が Soho で使われ始めたとされる(Murdock とも George Wright ともいわれる)。重りとラックの送りより一定の送りになった | Boulton & Watt(Soho Foundry) | [1・コマ72] |
滑車工場と平削り盤の始まり1800〜1834 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1802年 | Brunel が海軍の滑車(ブロック)を機械で作る計画を出し、海軍工事監督の Samuel Bentham の推薦で海軍本部が採用する。海軍は手作りの滑車を年に約 10 万個買っていた | Marc Isambard Brunel・Samuel Bentham | [1・コマ131][2・p.25][2・p.28] |
| 1802年 | Billingsley が立て形のシリンダ中ぐり盤で特許を取り、作る。縦に置くと重さでシリンダも中ぐり棒もたわまず、切りくずは下へ落ちる | Michael Billingsley立て中ぐり盤 | [1・コマ72] |
| 1803年 | Portsmouth の滑車工場の角穴機。クランクで上下するのみで、ドリルで下穴をあけた滑車の胴に車輪の入る角穴を刻む。円すいクラッチとブレーキを最初期に備え、胴は送りねじとラチェットで 1 行程ごとに進んだ速さは Roe が「毎分 150 行程」、Gilbert(1966)が「毎分 400 回以上」と書く | Henry Maudslay(Brunel 設計)滑車工場の角穴機(mortising machine) | [1・コマ132][2・p.30] |
| 1804年 | 滑車の胴 10 個を 2 枚の輪の間にはさんで回し、型板(テンプレート)に沿って刃物を動かして外形を削る。10 個は歯車で同時に 90 度ずつ割り出された | Henry Maudslay(Brunel 設計)滑車の胴の成形機(shaping engine) | [1・コマ133][2・p.30] |
| 1805年 | ★滑車工場が海軍の必要な滑車をすべて作るようになり、年に約 1 万 7,000 ポンドを節約した。熟練工 110 人分の仕事を未熟練の 10 人でこなしたとされる。機械は 22 種 45 台(Roe は 44 台)で、Maudslay が作ったRoe は 1808 年に本格的に動き年 13 万個以上を作ったと書く | Portsmouth 海軍工廠の滑車工場 | [1・コマ131][2・p.29][2・p.31][6] |
| 1806年 | 海軍の技術者 Simon Goodrich が、ロシアへ送る機械として Leeds の Murray & Wood のシリンダ中ぐり盤やボルトのねじ切り機、Derby の Fox の大形の中ぐり・ねじ切り旋盤や歯車の割り出し機を買う話を記録する。工作機械が売り物になり始めていた | Murray & Wood・Fox | [1・コマ13] |
| 1814年ごろ | 繊維機械を作っていた Fox が平削り盤を作る。刃物台の自動送りと、3 つのかさ歯車で往復を切り替える自動の反転装置を持ち、1859 年まで使われていた | James Fox(Derby)平削り盤 | [2・p.53][2・p.54][1・コマ12] |
| 1814年 | 蒸気機関の D 形すべり弁の平面を削る平削り盤が Leeds の Murray の工場で使われていたと、当時働いた人が証言している。特許を取らず、鍵のかかった小部屋に隠していた | Matthew Murray(Leeds)平削り盤 | [2・p.55][1・コマ12] |
| 1817年 | ★Roberts が平削り盤を作る。いま残る最古の平削り盤で、ベッドにはたがねとやすりの跡が残る。テーブル(長さ 52 インチ・幅 11 インチ)を鎖とドラムで手で往復させ、刃物は戻りのとき跳ね上がるちょうつがいの押さえで持った | Richard Roberts(Manchester)平削り盤 | [1・コマ77][2・p.51][7] |
| 1821年 | Fox がレース機械の棒を削るため、長さ 10 フィート 6 インチまで削れる平削り盤を作る。前年には George Rennie が、ねじで動くテーブルと回る刃物の平削り盤を作っていた | James Fox・George Rennie大形の平削り盤 | [2・p.51][2・p.52] |
| 1825年 | Clement が 6 フィート四方の物まで削れる大形の平削り盤を作る。行きと帰りの両方で削る 2 本の刃物を持ち、テーブルはころの上を走った。手回しで、10 年以上この大きさの唯一の機械として 1 平方フィート 18 シリングで削りを請け負い、Clement の主な収入になったGilbert は 1825 年とする。Roe は最初の平削り盤を 1820 年、大形機をその数年後とする | Joseph Clement(London)大形平削り盤 | [1・コマ12][1・コマ13][2・p.52] |
| 1829年 | Fox が Goodrich に送った価格表に、平削り盤 5 種類と旋盤 7 種類が並ぶ。平削り盤が大きさごとの既製品になっていた | Fox(Derby) | [1・コマ13] |
| 1830年 | Roberts が、車輪の穴にキー溝を刻む立て削り盤を始める。Portsmouth の滑車工場の角穴機から生まれたと Nasmyth も Gilbert も書く | Richard Roberts立て削り盤(スロッタ) | [1・コマ12][8・p.410] |
Manchester の工作機械と測る技術1835〜1864 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1835年 | Sharp, Roberts & Co. の立て削り盤。Liverpool & Manchester 鉄道の貨車の車輪のキー溝を刻んだ。クランクの腕の長さで行程(最大 6 インチ)を変え、テーブルは回転・前後・左右に動き、傾けてテーパの溝も削れた | Sharp, Roberts & Co.(Manchester)立て削り盤 | [1・コマ79][9] |
| 1835年 | Whitworth が平削り盤の特許を取る(改良を含め 1835〜39 年)。行程の終わりに刃物台がくるりと向きを変え、行きも帰りも削る。工場では流行歌にちなんで「Jim Crow」と呼ばれた | Joseph Whitworth(Manchester)平削り盤(Jim Crow) | [1・コマ13][1・コマ77] |
| 1836年 | ★Nasmyth が、平削り盤を小さな部品向けに縮めた形削り盤を作る。刃物を付けたラムをクランクで往復させ、工作物の台を少しずつ横へ送る。部品の平面・キー溝・ナットの面をやすりなしで削れるようにしたRoe は「Steel Arm」と書くが、Nasmyth 自身の自伝と Gilbert は「Steam Arm」 | James Nasmyth形削り盤「Nasmyth's Steam Arm」 | [8・p.415][1・コマ79][2・p.92] |
| 1836年 | Nasmyth が Manchester 郊外の Patricroft に Bridgewater Foundry を建てる。鉄道と運河にはさまれた場所で、Holbrook Gaskell と組んで工作機械と機関車を作った | Nasmyth, Gaskell & Co. | [2・p.91][2・p.92] |
| 1837年(1839年説も) | Whitworth がボール盤の自動送りで特許を取る。主軸のねじにかみ合うウォーム歯車の軸にブレーキをかけると、歯車がナットになって主軸が下がる仕組みGilbert(1966)は目録の項目で 1837 年、序論で 1839 年と書く | Joseph Whitworthボール盤の自動送り | [1・コマ73][1・コマ14] |
| 1838年 | Nasmyth の設計の立て形シリンダ中ぐり盤が Woolwich の海軍工廠に据えられる。直径 6 フィートの船用機関のシリンダを床に固定し、直径 16 インチの中ぐり棒の中のねじを遊星歯車でゆっくり回して刃物を下ろした | Nasmyth, Gaskell & Co.立て形シリンダ中ぐり盤 | [1・コマ71][1・コマ72] |
| 1839年11月 | 汽船 Great Britain の直径 30 インチの外輪軸を打てるハンマが無いという相談を受け、Nasmyth が 11 月 24 日に蒸気ハンマを手帳にスケッチする。重いおもりを蒸気で持ち上げ、案内に沿って落とす | James Nasmyth蒸気ハンマ(構想) | [8・p.240][2・p.93][1・コマ25] |
| 1840年 | Whitworth が Glasgow の英国学術協会で、正しい平面の作り方を発表する。3 枚の面を互いに合わせ、研磨粉ですり合わせず、きさげで仕上げるのが要点だった | Joseph Whitworth | [10・p.42][2・p.100] |
| 1840年ごろ | Nasmyth, Gaskell & Co. が、2 本の柱と横げたに主軸を載せたボール盤を作る。主軸の送りは手回しのねじのほか、偏心輪とつめで送る自動送りも付いた | Nasmyth, Gaskell & Co.門形のボール盤 | [1・コマ72][1・コマ73][11] |
| 1841年 | Buchanan の機械の本(1841 年)が描いた工作機械 54 台のうち 21 台が Nasmyth の機械だった | Nasmyth, Gaskell & Co. | [1・コマ13] |
| 1842年 | いま Science Museum にある Whitworth の平削り盤。ベッドの中央のねじでテーブルを動かし、テーブルの止め金がラック棒を押すたびに、ベルトで刃物台を反転させ横送りも進める | Joseph Whitworth & Co.Jim Crow 平削り盤 | [12][1・コマ77] |
| 1842年6月 | ★フランスの Le Creusot で自分の構想どおりの蒸気ハンマがすでに使われているのを見た Nasmyth が、2 か月後の 6 月 9 日に特許を取る。どちらが先かは Bourdon との争いになった | James Nasmyth蒸気ハンマ 英国特許 第 9382 号 | [2・p.95][2・p.96][13] |
| 1843年 | 共同経営者の Robert Wilson が、ハンマの頭が決めた高さまで上がると弁を切り替えて落とし、打ち終えると次の持ち上げに戻す自動の弁装置を考える。同じ年に最初のハンマが完成した | Nasmyth, Gaskell & Co.蒸気ハンマの自動弁 | [1・コマ24][13] |
| 1846年 | Whitworth の自動送りを付けたボール盤(Science Museum 蔵)。テーブルは T 溝付きで、回転と横移動ができたScience and Industry Museum は同社の最初の動力ボール盤を 1847 年とする | Joseph Whitworth & Co.自動送りのボール盤 | [1・コマ73][14] |
| 1848年 | Roberts が、拡大した型板の穴に案内ピンを差して、時計の地板に同じ配置の穴を次々あける穴あけ機で特許を取る。型板と工作物の比はアームの上の位置で変えた | Richard Roberts時計の地板の穴あけ機 | [1・コマ73] |
| 1851年 | ロンドン万国博覧会で Whitworth が工作機械の第一人者となる。旋盤・平削り盤・形削り盤・立て削り盤・ボール盤・パンチ・せん断機・歯切り盤など 23 点と測長機・ゲージを出品した(ほかの 20 社は 1〜3 点ずつ) | Joseph Whitworth & Co. | [1・コマ13][1・コマ14][15] |
| 1855年 | 標準のインチ棒を比べる Whitworth の測長機(Science Museum 蔵)。100 万分の 1 インチまで分かると Whitworth は主張したが、博物館は室温の変化を考えると誇張で、国立物理学研究所(NPL)が否定したと説明している。同じころ工場向けの測長機も作った | Joseph Whitworth & Co.百万分の 1 インチの測長機 | [15][16] |
| 1855年 | 回る刃物を長穴の長さだけ往復させて長穴を削る機械の特許。だ円の歯車でクランクの回り方を変え、往復の速さをそろえた | T. B. Sharp・R. Furnival長穴あけ機 | [1・コマ73][1・コマ74] |
| 1856年 | ★Whitworth が機械技術者協会(IMechE)の会長講演(Glasgow)で、正しい平面と測る力を機械づくりの二大要素と説き、手で触れる「端度器」の測定で 100 万分の 1 インチが分かる測長機を見せる。30 年前は手で 1 平方フィート 12 シリングかかった平面が、平削り盤で 1 ペンス足らずになったとも述べた | Joseph Whitworth | [10・p.42][10・p.43][10・p.48][2・p.101] |
| 1856年 | Nasmyth が事業から引退する。同社はこの年までに形削り盤を 236 台作っていた | Nasmyth, Gaskell & Co. | [17][2・p.97] |
| 1857年 | Nasmyth が蒸気ハンマの動く模型を新しい South Kensington Museum に贈る。これが Science Museum の工作機械コレクションの始まりになった | James Nasmyth | [1・コマ6][1・コマ24] |
| 1862年 | ロンドン国際博覧会でも、工作機械の出品 60 社の中で Whitworth が第一人者で、工作機械の場所の 4 分の 1 を占めた | Joseph Whitworth & Co. | [1・コマ14] |
専業メーカーと 20 世紀の専用機1865〜1953 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1865年 | カナダの金鉱から戻った William Asquith が、Halifax の東の Highroad Well に小さな工作機械工場を開く。初めは旋盤・平削り盤・立て削り盤・形削り盤・フライス盤・ねじ切り盤・ボール盤を作り、鉄道工場・海軍工廠・政府の工場に納め、米国にも輸出した | William Asquith(Halifax) | [18] |
| 1865年ごろ | 旋盤のようなベッドの上を刃物の頭が走る、大物向けの Whitworth の形削り盤。工作物を載せる台が無く、刃物がベッドの端からはみ出して働いた | Joseph Whitworth & Co.形削り盤 No.298 | [19] |
| 1886〜1930年 | Manchester 近郊の George Richards の万能機。基本は中ぐり盤で、1 回の段取りで穴あけやフライス削りまで済ませられ、主軸の速さは 48 段あった | George Richards & Co.(Broadheath)万能の正面削り・中ぐり・穴あけ・フライス盤 | [20] |
| 1903年 | 創業者が 1901 年に亡くなったあと、息子と甥が、ラジアル・直立・横形のボール盤と重い横中ぐりフライス盤に絞る方針を決める。のちに Sydney Harbour Bridge の建設に使うボール盤をすべて納めた | William Asquith Ltd | [18] |
| 1914年ごろ | Halifax の Kitchen & Wade のラジアルボール盤(Science Museum 蔵)。柱から出た腕の上を主軸頭が動き、重い工作物を動かさずに穴の位置へ刃物を持っていく | Kitchen & Wade(Halifax)ラジアルボール盤 | [21] |
| 1920年 | Asquith が自社用に作った平削り形のフライス盤。平削り盤と同じ門形・長いテーブル(30 フィート×7 フィート)に回るフライスの頭を 4 つ載せ、1961 年にも超硬のフライスで重い荒削りに使われていた | William Asquith Ltd平削り形フライス盤(plano-miller) | [18] |
| 1921年 | ★スイスの SIP が作った最初の工業用ジグ中ぐり盤が、Enfield の王立小火器工場に納められる。送りねじの誤差を型板で補正し、テーブルの重さのたわみを見込んで案内面をわずかに凸にしてあった。いま Science Museum にある | Société Genevoise d'Instruments de Physique(SIP)ジグ中ぐり盤 | [22][1・コマ75][1・コマ16] |
| 1923〜24年 | Gilbert(1966)は、最初のトランスファーマシンが Coventry の Morris のエンジン工場のために作られたと書く | Morris Engines(Coventry)トランスファーマシン | [1・コマ17] |
| 1933年 | Royal Mint(造幣局)で使われていた Nasmyth の高さ 10 フィート 9 インチの蒸気ハンマが Science Museum に移る | James Nasmyth & Co. | [13][1・コマ25] |
| 1936年6月 | Halifax のボール盤メーカー Kitchen and Wade が、ボール盤の事業を引き継ぐ株式会社として株を公開する。利益(償却前)は 1934 年の 8,676 ポンドから 1936 年の 2 万 8,074 ポンドに伸びていた | Kitchen & Wade(Halifax) | [23] |
| 1943年4月 | ★生産技術者協会の誌面で、戦時の工場が Taylor, Taylor & Hobson の触針式の表面粗さ計 Talysurf を、重いロールのところまで運んで測った例が紹介される。触針の上下を電気で拡大し、ペンで記録した | Taylor, Taylor & Hobson(Leicester)Talysurf 表面粗さ計 | [24][25] |
放電加工・三次元測定機・プローブ1954 年〜
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1954年7月 | ★英国の技術誌が Sparcatron の放電加工を紹介する。刃物では削れない超硬合金や焼入れ鋼に、火花で穴や型の形を彫る。装置は Sparcatron のライセンスで Impregnated Diamond Products が作ったSparcatron Ltd の設立は、米国の業界誌 Steel の 1952 年の索引に記事がある(6 月 16 日号) | Sparcatron LtdSparcatron 放電加工装置 | [26][27][28] |
| 1957年 | 工具を毎秒 2 万回振動させ、研磨粉の泥で削る超音波ボール盤(Science Museum 蔵)。工具が回らないので四角や異形の穴もあけられ、ガラスやセラミックスに使われた | —超音波ボール盤 | [1・コマ76][1・コマ17] |
| 1958年9月 | Newall が中形のジグ中ぐり盤 1520 形(テーブル 15×20 インチ、主軸 67〜3,000 回転)を工具室向けに売り出す。広告は、ジグ中ぐり盤の開発に 20 年を費やしてきたとうたう | Newall1520 形ジグ中ぐり盤 | [29] |
| 1959年2月 | 工場が隣り合う Asquith Machine Tool が、配当を上げて抵抗した Kitchen and Wade の買収を、株主の 6 割を超える応諾で決める。機械化した鋳物工場の余力を生かし、生産をまとめるのが狙いだった | Asquith Machine Tool・Kitchen & Wade | [30][31] |
| 1959年8月 | ★Ferranti が座標で測る検査機を発表する。片持ちのはりから下がるプローブを穴の中心に当てると、回折格子のモアレ縞を光電管が数え、X(24 インチ)・Y(15 インチ)の座標を 0.001 インチまで数字で示した。定盤とダイヤルゲージ・ブロックゲージ・ハイトゲージの検査を置き換えるMechanical World は「この種の機械で世界最初」と書く(誌面の表現)。値段は約 2,200 ポンド | Ferranti三次元測定機(co-ordinate inspection machine) | [32][33] |
| 1960年3月 | Watford の Lapointe(米国 Hudson の同名の会社を併記)が、引き力 24〜50 トン・行程 30〜78 インチの横形油圧ブローチ盤と、ブローチの研ぎ盤を広告する。同じ誌面で Kearns は工具室用の横中ぐり盤に光学式の座標読み取り Optimetric を標準で付けると広告した | Lapointe Machine Tool Co. Ltd(Watford)横形油圧ブローチ盤 | [34] |
| 1961年11月 | 業界誌が Asquith の工場を紹介する。敷地 12 エーカー・従業員約 1,000 人、OD 形ラジアルボール盤を月に約 30 台、270 トンを超えるラム形横中ぐりフライス盤も作り、ボール盤・中ぐり盤だけを作る工場として世界最大とうたった。Kitchen & Wade や Drummond、Ormerod(形削り盤)などとグループを作っていた | William Asquith Ltd | [18] |
| 1965年 | Ferranti の三次元測定機の 500 台目が据え付けられる(業界誌の索引による) | Ferranti | [35] |
| 1971年10月 | ★Ferranti と東京精密が 7 年の相互ライセンスを結ぶ。東京精密は Ferranti の三次元測定機と工作機械のデジタル表示を、日本・中国本土・ソ連で作って売る権利を得、Ferranti は東京精密の電子ゲージや真円度・平面度の測定器を欧州・アフリカで扱う | Ferranti・東京精密(TSK) | [36][37] |
| 1972年9月 | ★Rolls-Royce の McMurtry が、Concorde の Olympus エンジンの部品を検査するために触れると信号を出すプローブを考え、英国で出願する(9 月 21 日を優先日とする米国特許 4,153,998、1979 年成立)。3 つの球で決まる位置に触針を戻し、触針が動くと接点の回路が切れる | Rolls-Royce(David McMurtry)タッチトリガープローブ | [38][39] |
| 1973年 | McMurtry と John Deer が Renishaw Electrical を登記し、三次元測定機用のプローブ TP1 を売り出す | Renishaw Electrical LtdTP1 | [39] |
| 1977年 | Renishaw が工作機械に付けるプローブを出し、機械の上での段取り(工作物の位置決め)と加工後の検査を自動にできるようにする | Renishaw工作機械用プローブ | [39] |
| 1983年 | Science Museum がミツトヨ(広島で作られた)の三次元測定機 FN-403 一式を収蔵する。英国で生まれた三次元測定機が、日本製の機械で博物館に入った | ミツトヨ三次元測定機 FN-403 | [40] |
| 1988年ごろ | Bersham で、Wilkinson の 1780 年代の砲の中ぐり工場の跡が掘り出され、記録される | John Wilkinson(Bersham) | [41] |
| 2011年 | Renishaw が積層造形(3D プリンタ)の製品群を始める。プローブの会社が、削る前と後の測定から、形を足して作る機械まで手を広げた | Renishaw | [39] |
よくある質問
- Wilkinson の中ぐり盤は何が新しかったのですか?
- 太い中ぐり棒をシリンダの中に通し、棒の両端を軸受で支えたことです。それまでの Smeaton の機械は棒が片持ちで、刃物の重さで穴が下へずれ、鋳物の曲がりに引きずられました。Wilkinson の機械では棒が定規になり、刃物の頭が棒に沿って送られるので、鋳物が曲がっていても丸くまっすぐな穴になりました。1775 年から Watt の蒸気機関のシリンダを削り、蒸気機関の実用化を支えました。
- Whitworth の「Jim Crow」とは何ですか?
- 1835 年に特許を取った Whitworth の平削り盤の呼び名です。行程の終わりに刃物台がくるりと向きを変え、テーブルの行きも帰りも削れるようにしたもので、流行歌の歌詞にちなんで工場でこう呼ばれました。ただ仕組みが複雑で広まらず、のちには一方向で削ってテーブルを速く戻す早戻り式が普通になりました。
- 形削り盤を考えたのはだれですか?
- 英国の James Nasmyth が 1836 年に、平削り盤を小さな部品向けに縮めた形削り盤を作りました。本人の自伝では「Nasmyth's Steam Arm」と呼ばれています。刃物を付けたラムをクランクで往復させ、工作物を少しずつ横へ送る仕組みで、のちに Whitworth が早戻り機構を足しました。
- 三次元測定機とタッチプローブはどこで生まれたのですか?
- どちらも英国です。1959 年に Ferranti が、回折格子のモアレ縞で位置を数える座標検査機(三次元測定機)を発表しました。1972 年には Rolls-Royce の David McMurtry が、Concorde のエンジンの部品の検査のために、触れた瞬間に信号を出すタッチトリガープローブを考え、1973 年に Renishaw を起こして製品にしました。
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出典
本は Internet Archive のスキャンで、業界誌(The Engineer、Machinery、Mechanical World、生産技術者協会誌、Automobile Engineer、Financial Times)は各号の本文で、特許は特許庁の要約集と特許の原本で、博物館の収蔵品は Science Museum Group の収蔵品の記録で、2026 年 10 月に確かめました。「コマ」はスキャンの通し番号です。「最初」「世界初」は、本文で「〜とする」「〜と紹介する」と書いたものは、その資料自身の記述です。特許の年(出願・成立)と製品の年(発表・出荷)は 1〜数年ずれることがあるので、本文で書き分けています。
- K. R. Gilbert『The Machine Tool Collection: Catalogue of Exhibits with Historical Introduction』Science Museum / HMSO(1966)※番号はスキャンのコマコマ 6・12・13・14・16・17・24・25・69・70・71・72・73・74・75・76・77・79・131・132・133
- Joseph W. Roe『English and American Tool Builders』Yale University Press(1916。スキャンは 1926 年の再版)p. 2・3・11・12・25・28・29・30・31・51・52・53・54・55・91・92・93・95・96・97・100・101
- 英国特許庁『Patents for Inventions. Abridgments of Specifications relating to Fire-arms and other Weapons, Ammunition, and Accoutrements』(1859)p.29「1774 年 1 月 27 日 第 1063 号 John Wilkinson」
- Science Museum Group「Model, scale 1:12 of Bersham boring mill 1775」(収蔵番号 1927-985)
- Science Museum Group「Cast iron boring bar and boring head」John Wilkinson, Bersham, c.1775(収蔵番号 1913-172)
- Science Museum Group「Boring machine, Yard No. 642」Henry Maudslay, 1804〜1807(Portsmouth の滑車工場の機械、収蔵番号 1948-142)
- Science Museum Group「Planing machine」Richard Roberts, Manchester, 1817(収蔵番号 1860-59)
- James Nasmyth(Samuel Smiles 編)『James Nasmyth, Engineer: An Autobiography』John Murray(1883)p. 240・410・415
- Science Museum Group「Slotting machine」Sharp Roberts & Co., Manchester, 1835(収蔵番号 Y1970.44)
- Joseph Whitworth『Miscellaneous Papers on Mechanical Subjects』Longman(1858)所収「Address to the Institution of Mechanical Engineers, Glasgow, 1856」p. 42・43・48
- Science Museum Group「Drilling machine for hand or power automatic feed」Nasmyth, Gaskell & Co., c.1840(収蔵番号 1899-9)
- Science Museum Group「Whitworth's self-acting screw feed reversing tool box planing machine, 1842」(収蔵番号 1908-20)
- Science Museum Group「Nasmyth's Steam Hammer」1845〜1855、Royal Mint で 1933 年まで使用(収蔵番号 1933-520)
- Science Museum Group「Whitworth Pillar Drilling Machine」c.1860(収蔵番号 Y1974.41)
- Science Museum Group「Micrometer type mechanical comparator」Whitworth の百万分の 1 インチの測長機, 1855(収蔵番号 1919-265)
- Science Museum Group「Measuring machine」Joseph Whitworth & Co., c.1855(工場用の測長機、収蔵番号 Y1971.29)
- Science Museum Group「Shaping machine for hand」Nasmyth Gaskell & Co., c.1850(収蔵番号 1899-8)
- Machinery 99 巻(1961 年 11 月 22 日号)p.1195・1202「Machine Tool Building in Britain—2:William Asquith, Ltd., Highroad Well Works, Halifax」
- Science Museum Group「Whitworth Shaping Machine No. 298」c.1865(収蔵番号 Y1977.76)
- Science Museum Group「Universal Facing, Boring, Drilling and Milling Machine」George Richards & Co., Broadheath, 1886〜1930(収蔵番号 Y2005.34)
- Science Museum Group「Kitchen and Wade radial drill, c. 1914」(収蔵番号 1981-774)
- Science Museum Group「First jig boring machine」Société Genevoise d'Instruments de Physique, 1921, Royal Small Arms Factory(Enfield)向け(収蔵番号 1961-129)
- The Economist 第 123 巻 4842 号(1936 年 6 月 13 日)新規公開の一覧「Kitchen and Wade, Ltd.」
- Journal of the Institution of Production Engineers 22 巻 4 号(1943 年 4 月)p.152〜153「High Speed in the War Time Production Shop」
- Science Museum Group「Taylor-Hobson 'Talysurf' Surface Measuring Machine」1946(収蔵番号 1977-474)
- The Engineer 198 巻 5136 号(1954 年 7 月 2 日)「Machining Hard Metals with Electric Sparks」
- Automobile Engineer 44 巻 7 号(1954 年 7 月)p.294「Electric Spark Machining: The Sparcatron Process for Working Hard Materials」
- Steel 第 130 巻(1952)索引「Sparcatron Ltd.: Organized」(6 月 16 日号 p.217)
- Machinery 93 巻(1958 年 9 月 3 日号)Newall の広告「Model 1520 Jig Boring Machine」
- The Economist 第 190 巻 6027 号(1959 年 2 月 28 日)「Kitchen and Wade」
- The Engineer 第 207 巻 5390 号(1959 年 5 月 15 日)人事の記事(Kitchen and Wade と Ormerod Shapers の取締役会)
- The Engineer 208 巻 5405 号(1959 年 8 月 28 日)「Co-ordinate Inspection Machine」(Ferranti の数値制御装置の記事の中)
- Mechanical World and Engineering Record 139 巻 3485 号(1959 年 12 月)「Co-ordinate Inspection Machine」
- The Production Engineer 39 巻 3 号(1960 年 3 月)Lapointe Machine Tool Co. Ltd(Watford)と Kearns の広告
- Machinery 106 巻(1965 年)の索引「Installation of 500th Ferranti co-ordinate inspection machine」p.1335
- Financial Times 25576 号(1971 年 10 月 12 日)Export News「Double deal in Japan by Ferranti」
- Financial Times 25579 号(1971 年 10 月 15 日)Technical Page「Major market pact」
- 米国特許 4,153,998「Probes」David R. McMurtry、Rolls Royce(1971)Ltd(英国出願 43659/72 を優先、1972 年 9 月 21 日。1979 年 5 月 15 日成立)
- Renishaw「Our history」(会社の年表)
- Science Museum Group「Main measuring unit of the Mitutoyo Coordinate measuring machine」FN-403(収蔵番号 1983-1178)
- Coflein(ウェールズ王立古代・歴史建造物委員会)「Bersham Ironworks: Boring Mill」NPRN 24854
- Science Museum Group「Original coaking machine, installed at Portsmouth」Henry Maudslay, 1804(収蔵番号 1933-133)
- Wrexham County Borough Council「Discover Wrexham's industrial past on this free tour」(2019 年 5 月)
- Science Museum Group「Whitworth Planing Machine」c.1842、LNWR Crewe 工場で使用(収蔵番号 Y1966.9)