USA 01アメリカン・システムと工作機械の誕生

同じ形の部品をたくさん作り、どれを選んでも組み付けられるようにする。これを互換性(インターチェンジャビリティ)といいます。今の町工場では当たり前の考え方ですが、19 世紀のはじめには、銃 1 丁ごとに職人が部品を削り合わせるのが普通でした。アメリカは、熟練した職人が足りない国でした。そこで政府の兵器廠と銃の請負業者が、ジグ(型板)とゲージ(検査具)と専用の機械で、腕の差に頼らずに同じ部品を作る方法を何十年もかけて育てます。ヨーロッパではこれが「アメリカン・システム」と呼ばれました。倣い旋盤・フライス盤・タレット旋盤という、今も使う工作機械の多くがこの中から生まれています。この章は、1880 年の国勢調査の報告(Fitch)、Roe(1916)・Woodbury(1960)の研究書、国立公園局(NPS)の資料などで1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。

どれを選んでも
ぴったり合う。
それが互換性!

マスコットのチップス

この章は「時代の章」です。機械ごとの仕組みの移り変わりは機種の章にまとめています。倣い旋盤とタレット旋盤は第 6 章「アメリカの旋盤の系譜」、兵器廠のフライス盤と Lincoln miller は第 7 章「アメリカのフライス盤・マシニングセンタの系譜」、それ以外の機械は第 10 章で詳しく扱います。今のはめあいと公差の考え方ははめあいのページで解説しています。

銃の契約と「互換性」という考え(1785〜1815 年)

互換部品の考え方そのものは、アメリカより先にフランスにありました。1785 年、パリにいた駐仏公使 Thomas Jefferson(トーマス・ジェファーソン)は、銃の錠前(引き金と撃鉄のしかけ)の部品を 50 組ばらして混ぜても、取った順に組めばきちんと合うのを自分の手で確かめ、本国に知らせています。作ったのは Blanc という職人でした[1]。1880 年の国勢調査の報告を書いた Charles H. Fitch(フィッチ)は、フランスでは 1717 年と 1785 年に試みがあったものの、偏見と、仕組みと機械の不足で実用にならなかったとまとめています[2]。

国営兵器廠と、銃の請負

独立したばかりのアメリカは、銃を自前で作る必要がありました。1794 年 4 月の法律で国営の兵器廠を 2 か所に置くことが決まり、北は Springfield(スプリングフィールド、マサチューセッツ州)、南は Harpers Ferry(ハーパーズ・フェリー、いまのウェストバージニア州)が選ばれます。Springfield は 1795 年、40 人の職人でフランス式を写したマスケット銃を作り始めました[3]。Harpers Ferry では 1799 年に工場と水路の工事が始まり、水車の水路ができた 1801 年に、28 人の銃工がマスケット銃 293 丁を作りました[4]。国の工場だけでは足りないので、政府は民間の請負業者にも銃を注文します。

1798 年、綿繰り機の発明者 Eli Whitney(イーライ・ホイットニー)が、マスケット銃 1 万丁の契約を受けました。綿繰り機の特許は守りきれず、彼は新しい商売を探していたのです。Whitney は財務長官への手紙で、水車で動かす機械を使えば手間を大きく減らせると売り込み、New Haven(ニューヘイブン)の近くの Whitneyville に工場を建てました。ただ、機械を一から作るのに 2 年近くかかり、1 年目に納めたのは 4,000 丁の予定に対して 500 丁、契約を終えるまでに 8 年かかりました[1]。それでも政府は前金を出し続けました。

翌 1799 年には、Connecticut 州 Berlin で鎌を作っていた Simeon North(サイミオン・ノース)が騎兵用ピストル 500 丁の契約を受けます[1]。North は 1808 年の手紙で、1 人の職人を 1 つの部品だけに 2,000 個まで専念させると、手間が 4 分の 1 減り、出来もよくなると書いています。部品ごとに仕事を分け、同じ作業をくり返す。これが互換方式の土台になります。そして 1813 年、North はピストル 2 万丁の契約を結び、その中に「どの部品もほかのどのピストルにも付けられるように作る」という条項が入りました。互換性を約束した最初の政府契約とされます[1]。North はこの年に Middletown(ミドルタウン)に移り、3 階建てのれんがの工場を建てました。

Whitney の「伝説」

Whitney については、ワシントンで部品の山から無作為に選んで 10 丁の銃を組んでみせた、という有名な話があります。Jefferson も 1801 年の手紙で、Whitney の錠前は 100 個ばらして混ぜても組めると書きました[1]。Roe(ロー)の 1916 年の本はこの話を大きく取り上げ、Whitney と North の工場で互換方式が生まれたとまとめています。ところが 1960 年、MIT の Woodbury(ウッドベリー)が「Whitney と互換部品の伝説」という論文で、この評価に疑問を出しました[6]。その後の研究では、互換性が実際に達成されたのは Whitney の工場ではなく、次に見る Harpers Ferry の Hall の工場だったとみる見方が強くなっています。

この時代の「互換」はどの程度か。Fitch によれば、初期の互換性は、焼入れしたジグ(部品の形をした型板)に合わせてやすりで削るやり方に大きく頼っていました。検査もまだゆるく、ジグに沿ってやすりをかけるとやすりがすぐ傷むので費用もかさみました。互換性が本当に保たれるようになったのは、鋼の型で鍛造し、刃物そのものが形を決めるフライス削りで寸法を出すようになってからです[2]。

国営兵器廠と倣い旋盤・最初のフライス盤(1815〜1839 年)

Blanchard の倣い旋盤

銃でいちばん形が複雑なのは、木の銃床でした。1 丁ごとに手で削り、金具を合わせるので、熟練工でも 1 日に 1〜2 本しか作れませんでした[2]。Thomas Blanchard(トーマス・ブランチャード)は、まず 1818 年に Springfield で銃身の外側を削る機械を動かし、1819 年に型をなぞって同じ不規則な形を削る機械の特許を取ります[8][10]。仕組みは、鍵屋の合鍵の機械に似ています。鉄の見本(マスター)と木の材料を同じ速さでゆっくり回し、見本をなぞる案内の車の動きを、回る刃の車がそのまま材料に写します。刃が回るので、正確には「削る機械(シェーパ)」に近いと NPS は説明しています[8]。

1827 年には、切断・平らにする・銃身の溝を掘る・錠前の座を掘るなど、Blanchard の銃床の機械は 16 種類に増え、両方の国営兵器廠で使われていました。初期の機械でも 1 人 1 日 5〜6 本の銃床を作れたといいます[2]。おもしろいのは、木の加工の精度が金属の部品より先に進んでしまったことです。錠前の板の形がまだ 1 枚ずつ違ったため、Blanchard は錠前の板そのものを型にして、その形に合わせて銃床を掘る仕掛けまで作りました。Springfield では 1840 年までこの方法が続き、そのころには金属の部品のほうが銃床と同じ精度で作れるようになっていました[2][1]。現存するただ 1 台の Blanchard の機械(1822 年)が、いまも Springfield に残っています[8]。

Harpers Ferry の Hall

1819 年、後装式(銃尾から弾を込める)ライフルの特許を持つ John H. Hall(ジョン・ホール)が、1,000 丁の契約を結んで Harpers Ferry の兵器廠に入ります。古い製材所を工場にし、何年もかけて互換部品を作るための精密な機械を作りました[7]。Hall が作ったのは、落としハンマ、銃床の機械、穴あけ盤、そしてまっすぐ・てこ形・曲線を削る専用の機械で、まっすぐ削る機械は今のフライス盤の先祖の 1 つとされます[7]。1822 年 12 月、Hall は陸軍長官への手紙で、普通の工員の手で、見本どおりの全く同じ銃を経済的に作る方法を確立したと書きました[7]。

1824 年に完成した最初の 100 丁は、銃尾のすき間が「紙 1 枚なら滑るが、2 枚だと止まる」ほどに合わせてありました[1][2]。マイクロメータのない時代の、紙をすきまゲージにした合わせ方です。そして 1827 年、3 人の調査委員が、1824 年製の Hall のライフル 100 丁をばらして金属の部品を混ぜ、新しい銃床 100 本に組み直してもよく合ったと報告しました[2]。Fitch は、これが実現したのは、やすりではなく機械で削ったすべてのはめあいと型鍛造のおかげだとし、すき間は細かくないが互換性は事実だったと書いています[2]。1832 年には兵器局の Talcott 大佐が、ほとんどの作業を機械がこなし、手の仕事に頼るところはわずかだと報告しました[7]。

最初のフライス盤

回る刃物で平らな面や溝を削るフライス盤は、この時期の兵器工場で形になりました。誰が最初かははっきりしません。いま残る最古のフライス盤は Whitney の工場のものとされ、テーブルを送りねじで動かす動力送りと、削り終わると送りを外す仕掛けを持っています[9][2]。Roe はこれを 1818 年より前の機械としましたが、Woodbury はその年の根拠が百科事典の一文しかないと指摘し、「1820 年ごろ」としています。同じころ Middletown では、英国から来た Robert Johnson らの工場で手送りの小さなフライス盤が 1818 年に使われ始めたと伝わりますが、これは 1900 年に記憶から復元されたものです[9]。確かな記録としては、Whitney が 1823 年 3 月の陸軍長官への手紙でフライス削りに触れ、その時点で両方の国営兵器廠もフライス削りを使っていました[9]。

Springfield で最初のフライス盤が入ったのは 1834 年で、主軸が動かない機械でスパナを荒削りしました。翌 1835 年には Middletown から職人を呼んでフライス盤を作らせています[2]。1830 年ごろには、刃物の外形を部品の形にした総形の刃物で錠前の部品を削る方法も考えられました[2][9]。刃物の形がそのまま部品の形になるので、職人の手の差が入りません。これが、やすり仕上げから機械仕上げへの大きな一歩でした。

ゲージで検査する

部品をそろえるには、測って合否を決める道具が要ります。Roe によれば、部品をはめてみる受けゲージは 1829 年に Middletown で使われ、1840 年には Springfield でも当たり前になっていました[1]。Fitch は 1829 年ごろから検査がきびしくなり、受けゲージが使われたと書いています。1880 年の時点では、入る側と入らない側の 2 つで限界を決める限界ゲージ(通り・止まり)が普通になり、Springfield のライフル 1 丁の部品を 154 個のゲージで検査していました[2]。今のはめあいの考え方(はめあい)の原型です。

民間の兵器工場とフライス盤・タレット旋盤(1840〜1850 年)

Springfield の改革

1840 年、Springfield の Thomas Warner(トーマス・ワーナー)が、フライス盤・ジグに合わせた仕上げ・きびしい検査で互換性を保つ方式を入れます。主軸を縦の案内面に沿って上下できるフライス盤を 5 台作り、銃剣の加工をそろえて研削の手間を省きました[2][9]。1842 年には雷管式の新型マスケット銃(Model 1842)の製造が始まり、見本のジグ・タップ・ゲージが一式そろえられます[2][1]。NPS の目録は、これを機械で作った完全に互換な部品だけで組んだ最初の Springfield の銃としています[3]。ただし帳簿を見ると、焼入れ前に錠前を 10 組ずつ仮組みして印を付ける古い習慣は 1849 年まで残っていました[2]。民間でも、Ames 社の Albert Eames が 1842 年にゲージとジグをそろえ、検査のたびに 10 丁をばらして混ぜ、組み直して確かめています[2]。

Windsor の Robbins & Lawrence

この時代のもう 1 つの中心は、Vermont 州の小さな町 Windsor(ウィンザー)でした。1843 年、腕のいい銃工 Richard S. Lawrence(リチャード・ローレンス)と N. Kendall が銃の工房を開き、そこへ実業家の S. E. Robbins が政府のライフル 1 万丁の入札を持ち込みます[1]。落札した 3 人は 1846 年に 4 階建てのれんがの兵器工場を建て、新しい機械を考え、古い機械を作り替えて、互換部品を作る技術を磨きました[13]。最初の契約は 18 か月早く終わり、さらに 1 万 5,000 丁を受けます[1]。ASME(米国機械学会)はこの工場を「互換方式を実用の規模で達成した最初の機械工場」として機械遺産に選んでいます[14]。

Windsor には、Lawrence のほか、設計の Frederick W. Howe(フレデリック・ハウ)、のちにタレット旋盤を育てる Henry D. Stone(ヘンリー・ストーン)という 3 人の優れた機械屋がいました。Howe は 1848 年に同社のフライス盤と、型をなぞって部品の輪郭を削る倣いフライス盤(プロファイラ)を設計します[9][1]。1850 年に Howe が設計したフライス盤は、外に売るために作られた最初のフライス盤だったとみられ、横送りにも動力送りが付いていました[9]。兵器工場が自分で使う機械を自分で作る時代から、機械そのものを売る時代への入り口です。

タレット旋盤のはじまり

1 つの部品に、穴あけ・中ぐり・ねじ切り・突切りと何本もの刃物を順に当てるとき、普通の旋盤では刃物を付け替えるたびに位置合わせが要ります。そこで、何本もの刃物を回る台(タレット)に載せ、台を回すだけで次の刃物を同じ位置に出す工夫が生まれました。1900 年の American Machinist 誌によれば、Connecticut 州 Middlefield のピストル工場で、Stephen Fitch(スティーブン・フィッチ)が雷管の火門 3 万個を作るため、刃物 8 本を載せて自動で回るタレットの機械を自費で作り、1845 年から 1853 年まで使いました[12][1]。Fitch のタレットは軸が水平で、Colt の工場の Root も水平軸のタレットを使っていました。のちに広まる垂直軸のタレット旋盤は、1854 年に Robbins & Lawrence が売り物として作ったのが早い例で、図面は Stone が引き、Howe と Lawrence も設計に関わっています[1]。同社は 1850 年に、2 本の刃物と振れ止めを 1 つの箱に収めたボックスツールも作りました[1]。タレット旋盤のその後(自動盤・平タレット)は第 6 章で扱います。

Colt と Root

Samuel Colt(サミュエル・コルト)は 1836 年に回転弾倉式拳銃の特許を取りましたが、Paterson の最初の会社は 1842 年に閉じています[1][11]。メキシコ戦争で政府から 1,000 丁ずつ 2 回の注文を受けると、Colt は最初の分を New Haven の Whitney の工場で作らせ、製造の細部を学びました。1848 年に Hartford(ハートフォード)に移り、1849 年に、Collins 社の斧工場を近代化した Elisha K. Root(イライシャ・ルート)を高い給料で迎えます[1]。Root は型鍛造の落としハンマ、穴あけ・ライフリング・銃床の機械、そしてジグ・治具・工具・ゲージの体系を作りました。Roe は、拳銃そのものの手柄は Colt に、作り方の手柄は主に Root にあるとまとめています[1]。

万国博覧会と英国の視察、機械の輸出(1851〜1860 年)

1851 年、ロンドン

1851 年のロンドン万国博覧会(Crystal Palace)に、Robbins & Lawrence は政府向けの Mississippi rifle を互換方式で作って出品し、メダルを受けました[2][1]。Colt も拳銃を出しています[13]。部品を混ぜても組めるアメリカの銃は、英国の技術者の目を引きました。1853 年には New York の博覧会を視察に来た英国の Joseph Whitworth(ジョセフ・ホイットワース)が Springfield 兵器廠を訪ね、Blanchard 式の機械で銃床を作る工程を 1 つずつ時計で測って報告書(1854 年)に載せています[15]。Whitworth が記録したのは、1 工程ごとの分と秒です。機械ごとの作業時間を測って比べるという見方そのものが、のちの生産管理につながります。

英国の委員会と Enfield

続いて英国政府は、米国の機械を調べる委員会(Committee on the Machinery of the United States)を送ります。委員会は Colt、Springfield、Windsor の Robbins & Lawrence などを見て回り、Springfield では工場長の Ripley 少佐が、1843 年から 1853 年までの 10 年分の銃を 1 丁ずつ計 10 丁ばらし、部品を混ぜて組み直してみせました[2][1]。Fitch と Roe はこれを 1853 年と書きますが、委員会の報告書は 1855 年付けで議会に出されています[16]。視察の年は 1854 年とされることが多く、本ページの年表では「1853〜54 年」としました。

結果は大きな注文になりました。1855 年、米国の会社が英国に、互換方式の Enfield 銃 2 万丁と、兵器を作る機械一式を納めます。最初の 157 台は 4 万 4,360 ドルで、フライス盤 57 台・万能フライス盤 8 台・4 軸の穴あけ盤 12 台・ねじ切りや溝削りの専用機などでした[2]。Roe は、この一覧に旋盤がほとんどないことに目を留めています。銃の部品の多くは回転体ではなく、フライス盤と専用機で削るものだったからです[1]。機械は主に Robbins & Lawrence と Ames 社が作り、Harpers Ferry と Ames 社にいた James H. Burton(ジェームズ・バートン)が英国に渡って Enfield の国営工場の据え付けと運転を指揮しました[1][2]。Fitch は、これらの機械が英国とドイツで盛んに写されたと書いています[2]。

おもしろいことに、157 台を輸出した Robbins & Lawrence 自身は、自分たちを工作機械メーカーとは考えていませんでした。工場で使う機械はその工場で作るのが普通だったからです。それでもこの注文が、工作機械を作って売る商売の転機になったと Ashburn は書いています[21]。Robbins & Lawrence はその後、鉄道車両への手出しと、裏付けのないライフルの大口契約で経営が行き詰まり、1856 年 10 月に破産します[17]。1859 年に Windsor の工場は Lamson, Goodnow & Yale の手に渡ります。設計の Stone はそのまま残り、のちの Jones & Lamson へつながりました[1]。

Lincoln miller と Colt の新工場

1855 年、Hartford の George S. Lincoln & Co. が、F. A. Pratt(フランシス・プラット)の設計したフライス盤を Colt の新しい工場のために作ります。これが Lincoln miller です。下敷きは Robbins & Lawrence の機械で、Pratt はテーブルの送りを、重い削りの始めにびびりやすいラックとピニオンから送りねじとナットに替え、全体を頑丈で小さくまとめました[9][1]。機械そのものも最初から部品に互換性を持たせて大量に作られ、1880 年までに写しも含めて約 10 万台が作られたと Fitch は書いています(Roe は 15 万台以上)[2][1]。前年の 1854 年には Root が、主軸の先を上から腕で支えるオーバーアームをフライス盤に付けています[9]。フライス盤の構造の移り変わりは第 7 章で詳しく見ます。

Colt の Hartford の兵器工場(東工廠)は 1855 年に完成しました。Colt・Pomeroy・Root が設計し、大きな窓と換気とガス灯を備え、一時は世界最大の私設の兵器工場だったと NPS は説明しています[11]。Roe によれば、中には 1,400 台を超える機械があり、その多くを社内で設計して作り、治具と工具に機械と同じほどの費用をかけたといいます[1]。1857 年には 1 日に 150 丁の拳銃が仕上がりました[11]。この工場からは、のちに Pratt & Whitney を作る Pratt と Amos Whitney、自動盤の Spencer、鍛造の Billings、かさ歯車の Gleason などが育ちます(第 2 章)[1]。

なぜアメリカだったのか。Whitney は 1812 年の手紙で、自分の方式の狙いは「この国にはほとんどいない、長い修業で身につく職人の腕」を正確な機械の動きで置き換えることだと書きました[1]。Fitch は、互換方式の条件を「大きな需要が約束されていること」と「細かい仕事が求められること」とまとめ、それが最初にそろったのが政府の契約による銃づくりだったと説明しています[2]。職人が足りない、しかし量はまとまって必要で、注文主の政府は前金を出して何年も待ってくれる。この組み合わせが、専用機・ジグ・ゲージへの投資を割に合うものにしました。

★南北戦争と、その先へ(1861〜1865 年)

1861 年 4 月に南北戦争が始まると、Harpers Ferry の兵器廠は焼かれ、Springfield が北軍の小銃づくりを引き受けます。開戦のときに月 1,000 丁だった生産は、最盛期には1 日 1,000 丁になりました[3]。民間でも Colt が西工廠を建てて工場を倍にし、陸軍・海軍の拳銃の注文を受けます[1][11]。Colt は 1862 年 1 月に亡くなり、Root が社長として工場を率いました。1864 年 2 月には東工廠が火事で焼けています[11]。

戦争は、銃の工場の外に新しい工作機械を生みました。Springfield 式のマスケット銃を請け負った Providence Tool Company(プロビデンス)のために、Brown & Sharpe(ブラウン・アンド・シャープ)が 1861 年にタレットのねじ切り機械を作ります。同社が売り物として作った最初の工作機械とみられます[1]。さらに、銃の火門の穴をあけるドリルのねじれ溝を手のやすりで削っていた手間をなくすため、J. R. Brown が万能フライス盤を作り、1 号機を 1862 年 3 月に同社へ売りました[20][1]。ねじれ溝も歯車も不規則な形も削れるこの機械が、次の時代の主役になります(第 2 章)。Colt で働いた Christopher M. Spencer(クリストファー・スペンサー)の連発銃は、政府が約 20 万丁を買いました[1]。Spencer はのちに、カムで動く自動盤を作ります。

戦争が終わると、余った兵器と兵器工場の機械は海外へ向かいました。1880 年の報告は、英国・ロシア・プロイセン・スペイン・トルコ・スウェーデン・デンマーク・エジプトなどの政府が米国の兵器の機械を買い、日本・アルゼンチン・チリ・ペルー・メキシコなども米国から多くを得たと書いています[2]。1870 年代には Pratt & Whitney がプロイセンの Spandau・Erfurt・Danzig の兵器工場に機械を納め、プロイセン政府は「職人の腕と力から大きく自由になり、賃金が半分になった」と礼状に書きました[2]。兵器工場で生まれた互換方式は、ミシン・時計・自転車・農機へと広がっていきます。

現場で何に効くか。この時代に生まれた道具の多くは、今も形を変えて工場にあります。刃物が形を決める総形フライス、型をなぞる倣い加工(今の NC の倣いやデジタイズの先祖)、刃物を順に出すタレット、通り・止まりの限界ゲージ、部品を決まった位置に置くジグと治具。図面に公差を書き、ゲージで合否を決め、段取りを治具に任せる、という今の量産の考え方の出発点がここにあります。

⛩日本とのつながり

アメリカン・システムが育っていたころ、日本はまだ工作機械を持つ前の時代でした。1860 年(万延元年)、日米修好通商条約の批准のための遣米使節が Washington Navy Yard(ワシントン海軍工廠)に上陸し、のちに工廠の溶鉱炉などの設備を見学しています。使節は Philadelphia と New York も回りました[19]。ただ、幕末の日本に入った工作機械の早い例は、おそらくオランダ製とみられる長崎製鉄所の機械(1856 年の銘)や、1867 年に横須賀造船所が買ったフランス製の機械(Mulhouse 1866 年の銘)で、アメリカの機械ではありませんでした(国産アーカイブ第 1 章)[22]。

アメリカの兵器の機械と日本の関係を示す一次資料として、1880 年の国勢調査の報告は、日本が米国から多くの供給を受けた国の 1 つだと書いています[2]。ただし、この文が銃そのものを指すのか、銃を作る機械を指すのかははっきりせず、どの工廠にどの機械が入ったかまでは確かめられませんでした。日本の工作機械づくりがアメリカ式に大きく舵を切るのは、明治の終わりに東京高等工業学校が米国人技師フランシスを招き、池貝鉄工所が米式旋盤の量産を始めたころからです。これは第 2 章と、国産アーカイブ第 1 章「国産旋盤の系譜」で扱います。

⑂メーカーの系図

この章に出てくる主な兵器工場と工作機械の作り手の、名前の移り変わりです。帯の色が変わるところで名前が変わっています。帯の右端は、この章で確かめた時点までで、そこで会社が終わったとは限りません(Jones & Lamson・Colt のその後は第 2 章以降)。

179018301870191019501990Springfield Armory(国営兵器廠)Harpers Ferry Armory(国営兵器廠)Whitney Armory(Whitneyville)S. North(Berlin)S. North(Middletown)Ames Manufacturing Co.(Chicopee)Patent Arms Mfg.(Paterson)Colt(Hartford)Colt's Patent Fire Arms Mfg. Co.Kendall & LawrenceRobbins & Lawrence(Windsor)Lamson, Goodnow & Yale ほかJones, Lamson & Co.Jones & LamsonPhoenix Iron Works → George S. Lincoln & Co.(Hartford)帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [3][7][1][11][13]

見に行ける所

兵器廠の跡と、当時の工場の建物を使った博物館です。開館日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

Springfield Armory National Historic SiteSpringfield, Massachusetts(マサチューセッツ州)1794 年に置かれた最初の国営兵器廠の跡。現存ただ 1 台の Blanchard の銃床旋盤(1822 年)と、約 2 万丁の小銃のコレクション。ASME の機械遺産(Landmark #41)[8][10]
American Precision MuseumWindsor, Vermont(バーモント州)1846 年に建てられた Robbins & Lawrence の兵器工場の建物そのものが博物館。互換方式を実用にした工場として ASME の機械遺産(Landmark #120)。19〜20 世紀の工作機械を展示[13][14]
Harpers Ferry National Historical ParkHarpers Ferry, West Virginia(ウェストバージニア州)国営兵器廠と、John H. Hall が 1819 年から互換部品の機械を作った Hall's Rifle Works の跡(Lower Hall Island)。兵器廠は 1861 年に焼かれた[7][3]
Coltsville National Historical ParkHartford, Connecticut(コネティカット州)1855 年の Colt の兵器工場の街。青いたまねぎ形のドームの東工廠(1864 年の火事のあと再建)を外から見られる。建物は私有で、中は公開していない[11]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料が開きます。「p.」は本のページ、「コマ」は Internet Archive のスキャンの番号、「PDF p.」は国勢調査の報告の PDF のページです。

契約と互換性国営兵器廠民間工場とタレット万博と輸出南北戦争17901800181018201830184018501860179818131819182718401845185118541861黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

銃の契約と「互換性」という考え1785〜1815 年

年出来事メーカー・機種出典
1785年8月駐仏公使の Thomas Jefferson が、フランスで部品を混ぜても組み上がる小銃の錠前(Blanc の仕事)を見て本国に知らせる。互換性のある部品という考え方は、まずフランスで試されたFitch は 1717 年と 1785 年にフランスで試みがあったが実用にならなかったと書く—[1・p.129][1・p.130][2・PDF p.7]
1794年4月連邦議会の法律で国営の兵器廠を 2 か所に置くことが決まり、北は Springfield(マサチューセッツ州)、南は Harpers Ferry(いまのウェストバージニア州)が選ばれる。Springfield は 1795 年に 40 人の職人で Model 1795 マスケット銃の製造を始めるNPS の目録は 1794 年 4 月 2 日の法律、Roe は 1792 年に大統領に 2 つの兵器廠を置く権限が与えられたと書く。ここでは NPS を採った—[3][1・p.136]
1798年★綿繰り機の発明者 Eli Whitney が、政府とマスケット銃 1 万丁の契約を結ぶ。New Haven 近くの Whitneyville に水車で動く工場を建て、機械で部品をそろえる「新しい方式」を約束したEli Whitney[1・p.131][1・p.132][1・p.158]
1799年3月Connecticut 州 Berlin の鎌の職人 Simeon North が、騎兵用ピストル 500 丁の最初の政府契約を受ける。以後 1853 年まで、ピストル約 5 万丁・小銃約 3 万 3,000 丁を納めるSimeon North[1・p.162][1・p.163]
1799〜1801年Harpers Ferry の兵器廠で、1799 年に工場・水路・ダムの工事が始まる。水車を回す水路は 1801 年はじめにでき、この年 28 人の銃工がフリントロック式のマスケット銃 293 丁を作る。水路の水漏れや材料・道具の不足で、1808 年ごろまで生産は伸び悩んだSpringfield(1795 年)より 6 年遅い。生産の始まりを 1800 年とする収集家向けの本もあるが、国立公園局の報告と Satterlee・Gluckman は 1801 年の 293 丁を最初の記録とするHarpers Ferry Armory[4・p.11][4・p.14][5]
1800〜01年ごろWhitney がワシントンで、部品の山から無作為に選んで 10 丁の銃を組み立てて見せたと伝わる。Jefferson も 1801 年の手紙で、100 個の錠前の部品を混ぜても組めると書いたRoe は「おそらく 1800 年ごろ」とする。1960 年に Woodbury が、Whitney の銃の部品は実際には互換ではなかったと疑問を出し、この話は「伝説」として見直されているEli Whitney[1・p.133][1・p.135][6]
1808年North が海軍長官への手紙で、職人を 1 つの部品だけに 2,000 個まで専念させると手間が 4 分の 1 減ると書く。仕事を部品ごとに分ける考え方の早い記録Simeon North[1・p.133][1・p.134]
1811年John H. Hall が後装式(銃尾から弾を込める)ライフル銃の特許を取るJohn H. Hall[7][1・p.136]
1812年Whitney が 2 回目の政府契約(マスケット銃 1 万 5,000 丁)を受ける。最初の 1 万丁は、1 年目に 500 丁しか納められず、契約全体に 8 年かかっていたEli Whitney[1・p.159][1・p.160]
1813年★North がピストル 2 万丁の契約を結ぶ。「どの部品もほかのどのピストルに付けられること」という条項が入り、互換性を約束した最初の政府契約とされる。Middletown に 3 階建ての工場を建てるSimeon North[1・p.134][1・p.162]
1815年Roe は、この年までに Whitney と North の工場で互換方式が「よく始まっていた」とまとめる。ただし当時の互換性は、ジグ(型板)に合わせたやすり仕上げに大きく頼っていた—[1・p.136][2・PDF p.8]

国営兵器廠と倣い旋盤・最初のフライス盤1815〜1839 年

年出来事メーカー・機種出典
1818年Thomas Blanchard の最初の倣い機械(銃身の外側を削る旋盤)が Springfield 兵器廠で動き始めるFitch は 1818 年に Millbury で最初の銃床の機械が作られたと書く。NPS は 1818 年に動いていたのを銃身の旋盤とするThomas Blanchard[8][2・PDF p.18]
1818年英国から来た銃工 Robert Johnson らが 1814 年に Middletown に開いた工場で、手送りの小形フライス盤が使われ始めたと伝わる(1900 年に Parkhurst が記憶から復元した)Woodbury は、48 年後の記憶による復元なので慎重に扱うべきだとしている—[9・コマ10][9・コマ11]
1819年★Blanchard が、型(マスター)をなぞって同じ不規則な形を削り出す機械の特許を取る。銃床を機械で作れるようになり、1820 年代はじめに両方の国営兵器廠に入るThomas Blanchard[8][10][2・PDF p.18]
1819年★Hall が後装式ライフル 1,000 丁の契約を陸軍省と結び、Harpers Ferry の兵器廠の古い製材所に入る(Hall's Rifle Works)。互換部品を作る精密な機械づくりに何年もかけるJohn H. Hall[7][2・PDF p.7]
1820年ごろ★Whitney の工場のものとされるフライス盤(現存最古とされる)。テーブルを送りねじで動かす動力送りと、終点で送りを外す仕掛けを持つRoe は 1818 年より前とするが、Woodbury は Roe の年の根拠は百科事典の一文だけだとして「1820 年ごろ」とするEli Whitney[9・コマ8][9・コマ9][1・p.142][2・PDF p.30]
1822年現存するただ 1 台の Blanchard の銃床旋盤(1822 年の銘)。Springfield Armory 国定史跡で見られるFitch は「1822 年ごろ」の機械として図を載せるThomas Blanchard[8][2・PDF p.18]
1822年12月Hall が陸軍長官 Calhoun への手紙で、熟練していない普通の工員の手で、見本どおりの全く同じ銃を経済的に作る方法を確立したと書くJohn H. Hall[7]
1823年3月Whitney が陸軍長官への手紙でフライス削りを使っていると書く。この時点で Springfield と Harpers Ferry の両方の兵器廠でもフライス削りが使われていた—[9・コマ8]
1824年Hall の最初の 100 丁が Harpers Ferry で完成する。銃尾のすき間は「紙 1 枚なら滑るが 2 枚だと止まる」ほどに合わせてあったJohn H. Hall[1・p.141][1・p.142][2・PDF p.8]
1827年★3 人の調査委員の報告が、1824 年製の Hall のライフル 100 丁をばらして金属の部品を混ぜ、新しい銃床 100 本に組み直してもよく合ったと証明する。国営兵器廠での互換性の実証Woodbury(1960)はこれを互換性が実際に達成された最初の例とみるJohn H. Hall[2・PDF p.7]
1827年Blanchard の銃床の機械は 16 種類にまで増え、両方の国営兵器廠で使われる。機械化の前は熟練工 1 人が 1 日に 1〜2 本だった銃床が、初期の機械で 1 人 1 日 5〜6 本になったThomas Blanchard[2・PDF p.19]
1828年North の Hall ライフルの契約で、部品が国営兵器廠で作った銃とも互換であることが保証されるSimeon North[1・p.137]
1829年Middletown で受けゲージ(部品がはまるかを見る検査具)が使われ始めたとされる。Middletown の R. & J. D. Johnson が作った Hall ライフルは、兵器局の報告で出来がよいと書かれる—[1・p.142][2・PDF p.8]
1829年Chicopee(マサチューセッツ州)に Ames Manufacturing Company が始まる。のちに兵器と兵器を作る機械の大手になるAmes Manufacturing Company[1・p.138]
1832年兵器局の Talcott 大佐が、Hall の工場は部品のそろい方でどこよりも進み、ほとんどの作業を機械がこなしていると書くJohn H. Hall[7]
1834年Springfield 兵器廠で最初のフライス盤(主軸が固定の機械)がスパナの荒削りに使われる。1835 年には Middletown から職人を呼んでフライス盤を作らせた—[2・PDF p.30]
1836年Samuel Colt が回転弾倉式拳銃の米国特許を取り、New Jersey 州 Paterson に会社を作る(1842 年に閉鎖)Samuel Colt[1・p.166][1・p.167][11]

民間の兵器工場とフライス盤・タレット旋盤1840〜1850 年

年出来事メーカー・機種出典
1840年★Springfield 兵器廠の Thomas Warner が、フライス盤・ジグに合わせたやすり仕上げ・きびしい検査で互換性を保つ方式を入れる。主軸を縦の案内面で上下できるフライス盤を 5 台作り、銃剣の加工から研削を省いたSpringfield Armory[2・PDF p.8][2・PDF p.30][9・コマ15]
1842年★Springfield で雷管式の新型マスケット銃(Model 1842)の製造が始まる。見本のジグ・タップ・ゲージを一式そろえ、NPS は機械で作った完全に互換な部品だけで組んだ最初の Springfield の銃とするSpringfield Armory[2・PDF p.8][1・p.143][3]
1842年Ames 社の Albert Eames が、ゲージとジグをそろえて Jenks のカービン銃を互換方式で作る。検査では 10 丁をばらして混ぜ、無作為に組み直したAmes Manufacturing Company[2・PDF p.8]
1843年Vermont 州 Windsor で N. Kendall と Richard S. Lawrence が小さな銃の工房を開くKendall & Lawrence[1・p.189]
1845年★Connecticut 州 Middlefield のピストル工場で、Stephen Fitch が雷管の火門(コーン)3 万個を作るために、刃物を 8 本載せて回して使うタレット(刃物台)のねじ切り機械を自費で作る。1853 年まで使われたFitch のタレットは軸が水平。のちに一般的になる垂直軸のタレットとは形が違うStephen Fitch[12・コマ4][12・コマ5][1・p.197]
1846年★Robbins・Kendall・Lawrence が政府のライフル 1 万丁の契約を取り、Windsor に 4 階建てのれんがの兵器工場を建てる。契約を 18 か月早く終え、さらに 1 万 5,000 丁を受けるRoe は 1844 年の冬に話が始まり、1 丁 10.90 ドルで落札したと書く。建物と契約の年は APM と ASME に合わせたRobbins & Lawrence[13][14][1・p.190]
1847年メキシコ戦争で政府が Colt の拳銃を 1,000 丁ずつ 2 回注文し、最初の分は New Haven の Whitney の工場で作られる。Colt は製造の細部を学ぶSamuel Colt[1・p.137][1・p.167]
1848年Frederick W. Howe が Robbins & Lawrence のためにフライス盤と倣いフライス盤(プロファイラ)を設計する。のちの Lincoln miller の原型になったRobbins & Lawrence[9・コマ15][1・p.191][1・p.143]
1848年Colt が Hartford に移り、市の中心の小さな建物を借りて拳銃の工場を始めるSamuel Colt[1・p.167][2・PDF p.11]
1849年Colt が、Collins 社の斧工場を近代化した Elisha K. Root を工場長に迎える。Root は型鍛造の落としハンマ、穴あけ・ライフリングの機械、ジグとゲージの体系を作ったSamuel Colt[1・p.169][1・p.143]
1849年Springfield で、焼入れ前に錠前を 10 組ずつ仮組みして印を付ける習慣がなくなる。部品が焼入れ後もそのまま互換になったSpringfield Armory[2・PDF p.8]
1850年Howe が Robbins & Lawrence で設計したフライス盤は、外販用に作られた最初のフライス盤だったとみられ、横送りにも動力送りが付いた。同じ年に同社は刃物台に 2 本の刃物を持つボックスツールも作るRobbins & Lawrence[9・コマ19][1・p.197]

万国博覧会と英国の視察、機械の輸出1851〜1860 年

年出来事メーカー・機種出典
1851年★ロンドンの万国博覧会(Crystal Palace)に Robbins & Lawrence が互換方式のライフル(政府向けの Mississippi rifle)を出し、メダルを受ける。Colt も拳銃を出品したRobbins & Lawrence[2・PDF p.8][1・p.191][13]
1852年Colt の工場で Root が、2 つのタレットの間で部品を回して両端を同時に加工する機械を考えるColt[2・PDF p.32]
1852年Robertson のフライス盤。米国で最初に特許を取ったフライス盤とされ、Whitneyville の工場で使われた—[9・コマ17][9・コマ18]
1852年Howe が主軸台を上下でき、工作物を割り出し・傾けられる「万能」フライス盤を設計する。1880 年の国勢調査の報告は、20 年あまりのちに英国の雑誌が英国の設計として同じ機械を載せたと書くBrown & Sharpe が 1862 年に出した万能フライス盤とは別の機械(第 2 章)Robbins & Lawrence[2・PDF p.9][1・p.138][1・p.208]
1853年New York の万国博覧会を視察に来た英国の Joseph Whitworth が Springfield 兵器廠を訪れ、Blanchard 式の機械による銃床の加工を工程ごとに時計で測って報告書(1854 年)に載せる—[15・コマ47][15・コマ48]
1853〜54年★英国の委員会(Committee on the Machinery of the United States)が米国の兵器工場を見て回る。Springfield では 1843〜53 年の 10 年分の銃 10 丁をばらし、部品を混ぜて組み直してみせた。報告書は 1855 年に議会に出されるFitch と Roe は 1853 年と書くが、委員会の報告書(Rosenberg 1969 年の復刻)は 1855 年付け。Whitworth の訪問(1853 年)と混ざっている可能性がある—[2・PDF p.8][2・PDF p.9][1・p.138][16]
1854年垂直軸のタレット旋盤を Robbins & Lawrence が売り物として作る。Henry D. Stone が図面を引き、Howe・Lawrence も設計に関わったRobbins & Lawrence[1・p.143][1・p.197]
1854年Root がフライス盤の主軸の先を上から支える腕(オーバーアーム)を付け、片側が開いたフライス盤にするColt[9・コマ16]
1855年★米国の会社が英国に、互換方式の Enfield 銃 2 万丁と兵器を作る機械一式を納める。最初の 157 台(4 万 4,360 ドル)はフライス盤 57 台・万能フライス盤 8 台・穴あけ盤などで、旋盤はほとんど入っていなかった。Enfield の国営兵器工場が米国式に作り替えられる—[2・PDF p.9][1・p.138][1・p.140]
1855年★Hartford の George S. Lincoln & Co. が、F. A. Pratt の設計のフライス盤を Colt の新工場向けに作る(Lincoln miller)。Robbins & Lawrence の機械の送りを、びびりやすいラックとピニオンから送りねじに替えた。1880 年までに写しを含めて約 10 万台作られたとされる台数は Fitch(1880)が約 10 万台、Roe(1916)が 15 万台以上と書くGeorge S. Lincoln & Co.[2・PDF p.31][9・コマ16][1・p.165][1・p.191]
1855年Colt の Hartford の兵器工場(東工廠)が完成する。設計は Colt・Pomeroy・Root。Roe によれば 1,400 台を超える機械の多くを自社で設計して作り、治具と工具に機械と同じほどの費用をかけたRoe は 1853〜54 年に建てたと書く。NPS は最初の建物の完成を 1855 年とするColt[11][1・p.168]
1855年Harpers Ferry と Ames 社にいた James H. Burton が英国に渡り、Enfield の新しい機械の据え付けと運転を指揮する—[1・p.140][2・PDF p.13]
1856年10月英国向けの Enfield 銃 2 万 5,000 丁の請負(英国の Fox, Henderson & Co. からの下請け)と Hartford の新工場の負担が重なり、Robbins & Lawrence が 10 月 26 日に破産する。英国政府の代理人が Windsor の工場を押さえた。Roe は、続くと約束された 30 万丁の注文が実在しなかったことを破綻の原因とするRoe は「英国に機械を納めた契約が原因」という説を否定し、鉄道車両の事業の損失と、裏付けのないライフルの大口契約を挙げるRobbins & Lawrence[17・p.17][1・p.192][18]
1857年Colt の工場で 1 日に 150 丁の拳銃が仕上がるようになるColt[11]
1857年Smith & Wesson が Springfield で同じ方式の拳銃の製造を始めるSmith & Wesson[1・p.138]
1859年経営に行き詰まった Robbins & Lawrence の Windsor の工場を Lamson, Goodnow & Yale が買い、Henry D. Stone を技術の責任者に残す。のちの Jones & Lamson につながるLamson, Goodnow & Yale[1・p.192][1・p.193]
1860年Colt で働いた Christopher M. Spencer が連発銃の特許を取る。南北戦争で政府は約 20 万丁を買った。Spencer はのちにカム式の自動盤を作る(第 2 章)Christopher M. Spencer[1・p.175][1・p.176]
1860年5月日本の遣米使節(万延元年)が Washington Navy Yard に上陸し、のちに工廠の溶鉱炉などの設備を見学する—[19]

南北戦争1861〜1865 年

年出来事メーカー・機種出典
1861年Colt の工場が西工廠を建てて倍になる。陸軍・海軍の 1860 年型拳銃などの注文を受けるColt[1・p.168][11]
1861年Springfield 式マスケット銃を請け負った Providence Tool Company のために、Brown & Sharpe が Howe の設計を元にタレットのねじ切り機械を作る。同社が売り物として作った最初の工作機械とみられるBrown & Sharpe[1・p.207][1・p.196]
1861年4月★南北戦争が始まり、Harpers Ferry の兵器廠が焼かれる。Springfield が北軍の小銃づくりを一手に引き受け、開戦時に月 1,000 丁だった生産は最盛期に 1 日 1,000 丁になるHarpers Ferry Armory[3]
1862年1月Samuel Colt が亡くなり、Root が社長になる。Root は 1865 年に亡くなるまで工場を率いたColt[11][1・p.169]
1862年3月Providence Tool Company のドリルのねじれ溝を手のやすりで削る手間をなくすため、J. R. Brown が作った万能フライス盤の 1 号機が同社に売られる(第 2 章)Brown & Sharpe[20][1・p.209]
1864年2月戦争のさなかに Colt の東工廠が火事で焼け、戦後に建て直されるColt[11][1・p.168]
1865年戦争が終わり、余った兵器と兵器工場の機械が海外へ向かう。1880 年の報告は、英国・ロシア・プロイセン・スペイン・トルコ・スウェーデン・デンマーク・エジプトなどの政府が米国の兵器の機械を買い、日本なども米国から多くを得たと書く—[2・PDF p.9]

よくある質問

「アメリカン・システム」とは何ですか?
部品を専用の機械・ジグ・ゲージで同じ形にそろえ、どの部品を選んでも組み付けられるようにして(互換性)、熟練した職人の手合わせに頼らずに量産する作り方です。19 世紀の前半に米国の兵器廠と銃の請負業者が育て、1850 年代に英国が Enfield の兵器工場に取り入れたころから、ヨーロッパでこう呼ばれました。
互換部品を発明したのは Eli Whitney ですか?
昔はそう言われましたが、今は見直されています。考え方はフランスに先例があり(1785 年に Jefferson が報告)、Whitney の銃の部品が本当に互換だったかには 1960 年に Woodbury が疑問を出しました。国営兵器廠で互換性が実証された記録としては、1827 年に Harpers Ferry の John H. Hall のライフル 100 丁をばらして組み直した調査が早い例です。
最初のフライス盤は誰が作ったのですか?
はっきりしません。現存最古とされるのは Whitney の工場のフライス盤(1820 年ごろ)で、ほかに 1818 年ごろの Middletown の手送りの機械の話や、Hall の工場の「まっすぐ削る機械」があります。確かな記録は 1823 年の Whitney の手紙で、その時点で Springfield と Harpers Ferry の国営兵器廠でもフライス削りが使われていました。売り物として広く作られたのは 1855 年の Lincoln miller からです。
Blanchard の倣い旋盤は、今の加工のどこにつながっていますか?
見本(マスター)をなぞって同じ形を写すという考え方は、のちの倣い旋盤・倣いフライス盤、そして形状を測って NC のデータにするデジタイズへとつながります。もう 1 つの意味は、木の銃床という「職人の腕がいちばん要る部品」を機械で作れると示したことで、互換方式を金属の部品へ広げるきっかけになりました。

この先と関係するページ

出典

本・報告・誌面は Internet Archive・米国勢調査局・国立公園局(NPS)の公開資料で 2026 年 10 月に確かめ、使ったページを書いています。「コマ」は Internet Archive のスキャンの番号(n 番号)、国勢調査の報告は PDF のページ(報告の印刷ページ+5)です。Roe(1916)と Fitch(1880)は当時に近い記録ですが、年や「最初」の評価がのちの研究で見直されたものがあり、その場合は年表の注に書きました。日本側の出来事は国産アーカイブの出典を使っています。

  1. Joseph W. Roe『English and American Tool Builders』Yale University Press(1916。Internet Archive は 1926 年の McGraw-Hill の刷り、同じページ)p. 129・130・131・132・133・134・135・136・137・138・140・141・142・143・158・159・160・162・163・165・166・167・168・169・175・176・189・190・191・192・193・196・197・207・208・209
  2. Charles H. Fitch「Report on the Manufactures of Interchangeable Mechanism」第 10 回国勢調査(1880)第 2 巻『Manufactures』U.S. Census Office(1883)※番号は PDF のページ(報告の印刷ページ+5)PDF p. 7・8・9・11・13・18・19・30・31・32
  3. National Park Service, Springfield Armory NHS「Springfield Armory Records(SPAR 15455)」目録の沿革
  4. Allison Crosbie・Andrew Lee『Cultural Landscape Report for the United States Armory and Potomac Riverfront, Harpers Ferry National Historical Park』National Park Service(2009)p. 11・14
  5. L. D. Satterlee・Arcadi Gluckman『American Gun Makers』Otto Ulbrich(1940)※Internet Archive は貸出のみ。Harpers Ferry の 1801 年の 293 丁は全文検索の結果で確認
  6. Robert S. Woodbury「The Legend of Eli Whitney and Interchangeable Parts」Technology and Culture 第 1 巻 3 号(1960)
  7. National Park Service, Harpers Ferry National Historical Park「John H Hall」
  8. National Park Service, Springfield Armory National Historic Site「Thomas Blanchard and His Lathe」
  9. Robert S. Woodbury『History of the Milling Machine』MIT Technology Press(1960)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号。1 コマに見開き 2 ページ)コマ 8・9・10・11・15・16・17・18・19
  10. ASME「Landmark #41 Springfield Armory」(1980 年)
  11. National Park Service, Coltsville National Historical Park「The East Armory Complex」
  12. E. G. Parkhurst「Origin of the Turret, or Revolving Head」American Machinist 第 23 巻 21 号(1900 年 5 月 24 日)pp.489–490 ※番号はスキャンのコマコマ 4・5
  13. American Precision Museum「About / History」
  14. ASME「Landmark #120 Robbins & Lawrence Machine Shop」(1987 年)
  15. Joseph Whitworth『New York Industrial Exhibition: Special Report of Mr. Joseph Whitworth』英国議会提出(1854)※番号はスキャンのコマコマ 47・48
  16. Nathan Rosenberg 編『The American System of Manufactures: The Report of the Committee on the Machinery of the United States 1855, and the Special Reports of George Wallis and Joseph Whitworth 1854』Edinburgh University Press(1969)
  17. The American Rifleman 第 76 巻 9 号(1928 年 9 月)Sharps 銃と Robbins & Lawrence の記事 p.17p. 17
  18. William Hosley『Colt: The Making of an American Legend』University of Massachusetts Press(1996)※Internet Archive は貸出のみ。「1856 年に破綻」は全文検索の結果で確認
  19. Library of Congress, 4 Corners of the World(Asian Division)「Who Were the First Japanese to Visit Washington?」(2016)
  20. Nathan Rosenberg「Technological Change in the Machine Tool Industry, 1840–1910」The Journal of Economic History 第 23 巻 4 号 pp.414–443(1963)
  21. Anderson Ashburn「The Machine Tool Industry: The Crumbling Foundation」Donald A. Hicks 編『Is New Technology Enough?』American Enterprise Institute(1988)pp.19–85
  22. 日本工学会『明治工業史 機械・地学篇』(1930)