UK 02世界の工場と追い上げられる英国

1851 年、London の万国博覧会で、英国の工作機械は頂点にありました。ところが同じ会場で、部品を混ぜても組める米国の小銃が注目を集めます。数年後、英国政府は米国に人を送り、小銃を作る機械を買って、国営の Enfield 工場を米国式に作り替えました。工作機械を生んだ国が、工作機械の使い方を米国から学んだのです。この章は、それから第一次世界大戦までの 60 年あまりを追います。Manchester と Leeds の工作機械メーカー、銃から自転車へ移った Birmingham と Coventry、米国とドイツの機械の流入、そして Sheffield の鋼と高速度鋼。最後に、「英国の工作機械は本当に遅れたのか」という歴史家の議論を紹介します。議会の報告書、当時の技術誌、本人の論文、研究書で年と中身を 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。

作るのは
得意でも
使い方は米国流?

マスコットのチップス

この章は「時代の章」です。前の時代(Maudslay と Whitworth が工作機械の基本の形を作った時代)は第 1 章にあります。キャプスタン旋盤・タレット旋盤の仕組みは第 5 章「英国の旋盤の系譜」、フライス盤は第 6 章、測長機と平削り盤は第 9 章で詳しく扱います。米国側から見た 1850 年代の話はアメリカ第 1 章とアメリカ第 2 章にあります。

万国博覧会と米国の衝撃、Enfield(1851〜1857 年)

1851 年、頂点の英国

1851 年の London の万国博覧会(Crystal Palace)で、工作機械の主役は Manchester の Joseph Whitworth(ジョセフ・ホイットワース)でした。旋盤・平削り盤・形削り盤・立て削り盤・ボール盤・ねじ切りや歯切りの機械、測長機、ゲージ類まで 23 点を並べ、ほかの 20 社は 1〜3 点です[1]。Roe は、その工作機械が新しさより精度と作りの良さで「別格」だったと書いています[2]。

同じ会場に、米国 Vermont 州の Robbins & Lawrence の小銃がありました。互換方式で作った銃で、部品を混ぜても組めることが注目を集め、メダルを受けます[2]。英国の工作機械は、腕の良い職人がそれを使って何でも作れる「万能の道具」として最高でした。米国が見せたのは、一つの部品の一つの作業のために作った専用の機械を並べ、熟練に頼らず同じ物を大量に作るやり方でした。

1853 年、Whitworth の米国視察

1853 年、政府の委員として New York の博覧会に派遣された Whitworth と、Birmingham の美術学校の George Wallis は、米国の工場を回ります。Springfield の国営兵器廠では、銃床が機械でほぼ削り上がるのを工程ごとに時計で測りました[3]。1854 年の報告で Whitworth は、米国では働き手が少なく、それがかえって機械を進んで使わせ、繁栄の大きな理由になっていると書いています[2](同じ訪問はアメリカ第 1 章にも出てきます)。同じ年、Nasmyth は Enfield の小銃工場を作り直すための委員会の委員になりました[4]。

1854 年、議会の小銃特別委員会

英国の軍の小銃は、それまで Birmingham などの職人の請負で作られていました。部品ごとに別の業者に注文し、検査官がゲージで調べ、Enfield の小さな国営工場か請負業者が組み立てる仕組みです[7]。ところが 1851 年に注文した 2 万 8,000 丁の新しい小銃が届いたのは 1853 年 11 月で、ほかの注文も遅れ続けます。兵器局は、必要な小銃を 90 万丁を超えると見積もり、1 日 500 丁を作る国営工場を計画しました[7]。

1854 年 5 月 12 日付けの下院の特別委員会の報告は、その議論の記録です[7]。Woolwich の工廠の技師 John Anderson は、英国には小銃専用の機械はまだ少ないが作る力は十分あるとしつつ、まず米国の機械を買い、自分も米国に行って学びたいと証言しました[7]。Whitworth は、Springfield で銃床が 23 分で仕上がったと述べる一方、米国の銃の部品が本当に入れ替えられるかは疑問で、細かい仕上げには手仕事が要ると証言しています[7]。Nasmyth は、4 年ほど前にロシア政府に銃の部品を作る機械を納めた経験から、機械化こそが職人に頼る状態から工場主を解放すると主張しました[7]。委員会は、請負の制度は残しつつ、Enfield の国営工場を小さな規模で試すよう勧めます[7]。

委員会を米国へ、機械を Enfield へ

兵器局は、Burn 中佐・Warlow 中尉と Anderson の委員会を米国に送ります[8]。1855 年に議会に出された報告は、普通の工作機械では英国が上だが、一つの作業のための専用機では米国人の工夫に学ばなければ世界の市場での地位を守れない、と書きました[9]。銃床を型に倣って削る機械が英国でまだ使われていないことにも驚いています。この機械は米国の Ames 社から買われました[9]。

1855 年、Enfield 向けに米国から兵器を作る機械 157 台が送られます。中心はフライス盤と専用機で、Roe はフライス盤 74 台・ボール盤 23 台などと内訳を書いています[2](米国の国勢調査の報告は別の内訳を挙げる。アメリカ第 1 章)。Science Museum の目録は、英国にフライス盤が広まったのは Enfield の機械からだとしています[1]。旋盤と平削り盤の国が、回る刃物で削るフライス盤を米国から受け取ったわけです。BSA の社史によれば、Enfield は 1855 年の夏に機械での製造を始め、1856 年 4 月の講和のころには週 2,000 丁を超えました。Science Museum の目録は、719 の工程を通して週 1,200 丁としています[12][1]。Enfield に入った機械の一つ、錠前の部品を彫る専用機(1857 年)は今も同館の所蔵品です[1]。

汎用機と専用機。英国の工作機械は、腕の良い職人が段取りを工夫して何でも削る汎用機として完成していました。米国の兵器工場の機械は、決まった部品の決まった作業だけをする専用機で、治具とゲージと組み合わせて、熟練のない人でも同じ物を作れるようにしたものです。今の町工場でも、多品種少量なら汎用機と腕、同じ物をたくさんなら専用の治具・専用機・自動化、という判断は変わりません。英国と米国の違いは、技術の優劣というより、注文の大きさと人手の事情の違いでした。

世界の工場の工作機械メーカー(1856〜1879 年)

Whitworth の測長機と「端度器」

1856 年、機械学会(Institution of Mechanical Engineers)の会長になった Whitworth は、Glasgow での講演に、1/1,000,000 インチの長さの違いが分かる測長機を持ち込みました。2 枚の正確な平面の間に物をはさみ、目ではなく手ざわりで、軽く触れたところを読み取ります[13]。Whitworth は、工場では 2 フィートの物差しの線で 1/100 インチを合わせるより、端面の寸法の標準(端度器)で 1/10,000 インチを合わせるほうが楽だと説き、はめあいはすべて端面の寸法で測るべきだと主張しました[2]。翌 1857 年には、インチを十進で分けて工場の寸法をそろえることも提案しています[13]。今のブロックゲージや限界ゲージの考え方に通じる話です(今の測り方はゲージ、はめあいははめあい)。

Manchester と Leeds のメーカー

1850 年代から 1870 年代、英国の工作機械づくりの中心は、Manchester と Leeds でした。機関車・繊維機械・船の機関を作る工場が集まり、そこへ工作機械を納めるメーカーが育ちます。Leeds では、Peter Fairbairn の工場にいた Thomas Greenwood と John Batley が 1856 年に Greenwood & Batley を始めました。兵器・繊維の機械と専用の工作機械を作った会社で、残った帳簿は、のちに Floud が英国の工作機械産業を調べる中心の資料になります[14]。1878 年のパリ万博の英国の部の目録には、Sir Joseph Whitworth & Co.(Manchester)、Manchester の Gresley Iron Works の Smith & Coventry、「専用工作機械」を掲げる Greenwood & Batley などが並んでいます[15]。1862 年の London の 2 回目の国際博覧会では、工作機械を出品した会社は 60 社にふえ、Whitworth はなお区画の 4 分の 1 を占めていました[1]。

Birmingham の銃職人が機械を買う:BSA

Enfield の機械化は、Birmingham の銃職人を追い詰めました。BSA の社史によれば、Birmingham はクリミア戦争中に英国軍の小銃を 15 万 6,000 丁も作りましたが、戦後は Enfield に仕事を奪われ、「機械を買うか、廃業するか」を迫られます[12]。1861 年 6 月、Birmingham の小銃業者の集まりは、機械で銃を作る会社として Birmingham Small Arms Company(BSA)を作ることを決め、Small Heath に 25 エーカーの土地を買って工場を建てました[12][16]。最初の大口の仕事は Turkey 政府向けの Enfield 銃 2 万丁、1866 年には英国政府から前込め銃 10 万丁を後込め銃に改造する仕事を受け、夜勤を入れて週 3,000 丁以上をこなしています[12]。職人の町の銃づくりは、工場の機械の仕事に変わっていきました。

米国からの警告と、Sheffield の鋼

この時代、英国の技術者は博覧会のたびに米国の工場を見て、同じ警告をくり返しました。Rosenberg は、1867 年のパリ万博と 1876 年の Philadelphia 万博の英国の報告を挙げています。1876 年の報告で Anderson は、米国の工場の専用工具を見なければ来る競争の正体は分からない、家具・金物・時計・弾薬まで専用工具で安く良く作られ、しかも働き手の賃金は高い、と書きました[9]。

刃物の鋼では、英国が先を行っていました。1868 年、Robert Mushet が、焼入れしなくても硬くなる鋼を見つけます。効いていたのはタングステンでした。1871 年に Sheffield の Samuel Osborn が製法を引き継ぎ、「R. Mushet's Special Steel」として世界中の機械工場に広めます[17]。同社の Osborn は、Mushet 鋼で旋盤 1 台の仕事量を 2 倍、3 倍にできたと書いています[17]。米国の Taylor も、1890 年代のはじめまで Mushet 鋼は硬い材料を削るために工場に何本か置いておく特別な刃物だったと書きました[17]。この鋼が、30 年後の高速度鋼の出発点になります。

自転車と米国の機械(1880〜1899 年)

銃から自転車へ

1878 年、政府の注文が途切れた BSA の工場は 8 月から 1 年間止まります。会社は兵器以外の仕事を探し、1880 年に Otto 式の自転車 200 台を作って自転車の仕事に入りました[12]。1888 年に Lee-Metford 銃の大量注文でいったん自転車をやめますが、1893 年 11 月に自転車の部品で戻り、注文は 18 か月で 4 倍になり、1895 年 5 月には週 4,620 ポンドに達しました[12]。小銃のために整えた精密な量産の工場は、そのまま自転車の部品の工場になりました。

Alfred Herbert と Coventry

Coventry で、この自転車の波に乗って工作機械メーカーになったのが Alfred Herbert(アルフレッド・ハーバート)です。1866 年に Leicester の農家に生まれ、地元のクレーンの会社で 1881 年から 1886 年末まで見習いをしたあと、Coventry の小さな工場の支配人になり、友人の William Hubbard と工場を買い取って Herbert & Hubbard を始めました[22][21]。はじめは錠剤やリボンを作る機械を作っていましたが、自転車の流行で、自転車を作る機械に移ります。最初の自転車用の機械は磨き用の旋盤、次が簡単なボール盤、続いて背面歯車と複式刃物台の付いた旋盤でした[21]。Science Museum には、同社の 1889 年の旋盤が残っています[1]。1894 年、Hubbard が去って会社は Alfred Herbert Ltd. になり、キャプスタン旋盤(No.4)で伸びるとともに、米国の工作機械も仕入れて売るようになりました[22][21]。自分の機械に加えて米国の機械も扱ったことは、この時代の英国の工作機械づくりをよく表しています。

「米国の侵略」

1890 年代の終わり、米国の工作機械が英国に入ってきます。1901 年の McKenzie の本『The American Invaders』は、米国の工作機械は英国中で使われ、刃物の町 Sheffield でさえ米国の機械と型を使っていると書きました[24]。McKenzie によれば、きっかけは自転車ブームで、英国の会社は生産を増やすため米国の自動化された機械を取り寄せ、それを見たほかの会社にも広まりました。1897〜98 年の機械工の大争議が、米国製品が入る始まりだったとも書いています。特に強かったのはタレット旋盤と普通旋盤でした[24]。ただし McKenzie は記者で、輸入の量の数字は示していません。どれほどの量だったかは、次の節の研究で確かめられることになります。

1887 年に Whitworth が亡くなります。遺産から約 60 万ポンドが Manchester の Whitworth Institute・Owens College・技術学校などに贈られました[2]。工作機械を生んだ世代の最後の一人でした。

高速度鋼と規格(1898〜1915 年)

Mushet 鋼から高速度鋼へ

1898 年、米国 Bethlehem Steel の機械工場の立て直しに来た F. W. Taylor は、刃物の鋼の比較試験を再開し、Mushet 鋼と米国の Midvale 鋼を比べます。翌年から M. White と熱処理の実験を進め、1898〜1900 年に、クロム・タングステン鋼を融点の近くまで熱すると、ほかの刃物の 2〜4 倍の仕事ができることを見つけました[17]。1900 年のパリ万博では、Bethlehem の試験と同じ旋盤で、この「Taylor-White 処理」の刃物が高速で削る様子が公開されます[17]。Taylor は、1894 年までを炭素鋼の時代、1900 年までを Mushet などの自硬鋼の時代、それ以後を高速度鋼の時代と分けています[17]。Science Museum の目録によれば、削る速さは 1850 年の炭素鋼の毎分 40 フィート(約 12 m)から、1900 年の高速度鋼の毎分 120 フィート(約 37 m)に上がりました[1]。

Sheffield の Osborn は、1906 年の Taylor の論文の討論で、高速度鋼は Mushet 鋼の自然な延長であり、自社は Taylor-White 処理の前から高い温度での焼入れを勧めていたと反論しました[17]。1903 年には Manchester の機械技術者協会で旋盤の刃物の比較試験が行われ、Mushet 鋼を基準に新しい鋼が比べられています。Osborn はそこで、成分と同じくらい熱処理が大事だと主張しました[17]。

工具が変わると、機械が変わる。高速度鋼で削る速さが 3 倍になると、ベルトの段車で回す旋盤では力が足りず、主軸も案内面も弱すぎました。歯車で変速する主軸台と、1 台ずつの電動機、太い主軸とベッドへ。工作機械の形は、刃物の材料の進歩に押されて変わっていきます。30 年後の超硬工具でも同じことが起きました(旋盤の変化は第 5 章)。今の切削条件の考え方は切削加工のページにあります。

工業規格委員会と British Standard Whitworth

1901 年、土木・機械・造船・鉄鋼・電気の 5 つの学会が集まり、Engineering Standards Committee(工業規格委員会)を作ります。のちの British Standards Institution(BSI)の始まりで、1918 年に British Engineering Standards Association として法人になりました[25][26]。米国の標準局の資料によれば、委員会は 1905 年に Whitworth のねじを British Standard Whitworth(BSW)として規格にしました[27]。1919 年の暫定報告は、ピッチの表は Whitworth が決めたものをそのまま残すと書き、ゲージを「通り・止まり」の限界ゲージで検査し、基準のゲージは国立物理学研究所(NPL)で検定するよう定めています[26]。1841 年に一人の工作機械メーカーが提案したねじが、60 年かけて国の規格になったのです(今のねじの規格はねじ、規格の調べ方は規格)。

大戦の前夜

1910〜11 年、英国の工作機械メーカーの団体 Machine Tool Trades Association ができ、Alfred Herbert は中心の一人になります(1919〜34 年は会長)。展示会が多すぎて出展を強いられる問題を抑え、4 年に 1 度の自前の展示会にまとめることが目的の一つでした[29][30][22]。1915 年 4 月、Herbert は陸軍省に招かれて工作機械の生産を受け持つ部署の長になり、のちに軍需省の工作機械監督官を務めました[22][21]。戦争と工作機械の統制の話は第 3 章に続きます。

英国の工作機械は遅れたのか

「工作機械を生んだ英国は、19 世紀の後半に米国とドイツに追い抜かれた」。この見方は、当時からありました。1855 年と 1876 年の報告で Anderson がくり返した警告がその一つです[9]。米国の Roe は 1916 年に、Whitworth のやり方が英国の工作機械を何世代も支配したことが、かえって先頭を失う一因になったのではないか、その後 50 年の新しい動きの多くは米国で起きた、と書きました[2]。1901 年の McKenzie の「侵略」の本も、同じ気分を伝えています[24]。

経済史の研究は、これを数字で確かめようとしました。Saul は 1968 年に、1914 年までの英国の工作機械産業を通して調べた論文を出しています[35]。Roderick Floud の 1976 年の本『The British Machine Tool Industry, 1850–1914』は、産業の構造と国際貿易での成績を調べ、Leeds の Greenwood & Batley の大量の帳簿を分析して、一つの会社の効率と生産性を測りました。出版社の要旨によれば、その結論は英国の工業の成績についての悲観的な見方を支持しないというものです[14]。英国のメーカーは、自分たちの市場(多品種の機関車・船・繊維機械を作る客)に合った機械を作っており、米国式の専用機を多く作らなかったのは、遅れというより市場に合わせた判断だった、という見方もできます。

どちらが正しいかを一言で決めることはできません。ただ、この章で見てきた出来事を並べると、英国の弱さは機械を作る腕より、同じ物を大量に作る市場と、その使い方のほうにあったことが見えてきます。Portsmouth の滑車工場(1808 年)は、互換方式の量産を世界でも早く実現しながら、英国のほかの工業には広がりませんでした(第 1 章)。その英国が 1855 年に米国から Enfield の機械を買い、1890 年代には自転車のために米国のタレット旋盤を入れる。必要が生まれたときには、英国も米国式をすぐ取り入れています。

町工場から見ると。「うちは汎用機と腕で何でもやる」か、「この部品だけは専用の治具と機械で流す」か。英国と米国の違いは、ちょうどこの判断の違いでした。注文の量と種類が変われば、正しい答えも変わります。歴史家の議論は、技術そのものより、その技術を使う市場を見なければ評価できないことを教えてくれます。

⛩日本とのつながり

Whitworth 奨学生が日本へ

明治の日本は、工業の手本をまず英国に求めました。1873 年、Glasgow から Henry Dyer(ヘンリー・ダイアー)が招かれ、工学寮(のちの工部大学校、今の東京大学工学部の前身の一つ)の都検(教頭)と、土木・機械の教師を 1882 年まで務めます。6 年の課程を 2 年ずつ予科・専門・実地に分け、学理と現場の実習を組み合わせる教育でした[18]。Dyer は Glasgow 大学の学生だった 1870 年、Whitworth が作った奨学金の奨学生に選ばれています[18]。Whitworth のお金で学んだ英国の技術者が、日本の工学教育の土台を作ったことになります。

赤羽の工場と平削り盤

Dyer が 1880 年に London で出した本によれば、機械工学の学生は、Dyer が管理する赤羽の工場で、普通の見習いと同じ規則で働きました。この工場は学校の付属の「遊びの工場」ではなく本物の工場で、約 300 人が働き、熟練工も材料も機械も足りない中で多くの種類の仕事をこなしていた、と Dyer は書いています。卒業には、工作機械 3 種類以上の図面と論文も求めました[19]。その赤羽の工場(工部省赤羽工作分局)が 1879 年に作った 6 フィートの門形平削り盤は、現存する最初期の国産工作機械として、博物館明治村に残っています(機械遺産第 67 号)[20]。

英式から米式へ

1889 年に東京で始まった池貝工場には英式の旋盤があり、池貝庄太郎はそれを手本に英式 9 フィート旋盤を作りました。背面歯車で 6 段に変速し、大きな物を削るためにベッドに切り欠きがある、英国式の作りです(機械遺産第 53 号、国立科学博物館)[23]。ところが 1905 年、池貝は米国人技師 Francis の仕様書による米式旋盤の量産に切り替えます[28]。この章の後半で見た「英国の工作機械が米国に追い上げられる」流れは、遠く日本の工場の中でも起きていました(国産アーカイブ第 1 章「国産旋盤の系譜」)。そして第一次世界大戦のさなか、池貝は英国にも旋盤を輸出し、1915 年には 5 台を送りました[28]。明治のはじめに英国の機械を手本にした日本の工作機械が、40 年あまりで英国へ渡るようになったのです。

⑂メーカーの系図

この章に出てくる主な工作機械メーカー・兵器工場・鋼のメーカーの、名前の移り変わりです。帯の色が変わるところで名前が変わっています。帯の右端は、この章で確かめた時点まで(多くは 1914 年)で、そこで会社が終わったとは限りません。

18401880192019602000J. Whitworth & Co.(Manchester)Sir Joseph Whitworth & Co. Ltd.Royal Small Arms Factory(Enfield)Greenwood & Batley(Leeds)Birmingham Small Arms Co.(BSA、Small Heath)Samuel Osborn & Co.(Sheffield、Mushet 鋼)Herbert & Hubbard(Coventry)Alfred Herbert Ltd.Craven Brothers(Salford)Craven Brothers(Manchester)Kendall & Gent(Salford、Victoria Works)帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [2][15][1][12][14][16][17][21][22][5][6][11][10]

見に行ける所

この章の機械と町の歴史を見られる博物館です。開館日・展示の内容は変わることがあるので、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

Herbert Art Gallery & MuseumCoventry(イングランド)Alfred Herbert が設立に 20 万ポンドを寄付した市の美術館・博物館。Coventry の歴史の展示がある[32][22]
Leeds Industrial Museum at Armley MillsLeeds(イングランド)古い紡績工場の建物を使った、Leeds の科学と工業の博物館。Greenwood & Batley や Fairbairn が工作機械を作った町の工業を伝える[33][14]
Science MuseumLondon(イングランド)1966 年の目録に、Enfield の国営小銃工場に入った錠前の彫り込み機(1857 年)と Herbert & Hubbard の旋盤(1889 年)が載る。展示中かは所蔵品の検索で確かめてから[1][34]
国立科学博物館東京都台東区池貝工場が 1889 年に作った英式 9 フィート旋盤(機械遺産第 53 号)。背面歯車とベッドの切り欠きを持つ英国式の旋盤[23]
博物館明治村愛知県犬山市工部省赤羽工作分局が 1879 年に作った門形平削り盤(機械遺産第 67 号)。赤羽の工場は工部大学校の Dyer が管理し、学生が実習した[20][19]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料が開きます。「p.」は本の印刷のページ、「コマ」は Internet Archive のスキャンの番号、または国会図書館デジタルコレクションのコマです。

万博と Enfield世界の工場自転車と米国の機械高速度鋼と規格18501860187018801890190019101851185418611868187318881900黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

万国博覧会と米国の衝撃、Enfield1851〜1857 年

年出来事メーカー・機種出典
1851年★London の万国博覧会(Crystal Palace)で、Whitworth が工作機械・測長機・ゲージなど 23 点を出品し、精度と作りの良さで群を抜く。ほかの 20 社は 1〜3 点だったJoseph Whitworth[1・コマ13][1・コマ14][2・p.99]
1851年同じ博覧会で、米国 Vermont 州の Robbins & Lawrence が互換方式で作った小銃を出品してメダルを受け、部品を混ぜても組める銃として注目されるRobbins & Lawrence[2・p.138][2・p.191]
1853年★政府の委員として New York の博覧会に派遣された Whitworth と George Wallis が米国の工場を回り、Springfield 兵器廠で銃床が機械だけでほぼ削り上がるのを見る。Whitworth は報告(1854 年)で、人手の少なさが米国人を機械に向かわせていると書いたアメリカ第 1 章の 1853 年の出来事と同じ訪問Joseph Whitworth[3・コマ47][2・p.102][2・p.104]
1853年Nasmyth が、Enfield の小銃工場を作り直すための Small Arms Committee の委員になる。1848 年のプロイセンの後装銃(撃針銃)の活躍が、英国の軍に危機感を持たせていたJames Nasmyth[4・p.362][2・p.140]
1853年Manchester の Fairbairn の工場で働いていた Greenwood と William の Craven 兄弟が、Salford で Craven Brothers を始める。のちに弟の John が加わり、1863 年に Manchester、1920 年に Reddish(Stockport)へ移った。1928 年には Armstrong Whitworth などの工作機械部門を引き取り、大形の工作機械とクレーンで知られる1961 年の業界誌の会社紹介は 1853 年創業とする。Atkinson(1996)も、1853 年からの Whitworth の競争相手として Craven Brothers を挙げるCraven Brothers(Manchester)[5][6]
1854年同じ委員会で、Whitworth は Springfield で銃床が 23 分で仕上がったと証言しつつ、米国の銃の部品が本当に互換かは疑問だと述べた。Nasmyth は、4 年ほど前にロシア政府に銃の部品を作る機械を納めたと話し、機械化で工場主が熟練工に頼らなくて済むと主張した—[7・コマ14][7・コマ15]
1854〜55年★兵器局が Burn 中佐・Warlow 中尉と Anderson の委員会(Committee on the Machinery of the United States)を米国に送り、兵器の機械を注文する。1855 年の報告は、普通の機械では英国が上だが、一つの作業のための専用機では米国に学ぶべきだと書いたアメリカ第 1 章は視察を「1853〜54 年」、報告書を 1855 年付けとする—[8][9・p.420]
1854年米国から帰った Whitworth に政府が小銃工場の設計を頼むが、Whitworth はまず最良の銃の形を決める試験が要ると主張し、Manchester の近くに試験場を作らせて試験を始める。その結果、小口径・速いねじれのライフルを提案したJoseph Whitworth[2・p.104][2・p.105]
1854年5月★下院の小銃特別委員会が報告を出す(5 月 12 日)。兵器局は 1 日 500 丁の国営工場を求め、Woolwich の技師 John Anderson は米国の機械を買い現地で学ぶべきだと証言した。委員会は請負の制度を残しつつ、Enfield の国営工場を小さな規模で試すよう勧めた—[7・コマ10][7・コマ13][7・コマ14][7・コマ19]
1855年★米国から Enfield の国営小銃工場(Royal Small Arms Factory)へ、兵器を作る機械 157 台が送られる。中心はフライス盤と専用機で、銃床を倣いで削る機械は Ames 社から買った。英国にフライス盤が広まったのはこの機械からとされる157 台の内訳は資料で違う(Roe はフライス盤 74 台など、アメリカ第 1 章が使う Fitch の国勢調査の報告は 57 台+万能 8 台など)—[2・p.138][9・p.427][1・コマ15]
1855年委員会の報告は、銃床を倣いで削る旋盤がまだ英国で使われていないことに驚き、兵器工場に入れれば国の利益になると書く。この機械は米国の Ames 社から買われた—[9・p.427]
1855年1月Salford の機械工 William Kendall と George Gent が、中実の材料と管の両方を切る機械の改良で英国特許(1855 年 No.16)を取る。1894 年の機械学会の工場案内によると、2 人の Victoria Works は Springfield 橋の近くに 1849 年に最初の建屋を建てて始まった創業の年は 1894 年の工場案内の記述(1849 年)。Grace's Guide は 1847 年とするが出典が示されていないKendall & Gent(Salford)[10][11]
1856年Enfield が 1855 年夏に機械での小銃づくりを始め、1856 年 4 月の講和のころには週 2,000 丁を超えた(BSA の社史)。Science Museum の目録は、Enfield の機械で 719 の工程を通して週 1,200 丁を作ったとする週の生産数は資料で違う(BSA の社史 2,000 丁超、Gilbert 1,200 丁)—[12][1・コマ15]
1856年★機械学会の会長になった Whitworth が Glasgow の講演に、1/1,000,000 インチの長さの違いが分かる測長機を持ち込む。目ではなく手ざわりで測る端度器の方式で、線の目盛より端面の寸法で合わせるほうが工場では正確だと説いたJoseph Whitworth測長機[13・p.42][2・p.101]
1857年Enfield の工場に入った機械の一つ、錠前の部品を彫る専用機(recessing machine、1857 年)は今も Science Museum に残る—[1・コマ134]
1857年Whitworth が Manchester の機械学会で「長さの十進法の標準」の論文を読み、インチを十進で分けて工場の寸法をそろえることを提案するJoseph Whitworth[13・p.55][2・p.104]

世界の工場の工作機械メーカー1856〜1879 年

年出来事メーカー・機種出典
1856年Peter Fairbairn の工場にいた Thomas Greenwood と John Batley が Leeds で Greenwood & Batley を始める。兵器・繊維の機械と専用の工作機械を作り、その帳簿はのちに Floud が英国の工作機械産業を調べる中心資料になった創業年は Floud の本の章(Greenwood & Batley の 1856〜1900 年の記録)によるGreenwood & Batley[14][15・コマ321]
1861年6月★Enfield の機械化で注文を失った Birmingham の銃職人たちが、「機械で銃を作る」会社として Birmingham Small Arms Company(BSA)を作る(6 月)。Small Heath に 25 エーカーの土地を買い工場を建てたBSA[12][16・コマ27]
1862年London の 2 回目の国際博覧会で、工作機械の出品は 60 社にふえる。Whitworth はなお首位で、工作機械の区画の 4 分の 1 を占めたJoseph Whitworth[1・コマ14]
1863年9月BSA に取締役会ができ、Turkey 政府向けの Enfield 銃 2 万丁が最初の大口の仕事になるBSA[12]
1866年BSA が政府から初めての大口の仕事を受ける。前込め銃 10 万丁を Snider 式の後込め銃に改造する注文で、夜勤を入れて週 3,000 丁以上をこなしたBSA[12]
1867年パリ万博の英国の報告が、工作機械の部で米国の専用機の広がりに注意を促す。こうした警告は 1876 年の Philadelphia 万博の報告まで続いた—[9・p.420]
1868年★Robert Mushet が実験中に、焼入れしなくても硬くなる鋼(自硬鋼)を見つける。効いていたのはタングステンだった。旋盤や平削り盤の刃物に使われ、「R. Mushet's Special Steel」として知られる—[17・コマ415][17・コマ54]
1870年9月Glasgow 大学で学ぶ Henry Dyer が Whitworth が作った奨学金(Whitworth scholarship)の奨学生に選ばれる(9 月 26 日の通知)。3 年後、Dyer は日本に招かれる—[18]
1871年Sheffield の Samuel Osborn が Mushet の自硬鋼とるつぼ鋼の製法を引き継ぎ、世界中の機械工場に広める。刃物の寿命が延び、旋盤 1 台の仕事量を 2〜3 倍にできたと、同社の Osborn はのちに書いている—[17・コマ415][17・コマ416]
1873年★Henry Dyer が工学寮(のちの工部大学校)の都検(教頭)と土木・機械の教師として来日する(1882 年まで)。6 年の課程で、学理と工場での実習を組み合わせた—[18][19・コマ25]
1873年BSA が Adderley Park の金属工場を買い、小銃に加えて弾薬の製造を始めるBSA[16・コマ27]
1874年Whitworth が Manchester の事業を株式会社にし、株の多くを職長たちに渡すJoseph Whitworth[2・p.105][15・コマ91]
1876年Philadelphia 万博の英国の報告で、John Anderson が、米国の工場の専用工具を見ないと来る競争の正体は分からない、家具・時計・弾薬まで専用工具で安く作られていると書く—[9・p.420]
1878年パリ万博の英国の部に、Sir Joseph Whitworth & Co.(Manchester)、Smith & Coventry(Manchester の Gresley Iron Works)、Greenwood & Batley(Leeds、専用工作機械)などの工作機械メーカーが出品する—[15・コマ82][15・コマ91][15・コマ321]
1878年政府の注文が途切れ、BSA の Small Heath の工場が 8 月から 1 年間止まる。この経験から BSA は兵器以外の仕事を探し始めたBSA[12]
1879年工部省の赤羽工作分局が 6 フィートの門形平削り盤を作る。現存する最初期の国産工作機械で、機械遺産第 67 号(博物館明治村)—[20]

自転車と米国の機械1880〜1899 年

年出来事メーカー・機種出典
1880年BSA が Otto 式の自転車 200 台を作り、自転車の仕事に入る。1888 年に Lee-Metford 銃の大量注文でいったんやめるが、1893 年 11 月に自転車の部品で戻り、1895 年には週 4,620 ポンドの注文を受けたBSA[12]
1880年Dyer が、自分が管理する赤羽の工場は学校の付属の遊びの工場ではなく本物の工場で、約 300 人が働き、機械工学の学生は見習いと同じ規則で働くと書く。卒業には工作機械 3 種類以上の図面と論文を求めた—[19・コマ28][19・コマ29][19・コマ30]
1887年Whitworth が亡くなる。遺産から約 60 万ポンドが Whitworth Institute・Owens College・Manchester の技術学校などに贈られたJoseph Whitworth[2・p.105][1・コマ152]
1887〜88年ごろ★Leicester で見習いを終えた Alfred Herbert が、Coventry の小さな工場を友人の William Hubbard と買い取り、Herbert & Hubbard として始める。はじめは錠剤やリボンの機械を作り、自転車の流行で自転車づくりの機械に移った死亡記事は年を書かない(見習いは 1886 年末まで、Engineering)。Science Museum には同社の 1889 年の旋盤が残るHerbert & Hubbard[21・コマ5][22・コマ8][1・コマ52]
1889年Herbert & Hubbard が動力の旋盤を作る。4 段の段車と背面歯車を持ち、径 10 インチ・長さ 2 フィートまで削れた。この旋盤は Science Museum に残るHerbert & Hubbard[1・コマ52]
1889年★池貝庄太郎が東京で池貝工場を始め、手元の英式旋盤を手本に英式 9 フィート旋盤を作る。背面歯車で 6 段に変速し、大きな物を削るためにベッドに切り欠きがある、英国式の作りだった(機械遺産第 53 号)池貝[23]
1894年Hubbard が去り、会社は Alfred Herbert Ltd. になる。自転車産業向けの工作機械を作り、まもなく米国の工作機械も扱うようになったAlfred Herbert Ltd.[21・コマ5][22・コマ8]
1890年代後半米国の記者 McKenzie は、自転車ブームが米国の自動化された工作機械を英国に呼び込み、機械工の大争議(1897〜98 年)で米国製の機械がさらに広がったと書く。タレット旋盤と普通旋盤で米国製が特に強かった当時の論評で、輸入の量は示されていない—[24・コマ120][24・コマ121]
1899年4月自転車の部品で伸びた BSA が、内燃機関の製造を引き受け、自動車の仕事に目を向けるBSA[12]

高速度鋼と規格1898〜1915 年

年出来事メーカー・機種出典
1898年Taylor が米国 Bethlehem Steel の機械工場の立て直しの中で、刃物鋼の比較試験を再開し、Mushet 鋼と米国の Midvale 鋼を比べる。翌年から White と熱処理の実験を進めた—[17・コマ66][17・コマ54]
1900年★米国の Taylor と White が見つけた、クロム・タングステン鋼を融点近くまで熱する処理(高速度鋼)が、パリ万博で高速で削る旋盤の実演とともに発表される。刃物の寿命と削る速さが 2〜4 倍になった—[17・コマ54][17・コマ105][17・コマ237]
1900年Science Museum の目録によれば、削る速さは 1850 年の炭素鋼の刃物で毎分 40 フィート(約 12 m)、1900 年の高速度鋼で毎分 120 フィート(約 37 m)になった—[1・コマ16]
1901年★土木・機械・造船・鉄鋼・電気の 5 つの学会が Engineering Standards Committee(工業規格委員会)を作る。のちの British Standards Institution(BSI)の始まり—[25][26]
1901年McKenzie が『The American Invaders』で、米国の工作機械は英国中で使われ、刃物の町 Sheffield でさえ米国の機械と型を使っていると書く—[24・コマ120][24・コマ121]
1903年Manchester の機械技術者協会で旋盤の刃物の比較試験が行われ、Mushet の自硬鋼を基準に新しい高速度鋼が比べられる。Osborn は、成分と同じくらい熱処理が大事だと主張した—[17・コマ417]
1905年工業規格委員会が Whitworth のねじを British Standard Whitworth(BSW)として規格にする(Report No.20)。Whitworth が 1841 年に決めたピッチの表がそのまま残された1919 年の暫定報告は Report No.20 と No.38 を置き換えたと書く。年は米国標準局の資料による—[27][26]
1905年池貝が、米国人技師 Francis の仕様書による米式旋盤の量産を始める。それまで日本で手本にしていた英式から、米式に切り替わる池貝[28・コマ65]
1910〜11年英国の工作機械メーカーの団体ができる。1910 年に Machine Tool and Engineering Association として生まれ、1911 年には Machine Tool Trades Association の名で事務局長を募った。展示会が多すぎて出展を強いられる問題を抑え、4 年に 1 度の自前の展示会にまとめることが目的の一つだった。Alfred Herbert は中心の一人になる(1919〜34 年は会長)PEP(1957)は前身の団体の 1910 年、初代の事務局長 Herbert Williams の回想(1944)と Gas Journal(1948)は 1911 年とするAlfred Herbert Ltd.[29][30][31][22・コマ8]
1914〜15年第一次世界大戦のさなか、池貝が英国・ロシア・メキシコなどに旋盤を輸出し、1915 年には英国へ旋盤 5 台を送る。明治のはじめに英国の機械を手本にした日本の工作機械が、英国へ渡るようになった池貝[28・コマ66]
1915年4月Alfred Herbert が陸軍省に招かれ、工作機械の生産を受け持つ新しい部署の長になる。のちに軍需省の工作機械監督官(Controller of Machine Tools)を務めた(第 3 章へ)Alfred Herbert Ltd.[22・コマ8][21・コマ5]

よくある質問

英国はなぜ米国から小銃を作る機械を買ったのですか?
クリミア戦争の前後、英国軍の小銃は職人の請負で作られ、注文が何年も遅れていました。1854 年の議会の委員会で、Woolwich の技師 Anderson は米国の機械を買って学ぶべきだと証言し、委員会を米国に送って機械を注文します。1855 年、Enfield の国営工場に米国から 157 台の機械が送られ、英国はこれを「アメリカン・システム」と呼んで取り入れました。
英国にフライス盤が広まったのはいつですか?
Science Museum の 1966 年の目録は、1855〜57 年に Enfield の国営小銃工場に米国のフライス盤が入ったことで、英国にフライス盤が広まったとしています。それまでの英国の工作機械は、旋盤・平削り盤・形削り盤のように一点の刃物で削る機械が中心でした。
Alfred Herbert はどんな会社ですか?
Alfred Herbert が 1880 年代の終わりに Coventry で友人と始めた Herbert & Hubbard が元で、自転車ブームで自転車を作る機械に移り、1894 年に Alfred Herbert Ltd. になりました。キャプスタン旋盤で伸び、米国の工作機械も扱って、Herbert が亡くなった 1957 年には国内に 4 つの工場を持ち 5,000 人を超えて働く会社になっていました。Coventry の Herbert Art Gallery & Museum は、Herbert が設立に寄付した博物館です。
「英国の工作機械は遅れた」というのは本当ですか?
当時から米国の専用機を見た英国の技術者が警告し、Roe(1916)も英国が先頭を失ったと書きました。一方、Floud(1976)は Greenwood & Batley の帳簿などを分析し、英国の工業の成績について悲観的な見方を支持しない結論を出しています。英国のメーカーは自国の市場に合った汎用機を作っていた、という見方で、評価は今も一つに決まっていません。

この先と関係するページ

出典

議会の報告・業界誌・本は Internet Archive の公開資料で 2026 年 10 月に確かめ、使ったページを書いています。「p.」は本の印刷のページ、「コマ」は Internet Archive のスキャンの番号(n 番号)、国会図書館デジタルコレクションの資料はそのコマです。McKenzie(1901)は当時の記者の論評、BSA の社史(1946)は会社の資料なので、ほかの資料と照らして使いました。Floud(1976)は貸出制限の本のため、出版社の要旨と全文検索の抜粋で確かめた範囲だけを書いています。日本側の出来事は国産アーカイブの出典を使っています。

  1. K. R. Gilbert『The Machine Tool Collection: Catalogue of Exhibits with Historical Introduction』Science Museum/HMSO, London(1966)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号)コマ 13・14・15・16・52・134・152
  2. Joseph W. Roe『English and American Tool Builders』Yale University Press(1916。Internet Archive は 1926 年の McGraw-Hill の刷り、同じページ)p. 99・101・102・104・105・138・140・191
  3. Joseph Whitworth『New York Industrial Exhibition: Special Report of Mr. Joseph Whitworth』英国議会提出(1854)※番号はスキャンのコマコマ 47
  4. James Nasmyth(Samuel Smiles 編)『James Nasmyth, Engineer: An Autobiography』John Murray, London(1883)p. 362
  5. Foundry Trade Journal 第 111 巻 2340 号(1961 年 10 月 12 日)「Craven Brothers (Manchester) Limited」(会社の紹介)
  6. Norman Atkinson『Sir Joseph Whitworth: The World's Best Mechanician』Sutton(1996)
  7. 英国下院『Report from the Select Committee on Small Arms』(HC 236, 1854 年 5 月 12 日付け)Reports from Committees 1854 第 18 巻 ※番号はスキャンのコマコマ 10・13・14・15・19
  8. Nathan Rosenberg 編『The American System of Manufactures: The Report of the Committee on the Machinery of the United States 1855, and the Special Reports of George Wallis and Joseph Whitworth 1854』Edinburgh University Press(1969)
  9. Nathan Rosenberg「Technological Change in the Machine Tool Industry, 1840–1910」The Journal of Economic History 第 23 巻 4 号 pp.414–443(1963)p. 420・427
  10. 英国特許庁『Chronological Index of Patents Applied for and Patents Granted』1855 年版 No.16(William Kendall・George Gent, Salford「金属を切る機械の改良」)
  11. 『Proceedings of the Institution of Mechanical Engineers』1894 年(7 月の Manchester 大会の工場案内)pp.419–421
  12. Donovan M. Ward『The Other Battle: Being a History of the Birmingham Small Arms Co. Ltd.』BSA(1946)第 1〜3 章(pp.9–21)
  13. Joseph Whitworth『Miscellaneous Papers on Mechanical Subjects』Longman, London(1858)※1856 年の機械学会会長講演・1857 年の長さの標準の論文を収めるp. 42・55
  14. Roderick Floud『The British Machine Tool Industry, 1850–1914』Cambridge University Press(1976)
  15. 英国王立委員会『Paris Universal Exhibition, 1878: Official Catalogue of the British Section』第 2 版(1878)※番号はスキャンのコマコマ 82・91・321
  16. 英国商務省『The Board of Trade Journal and Commercial Gazette』第 109 巻 1347 号(1922 年 9 月 21 日)BSA の紹介記事 ※番号はスキャンのコマコマ 27
  17. F. W. Taylor「On the Art of Cutting Metals」と討論(F. M. Osborn ほか)Transactions of the ASME 第 28 巻(1906〜07)※番号はスキャンのコマコマ 54・66・105・237・415・416・417
  18. 加藤詔士「ホイットワース・メダル―工部大学校お雇い教師 H. ダイアーの受賞メダル―」東京大学文書館紀要 第 40 号(2022)
  19. Henry Dyer『The Education of Civil and Mechanical Engineers』E. & F. N. Spon, London(1880)※工部大学校の都検が書いた。番号はスキャンのコマコマ 25・28・29・30
  20. 日本機械学会「機械遺産 第67号 国産機械 門形平削り盤」
  21. 「Sir Alfred Herbert, K.B.E.」The Engineer 第 203 巻 5288 号 p.822(1957 年 5 月 31 日)※番号はスキャンのコマコマ 5
  22. 「Obituary: Sir Alfred Herbert」Engineering 第 183 巻 4760 号 p.680(1957 年 5 月 31 日)※番号はスキャンのコマコマ 8
  23. 日本機械学会「機械遺産 第53号 池貝工場製第1号旋盤」
  24. Fred A. McKenzie『The American Invaders: Their Plans, Tactics and Progress』Street & Smith, New York(1901)「Machine Tools」の節 ※番号はスキャンのコマコマ 120・121
  25. British Engineering Standards Association『British Standard Specification No.66』(1914 年版・1918 年以降の刷り)表紙の団体の沿革(1901 年に 5 学会で Engineering Standards Committee として結成)
  26. British Engineering Standards Association『Interim Report on British Standard Whitworth (B.S.W.) Screw Threads and their Tolerances』(1919 年 6 月、Report No.20・No.38 を置き換え)
  27. 米国 National Bureau of Standards『Screw-Thread Standards for Federal Services 1944』(Handbook H28, 1945)英国のねじの規格の節
  28. 日本工学会『明治工業史 機械・地学篇』(1930)コマ 65・66
  29. PEP『Industrial Trade Associations』Allen & Unwin(1957)
  30. Sir Herbert Williams『Politics — Grave and Gay』Hutchinson(1944)第 5 章「A New Job」p.49(MTTA の初代の事務局長の回想)
  31. Gas Journal 第 255 巻 4448 号(1948 年 9 月 1 日)p.479「Machine Tool and Engineering Exhibition」
  32. Herbert Art Gallery & Museum(Coventry)公式サイト
  33. Leeds Industrial Museum at Armley Mills(Leeds Museums and Galleries)公式サイト
  34. Science Museum Group Collection(所蔵品の検索)
  35. S. B. Saul「The Machine Tool Industry in Britain to 1914」Business History 第 10 巻 1 号 pp.22–43(1968)