USA 07アメリカのフライス盤・マシニングセンタの系譜

フライス盤は、刃がたくさん並んだ回る刃物(フライス)に工作物を送って削る機械です。Woodbury(1959)は、フライス盤の発達はほとんどすべてアメリカで、それもニューイングランドと中西部のいくつかの町で起きたと書いています。銃の部品をやすりでなく機械で同じ形にそろえるために兵器廠で生まれ、Lincoln millerで量産の機械になり、Brown & Sharpe の万能フライス盤とひざ形で今の形が決まりました。20 世紀には歯車箱と電動機、油圧と倣い、Bridgeport のタレットフライス盤を経て、NC と工具の自動交換(ATC)を持つマシニングセンタへ進みます。この章では、送り・高さの調整・駆動・刃物・制御・工具交換がどう変わり、現場の加工で何が変わったかを、研究書・当時の業界誌・特許・博物館の資料で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。

やすりの代わりが
マシニングセンタ
まで来た!

マスコットのチップス

この章は「機種の章」です。時代の流れは第 1 章(兵器廠)・第 2 章(精密と専業メーカー)・第 3 章(大量生産)と重なりますが、ここではフライス盤という機械の中身に絞ってたどります。1952 年の MIT の NC フライス盤と NC の誕生そのものは第 4 章「NC の誕生とマシニングセンタ」で詳しく書いているので、この章は機械の側の変化に集中します。今の MC の種類と選び方はマシニングセンタの解説にあります。

兵器廠のフライス盤と Lincoln miller(1808〜1860 年)

19 世紀の初め、銃の部品の平面や曲がった縁は、職人がやすりで仕上げていました。政府に銃を納める工場は「どの銃の部品を組み合わせても合う」こと(互換性)を求められ、やすり仕事を機械に置き換える工夫を重ねます。その中で生まれたのが、回る刃物に工作物を送る機械、つまりフライス盤でした。

最初のフライス盤は誰が作ったか

長いあいだ「最初のフライス盤」とされてきたのは、New Haven 近くの Whitneyville にあった Eli Whitney の兵器工場の機械です。Roe が 1912 年にこの機械を見つけ、百科事典の「1818 年にコネチカットの銃工場で最初の粗いフライス盤が作られた」という一文から 1818 年としました[1]。しかし Woodbury は、その一文の根拠は分からず、同じ頃 Middletown の Simeon North や Robert Johnson の銃工場にも似た機械があったと指摘します。Whitney の工場でフライス削りをしていた確かな証拠は 1823 年 3 月の陸軍長官あての手紙が最初で、その頃には Springfield と Harpers Ferry の兵器廠でもフライス削りが使われていました。North は 1808 年にもう使っていたかもしれない、とも書いています[1]。その後の Woodbury と Battison の研究で、Whitney の機械は Whitney の死後の 1827 年ごろの物とみられるようになり、American Precision Museum も「最初のフライス盤と取り違えられてきた」と解説しています[4]。歴史家の Merritt Roe Smith は、North が 1816 年ごろに作った軽い機械を、米国で知られている最古のフライス盤としています[2]。

だれが最初かは決められませんが、機械の中身ははっきりしています。Whitney の機械は高さ 45cm ほどの小さな機械で、テーブルの自動送りにラックとピニオンでなく送りねじとナットを使い、箱形の台と、すり減りを詰めるギブ(すべり面の当て金)を持っていました。主軸の高さを変える仕掛けはなく、高さは工作物の下に紙や金属の薄板を挟んで合わせたとみられます。Woodbury は、これを「ひざ形」の始まりと見ています[1]。Middletown の機械は、刃の歯をやすりで切った小さな円筒の刃で、職人は初め「やすり仕事の代わりなど」と相手にせず、のちに平らな面の荒削りに使うようになったと伝わります[1]。初期のフライスは、今の言葉でいえば回るやすりでした。

兵器廠で育った作り

1830 年代には、Springfield の兵器廠がモンキーレンチの平面を削る主軸固定の機械を使い、1835 年には刃物の高さをてこで変えられる機械を作らせています[1]。North Chelmsford の Gay & Silver の工場の機械は、主軸の高さを変える仕掛けと、刃物の軸の先を支えるオーバアームを初めて見せました。ここで修業した Frederick W. Howe が、このあとのフライス盤の設計の中心になります[1]。

1848 年、Vermont 州 Windsor の Robbins & Lawrence で、Howe の設計の平フライス盤が作られます。幅の広いベルト車と減速で力を増し、刃物の軸の外側を支え、全体を重くして、精度と重い切込みの両方に近づいた機械でした。ただ、送りがラックとピニオンだったため、重い切込みに入るときにびびりました[1][5]。同じ年、Colt の兵器廠では E. K. Root が、送りの自動停止とクラッチを持つ機械を作り、1854 年には刃物の軸の支えを今と同じ円筒のオーバアームに替えて、片側の開いた機械にしました[1]。1852 年には Robertson のフライス盤が、米国で特許を取った最初のフライス盤になっています。主軸・軸受・歯車をまとめて重い縦すべりに載せて上下させる作りで、Woodbury は技術的には Lincoln miller より進んでいたと評価します[6][1]。

Lincoln miller:最初の「生産フライス盤」

1855 年、Hartford の George S. Lincoln & Co. が、新しい Colt の兵器廠のために F. A. Pratt の設計のフライス盤を作りました。1〜2 年前に Hartford に持ち込まれた Robbins & Lawrence の機械を手本に、全体を頑丈でまとまった形にし、びびりの元だったラックとピニオンの送りを送りねじとナットに替えたのが Pratt の大きな改良でした[5][1]。作った工場の名から「Lincoln miller」と呼ばれ、何千台も作られて世界中に売られます。その多くを作ったのが、Pratt と Amos Whitney が 1860 年に始めた Pratt & Whitney でした[1][5]。

Robbins & Lawrence の機械1848 年Howe の設計。Lincoln miller の原型[1]
Lincoln miller1855 年Pratt の設計、送りをねじとナットに[5]
米国最初のフライス盤の特許1852 年Robertson、US 9,307[6]

Lincoln miller は主軸が台に固定され、テーブルは前後に送るだけの「ベッド形」で、同じ部品を何百と削るのに向いていました。Woodbury は、1860 年までにフライス盤は米国の金属加工で欠かせない機械になり、南北戦争で大量の銃をそろえるのに役立ったとまとめています[1]。ただし、刃物の高さを変える仕掛けは、Pratt もまだうまく解けていませんでした。

なぜ送りねじなのか。ラックとピニオンは長い距離を速く動かせますが、かみ合いのすき間(バックラッシ)とたわみで、切込みの入り口でテーブルが跳ね、びびりが出やすくなります。送りねじとナットは減速比が大きく、刃物に押されてもテーブルが戻されにくいので、重い切込みでも一定の速さで送れます。Lincoln miller が広まったのは、この「送りの安定」が量産の仕上がりをそろえたからです。のちにバックラッシを消す仕掛けと精密な歯切りが進むと、ラックとピニオンも再び使われるようになりました[1]。

万能フライス盤とひざ形(1861〜1899 年)

ドリルの溝から生まれた万能フライス盤

南北戦争の初め、Providence Tool Co. は政府の小銃を作っていました。工場長になっていた Howe は、ねじれ溝のあるドリルを職人が丸棒からやすりで削り出しているのを見て、もっと安く作る方法を Brown & Sharpe の Joseph R. Brown に相談します。Brown 自身もミシン(Wilcox & Gibbs)の部品にそのドリルを使い始めたところでした[5]。Brown が 1861 年に図面を描いた機械は、ドリルの溝だけでなく、ねじれ溝・歯車・割り出しの仕事を何でもこなせるように作られました[1]。1 号機は 1862 年 3 月 14 日に Providence Tool Co. へ売られ、この年のうちに 10 台が売れ、最初の輸出先はフランスでした。誌面での最初の紹介は同じ年の 12 月の Scientific American です[5][1]。特許は 1865 年 2 月に成立しました[8]。

新しかったのは 3 つです。テーブルを水平に旋回できるサドルに載せ、上下するひざの上で前後に動かせること、テーブルの送りねじと歯車でつないだ割出し台(ねじれ削り台)でねじれ溝を削れること、そして割出し台を傾けたまま割り出せることです[1]。テーブルを旋回させると、ねじれ溝の角度に合わせて刃物を傾けずに削れます。割出し台はかさ歯車の歯切り機を作った Brown の経験から生まれたもので、ドリルの仕事に要らない機能まで入れたことが、この機械を「万能」にしました[1]。同じ頃、Howe は 1852 年に「万能」と呼ばれた機械を設計しており、どちらが先かが後に論争になりますが、Roe も Woodbury も、今の意味の万能フライス盤は Brown の発明としています[5][1]。

ひざ形という答え

兵器廠の時代から続いた「刃物と工作物の高さをどう合わせるか」という問題に、Brown はコラム(柱)の前面をひざ(ニー)ごと上下させるという答えを出しました。主軸は台に固定したまま、テーブル・サドル・ひざをまとめてねじで上げ下げするので、ベルトの張りも変わらず、高さを精密に決められます。Woodbury はこれを、刃物の高さの問題の「最終的な解決」と呼んでいます[1]。ほぼ同じ頃、Garvin の平フライス盤がひざ形にオーバアームを組み合わせ、今のひざ形フライス盤の原型になりました。1876 年の建国 100 年博覧会には、Brown & Sharpe が減速歯車とオーバアームを足したほぼ倍の大きさの万能フライス盤を出し、フライス盤は工具室の軽い仕事から機関車の部品のような重い仕事にも広がります[1]。

精度の面では、1867 年の Brown & Sharpe のカタログに、左右と上下の送りねじに 1,000 分の 1 インチ(約 0.025mm)まで読める目盛り環を付けた機械が載ります。Woodbury は、工作機械でこうした目盛りを使った最初としています[1]。職人が定規とけがき線で合わせていた位置を、ハンドルの目盛りで決められるようになったのです。

研いでも形の変わらない成形カッター

刃物の側でも Brown が節目をつくります。1850 年ごろの歯車用のカッターは、たがねと金づちで歯を刻んだもので、研ぎ直すたびに焼きなまし、歯をたたき直し、型板に合わせて削り直し、逃げをやすりで付けて焼き入れし直す必要がありました[1]。Brown が 1864 年 11 月に特許を取った成形カッターは、歯の後ろに一定の逃げを付けた形(今でいう「二番取り」された歯形)で、すくい面だけを研げば何度研いでも同じ歯形が出るものでした[7][1][5]。このあとの 40 年で、不等ピッチの歯、刃を植えた正面フライス、ねじれ刃など、今のフライスの基本形の特許が次々に出ます[1]。

立てフライス盤の始まり

主軸を立てた立てフライス盤は、1862 年の W. B. Bement の特許の図に、もうよく整った形で描かれています。1870 年には James Watson がキー溝用の立てフライス盤の特許を取り、1883 年には L. Cosgrove がひざ形のテーブルに、立てから横まで傾けられる主軸頭を組み合わせました。1888 年には Brown & Sharpe が平フライス盤に付ける立て削りのアタッチメントを出しています[1]。立て形はエンドミルを使うので主軸を速く回す必要があり、軸受や給油の工夫が続きました。重い鋳物を載せたまま上面と両側面を段取り替えなしで削れ、倣い削りや型彫りにも向いていたことが、のちに立て形が主流になる理由になります[1]。

Cincinnati・Rockford・Milwaukee

19 世紀の終わり、フライス盤の作り手は中西部にも広がります。Cincinnati では、1880 年ごろ台所でねじとタップを作り始めた Frederick Holz が、タップの溝を削るために木の台のフライス盤を自分で作り、それを見た客の注文からフライス盤の商売が始まりました。1889 年に会社は Cincinnati Milling Machine Co. になり、社長には Frederick A. Geier が就きます[5]。1881〜82 年には、送りのハンドルを斜めに並べて 1 か所から操作できる「集中操作」の機械を出し、主軸を左回りにしてボール盤や旋盤の刃物をそのまま使えるようにしていました[1]。1896 年には Holz が、オーバアームとひざを長穴で締める調整式の支えを考え、重い切込みで刃物の軸がたわまないようにしています[1]。

Illinois 州 Rockford には 1893 年ごろ Ingersoll Milling Machine Co. が Cleveland から移り、平削り盤のような門形の台に複数の主軸頭を載せた重いプラノミラーで先頭に立ちました[5]。Wisconsin 州 Milwaukee では 1898 年に、Kempsmith の工場長だった Theodore Trecker と設計技師の Edward J. Kearney が Kearney & Trecker を始め[9]、Roe は 1916 年に、Kempsmith とともに「よく知られたフライス盤の作り手」と書いています[10][5]。

歯車箱・電動機・生産フライス盤(1900〜1926 年)

Woodbury は、Brown が基本の形を決めたあとのフライス盤の発達で、いちばん大事なのは送りの機構とその制御、そして動力と主軸のつなぎ方だったと書いています[1]。1900 年ごろのフライス盤は、天井の長い軸からベルトで動力をもらい、段車のベルトを掛け替えて回転数を変え、送りも主軸からベルトで取っていました。主軸の回転数を変えると送りまで変わってしまい、小さなエンドミルと大きな正面フライスに同じ力が出る、という不便がありました。

定速駆動と全歯車式

1900 年のパリ万国博覧会で、Cincinnati の新しいフライス盤が金賞を受けます。送りをすべて歯車で確実に伝える最初のフライス盤でした[1]。同じ年の 12 月、Brown & Sharpe の John Parker は、1 本のベルトを一定の速さで回し、主軸の回転も送りも歯車で切り替える「定速駆動」の考えをメモにまとめます。小さな刃物を使うときは速く回し、大きな刃物のときは減速して力を出す、送りは主軸と別の一定の速さの軸から取る、という考えで、1901 年の No. 2 万能フライス盤が全歯車式の定速駆動の最初の機械になりました[1]。

天井のベルトから電動機へ

同じ頃、各機械に電動機を付ける動きが始まります。Brown & Sharpe は 1901 年に General Electric の 4 段変速の直流電動機を主軸につないで試しましたが、遅い回転で力を出すには電動機が大きく高くなり、粗い送りでは電気を食いすぎました。変速できる電動機を主軸に直結するのは答えにならなかったのです。答えは、一定の速さで回る電動機で、定速駆動の歯車箱を回すことでした。Cincinnati は 1903 年に、定速の電動機・摩擦クラッチ・全歯車式の主軸駆動を組み合わせた機械を売り出し、1919 年には Brown & Sharpe がひざ形の台の中に電動機を入れます。Woodbury は、ここで主軸とその駆動が今の形になったとしています[1]。

High Power と切削の科学

1907〜08 年、Cincinnati は「High Power」フライス盤を出します。送りの機構をいくつかの単位(ユニット)にまとめて台に付ける作りで(Holz の 1900 年の特許)、主軸と送りの駆動が別々になり、送りを毎分の長さでも主軸 1 回転あたりでも選べました。送りは刃 1 枚あたりの送りで決め、回転数は刃物が熱に耐えられる速さで決めるという、今の切削条件の考え方が、ここで機械の側に入ります[1]。

刃物も変わります。Taylor らの高速度鋼で刃物の速さが 2〜2.5 倍になり、機械は作り直しを迫られました[5]。Cincinnati の A. L. De Leeuw はフライスの刃にかかる力を実験で調べ、当時のカッターは機械の力を出し切る前に壊れていたことを示します。歯の間を広くして刃を強くした正面フライスは、馬力あたりの削り取り量を 5 割増やしました[1][5]。切削油も、ポンプで回して台の中をタンクにする作りが 1918 年までにほぼすべてのメーカーに広がります[1]。

生産フライス盤と自動車

自動車の量産は、フライス盤に「速く、同じ物を、人手を減らして」削ることを求めました。Ford の Highland Park 工場に入った 1912 年の Ingersoll の大形フライス盤は、T 型のシリンダブロックのたった 2 つの工程のための機械でした[13]。1913 年には Cincinnati が Ford のために、シリンダヘッドを削る回転テーブル式の専用機を作り、工作物の締め付けまでカムで自動にしています[1]。

同じ 1913 年、De Leeuw の設計による Cincinnati の自動フライス盤が、ベッド形の生産フライス盤(manufacturing milling machine)の形を決めます。1916 年には、早送りで近づき、切削送りで削り、早戻しで戻って止まる、というテーブルの一巡を自動で繰り返す平形と両頭形がそろい、Lincoln 形の機械に取って代わりました。Woodbury は、Cincinnati の機械の祖先は Lincoln miller だと指摘しています。ひざ形は複雑すぎて自動化に向かず、工具室と少量生産の機械になっていき、量産の自動化は単純なベッド形が担いました[1]。立て形も、1903 年には目盛りとバーニヤを付けた Brown & Sharpe の機械で治具の穴を位置決めする「ジグ中ぐり」に使われ、1910 年には Le Blond がジグ中ぐり用の立てフライス盤を出しています[1]。

油圧・倣い・タレットフライス盤(1927〜1951 年)

型彫り盤と倣い

第一次世界大戦のあと、鍛造・鋳造・プレスの型の需要が増え、腕のいい型彫り職人が手で削るより速く安い方法が求められます[1]。手本(マスタ)をなぞって同じ形を削る倣いの考えは、1818 年の Blanchard の銃床旋盤までさかのぼりますが、鉄を削るには手本を強く押す必要があり、手本がすぐすり減りました[1]。Brooklyn の Keller は、1922 年 10 月の Detroit の展示会で、石こう・セメント・木の手本を軽い力でなぞってクランク軸の鍛造型を削る自動型彫り盤を実演しています[15]。1920 年に J. C. Shaw が出願した、手本に軽く触れるだけで動きを電気で伝える倣いの検出器は、のちに Keller の型彫り盤の原理になりました[1]。Pratt & Whitney は 1931 年 10 月に Keller の会社を買って Hartford へ移し、Keller の型彫り盤は「Pratt & Whitney の Keller」として知られるようになります[19]。

Hydromatic:油圧の生産フライス盤

1927 年、Cincinnati はテーブルの送りを油圧で動かし制御する最初の量産フライス盤を出します。ベッド形の Hydromatic です。送りは無段階で、カムで送りの速さを変えて削り幅や深さが変わっても一定の力で削れ、主軸頭をカムで上げ下げして段差を越えたり形をなぞったりできました。定位置で止めて一息置く仕掛けで、刃の跡を残さずに深さぴったりで削り終えることもできます[1][16]。同じ 1927 年、G. V. Anderson(Philadelphia)は全部を油圧で動かす倣いフライス盤の特許を出願し(権利は Cincinnati へ)、Cincinnati はこれを 1932 年の自動型彫り盤、1935 年の深さを自動で決める立てフライス盤、1936 年の油圧の立てフライス盤 Hydro-Tel に広げました[1]。

がたを消して下向き削り

油圧や機械式の自動送りで量産が進むと、タービン翼のように磨いても刃の跡が消えない仕事が問題になります。刃の回る向きと送りの向きを逆にする上向き削りでは跡が残り、同じ向きにする下向き削りなら跡は残りませんが、送りねじのがたがあるとテーブルが刃に引き込まれて危険です。1935 年ごろのバックラッシ除去装置(Brown & Sharpe は De Vlieg の設計を使い、Cincinnati は Holz の考えを改良)で下向き削りが使えるようになり、テーブルの両端で交互に削って能率も上がりました[1]。

超硬の正面フライス

刃物はまだ高速度鋼が主役でした。Cincinnati が 1938 年に出した手引き『Milling Machine Practice』は、フライスの材料を炭素鋼・高速度鋼・ステライト・超硬の 4 つとし、ほとんどの重切削用のフライスは高速度鋼で、炭素鋼の 2〜2.5 倍の速さで回せると書いています。そのうえで、鋳鉄の正面削りでは超硬の刃を植えた正面フライスが高速度鋼の 2〜3 倍の速さで使われ、仕上げ面もよくなって、ほかの刃物に置き換わりつつある(1937 年)と記しています[22]。

Bridgeport のタレットフライス盤

大工場の生産フライス盤とは反対の端で、町工場の機械を変えたのが Bridgeport です。Connecticut 州 Bridgeport の木型屋を 1927 年に買った Rudolph Bannow は、1929 年に Magnus Wahlstrom と組み、1932 年に 1/4 馬力の電動機を持つ持ち運べる高速フライス頭「Model C」を売り出します。1936 年、木型を届ける途中のトラックの中で、Bannow はこのフライス頭を中心にした機械を紙袋に描いたと伝わります[20][23][21]。

1938 年に 1 号機が出荷されたこの機械は、フライス頭を前後に出し入れできるラムと水平に回る首(タレット)に載せ、頭そのものも傾けられるようにして、ひざ形のテーブルと組み合わせたものでした。工作物を動かさずに、刃物の位置と角度を変えて穴あけ・溝削り・角度削りができ、主軸を上下させるクイル(中空の軸)で穴あけもできます[20][24]。会社は 1939 年に Bridgeport Machines, Inc. になり、1951 年に値段を 12% 上げて 1,575 ドルにしたのが 20 年間で唯一の値上げだったと Bannow は語っています[24]。Bridgeport は 25 万台を超えて作られ(33 万台超とする資料もある)、何千もの町工場の型・治具づくりの土台になりました[20][21]。

Hydromatic1927 年油圧送りの最初の量産フライス盤[1]
Hydro-Tel1936 年油圧の立てフライス盤。のちに MIT の NC の母機[1]
Bridgeport 1 号機1938 年銘板 S38-001。今は博物館に[20]

①NC フライス盤からマシニングセンタへ(1952〜1977 年)

Hydro-Tel が NC になる

1952 年、MIT のサーボ機構研究所は空軍の契約で、Cincinnati の大きな Hydro-Tel 立てフライス盤の駆動と制御を外し、穿孔テープの指令で 3 つの軸を同時に動かす NC フライス盤を作りました。Woodbury は 1959 年に、これを近年のフライス盤のもっとも大事な進歩と呼び、まず最も融通のきく工作機械であるフライス盤に NC が使われたことに意味がある、と書いています[1]。倣いのフライス盤は手で作った手本が要りましたが、NC は図面の数字から直接、立体を削れます。NC の誕生のいきさつ(Parsons の提案、APT 言語など)は第 4 章にあります。

空軍の 100 台と 5 軸

NC のフライス盤を市場にしたのは空軍でした。1955 年、空軍は NC フライス盤 100 台(総額 3,500 万ドル)の製作契約を出し始めます[28]。航空機の外板を削るスキンミルや、翼の部材を削るプロファイラが中心で、Kearney & Trecker はその約 4 分の 1 を受けました[29]。1957 年 10 月には、Giddings & Lewis の磁気テープで動く「Variax」が、空軍の受け入れ試験に通った最初の 5 軸・単一主軸のプロファイルミルになりました[30]。1960 年ごろには Rockford の Sundstrand が 5 軸の「Omnimill」を出しています[34]。工具の向きを変えながら削る 5 軸加工は、こうして航空機の部品から始まりました(今の 5 軸加工は5 軸加工の解説)。

Milwaukee-Matic:工具を自分で替える機械

Kearney & Trecker は 1950 年代の半ば、標準の機械の需要が落ちてきたのを見て、少量の部品を 1 台で仕上げる機械を考え始めます[29]。Hughes から移ってきた主任技師 Wallace E. Brainard らが作ったのが、工具を収めた所から次の工具を選び、2 本の腕を持つ交換アームで主軸の工具と入れ替える工具交換装置(ATC)です。特許は 1958 年 6 月 27 日に出願され、1962 年 9 月 4 日に成立しました[31][32][33]。

この ATC を載せた Milwaukee-Matic は、1959 年 1 月の業界誌で「a flexible automated machining center」として広告されます。フライス削り・穴あけ・リーマ・ねじ立て・中ぐりを 1 台で行い、工具の選択・テーブルの割り出し・主軸の位置・回転数と送りまで General Electric の穿孔テープで動かしました。ある部品では、それまで何台もの機械と治具で行っていた 49 の工程を、1 つの取付具と 1 回の段取りで済ませています[12][29]。この広告で、すでに「マシニングセンタ(machining center)」の語が使われています。

1960 年 3 月の Control Engineering によると、Kearney & Trecker は 1959 年に Milwaukee-Matic を 55 台受注して 30 台を納め、その年に NC の工作機械をどこより多く作りました。いちばん熱心な買い手は航空機の会社より、設計変更の多いミサイルの部品メーカーでした。利用者は 1 台で 4〜5 台分の仕事をすると報告し、営業部長は工具費が 3 分の 1〜10 分の 1 になると語っています。売っていたのは Model II(Model I は作られなかった)で、倍の大きさの Model III を準備していました[29]。ATC の特許は、のちに Giddings & Lewis との長い裁判で争われます[32]。Cincinnati も 1965 年までに紙テープで動くマシニングセンタ CIM-X を出し、1968 年にはこれに工具交換装置を付けました[35][36]。

ATC の特許1958 年出願US 3,052,011、2 本腕の交換アーム[31]
発売の年55 台受注1959 年、30 台を納入[29]
工程の集約49 工程1 つの取付具・1 回の段取りで[12]

Bridgeport と Cincinnati のその後

1968 年、Bridgeport Machines は複合企業の Textron に買われます。1970 年までに Series I の NC 版と Series II が出て、1970 年代には英国の Adcock & Shipley が Bridgeport の欧州の拠点になりました[21]。Indianapolis の Hurco は 1971 年、Bridgeport 形のひざ形フライス盤に付ける、現場で自分でプログラムできる制御装置の開発を始め、1974 年の IMTS にその制御装置と最初の CNC マシニングセンタの試作機を出しました[40]。Cincinnati Milling Machine Co. は 1970 年、フライス盤だけの会社ではなくなったとして社名を Cincinnati Milacron に変えています[39]。

★立形 MC の普及と老舗の再編(1978 年〜)

CNC と立形 MC

1970 年代の終わりには、NC 装置にコンピュータが入った CNC が広がり、プログラムを機械の前で作り直せるようになります。Bridgeport は 1978 年に、プログラムを作る時間を最大 9 割減らすという CNC フライス盤を出しました[21]。Cincinnati Milacron は、機械も CNC 装置(Acramatic)も自社で作る数少ないメーカーで、政府の NC 機械の解説にも Acramatic を付けた同社の立てフライス盤が載っています[41]。

同じ頃、米国の市場にはアジアのメーカーの機械が入り、標準形の機械と CNC 旋盤、簡単な MC で足場を固めます[21]。これに値段で対抗した米国の新しいメーカーが、立形 MC の専業から育ちました。父のガレージの工場から始まった de Caussin 一家の Fadal は 1980 年に最初の立形 MC を出し、制御装置も自社で作って値段を抑え、1995 年までに 1 万台を売ります[45]。割出し台から始めた Haas Automation は 1988 年、最初の立形 MC VF-1 の試作機を IMTS 88 に出しました。公表価格は 49,900 ドルで、米国製の MC が 5 万ドルを切りました[48][49]。立形 MC は、ひざ形フライス盤とボール盤でしていた町工場の仕事を、1 台のプログラムで動く機械に置き換えていきます。

写される Bridgeport

Bridgeport の形は、広まりすぎて写されるようになります。Textron は、台湾から入ってくる立てフライス盤が Series I の外観をまねているとして訴えましたが、国際貿易委員会(ITC)は違反なしと判断し、1985 年 1 月に連邦巡回控訴裁判所もそれを支持しました。機械全体の形は働きのための形なので商標として守れない、というのが理由です。この裁判には台湾の 18 社と YCM(永進機械)などが加わっています[47][21]。「Bridgeport 形」は機種の呼び名にもなり、Hurco が最初の制御装置を付けたのも「Bridgeport 形のひざ形フライス盤」でした[40]。

老舗の再編

1980〜2000 年代に、19 世紀からのフライス盤の老舗はつぎつぎに姿を変えました。Kearney & Trecker は 1979 年に Cross Company と一緒になって Cross & Trecker になり、1991 年に Giddings & Lewis に買われます[42][44]。Fadal も 1995 年に Giddings & Lewis に売られました[45][51]。Cincinnati Milacron は 1998 年に工作機械の事業を UNOVA に売ってプラスチック機械の Milacron になり[52](Cincinnati Machine は 2005 年に UNOVA から MAG Industrial Automation Systems に売られます[55])、Brown & Sharpe は 2001 年に計測機器の事業を Hexagon に売りました[53]。Bridgeport の事業は 2004 年に旋盤の Hardinge が引き継いでいます[54]。米国の工作機械産業全体の後退と、輸入の自主規制(VRA)の話は第 5 章「輸入の波と再生」にあります。

現場で何に効くか。古いフライス盤を見るときは、「送りはねじかラックか、がた取りはあるか(下向き削りができるか)」「主軸は段車かギヤボックスか、電動機は台の中か」「ひざ形かベッド形か、Bridgeport 形のラムとタレットか」「工具は手で替えるか ATC か」を見ると、その機械の世代と得意な仕事がわかります。下向き削りは今の MC では当たり前ですが、バックラッシ除去装置のない古い汎用機では危ない、という話は、この歴史から来ています。今の削り方の基本は機械加工の基本にまとめています。

日本とのつながり

日本のフライス盤は、まず米国の Cincinnati の形を手本に育ちました。1925 年には東京瓦斯電気工業が Cincinnati のフライス盤を手本に作り始め、輸入された Cincinnati・Kearney & Trecker の機械の改良点も研究しています。1941 年には大阪機工が Cincinnati の 3 番フライス盤に準拠したひざ形 MH-3V を開発し、同社のひざ形の原型にしました(国産アーカイブ第 2 章)。この章で見た「ひざ形」「集中操作」「High Power」の系統が、そのまま日本の工場に入ったことになります。

戦後は、量産のベッド形の生産フライス盤で、新潟鉄工所が 1954 年に Rockford の Sundstrand と技術提携しました。1968 年に新潟鉄工所が立て・横の 2 つの向きに主軸頭が回る MC 50DIU を作るときには、話題になっていた Sundstrand の MC「Omnimill」の情報も検討したうえで自社で開発しています(第 2 章 戦後・MC の誕生)。日本の MC の始まりを書いた『日本の技術100年』は、世界最初の MC を Kearney & Trecker の Milwaukee-Matic としていて(同書は 1957 年とします)、日本では 1960 年に日立製作所のグループが 2 本腕の ATC を持つ NC 万能工作機を作りました(第 2 章)。1958 年の牧野の NC フライス盤も、MIT の NC フライス盤から 6 年後のことです(第 2 章 NC)。

流れが逆になるのは 1970 年代です。松浦機械製作所は 1975 年に立形 MC の対米輸出を始め、大阪機工も 1977 年の低価格の立形 MC を米国・欧州に多く輸出しました。1982 年には米国の工作機械メーカーが日本製の MC などを投資税額控除の対象から外すよう米政府に訴え、1987 年には NC 旋盤・MC などの対米輸出自主規制(VRA)が始まります(第 2 章・アメリカ第 5 章)。Haas の VF-1 が「5 万ドルを切る米国製の MC」として出たのは、ちょうどこの規制の時期でした。

英国では、Cincinnati が 1934 年に西欧での機械づくりを始め(英国のフライス盤・MC の系譜)[39]、Bridgeport は英国の Adcock & Shipley を欧州の拠点にしました[21]。1937 年の Brown & Sharpe の Omniversal は英国・フランス・ドイツ・イタリアで広く写されています[1](ドイツ・イタリアのフライス盤の章)。

⑂メーカーの系図

アメリカのフライス盤・マシニングセンタの主なメーカーの、社名の移り変わりと買収です。帯の色が変わるところで社名が変わり、赤い矢印は事業の行き先、右端の › は今も続く会社です。› の無い帯の右端は、この章で確かめた最後の出来事の年で、会社がそこで終わったという意味ではありません(Pratt & Whitney は 1931 年の Keller の買収、Brown & Sharpe は 2001 年の計測事業の売却、Cincinnati は 1998 年の工作機械事業の売却、Giddings & Lewis は 1995 年の Fadal の買収まで)。

18301870191019501990David と J. R. Brown の店(Providence)J. R. Brown & SharpeBrown & Sharpe Mfg. Co.Pratt & Whitney Co.(Hartford)Niles-Bement-Pond の一員Cincinnati Screw & TapCincinnati Milling Machine Co.Cincinnati MilacronCincinnati Machine(UNOVA の傘下)MAG へKearney & Trecker(Milwaukee)Cross & TreckerGiddings & Lewis へGiddings & Lewis(Fond du Lac)Fadal Engineering(精密部品)Fadal(立形 MC)Giddings & Lewis へBridgeport Pattern and Model WorksBridgeport Machines, Inc.Textron の傘下Bridgeport(経営陣が買い戻し)Hardinge へHardinge(Bridgeport の名を継ぐ)Hurco(Indianapolis)Haas Automation(California)帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [5][53][19][39][52][55][10][42][44][50][45][51][46][23][24][21][54][40][48]

見に行ける所

古いフライス盤は工場で使い切られることが多く、見られる所は限られます。公開日・見学の可否・展示の入れ替えは、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。歯車機械の章の見に行ける所もあわせてどうぞ。

American Precision MuseumWindsor(Vermont 州)Lincoln miller の原型を作った Robbins & Lawrence の兵器工場の建物そのもの(国定歴史建造物)にある工作機械の博物館。Bridgeport の製造番号 1 のタレットフライス盤(銘板 S38-001)と、その前に売っていた高速フライス頭が展示され、今の Haas の CNC マシニングセンタも置かれています[57][20]
The Henry Ford(ヘンリー・フォード博物館)Dearborn(Michigan 州)Ford の Highland Park 工場で T 型のシリンダブロックを削った 1912 年の Ingersoll の大形フライス盤を「Made in America」の展示で見られます。Woodbury(1959)は Lincoln 形のフライス盤の良い実物 2 台もここにあると書いています(いまの展示は行く前に確かめてください)[13][1]
Smithsonian 国立アメリカ歴史博物館Washington, D.C.Woodbury(1959)によると、米国で最初に特許を取った 1852 年の Robertson のフライス盤が、Yale 大学から合衆国国立博物館(いまの Smithsonian)へ長期で貸し出されています(目録番号 314,939)。いま展示されているかは確かめられませんでした[1]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「p.」は本のページ、「コマ」はスキャンの通し番号(Woodbury『History of the Milling Machine』の Internet Archive の n 番号)です。

兵器廠万能とひざ形歯車箱と電動機油圧と倣いNC と MC立形 MC1800184018801920196020001827184818621889189819081927193819581988黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

兵器廠のフライス盤と Lincoln miller1808〜1860 年

年出来事メーカー・機種出典
1808年ごろMiddletown(Connecticut 州)で政府に銃を納めていた Simeon North が、この頃すでにフライス盤を使っていた可能性がある、と Woodbury は政府の文書から書いています。Woodbury は確かな機械も図も示せませんでした。歴史家の Merritt Roe Smith は、North が 1816 年ごろに作った軽い機械を、米国で知られている最古のフライス盤としていますWoodbury は North の関係文書(Hicks『United States Ordnance』所収)を国立公文書館などの原本と照らしたうえで「1808 年にもう使っていたかもしれない」とする。年は推定Simeon North[1・コマ8][2][3]
1818年英国から来た銃工たちが Middletown に開いた工場で、旋盤の主軸台を使った手送りのフライス盤が動き始めたと伝わります。刃は歯をやすりで切った小さな円筒で、職人は初め「やすり仕事を奪う新しがり」と嫌ったといいます1851 年に見た E. G. Parkhurst が 1900 年に記憶から描いた復元図による。機械そのものは溶かされて残っていないRobert Johnson(Middletown の銃工場)[1・コマ10][1・コマ11]
1819年John H. Hall が Harpers Ferry の兵器廠で何らかのフライス盤を使っていた記録があります。互換性のある銃の部品を、やすりでなく機械で同じ形にそろえるためでしたHarpers Ferry 兵器廠[1・コマ15]
1823年3月Eli Whitney が陸軍長官 Calhoun にあてた 3 月 20 日の手紙が、Whitney の工場でフライス削りをしていた最初の確かな証拠です。この頃には Springfield と Harpers Ferry の兵器廠でもフライス削りが使われていましたEli Whitney[1・コマ8]
1820〜1827年ごろ★現存する最古のフライス盤とされる「Whitney のフライス盤」。テーブルの自動送りにラックでなく送りねじとナットを使い、箱形の台とギブを備えていました。Roe が 1912 年に見つけて 1818 年としましたが、のちの研究で Whitney の死後の 1827 年ごろの物とみられています年は資料で割れる。Roe(1912・1916)は 1818 年、Woodbury(1959)は「1820 年ごろ」、American Precision Museum は Woodbury と Battison の研究で 1827 年ごろとする。本文では「Whitney が最初に発明した」とは書かないWhitneyville の兵器工場[1・コマ8][1・コマ9][4]
1834年Springfield の兵器廠で記録に残る最初のフライス盤は、モンキーレンチの平面を荒削りする主軸固定の機械でした。翌 1835 年には「Middletown の銃工場で使っているようなフライス盤」を作らせ、刃物の高さをてこで調整できるようにしましたSpringfield 兵器廠[1・コマ15]
1835年ごろNorth Chelmsford(Massachusetts 州)の Gay & Silver の工場のフライス盤は、主軸の高さを変えられ、刃物の軸の先を支えるオーバアームを持っていました。のちのフライス盤の設計者 Frederick W. Howe はこの工場で修業しています1908 年まで使われていた機械の写真による。製作年は 1830〜1841 年の間としか言えないGay & Silver[1・コマ14][1・コマ15]
1848年★Windsor(Vermont 州)の Robbins & Lawrence で、Frederick W. Howe の設計の平フライス盤が作られます。幅の広いベルト車と減速、刃物の軸の外側の支えを備えた、重い仕事に向けた機械で、のちの Lincoln miller の原型になりました。ただしラックとピニオンの送りは重い切込みでびびりましたRobbins & Lawrence[1・コマ15][1・コマ16][5・p.191]
1848年Colt の兵器廠の E. K. Root が、テーブルの下のらせんラックをウォームで送るフライス盤を作ります。主軸をつなぎ離すクラッチと、決めた位置で送りを止める自動停止も付いていましたColt 兵器廠[1・コマ16]
1850年Howe が Robbins & Lawrence で設計したフライス盤は、外販のために作られた最初のフライス盤とみられ、左右の送りにも動力を付けた最初の機械でしたGuy Hubbard(1924)はこれを「万能」フライス盤と呼んだが、Woodbury は Brown の万能フライス盤とは原理の違う機械として退けているRobbins & Lawrence[1・コマ19]
1852年Howe が「万能」と呼ばれたフライス盤を設計します。工作物をつかむチャックを 2 つの面で傾け、割り出し、送れる機械でしたが、今の万能フライス盤の要素は持たない、と Brown & Sharpe の Burlingame は書いています1880 年の国勢調査の報告(Fitch)が「万能フライス盤は 1852 年に Howe が設計」と書いたため、のちに Brown との先後が論争になった。Roe・Woodbury とも、今の意味の万能フライス盤は Brown の 1861〜62 年の発明とするF. W. Howe[1・コマ19][1・コマ20][5・p.208]
1852年10月Robertson のフライス盤が、米国で特許を取った最初のフライス盤になります(10 月 5 日)。主軸と軸受と歯車をまとめて重い縦すべりに載せ、高さを歯車で上下させる作りでした。Whitneyville の工場から Winchester に渡って長く使われ、のちに合衆国国立博物館に貸し出されましたRobertsonUS 9,307[6][1・コマ17][1・コマ18]
1854年E. K. Root が、刃物の軸の外側を支える部品を、今のフライス盤と同じ円筒のオーバアームに置き換えます。片側が開いた「オープンサイド」の機械になり、工作物を出し入れしやすくなりましたColt 兵器廠[1・コマ16][1・コマ31]
1855年★Hartford の George S. Lincoln & Co. が、新しい Colt の兵器廠のために F. A. Pratt の設計のフライス盤を作ります。Robbins & Lawrence の機械を頑丈にし、送りをねじとナットに替えたもので、「Lincoln miller」の名で銃・ミシンの工場に広がり、のちに Pratt & Whitney などが何千台も作りました設計者は Pratt と Root、作ったのは Lincoln の工場。Pratt & Whitney の創業(1860 年)より前の機械で、Pratt & Whitney はのちの作り手George S. Lincoln & Co.Lincoln miller[5・p.165][5・p.137][1・コマ16][1・コマ17]
1860年Lincoln の工場で働いていた Francis A. Pratt と Amos Whitney が、夏に Hartford で小さな部屋を借りて自分たちの仕事を始めます(のちの Pratt & Whitney)。南北戦争で銃の機械の注文が押し寄せましたPratt & Whitney[5・p.178][5・p.177]
1860年ごろWoodbury は、1860 年までにフライス盤は少なくとも米国の金属加工で欠かせない機械になり、南北戦争で大量の銃を作るのに役立ったとまとめています—[1・コマ17]

万能フライス盤とひざ形1861〜1899 年

年出来事メーカー・機種出典
1861年10月Providence Tool Co. の Howe に、ドリルのねじれ溝をやすりで削る手間をなくす機械を頼まれた Joseph R. Brown が、万能フライス盤の図面を描きます(10 月の図面が残る)J. R. Brown & Sharpe[1・コマ22][5・p.208]
1862年3月★Brown & Sharpe の最初の万能フライス盤が 3 月 14 日に Providence Tool Co. へ売られます。旋回するサドルにテーブルを載せ、送りねじと歯車でつないだ割出し台でねじれ溝を削れる機械で、この年のうちに 10 台が売れ、最初の輸出先はフランスでした設計は 1861 年、最初の出荷は 1862 年、特許は 1865 年。Roe の 138 ページの注は発明を「1871 年」と書くが、同じ本の 208 ページは 1861〜62 年で、誤植とみられるJ. R. Brown & Sharpe万能フライス盤[5・p.209][1・コマ22][1・コマ24]
1862年6月Philadelphia の W. B. Bement の特許(6 月 3 日、台の中を工具入れにする工夫)の図に、すでによく整った立てフライス盤が描かれています。立て形のフライス盤の最初の確かな記録ですBement & Dougherty[1・コマ42]
1862年12月Scientific American(12 月 27 日号)が万能フライス盤を初めて誌面で紹介します。中空で一体の鋳物の台に、上下するひざ(ニー)を付けた作りが説明されていますJ. R. Brown & Sharpe[1・コマ22][5・p.209]
1863年Providence Tool Co. が Howe の設計とみられる簡素な平フライス盤を出します。テーブルの横の溝に止め金を締めて送りを自動で切る仕掛け、切りくずと油を受ける油皿、重切削用のオーバアームを備えていましたProvidence Tool Co.[1・コマ20]
1864年11月★Brown が、すくい面を研いでも歯形が変わらない成形カッター(逃げを付けた歯形)の特許を取ります(11 月 29 日)。それまでのカッターは焼きなまして歯をたたき直し、型板に合わせて削り直す必要があり、研ぎ直しのたびに大きな手間がかかっていましたJ. R. Brown & SharpeUS 45,294[7][1・コマ26][5・p.206]
1865年2月万能フライス盤の特許が成立します(2 月 21 日)。特許が切れるまで、市場に出ていた万能フライス盤は Brown & Sharpe の 2 機種だけでしたJ. R. Brown & SharpeUS 46,521[8][1・コマ22][1・コマ25]
1867年Brown & Sharpe のカタログ(5 月 15 日)に、左右と上下の送りねじに 1,000 分の 1 インチ(約 0.025mm)まで読める目盛り環を付けたフライス盤が載ります。Woodbury は、工作機械でこうした目盛りを使った最初としますBrown & Sharpe[1・コマ24]
1868年J. R. Brown & Sharpe が Brown & Sharpe Manufacturing Co. として法人になります。同じ年から 1873 年ごろまで Howe が加わり、のちに「Howe miller」と呼ばれる No. 12 平フライス盤を設計しましたBrown & Sharpe Mfg. Co.[5・p.204][5・p.209][1・コマ21]
1870年1月James Watson がキー溝を削る立てフライス盤の特許を取ります(1 月 11 日)。上下に動く主軸の下で、テーブルが送られる、今の立てフライス盤の見た目に近い最初の機械でしたJames Watson[1・コマ42]
1876年Philadelphia の建国 100 年博覧会に、Brown & Sharpe が大形の万能フライス盤を出します。1862 年の機械のほぼ 2 倍の大きさで、減速歯車(バックギヤ)とオーバアームを足し、蒸気機関や機関車の部品のような重い仕事に向けたものでしたBrown & Sharpe[1・コマ24][1・コマ25]
1880年ごろGarvin の平フライス盤が、ひざ形(コラムとひざ)の台にオーバアームを組み合わせ、「今のひざ形フライス盤の原型」と呼ばれる形になりますWoodbury の図の年は 1880 年(Garvin の No. 4)。本文は「ほぼ同じ頃」とするだけで、正確な年ははっきりしないGarvin Machine Co.[1・コマ24]
1881〜1882年Cincinnati の Frederick Holz らのフライス盤が、送りのハンドルを斜めに並べて 1 か所から操作できる「集中操作」の形になります。主軸を左回りにして、ボール盤や旋盤のドリル・リーマをそのまま使えるようにしましたWoodbury は Cincinnati Milling Machine Co. の機械とするが、この社名は 1889 年から(Roe)Cincinnati Screw & Tap[1・コマ39]
1883年8月L. Cosgrove の立てフライス盤の特許。テーブルをひざ形の台で上下・前後・左右に送り、主軸頭を立てから横まで好きな角度に傾けられる機械でしたPedrick & Ayer[1・コマ43]
1888年Brown & Sharpe が平フライス盤に付ける立て削りのアタッチメントを出し、送りの段数を等比級数(幾何級数)でそろえる考えもこの頃から機械に入れましたBrown & Sharpe[1・コマ43][1・コマ36]
1889年★ねじとタップの店から始まった Cincinnati Screw & Tap が、Cincinnati Milling Machine Co. になります。Holz がタップの溝を削るために木の台で作ったフライス盤が売れたのが始まりで、社長は Frederick A. Geier でしたCincinnati Milling Machine Co.[5・p.272][5・p.273]
1893年ごろIngersoll Milling Machine Co. が Cleveland から Rockford(Illinois 州)へ移ります。平削り盤のような門形の台に複数の主軸頭を載せた、重いプラノミラーの開発で先頭に立ちましたIngersoll Milling Machine Co.[5・p.274]
1896年Holz が、オーバアームとひざを長穴で締め付ける調整式の支え(ブレース)を考え、Cincinnati のフライス盤に付けます。重い切込みで刃物の軸がたわまないようにする工夫でしたCincinnati Milling Machine Co.[1・コマ32]
1898年★Milwaukee(Wisconsin 州)で、Kempsmith の工場長だった Theodore Trecker と設計技師の Edward J. Kearney が工場を開き、翌 1899 年にフライス盤を作り始めます。Kearney & Trecker はのちにひざ形フライス盤の大手になり、1958 年には最初のマシニングセンタを生みました創業者と年は American Machinist 1937 年 12 月 15 日(Trecker の勤続 50 年の記事)と同社の広告(1924 年の「Founded 1898」、1959 年の「Since 1898」)による。Kearney は 1934 年に亡くなり、1937 年には Trecker が社長。1913 年の特許の一覧に 2 人の連名の特許が載るKearney & Trecker[9][10][11][12][5・p.276]

歯車箱・電動機・生産フライス盤1900〜1926 年

年出来事メーカー・機種出典
1900年パリ万国博覧会で Cincinnati の新しいフライス盤が金賞を受けます。送りをすべて歯車で確実に伝える(ベルトのすべりがない)最初のフライス盤でしたCincinnati Milling Machine Co.[1・コマ36]
1900年10月Holz の特許(10 月 2 日成立)が、送りの機構をいくつかの単位にまとめて台にボルトで付ける「ユニット構造」を示します。以後の Cincinnati のフライス盤はこの作りになりましたCincinnati Milling Machine Co.[1・コマ29]
1901年★John Parker が 1900 年 12 月のメモで示した「定速駆動」の No. 2 万能フライス盤ができます。1 本のベルトを一定の速さで回し、主軸の回転数も送りも歯車箱で切り替える、全歯車式の最初のフライス盤で、送りを主軸の回転と別に選べるようになりましたBrown & SharpeNo. 2 万能フライス盤[1・コマ33][1・コマ34]
1901年1月Brown & Sharpe が No. 5 平フライス盤に General Electric の 4 段速度の直流電動機を付けて試します。変速できる電動機を主軸につなぐやり方は、電動機が大きく高く、遅い回転と粗い送りで電気を食い、答えになりませんでしたBrown & Sharpe[1・コマ35]
1903年Cincinnati が、一定の速さで回る電動機から摩擦クラッチと全歯車式の主軸駆動につなぐ電動のフライス盤を売り出します。天井のベルトから機械ごとの電動機への切り替えは、この「定速の電動機+歯車箱」の形で進みましたCincinnati Milling Machine Co.[1・コマ35][1・コマ36]
1903年目盛りとバーニヤを付けた Brown & Sharpe の立てフライス盤が、治具の穴の位置を決めて開ける「ジグ中ぐり」に使われます。1910 年には Le Blond がジグ中ぐり用に作った立てフライス盤を出しましたBrown & Sharpe[1・コマ44]
1907〜1908年★Cincinnati が「High Power」フライス盤を出します。ユニット構造で、主軸と送りの駆動が別になり、送りを毎分の長さでも 1 回転あたりでも選べました。刃 1 枚あたりの送りで送りを決め、刃物が熱に耐える速さで回転を決める、今の切削条件の考え方が機械に入りましたCincinnati Milling Machine Co.High Power[1・コマ29][1・コマ37]
1904〜1911年Cincinnati の A. L. De Leeuw が、フライスの刃に働く力を実験で調べ、当時のカッターは機械より先に壊れていたと示します。歯の間を広くした新しい正面フライスで、馬力あたりの削り取り量を 5 割増やしましたCincinnati Milling Machine Co.[1・コマ40][5・p.277]
1912年Ford の Highland Park 工場に入った Ingersoll の大形フライス盤は、T 型のシリンダブロックの 2 つの工程だけを受け持ちました。今は The Henry Ford で展示されていますIngersoll Milling Machine Co.[13]
1913年Cincinnati が Ford のために、自動車のシリンダヘッドの継ぎ手を削る回転テーブル式の専用フライス盤を作ります。工作物の締め付けと取り外しはカムで自動でしたCincinnati Milling Machine Co.[1・コマ44]
1913年★De Leeuw の設計による Cincinnati の自動フライス盤が、ベッド形の「生産フライス盤(manufacturing milling machine)」の形を決めます。1916 年には、早送り・切削送り・早戻し・停止を自動で繰り返す平形と両頭形が出そろい、Lincoln 形の機械に取って代わりましたCincinnati Milling Machine Co.[1・コマ46][1・コマ47]
1918年ポンプで切削油を回し、台の中を油のタンクにする作りが、1918 年までにほぼすべてのフライス盤メーカーに広がります—[1・コマ40]
1919年Brown & Sharpe が、ひざ形フライス盤の台の中に電動機を入れます。Woodbury は、これで主軸とその駆動が今の形になったとしますBrown & Sharpe[1・コマ36]
1920年2月J. C. Shaw が、手本の型に軽く触れるだけで動きを電気で伝える倣いの検出器を出願します(1924 年成立の US 1,506,454 ほか)。この原理はのちに Pratt & Whitney の Keller 型彫り盤に使われましたJ. C. Shaw[1・コマ49][14]
1922年10月Brooklyn の Keller が Detroit の展示会で自動型彫り盤(ダイシンカー)を実演し、クランク軸の鍛造型と吸気マニホールドの中子型を削ります。石こう・セメント・木の手本を軽い力でなぞり、深さ 8 インチ(約 200mm)まで削れましたKeller Mechanical Engraving Co.Type F 自動型彫り盤[15・p.236]

油圧・倣い・タレットフライス盤1927〜1951 年

年出来事メーカー・機種出典
1927年★Cincinnati が、テーブルの送りを油圧で動かし制御する最初の量産フライス盤(ベッド形の Hydromatic)を出します。送りは無段階で、カムで送りの速さや主軸頭の上下を変えられ、量産の部品を速く削れました年は Woodbury による(Ernst と Nenninger の油圧駆動の特許は 1927 年 9 月出願、1931 年成立)。Hydromatic の名の機械は 1929〜30 年の American Machinist に載るCincinnati Milling Machine Co.Hydromatic[1・コマ47][1・コマ48][16][17]
1927年8月G. V. Anderson(Philadelphia)が、すべて油圧で動く倣いフライス盤の特許を出願します(1934 年成立の US 1,952,230)。のちの Cincinnati の型彫り盤・Hydro-Tel・倣い盤の元になりましたWoodbury は「J. W. Anderson」と書くが、公報の発明者は Gilbert V. Anderson(Philadelphia)で、権利は Cincinnati Milling Machine に譲渡されている。1927 年 8 月 1 日出願、1934 年 3 月 27 日成立Cincinnati Milling Machine Co.[1・コマ49][18]
1931年10月Pratt & Whitney が、自動型彫り盤で知られた Brooklyn の Keller Mechanical Engineering Corp.(従業員 200〜300 人)を 10 月 7 日に買い、Hartford へ移しますPratt & Whitney[19]
1932年Cincinnati が油圧の技術を全自動の型彫り盤に使います。1935 年には深さを自動で決める立てフライス盤にも広げましたCincinnati Milling Machine Co.[1・コマ48][1・コマ49]
1932年Bridgeport(Connecticut 州)の木型屋の Rudolph Bannow と Magnus Wahlstrom が、1/4 馬力の電動機を持つ持ち運べる高速フライス頭「Model C」を売り出しますBridgeport Pattern and Model Works[20][21]
1935年5月送りねじのがた(バックラッシ)を消す装置の特許(De Vlieg、5 月 28 日)。がたが消えると、刃の回る向きと送りの向きが同じ「下向き削り」ができ、タービン翼のような面をきれいに仕上げられるようになりましたBrown & Sharpe[1・コマ48]
1936年Cincinnati が油圧で制御する立てフライス盤 Hydro-Tel を出します。倣いの装置を付けると、手本どおりの立体を削れました。16 年後、MIT はこの機械を改造して NC フライス盤を作りますCincinnati Milling Machine Co.Hydro-Tel[1・コマ48][1・コマ50]
1937年Brown & Sharpe が「Omniversal」フライス盤を出します。初めは用途が狭いと見られましたが、第二次世界大戦でとても役に立ち、英国・フランス・ドイツ・イタリアで広く写されましたBrown & SharpeOmniversal[1・コマ45]
1938年Cincinnati の手引き『Milling Machine Practice』は、フライスの材料を炭素鋼・高速度鋼・ステライト・超硬の 4 つとし、主役は高速度鋼(炭素鋼の 2〜2.5 倍の速さで回せる)と書きます。鋳鉄の正面削りでは、超硬の刃を植えた正面フライスが高速度鋼の 2〜3 倍の速さで置き換わりつつありましたCincinnati Milling Machine Co.[22]
1938年★Bannow が 1936 年に思いついた、自社のフライス頭を中心にしたタレットフライス盤の 1 号機が出荷されます。頭を前後に出し入れできるラムと旋回する首に載せ、ひざ形のテーブルと組み合わせた機械で、のちに 25 万台を超えて作られ、町工場の型・治具づくりの標準になりました製造番号 1 の機械の銘板は「S38-001」で、American Precision Museum は 1938 年の出荷とする。International Directory of Company Histories は最初の納入を 1939 年 8 月(Syracuse の鋳造会社、995 ドル)とし、販売台数を 33 万台超とする。業界誌の新製品欄が「新しいタレットフライス盤」として紹介したのは 1939 年 2 月(Machinery・Tooling & Production)で、1938 年の 1 号機の出荷と 1939 年の売り出しは両立するBridgeport Pattern and Model WorksBridgeport タレットフライス盤[20][23][24・p.15][25][26]
1939年Bannow 夫妻と Wahlstrom 夫妻が、木型の部門を手放した Bridgeport Pattern & Model Works を Bridgeport Machines, Inc. に改めます(1939 年 1 月の業界誌が設立を報じる)。会社のすべてをタレットフライス盤・高速フライス頭・精密主軸に向けると Bannow は発表しました。1951 年にフライス盤の値段を 12% 上げて 1,575 ドルにしましたが、20 年間で値上げはこの 1 回だけだったと Bannow は語っていますBridgeport Machines, Inc.[27・p.20][25][24・p.15][24・p.16][21]

NC フライス盤からマシニングセンタへ1952〜1977 年

年出来事メーカー・機種出典
1952年MIT が空軍の契約で、Cincinnati の Hydro-Tel 立てフライス盤の駆動と制御を外し、穿孔テープの指令で 3 軸を同時に動かす NC フライス盤を作ります。NC の誕生そのものは第 4 章で詳しく書きますMIT サーボ機構研究所[1・コマ50]
1955年空軍が NC フライス盤 100 台(総額 3,500 万ドル)の製作契約を出し始めます。航空機の外板を削るスキンミルや、翼の部材を削る倣い盤(プロファイラ)が中心で、Kearney & Trecker はその約 4 分の 1 を受けました—[28][29]
1957年10月Giddings & Lewis の磁気テープで動く「Variax」が、空軍の受け入れ試験に通った最初の 5 軸・単一主軸のプロファイルミルになります。Fond du Lac(Wisconsin 州)の工場で同じ機械を 5 台作っていましたGiddings & LewisVariax[30・p.155]
1958年6月★Kearney & Trecker が、工具を収めた所から次の工具を選び、2 本の腕を持つ交換アームで主軸の工具と入れ替える工具交換装置(ATC)の特許を出願します(6 月 27 日。1962 年 9 月 4 日成立)。主任技師 Wallace E. Brainard らの発明で、これを載せた機械が Milwaukee-Matic ですMilwaukee-Matic の年は資料で 1957〜1959 年に割れる。この章は特許出願の 1958 年を見出しの年とし、発売は 1959 年初めの広告と業界誌で確かめた。『日本の技術100年』は 1957 年とする(国産アーカイブ第 2 章)Kearney & TreckerUS 3,052,011[31][32][33]
1959年発売の年に Milwaukee-Matic は 55 台の注文を受け、30 台を納めます。いちばん熱心な買い手は航空機より、設計変更の多いミサイルの部品メーカーでした。売っていたのは Model II で、Model I は作られず、倍の大きさの Model III を準備していましたKearney & TreckerMilwaukee-Matic[29]
1959年1月★Kearney & Trecker が Milwaukee-Matic を「a flexible automated machining center」と広告します。フライス削り・穴あけ・リーマ・ねじ立て・中ぐりを 1 台で、工具の選択とテーブルの割り出しまで General Electric の穿孔テープで動かし、ある部品では 1 回の段取りで 49 の工程を済ませましたKearney & TreckerMilwaukee-Matic[12][29]
1960年ごろRockford の Sundstrand が 5 軸の「Omnimill」を出し、業界誌は NC の機械の新しい流れの例として軸の動きの図を載せます。のちに日本の新潟鉄工所が自社の MC を開発するときにも検討した機械でしたSundstrandOmnimill[34]
1965年までにCincinnati が、紙テープで動く「マシニングセンタ」CIM-X と、工具を自動で替えるテープ制御のマシニングセンタ(型式 ATC)を出します。1968 年 4 月の American Machinist は CIM-X に工具交換装置が付いたと伝え、1969 年には新しい NC 装置 Acramatic 5 を積んだ CIM-X が紹介されましたどれも業界誌の年の索引の見出しによる(本文の号は未見)。英国の M&PE 1965 年の巻に CIM-X と型式 ATC が載るので「1965 年までに」とした。発売の月は未確認Cincinnati Milling Machine Co.CIM-X[35][36][37]
1968年Textron が Bridgeport Machines を買います。1970 年までに Series I の NC 版と Series II が出て、1970 年代には英国の Adcock & Shipley も Bridgeport の欧州の拠点になりましたBridgeport Machines, Inc.[21]
1969年11月Kearney & Trecker が Giddings & Lewis を ATC の特許の侵害で訴えた裁判で、地裁が 11 月 18 日に K&T の勝ちとします。しかし控訴裁判所は 1971 年 10 月 28 日、特許を許した元審査官を K&T が雇って再発行の手続きを手伝わせたことを重く見て、再発行で足した請求項を無効とし、判決を覆して Giddings & Lewis の勝ちとしました。最高裁は 1972 年 4 月 17 日に上告を受け付けませんでしたKearney & Trecker[32][38]
1970年Cincinnati Milling Machine Co. が、フライス盤だけの会社ではなくなったとして社名を Cincinnati Milacron に変えますCincinnati Milacron[39]
1971年Indianapolis の Hurco が、Bridgeport 形のひざ形フライス盤に付ける、現場で自分でプログラムできる制御装置の開発を始め、1974 年の IMTS に、その制御装置と最初の CNC マシニングセンタの試作機を出しますHurco[40]

立形 MC の普及と老舗の再編1978 年〜

年出来事メーカー・機種出典
1978年Bridgeport が、プログラムを作る時間を最大 9 割減らすという CNC フライス盤を出します。1970 年代の終わりには、アジアのメーカーが標準形の機械と CNC 旋盤・簡単な MC で米国市場に入ってきましたBridgeport Machines, Inc.[21]
1970年代後半Cincinnati Milacron は、機械も CNC 装置(Acramatic)も自社で作る数少ないメーカーでした。政府の NC 機械の解説には、点から点へ位置決めする Acramatic 220 を付けた同社の立てフライス盤が載っています同社の制御部門が最初の CNC を出したのは 1973 年(American Machinist 1998 の部門史。第 4 章)Cincinnati Milacron[41]
1979年Kearney & Trecker が Michigan 州の Cross Company と一緒になり、Cross & Trecker になります。司法省は同じ年の 9 月、この合併が独占禁止法に反するとして、どちらかを手放すよう求めて訴えました合併は 1979 年の初め(Iron Age 1979 年 1 月 8 日 p.17 に「Cross & Trecker は Michigan に本拠」の記事、Profiles 1982 は「1979 年の早いうち」とする)。正確な月日は確かめられなかった。Giddings & Lewis の社史は Cross & Trecker を Bloomfield Hills(Michigan 州)の会社とするCross & Trecker[42][43][44]
1980年父のガレージの工場から始まった de Caussin 一家の Fadal が、最初の立形マシニングセンタを出します。制御装置も自社で作って値段を抑え、1995 年までに 1 万台の MC を売りましたG&L の 1996 年の年次報告書は、Fadal を「1961 年に精密金属部品のメーカーとして創業」と書くFadal[45][46・コマ129]
1985年1月台湾から入ってくる立てフライス盤が Bridgeport Series I の外観をまねているとして Textron が訴えた件で、国際貿易委員会(ITC)は違反なしと判断し、連邦巡回控訴裁判所が 1 月 24 日にその判断を支持します。機械全体の形は働きのための形(機能的)で商標として守れず、守れる余地があるのはコラムとラムの曲線だけだが、それも買い手に Bridgeport の印として知られていたとは示せない、という理由でした。台湾の 18 社と YCM(永進機械)などが参加しましたITC の判断は 1983〜84 年(337-TA-133)。IDCH は ITC が「宣伝資料のあからさまな写し」を指摘しつつ訴えを退けたとするTextron(Bridgeport)[47][21]
1988年★割出し台から始めた Haas Automation(California 州)が、最初の立形マシニングセンタ VF-1 の試作機を IMTS 88(Chicago)に出します。公表価格は 49,900 ドルで、米国製の MC が 5 万ドルを切りましたHaas AutomationVF-1[48][49]
1991年Giddings & Lewis が Cross & Trecker を買い、Kearney & Trecker の流れも Giddings & Lewis に入りますGiddings & Lewis[44][50]
1995年4月Giddings & Lewis が 4 月 24 日に Fadal を買います。買値は約 1 億 8,000 万ドルで、Fadal は年に 3,000 台近い立形マシニングセンタを作る、小形の立形 MC の世界一のメーカーになっていました買収日と価格(1 億 7,958 万ドル)は G&L の 1996 年の年次報告書による。年に 3,000 台近くは 1996 年の数字Fadal[46・コマ152][46・コマ129][46・コマ132][45][51]
1998年Cincinnati Milacron が工作機械の事業を UNOVA に売り、プラスチックの機械の会社 Milacron になります。工作機械は Cincinnati Machine として UNOVA の傘下に入りましたCincinnati Machine[52]
2001年Brown & Sharpe が計測機器の事業を Hexagon(スウェーデン)に売り、残った会社は BNS Co. になりますBrown & Sharpe[53]
2004年11月旋盤の Hardinge が、Bridgeport の世界の事業の知的財産と資産を買い取ります。ひざ形フライス盤は、すでに 2002 年からライセンスで作っていましたHardinge[54]
2005年4月UNOVA が、Cincinnati Machine を含む工作機械の事業 Cincinnati Lamb を、New York の Maxcor が作った MAG Industrial Automation Systems に約 6,000 万ドル(年金などの債務の引き受けを含む)で売ります。3 月 17 日に契約し、4 月 4 日に売却を終えました金額は現金 1,600 万ドル・手形 1,000 万ドル・約 3,400 万ドルの債務の引き受けの合計(UNOVA の 8-K)Cincinnati Machine(Cincinnati Lamb)[55]
2006年1月Hardinge が、Bridgeport のひざ形フライス盤の技術情報を権利の持ち主(BPT IP)から 500 万ドルで買い取ります。2005 年 12 月 27 日に買い取りの権利を使い、2006 年 1 月 27 日に発表しました。これで Bridgeport のひざ形フライス盤の製品と名前を自社で持つことになりましたHardinge は 2002 年 11 月からライセンスでひざ形フライス盤を作っていた(2006 年の発表)。8-K は独占の契約(Alliance Agreement)を 2004 年 11 月 3 日付とするHardinge[56]

よくある質問

最初のフライス盤は Eli Whitney が作ったのですか?
はっきりしません。Whitney の工場の機械は現存する最古のフライス盤とされ、Roe は 1818 年としましたが、その後の研究で Whitney の死後の 1827 年ごろの物とみられています。Middletown の Simeon North や Robert Johnson の工場、Springfield・Harpers Ferry の兵器廠にも、1810〜20 年代に似た機械がありました。確かなのは、銃の部品のやすり仕事を置き換えるために、いくつもの銃工場で同じ頃に育ったということです。
万能フライス盤とひざ形フライス盤はどう違うのですか?
ひざ形は、コラムの前面をひざごと上下させてテーブルの高さを変える形のことで、今の汎用フライス盤のほとんどがこの形です。万能フライス盤は、そのひざ形に、水平に回るテーブルと、送りねじと歯車でつないだ割出し台を加えた機械で、ねじれ溝や歯車を削れます。どちらも 1861〜62 年の Brown & Sharpe の機械で形が決まりました。
最初のマシニングセンタは何ですか?
Kearney & Trecker(Milwaukee)の Milwaukee-Matic です。2 本腕の交換アームで工具を自動で替える ATC を持ち、穿孔テープで工具の選択からテーブルの割り出しまで動かしました。ATC の特許は 1958 年 6 月に出願され、機械は 1959 年 1 月の業界誌で「machining center」として広告されています(1957 年とする資料もあります)。
Bridgeport のフライス盤は、なぜ世界中に広まったのですか?
ラムとタレットに載せた頭を前後・左右に振り、傾けられるので、工作物を動かさずにいろいろな位置と角度で削れ、クイルで穴もあけられます。1 台で型・治具・試作の仕事のほとんどをこなせて値段も手ごろだったため、25 万台を超えて作られ、町工場の標準になりました。台湾などで同じ形の機械が作られ、1980 年代には外観をめぐる裁判にもなっています。

この先と関係するページ

出典

本と業界誌は Internet Archive のスキャンで、裁判と政府の資料は CourtListener・SEC・GAO で、メーカーの沿革と博物館の解説は各ページを 2026 年 10 月に確かめました。Woodbury の本の番号はスキャンのコマ(1 コマに 1〜2 ページ)です。Google Patents は確かめた日に開けなかったため、古い特許の番号と日付は Woodbury の本と裁判の記録によります。「最初」「世界初」は、何の最初か(特許・製品・量産)を本文に書き分け、資料で年が食い違うものは年表の注に両方を書いています。

  1. Robert S. Woodbury『History of the Milling Machine: A Study in Technical Development』MIT Technology Press(1959)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号。1 コマに 1〜2 ページ)コマ 8・9・10・11・14・15・16・17・18・19・20・21・22・24・25・26・29・31・32・33・34・35・36・37・39・40・42・43・44・45・46・47・48・49・50
  2. Merritt Roe Smith『Harpers Ferry Armory and the New Technology: The Challenge of Change』Cornell University Press(1977)図 13「The “North” milling machine, ca. 1816」
  3. Dennis Karwatka『Building Civilization: The Growth of Production』(2003)Simeon North の項
  4. American Precision Museum「Eli Whitney」(Machine Tool Hall of Fame の解説)
  5. Joseph W. Roe『English and American Tool Builders』Yale University Press(1916。スキャンは 1926 年の再版)p. 137・165・177・178・191・204・206・208・209・272・273・274・276・277
  6. US 9,307「Milling-Machine」William H. Robertson(Hartford)、1852 年 10 月 5 日成立(公報 PDF で確認)
  7. US 45,294「Improved Cutter for Cutting Gear-Wheels」Joseph R. Brown(Providence。Lucian Sharpe と共同の権利)、1864 年 11 月 29 日成立(公報 PDF で確認)
  8. US 46,521 Joseph R. Brown(Providence、J. R. Brown & Sharpe に譲渡)の万能フライス盤、1865 年 2 月 21 日成立(公報 PDF で番号と発明者を確認。日付の印字はスキャンがつぶれており Woodbury 1959 による)
  9. 「Theodore Trecker 50 Years in Machine Tool Business」American Machinist 81 巻(1937 年 12 月 15 日)p.1224j
  10. Kearney & Trecker Corporation の広告「Founded 1898」American Machinist 60 巻 1 号(1924 年 1 月 3 日)
  11. 『Janesville Daily Gazette』1913 年 2 月 21 日(Wisconsin 州の特許の一覧に Edward J. Kearney と T. Trecker の連名の特許)
  12. Kearney & Trecker の Milwaukee-Matic の広告、The Tool Engineer 42 巻 1 号(1959 年 1 月)
  13. The Henry Ford「Ingersoll Milling Machine Used at Ford Motor Company Highland Park Plant, 1912」(収蔵品 31.671.1)
  14. US 1,506,454「Tracer Control for Diesinking Machines」J. C. Shaw、1920 年 2 月 6 日出願、1924 年 8 月 26 日成立(公報 PDF で確認)
  15. 「Keller Automatic Die-sinking Machine」Machinery(New York)29 巻 3 号(1922 年 11 月)p.236p. 236
  16. 「Milling Machines, Plain and Duplex, “Hydromatic”」American Machinist 72 巻 3 号(1930 年 1 月 16 日)
  17. US 1,835,976「Machine Tool Having Hydraulic Feed」Hans Ernst・Lester F. Nenninger、Cincinnati Milling Machine に譲渡。1927 年 9 月 15 日の出願から分割、1931 年 12 月成立(公報 PDF で確認)
  18. US 1,952,230「Automatic Profile Milling Machine」Gilbert V. Anderson(Philadelphia)、Cincinnati Milling Machine に譲渡。1927 年 8 月 1 日出願、1934 年 3 月 27 日成立(公報 PDF で確認)
  19. 「Pratt & Whitney Acquires Keller Corporation」Connecticut Industry 9 巻 11 号(1931 年 11 月)
  20. American Precision Museum「The First Bridgeport」(製造番号 1 のフライス盤の解説)
  21. 『International Directory of Company Histories』「Bridgeport Machines, Inc.」(encyclopedia.com 掲載)
  22. The Cincinnati Milling Machine Co.『Milling Machine Practice』(1938)
  23. American Precision Museum「Rudolph Bannow (1897-1962)」(Machine Tool Hall of Fame の解説)
  24. 『Current Biography Yearbook 1960』H. W. Wilson(1961)「Bannow, Rudolph F.」pp.15〜16p. 15・16
  25. 『Tooling & Production』4 巻 11 号(1939 年 2 月)「New Bridgeport Turret Miller」・「Bridgeport P&M Works Changes Name」
  26. 『Machinery』(New York)45 巻 6 号(1939 年 2 月)「Bridgeport Turret Milling Machine」
  27. 『The Tool Engineer』7 巻 9 号(1939 年 1 月)p.20:Connecticut の業界ニュース「Bridgeport Machines, Inc., has been formed」p. 20
  28. 米会計検査院(GAO)『Numerically Controlled Industrial Equipment: Progress and Problems』B-140389(1974 年 9 月 24 日)p.11
  29. 「K&T's Star Performer」Control Engineering 7 巻 3 号(1960 年 3 月)What's New 欄
  30. 「G & L Profiler Gets Air Force OK」American Machinist 101 巻 21 号(1957 年 10 月 7 日)p.155p. 155
  31. US 3,052,011「Machine Tool with a Mechanical Cutting Tool Changer」W. E. Brainard ほか、Kearney & Trecker(1958 年 6 月 27 日出願、1962 年 9 月 4 日成立。公報 PDF で確認。のち 1964・1965 年に再発行)
  32. 米最高裁への上告の申し立て「Kearney & Trecker Corp. v. Giddings & Lewis, Inc.」No. 71-(1972。1969 年 11 月 18 日の地裁判決を付録に収録)
  33. American Precision Museum「Wallace E. Brainard (1912-1976)」(Machine Tool Hall of Fame の解説)
  34. The Tool Engineer 45 巻 3 号(1960 年 9 月):Sundstrand の 5 軸 Omnimill の図を載せた NC の記事
  35. 『Machinery and Production Engineering』(London)107 巻(1965)索引:「CIM-X “machining centre”」pp.615〜616・「Cincinnati type ATC tape-controlled machining centre」p.515
  36. 『American Machinist』112 巻(1968)索引:R. L. Hatschek「Cim-X adds a toolchanger」(4 月 8 日 p.106)・「Tools changed automatically on CIM-X mill」(3 月)
  37. 『Machinery and Production Engineering』114〜115 巻(1969)索引:「Acramatic 5 — a new Cincinnati NC system」・「Machining centre, Cincinnati CIM-X, with Acramatic 5 NC」p.756
  38. 米第 7 巡回区控訴裁判所「Kearney & Trecker Corp. v. Giddings & Lewis, Inc.」452 F.2d 579(1971 年 10 月 28 日。再審理の申し立ては 12 月 1 日に却下、最高裁は 1972 年 4 月 17 日に上告を受理せず)
  39. American Precision Museum「Frederick V. Geier」(Machine Tool Hall of Fame の解説)
  40. Hurco「History of Hurco: Interviews」(Hurco ブログ、創業 45 年の聞き取り)
  41. 米教育省 ERIC『Descriptive Report on Numerically Controlled Equipment』(1978。Cincinnati Milacron の立てフライス盤と Acramatic 220)
  42. 『Chilton's Iron Age』222 巻(1979 年 1〜6 月)索引「Cross & Trecker」
  43. J. A. Mateyka ほか『Profiles of Major Suppliers to the Automotive Industry』米国道路交通安全局(1982)Cross & Trecker の項
  44. 『International Directory of Company Histories』「Giddings & Lewis, Inc.」(Reference for Business 掲載)
  45. 「Embodying the American Dream」American Machinist(2001 年 6 月 1 日。Fadal の de Caussin 兄弟)
  46. Giddings & Lewis, Inc. の 1996 年の年次報告書(Fadal の買収と価格。SEC のマイクロフィッシュのスキャン)コマ 129・132・152
  47. 米連邦巡回控訴裁判所「Textron, Inc. v. U.S. International Trade Commission」753 F.2d 1019(1985 年 1 月 24 日、Appeal No. 84-1261。CourtListener)(判決文の全文:Public.Resource.Org)
  48. Haas Automation「Haas History」
  49. Haas Automation「Very First(VF)」:VF-1 の由来と年表
  50. Giddings & Lewis, Inc. の年次報告書(1992。1991 年の Cross & Trecker 買収を記す)
  51. 「Fadal, Part Two」Modern Machine Shop(コラム)
  52. UNOVA, Inc. Form 10-K(米 SEC、1998 年度。Cincinnati Machine の買収)
  53. BNS Co.(旧 Brown & Sharpe)Form 8-K(米 SEC、2001 年。計測事業を Hexagon へ売却)
  54. Hardinge Inc. Form 8-K(米 SEC、2004 年 11 月。Bridgeport の知的財産と資産の買い取り)
  55. UNOVA, Inc. Form 8-K(米 SEC、2005 年 3 月 23 日提出。3 月 17 日の Cincinnati Lamb の売却契約)と同 8-K(4 月 7 日提出。4 月 4 日の売却完了の発表 EX-99.1)
  56. Hardinge Inc. Form 8-K(米 SEC、2006 年 1 月 3 日提出。Bridgeport ひざ形フライス盤の技術情報の買い取りの権利の行使)と同社の 2006 年 1 月 27 日の発表(8-K の EX-99)
  57. American Precision Museum「About」(建物と収蔵品)