USA 02精密と専業メーカーの時代
第 1 章の兵器工場では、使う機械をその工場で作るのが普通でした。南北戦争のころから、機械を作って売ることを本業にする会社が育ちます。Providence の Brown & Sharpe(ブラウン・アンド・シャープ)は万能フライス盤・万能研削盤・ノギス・マイクロメータで工場の「精度」を変え、Hartford の Pratt & Whitney(プラット・アンド・ホイットニー)は長さとゲージの標準を作り直しました。1880 年代には Cleveland と Cincinnati に専業メーカーが集まり、旋盤だけ、フライス盤だけ、研削盤だけを作る会社が並びます。そして 1900 年、Taylor の高速度鋼が、それまでのすべての工作機械を古くしてしまいます。この章は、Roe(1916)・Woodbury(1959・1960)の研究書、Rosenberg(1963)の論文、当時の業界誌と特許で1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。
1000 分の 1 を
みんなが測れる
時代のはじまり!

この章は「時代の章」です。機械ごとの仕組みの移り変わりは機種の章にあります。万能フライス盤とひざ形フライス盤は第 7 章、タレット旋盤・自動盤・旋盤メーカーは第 6 章、万能研削盤と Norton・Landis は第 8 章、成形カッター・Gleason・Fellows・ホブ盤は第 9 章「アメリカの歯車機械の系譜」、立て旋盤やブローチ盤は第 10 章で詳しく扱います。
Brown & Sharpe と精密の道具(1833〜1863 年)
Brown & Sharpe の始まりは、1833 年に David Brown と息子の Joseph R. Brown が Providence(プロビデンス、ロードアイランド州)で開いた時計と測定器の小さな店です。20 年近くは動力もない店で、1853 年に Lucian Sharpe(ルシアン・シャープ)が加わって J. R. Brown & Sharpe になったときも、働く人は 14 人でした[1]。
目盛りを刻む機械とノギス
転機は 1850 年、J. R. Brown が直線の目盛りを自動で刻む分割機を作ったことでした。機械そのものの誤差や摩耗を補正する仕掛けを持ち、1854 年と 1859 年に同じ形の機械を足しています。この機械で目盛りを刻んだノギス(バーニヤキャリパ)を 1851 年に出し、1/1000 インチ(約 0.025mm)まで読めるようにしました[1]。Roe は、普通の機械工が買える値段で精密に測れる最初の道具だったと書いています。売れ行きは遅く、最初の年は 4 本しか作れませんでしたが、数年で売れるようになりました[1]。
Sharpe は線材や薄板の番手のばらつきにも目を付け、太さが規則的に変わる番手を考えます。1857 年 2 月に主な真ちゅうメーカー 8 社がこれを採り、のちの American Wire Gauge(AWG)になりました[1]。1855 年には時計の歯車や割出し板を作るための精密な歯車割出し機も作っています。目盛りの銅の輪は、Brown がワシントンの米国沿岸測量局まで行って刻んでもらったものでした[1]。測る道具・刻む機械・割り出す機械を自分で持っていたことが、のちの工作機械づくりの土台になります。
万能フライス盤(1862 年)
南北戦争が始まると、Providence Tool Company が Springfield 式のマスケット銃を請け負います。銃の火門に穴をあけるドリルは、工具鋼の線材にねじれた溝を丸やすりで手で削って作っていました。工場長の F. W. Howe(第 1 章の Robbins & Lawrence の設計者)からこの話を聞いた J. R. Brown は、自社のミシン(Willcox & Gibbs)の部品にも同じドリルを使っていたこともあり、新しい機械を考えます[2][1]。それが万能フライス盤で、1 号機は 1862 年 3 月に Providence Tool Company に売られました。その年のうちに 10 台を売り、12 月には Scientific American 誌が紹介しています[1][3]。
何が「万能」だったのか。工作物を割出し台(決まった角度ずつ回す台)でつかみ、テーブルの送りねじと割出し台を歯車でつないで、テーブルが進むにつれて工作物をゆっくり回す。さらにテーブルを水平に傾けられるので、ドリルのねじれ溝のようなねじれ削りができます。同じ機械で歯車の歯も、不規則な形も削れました[2]。土台は 1 つの中空の鋳物で、上下に動くひざ(ニー)にテーブルを載せる作りでした。Rosenberg は、狭い 1 つの問題を解くために作られた機械が、思いもよらない広い用途に広がった最もよい例だとしています[2]。万能フライス盤の構造と、のちのひざ形フライス盤への流れは第 7 章で扱います。
標準をつくる:ねじ・ゲージ・長さ(1864〜1879 年)
Sellers ねじ(1864 年)
ねじは、工場ごとにピッチも山の形も違うのが普通でした。ナットを切り直す手間がかかり、取り替えの部品も合いません。1864 年 4 月 21 日、Philadelphia(フィラデルフィア)の Franklin Institute の例会で、会長の William Sellers(ウィリアム・セラーズ)が「ねじとナットの方式」を発表します[4]。山の角度は 60 度、山頂と谷底はピッチの 1/8 の幅で平らに切り落とし、ボルトの頭とナットの幅も式で決める、という案でした[1]。
当時の英国には Whitworth ねじ(55 度で山頂と谷が丸い)がありました。Sellers は、丸い山頂と谷はぴったり合わせにくい、55 度の角度は確かめにくい、その形どおりの刃物を作るのは高くつく、という 3 つの理由でこれを退けます。60 度は作りやすく米国ですでに広く使われていて、平らな山頂は作るのも確かめるのも簡単だ、というのが Sellers の考えでした[1]。理屈より工場で作れて検査できることを優先した標準です。Franklin Institute の委員会がこれを推し、1868 年に米国政府、1869 年に Pennsylvania 鉄道、1872 年に車両メーカーの団体が採り、1898 年には Zurich の国際会議でねじの標準の形に採られました[1]。1877 年の American Machinist 誌の創刊号は、米国の標準と英国の Whitworth の 2 つを並べて解説しています[5]。ねじの種類と今の規格はねじのページにまとめています。
成形フライスとマイクロメータ
1864 年 11 月、J. R. Brown はすくい面だけを研げば形が変わらない成形フライスの特許を取ります[6][3]。歯の背を、刃の輪郭どおりの曲線で逃がして(二番取りして)あるので、すくい面を研いでも刃先の形は同じまま残ります。それまでの成形の刃物は、切れなくなると焼きなまして刃を切り直し、また焼入れしていました。1880 年の国勢調査の報告は、Brown & Sharpe の成形フライスなら全く同じ刃物をいくつも作れ、研いでも形が変わらないので、互換部品の仕事に大事だと書いています[7]。最初の狙いは歯車の歯を切ることで、ここから同社のインボリュート歯車の歯切りの体系が育ちます(第 9 章)[1]。
ねじを使って長さを読むマイクロメータも、この時代に工場の道具になりました。原理は古く、1848 年にはパリの Palmer が「ねじキャリパ」の特許を取っていました。1867 年、Bridgeport Brass 社が、同じはずの 3 つの薄板ゲージがどれも合わないことに困って試作品を持ち込みます。同じ年の 8 月、パリ万博で Palmer のキャリパを見た Brown と Sharpe は、目盛りを読みやすく分ける Palmer の方式を採り、締め付けのつまみと摩耗の調整を足して、1868 年に「ポケット薄板ゲージ」として売り出しました[1]。「マイクロメータキャリパ」という名前は、1877 年のカタログに載った 1 インチ用のものから使われます[1]。
Pratt & Whitney と長さの標準
Colt の工場で腕を磨いた F. A. Pratt と Amos Whitney は、1860 年の夏に Hartford で小さな部屋を借り、勤めのかたわら糸巻き機を作り始めます。南北戦争で仕事があふれ、1865 年に今の場所に工場を建て、1869 年に資本金 35 万ドルの The Pratt & Whitney Company になりました[1]。銃やミシンを作る機械のほか、ねじのゲージや工具も作り、管用ねじのゲージは長く国の標準でした[1]。
互換の部品を工場どうしでやりとりするには、各社のゲージが同じ「1 インチ」を指していなければなりません。ところが Pratt & Whitney が国内外の標準と自社の基準を比べると、同じ棒が測り方によって長いとも短いとも出て、使える結果になりませんでした。そこで Harvard 大学の W. A. Rogers と同社の G. M. Bond が、ロンドンのヤード原器とパリのメートル原器の信頼できる写しまでさかのぼり、米国沿岸測量局の協力で比べ直す Rogers-Bond コンパレータを作ります。端面を当てて測る方法ではなく、顕微鏡で目盛り線を読む方法を基準にしたのが特徴で、3 年と数千ドルをかけた成果を ASME(米国機械学会)の委員会が認めました[1]。Brown & Sharpe も、長く頼ってきた Whitworth のプラグとリングのゲージの組み合わせに食い違いを見つけ、1878 年に自社の基準となる測長機を作っています[1]。
万能研削盤と自動盤
焼入れした部品は削れないので、砥石で仕上げます。Brown & Sharpe は 1860 年代のはじめから、ミシンの針棒などを仕上げるために旋盤を改造した研削旋盤を使い、1865 年ごろからは外にも売りました[1][2]。1868 年から何年もかけて、研削のために一から考えた万能研削盤をまとめ、1876 年の Philadelphia の建国百年博覧会に出します。Rosenberg はこれを今の重研削の研削盤の直接の先祖としています[1][2]。特許は Brown の死後、1877 年に遺族に与えられました[12][8]。
Colt の出身の C. M. Spencer は、ミシンの糸巻きを削る機械から思いつき、ねじを自動で削る自動のタレット旋盤を作ります。板を付け替えられるカムの円筒が刃物の順番と送りを決める仕組みで、Rosenberg はこれが今の自動旋盤すべての元になったとしています。いちばん大事なカムの円筒は、特許の弁理士が見落として特許から漏れていました[1][2]。1873 年 9 月に成立した特許(米国特許 143,306)は、チャックを回し続けたままねじを切る仕組みと、材料の送りの自動化が中身です[9]。
こうした機械は、ほかの国の兵器工場にも出ていきます。Pratt & Whitney は 1870 年代にプロイセンの Spandau・Erfurt・Danzig の兵器工場に Mauser 銃を作る機械を納め、1875 年のプロイセン政府の礼状は、職人の腕から大きく自由になり、賃金が半分になったと書いています[7][1]。ドイツ側から見た米国式の広がりはドイツ工作機械アーカイブで扱います。
1877 年、業界誌が生まれる。この年 11 月、機械工・技術者・鋳物工・ボイラ工・模型工・鍛冶工のための月刊誌 American Machinist が New York で創刊されます。創刊号の最初の記事は Pratt & Whitney が作る万能チャック、3 ページ目はねじの標準の解説でした[5]。新しい機械と工夫が誌面で全国に知られるようになり、Roe の 1916 年の本も、一部はこの雑誌に載った記事がもとです[1]。
専業メーカーと中西部の工作機械(1880〜1899 年)
Roe によれば、1880 年より前の米国の工作機械づくりは、ほとんどが Allegheny 山脈の東でした。Ohio や Indiana で作られた機械は東の写しで、質も高くありませんでした[1]。1880 年代に入ると、Cleveland・Cincinnati・Hamilton に工作機械のメーカーが生まれ、10 年で東のメーカーと競うようになります。Rosenberg は、1880 年からの 30 年は、フライス盤やタレット旋盤ほどの新しい機械は少ないかわりに、特定の用途に絞った機械が爆発的に増えた時代だとまとめています[2]。
Warner & Swasey と Cleveland
Pratt & Whitney で職長を務めた Worcester R. Warner(ウォーナー)と Ambrose Swasey(スウェイジー)は、1880 年ごろに独立し、まず Chicago で始めて、腕のいい職人が集まらないので翌年 Cleveland に移ります。最初の注文はタレット旋盤 12 台で、以後ずっとタレット旋盤を作りました[1][11]。同社は Lick 天文台の 36 インチ望遠鏡の架台も作り、精密な機械の作り手として名を上げます。Roe は、中西部で初めて東の一流と比べられる仕事をしたのが Warner & Swasey だったと書いています[1]。Cleveland では、多軸の自動盤も生まれました。Pratt & Whitney 出身の Hakewessel と Henn が 1895 年に Hartford の屋根裏で自転車の部品を作るために 5 軸の自動盤を作り、1902 年に Cleveland へ移って National-Acme になります[1]。
Cincinnati:専業の町
Cincinnati では、英国 Leeds 生まれの William Lodge(ウィリアム・ロッジ)が 1880 年 1 月 1 日に William Barker と 1,000 ドルで工場を始めました。10 年で資産は 40 万ドルになり、同じ町の腕のいい職人が次々に独立します。1886 年に相手が Charles Davis に替わって Lodge & Davis になると、Lodge は自分たちは旋盤に絞り、形削り盤や刃物台などは独立したばかりの仲間の工場に注文しました。これが互いに競合しない小さな専業メーカーを育てます[1]。Lodge は 1892 年に Davis と別れ、その 1 年後に Murray Shipley と Lodge & Shipley を作りました[1]。1889 年には英国 Coventry の Alfred Herbert から最初の輸出の注文を取っています[1]。
同じころ、Frederick Holz(ホルツ)はねじとタップを台所で作り始め、タップの溝を削るために木の台のフライス盤を自作しました。それを見た客がフライス盤を注文し、1889 年に The Cincinnati Milling Machine Company が生まれます[1]。1900 年の国勢調査では、Cincinnati に工作機械の工場が 30 あり、生産額は 337 万ドルあまり。7 つは旋盤だけ、2 つは平削り盤だけ、2 つはフライス盤だけ、5 つはボール盤だけ、3 つは形削り盤だけを作っていました[2]。1 つの機種に絞って量を作る、という作り方そのものが互換方式の応用でした。
Jones & Lamson と Hartness、Landis
第 1 章の Robbins & Lawrence の流れをくむ Jones & Lamson は、1889 年に Vermont 州 Springfield に移り、James Hartness(ハートネス)を迎えます。Hartness は手を広げていた会社をタレット旋盤に絞り、刃物台を低く平らにした平タレット旋盤を考えました[1][2]。特許は 1891 年 1 月に出願し、8 月に成立しています(米国特許 457,967)[14]。同社からは、歯車形削り盤の Fellows(1896 年)、多軸自動盤の Gridley、チャック研削盤の Bryant が独立し、小さな Springfield は工作機械の町になります[1]。研削盤では、Pennsylvania 州の Landis 兄弟が 1890 年に会社を作り、Brown & Sharpe の小さな研削盤を使ううちに自社の研削盤を考えました[1]。1897 年には工場が火事で焼けたあと、資本金 10 万ドルの Landis Tool Company として組織し直しています[18]。立て旋盤(立て中ぐり盤)は、E. P. Bullard が 1883 年に最初の機械を設計しています[1](第 10 章)。
自転車が工作機械を変えた。Rosenberg は、1880 年からの機械の改良に、自転車と、のちの自動車が大きな役割を果たしたと書いています。自転車には、軽さ、焼入れした精密な部品、むだのない動力の伝え方と摩擦の少なさが要りました。その答えを探すなかで、玉軸受の研削、薄い管の加工、プレスなどの技術が磨かれ、ほかの産業でも使えるようになりました[2]。多軸自動盤の Acme も、もとは自転車の部品を作るための機械でした[1]。
高速度鋼・重研削・電動機(1892〜1914 年)
Taylor と高速度鋼
F. W. Taylor(フレデリック・テイラー)は、時間研究で知られる前に、刃物の研究者でした。1880 年に Philadelphia の Midvale 製鋼所(会長は William Sellers)で金属の切削の実験を始め、26 年と 20 万ドル以上をかけます[1][11]。1898 年から Bethlehem 製鋼所で Maunsel White と組み、タングステンとクロムを増やして、それまでよりずっと高い温度で焼入れする方法を見つけました。これが高速度鋼(Taylor-White 法)です。1900 年のパリ万博では、急いで旋盤と駆動の電動機と軟鋼の材料を運び込み、切込み 3/16 インチ(約 4.8mm)・送り 1/16 インチ(約 1.6mm)・毎分 120 フィート(約 37m)で、刃先が赤くなっても削り続けてみせました[11]。
困ったのは機械の側でした。Rosenberg は、高速度鋼で速く削れるようになっても、炭素鋼の刃物に合わせて作られた機械は力にも速さにも耐えられず、構造・伝動・操作の部分をすべて作り直すことになったと書いています。20 世紀の最初の 10 年で、旋盤のベッドと往復台は重くなり、送りの機構は強くなり、段車は幅の広いベルト用になりました。大きな旋盤の脚は短くなってついになくなり、ベッドが床まで下がります[2]。Roe も、高速度鋼で切削速度が 2〜2.5 倍になり、この 15 年で工作機械が大きく設計し直されたとまとめています[1]。Cincinnati Milling Machine の重切削向けの「High Power」フライス盤(1907〜08 年)は、その代表です[3]。Taylor は 1906 年に ASME で「On the Art of Cutting Metals」を発表し、切削速度・送り・刃の形・冷却と刃物の寿命の関係をまとめました[2]。
電動機で 1 台ずつ動かす
それまでの工場では、天井を通る長い線軸(ラインシャフト)を蒸気機関や水車で回し、ベルトで 1 台ずつに力を配っていました。電動機で工作機械を動かす使い方は 1892 年ごろに始まり、Taylor も 1894 年から実験に電動機を使っています。1895 年には Philadelphia の Baldwin 機関車工場が、車輪を削る旋盤を 1 台ずつの電動機で動かし、天井の線軸を外して重い品物を運ぶクレーンを付けました[11]。機械の配置をベルトの都合でなく仕事の流れで決められるようになったことが、次の時代(第 3 章)の流れ作業の工場につながります。
Norton と重研削
研削は長い間、旋盤で仕上げた上をうすく磨く「仕上げのまた仕上げ」でした。Brown & Sharpe で研削盤を担当した Charles H. Norton(チャールズ・ノートン)は、重くて強い機械に幅の広い大きな砥石を付け、工作物を送らずに砥石を押し込み(プランジ研削)、機械の精度で寸法を出せば、旋盤の仕上げ削りを省いて研削で一気に仕上げられると考えます。1897 年の社内の会議でこの案を出すと笑われ、Norton は会社を去りました[8][11]。1900 年、砥石の会社 Norton Emery Wheel の出資で Norton Grinding Company ができ、最初の機械は直径 24 インチ・幅 2 インチの砥石を使う 18×96 インチの円筒研削盤でした[1][8]。1903 年には、旋削・やすり・磨きで 5 時間かかっていた自動車のクランク軸を 15 分で仕上げ、1905 年には Norton と Landis が自動車会社に研削盤を納め始めます[11][8]。
重研削を支えたのが人造の砥粒です。1891 年に E. G. Acheson が炭化けい素(カーボランダム)を見つけ、1897 年には C. B. Jacobs が人造アルミナを開発しました。人造アルミナは Norton が「アランダム」の名で 1901 年から Niagara Falls で作り、1906 年ごろまでに天然のエメリーやコランダムに取って代わります[8]。なお、砥石の Norton Company を作った F. B. Norton と、研削盤の Charles H. Norton は親戚ではありません[1]。研削盤の仕組みの移り変わりは第 8 章で扱います。
1914 年の姿
1914 年の国勢調査では、米国の工作機械の工場は 409、生産額は 3,144 万ドルあまりでした。同じ年に American Machinist 誌は、工具なども含めた 570 の工場の地図を載せています。Ohio が 117、Massachusetts が 98、Connecticut が 66 で、30 年前には Buffalo より西にほとんどなかった工場が、いまは半分以上が西にありました[2][1]。Roe はこの年、工作機械の基本の形はもう定まり、これからは速い回転と重い切削、治具の工夫、熟練工なしで動く自動機の時代になると見ています。そしてヨーロッパの戦争の注文が、米国の工作機械メーカーを世界の首位に押し上げつつありました[1]。
現場で何に効くか。この時代に決まったものは、今の工場の基本です。60 度のねじ、1/1000 を読むノギスとマイクロメータ、研いでも形の変わらない成形フライス、割出し台とねじれ削り、カムで動く自動盤、プランジ研削、人造の砥粒、そして「刃物の材料が変わると機械の剛性と馬力を作り直す」という関係。のちに超硬や CBN が出てきたときも、同じことがくり返されます。
⛩日本とのつながり
この時代のアメリカの工作機械は、明治の終わりから大正にかけて、日本の工作機械づくりの手本になりました。国産アーカイブの章で確かめた出来事を、米国側の会社と合わせて並べます。
- 1897 年 Cincinnati の万能フライス盤で歯切り:日本で機械を使って歯車の歯を切った最初は、米 Cincinnati 社の 2 番万能フライス盤と成形フライスで 1 溝ずつ削ったこととされます。万能フライス盤と成形フライスは、どちらもこの章で生まれた道具です(国産アーカイブ第 4 章)[23]。
- 1903〜1905 年 フランシスと池貝の米式旋盤:東京高等工業学校が 1903 年に米国人の Charles A. Francis(フランシス)を実地の指導教員に招き、1905 年に池貝がその仕様書にもとづく米式旋盤の量産を始めました。それまでの日本の旋盤は主に英式でした(国産アーカイブ第 1 章)[21]。
- 1906 年 熊本高等工業学校の米国製旋盤:熊本大学に残る米国製の旋盤などの工作機械は、いまも動く状態で国の重要文化財・機械遺産になっています[22]。
- 1916〜1923 年 大隈と Brown & Sharpe・Pratt & Whitney・Norton:大隈は 1916 年の KE 形旋盤に Brown & Sharpe から買った親ねじを使い、1919 年には陸軍工廠から支給された Pratt & Whitney の旋盤の図面で OP 形旋盤を作りました。研削盤では 1918 年に Norton の万能工具研削盤を手本に GA-1 形を、1923 年ごろに Brown & Sharpe の No.13 にならって GA-2 形を作っています(国産アーカイブ第 3 章)[24]。
米国の精密な道具と専業メーカーの機械は、日本の工場にとって「買って使う」ものであると同時に、「写して学ぶ」ものでした。大正から昭和のはじめの日本のフライス盤が Cincinnati 形を手本にした流れは、国産アーカイブ第 2 章で扱っています。
⑂メーカーの系図
この章に出てくる主なメーカーの、社名の移り変わりです。帯の色が変わるところで社名が変わり、赤い矢印は合流の行き先です。帯の右端は、この章で確かめた 1914 年までで、そこで会社が終わったわけではありません(その後は第 3 章以降)。歯車機械のメーカー(Gleason・Fellows)は第 9 章の系図にあります。
見に行ける所
この時代の機械と、メーカーの人たちが育った工場の跡です。開館日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。第 1 章の Springfield Armory と Harpers Ferry もあわせてどうぞ。
⌛年表
この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料が開きます。「p.」は本・論文のページ、「コマ」は Internet Archive のスキャンの番号、「PDF p.」は国勢調査の報告の PDF のページです。
Brown & Sharpe と精密の道具1833〜1863 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1833年 | ★Providence(ロードアイランド州)で David Brown と息子の Joseph R. Brown が時計と測定器の店を始める。のちの Brown & Sharpe。20 年近くは動力もない小さな店だった | Brown & Sharpe | [1・p.126][1・p.202] |
| 1848年ごろ | William Sellers が Philadelphia で工作機械と伝動装置を作り始め、Bancroft & Sellers となる。1855 年に Bancroft が亡くなり William Sellers & Co. にRoe は「21 歳で工場を任され、その 3 年後に始めた」と書く(Sellers は 1824 年生まれ) | William Sellers & Co. | [1・p.247] |
| 1850年 | J. R. Brown が直線の目盛りを刻む自動の分割機(ディバイディング・エンジン)を作る。機械の誤差や摩耗を補正する仕掛けを持ち、1854・1859 年に同じ形の機械を足した | Brown & Sharpe | [1・p.202][1・p.203] |
| 1851年 | Brown が 1/1000 インチ(約 0.025mm)まで読めるノギス(バーニヤキャリパ)を出す。普通の機械工が買える値段の精密な測定具の始まりとされる。最初の年は 4 本しか作れなかった | Brown & Sharpe | [1・p.203] |
| 1853年 | Lucian Sharpe が共同経営者になり J. R. Brown & Sharpe となる。このときの従業員は 14 人 | J. R. Brown & Sharpe | [1・p.202] |
| 1855年 | 精密な歯車と割出し板を作るための歯車割出し機を作る。目盛りの銅の輪は、米国沿岸測量局の機械で刻んでもらった | J. R. Brown & Sharpe | [1・p.206] |
| 1857年2月 | Sharpe が考えた、太さが規則的に変わる線材の番手(ワイヤゲージ)を、主な 8 社の真ちゅうメーカーが採用する。のちの American Wire Gauge(AWG) | J. R. Brown & Sharpe | [1・p.205] |
| 1860年 | ★Colt の工場で働いた Francis A. Pratt と Amos Whitney が、Hartford で小さな部屋を借り、勤めのかたわら糸巻き機を作り始める。のちの Pratt & Whitney | Pratt & Whitney | [1・p.177][1・p.178] |
| 1862年 | Pratt と Whitney が Monroe Stannard を加え、3 人が 1,200 ドルずつ出す。南北戦争の注文で仕事があふれる | Pratt & Whitney | [1・p.178] |
| 1862年3月 | ★J. R. Brown の万能フライス盤の 1 号機を Providence Tool Company に売る。ドリルのねじれ溝のほか、ねじれ削り・歯車・不規則な形まで削れた。その年のうちに 10 台を売り、12 月に Scientific American 誌が紹介するRoe は 1861〜62 年に考えられたとし、図面は 1861 年付け(Woodbury) | Brown & Sharpe | [1・p.208][1・p.209][2・p.432][3・コマ22] |
標準をつくる:ねじ・ゲージ・長さ1864〜1879 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1864年4月 | ★Franklin Institute の会長 William Sellers が「ねじとナットの方式」を発表する。ねじ山の角度 60 度、山頂と谷を平らにしたねじと、ボルトの頭とナットの寸法を式で決める案。のちの米国標準ねじ(Sellers ねじ) | William Sellers & Co. | [4・コマ57][1・p.248][5・コマ2] |
| 1864年11月 | ★J. R. Brown が、すくい面を研いでも形が変わらない成形フライス(歯車用カッター)の特許を取る。研ぎ直すたびに焼きなまして刃を切り直す手間がなくなった | Brown & Sharpe | [6][3・コマ26][1・p.206][7・PDF p.29] |
| 1865年 | Brown & Sharpe が、14 インチの旋盤を改造した研削旋盤(グラインディング・レース)の製造を始める。ミシンの針棒など焼入れした部品を仕上げるためで、外の会社にも売った | Brown & Sharpe | [1・p.214][2・p.432][8・コマ36] |
| 1865年 | Pratt & Whitney が Hartford の今の場所に最初の工場を建てる | Pratt & Whitney | [1・p.179] |
| 1867年8月 | ★パリ万博で J. R. Brown と Sharpe がフランスの Palmer のねじマイクロメータを見て持ち帰る。Bridgeport Brass の案と合わせ、1868 年に「ポケット薄板ゲージ」として売り出す | Brown & Sharpe | [1・p.211][1・p.212][1・p.213] |
| 1868年 | 米国政府が、政府の仕事のねじに Sellers ねじを採る。1869 年に Pennsylvania 鉄道、1872 年に車両製造業者の協会が続く | — | [1・p.249] |
| 1868年 | J. R. Brown & Sharpe が Brown & Sharpe Manufacturing Company として法人になる。Robbins & Lawrence 出身の F. W. Howe が 1873 年ごろまで工場長を務め、新工場を建てる | Brown & Sharpe Mfg. Co. | [1・p.204][1・p.209] |
| 1869年 | 資本金 35 万ドルで The Pratt & Whitney Company ができる。銃とミシンを作る機械から始め、工具・ゲージへ品目を広げる | Pratt & Whitney | [1・p.179] |
| 1869年 | Colt の出身の C. E. Billings と C. M. Spencer が Hartford で Billings & Spencer を作る。型鍛造の落としハンマと鍛造の精度を高めた | Billings & Spencer | [1・p.175] |
| 1872年 | Brown & Sharpe が木造の古い工場から新工場に移る。従業員は 150〜200 人 | Brown & Sharpe Mfg. Co. | [1・p.209][1・p.210] |
| 1873年までに | ★Spencer が、平らな板を付け替えられるカムの円筒で刃物の動きを決める自動のタレット旋盤(自動盤)を作る。ねじを人手なしで削れるようになった。いちばん大事なカムの円筒は特許から漏れていた特許の出願が 1873 年 3 月なので、機械はそれまでにできていた。Roe と Rosenberg は年を書かない。Spencer は機械の成功を見て 1874 年に Billings & Spencer を離れ、1876 年に Hartford Machine Screw Company を作った(Roe) | C. M. Spencer | [1・p.176][2・p.429][2・p.430][9] |
| 1873年9月 | Spencer が自動のねじ削り機械の特許(米国特許 143,306、1873 年 3 月出願)を取る。主な中身は、チャックを止めずに回し続けたままダイスでねじを切って抜く仕組みと、材料の送りとチャックの開け閉めを自動にする仕組み。1880 年に再発行され、1886 年の侵害の裁判で有効とされたカムの円筒そのものは請求に入っていない(Roe の「特許から漏れた」と合う) | C. M. Spencer | [9][10] |
| 1875年4月 | Pratt & Whitney がプロイセンの Spandau・Erfurt・Danzig の兵器工場に Mauser 銃を作る機械を納め、プロイセン政府から「職人の腕から自由になり、賃金が半分になった」という礼状を受ける。Pratt は 10 回欧州に渡り、200 万ドルを超える注文を取った | Pratt & Whitney | [7・PDF p.9][1・p.179] |
| 1876年 | ★Philadelphia の建国百年博覧会に Brown & Sharpe の万能研削盤が出る。形の研削の仕掛けも持ち、今の重研削の研削盤の直接の先祖とされる。J. R. Brown はこの年 7 月に亡くなる | Brown & Sharpe Mfg. Co. | [1・p.214][2・p.432][11・p.37] |
| 1877年 | Brown & Sharpe が自動の歯切り盤の製造を始め、カタログに 1 インチのマイクロメータキャリパを載せる | Brown & Sharpe Mfg. Co. | [1・p.213][1・p.214] |
| 1877年2月 | 万能研削盤の特許が Brown の遺族に与えられる | Brown & Sharpe Mfg. Co. | [12][8・コマ38][1・p.214] |
| 1877年11月 | ★機械工・技術者向けの業界誌 American Machinist が New York で創刊される(月刊)。創刊号は Pratt & Whitney が作るチャックや、Sellers ねじと Whitworth ねじを紹介した | — | [5][5・コマ2] |
| 1878年 | Whitworth のゲージに頼らず自社の基準を持つため、O. J. Beale らが 1/10000 インチまで目盛りで読める測長機を作る。この 1878 年の機械は American Precision Museum に展示されている | Brown & Sharpe Mfg. Co. | [1・p.210][13] |
| 1879年 | Worcester(マサチューセッツ州)の F. B. Norton が、1873 年ごろから試していた焼成(ビトリファイド)のエメリー砥石を売り出す | F. B. Norton | [1・p.224] |
| 1880年代はじめ | Harvard の W. A. Rogers と Pratt & Whitney の G. M. Bond が、英国のヤード原器とパリのメートル原器の写しから標準の長さを決め直す Rogers-Bond コンパレータを作る。3 年と多額の費用をかけ、ASME の委員会が成果を認めた。これが同社のゲージの基準になるRoe は年を書かず、Bond の論文が Trans. ASME 第 2・3 巻、委員会の報告が第 4 巻に載ると書く | Pratt & Whitney | [1・p.180][1・p.181][1・p.182] |
専業メーカーと中西部の工作機械1880〜1899 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1880年 | F. W. Taylor が Midvale 製鋼所で金属の切削の実験を始める。26 年・20 万ドル以上をかけた実験が高速度鋼と工作機械の作り直しにつながる | Midvale Steel | [1・p.250][11・p.34] |
| 1880〜81年 | ★Pratt & Whitney の職長だった Worcester R. Warner と Ambrose Swasey が独立し、まず Chicago で始め、腕のいい職人を集められず翌年 Cleveland に移る。最初の注文はタレット旋盤 12 台で、以後タレット旋盤を作り続けたAshburn は 1880 年に Chicago で始め翌年 Cleveland へ、Roe は 1881 年に Hartford を出て約 1 年後に Cleveland へと書く | Warner & Swasey | [1・p.262][11・p.28] |
| 1880年ごろ | Cincinnati で Frederick Holz が台所でねじとタップを作り始める。タップの溝を削るために木の台のフライス盤を自作し、それを見た客の注文からフライス盤の商売が始まる | Cincinnati Screw & Tap | [1・p.272] |
| 1880年1月 | Cincinnati で英国生まれの William Lodge が William Barker と 1,000 ドルで工場を始める。10 年で資産 40 万ドルになり、Cincinnati に工作機械メーカーが次々に生まれるきっかけになる | Lodge & Barker | [1・p.269] |
| 1883年 | E. P. Bullard が最初の立て中ぐり盤(立て旋盤)を設計する(テーブル 37 インチ)。それまで旋盤の面板でしていた精密な仕事をこなす小形の機械だった | Bullard | [1・p.184] |
| 1885年 | F. B. Norton が亡くなり、砥石の事業が Norton Emery Wheel Company として法人になる(のちの Norton Company) | Norton Emery Wheel Co. | [1・p.224][1・p.225] |
| 1886年 | 時計会社の工作機械を 20 年担当した Charles H. Norton が Brown & Sharpe に入り、円筒研削盤の設計を受け持つ | Brown & Sharpe Mfg. Co. | [1・p.224][11・p.37] |
| 1889年 | ★Cincinnati Screw & Tap が The Cincinnati Milling Machine Company になる | Cincinnati Milling Machine | [1・p.272][1・p.273] |
| 1889年 | Lodge が最初の輸出の注文を受ける。英国 Coventry で始めたばかりの Alfred Herbert の工場を訪ね、平削り盤を売り込んだ | Lodge & Davis | [1・p.270] |
| 1889年2月 | ★Robbins & Lawrence の流れをくむ Jones & Lamson Machine Company が Vermont 州 Springfield に移り、James Hartness が入る。Hartness は会社をタレット旋盤に絞り、平らなタレット(平タレット旋盤)を考える | Jones & Lamson | [1・p.194][1・p.198][2・p.429] |
| 1890年 | Pennsylvania 州 Waynesboro で F. F. と A. B. Landis の兄弟が Landis Brothers を作る。Brown & Sharpe の小さな研削盤を使ううちに自社の研削盤を考え、のちの Landis Tool Company になる | Landis | [1・p.259][1・p.260] |
| 1891年 | E. G. Acheson が人造の砥粒、炭化けい素(カーボランダム)を見つける。1896 年に特許。ダイヤモンドに次ぐ硬さで、硬い材料の研削に向いた | — | [8・コマ50][8・コマ51] |
| 1891年8月 | Hartness の平タレット旋盤の特許が成立する(米国特許 457,967、1891 年 1 月出願)。明細書は、細長い工作物をチャックから離れた所でもたわませずに削ることと、何本もの刃物がそれぞれ決まった長さだけ削って自動で止まることを目的に挙げるScientific American 1915 は「1889 年に着手、特許は 1891 年と 1904 年」と書く。特許の題は「Machine for Making Screws」(タレット旋盤またはねじ切り盤の改良) | Jones & Lamson | [14][15・p.539][16] |
| 1892〜93年 | Lodge が Lodge & Davis を離れ、Ohio Machine Tool Company を経て Murray Shipley と Lodge & Shipley を作る。旋盤の専業メーカーとして知られるRoe は 1892 年に持ち分を売り、その 1 年後に Shipley と組んだと書く | Lodge & Shipley | [1・p.269][1・p.270] |
| 1895年 | Pratt & Whitney 出身の R. Hakewessel と E. C. Henn が Hartford の屋根裏で自転車の部品を作り、5 軸の多軸自動盤を作る。1902 年に Cleveland に移り National-Acme Manufacturing Company になる | National Acme | [1・p.265] |
| 1896年 | Jones & Lamson の製図係だった E. R. Fellows が歯車形削り盤を考え、Fellows Gear Shaper Company ができる(第 9 章) | Fellows Gear Shaper | [1・p.199] |
高速度鋼・重研削・電動機1892〜1914 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1892年ごろ | 電動機で工作機械を動かす使い方が始まる。1895 年には Baldwin 機関車工場が車輪の旋盤を 1 台ずつの電動機で動かし、天井の線軸(ラインシャフト)を外してクレーンを付けた | — | [11・p.35] |
| 1897年 | C. H. Norton が Brown & Sharpe の研削盤に自動の切込み送りを付け、特許を取る。幅の広い砥石で工作物を送らずに削り(プランジ研削)、機械の精度で寸法を出す考えを社内で出すが、受け入れられなかった | Brown & Sharpe Mfg. Co. | [17][8・コマ40][8・コマ54] |
| 1897年 | Landis Brothers の工場が火事で焼けたあと、資本金 10 万ドルの Landis Tool Company として組織し直され、新しい工場から研削盤を出荷する準備を進める。同じ年の American Machinist の購買案内に、万能研削盤のメーカーとして Waynesboro の Landis Tool Co. が載るAmerican Machinist 1897 年 5 月 20 日号の同社の広告による。Roe は Landis Brothers の始まりを 1890 年とする | Landis Tool Co. | [18・p.24][18・p.22][1・p.259] |
| 1898年 | Sellers ねじの形が、Zurich の国際会議でねじの標準に採られ、欧州大陸でも広く使われるようになる | — | [1・p.249] |
| 1900年 | ★Taylor と Maunsel White が Bethlehem 製鋼所で、タングステンとクロムを増やし高い温度で焼入れする高速度鋼(Taylor-White 法)を完成させ、パリ万博で実演する。切込み 3/16 インチ・送り 1/16 インチ・毎分 120 フィート(約 37m)で、刃先が赤くなっても切れ続けた | Bethlehem Steel | [11・p.34][11・p.35][2・p.441] |
| 1900年 | Philadelphia の Bement, Miles & Co.・Niles Tool Works・Pond・Pratt & Whitney がまとまり Niles-Bement-Pond となる | Niles-Bement-Pond | [1・p.255][1・p.273][1・p.179] |
| 1900年 | 国勢調査の年、Cincinnati には工作機械を作る工場が 30 あり、生産額は 337 万 5,436 ドル。旋盤だけ・平削り盤だけ・フライス盤だけという専業の工場が多かった | — | [2・p.421] |
| 1900年3月 | ★C. H. Norton が Worcester に移り、Norton Emery Wheel の出資で Norton Grinding Company ができる。最初の機械は 18×96 インチ、幅 2 インチ・直径 24 インチの砥石を使う重くて強い円筒研削盤 | Norton Grinding Co. | [1・p.224][8・コマ56][11・p.38] |
| 1901年 | 人造アルミナ(アランダム)の製造工場が Niagara Falls で動き始める(1897 年に C. B. Jacobs が開発、Norton が権利を得る)。1906 年ごろまでにエメリーに取って代わる | Norton | [8・コマ50][8・コマ51] |
| 1903年 | Norton の研削盤が、旋削・やすり・磨きで 5 時間かかっていた自動車のクランク軸を 15 分で仕上げる。1905 年には Norton と Landis が自動車会社に研削盤を納め始めるWoodbury のスキャンの文字は年が読みにくいが、1905 年までに Norton がクランク軸を量産で研削していたと書く | Norton Grinding Co. | [11・p.38][8・コマ57] |
| 1906年 | Taylor が ASME で「On the Art of Cutting Metals」(金属切削の技術について)を発表する。切削速度・送り・刃の形・冷却と工具寿命の関係をまとめたASME の会報では 1907 年刊。Rosenberg は 1907 年の刊行物として引く | — | [2・p.441][1・p.250] |
| 1907〜08年 | Cincinnati Milling Machine が、Holz が試作を重ねたユニット式の構造の「High Power」フライス盤を出す。高速度鋼の重切削に合わせた | Cincinnati Milling Machine | [3・コマ29] |
| 1912年 | Landis がカム軸研削盤の特許を取る。見本の大きなカムを工作物と同期させ、カムからカムへ自動で送る | Landis | [8・コマ58] |
| 1914年 | ★米国の工作機械の工場は 409、生産額は 3,144 万 6,660 ドル(国勢調査)。同じ年に American Machinist 誌が工具なども含めた 570 の工場の地図を載せ、Ohio が 117 でいちばん多かった | — | [2][1・p.278] |
よくある質問
- Sellers ねじと Whitworth ねじは何が違いますか?
- Sellers ねじ(1864 年、のちの米国標準ねじ)は山の角度が 60 度で、山頂と谷底を平らに切り落とします。英国の Whitworth ねじは 55 度で、山頂と谷が丸い形です。Sellers は、平らな山と 60 度のほうが刃物を作りやすく、検査もしやすいとして 60 度を選びました。60 度の山はのちのユニファイねじやメートルねじにも引き継がれています。
- Brown & Sharpe の万能フライス盤は、何が「万能」だったのですか?
- 割出し台とテーブルの送りを歯車でつなぎ、テーブルを傾けられるようにして、ドリルのねじれ溝のような「ねじれ削り」ができたことです。同じ機械で歯車の歯や不規則な形も削れました。1862 年 3 月に 1 号機が売られ、上下に動くひざ(ニー)にテーブルを載せる作りは、のちのひざ形フライス盤の元になりました。
- 高速度鋼が出て、工作機械の何が変わりましたか?
- 刃物が赤くなるほどの温度でも切れるようになり、切削速度が 2〜2.5 倍になりました。そのぶん機械には大きな力と速さが要るので、ベッドや往復台は重く、送りの機構は強く、ベルトは幅広くなり、電動機で 1 台ずつ動かす方式も広がりました。刃物の材料が変わると機械を作り直す、という関係はこのとき始まりました。
- Norton Company と Norton Grinding Company は同じ会社ですか?
- 別の会社です。Norton Company(もとは Norton Emery Wheel Company)は F. B. Norton が始めた砥石の会社、Norton Grinding Company は 1900 年に Charles H. Norton が研削盤を作るために作った会社です。Roe は、2 人の Norton は親戚ではないと書いています。
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出典
本・論文・誌面は Internet Archive・米国勢調査局・各機関の公開資料で 2026 年 10 月に確かめ、使ったページを書いています。「コマ」は Internet Archive のスキャンの番号(n 番号)または国立国会図書館デジタルコレクションのコマ、国勢調査の報告は PDF のページ(報告の印刷ページ+5)です。特許の番号と日付は Woodbury の本の注によります。Roe(1916)は当時の当事者に取材した記録ですが、年を書かない出来事も多く、その場合は年表に「ごろ」「はじめ」と書き、注に事情を記しました。日本側の出来事は国産アーカイブの出典を使っています。
- Joseph W. Roe『English and American Tool Builders』Yale University Press(1916。Internet Archive は 1926 年の McGraw-Hill の刷り、同じページ)p. 126・175・176・177・178・179・180・181・182・184・194・198・199・202・203・204・205・206・208・209・210・211・212・213・214・224・225・247・248・249・250・255・259・260・262・265・269・270・272・273・278
- Nathan Rosenberg「Technological Change in the Machine Tool Industry, 1840–1910」The Journal of Economic History 第 23 巻 4 号 pp.414–443(1963)p. 421・429・430・432・441
- Robert S. Woodbury『History of the Milling Machine』MIT Technology Press(1960)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号。1 コマに見開き 2 ページ)コマ 22・26・29
- William Sellers「On a System of Screw Threads and Nuts」Journal of the Franklin Institute 第 77 巻(第 3 シリーズ第 47 巻 5 号、1864 年 5 月)p.344〜(1864 年 4 月 21 日の例会で発表)※番号はスキャンのコマコマ 57
- American Machinist 第 1 巻 1 号(New York、1877 年 11 月)※番号はスキャンのコマコマ 2
- 米国特許 45,294(1864 年 11 月 29 日、Joseph R. Brown、研いでも形の変わらない成形フライス)※番号と日付は Woodbury『History of the Milling Machine』による
- Charles H. Fitch「Report on the Manufactures of Interchangeable Mechanism」第 10 回国勢調査(1880)第 2 巻『Manufactures』U.S. Census Office(1883)※番号は PDF のページ(報告の印刷ページ+5)PDF p. 9・29
- Robert S. Woodbury『History of the Grinding Machine』MIT Technology Press(1959)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号。1 コマに見開き 2 ページ)コマ 36・38・40・50・51・54・56・57・58
- 米国特許 143,306「Improvement in Machines for Making Metal Screws」Christopher M. Spencer(Hartford)1873 年 3 月 6 日出願・9 月 30 日成立(特許公報で確認)
- Hartford Machine Screw Co. v. Reynolds, 26 F. 528(Circuit Court, District of Connecticut、1886 年 2 月 9 日)判決文(原特許 143,306 と再発行 9,290 の日付)
- Anderson Ashburn「The Machine Tool Industry: The Crumbling Foundation」Donald A. Hicks 編『Is New Technology Enough?』American Enterprise Institute(1988)pp.19–85p. 28・34・35・37・38
- 米国特許 187,770(1877 年 2 月 27 日、Joseph R. Brown の遺族への万能研削盤の特許)※番号は Woodbury『History of the Grinding Machine』、日付は Burlingame 1910 に載る特許図面の写しによる(Woodbury の 2 月 25 日は日曜で誤り)
- American Precision Museum「Exhibits」(1878 Brown and Sharpe Micrometer)
- 米国特許 457,967「Machine for Making Screws」James Hartness(Springfield, Vermont)1891 年 1 月 9 日出願・8 月 18 日成立(特許公報で確認)
- 「Machine Tools」Scientific American 第 112 巻 23 号(1915 年 6 月 5 日)p.539p. 539
- 『James Hartness』American Society of Mechanical Engineers(1937)※Internet Archive は貸出のみ。特許番号と日付は全文検索の結果で確認
- 米国特許 590,850(1897 年 9 月 28 日)・591,357(1897 年 10 月 5 日)Charles H. Norton の研削盤の送りの特許 ※番号と日付は Woodbury『History of the Grinding Machine』による
- American Machinist 第 20 巻 20 号(1897 年 5 月 20 日)Landis Tool Co. の広告と購買案内 ※番号はスキャンのコマp. 22・24
- American Precision Museum「About / History」と展示(Gridley 自動盤 1900 年・Bryant 円筒研削盤 1911 年・1878 年の Brown & Sharpe の測長機)
- National Park Service, Coltsville National Historical Park「The East Armory Complex」
- 日本工学会『明治工業史 機械・地学篇』(1930)
- 日本機械学会「機械遺産 第2号 熊本大学の旧機械実験工場と文化財工作機械群」
- 会田俊夫『歯車の技術史』開発社(1970)
- 大隈鉄工所『製品沿革写真集:創業70周年記念』(1968)