USA 06アメリカの旋盤の系譜

旋盤の基本の形(ねじで送る刃物台、親ねじと換え歯車)は英国の Maudslay たちがまとめました。アメリカが旋盤に加えたのは、段取りを機械に覚えさせる仕組みです。型をなぞって同じ形を削る倣い旋盤、刃物を何本も並べて順に使うタレット旋盤、カムで全部の動きを自動にした自動盤、レバー 1 本でねじのピッチを変えるギヤボックス、そして紙テープで動く NC 旋盤。どれも「同じ部品をたくさん、熟練に頼らずに」作るための工夫でした。この章では、旋盤の仕組みがどう変わり、現場の加工で何が変わったかを、特許・当時の業界誌・研究書・博物館とメーカーの資料で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典(ページが分かるものはページ番号)を付けてたどります。

タレットも
自動盤も
アメリカ育ち!

マスコットのチップス

言葉を 3 つだけ先に。普通旋盤(エンジン旋盤)は、刃物台を親ねじや送り軸で動かす汎用の旋盤です。タレット旋盤は、刃物をいくつも付けた回転する刃物台(タレット)を回して、穴あけ・外径・ねじ切りなどを順に行う旋盤です。自動盤は、その順番と送りをカムなどで機械に任せ、棒材から部品を次々に作る旋盤です。今の旋盤の使い方は旋盤のページに、日本の旋盤の歴史は国産アーカイブ第 1 章「国産旋盤の系譜」にまとめています。兵器廠と互換生産の時代そのものは第 1 章、NC の誕生は第 4 章で詳しく扱います。

兵器廠の旋盤と倣い旋盤(1798〜1850 年ごろ)

Wilkinson のねじ切り旋盤

アメリカの金属の旋盤の記録は、Rhode Island 州 Pawtucket の David Wilkinson から始まります。織物の機械や油しぼりの大きなねじを作っていた Wilkinson は、手で作るねじの精度に不満で、ねじを両センタで支えて削る機械を考えました。1798 年 12 月 14 日の特許の機械は、水車で工作物と親ねじを一緒に回し、親ねじにかみ合う半割りナットで重い刃物台を送るものです。換え歯車はなく、親ねじと同じピッチのねじしか切れませんでした。Wilkinson はこれを元に、ねじで刃物台を送る汎用の旋盤(slide lathe)を 1806 年までに作り、兵器廠などで広く使われます[1][2]。1848 年、連邦議会は「ゲージと滑り旋盤の原理」の功績に 1 万ドルを贈りました[2]。ただ Roe は、同じころの英国の Maudslay の旋盤と並ぶ出来だったかは分からないとし、Woodbury も「精密な機械ではなかったが、産業の大きさの仕事に役立った」と評価しています(英国の旋盤は英国の旋盤の章)。

Blanchard の倣い旋盤:形を「写す」

兵器廠が欲しかったのは、銃身や銃床のようなまっすぐでない形を、熟練工の手に頼らず同じに作ることでした。Thomas Blanchard は、まず Millbury の Asa Waters の兵器工場で、カムで刃物を動かして銃身の根元の平らな面まで削る旋盤を作り、Springfield Armory でも 1818 年までに使われます。続いて 1819 年に特許を取ったのが、銃床を削る倣い旋盤です[3][2]。

仕組みはこうです。鉄の型(マスター)と木の素材を同じ速さでゆっくり回し、型には案内の車輪、素材には回転カッターを当てます。2 つは同じ枠に付いていて、案内の車輪が型の凸凹をなぞると、カッターが同じだけ動いて素材に同じ形を写します。刃物が回転カッターなので、仕組みは旋盤というより形削り盤に近いのですが、名前は「Blanchard lathe」で定着しました[3]。Springfield では、金属の部品の寸法のばらつきに合わせるため、実物の錠板を型にして銃床を削る機械まで使い、1840 年に金属の部品が十分正確になるまで続けたといいます[2]。1822 年の Blanchard の銃床旋盤は、いまも Springfield Armory の史跡に残っています[3]。

現場で何が変わったか。倣い旋盤は「腕の良い職人の手の動き」を「型」に置き換えました。型を作るのは手間でも、一度作れば誰が回しても同じ形が出ます。これは 100 年後の油圧倣い旋盤、さらに NC 旋盤の「プログラム」へとつながる考え方です。Blanchard の旋盤はのちに靴型や斧の柄にも広まり、Blanchard の収入の多くはこの特許の使用料でした[2]。

タレット旋盤と自動盤(1845〜1916 年)

刃物を回して並べる:タレットの誕生

普通旋盤で小さなねじを作ると、穴あけ・外径・ねじ切り・突っ切りのたびに刃物を付け替えるか、刃物台を動かして合わせ直さなければなりません。そこで、刃物を最初から全部並べておき、刃物台を回すだけで次の刃物に替える考えが出てきます。1900 年の American Machinist に載った E. G. Parkhurst の記事によると、Connecticut 州の Stephen Fitch が 1845 年、政府の拳銃の契約の部品を作るため、刃物を 8 本付けた横軸の回転刃物台で順に削る機械を自費で作り、1853 年まで使いました[4][2]。Hartford の Sharps の小銃工場でも、1853 年以前に J. D. Alvord がタレット付きのねじ切り機を計画しています[4]。

これを商品にしたのが、Vermont 州 Windsor の Robbins & Lawrence です。Roe によると、同社は 1854 年にタレット旋盤を商品として作り、図面は H. D. Stone が引きました。タレットの軸は、のちに標準になる縦軸でした。同じ工場では、振れ止めと刃物を 1 つにまとめたボックスツールや中空フライスも生まれ、Roe はタレットを「Maudslay の刃物台以来の最初の根本的な改良」と呼んでいます[2][5]。その工場の建物はいまも American Precision Museum として残っています。

タレットが自分で回る:Brown & Sharpe と Pratt & Whitney

1861 年、Providence Tool Co. の F. W. Howe は、銃の火門(雷管を受ける小さな部品)を作るタレットねじ切り機を Brown & Sharpe に頼みます。J. R. Brown はそこに、刃物台が戻るときの動きでタレットが自動で次へ回る仕掛け(ラチェットとつめ)と、主軸を回したまま棒材を送ってつかむ仕掛けを加えました。Roe はこれを Brown & Sharpe が売り物として作った最初の工作機械としています。同じ 1861 年に、Hartford の Pratt & Whitney も自分たちの設計の、タレットが自動で回るねじ切り機を作り始めました[2][4]。作業者の仕事は、レバーを押して引くことだけになっていきます。

カムで全部を自動に:Spencer の自動盤

最後に残った「レバーを動かす人」まで機械に置き換えたのが、連発銃で知られる Christopher M. Spencer です。1873 年 9 月 30 日の米国特許 143,306 の機械は、1 本の軸に並べたカムで、棒材を送る・チャックで締める・タレットの刃物を順に当てる・ダイスでねじを切る・突っ切る、をすべて決まった順と速さで動かします[7]。Roe によると、仕事ごとに平らなカムの板を付け替えられる「ブランク・カム」の円筒こそいちばん大事な発明でしたが、特許の請求には入っておらず、Spencer はその権利を取れませんでした。Spencer は 1876 年に Hartford Machine Screw Co. をつくり、自動盤でねじを量産します[2]。Brown & Sharpe でも 1880 年代の初めに S. L. Worsley が完全自動のねじ切り機を作りました[2]。

カムは「機械の中の段取り表」。自動盤のカムの形は、どの刃物を、いつ、どれだけの速さで、どこまで送るかを記録したものです。段取り替えはカムを作り直して付け替える仕事になり、熟練は「旋盤を回す人」から「カムを設計して段取りする人」へ移りました。NC のプログラムは、このカムを数字に置き換えたものと考えると分かりやすいです。

Hartness の平タレット旋盤

Robbins & Lawrence の流れをくむ Jones & Lamson は 1889 年に Vermont 州 Springfield へ移り、James Hartness が工場長として入ります。それまでの同社の主力は、レバーで動かす「高いタレット」の旋盤でした[2][12]。Hartness は 1891 年、まったく違う形のタレット旋盤を出します。American Machinist の 1891 年 5 月 7 日号は、これを「従来のタレットの形を完全に捨てた」機械として表紙で紹介しました[13]。特許(米国特許 457,967)は 1891 年 1 月 9 日に出願し、8 月 18 日に成立しています[15][17]。

普通旋盤の往復台のような台の上に、低くて大きな円板(平タレット)を載せ、刃物台を円板の上面にボルトで留めます。円板は外周で案内され、位置決めのピンも外周にあるので、刃物はピンのほぼ真上で切削の力を受け、中心の軸に無理がかかりません。6 つの刃物台にはそれぞれ別の止めがあり、刃物ごとに送りの終わりを決められました。工作物はタレットの上まで伸ばせるので、直径 2 インチ(約 50mm)・長さ 24 インチ(約 600mm)の細長い仕事もタレットで削れます[13][14]。American Precision Museum は、刃物台の間が広く、複雑な刃物台を付けられたこと、かたさの高さを利点に挙げています[14]。Hartness のまわりからは、Fellows の歯車形削り盤(第 9 章)、Gridley の自動盤、Fitchburg の Lo-Swing 旋盤、Bryant の内面研削盤が生まれました[2]。

大きな仕事のタレットと、多軸の自動盤

タレットは小物のねじだけの道具ではなくなります。Wisconsin 州 Madison の Gisholt は、C. N. Conradson の設計で、チャックでつかむ大きな工作物にタレットを広げました[2][18]。逆に小物では、棒材を何本も同時に削る多軸自動盤が出てきます。主軸を 4〜6 本、回る主軸台(ドラム)に並べ、ドラムが割り出すたびに、それぞれの主軸の工作物が次の工程の刃物の前へ進みます。1 回の割り出しで部品が 1 個できるので、単軸の自動盤の何倍もの速さで作れました。Cleveland の National Acme では Pratt & Whitney 出身の E. C. Henn と R. Hakewessel が多軸自動旋盤を開発し、Windsor では G. O. Gridley の単軸・多軸自動盤が作られます[2]。New Bedford で 1894 年に始まった Davenport は、1902 年に特許を取った 5 軸の Model B を長く作り続けました[21]。

現場で何が変わったか。タレット旋盤と自動盤で、ねじ・ボルト・ミシンや自転車や自動車の小物は「1 個ずつ削るもの」から「カムで流すもの」になりました。一方で、段取りに時間がかかるので、数の少ない仕事には向きません。「何個からタレットや自動盤に載せるか」という判断は、この時代からの町工場の大きなテーマです。

普通旋盤の近代化:ギヤボックス・電動機・高速度鋼(1868〜1920 年代)

換え歯車からギヤボックスへ

19 世紀の普通旋盤は、天井のラインシャフトからベルトで回し、段車(cone pulley)の段を掛け替えて回転を変え、遅い回転はバックギヤで出しました。ねじのピッチを変えるには、主軸と親ねじの間の換え歯車を一組ずつ付け替えます。ねじを何種類も切る工具室では、この付け替えが大きな手間でした[23]。

そこで、大きさの違う歯車を段にして軸に並べ、それを選んでかみ合わせる工夫が出てきます。1868 年の Humphreys の特許にも「歯車の段」はありましたが、商品として広まったのは W. P. Norton の仕組みでした[6]。1892 年 3 月 8 日の Norton の特許 470,591 は、段の歯車の列を箱に収め、レバーで選ぶだけで親ねじの回転を変えるものです。1894 年の改良の特許 519,924 は Connecticut 州 Torrington の Hendey Machine Co. に譲られ、Hendey-Norton 旋盤になります[19][22]。Roe は、長く国の標準だった Pratt & Whitney の工具室旋盤の首位を Hendey が揺るがし、ギヤボックスはほとんどすべての工作機械に広まったと書いています[2]。1907 年の Perrigo の本は、ほかの各社のギヤボックスも並べて比べています[6]。

大きい旋盤と、Cincinnati の旋盤メーカー

大物では、Philadelphia の William Sellers が 1890 年、海軍の 16 インチ砲の砲身を削る旋盤を自分の設計で受注しました。振り 8 フィート(約 2.4m)、重さ 50 万ポンド(約 230t)を超える機械です[2]。中形の普通旋盤では、1887 年に R. K. LeBlond が工場を開いた Cincinnati に、Lodge & Shipley などの旋盤メーカーが集まります[9][10][11]。Lodge & Shipley は 1892 年 8 月 1 日に会社として組み直され、Davis & Egan は 1898 年に American Tool Works と名を改めて、外国への売り込みを広げました[20][24]。Indiana 州では 1906 年から South Bend Lathe Works が小形の普通旋盤を作り、学校向けの教本『First Year Lathe Work』や『How to Run a Lathe』で、旋盤の教え方そのものを広めました[28][29]。

電動機:ベルトの林が消える

電動機で工作機械を回す試みは 1892 年ごろに始まり、1895 年には Philadelphia の Baldwin 機関車工場が車輪の旋盤を 1 台ずつ電動機で回すように改めました。天井のラインシャフトを外して、重い車輪を運ぶクレーンを付けるためです[23]。1902〜03 年の英国の技術誌は、Lodge & Shipley の電動機駆動の旋盤を写真で紹介しています[11]。1907 年の Perrigo は、小さな旋盤はラインシャフトでもよいが、振り 24 インチ(約 610mm)以上の旋盤は 1 台ずつの電動機がよいと書き、1 馬力の可変速電動機(毎分 500〜1,500 回転)を直結した旋盤の例を挙げています[6]。それでも Ashburn によると、1 台ずつの電動機駆動が当たり前になるのは 1920 年代で、ラインシャフトは 30 年以上残りました[23]。

高速度鋼:機械のほうが追いつかない

1900 年の Paris 万国博覧会で、Bethlehem Steel の F. W. Taylor と M. White の高速度鋼の工具が、刃先が赤くなるほどの速さ(毎分 120 フィート、約 37m)で鋼を削ってみせました。持ち帰って試したベルリンの Loewe 社の旋盤とボール盤は、1 か月足らずで使えなくなったといいます[23]。Taylor と White の特許 668,269 は 1901 年 2 月 19 日に成立しました[26]。それまでの炭素鋼の工具では、鋳鉄を毎分 20〜25 フィート(約 6〜8m)、軟鋼を 25〜30 フィートで削っていました[6]。

工具が何倍も速く削れるようになると、こんどは旋盤の側が弱すぎます。Perrigo は、高速度鋼で重い切り込みが当たり前になり、主軸台を強くし、動力を大きくし、刃物台もがっちりしたものにしなければならないと書きました[6]。1906 年の Chicago の Armour 工科大学の卒業論文は、2.5 馬力の可変速電動機を直結した Lodge & Shipley の 16 インチ「高速旋盤」で高速度鋼の切削を試しています。電動機の速度 10 段と歯車 6 段で 60 通りの回転を出す機械でした[27]。段車とベルトから歯車で変速する主軸台と電動機へ、という流れは、高速度鋼に押されて進んだものです。

現場で何が変わったか。ギヤボックスで、ねじ切りの段取りは「換え歯車の計算と付け替え」から「表を見てレバーを合わせる」に変わりました。電動機と歯車の主軸台で回転が上がり、高速度鋼で切り込みと送りが大きくなり、同じ旋盤で 1 日に削れる量が大きく増えます。古い旋盤のカタログを見るとき、「段車かギヤヘッドか」「ギヤボックス付きか」は、その機械の世代を見分けるいちばん分かりやすい目印です。

超硬・倣い・戦争(1928〜1954 年)

超硬で、もう一度「機械が追いつかない」

1928 年 10 月、General Electric は焼結した炭化タングステンの工具を「Carboloy」の名で売り出しました[32]。超硬は高速度鋼よりずっと硬く、速く削れますが、遅い速度ではすぐに減り、機械に剛性がないと欠け、びびりは命取りでした。主軸 900 回転の旋盤がすぐに出ましたが、大恐慌で工作機械の投資が止まり、1930 年の出荷は前の年の半分以下になります。Ashburn は、超硬を生かせる機械の品ぞろえがやっと広がったのは 1939 年だったと書いています[23]。高速度鋼のときと同じく、工具の進歩が先に来て、旋盤は太い主軸・重いベッド・大きな電動機で後を追いました。

戦争と旋盤

1940 年 7 月、大統領布告 2413 号で工作機械は輸出許可制になり、国内の兵器生産に回されます[33]。第二次世界大戦中、Cleveland の Warner & Swasey は 7,000 人を雇い、米国のタレット旋盤の半分を作りました。Rochester の Davenport も軍需の優先指定を受け、24 時間で多軸自動盤を作っています[8][21]。砲弾・信管・航空機の部品のような同じ形の部品を大量に削る仕事では、タレット旋盤と自動盤が主役でした(戦時の生産の全体は第 3 章)。

油圧・空気の倣い旋盤

戦後、段付きの軸のような形を普通旋盤で速く削るため、Blanchard の考えが「倣い装置」として戻ってきます。Ohio 州 Sidney の Monarch は、型をなぞって刃物台を動かす倣い装置 Air-Gage Tracer を、自社の Series 60 普通旋盤に付けました。1949 年の業界誌は、倣いの旋盤 3 台で鋳物のケースの加工が 3.75 倍速くなった例を載せています[35][36]。型さえあれば、段付きの軸やテーパ・R の付いた形を、作業者が送りハンドルを回し分けずに削れます。Monarch は 1909 年に法人になった会社です[30][31]。

精密旋盤

逆の方向、小さく正確な仕事では、Elmira(New York 州)の Hardinge が工具室・研究室向けの精密旋盤を作ります。1954 年の業界誌の Hardinge HLV は、主軸を電気で無段に変速し、往復台と横送りも電気の可変送りにして、ギヤボックスと親ねじはねじ切り専用にしていました[38]。送りを親ねじから切り離し、ねじ切りのときだけ親ねじを使う考えは、親ねじの摩耗を減らして精度を保つための工夫です。Hardinge は 1890 年から精密な旋盤を作ってきた会社です[39]。

NC 旋盤とターニングセンタ(1955〜1979 年)

1955 年:紙テープで動くタレット旋盤

NC(数値制御)は、MIT の 1952 年の NC フライス盤のように航空機の複雑な形を削る技術として始まりました(第 4 章)。旋盤では 1950 年に Arma Corporation がデジタル制御の旋盤を公開していますが、話題になっただけで注文は取れませんでした[23][37]。旋盤で早く形になったのは、むしろタレット旋盤です。1955 年 9 月の Chicago の工作機械見本市に、Jones & Lamson は NC タレット旋盤の試作機を出しました。穴をあけた紙テープを 2 進の符号で読み、16 段ずつ 2 つの範囲の主軸回転、6 角タレットと 4 角タレットの割り出し、油圧のコレットチャックと棒材送り、切削油まで指令します。刃物は前もってゲージで寸法を合わせておくので、図面から指令を作ってテープに穴をあければ、刃物の調整なしで部品が削れる、という触れ込みでした[40]。カムの代わりにテープで段取りを覚えさせれば、数の少ない仕事にもタレット旋盤の多くの刃物を使えます。

1960 年:覚えさせる NC と、量産型

1960 年 6 月、Warner & Swasey は振り 25 インチの NC タレット旋盤「Servofeed」を発表します。テープを作るのではなく、試し削りで良かった動きを作業者がボタンで覚えさせ(最大 96 の指令)、あとは機械が繰り返す方式でした[41]。Monarch は 1959 年 12 月に Series EE の旋盤へ GE の位置決めの NC を付けた機械を発表し[42]、1960 年の博覧会には American Tool Works が倣いとテープの位置決めを組み合わせた旋盤を出しました[45]。1961 年には LeBlond が、刃物を連続した輪郭で動かす Tape-Turn を売り出します[46]。同じ年 9 月の Chicago の工作機械博覧会には Jones & Lamson の量産型の NC タレット旋盤が並び[44]、会場全体で 100 台を超える NC 機が出ました。ただ真空管の制御は熱波の会場に弱く、多くはうまく動かなかったといいます[23]。それでも米国で据え付けられた NC 機は、1958 年までの累計 193 台から、1960 年だけで 402 台に増え、1967 年には 2,957 台が作られて切削形工作機械の出荷額の 21% になりました[23]。

日本の NC 旋盤と、マイクロプロセッサ

1970 年、山崎鉄工所(いまのヤマザキマザック)の NC 旋盤 MTC-2500R が、国産の NC 工作機械として初めて米国へ輸出されます[50][51]。1974 年ごろには FANUC が米国にサービス網を置き、FANUC の NC 装置を載せた日本の機械が売られ始めました。FANUC はこのころ年 3,000 台の NC 装置を作り、米国の全メーカーの合計(約 4,000 台)に迫っていました[23]。決め手になったのはマイクロプロセッサです。日本では 1976 年にマイクロプロセッサの CNC 装置が出て、町工場向けの小さなターニングセンタとマシニングセンタに載りました。米国の独立系の NC メーカーが使い始めたのは 1980 年ごろで、米国のメーカーの多くはこの 4 年の差を日本機の急増の大きな理由に挙げました[23]。

ターニングセンタとスラントベッド

CNC になると、旋盤の形も変わります。ベッドを斜めにしたスラントベッドは切りくずが下に落ちやすく、刃物台を作業者の向こう側に置けます。タレットは前後左右に CNC で動き、回転工具を付ければ旋盤の上でフライス削りや穴あけもできるターニングセンタになります。Hardinge は 1970 年代の終わりに CNC の機械を作り始め[39]、米国立標準技術研究所(NIST)の自動化工場の実験設備(AMRF)では、1988 年の時点で Hardinge のスラントベッドのターニングセンタ SuperSlant(3 軸・タレット 2 つ・分解能 10 マイクロインチ = 約 0.25μm)が旋削の中心でした[58]。

現場で何が変わったか。NC 旋盤で、段取りは「カムを作る」「倣いの型を作る」から「プログラムを作って工具の補正を入れる」に変わりました。少ない数の仕事でも自動で回せるようになり、カム式の自動盤と普通旋盤の間にあった広い仕事が NC 旋盤に移ります。いまの旋盤のプログラムの書き方はNC プログラム、刃物の選び方は工具のページで解説しています。

★輸入の波と再編、今の CNC 旋盤(1980 年〜)

1984 年、NC の旋盤(横形・立形)とマシニングセンタは、米国の工作機械の生産額の 25%、輸入額の 42% を占めていました。1985 年には米国で買われた NC 機の台数の 3 分の 2 以上が輸入で、小さなターニングセンタとマシニングセンタは数社の日本メーカーが握っていました。Ashburn は、日本の機械は小さく軽く安く、初めのうちは米国の機械より故障が少なかったと書いています[23]。

旋盤の老舗は次々と姿を変えます。タレット旋盤の Warner & Swasey は 1980 年に Bendix に買われ、1984 年に Cross & Trecker へ、それを吸収した Giddings & Lewis が 1992 年 1 月に最後の工場を閉じ、Cleveland での 110 年が終わりました[8]。Cincinnati の LeBlond は 1981 年に牧野フライス製作所に買われて LeBlond Makino になり、いまの Makino Inc. になります[54]。NC 装置では、米国の大手だった General Electric が 1987 年に FANUC と合弁会社をつくり、まもなく自社の NC 装置の製造をやめました[23]。

政府も動きます。1986 年 12 月 16 日、Reagan 大統領は日本・台湾との工作機械の輸出自主規制(VRA)を発表しました。日本はマシニングセンタ、NC と NC でない旋盤、パンチ・シャー、フライス盤の対米輸出を、台湾はマシニングセンタ・旋盤・フライス盤の対米輸出を、1987 年 1 月から 5 年間抑えるものです[56]。日本のメーカーは米国で作る道も選び、ヤマザキマザックは 1974 年から Kentucky 州 Florence で、オークマは 1987 年から North Carolina 州 Charlotte で生産しています[51][52][57]。Florence の工場は 2024 年に 50 周年を迎え、70 を超える機種を作っています[53]。

米国の新しい顔は、1983 年に California で生まれた Haas Automation です。最初はプログラムで動く割出し台、1988 年には 5 万ドルを切る立形マシニングセンタを出しました[55]。精密旋盤の Hardinge は 1995 年にスイスの研削盤メーカー Kellenberger を買い、2003 年の年次報告でも Elmira の工場で旋盤を作っていました[39]。2018 年 5 月には投資会社 Privet に約 2 億 4,500 万ドルで買われ、本社を Pennsylvania 州 Berwyn に移しました[59]。多軸自動盤の Davenport は 1996 年にサーボの Model B Servo を出し、カム式の機械の考え方を今に残しています[21]。今の旋盤の選び方と使い方は旋盤と加工のページにまとめています。

日本とのつながり

日本の旋盤づくりは、英国式から始まって、明治の終わりに米国式へ移りました。1903 年に東京高等工業学校が米国人の Charles A. Francis を実地指導の教員に招き、1905 年に池貝はその仕様書にもとづいて米国式の旋盤を作り、「池貝式標準旋盤」の量産を始めます[62]。大隈(いまのオークマ)は 1916 年の KE 形普通旋盤の親ねじを Brown & Sharpe から買い、1918 年には米国の Sebastian の旋盤を改良した OS 形を売り出し、1919 年には陸軍工廠から Pratt & Whitney の旋盤の図面を渡されて OP 形を作りました。1939 年の LT 形超高速旋盤の設計では、Monarch などの旋盤を参考にしています[63]。1940 年に米国が工作機械を輸出許可制にするまで、日本の工作機械の輸入の 8 割以上は米国からでした[34][33]。

戦後の自動盤でも、米国の機械が手本になりました。1948 年に時計工業のために自動盤づくりが勧められると、津上製作所は Brown & Sharpe 形の自動盤を作り始めます[64]。新潟鉄工所は 1959 年に米 Sundstrand から単軸自動旋盤の技術を導入しました[65]。やがて流れは逆になり、山崎鉄工所は 1962 年に LE 型旋盤 200 台の対米輸出を決め、1970 年には NC 旋盤 MTC-2500R を米国へ送り、1974 年には米国で生産を始めます[66][50][51]。1986 年の VRA で日本の NC 旋盤の対米輸出には枠がはめられ、そのころオークマも米国での生産を始めています(1987 年)[56][57]。日本側の出来事は国産アーカイブ第 1 章の年表に、日本の機械の輸入の波は第 5 章にあります。

⑂メーカーの系図

アメリカの旋盤の主なメーカーの、社名の移り変わりと買収です。帯の色が変わるところで社名が変わります。Robbins & Lawrence から Jones & Lamson への流れは Roe の記述によるもので(Jones & Lamson の設立を APM は 1876 年、Roe は 1879 年ごろとします)、1960 年代以降の Jones & Lamson の行方は一次資料で確かめきれなかったので、量産型の NC タレット旋盤が出た 1960 年までを描いています。Monarch・Lodge & Shipley・South Bend・Gisholt・National Acme も、のちの行方を確かめきれなかったので描いていません。

18401880192019602000Robbins & Lawrence(Windsor)Lamson, Goodnow & Yale ほかJones, Lamson & Co.Jones & Lamson Machine Co.(1889 年から Springfield, VT)Warner & Swasey(Chicago→Cleveland)The Warner & Swasey Co.Bendix の傘下Cross & Trecker→Giddings & LewisR. K. LeBlond Machine Tool Co.(Cincinnati)LeBlond MakinoMakino Inc.Hardinge(1890 年 Chicago、のち Elmira, NY)Privet の傘下(本社 Berwyn, PA)The Monarch Machine Tool Co.(Sidney, OH)Davenport Machine Tool(New Bedford)Davenport(Rochester)Brinkman International Group の DavenportYamazaki Machinery Corp.Mazak Corporation(Florence, KY)Okuma Machinery/Machine ToolsOkuma America(Charlotte, NC)Haas Automation(California)帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。点線はその先が未確認。
出典:各社の沿革と社史 [2][5][44][8][9][10][54][39][38][59][60][30][31][21][51][57][55]

見に行ける所

アメリカの旋盤の歴史は New England に集まっています。Windsor(Vermont 州)と Springfield(Massachusetts 州)は車で 2 時間ほどです。公開日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

American Precision MuseumWindsor(Vermont 州)1846 年の Robbins & Lawrence の工場の建物(ASME の機械遺産 #120)にある工作機械の博物館。タレット旋盤が商品になった場所で、Jones & Lamson の最初の型の Hartness 平タレット旋盤を修復して展示している[5][14]
Springfield Armory National Historic SiteSpringfield(Massachusetts 州)国立の兵器廠の跡。1822 年の Blanchard の銃床旋盤(現存するただ 1 台とされる)を展示している[3]
Slater Mill(Wilkinson Mill)Pawtucket(Rhode Island 州)1810〜11 年に Oziel Wilkinson が建てた紡績工場と機械工場(ASME の機械遺産 #30)。ねじ切り旋盤の David Wilkinson の一家の仕事の場で、史跡 Slater Mill の一部として見学できる[61]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「p.」は本・雑誌のページ、「コマ」はスキャンの通し番号(Woodbury の本・卒業論文・1928 年の American Machinist、国立国会図書館の資料)です。

兵器廠と倣いタレットと自動盤ギヤボックス・電動機・高速度鋼超硬・倣いNC輸入と CNC18001840188019201960200017981819184518541873189119001928194919601984黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

兵器廠の旋盤と倣い旋盤1798〜1850 年ごろ

年出来事メーカー・機種出典
1798年12月★Pawtucket(Rhode Island 州)の David Wilkinson が、親ねじで刃物台を送るねじ切り機械の特許を取る(12 月 14 日)。水車で回し、換え歯車はなく、親ねじと同じピッチのねじしか切れなかったRoe は 1797 年に考え、翌年に特許とする。原本は 1836 年の特許庁の火事で失われ、1845 年に描き直された図が残る(Woodbury)David Wilkinsonねじ切り機械[1・コマ44][1・コマ45][2・p.119]
1806年までにWilkinson が、ねじ切り機械を元に、ねじで刃物台を送る汎用の旋盤を作る。兵器廠などで広く使われ、1848 年には連邦議会が「滑り旋盤の原理」の功績に 1 万ドルを贈ったWoodbury は、1848 年の議会の報告で兵器廠に 200 台以上あったとするDavid Wilkinson滑り旋盤(slide lathe)[1・コマ46][2・p.120]
1818年までにThomas Blanchard が Millbury(Massachusetts 州)の Asa Waters の兵器工場で、カムで刃物を動かし、銃身の根元の平らな面まで一度に削る旋盤を作る。Springfield Armory でも 1818 年までに使われたThomas Blanchard銃身の倣い旋盤[3][2・p.142]
1819年★Blanchard が、型をなぞる車輪と同じ動きを回転カッターにさせて、銃床のような不規則な形を削る旋盤の特許を取る。工作機械で「型を写す」最初の実用例の 1 つで、靴型づくりにも広まったRoe は発明を 1818 年ごろとする。刃物は回転カッターなので、仕組みは旋盤より形削り盤に近い(NPS)Thomas Blanchard倣い旋盤(stock lathe)[3][2・p.220]
1822年Springfield Armory で使われた Blanchard の銃床旋盤(1822 年)が、いまも同じ地の史跡に残る。現存するただ 1 台とされるSpringfield ArmoryBlanchard lathe[3][2・p.221]

タレット旋盤と自動盤1845〜1916 年

年出来事メーカー・機種出典
1845年★Middlefield(Connecticut 州)の Stephen Fitch が、政府の拳銃の契約の部品を作るため、刃物を 8 本付けた横軸の回転刃物台(タレット)で順に削る機械を自費で作り、1853 年まで使う。記録に残る最も古いタレット機とされるParkhurst(1900 年)は雷管の火門(cone)3 万個、Roe は雷管錠とするStephen Fitchタレット付きねじ切り機[4][2・p.197]
1850年Robbins & Lawrence(Windsor、Vermont 州)が、振れ止め 2 つと刃物 2 本を 1 つにまとめた「ボックスツール」を作る。タレットねじ切り機の普及とともに、ボックスツールと中空フライス(hollow mill)が広まったRobbins & Lawrence[2・p.197]
1853年以前Hartford の Sharps の小銃工場の請負人 J. D. Alvord が、タレット付きのねじ切り機を計画し、使う。のちに F. W. Howe が改良するJ. D. Alvord(Sharps の工場)[4][2・p.197]
1854年★Robbins & Lawrence がタレット旋盤を商品として作る。H. D. Stone が図面を引き、縦軸のタレットがのちの標準になった。Roe はこれを「Maudslay の刃物台以来の最初の根本的な改良」と呼ぶRobbins & Lawrenceタレット旋盤[2・p.143][2・p.197][5]
1861年★Brown & Sharpe が、Providence Tool Co. の F. W. Howe の注文で、銃の火門を作るタレットねじ切り機を作る。J. R. Brown は、刃物台が戻る動きでタレットが自動で回る仕掛け(ラチェット)と、主軸を回したまま棒材を送ってつかむ仕掛けを加えた。同社が売り物として作った最初の工作機械とされるBrown & Sharpeタレットねじ切り機(screw machine)[2・p.207][4]
1861年Hartford の F. A. Pratt と Amos Whitney(のちの Pratt & Whitney)も、自分たちの設計の、タレットが自動で回るねじ切り機を作り始めるPratt & Whitneyタレットねじ切り機[4][2・p.207]
1873年9月★C. M. Spencer が米国特許 143,306(9 月 30 日)を取る。1 本の軸に並べたカムで、棒材の送り・チャックの開閉・タレットの刃物・ねじ切りのダイス・突っ切りを順に動かし、人が手を出さずにねじを作る機械。自動盤(automatic screw machine)の始まりRoe によると、カムの板を仕事ごとに付け替えるカム円筒(いちばん大事な部分)は特許の請求に入らなかった。Parkhurst(1900 年)は Spencer の自動化を 1880 年とするが、特許は 1873 年Christopher M. Spencer自動ねじ切り機[7][2・p.176]
1876年Spencer と G. A. Fairfield らが Hartford Machine Screw Co. をつくり、自動盤でねじを量産するHartford Machine Screw Co.[2・p.176][2・p.177]
1880年Pratt & Whitney の職長だった W. R. Warner と Ambrose Swasey が Chicago で組み、1881 年 8 月に Cleveland で工作機械の工場を開く。のちにタレット旋盤の専門メーカーになるWarner & Swasey[8][2・p.183]
1880年代の初めBrown & Sharpe の S. L. Worsley が、完全に自動のねじ切り機を作る。その仕組みの多くは 1916 年の機械にも残っていたBrown & Sharpe自動ねじ切り機[2・p.208]
1889年2月Robbins & Lawrence の流れをくむ Jones & Lamson が Springfield(Vermont 州)へ移り、James Hartness が工場長として入る。それまでの「高いタレット」の手動の旋盤から、タレット旋盤だけに絞っていく入社は Roe が 1889 年 2 月、APM の別の解説は 1889 年 4 月 1 日、APM の人物紹介は 1888 年。移転も 1888・1889 年の両方の記述があるJones & Lamson Machine Co.[2・p.194][2・p.198][12]
1891年5月★Hartness の平タレット旋盤が出る。普通旋盤の往復台のような台に低い円板(ターンテーブル)を載せ、6 つの刃物台にそれぞれ止めを付けた。位置決めピンを円板の外周に置いて削る力を受け、直径 2 インチ(約 50mm)・長さ 24 インチ(約 600mm)までの細長い仕事もタレットで削れたAPM は 1891 年に特許・発売とする。業界誌の紹介は 1891 年 5 月 7 日号Jones & Lamson Machine Co.Hartness 平タレット旋盤(2×24)[13・p.1][14][12]
1891年8月Hartness の平タレット旋盤の米国特許 457,967 が成立する(1 月 9 日出願、8 月 18 日成立)。題は「ねじを作る機械」で、細長い工作物をたわませずに削り、刃物ごとに削る長さを自動で決める仕組みを請求したScientific American(1915 年)は、着手は 1889 年、特許は 1891 年と 1904 年とするJones & Lamson Machine Co.(James Hartness)[15][16][17・p.539][14]
1891年11月Madison(Wisconsin 州)の Gisholt Machine Co. の新しいねじ切り機が業界誌に載る。Gisholt は C. N. Conradson の設計で、タレットを大きなチャック作業の工作物に広げたGisholt Machine Co.[18][2・p.276]
1894年W. S. Davenport が New Bedford(Massachusetts 州)で Davenport Machine Tool Co. をつくる。時計の小歯車を削る機械から、多軸の自動盤へ進むDavenport Machine Tool Co.[21][2・p.214]
1890年代Pratt & Whitney 出身の E. C. Henn と R. Hakewessel が、のちの National Acme(Cleveland)で多軸の自動旋盤を開発する。数本の棒材を回る主軸台に並べ、それぞれ別の工程を同時に削る特許の番号と年は一次資料で確かめきれなかったNational Acme Manufacturing Co.多軸自動盤[2・p.183]
1902年Davenport の多軸自動盤 Model B の設計が特許になる。小物を速く削る 5 軸の自動盤として長く作られ、1996 年にはサーボの Model B Servo も出たDavenport Machine Tool Co.Model B[21]
1916年までHartness のもとで働いた G. O. Gridley の単軸・多軸自動盤を Windsor Machine Co.(Robbins & Lawrence の旧工場の隣)が作る。Jones & Lamson はカムで刃物を動かす Fay 自動旋盤、Fitchburg Machine Works は Hartness の考えた Lo-Swing 旋盤を作ったWindsor Machine Co.・Jones & Lamson・Fitchburg Machine WorksGridley 自動盤・Fay 自動旋盤・Lo-Swing 旋盤[2・p.194][2・p.200]

普通旋盤の近代化:ギヤボックス・電動機・高速度鋼1868〜1920 年代

年出来事メーカー・機種出典
1868年Humphreys が、大きさの違う歯車を段にして軸に並べる「歯車の段」の特許を取る。のちのクイックチェンジ・ギヤボックスの考え方の先がけとされる—歯車の段(cone of gears)[6・p.299]
1887年23 歳の Richard K. LeBlond が Cincinnati に小さな工場を開き、旋盤を作り始める。Cincinnati には Lodge & Shipley など旋盤のメーカーが集まり、LeBlond は 1957 年に従業員 1,000 人を超えたR. K. LeBlond Machine Tool Co.[9][10・p.73][11・p.72]
1890年海軍の 16 インチ砲の砲身を削る旋盤の入札で、William Sellers が自分の設計を提案して受注する。振り 8 フィート(約 2.4m)、重さ 50 万ポンド(約 230t)を超える巨大な旋盤だったWilliam Sellers & Co.8 フィート旋盤[2・p.250]
1892年3月★W. P. Norton が米国特許 470,591(3 月 8 日)を取る。段に並べた歯車の列を箱に収め、レバー 1 本で親ねじの回転を切り替え、換え歯車を付け替えずにねじのピッチと送りを変えられるWendell P. Nortonクイックチェンジ・ギヤボックス[19][6・p.299]
1892年8月Cincinnati の William Lodge・Murray Shipley らが、会社を Lodge & Shipley Machine Tool Co. として組み直す(8 月 1 日)。のちに旋盤の専業メーカーとして知られる日付は Cope(2001)による。Roe は、Lodge が 1892 年に前の会社の持ち分を売り、その 1 年ほど後に Shipley と組んだと書くLodge & Shipley Machine Tool Co.[20][2・p.269][2・p.270]
1894年5月Norton の改良の特許 519,924(5 月 15 日)が Torrington(Connecticut 州)の Hendey Machine Co. に譲られ、ギヤボックス付きの Hendey-Norton 旋盤になる。Roe は、Pratt & Whitney の工具室旋盤の首位を揺るがし、ギヤボックスはほとんどすべての工作機械に広まったと書くHendey Machine Co.Hendey-Norton 旋盤[22][2・p.182]
1895年工作機械を電動機で回す試みは 1892 年ごろ始まり、1895 年には Philadelphia の Baldwin 機関車工場が車輪の旋盤を 1 台ずつ電動機で回すように改めた。天井のラインシャフトを外し、重い工作物用のクレーンを付けるためだったAshburn によると、1 台ずつの電動機駆動が当たり前になるのは 1920 年代Baldwin Locomotive Works[23・p.51]
1898年4月Cincinnati の Davis & Egan Machine Tool Co. が、外国向けの商売を広げるため社名を American Tool Works Co. に改め、資本金を 50 万ドルから 100 万ドルに増やす。旋盤・形削り盤・ラジアルボール盤を作ったThe American Tool Works Co.[24・p.20][25][20]
1900年★Taylor と White の高速度鋼の工具が Paris の万国博覧会で実演され、刃先が赤くなるほどの速さ(毎分 120 フィート、約 37m)で鋼を削る。持ち帰って試したベルリンの Loewe 社の旋盤とボール盤は 1 か月足らずで壊れ、世界中の工作機械が時代遅れになったBethlehem Steel(F. W. Taylor・M. White)高速度鋼[23・p.50][23・p.51][2・p.250]
1901年2月Taylor と White の工具鋼と熱処理の米国特許 668,269(2 月 19 日)が成立し、Bethlehem Steel に譲られるBethlehem Steel高速度鋼の特許[26]
1903年ごろCincinnati の Lodge & Shipley が、電動機を直結した旋盤を作る。英国の技術誌は「機械工場の電力」の記事で、その写真を例に載せたLodge & Shipley Machine Tool Co.電動機駆動の旋盤[11・p.72][11・p.89]
1906年Chicago の Armour 工科大学の卒業論文が、2.5 馬力の可変速電動機を直結した Lodge & Shipley の 16 インチ「高速」旋盤で高速度鋼の切削を試す。電動機の速度 10 段と歯車 6 段で 60 通りの回転が出せたLodge & Shipley Machine Tool Co.16 インチ高速旋盤[27・コマ12][27・コマ14][27・コマ22]
1906年South Bend(Indiana 州)の South Bend Lathe Works が旋盤を作り始める。小形の普通旋盤を得意とし、学校向けの教本も出した創業の年は同社の広告(「Lathe Builders Since 1906」)によるSouth Bend Lathe Works[28・p.92][29]
1907年Perrigo『Modern American Lathe Practice』が、高速度鋼で重い切り込みが当たり前になり、主軸台・刃物台を強く、動力を大きくする必要が出たこと、24 インチ以上の旋盤は 1 台ずつの電動機駆動がよいことを書く。炭素鋼の工具では鋳鉄を毎分 20〜25 フィート(約 6〜8m)で削っていた—[6・p.101][6・p.157][6・p.232][6・p.405]
1909年Ohio 州 Sidney で The Monarch Machine Tool Co. が法人になり、旋盤を作り始める。のちに倣い旋盤や工具室旋盤で知られる同社の 1992 年度の 10-K は「1909 年に法人化」、1952 年の広告は「1909 年から旋盤を作ってきた」と書くThe Monarch Machine Tool Co.[30][31]
1917年ごろSouth Bend Lathe Works が、技術学校・職業学校の生徒と見習い向けの旋盤の教本『First Year Lathe Work』を出す。同社の教本『How to Run a Lathe』とともに、旋盤の教育に使われたSouth Bend Lathe Works『First Year Lathe Work』[29]

超硬・倣い・戦争1928〜1954 年

年出来事メーカー・機種出典
1928年10月★General Electric が超硬工具を「Carboloy」の名で売り出す。旋盤は主軸 900 回転のものがすぐに出たが、大恐慌で工作機械の投資が止まり、1930 年の出荷は前の年の半分以下になったGeneral Electric(Carboloy Company)Carboloy[32・コマ22][32・コマ32][23・p.56]
1939年超硬を生かせる剛性の高い機械の品ぞろえがやっと広がる。超硬は遅い速度ではすぐ減り、剛性がなければ欠け、びびりは致命的だった—[23・p.57]
1940年7月大統領布告 2413 号で、工作機械が輸出許可制になる。日本への旋盤などの輸出もこれで止まっていく(それまで日本の工作機械の輸入の 8 割以上は米国から)—[33・p.12][33・p.13][34・コマ78]
第二次世界大戦中Warner & Swasey は 7,000 人を雇い、米国のタレット旋盤の半分を作る。Davenport は軍需の優先指定を受けて 24 時間操業したWarner & Swasey・Davenport[8][21]
1949年まで★Sidney(Ohio 州)の Monarch が、型をなぞって刃物を動かす倣い装置 Air-Gage Tracer を自社の Series 60 普通旋盤に付ける。業界誌は、倣いの旋盤 3 台で鋳物のケースの加工が 3.75 倍速くなった例を載せたMonarch Machine Tool Co.Air-Gage Tracer[35・p.18][36]
1950年射撃の照準の計器を作る Arma Corporation が、サーボで動かすデジタル制御の旋盤を公開する。物理学者 Frederick Cunningham の考えで、試作は 6 週間で作られたが、話題になっただけで注文は取れなかったArma Corporation[23・p.63][37]
1954年までElmira(New York 州)の Hardinge Brothers が、工具室・研究室向けの高速精密旋盤 HLV を売る。主軸は電気で無段に変速し、往復台と横送りも電気の可変送りで、ギヤボックスと親ねじはねじ切り専用にしたHardinge BrothersHLV[38・p.98][39]

NC 旋盤とターニングセンタ1955〜1979 年

年出来事メーカー・機種出典
1955年9月★Chicago の工作機械見本市に、Jones & Lamson の NC タレット旋盤が出る。2 進の符号を穴をあけた紙テープで読み、32 段の主軸回転、6 角と 4 角のタレットの割り出し、油圧のコレットと棒材送り、切削油まで指令した。刃物は前もってゲージで寸法を合わせておく1960 年の業界誌は「1955 年の見本市に出た画期的な NC タレット旋盤」と振り返るJones & Lamson Machine Co.NC タレット旋盤(試作)[40・p.78][41・p.3]
1959年12月Monarch が、Series EE Model 1000 旋盤に GE の Mark II を改めた NC 装置を付け、8 単位の紙テープで旋削・端面削り・中ぐりの位置を決める機械を発表する。主軸は 15 馬力の直流電動機で毎分 20〜2,000 回転、手動の旋盤としても使えたThe Monarch Machine Tool Co.[42・p.195][43]
1960年米国で新しく据え付けられた NC 工作機械は、1958 年までの累計が 193 台、1959 年が 203 台、1960 年が 402 台。1967 年には 2,957 台が作られ、切削形工作機械の出荷額の 21% になった—[23・p.66]
1960年6月★Warner & Swasey が振り 25 インチの NC タレット旋盤「Servofeed」を発表する。テープを作らず、試し削りで良かった動きをボタンで覚えさせ(最大 96 の指令)、あとは機械が繰り返す「覚えさせる」方式だったWarner & SwaseyServofeed[41・p.122][41・p.3]
1960年9月Chicago の工作機械博覧会に、Jones & Lamson が量産型の NC タレット旋盤を出す。見本市全体では 100 台を超える NC 機が並んだが、真空管の制御は熱波の会場で多くがうまく動かなかったJones & Lamson Machine Co.NC タレット旋盤(量産型)[44・p.251][23・p.64]
1960年9月Chicago の工作機械博覧会に、American Tool Works が 50 馬力の普通旋盤にテープ制御を付けた機械を出す。GE の NC 装置で 20 段の主軸回転と送りを選び、形は平らな型をなぞる倣い装置で削る。複雑な計算機やプログラムの道具なしに段付き軸や R・テーパを削るのがねらいだったThe American Tool Works Co.[45・p.98][44・p.255]
1961年7月までLeBlond が、GE の Mark Century で刃物を連続した輪郭で動かすテープ制御の旋盤「Tape-Turn」を売る。直線・テーパ・円弧の計算を装置の中の計算機が受け持ち、プログラムの作り方は半日で覚えられると宣伝したR. K. LeBlond Machine Tool Co.[46・p.52][47]
1969年までJones & Lamson は Textron の Waterbury Farrel の一部門になっていて、新しい TNC 系列の NC タレット旋盤がよく売れたと Textron の年次報告が書く。タレット旋盤のほか、円筒研削盤・ねじ研削盤・投影機も作っていたTextron に入った年は確かめられなかったJones & Lamson(Textron の Waterbury Farrel 部門)[48][49]
1970年山崎鉄工所の NC 旋盤 MTC-2500R が、国産の NC 工作機械として初めて米国へ輸出される。2008 年に米国から引き取られ、2024 年に日本機械学会の機械遺産第 126 号山崎鉄工所(ヤマザキマザック)MTC-2500R[50][51]
1974年FANUC が米国にサービス網を置き、FANUC の NC 装置を付けた日本の旋盤・マシニングセンタが米国で売られ始める。FANUC はこのころ年 3,000 台の NC 装置を作り、米国の全メーカーの合計(年約 4,000 台)に迫ったFANUC[23・p.71][23・p.72]
1974年7月ヤマザキマザックの米国会社が Florence(Kentucky 州、Cincinnati の対岸)の工場で生産を始める。日本の工作機械メーカーの米国生産の先がけとなったYamazaki Machinery Corporation(いまの Mazak Corporation)[51][52][53]
1976年日本でマイクロプロセッサを使う CNC 装置が出て、町工場向けの小さなターニングセンタとマシニングセンタに載る。米国の独立系の NC メーカーがマイクロプロセッサを使うのは 1980 年ごろで、この 4 年の差が日本機の急増の大きな理由とされた—[23・p.72][23・p.73]
1970年代の終わり精密旋盤の Hardinge が CNC の機械を作り始めるHardinge BrothersCNC 旋盤[39]

輸入の波と再編、今の CNC 旋盤1980 年〜

年出来事メーカー・機種出典
1980年タレット旋盤の老舗 Warner & Swasey が Bendix に買われる。1983 年に Bendix は Allied に、1984 年に Warner & Swasey は Cross & Trecker に売られたWarner & Swasey[8]
1981年9月牧野フライス製作所が Cincinnati の旋盤の老舗 R. K. LeBlond を買収し、LeBlond Makino Machine Tool Company とする(いまの Makino Inc.)LeBlond Makino Machine Tool Co.[54]
1983年Gene Haas が California で Haas Automation をつくる。最初の製品はプログラムで動く割出し台で、1988 年には 5 万ドルを切る立形マシニングセンタを出し、小さな町工場に CNC 機を広げたHaas Automation[55]
1984年★NC の横形・立形の旋盤とマシニングセンタが、米国の工作機械の生産額の 25%、輸入額の 42% を占める。1985 年には米国で買われた NC 機の台数の 3 分の 2 以上が輸入で、小さなターニングセンタとマシニングセンタは数社の日本メーカーが握った—[23・p.66][23・p.71]
1986年12月★Reagan 大統領が、日本と台湾との工作機械の輸出自主規制(VRA)を発表する(12 月 16 日)。日本はマシニングセンタ、NC と NC でない旋盤、パンチ・シャー、フライス盤、台湾はマシニングセンタ・旋盤・フライス盤の対米輸出を、1987 年 1 月から 5 年間抑える—[56]
1987年米国の NC 装置の大手だった General Electric が FANUC と合弁会社をつくり、まもなく GE の NC 装置の製造をやめるAshburn は「1987 年の初め」とするGeneral Electric・FANUC[23・p.73]
1987年オークマが生産会社 OKUMA MACHINE TOOLS INC. を設け、Charlotte(North Carolina 州)で米国生産を始める(販売会社は 1984 年、1995 年に合併して OKUMA AMERICA CORPORATION)Okuma Machine Tools Inc.[57]
1988年6月米国立標準技術研究所(NIST)の自動化工場の実験設備(AMRF)の旋削ステーションに、Hardinge のスラントベッドのターニングセンタ SuperSlant が入っている。3 軸・タレット 2 つで、分解能は 10 マイクロインチ(約 0.25μm)HardingeSuperSlant[58]
1992年1月Cross & Trecker を吸収した Giddings & Lewis が、Warner & Swasey の最後の工場(Solon、Ohio 州)を閉じ、Cleveland での 110 年の歴史が終わるWarner & Swasey[8]
2018年5月精密旋盤の Hardinge が、投資会社 Privet Fund Management に 1 株 18.50 ドル、総額約 2 億 4,500 万ドルで買われて非上場になる。本社は New York 州 Elmira から Pennsylvania 州 Berwyn に移ったHardinge[59][60]
2024年6月マザックの Kentucky 工場が 50 周年。約 9 万 m² に広がり、70 を超える機種を作るMazak Corporation[53]

よくある質問

タレット旋盤を最初に作ったのは誰ですか?
記録に残る最も古い例は、Connecticut 州の Stephen Fitch が 1845 年に作った、刃物 8 本の横軸の回転刃物台を持つねじ切り機です。商品として作ったのは Vermont 州 Windsor の Robbins & Lawrence で、Roe は 1854 年としています。のちの標準になった縦軸のタレットは、同社の H. D. Stone の図面によるものです。
自動盤はいつ、どうやって生まれたのですか?
Christopher M. Spencer の 1873 年 9 月 30 日の米国特許 143,306 が始まりです。1 本の軸に並べたカムで、棒材の送り・チャック・タレットの刃物・ねじ切り・突っ切りを順に動かし、人が手を出さずにねじを作りました。Spencer は 1876 年に Hartford Machine Screw Co. をつくって量産しています。
Hartness の平タレット旋盤は、何が新しかったのですか?
それまでの円筒形の高いタレットをやめ、普通旋盤の往復台のような台に低く大きな円板を載せ、刃物台を上面にボルトで留めました。位置決めを外周でするので削る力に強く、工作物をタレットの上まで伸ばせるので、直径 2 インチ・長さ 24 インチまでの細長い仕事もタレットで削れました。1891 年に出て、Jones & Lamson の主力になりました。
アメリカで最初の NC 旋盤はいつですか?
この章で確かめられた中では、1955 年 9 月の Chicago の工作機械見本市に出た Jones & Lamson の NC タレット旋盤(試作)が早い例です。紙テープの 2 進の符号で主軸回転・タレットの割り出し・チャック・棒材送りまで指令しました。1960 年には Warner & Swasey の Servofeed と Jones & Lamson の量産型が出ています。

この先と関係するページ

出典

特許は米国特許の公報(Google Patents の公報画像)で番号・出願日・成立日を、業界誌と本は Internet Archive のスキャンで、博物館・史跡・メーカーの解説は各ページを 2026 年 10 月に確かめました。Woodbury の本・Armour 工科大学の卒業論文・1928 年の American Machinist の番号はスキャンのコマ(n 番号)、Ashburn の論文は PDF のページ、国立国会図書館の資料はコマ番号です。「最初」「初めて」は、何の最初か(特許・試作・商品)を本文で書き分け、メーカー自身の記述は「同社は〜とします」としています。特許の年(出願・成立)と製品の年(発表・出荷)は 1〜数年ずれることがあります。

  1. Robert S. Woodbury『History of the Lathe to 1850』Society for the History of Technology(1961)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号。n44〜n46 = pp.88〜93)コマ 44・45・46
  2. Joseph W. Roe『English and American Tool Builders』Yale University Press(1916。スキャンは 1926 年の再版)p. 119・120・142・143・176・177・182・183・194・197・198・200・207・208・214・220・221・250・269・270・276
  3. National Park Service, Springfield Armory National Historic Site「Thomas Blanchard and his Lathe」
  4. E. G. Parkhurst「Origin of the Turret, or Revolving Head」American Machinist, Vol.23 No.21(1900 年 5 月 24 日)pp.489〜490
  5. ASME「Landmark #120 Robbins & Lawrence Machine Shop(1846)」
  6. Oscar E. Perrigo『Modern American Lathe Practice』Norman W. Henley(1907)p. 101・157・232・299・405
  7. US 143,306 C. M. Spencer「Improvement in Machines for Making Metal Screws」(1873 年 9 月 30 日。出願 1873 年 3 月 6 日)
  8. Case Western Reserve University『Encyclopedia of Cleveland History』「Warner & Swasey Co.」
  9. Federal Writers' Project(WPA)『Cincinnati: A Guide to the Queen City and Its Neighbors』(1943)
  10. 『The City of Norwood, Ohio, 1809–1957』(1957)p.73 The R. K. LeBlond Machine Tool Co. の紹介p. 73
  11. 「Electric Power in the Machine Shop」Cassier's Magazine, Vol.23(1902〜1903 年)pp.72・89(Lodge & Shipley の電動機駆動の旋盤の写真)p. 72・89
  12. American Precision Museum「James Hartness」(Machine Tool Hall of Fame の人物紹介)
  13. 「A New Turret Head Lathe」American Machinist, Vol.14 No.19(1891 年 5 月 7 日)p.1〜(Jones & Lamson Machine Co. の平タレット旋盤)p. 1
  14. American Precision Museum「Machine of the Month: First Model Jones & Lamson Flat Turret Lathe」
  15. US 457,967 J. Hartness「Machine for Making Screws」(明細書は Turret-Lathes or Screw-Machines の改良。1891 年 1 月 9 日出願、8 月 18 日成立)
  16. 『James Hartness』(伝記、1937)。Internet Archive は貸出のみ。全文検索で「United States Patent No. 457,967, August 18, 1891」の記述を確かめた
  17. 「The Turret Lathe」の記事、Scientific American, Vol.112 No.23(1915 年 6 月 5 日)p.539(Hartness の平タレットは 1889 年に着手、特許は 1891 年と 1904 年)p. 539
  18. American Machinist, Vol.14(1891 年)索引(「Screw Machine, A New, Gisholt Machine Co.'s, Nov 5」ほか)
  19. US 470,591 W. P. Norton「Feed Mechanism for Screw-Cutting Lathes」(1892 年 3 月 8 日。出願 1891 年 9 月 16 日)
  20. Kenneth L. Cope『American Lathe Builders 1810–1910』Astragal Press(2001)。Internet Archive は貸出のみで、全文検索の断片で確かめた(ページは未確認)
  21. Davenport Machine「Company History」
  22. US 519,924 W. P. Norton「Screw-Cutting Engine-Lathe」Hendey Machine Co. に譲渡(1894 年 5 月 15 日。出願 1893 年 5 月 15 日)
  23. Anderson Ashburn「The Machine Tool Industry: The Crumbling Foundation」, Donald A. Hicks 編『Is New Technology Enough? Making and Remaking U.S. Basic Industries』American Enterprise Institute(1988)※番号は PDF のページ(印刷のページ+15)p. 50・51・56・57・63・64・66・71・72・73
  24. The Iron Trade Review, Vol.31 No.15(1898 年 4 月 14 日)p.20(Davis & Egan Machine Tool Co. が American Tool Works Co. に改称・増資)p. 20
  25. 「American Tool Works Company」Electrical Review, Vol.32 No.16(1898 年 4 月 20 日。役員の選出と、Davis & Egan が消えて American Tool Works が引き継いだこと)
  26. US 668,269 F. W. Taylor・M. White「Metal-Cutting Tool and Method of Making Same」Bethlehem Steel に譲渡(1901 年 2 月 19 日。出願 1899 年 10 月 20 日)
  27. C. E. Hayes・F. N. Wilson『High Speed Tool Steel on Lathe Work』Armour Institute of Technology 卒業論文(1906)※番号はスキャンのコマ(n 番号)コマ 12・14・22
  28. American Machinist, Vol.91 No.15(1947 年 7 月 17 日)p.92 South Bend Lathe Works の広告(「Lathe Builders Since 1906」)p. 92
  29. South Bend Lathe Works『First Year Lathe Work』(技術・職業学校の生徒向けの教本、1917 年ごろ)
  30. The Monarch Machine Tool Company「Form 10-K(1992 年度)」Item 1「1909 年に法人化」(SEC 提出書類のマイクロフィッシュ、Internet Archive)
  31. Monarch Machine Tool Co. の広告「Monarch has built fine lathes since 1909」American Machinist, Vol.96 No.1(1952 年 1 月 7 日)
  32. Samuel L. Hoyt「Tungsten Carbide—A New Tool Material」と「"Carboloy" Cutting Tools」American Machinist, Vol.69 No.16(1928 年 10 月 18 日)pp.623・633 ※番号はスキャンのコマ(n 番号)コマ 22・32
  33. Department of State Bulletin, Vol.3 No.54(1940 年 7 月 6 日)Proclamation No. 2413(輸出許可制の品目に工作機械)p. 12・13
  34. 一寸木俊昭『日本の工作機械工業の発展過程の分析』(1963)コマ 78
  35. Machine and Tool Blue Book, Vol.45 No.10(1949 年 10 月)p.18(Air-Gage Tracer を付けた Monarch Series 60 普通旋盤)p. 18
  36. 「"Air-Gage Tracer" for Monarch Lathes」Machinery, Vol.57 No.7(1951 年 3 月)
  37. David F. Noble『Forces of Production: A Social History of Industrial Automation』Knopf(1984)。Internet Archive は貸出のみで、全文検索で「Arma の旋盤は 1950 年に公開」を確かめた(ページは未確認)
  38. Tooling & Production, Vol.20 No.1(1954 年 4 月)p.98 Hardinge Brothers の HLV 精密旋盤p. 98
  39. Hardinge Inc.「Form 10-K(2002 年度の年次報告書)」米国証券取引委員会(SEC)提出
  40. 「Numerically Controlled Turret Lathe」Automation, Vol.2 No.10(1955 年 10 月)p.78(Jones & Lamson Machine Co.)p. 78
  41. American Machinist, Vol.104 No.12(1960 年 6 月 13 日)p.3「Turret Lathe Controls」・p.122 Warner & Swasey の新しい研究所と 5 機種p. 3・122
  42. 「Monarch Lathe Equipped with Numerical Control」Machinery, Vol.66 No.4(1959 年 12 月)p.195p. 195
  43. 『Numerical Control: A Bibliography』(1968)。Machinery 66 巻(1959 年)の「Monarch Lathe Equipped with Numerical Control」を挙げる
  44. 「The Machine Tool Exposition—1960」Machinery, Vol.67 No.1(1960 年 9 月)p.251(Jones & Lamson の NC タレット旋盤)p. 251・255
  45. 「The American Tool Works Co. Tape Controlled Lathe」Automotive Industries, Vol.123 No.5(1960 年 9 月 1 日)p.98(工作機械博覧会の出品の紹介)p. 98
  46. R. K. LeBlond の広告「Tape-Turn」American Machinist, Vol.105 No.14(1961 年 7 月 10 日)p.52(GE の Mark Century による連続輪郭のテープ制御旋盤)p. 52
  47. Machinery 68 巻(1961 年 9 月〜1962 年 8 月)の索引「Tape-controlled Lathes, LeBlond “Tape-Turn” Continuous-path(10 月号)」
  48. Textron Inc.『Annual Report 1969』(Jones & Lamson は Waterbury Farrel の一部門。新しい TNC 系列の NC タレット旋盤)
  49. Textron Inc.『Annual Report 1970』(Waterbury Farrel の Jones & Lamson 部門の NC 機)
  50. 日本機械学会「機械遺産 第126号 米国輸出を果たしたNC旋盤 MTC-2500R」
  51. ヤマザキマザック「沿革」
  52. John Teresko「A Growing Mission To Teach」IndustryWeek(2004 年 12 月 21 日。Mazak の米国の年表つき)
  53. Mazak「Mazak Celebrates 50 Years Of Kentucky Manufacturing Excellence」(2024 年 6 月)
  54. 牧野フライス製作所「History」(IR、英語)
  55. Haas Automation「Haas History」
  56. Ronald Reagan「Statement on the Revitalization of the Machine Tool Industry」(1986 年 12 月 16 日)The American Presidency Project
  57. オークマ「沿革」
  58. Kang Lee『Inventory of Equipment in the Turning Workstation of the AMRF』NISTIR 88-3810、米国立標準技術研究所(1988 年 6 月 22 日付、1989 年発行)
  59. Hardinge Inc.「Privet Fund Management LLC Completes Acquisition of Global Machine Tool Solutions Provider Hardinge」(2018 年 5 月 29 日の発表。SEC 提出の EX-99.1)
  60. Robert W. Baird & Co.「Affiliate of Privet Acquires Hardinge」(取引の記録、2018 年 5 月)
  61. ASME「Landmark #30 Wilkinson Mill(1810)」
  62. 日本工学会『明治工業史 機械・地学篇』(1930)
  63. 大隈鉄工所『製品沿革写真集:創業70周年記念』(1968)
  64. 『実用自動盤ハンドブック』工業調査会(1968)
  65. 『新潟鉄工所八十年史』(1977)
  66. ヤマザキマザック「沿革」