USA 10アメリカのその他の工作機械

工作機械というと旋盤・フライス盤・研削盤・歯切り盤がまず浮かびますが、工場にはほかにも大事な機械がたくさんあります。大きな平面を削る平削り盤と形削り盤、穴をあけるボール盤、大物の穴を仕上げる横中ぐり盤、穴の位置を 1,000 分の 1mm の桁で決めるジグ中ぐり盤、重い円い物を寝かせて削る立て旋盤、1 回押し通すだけで穴の形を仕上げるブローチ盤、金属を曲線に切る帯のこ盤、そして火花・光・水・樹脂を使う放電加工機・レーザ加工機・ウォータージェット・積層造形です。この章では、アメリカでこれらの機械がどんな仕事のために生まれ、仕組みがどう変わり、現場の加工がどう変わったかを、機種ごとの節に分けてたどります。年や機種は、Roe の 1916 年の研究書、当時の業界誌 American Machinist の誌面と索引、特許、政府・研究所の報告、メーカーの沿革で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典(ページが分かるものはページ番号)を付けました。

穴と平面と
新しい削り方の
ひみつ!

マスコットのチップス

この章の機械は、時代の章と重なるところがあります。兵器廠と互換生産は第 1 章、専業メーカーの時代は第 2 章、自動車の量産とトランスファーマシンは第 3 章、NC とマシニングセンタは第 4 章、輸入の波と積層造形は第 5 章で詳しく扱います。日本のボール盤・中ぐり盤と放電加工機の歴史は、国産アーカイブの第 5 章「ボール盤・中ぐり盤の系譜」と第 6 章「放電加工機の系譜」にまとめています。

平削り盤・形削り盤:大きな平面を削る

平削り盤(プレーナ)は、工作物を載せたテーブルを前後に往復させ、動かない刃物で平面を削る機械です。形削り盤(シェーパ)は逆に、刃物を付けたラムが往復し、工作物は少しずつ横に送られます。どちらも「行き」で削って「帰り」は空振りする、往復運動の機械です。平面は機械の土台です。旋盤のベッドの案内面も、エンジンの台座も、まず平らでなければ何も始まりません。

平削り盤は英国で生まれましたが、アメリカでも早くから作られました。Roe(1916)によると、Massachusetts 州の Gay, Silver & Co. は 1831 年にはもう平削り盤を作っていて、Philadelphia でも同じころに作られたといいます[1]。Worcester では 1845 年ごろから、テーブルを鎖で引く「チェーン式」の平削り盤が作られました[1]。鉄道の機関車や繊維機械の部品を削る需要が、こうした工場を育てました。

Sellers のらせん小歯車:往復を滑らかにする

往復の機械の弱点は、テーブルの動きのむらです。歯車とラックでテーブルを動かすと、歯の当たりが変わるたびに速さが揺れ、削った面に縞が残ります。ねじでテーブルを動かす方式もありましたが、ねじとナットを入れるために、いちばん丈夫にしたいベッドの真ん中を低くしなければなりませんでした。

Philadelphia の William Sellers は 1862 年、この問題を変わった方法で解きました[1][3]。テーブルの下のラックを、ベッドを斜めに横切る軸に付けたらせん形の小歯車で駆動したのです。1873 年の同社のカタログによると、小歯車は歯が 4 枚しかない「急なねじ」のような形で、ラックの歯はテーブルの動く向きに 5 度傾けてあり、テーブルが横へ押されないようにしていました。歯の当たりが幅いっぱいに移っていくので動きが滑らかで、駆動のベルトと軸が作業者の側に来るため、平削り盤を旋盤と平行に並べて工場の床を節約できました。1867 年のパリ万国博覧会では、英国の技術誌がこの平削り盤を出品の中で最も独創的な工作機械の 1 つとほめています[2]。Sellers は飾りの多い当時の機械の作りをやめ、機械を灰色に塗ったことでも知られます[1][3]。

Sellers の平削り盤1862 年らせん小歯車でラックを駆動[1]
小歯車の歯数4 枚ラックの歯は 5 度傾ける[2]
平削り盤の専業1883 年〜Cincinnati の G. A. Gray Co.[1]

平削り盤の専業メーカーと、フライス盤への交代

1880 年代になると、平削り盤は専業メーカーの製品になります。Cincinnati の George A. Gray は 1883 年に自分の会社を始め、旋盤から平削り盤の専業に移りました[1]。大形の平削り盤は Niles-Bement-Pond の工場(Pond、Niles)も得意で、Rockford では 1897 年に Rockford Machine Tool Co. が形削り盤と平削り盤を始めています[1]。形削り盤では、Newark の Gould & Eberhardt が 1916 年ごろ約 400 人で歯切り盤と形削り盤を作り[1]、Cincinnati では 1890 年代の終わりに The Cincinnati Shaper Co. ができました[6]。Giddings & Lewis も 1910 年以降、油圧で動かす形削り盤と小形の平削り盤を作っています[14]。

ただ、平削り盤には「帰りは削らない」という根本の弱点があります。大物の平面は、回るフライスで連続して削る方が速くなります。1893 年ごろ Rockford に移った Ingersoll は、いくつもの主軸頭を持つ「平削り形」の重いフライス盤を広めました[1]。テーブルと門形の枠は平削り盤と同じ形のまま、刃物だけが回るフライスに替わったわけです。こうして平面加工の主役は少しずつフライス盤へ移り(第 7 章)、形削り盤の会社の中には別の道を選んだ所もありました。The Cincinnati Shaper Co. は 1920 年代の初めから板金のプレスブレーキとシャーに移り、のちの Cincinnati Incorporated はレーザ切断機と大形の積層造形機まで作るようになります[6][68]。

現場で何が変わったか。平削り盤の時代、大物の平面は「削ってはきさげ(スクレーパで手で削る仕上げ)」で合わせていました。削った面がきれいなほど、きさげで取る量は少なくて済みます。いまも工作機械の案内面にきさげの模様が残るのは、この仕上げのやり方が続いているからです。

ボール盤:穴をあける機械の専業化

穴あけは機械加工でいちばん多い作業です。兵器の互換生産でも穴あけは大事で、1855 年に英国政府が Enfield の小銃工場のために米国から買った 157 台の機械には、フライス盤 74 台に次いでボール盤が 23 台入っていました[1]。

ツイストドリル:工具が変わると機械が変わる

19 世紀の半ばまで、ドリルは平たい刃の「平ドリル」が主で、切りくずが詰まりやすく、穴が曲がりがちでした。1863 年 4 月、Massachusetts 州の Stephen A. Morse は、ねじれた溝を持つドリル(ツイストドリル)で米国特許 38,119 を取ります。特許の明細書は、刃先がまっすぐ当たり、切りくずが溝を通って抜けるので、穴がまっすぐあくと説明しています[4]。ねじれ溝を削る機械も必要で、Brown & Sharpe は 1862 年に、ドリルの溝を削れる万能フライス盤を最初に売っています[1]。ツイストドリルが当たり前になると、ボール盤には速い回転と、切りくずを出しながら進む安定した送りが求められるようになりました。Sellers の 1873 年のカタログは、かさ歯車の代わりにベルトで主軸を回す直立ボール盤を勧め、ベルトの方が滑らかで、小さい穴をきれいにあけられると書いています[2]。

Cincinnati のラジアルボール盤

直立ボール盤では、工作物の方を動かして穴の位置を合わせます。大きくて重い物ではそれができません。そこで、柱(コラム)から突き出た腕(アーム)に主軸頭を載せ、腕を回して主軸頭を腕に沿って動かすラジアルボール盤が生まれました。工作物は置いたまま、刃物の方が穴の位置へ行くのです。

Cincinnati の Henry Bickford は 1874 年に直立ボール盤を作り始め、1885 年までに 3,000 台を作りました。1887 年の Bickford Drill Co. はラジアルボール盤と万能ボール盤に広げます[1]。1880 年には、Niles の設計者だった George A. Gray が Universal Radial Drill Co. を起こし、丸い柱のラジアルボール盤を作りました。Roe は、丸コラムのラジアルボール盤を最初に作った会社としています。この会社は 1894 年に Bickford に吸収されました[1]。1909 年には業界誌の索引に Cincinnati Bickford Tool Co. の名が出ます[11]。Iron Age(1924 年)によると、これはこの年に Bickford Drill & Tool Co. と Cincinnati Machine Tool Co. が合併してできた社名で、1955 年には Giddings & Lewis に買われてその一部門になります[12][38]。1919 年の『Modern Drilling Practice』は、製鋼機械の工場で、工作機械のベッドのような大物に何台ものラジアルボール盤を持ち込み、同時に穴をあける様子を描いています[22]。Rockford の Barnes の兄弟も、自社用に作ったボール盤からラジアル・多軸のボール盤へ広げました[1]。

多軸ボール盤:自動車の穴を一度に

自動車の量産は、穴あけの仕方を変えました。シリンダブロックやフライホイールには、決まった位置に何十もの穴があります。1 本ずつあけるのではなく、たくさんの主軸を 1 つの頭に並べ、治具のブシュで刃物を案内して一度にあけるのが多軸ボール盤です。1919 年の本には、Willys-Overland が National Automatic Tool(Natco)の No.14 多軸ボール盤に 3 か所の割り出しの治具を付けて後車軸の部品をあけ、Continental Motors が Baush の多軸ボール盤でシリンダブロックをあける例が載っています。Baush が移動する治具と組み合わせた工程分けの機械は、もともと Ford のフライホイールの 81 の穴あけ・座ぐり・リーマ通しのために作られたものでした[22]。工作物を次の位置へ送りながら穴をあけるこの考え方は、のちのトランスファーマシンにつながります。

NC は穴あけから広まった

NC(数値制御)というと複雑な曲面を削るフライス盤が思い浮かびますが、町の工場に最初に広まった NC は、穴の位置を決めるだけの簡単なものでした。Ashburn(1988)によると、1955 年の Chicago の工作機械見本市には、ラジアルボール盤などの下に置いて工作物の位置を決める NC のテーブルがいくつも出ました。印刷機の Goss の Adrian Holmberg はこれを 1 台 1 万ドルで 2 台買い、1960 年までに NC 機を 22 台に増やし、部品ごとの紙テープを 2 万本ためていました。その多くは穴あけで、かさばる高い穴あけ治具の代わりになったのです[23]。1958 年には Los Angeles 近郊の Burgmaster が、6 本・8 本の主軸のタレットを回して工具を替えるタレットボール盤に GE の NC を付けて広告し、治具の代わりに簡単な締め具と紙テープを使うとうたっています[42]。Burgmaster は 1965 年に Houdaille Industries に買われます[47][48]。Burgmaster ののちの盛衰は、Max Holland の本『When the Machine Stopped』(1989)の主題になりました[47]。

現場で何が変わったか。多軸ボール盤は「治具とブシュで位置を決める」量産の道具、NC は「座標で位置を決める」少量生産の道具です。いまのマシニングセンタの穴あけのサイクル(固定サイクル)は、この NC のボール盤の考え方を引き継いでいます。

横中ぐり盤とジグ中ぐり盤:大物の穴と正確な穴

中ぐりは、あいている穴の内側を 1 枚の刃物で削り広げて、径と真円と位置を仕上げる加工です。ドリルの穴は大きさも位置もあまり正確ではないので、正確な穴が要るところは中ぐりで仕上げます。

横中ぐりフライス盤:Giddings & Lewis

大きな箱形の部品(歯車箱、ポンプやタービンの胴)は、旋盤では回せません。工作物を台に置き、横向きの主軸に付けた中ぐり棒で穴を削るのが横中ぐり盤です。Sellers の 1873 年のカタログにも、工作物を台に載せて横から穴をあけ中ぐりする機械が載っていて、面板を付ければ正面旋盤にもなり、送りは摩擦円板で無段に変えられました[2]。

20 世紀の横中ぐり盤の代表は、Wisconsin 州 Fond du Lac の Giddings & Lewis です。1859 年の製材機械の店に始まり、世紀の変わり目に工作機械へ移りました。第一次世界大戦のころから横形の穴あけ・中ぐり・フライス盤を作り、1920 年代の終わりには主軸の直径 2.5〜8 インチ(約 64〜203mm)までをそろえ、1939 年には 6・7 インチの大形の系列を出します。第二次世界大戦では政府が戦時の工場を建てさせ、大形の横中ぐりフライス盤を作らせました[14]。1948 年には NACA(いまの NASA)の Lewis 研究所で、直径 72 インチ(約 1.8m)の圧縮機の外枠を同社の横中ぐり盤で削る写真が撮られています[36]。同社は 1950 年代から NC に力を入れ、1966 年の年次報告では NC のマシニングセンタや NC の穴あけ・中ぐり盤を並べ、「10 年前に NC の開発に力を注ぐと決めたことが実を結んだ」と書いています[50]。

ジグ中ぐり盤:穴の位置を工具室で決める

量産の穴あけには治具(ジグ)が要ります。治具の板には、ドリルを案内するブシュの穴が正確な位置にあけてなければなりません。その治具の穴を正確にあけるための機械がジグ中ぐり盤です。主軸とテーブルの送りに精密な目盛りや測長の仕掛けを付け、座標で穴の位置を決めます。

ジグ中ぐり盤ではスイスの SIP が有名ですが(日本でも戦前に輸入され手本になりました。国産アーカイブ第 5 章)、アメリカで工具室の定番にしたのは Bridgeport の Moore Special Tool です。1924 年に治工具の店として始まった同社は、型の精度を出せる機械が手に入らないため、1930 年から自分でジグ中ぐり盤の開発を始め、1931 年に最初の機械を作りました[25](いまの同社の沿革は 1932 年とします[24])。それより前の 1917 年 8 月には、Pratt & Whitney が測長機の考えで穴の位置を決めるジグ中ぐり盤の 1 号機を完成させています[20][21]。決め手は、焼入れして研削・ラップ仕上げした硬い送りねじでした。それまでは柔らかいねじの誤差を補正して使っていたのです[24]。

ジグ中ぐり盤には 1 つ限界がありました。焼入れ前の柔らかい材料にしか穴をあけられず、焼入れでひずむと位置がずれてしまいます。Moore は 1940 年にジグ研削盤を作り、焼入れした後に穴を正しい位置へ研削できるようにしました[25][24]。同社は使い方を本で伝える方針をとり、1946 年に『Precision Hole Location』、1955 年に『Holes, Contours and Surfaces』を出しています[25]。1950 年までに No.1 ジグ中ぐり盤は 1,500 台以上、ジグ研削盤は 500 台が売れ、1967 年には NC で輪郭を研削するジグ研削盤を作りました[24]。NC の生みの親 John Parsons も、ヘリコプターの羽根の型板をつくるとき、計算した座標の点をスイス製のジグ中ぐり盤で 1 つずつあけていました[23]。

Moore のジグ中ぐり盤1931 年硬い研削・ラップの送りねじ[25]
ジグ研削盤1940 年焼入れ後に穴の位置を研削[25]
1950 年までの台数1,500 台以上No.1 ジグ中ぐり盤[24]

現場で何が変わったか。ジグ研削盤が出てから、プレス型やモールドの穴は「焼入れしてから研削で位置を出す」のが標準になりました。日本の型の工場でジグ研削盤が欠かせないのも同じ理由です。研削の機械の歴史は第 8 章もどうぞ。

立て旋盤:重い物を寝かせて削る

直径の大きい円盤のような物(車輪、フランジ、歯車の素材)を普通の旋盤で削ると、重さで主軸がたわみ、つかみ直しも大変です。テーブルを水平に回して工作物を寝かせて置けば、重さはテーブルが受け止めます。これが立て旋盤(立て中ぐり盤)です。Roe は、英国にいたスイス人の Bodmer がこの形を「円形の平削り盤」として書いていたものの英国ではあまり使われず、アメリカで発達した機械とされると書いています[1]。

Bullard:37 インチから Mult-Au-Matic へ

この機械を量産の道具に変えたのが Bridgeport の Edward P. Bullard です。Colt や Pratt & Whitney で働いた Bullard は 1880 年に旋盤の工場を始め[5]、1883 年に最初の立て中ぐり旋削盤を設計しました。刃物台 1 つをベルトで送る能力 37 インチ(約 940mm)の機械で、Roe は、それまで旋盤の面板でしていた精密な仕事をする最初の小形の立て中ぐり盤だったとしています。それまでの立て中ぐり盤は、大きく荒い仕事だけに使われていました[1]。

次の一歩は、息子の Edward P. Bullard(Jr.)です。1900 年にパリ万国博覧会へ行った彼は、フランスの自動車工業の需要を見て、立て中ぐり盤とタレット旋盤を組み合わせた立てタレット旋盤の設計を始めました[7]。横けたの刃物台にタレット(何本もの刃物を付けて回して替える台)を付け、さらに柱の横にも刃物台を付けて刃物を工作物の近くで働かせるようにすると、立て中ぐり盤は事実上の「立てタレット旋盤」になりました[1]。1912〜13 年の American Machinist は Bullard のタレットの新しい設計と 36 インチの立てタレット旋盤を紹介しています[15][16]。

1914 年、Bullard は Mult-Au-Matic を出します。丸い台の上に主軸がいくつも並び、台が割り出すたびに工作物が次の刃物台へ回って、それぞれの刃物台が同時に別の工程を削ります。Roe はこれを、5 つの独立した刃物台を持つ立て形の多軸自動チャック旋盤と書き、Maudslay の刃物送り台から 115 年で旋盤がここまで来たと結んでいます[17][1]。Mult-Au-Matic は自動車の部品の量産の主力になり、Bullard は長くアメリカ最大級の工作機械メーカーでした[7]。会社は 1929 年に上場して The Bullard Company となり、のちに White Consolidated Industries に買われて衰え、Bridgeport の工場は 1983 年に取り壊されました[5]。WCI との合併は 1968 年 3 月です[52]。戦争が終わった 1945 年 10 月には、電気と油圧の装置で運転の手順を自動で進める Man-Au-Trol を立てタレット旋盤に付けて公開していました[31][32]。NC の立て旋盤では Giddings & Lewis も、1966 年に Caterpillar の変速機ケースを削る機械を紹介しています[50]。旋盤そのものの歴史は第 6 章で扱います。

ブローチ盤:1 回通すだけで仕上げる

ブローチは、歯が少しずつ高くなるように何十枚も並んだ長い工具です。穴に通して引く(または押す)と、1 枚ごとに少しずつ削り、最後の歯が通った時には四角穴やスプライン、キー溝が仕上がっています。工具は高く、形ごとに専用ですが、数が多い仕事なら圧倒的に速く、形も揃います。

考え方は古く、1850 年代には Robbins & Lawrence の Richard S. Lawrence が Sharps の小銃の製造にブローチ加工を使って費用を大きく下げたと Roe は書いています[1]。機械としてのブローチ盤を広めたのは、Pratt & Whitney で働いた Joseph N. Lapointe です[1]。1953 年の Ann Arbor の新聞は、彼が 1900 年代の初めに金属の削り方の新しい考え方としてブローチ盤を売り出し、初めの機械はベルトで回すプーリと送りねじでブローチを引くものだったと伝えています[8]。American Machinist の索引には、1904 年に Lapointe Machine Tool Co. の名が、1906 年にキー溝を削るブローチ盤が、1913 年には同社のブローチ盤の記事が出てきます[9][10][16]。

息子の Francis J. Lapointe は 1916 年に Detroit で American Broach & Machine Co. を起こし、すぐに Ann Arbor へ移しました。生涯に約 70 件の特許をとり、その多くがブローチ盤とブローチでした。同社は 1936 年に Rockford の Sundstrand と合併しています[8]。1913 年の American Machinist には自動車の歯車の内歯をブローチで仕上げる記事もあり[16]、ブローチ盤は自動車の部品の穴を一気に仕上げる道具になっていきます。

現場で何が変わったか。ブローチ盤の登場で、スプライン穴やキー溝は「形削り盤や立て削り盤で 1 本ずつ」から「1 回通すだけ」になりました。キー溝の加工の今のやり方は機械加工の解説もどうぞ。

金切り帯のこ盤:DoALL

金属を切る機械は長く、弓のこを往復させる弓のこ盤(ハクソー)が主でした。往復なので帰りは切らず、直線にしか切れません。輪にした帯状ののこ刃を一方向に回し続ける帯のこは木工では使われていましたが、金属は切れませんでした。

Minneapolis の Leighton A. Wilkie は 1933 年、金属を切る帯のこ盤を作って「DoALL」と名づけ、のちに会社の名前にもしました[26][27]。業界誌でこの章が確かめられた最も早い記事は 1935 年の American Machinist の新製品の欄で、Continental の Do-All は帯のこと帯やすりを付け替えて「切って、やすりがけする」機械として載っています。1936 年には卓上形や、ふところの深い形も出ました[28]。帯のこは連続して切るので速く、刃を曲がりに沿わせれば型の輪郭を切り抜けます。刃を曲がりに沿わせれば輪郭も切り抜けるので、ブロックから型の形を荒く切り出す仕事にも向いています。Wilkie は実演して見せる売り方を重んじ、全国に工業用品の販売の拠点を作りました[26]。

専用機とトランスファーマシン(第 3 章とつながる)

多軸ボール盤や Mult-Au-Matic は、工作物を次の位置へ送りながら別の工程を同時に削る機械でした。この考え方を工場の規模に広げたのが、工作物を自動で次の機械へ送るトランスファーマシンです。Ashburn(1988)は、いまの意味での最初の連続自動生産ラインは 1920 年に Milwaukee の A. O. Smith が入れた自動車のフレームのラインだったろうとし、標準の機械を 1 本のベッドに並べてエンジンブロックに 53 の加工をする機械が 1924 年に英国 Coventry の Morris の工場でできたことから、トランスファーマシンが育ったと書いています。ただ、型が売れないとラインごと捨てることになる「融通のきかなさ」が弱点でした[23]。自動車工場のトランスファーマシンと「Detroit Automation」は第 3 章で詳しく扱います。

放電加工機:火花で削る

放電加工は、電極と工作物の間に油などの加工液を満たし、小さな火花を何万回も飛ばして金属を少しずつ溶かして取る加工です。刃物で削らないので、焼入れした鋼や超硬合金でも形を彫れます。原理は 1943 年にソ連の Lazarenko 夫妻が発明したとするのが定説ですが、国立科学博物館の系統化調査は、金属の加工への応用の研究はアメリカとソ連で始められたと書いています[30]。

折れたタップを取る機械から

アメリカの始まりは、現場の困りごとでした。業界誌 Cutting Tool Engineering によると、ほぼ同じころアメリカの Harold Stark・Victor Harding・Jack Beaver が、アルミ鋳物の中で折れたドリルやタップを火花で崩して取る機械を作っていました。初めは電気の彫刻具を流用して力が足りませんでしたが、強い火花の電源と自動の繰り返し、加工液の入れ替えの仕掛けで実用になり、のちに真空管の電源で毎秒何千回も火花を飛ばす設計へ進みました[29]。1946 年までに Michigan 州 Clawson の Elox Corporation が、この「ディスインテグレータ」を 3 機種売っています[34][35]。いまも折れたタップの最後の手段が放電加工なのは、この始まりとつながっています(折れたタップの取り方)。

航空機の難削材から町の型の工場へ

1950 年代の半ばまでに、ソ連・欧州・アメリカに放電加工機のメーカーがたくさん生まれます。アメリカでは航空宇宙の特殊な部品の加工に使われました[30]。それでも 1958 年の米国の設備調査で放電加工機は 578 台で、工作機械全体のごく一部でした[41]。1960 年代の初めには米 Elox などが、電極の送りに電気油圧のサーボ弁を使う機械を完成させ、放電のすき間を速く正確に保てるようになりました[30]。1961 年の American Machinist には「町の受託工場のための放電加工」の記事が載り[44]、1973〜74 年には Colt Industries の Elox 部門が空軍の契約で、難削材の銃身の穴とライフリングを放電加工で作る研究をしています[58]。

走るワイヤ電極

形彫りの放電加工では、電極そのものも減ります。細い線を走らせ続けて電極にすれば、減った分は新しい線と入れ替わります。1967 年 8 月の原子力委員会と NASA の技術短報は、Argonne 国立研究所の工場が作った「走るワイヤ電極」の放電加工を紹介しています。直径 0.005 インチ(約 0.13mm)までの黄銅や銅の線を毎分 10〜15 インチで送り、往復させながら使って、板の電極の代わりにしました。電極のゆがみがなくなって精度が上がり、希土類の金属や隕石、放射性の材料を切ったといいます[51]。輪郭を NC で追うワイヤ放電加工機の製品化はスイス・ソ連・日本で進み、日本の歩みは国産アーカイブ第 6 章で扱います。

現場で何が変わったか。放電加工で「焼入れしてから形を彫る」ことができるようになり、型の工場の段取りは大きく変わりました。ジグ研削盤(前の節)と並んで、焼入れ後の精度を出す機械です。

レーザ加工機とウォータージェット:光と水で切る

レーザ

1960 年 8 月、Hughes Aircraft の研究所(Malibu, California 州)の Theodore H. Maiman は、ルビーの結晶で光を誘導放出させる、つまりレーザの発振を Nature に報告しました[43]。1964 年には Bell 研究所の C. K. N. Patel が、二酸化炭素の分子で連続して発振するレーザ(CO2 レーザ)を報告します[45]。CO2 レーザは出力を上げやすく、のちの板金のレーザ切断機の多くがこの方式になりました。

工場での最初期の使い道の 1 つは、極めて硬い物への小さな穴あけでした。1966 年、Western Electric は、電線を引き抜くダイヤモンドダイスの穴をレーザで貫くことに成功したと業界誌に報告し、ダイスづくりの時間と費用を下げられそうだとしています[49]。板金の切断では、形削り盤から始まった Cincinnati Incorporated が 1980 年代に商用のレーザ切断機を出し、のちにリニアモータで動かすレーザ切断機も作りました[6]。

ウォータージェット

水を細い穴から超高圧で噴き出させると、物を切れます。Michigan 州 Ann Arbor の Norman C. Franz は 1968 年 5 月、長い鎖の高分子を水に溶かしてジェットがばらけにくくする方法で特許を出願し、1970 年 8 月に米国特許 3,524,367 を得ました[53]。もとは林業の技術者で、木を効率よく切る方法を探していたと Flow は紹介しています[54]。最初の商用の装置は Ingersoll-Rand の McCartney が作り、1971 年 11 月に Alton Box Board の紙管の工場で動き始めました[55][56]。

製品にしたのは、Washington 州 Kent の Flow です。1974 年に始まり、1975 年に連続運転できる増圧ポンプを製品にしました[57]。初めは段ボール・紙・断熱材・紙おむつなど柔らかい物の切断でした[54]。そこで Mohamed A. Hashish らが水のジェットに研磨材(アブレシブ)を混ぜ、流れの中心に集めてノズルの摩耗を減らす方法を考えます。最初の出願は 1982 年 10 月で、1987 年 3 月に米国特許 4,648,215 になりました[61]。同社によると、アブレシブウォータージェットの最初の商用機は 1984 年に出ました[62]。研磨材の力で硬い材料まで切れるようになり、熱をかけずに切れることが、焼けや変質を嫌う材料で生きました。

ルビーレーザ1960 年Hughes の Maiman[43]
ウォータージェットの特許1968 年出願Franz、1970 年成立[53]
アブレシブ1982 年出願Flow の Hashish ら、1987 年成立[61]

測定機:Sheffield と Brown & Sharpe

精密な機械には、精密に測る道具が欠かせません。Dayton(Ohio 州)の Sheffield Corp. は、1941 年に Louis Polk が City Machine & Tool と Sheffield Machine & Tool を合わせてできたゲージと測定器のメーカーで、柱形の比較測定器 Precisionaire は第二次世界大戦の航空機の生産で使われ、のちに工作機械の加工中の測定にも使われました。1956 年に Bendix の傘下に入ります[40]。

三次元測定機(CMM)の始まりは英国の章(英国のその他の工作機械)で扱います。アメリカで CMM の大手になったのは、意外にも工作機械の老舗の Brown & Sharpe でした。1994 年の同社の届出書によると、同社は 1985〜93 年に事業の売却と買収を重ね、工作機械の会社から寸法測定の会社へ変わりました。1990 年 6 月には独 Wild Leitz の工業測定の部門(精密な CMM)を買い、1994 年 6 月には伊 Finmeccanica の CMM の会社 DEA を買う契約を結んで、CMM の売上で世界一だと書いています[66]。その測定の事業は 2000 年 11 月の契約でスウェーデンの Hexagon に売られ、残った会社は社名から Brown & Sharpe の名を外しました[67]。1833 年に時計と計器の店として始まった会社が、最後は「測る」側に残ったのです。今の測定の考え方はゲージと読みもの「測定の誤差」もどうぞ。

積層造形(第 5 章とつながる)

削らずに足して形を作る積層造形も、アメリカの特許から広まりました。Charles W. Hull は 1984 年 8 月、紫外線で液体の樹脂を 1 層ずつ固める光造形装置の特許を出願し、1986 年 3 月に米国特許 4,575,330 を得ます[63]。1986 年に 3D Systems を共同で起こし、1987 年に最初の商用の 3D プリンタ SLA-1 を出しました。ASME は 2016 年にこれを機械遺産(Landmark)に選んでいます[59]。Texas 大学の Carl R. Deckard は 1986 年 10 月に粉をレーザで焼き固める方法(SLS)を[64]、Stratasys の S. Scott Crump は 1989 年 10 月に溶かした材料を押し出して積む方法(FDM)を出願しました[65]。2014 年には、形削り盤から始まった Cincinnati Incorporated が米エネルギー省の Oak Ridge 国立研究所と大形の樹脂の造形機 BAAM を共同で開発し、Chicago の IMTS で自動車の車体を 44 時間で造形して見せました[68]。2015 年 1 月には、BAAM で造形した Shelby Cobra の複製が Detroit のモーターショーに並びました[69][70]。金属の積層造形と今の動きは第 5 章で扱います。

日本とのつながり

ボール盤。日本では 1912 年に碌々産業が米国で身につけた技術で枝型ボール盤を国産化し、国立科学博物館はこれを外国技術導入の第一号と考えられるとしています(国産アーカイブ第 5 章の年表)。ラジアルボール盤は戦前・戦後を通じて国内のメーカーの定番になり、1958 年の大隈の高速ラジアルボール盤 DRA-J 形は「ジグボーラー並みの精密な穴あけ」をうたいました(同)。

放電加工機。日本の放電加工の研究でも、アメリカは物差しでした。1965 年の東京大学の倉藤尚雄・須田孝の論文は、加工液の比べ方の基準の 1 つに米 Elox の「Elox oil」を挙げています[46]。1972 年に三菱電機が出した国産初のワイヤ放電加工機 DWC-50 は、高い NC の代わりに米国で開発された光学式の図面倣い装置で図面の線を追いました[30]。その後、日本のメーカーは NC 装置と電源の開発で性能・品質を上げ、1970 年代の後半には、それまで世界の代表だったスイスの Agie・Charmilles と米国の Elox に追いつき、値段で優位に立ちます[30](国産アーカイブ第 6 章)。

立て旋盤と NC。Bullard が開いた立てタレット旋盤は日本でも作られ、1962 年の第 1 回日本国際工作機械見本市にはオーエム製作所の NC 立て旋盤が出ています(国産アーカイブ第 1 章の年表)。一方、1982 年 5 月には工作機械部門を持つ Houdaille Industries が、日本製のマシニングセンタと NC パンチプレスを買う会社に投資税額控除を認めないよう請願し(1983 年に退けられました)[23]、その後の対米輸出の自主規制につながります(第 5 章)。

積層造形。ASME の機械遺産の資料は、光造形の前史の最初の特許出願として、1980 年の名古屋市工業研究所の小玉秀男の出願を挙げています。小玉は紫外線で固まる樹脂を重ねて立体を作る方法を 1981 年に論文にしました[59][60]。

⑂メーカーの系図

この章の主なメーカーの社名の移り変わりと、合併・事業の行き先です。帯の色が変わるところで社名が変わります。Bullard は 1983 年の工場の取り壊しまで、Lapointe Machine Tool は名前が確かめられた 1904 年から描いています。Cincinnati Bickford は、Giddings & Lewis の 1966 年の年次報告に子会社として載るところまでを描きました(買収の年は確かめきれませんでした)。Brown & Sharpe は工作機械から測定へ変わり、測定の事業が Hexagon へ移りました。

18401880192019602000Bridgeport Machine Tool WorksBullard Machine ToolThe Bullard CompanyWCI の傘下Henry BickfordBickford Drill Co.Cincinnati Bickford Tool Co.G&L が買収Universal Radial DrillBickford が吸収Bonnell の機械工場Novelty Iron WorksGiddings & Lewis(Fond du Lac)Lapointe Machine Tool Co.American Broach & Machine(Ann Arbor)Moore Special Tool(Bridgeport)Moore Tool(PMT Group)Brown & Sharpe(1985〜93 年に工作機械から測定へ)測定の事業HexagonFlow(Kent)3D Systems帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [5][1][52][11][50][12][38][14][9][8][24][25][66][67][57][59]

見に行ける所

平削り盤やボール盤は工場で使い切られることが多く、古い機械が見られる所は限られます。公開日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

American Precision MuseumWindsor(Vermont 州)1846 年の Robbins & Lawrence の兵器工場の建物(ASME の機械遺産)にある工作機械の博物館。展示「The Cutting Edge」は 1840 年代から 20 世紀の機械を、平削り・形削りなど削り方の種類ごとに色分けして見せています。Sellers・Bullard・Moore・Wilkie(DoALL)らを顕彰する Machine Tool Hall of Fame も運営しています[71][72][3][7][26]
The Henry Ford(ヘンリー・フォード博物館)Dearborn(Michigan 州)Moore の No.1 精密ジグ中ぐり盤(1950 年ごろ、収蔵番号 92.159.1)を所蔵しています。収蔵品の記録では「展示していない」とされるので、見たいときは前もって問い合わせてください[37]
Fairfield Museum and History CenterFairfield(Connecticut 州)Bullard の会社の資料(Ms B41、1888〜1983 年)を図書室で見られます。取扱説明書・カタログ・社内報・写真があり、1955 年の電子式の生産管理の記録や、White Consolidated による買収の書簡も含まれます[5]
3D Systems 本社Rock Hill(South Carolina 州)最初の商用の 3D プリンタ SLA-1 の最初期の 1 台がある、と ASME の機械遺産の資料は書いています。会社の建物なので、見学できるかは会社に確かめてください[59]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「p.」は本のページ、「コマ」はスキャンの通し番号(Internet Archive の n 番号と国立国会図書館のコマ)、「PDF p.」は PDF のページです。

ベルトと段車の時代自動車と専用化戦争と NC新しい加工法再編1840186018801900192019401960198020002020186218801902191419311943195519671984黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

平削り盤・ボール盤・立て中ぐり盤の始まり1831〜1899 年

年出来事メーカー・機種出典
1831年ごろNorth Chelmsford(Massachusetts 州)の Gay, Silver & Co. が、遅くともこのころまでに金属の平削り盤を作っていた。Philadelphia の Pedrick & Ayer も同じころに作ったとされる。英国より遅いが、米国でも早くから平削り盤が使われたGay, Silver & Co.平削り盤[1・p.53]
1833年Ezra Gould が Newark(New Jersey 州)で 16 フィート四方の 1 部屋の工場を始める。のちに旋盤・平削り盤・ボール盤を作り、1916 年ごろには歯切り盤と形削り盤を約 400 人で作る会社になっていたGould & Eberhardt[1・p.259]
1845年ごろWorcester(Massachusetts 州)の Pierson Cowie が、テーブルを鎖で往復させるチェーン式の平削り盤を作り始める。Worcester の工作機械づくりは、鉄道の機械の需要とともに育ったPierson Cowieチェーン式平削り盤[1・p.221]
1855年英国政府がエンフィールドの小銃工場のために米国の銃の製造機械 157 台を買う。フライス盤 74 台に次いでボール盤が 23 台あり、穴あけ専用の機械が兵器の互換生産を支えていたことがわかるRobbins & Lawrence ほか[1・p.138]
1850年代Richard S. Lawrence が Sharps の小銃の製造にブローチ加工(穴に歯の並んだ工具を押し通して形を仕上げる加工)を使い、大きく費用を下げる。ブローチ盤の前史Robbins & Lawrence[1・p.194]
1862年★Philadelphia の William Sellers が、テーブルのラックを斜めの軸のらせん形の小歯車で駆動する平削り盤で特許を取る。テーブルの動きが滑らかで、駆動のベルトが作業者の側に来るので旋盤と平行に並べられたRoe は「1862 年の特許」、American Precision Museum は「1862 年に開発」とする。特許番号は Google Patents が開けず確かめられなかったWilliam Sellers & Co.らせん歯車駆動の平削り盤[1・p.248][2・p.85][3]
1863年4月East Bridgewater(Massachusetts 州)の Stephen A. Morse が、ねじれ溝のドリル(ツイストドリル)で米国特許 38,119 を取る。刃先がまっすぐに当たり、切りくずが溝を通って抜けるので、穴が曲がりにくいとした。前年の 1862 年には Brown & Sharpe がドリルの溝を削る万能フライス盤を売り出していたStephen A. Morseツイストドリル[4][1・p.209]
1867年パリ万国博覧会に出た Sellers の平削り盤などが、英国の技術誌に「出品された工作機械の中で最も独創的」と評される。らせん小歯車のラックの歯は運動の向きに 5 度傾けて、テーブルが横に押されないようにしていたWilliam Sellers & Co.平削り盤[2・p.86]
1873年Sellers のカタログに、工作物を台に置いて横から穴をあけ中ぐりする機械と、かさ歯車の代わりにベルトで主軸を回す直立ボール盤が載る。横形の機械は面板を付けて正面旋盤にもなり、送りは摩擦円板で無段に変えられたWilliam Sellers & Co.横形の穴あけ・中ぐり盤/ベルト駆動の直立ボール盤[2・p.37][2・p.38]
1874年Cincinnati(Ohio 州)の Henry Bickford が、能力 20〜38 インチの 5 種類の直立ボール盤を作り始める。1885 年までに 3,000 台を作ったHenry Bickford直立ボール盤[1・p.272]
1876年ごろCincinnati の Niles Tool Works が Hamilton(Ohio 州)へ移り、工作機械の専業になる。のちに大形の旋盤・平削り盤・中ぐり盤の Niles-Bement-Pond の工場の 1 つになったNiles Tool Works[1・p.273]
1880年★Niles の設計者だった George A. Gray が Cincinnati で Universal Radial Drill Co. を起こし、丸い柱(コラム)のラジアルボール盤を作る。Roe は、丸コラムのラジアルボール盤(普通形と万能形)を最初に作った会社とするUniversal Radial Drill Co.丸コラムのラジアルボール盤[1・p.273]
1880年Edward P. Bullard が Bridgeport(Connecticut 州)で旋盤の工場を始める(のちの Bullard)Fairfield Museum の目録は 1880 年。Roe は 1877 年の Bullard Machine Company の設立に続けて「同じ年の後半に工場を引き継いだ」と書き、年がずれるBridgeport Machine Tool Works[5][1・p.184]
1883年★Bullard が最初の立て中ぐり旋削盤(いまの立て旋盤)を設計する。1 つの刃物台をベルトで送る能力 37 インチ(約 940mm)の機械で、それまで旋盤の面板でしていた精密な仕事をする最初の小形の立て中ぐり盤とされるBridgeport Machine Tool Works立て中ぐり旋削盤(37 インチ)[1・p.184]
1883年George A. Gray が Cincinnati で G. A. Gray Co. を始める。初めは旋盤を作ったが平削り盤の専業になり、1916 年ごろには米国の平削り盤の代表的なメーカーだったG. A. Gray Co.平削り盤[1・p.273]
1887年Bickford Drill Co. ができ、ラジアルボール盤と万能ボール盤に広げる。1894 年には同じ町の唯一の競争相手だった Universal Radial Drill Co. を吸収したBickford Drill Co.ラジアルボール盤・万能ボール盤[1・p.272]
1893年ごろIngersoll Milling Machine Co. が Cleveland から Rockford(Illinois 州)へ移る。いくつもの主軸頭を持つ重い「平削り形」のフライス盤を広め、大物の平面加工は平削り盤からフライス盤へ移り始めるIngersoll Milling Machine Co.平削り形フライス盤[1・p.274]
1894年Bridgeport Machine Tool Works が Bullard Machine Tool Co. になる。立て中ぐり盤が旋盤を押しのけ、以後 20 年ほど立て中ぐり盤の専業になったRoe は 1894 年に会社組織にしたとし、Fairfield Museum の目録は同年に社名を Bullard Machine Tool Works に変えたとするBullard Machine Tool Co.[1・p.184][5]
1897年Rockford で B. F. Barnes が Barnes Drill Co. などを、Rockford Machine Tool Co. が形削り盤と平削り盤を始める。兄の W. F. & John Barnes は 1878 年ごろから自社用に作ったボール盤を売り、ラジアル・多軸のボール盤に広げていたBarnes Drill Co. ほかボール盤・形削り盤・平削り盤[1・p.274]
1890年代の終わりCincinnati で The Cincinnati Shaper Co. ができる(同社の沿革)。1920 年代の初めから板金の機械(プレスブレーキ・シャー)に移り、いまの Cincinnati Incorporated になったThe Cincinnati Shaper Co.形削り盤[6]

自動車と専用化:立てタレット旋盤・ブローチ盤・多軸ボール盤・ジグ中ぐり盤1900〜1939 年

年出来事メーカー・機種出典
1900年父の会社のためにパリ万国博覧会へ行った Edward P. Bullard(Jr.)が、フランスの自動車工業の需要を見て、立て中ぐり盤とタレット旋盤を組み合わせた立てタレット旋盤の設計を始める。刃物台にタレットを付け、横の刃物台も足して、立て中ぐり盤は量産の機械になったBullard立てタレット旋盤[7][1・p.185]
1900年代の初め★Pratt & Whitney で働いた Joseph N. Lapointe がブローチ盤を売り出す。ベルトで回すプーリと送りねじでブローチ(長い多刃の工具)を引く横形の機械で、息子の Francis J. Lapointe も製作を手伝った年は Ann Arbor News(1953)の「1900 年代の初め」による。正確な年と特許は確かめられなかったLapointeブローチ盤[8][1・p.183]
1904年American Machinist の索引に Lapointe Machine Tool Co. の名が出る(調整式のタップ)。1906 年にはキー溝を削るブローチ盤、同年後半には Lapointe のブローチ盤で割り出しをする作業が誌面に載るLapointe Machine Tool Co.[9・コマ24][10・コマ9]
1909年Bickford の会社が Cincinnati Bickford Tool Co. の名で American Machinist の索引に出る。Roe(1916)は、ラジアルボール盤の専業として「数年前に」この社名になったと書くIron Age(1924 年)と Machinery(1949 年)は、1909 年に Bickford Drill & Tool Co. と Cincinnati Machine Tool Co. が合併してこの社名になったと書くCincinnati Bickford Tool Co.ラジアルボール盤[11・コマ4][1・p.272][12・p.63][13]
1910年Fond du Lac(Wisconsin 州)の Giddings & Lewis の経営を Rueping 家が握り、油圧で動かす形削り盤、小形の平削り盤、6 主軸の立てタレット旋盤を作る。製材機械の会社から工作機械の会社へ移ったGiddings & Lewis油圧の形削り盤・小形平削り盤・6 軸の立てタレット旋盤[14]
1912年American Machinist が Bullard のタレットの新しい設計を紹介する。翌 1913 年には 36 インチの立てタレット旋盤も載ったBullardタレットの新しい設計[15・コマ3][16・コマ3]
1913年American Machinist に Lapointe のブローチ盤の記事が 2 本載り、自動車の歯車の内歯(スプライン)をブローチで仕上げる例も紹介されるLapointe Machine Tool Co.ブローチ盤[16・コマ3]
1914年★Bullard の Mult-Au-Matic が American Machinist に載る。丸いテーブルの上の複数の主軸に工作物をつかみ、割り出しながら別々の刃物台で同時に削る「立て形の多軸自動チャック旋盤」で、自動車の部品の量産の主力になったBullardMult-Au-Matic(多軸の立て自動旋盤)[17・コマ3][1・p.185][7]
1914年9月New London(Connecticut 州)の Francis J. Lapointe が、キー溝を削るブローチ盤の米国特許 1,109,847 を取る(1913 年 8 月出願、1914 年 9 月 8 日成立)。1933 年の Oilgear との裁判では、J. N. Lapointe Co. がこの特許で反訴したFrancis J. Lapointe(New London)キー溝のブローチ盤[18][19]
1916年Francis J. Lapointe が Detroit で American Broach & Machine Co. を起こし、1 年ほどで Ann Arbor(Michigan 州)へ移して 1918 年に工場を建てる。生涯に約 70 件の特許の多くがブローチ盤とブローチだったAmerican Broach & Machine Co.ブローチ盤[8]
1917年8月Pratt & Whitney が、測長機の考えで穴の位置を決め、縦の主軸で穴をあけ中ぐりするジグ中ぐり盤の 1 号機を完成させる。それまで治具の穴の位置は、精密な円筒の駒(ボタン)を基準に合わせる「ボタン法」で出していた月は Moore(1946)による。どちらの本も Moore Special Tool の出版物Pratt & Whitneyジグ中ぐり盤[20・p.63][20・p.16][21]
1919年★自動車工場で多軸ボール盤が広がる。Willys-Overland は Natco の No.14 多軸ボール盤で後車軸の部品の穴を 3 か所の割り出しであけ、Continental Motors は Baush の多軸ボール盤でシリンダブロックをあけた。Baush の移動治具を使う工程分けの機械は、Ford のフライホイールの 81 の穴あけ・座ぐり・リーマ通しのために最初に作られたBaush・National Automatic Tool(Natco)・Foote-Burt ほか多軸ボール盤[22・p.38][22・p.40][22・p.48]
1919年製鋼機械の Mesta などの工場では、工作機械のベッドのような大物にラジアルボール盤を何台も持ち込み、同時に穴をあけていた。クレーンで吊れる目玉の付いた機械もあったCincinnati Bickford Tool Co.ラジアルボール盤[22・p.22]
1920年Milwaukee(Wisconsin 州)の A. O. Smith が自動車のフレームの自動の生産ラインを入れる。Ashburn(1988)は、いまの意味での最初の連続自動生産ラインだったろうとし、40 年以上動いたと書くA. O. Smith[23・PDF p.58]
1924年Richard F. Moore が Bridgeport で Moore Special Tool Co. を始める。食堂の 2 階で、旋盤・フライス盤・ボール盤・研削盤・形削り盤を 1 台ずつ置いた治工具の店だったMoore Special Tool Co.[24]
1920年代の終わりGiddings & Lewis が、主軸の直径 2.5〜8 インチ(約 64〜203mm)の横形の穴あけ・中ぐり・フライス盤をそろえる。第一次世界大戦のころに始めた横中ぐり盤が同社の柱になったGiddings & Lewis横中ぐりフライス盤[14]
1929年1月Bullard の株がニューヨーク証券取引所に上場し、社名を The Bullard Company にする。工場は 1917 年に Bridgeport の Black Rock 地区へ移っていたThe Bullard Company[5]
1931年★Moore が自社の型づくりのために最初のジグ中ぐり盤を作る(開発は 1930 年から)。焼入れして研削・ラップ仕上げした送りねじを使い、穴の位置を工具室で速く正確に出せるようにした同社の 1955 年の本は 1931 年、いまの沿革のページは 1932 年とするMoore Special Tool Co.ジグ中ぐり盤[25・コマ10][25・コマ27][24]
1933年★Minneapolis(Minnesota 州)の Leighton A. Wilkie が、金属を切る帯のこ盤を作り「DoALL」と名づける。それまで帯のこは木工用だった。1935・1936 年の American Machinist には、帯のこと帯やすりを付け替える Continental の Do-All が新製品として載る1933 年は同社と American Precision Museum の記述。業界誌で確かめられた最も早い記事は 1935 年Continental Machines(DoALL)金切り帯のこ盤[26][27][28・コマ3]
1936年American Broach & Machine Co. が Rockford の Sundstrand Machine Tool と合併するAmerican Broach & Machine Co.[8]
1939年Giddings & Lewis が、主軸の直径 6・7 インチの大形の横中ぐりフライス盤の新しい系列を出すGiddings & Lewis大形の横中ぐりフライス盤[14]

戦争・精密・NC の始まり1940〜1959 年

年出来事メーカー・機種出典
1940年Moore がジグ研削盤を作る。ジグ中ぐり盤では焼入れ前の柔らかい材料にしか穴をあけられなかったが、焼入れした後で穴を正しい位置に研削できるようになったMoore Special Tool Co.ジグ研削盤[25・コマ10][24]
第二次世界大戦中政府が Giddings & Lewis に約 1 万 4,000 平方メートルの戦時の工場を建てさせ、大形の横中ぐりフライス盤を作らせる。終戦時の従業員は約 700 人Giddings & Lewis大形の横中ぐりフライス盤[14]
1940年代★米国の Stark・Harding・Beaver が、アルミ鋳物の中で折れたドリルやタップを火花で崩して取る機械を作る。初めは電気の彫刻具を流用して力が足りなかったが、強い火花の電源と自動の繰り返しで実用になった。ソ連の Lazarenko 夫妻の研究とほぼ同じ時期年は Lazarenko の 1943 年と「ほぼ同時」とする業界誌の記述。会社名・特許は確かめられなかったHarold Stark・Victor Harding・Jack Beaver放電で折れたタップを取る機械[29][30・PDF p.11]
1945年10月Bullard が、電気と油圧の装置で工作機械の運転の手順(サイクル)を自動で進める Man-Au-Trol を、立てタレット旋盤 Cut Master に付けて公開する(10 月 11 日)。考えたのは E. P. Bullard III で、戦前に設計し戦時の生産で試していたThe Bullard CompanyMan-Au-Trol[31][32・p.42]
1946年Moore が穴の位置決めの本『Precision Hole Location for Interchangeability in Toolmaking and Production』を出す。機械の使い方を本で伝え、1955 年の『Holes, Contours and Surfaces』に引き継がれたMoore Special Tool Co.[25・コマ8]
1946年までElox Corporation が、折れたドリル・タップ・リーマを放電で崩して取る機械を 3 機種売る。水を流した銅の管の電極を電磁石で上下に震わせ、2〜7 ボルトの交流で火花を飛ばす。焼入れした型の角穴や異形の穴にも使われ始めたMachinery(1947 年)の記事の筆者は、1940 年代の開発者の 1 人 H. V. HardingElox Corporation(Clawson, Michigan)Elox Disintegrator[33][34][35]
1948年10月NACA(いまの NASA)の Lewis 研究所で、直径 72 インチ(約 1.8m)の圧縮機の外枠を Giddings & Lewis の横中ぐり盤で削る写真が撮られる。ジェットエンジンの研究にも大物の中ぐりが欠かせなかったGiddings & Lewis横中ぐりフライス盤[36]
1950年Moore の No.1 ジグ中ぐり盤が 1,500 台以上、ジグ研削盤が 500 台売れる。同じ年に No.2 の設計が出た。1950 年ごろの No.1 ジグ中ぐり盤は The Henry Ford が所蔵しているMoore Special Tool Co.No.1 ジグ中ぐり盤・ジグ研削盤[24][37]
1955年★Chicago の工作機械見本市に、ラジアルボール盤などの下に置いて工作物の位置を決める NC のテーブルがいくつも出る。印刷機の Goss の Adrian Holmberg がこれを 1 台 1 万ドルで 2 台買い、簡単な NC の効き目を示したGoss Printing Press ほかNC の位置決めテーブル[23・PDF p.63]
1955年8月Giddings & Lewis の株主総会(8 月 31 日)が、Cincinnati Bickford Tool Co. の全株を約 539 万ドルで買うことと、Kaukauna Machine の取得を認める。Cincinnati Bickford は G&L のラジアルボール盤の部門になったGiddings & Lewis[38・p.225][39]
1956年Dayton(Ohio 州)のゲージと測定器のメーカー Sheffield Corp. が Bendix の傘下に入る。1941 年に Louis Polk が City Machine & Tool と Sheffield Machine & Tool を合わせてできた会社で、戦時の航空機の生産で空気マイクロ式の比較測定器が使われたSheffield Corp.ゲージ・寸法の比較測定器[40]
1958年米国の 1958 年の工作機械の設備調査で、放電加工機は 578 台。工作機械全体のごく一部だった—[41・コマ50]
1958年8月Los Angeles 近郊の Burgmaster が、6 本・8 本の主軸を持つタレットを回して工具を替えるボール盤に GE の NC を付けて広告する。航空機部品の 21 の穴あけを 61 個分、8 時間あまりで済ませた例を挙げ、治具の代わりに簡単な締め具と紙テープを使うとうたったBurgmasterNC タレットボール盤[42・コマ44]

新しい加工法:放電・レーザ・ウォータージェット・積層造形1960〜1989 年

年出来事メーカー・機種出典
1960年Chicago の工作機械見本市に NC 機が 100 台以上並ぶ。Holmberg の会社は NC 機 22 台を動かし、部品ごとの紙テープを 2 万本ためていた。その多くは穴あけで、かさばる高い穴あけ治具の代わりになったGoss(Miehle-Goss-Dexter)[23・PDF p.64]
1960年8月★Hughes Aircraft の研究所(Malibu, California 州)の Theodore H. Maiman が、ルビーの結晶で光を誘導放出させた(レーザ)と Nature に報告するHughes Research Laboratoriesルビーレーザ[43]
1961年American Machinist に「町の受託工場のための放電加工」、放電加工でダウエルピンを抜く方法などの記事が載る。放電加工が航空機の特殊な部品だけでなく、型や修理の仕事にも広がり始める—[44・コマ3][30・PDF p.1]
1960年代の初め米 Elox などが、電極の送りに電気油圧のサーボ弁を使う放電加工機を完成させる。電動機と減速機の送りより速く正確に放電のすき間を保てるようになり、日本の各社は 1962〜63 年ごろに続いたElox油圧サーボの形彫り放電加工機[30・PDF p.24]
1964年11月Bell 研究所の C. K. N. Patel が、二酸化炭素の分子で連続して発振するレーザ(CO2 レーザ)を報告する。のちの板金のレーザ切断機の多くはこの方式になったBell Telephone LaboratoriesCO2 レーザ[45]
1965年東京大学の倉藤尚雄・須田孝の放電加工の論文が、加工液の比べ方の基準の 1 つに「Elox oil」を挙げる。米 Elox の加工液が日本の研究でも物差しになっていた(米国防総省の技術資料センター DTIC が英文の複製を保管)Elox[46・コマ3]
1965年NC タレットボール盤の Burgmaster が、株式の交換で Houdaille Industries に買われる(6 月 7 日に発表、10 月に株主が承認)Burgmaster・Houdaille Industries[47][48]
1966年Western Electric が、電線を引き抜くダイヤモンドダイスの穴をレーザで貫くことに成功したと業界誌に報告する。ダイスづくりの時間と費用を下げられそうだとしたWestern Electricレーザの穴あけ[49]
1966年6月Giddings & Lewis が Gisholt(Madison)と合併し、売上 7,942 万ドルで過去最高になる。NC の立形マシニングセンタ NumeriCenter、NC の穴あけ・タップ・中ぐり盤 NumeriMite、Caterpillar の変速機ケースを削る NC 立て旋盤を出し、ラジアルボール盤の Bickford も子会社だったGiddings & LewisNumeriCenter・NumeriMite・NC 立て旋盤[50・コマ3][50・コマ9][50・コマ10][50・コマ13]
1967年Moore が最初の NC の連続輪郭(コンタリング)No.3 ジグ研削盤を作る。1955 年の No.3 は、焼入れ・研削・ラップ仕上げした 2 本の V 形の案内面を持つ設計だったMoore Special Tool Co.NC 連続輪郭 No.3 ジグ研削盤[24]
1967年8月★原子力委員会と NASA の技術短報が、Argonne 国立研究所の工場で作った「走るワイヤ電極」の放電加工を紹介する。直径 0.005 インチ(約 0.13mm)までの黄銅・銅線を往復させて板の電極の代わりにし、希土類の金属や隕石、放射性の材料を切ったArgonne National Laboratory走るワイヤ電極の放電加工[51]
1968年3月立てタレット旋盤の Bullard が White Consolidated Industries(WCI)に合併される。Bridgeport の工場は 1980 年代の初めに閉じ、1983 年に取り壊されたThe Bullard Company・White Consolidated Industries[52][5]
1968年5月★Ann Arbor(Michigan 州)の Norman C. Franz が、長い鎖の高分子を溶かして水のジェットをまとまりやすくする方法で特許を出願する(1970 年 8 月に米国特許 3,524,367)。ウォータージェット切断の基礎の特許の 1 つNorman C. Franz高速の液体ジェット[53][54]
1971年11月最初の商用のウォータージェット切断装置を、Ingersoll-Rand の McCartney が作り、Alton Box Board の紙管の工場で 11 月に動き始める。厚さ 0.5 インチ(約 13mm)までの紙管を切ったFlow の創業(1974 年)より前。Flow の超高圧ポンプの製品化は 1975 年McCartney(Ingersoll-Rand)・Alton Box Boardウォータージェット切断装置[55][56]
1972年三菱電機の国産初のワイヤ放電加工機 DWC-50 が、高い NC の代わりに米国で開発された光学式の図面倣い装置(ライントレーサ)で図面の線を追う三菱電機DWC-50[30・PDF p.26]
1974年Kent(Washington 州)で Flow が始まる。1975 年に連続運転できる増圧ポンプ(インテンシファイア)を製品にし、紙・断熱材・紙おむつなど柔らかい物の切断から広まったFlow超高圧ウォータージェット[57][54]
1974年9月Colt Industries の Elox 部門(Davidson, North Carolina 州)が、空軍の契約で難削材の銃身の穴とライフリングを放電加工で作る研究をまとめる(1973〜74 年)Elox Division, Colt Industries放電加工の銃身の中ぐりとライフリング[58]
1970年代後半放電加工機の世界の代表的なメーカーはスイスの Agie・Charmilles と米国の Elox だったが、日本のメーカーが性能・品質で追いつき、値段で優位に立つ。とくにワイヤ放電加工機で差が開いた—[30・PDF p.34]
1980年名古屋市工業研究所の小玉秀男が、紫外線で固まる樹脂を重ねて立体を作る方法の特許を出願する(1981 年に論文)。ASME は光造形の前史の最初の特許出願として紹介している名古屋市工業研究所[59][60]
1982年5月工作機械部門を持つ Houdaille Industries が、日本製のマシニングセンタと NC パンチプレスを買う会社に投資税額控除を認めないよう大統領に求める請願を出す(1983 年に退けられた)Houdaille Industries[23・PDF p.89]
1982年10月Flow Industries の Mohamed A. Hashish らが、水のジェットに研磨材を混ぜて流れの中心に集める方法を出願する(1987 年に米国特許 4,648,215)。水だけでは柔らかい物しか切れなかったのを、研磨材の力で硬い材料まで広げた。同社によると 1984 年に最初の商用機が出たFlow Industriesアブレシブウォータージェット[61][62]
1984年8月★Charles W. Hull が光造形装置の特許を出願する(1986 年 3 月に米国特許 4,575,330)。紫外線で液体の樹脂を 1 層ずつ固める方式で、試作は 1983 年UVP, Inc.(Charles W. Hull)光造形装置[63][59]
1986年Hull が 3D Systems を共同で起こし、1987 年に最初の商用の 3D プリンタ SLA-1 を出す。2016 年に ASME の機械遺産(Landmark)に選ばれた3D SystemsSLA-1[59]
1986年10月Texas 大学の Carl R. Deckard が、粉をレーザで選んで焼き固める方法を出願する(1989 年に米国特許 4,863,538)The University of Texas選択的焼結(SLS)[64]
1980年代形削り盤から始まった Cincinnati Incorporated が、商用のレーザ切断機を出す(同社の沿革は、1980 年代の最初期の機械がいまも動いているとする)Cincinnati Incorporatedレーザ切断機[6]
1989年10月Stratasys の S. Scott Crump が、溶かした材料を押し出して積む装置を出願する(1992 年に米国特許 5,121,329)Stratasys熱溶解積層(FDM)[65]

測定の再編と大形の積層造形1990 年〜

年出来事メーカー・機種出典
1990年6月★Brown & Sharpe が独 Wild Leitz の工業測定の部門(精密な三次元測定機)を買う。1985〜93 年に事業の売却と買収を重ね、工作機械の会社から寸法測定の会社へ変わったBrown & Sharpe三次元測定機(Leitz)[66]
1994年Moore Special Tool と欧州の子会社が Producto Machine に買われ、PMT Group になる。1970 年代までにジグ中ぐり盤は 6,000 台、ジグ研削盤は 8,000 台を超えていたMoore Special Tool Co.[24]
1994年6月Brown & Sharpe が、伊 Finmeccanica の三次元測定機の会社 DEA を買う契約を結ぶ。自社を CMM の売上で世界一としたBrown & Sharpe三次元測定機(DEA)[66]
2000年11月Brown & Sharpe が、測定の事業のほぼすべてをスウェーデンの Hexagon に 1 億 6,000 万ドルで売る契約を結ぶ(2001 年に株主に諮り、残った会社は社名から Brown & Sharpe の名を外した)Brown & Sharpe → Hexagon[67]
2014年Cincinnati Incorporated と米エネルギー省の Oak Ridge 国立研究所が大形の樹脂の積層造形機 BAAM を共同で開発し、Chicago の IMTS で自動車の車体を 44 時間で造形するCincinnati Incorporated・Oak Ridge National LaboratoryBAAM(大形の積層造形機)[68]
2015年1月Oak Ridge 国立研究所が、BAAM で造形した Shelby Cobra の複製を Detroit のモーターショーに出す(1 月 12〜15 日)。炭素繊維 20% の樹脂の部品が約 500 ポンド(約 230kg)で、設計から組立まで 6 週間、造形は 24 時間だったOak Ridge National Laboratory・Cincinnati IncorporatedBAAM で造形した Shelby Cobra[69][70]

よくある質問

平削り盤と形削り盤はどう違うのですか?
平削り盤は工作物を載せたテーブルが往復し、刃物は止まっています。大きく長い物の平面向きです。形削り盤は刃物を付けたラムが往復し、工作物は横に少しずつ送られます。小さめの物の平面や溝向きです。どちらも帰りの行程では削らないので、大物の平面は回るフライスで連続して削るフライス盤に主役を譲っていきました。
立て旋盤を量産の機械にしたのは誰ですか?
Bridgeport の Bullard です。1883 年に能力 37 インチの小形の立て中ぐり旋削盤を設計し、1900 年からは息子の Edward P. Bullard(Jr.)がタレットを付けた立てタレット旋盤を開き、1914 年には多軸の立て自動旋盤 Mult-Au-Matic を出して自動車の部品の量産の主力にしました。
ジグ中ぐり盤とジグ研削盤は何が違うのですか?
どちらも穴を座標で正確な位置に仕上げる機械ですが、ジグ中ぐり盤は刃物で削るので焼入れ前の柔らかい材料向きです。ジグ研削盤は砥石で削るので、焼入れでひずんだ後の硬い材料の穴を正しい位置に仕上げられます。アメリカでは Moore が 1931 年にジグ中ぐり盤を、1940 年にジグ研削盤を作りました。
放電加工はアメリカでどう始まったのですか?
業界誌の記事によると、1940 年代に Harold Stark・Victor Harding・Jack Beaver が、アルミ鋳物の中で折れたドリルやタップを火花で崩して取る機械を作ったのが始まりです。その後、航空機の難削材の加工や型づくりに広がり、1967 年には Argonne 国立研究所の「走るワイヤ電極」の放電加工が政府の技術短報で紹介されました。

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出典

本と業界誌は Internet Archive のスキャンで、American Machinist は各巻の索引と号の全文で、特許は特許の原本の画像(番号・出願日・成立日)で、政府・研究所の報告と博物館・メーカーの資料は各ページを 2026 年 10 月に確かめました。「コマ」はスキャンの通し番号、「PDF p.」は PDF のページです。「最初」「世界初」は、本文で「〜とする」「同社によると」と書いたものは、その資料やメーカー自身の記述です。特許の年(出願・成立)と製品の年(発表・出荷)は 1〜数年ずれることがあるので、本文で書き分けています。

  1. Joseph W. Roe『English and American Tool Builders』Yale University Press(1916。スキャンは 1926 年の再版)p. 53・138・183・184・185・194・209・221・248・259・272・273・274
  2. Wm. Sellers & Co.『A Treatise on Machine Tools, etc. as made by Wm. Sellers & Co.』Philadelphia(1873)p. 37・38・85・86
  3. American Precision Museum「Machine Tool Hall of Fame:William Sellers」
  4. 米国特許 38,119「Improvement in Drill-Bits」Stephen A. Morse(1863 年 4 月 7 日成立)
  5. Fairfield Museum and History Center「Bullard Company Records(Ms B41)」資料目録(2004 年改訂)
  6. Cincinnati Incorporated(旧 The Cincinnati Shaper Company)「Our History」
  7. American Precision Museum「Machine Tool Hall of Fame:Edward P. Bullard(1872〜1953)」
  8. 「F. J. Lapointe, Broach Firm Founder, Dies」Ann Arbor News(1953 年 11 月 30 日。Ann Arbor District Library の新聞アーカイブ)
  9. American Machinist 27 巻(1904 年 1〜6 月)の索引「Tap, Adjustable, Lapointe Machine Tool Co.'s」※番号はスキャンのコマコマ 24
  10. American Machinist 29 巻(1906 年 1〜6 月・7〜12 月)の索引「Keyseat broaching machine. Lapointe Machine Tool Co.'s」「Broaching machine, Indexing job on Lapointe」※番号はスキャンのコマコマ 9
  11. American Machinist 32 巻(1909 年 1〜6 月)の索引「Cincinnati Bickford Tool Co.」※番号はスキャンのコマコマ 4
  12. 「50 Years' Progress in Drilling Machines」The Iron Age, Vol.113 No.1(1924 年 1 月 3 日)pp.62–63(Cincinnati-Bickford Tool Co. の 50 周年。1909 年に Bickford Drill & Tool Co. と Cincinnati Machine Tool Co. が合併)p. 63
  13. 「Cincinnati Bickford Celebrates Diamond Anniversary」Machinery, Vol.56 No.1(1949 年 9 月)
  14. Thomas Derdak「Giddings & Lewis, Inc.」『International Directory of Company Histories』St. James Press(encyclopedia.com 掲載)
  15. American Machinist 36 巻(1912 年 1〜6 月)の索引「Turret design innovation, Bullard」※番号はスキャンのコマコマ 3
  16. American Machinist 38 巻(1913 年 1〜6 月)の索引「Bullard 36-in. vert. turret lathe」「Broaching machines, Lapointe」※番号はスキャンのコマコマ 3
  17. American Machinist 40 巻(1914 年 1〜6 月)の索引「Bullard Mult-au-matic vert. lathe」※番号はスキャンのコマコマ 3
  18. 米国特許 1,109,847「Key Seat Broaching Machine」Francis J. Lapointe(New London, Connecticut。1913 年 8 月 23 日出願、1914 年 9 月 8 日成立)
  19. Oilgear Co. v. J. N. Lapointe Co., 65 F.2d 380(2d Cir. 1933 年 5 月 1 日)の判決(Lapointe の特許 1,109,847 を挙げる。CourtListener)
  20. J. Robert Moore『Precision Hole Location for Interchangeability in Toolmaking and Production』Moore Special Tool Co.(1946)p. 16・63
  21. Wayne R. Moore『Foundations of Mechanical Accuracy』Moore Special Tool Co.(1970)。図「Pratt & Whitney Jig Borer, 1917」
  22. Edward K. Hammond『Modern Drilling Practice』The Industrial Press(1919)p. 22・38・40・48
  23. Anderson Ashburn「The Machine Tool Industry: The Crumbling Foundation」Donald A. Hicks 編『Is New Technology Enough?』American Enterprise Institute(1988)※番号は PDF のページPDF p. 58・63・64・89
  24. Moore Tool Company「Timeline」(沿革)
  25. Richard F. Moore ほか『Holes, Contours and Surfaces』Moore Special Tool Co.(1955)※番号はスキャンのコマコマ 8・10・27
  26. American Precision Museum「Machine Tool Hall of Fame:Leighton A. Wilkie」
  27. DoALL Sawing Products「The History of DoALL:A Conversation with Leighton Wilkie」
  28. American Machinist 79 巻(1935 年)・80 巻(1936 年)の索引「Continental “Do-All” sawing and filing machine」ほか ※番号はスキャンのコマコマ 3
  29. Evan Jones Thorne「Tracing sinker EDMing back to its original spark」Cutting Tool Engineering(2016 年 12 月 15 日)
  30. 岩崎健史「放電加工機技術の系統化調査」国立科学博物館『技術の系統化調査報告』第 32 集(2023)※番号は PDF のページPDF p. 1・11・24・26・34
  31. 「Bullard Man-Au-Trol」Modern Machine Shop, Vol.18 No.8(1946 年 1 月)pp.230–231
  32. Man-Au-Trol の公開の報告、The Tool Engineer, Vol.15 No.4(1945 年 11 月)p.42p. 42
  33. 「The Elox Disintegrator」The Railway Gazette, Vol.84 No.2(1946 年 1 月 11 日)p.42
  34. 「Electrical Disintegration」(Elox の 3 機種の紹介)Tooling & Production, Vol.12 No.1(1946 年 4 月)
  35. H. V. Harding(Elox Corporation, Clawson, Mich.)「What Happens in Using Steel Disintegrators?」Machinery, Vol.53 No.7(1947 年 3 月)pp.161–164
  36. NASA Glenn Research Center 写真 C-1948-22429「72 Inch Compressor Housing on Giddings & Lewis Horizontal Boring Mill」(1948 年 10 月 13 日)
  37. The Henry Ford 収蔵品「Moore No. 1 Precision Jig Borer, circa 1950」(92.159.1)
  38. 「Giddings & Lewis Buys Cincinnati Bickford, Kaukauna Machine」Machine and Tool Blue Book, Vol.50 No.10(1955 年 10 月)p.225p. 225
  39. 「Cincinnati Bickford Division, Giddings & Lewis Machine Tool Co.」の広告、American Machinist, Vol.101 No.12(1957 年 6 月 17 日)
  40. American Precision Museum「Machine Tool Hall of Fame:Louis Polk」
  41. 工作機械研究会 編『世界の工作機械工業』富士弘報社(1963)※番号は国立国会図書館デジタルコレクションのコマコマ 50
  42. Burgmaster の広告「Burgmaster G.E. Tape」American Machinist 102 巻 17 号(1958 年 8 月 25 日)※番号はスキャンのコマコマ 44
  43. T. H. Maiman「Stimulated Optical Radiation in Ruby」Nature 187, pp.493–494(1960 年 8 月)
  44. American Machinist 105 巻(1961 年)の索引「EDM for the contract job shop」「Electrical discharge machine aids dowel removal」※番号はスキャンのコマコマ 3
  45. C. K. N. Patel「Continuous-Wave Laser Action on Vibrational-Rotational Transitions of CO2」Physical Review 136, A1187(1964 年 11 月)
  46. Hisao Kurafuji・Ko Suda「Study on Electrical Discharge Machining I」Journal of the Faculty of Engineering, University of Tokyo(B)28 巻 1 号(1965。DTIC ADA393870 の複製)※番号はスキャンのコマコマ 3
  47. Max Holland『When the Machine Stopped: A Cautionary Tale from Industrial America』Harvard Business School Press(1989)
  48. Steel 157 巻(1965 年 7〜12 月)の索引「Houdaille Industries Inc.: Buys Burgmaster Corp.(7/19 p.36、12/20 p.32)」「Burgmaster Corp.: Merged into Houdaille(12/13 p.36)」
  49. Western Electric「Technological breakthrough in diamond die production — drilling with laser beams」Wire & Wire Products 41 巻 1 号 pp.105–106, 150(1966。Wire Association International の文献記録)
  50. Giddings & Lewis Machine Tool Company『Annual Report 1966』※番号はスキャンのコマコマ 3・9・10・13
  51. AEC-NASA Tech Brief 67-10238「Traveling Wire Electrode Increases Productivity of Electrical Discharge Machining(EDM)Equipment」(1967 年 8 月。Argonne National Laboratory)
  52. White Consolidated Industries, Inc.『Annual Report 1968』(Bullard Company の合併は 1968 年 3 月)
  53. 米国特許 3,524,367「High Velocity Liquid Jet」Norman C. Franz(1968 年 5 月 31 日出願、1970 年 8 月 18 日成立)
  54. Flow International「How It All Began: The Origins of Waterjet」
  55. Richard K. Miller『Waterjet Cutting: Technology and Industrial Applications』Fairmont Press(1991)。Internet Archive は貸出のみで、全文検索の断片で確かめた(ページは未確認)
  56. C. M. Preece 編『Erosion』(Treatise on Materials Science and Technology 16)Academic Press(1979)。Walstad・Noecker(1972)を引いて、1971 年に最初の商用機が Alton Box Board の紙管部門に入ったと書く。Internet Archive は貸出のみ
  57. Flow International「Flow Celebrates 50 Years of Innovation and Excellence in Waterjet Technology」(2024 年 2 月 15 日)
  58. Robert M. Greene「Electrical Discharge Machining(EDM)Gun Barrel Bore and Rifling Feasibility Study」AFATL-TR-74-103、Elox Division, Colt Industries(1974 年 9 月。DTIC ADB006226)
  59. ASME「Historic Mechanical Engineering Landmark No. 261:Stereolithography, The First 3D Printing Technology」(2016 年 5 月 18 日指定)
  60. Hideo Kodama(小玉秀男)「Automatic method for fabricating a three-dimensional plastic model with photo-hardening polymer」Review of Scientific Instruments 52 巻 11 号 pp.1770–1773(1981)
  61. 米国特許 4,648,215「Method and Apparatus for Forming a High Velocity Liquid Abrasive Jet」Mohamed A. Hashish ほか、Flow Industries(もとの出願 1982 年 10 月 22 日、1987 年 3 月 10 日成立)
  62. Flow International「One Small Change Made Waterjet What it is Today」
  63. 米国特許 4,575,330「Apparatus for Production of Three-Dimensional Objects by Stereolithography」Charles W. Hull、UVP, Inc.(1984 年 8 月 8 日出願、1986 年 3 月 11 日成立)
  64. 米国特許 4,863,538「Method and Apparatus for Producing Parts by Selective Sintering」Carl R. Deckard、The University of Texas System(1986 年 10 月 17 日出願、1989 年 9 月 5 日成立)
  65. 米国特許 5,121,329「Apparatus and Method for Creating Three-Dimensional Objects」S. Scott Crump、Stratasys, Inc.(1989 年 10 月 30 日出願、1992 年 6 月 9 日成立)
  66. Brown & Sharpe Manufacturing Co.「Form S-1 Registration Statement」(1994。SEC EDGAR)
  67. Brown & Sharpe Manufacturing Co.「Preliminary Proxy Statement(PRER14A)」(2001。SEC EDGAR)
  68. John Kosowatz「3D Footprint Grows with BAAM」ASME(2015 年 8 月 10 日)
  69. Oak Ridge National Laboratory「3-D printed Shelby Cobra highlights ORNL R&D at Detroit auto show」(2015 年 1 月 12 日。Oak Ridge Today 掲載の同研究所の発表)
  70. 「Shelby Cobra Puts Sporty Face on 3-D Printing Technology」SAE Mobility Engineering(2015 年 1 月 16 日)
  71. ASME「Historic Mechanical Engineering Landmark No. 119:American Precision Museum」
  72. 「Museum features Cutting Edge exhibit」American Machinist(2006 年 6 月 16 日)