ITALY 02経済の奇跡と工作機械

第二次世界大戦のあと、イタリアは「経済の奇跡」と呼ばれる高い成長の時代に入ります。Fiat の 600 と 500 が道にあふれ、工場は部品を大量に削る機械を求めました。1945 年に生まれた工作機械メーカーの団体 UCIMU は、1954 年に Milano(ミラノ)で欧州工作機械展を運営し、1958 年には第 1 回イタリア工作機械展(いまの BI-MU)を開きます。1957 年には 10 台に 6 台が輸入だった国内の市場で、国産のシェアは 1960 年に 70% になりました。Ivrea の Olivetti は電子技術を生かして NC の工作機械とマシニングセンタを作り、1960 年代の後半、イタリアの工作機械の輸出は世界でいちばん速く伸びます。この章は、英国と米国の当時の業界誌・政府の報告、Olivetti の文書館、米国の政府の市場調査などで1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。

見本市で
腕を見せて、
世界へ売る!

マスコットのチップス

この章は「時代の章」です。統一から第二次世界大戦までは第 1 章、1975 年より後の FMS と輸出大国への道は第 3 章「FMS・CNC と輸出大国へ」で扱います。マシニングセンタの仕組みの移り変わりは第 5 章「イタリアのフライス盤・マシニングセンタの系譜」、三次元測定機やトランスファーマシンは第 8 章「その他の機械」にまとめる予定です。

復興と Marshall 計画(1945〜1953 年)

UCIMU の誕生

戦争が終わった 1945 年の 12 月 29 日、Milano でイタリアの工作機械メーカーの団体 UCIMU(Unione Costruttori Italiani Macchine Utensili、イタリア工作機械工業会)が生まれました[3]。設立の書類に署名したのは、Fiat・Grazioli・Maserati・Minganti・Pensotti など 10 社の経営者です[1][2]。業界の利益を守り、会員どうしの協力を進めるための団体で、のちに国内と欧州の見本市を運営する中心になります。1953 年の英国商務省の週報は、翌年の欧州工作機械展の運営を UCIMU が担うと伝えています[4]。

Marshall 計画と Fiat の近代化

1948 年に米国の欧州復興計画(Marshall 計画、ERP)が始まります。国連工業開発機関(UNIDO)の 1991 年の報告は、この援助とイタリア政府の資金が戦後の工作機械メーカーの立ち上げを助けたと書き、ただしイタリアの生産が国境を越えて本格的に伸びたのは 1970 年代だった、と続けています[5]。1949 年 6 月の米国の業界誌 Iron Age によると、イタリアは援助の資金のうち 1,900 万ドルを、7 月までの工作機械の購入に回すよう求めていました[6]。

援助の大口の受け手は Fiat でした。1950 年 5 月の米国の Business Week は、Fiat が 4,500 万ドルの近代化を進め、そのうち約 1,500 万ドルを米国の援助、残りをイタリア政府の長期の貸付でまかなうと伝えます。Torino の Mirafiori 工場には米国製の工作機械が並び、戦後最初の新型車 1400 の流れ作業が動き始めていました[8][9]。大きな工場が米国の機械を入れて量産を始めると、その周りに部品・治具・工具を作る会社と、機械を直す会社が育っていきます。

Innocenti の重機械と、まだ小さかった業界

Milano の Innocenti は、戦争で傷んだ Lambrate の工場を 1950 年から立て直しました。重機械の部門は、鋼管の圧延機のほか、米国のライセンスで旋盤・プレス・重機械を作り、スクーター Lambretta と並ぶ会社の柱になります[7]。Varese 県の Ficep は 1953 年に重機械の最初の工場を開きました[10]。それでもイタリア学術会議の研究所の Rolfo は、技術と生産の面でイタリアの工作機械工業は 1950 年代の終わりまで「控えめな位置」にあり、国内の需要が急に伸びて新しい会社が次々に入ってくるのは 1960 年代の好景気から、と見ています[32]。

見本市と、輸入から国産へ(1954〜1962 年)

1954 年、欧州の見本市が Milano へ

欧州の工作機械工業の協力委員会(CECIMO)は、1951 年から「欧州工作機械展」を毎年のように開いていました。1951 年 Paris、1952 年 Hannover、1953 年 Brussels と回り、Brussels の回には 14 か国の 769 社が出展しています。第 4 回の会場に選ばれたのが Milano で、1954 年 9 月 14〜23 日に Milano の見本市会場で開かれ、運営は UCIMU が担いました[4][11]。イタリアの業界が、欧州のメーカーを迎える側に立った最初の大きな舞台です。この展示会はのちに Milano でも 1963 年と 1971 年に開かれ、1975 年からは「EMO」の名で欧州の外のメーカーにも開かれます(ドイツ第 3 章)[19][28]。

10 台に 6 台が輸入

1955 年に Fiat が小形車 600 を、1957 年 7 月に Nuova 500 を出し、イタリアで車の大衆化が始まります[9]。部品を大量に削る機械の需要は一気に増えましたが、それを満たしたのは主に外国の機械でした。米国の Control Engineering 誌の Milano 発の記事によると、1957 年にイタリアで売れた工作機械の 10 台に 6 台は外国製で、輸入先の 1 位はドイツ、国産のシェアは 41% でした。工作機械メーカーは約 250 社ありましたが、重い機械を作れるのは 5〜6 社だけ。人手の多い国で自動化は失業を生むという空気が強く、大手は自前の研究所を持っても、小さな会社には研究の場がない、とも書いています[13]。

1958 年、第 1 回イタリア工作機械展

この状況を変えるため、UCIMU は 1958 年 9 月 12〜21 日、Milano で第 1 回イタリア工作機械展を開きます。529 社が約 2 万 7,000 m² に 2,200 台(合わせて 6,300 t)の機械を並べ、来場者は約 7 万人でした[15][16][13]。英国の Machinery 誌は、出展の多くはイタリア製で、Zocca の円筒・平面研削盤、Maxnovo の油圧倣い旋盤、Mannaioni の高速ねじ切り旋盤、Rigiva のフライス盤、Federici の超音波と放電を組み合わせた加工機などを紹介しています[15]。NC の機械を見せたのは Maxnovo 1 社だけでした[17]。目的は、イタリアの会社にまずイタリア製の機械を知ってもらうことでした[13]。この展示会は 2 年ごとに途切れずに続き、いまの BI-MU になります。2026 年 10 月の回が第 35 回です[18]。

効き目はすぐに数字に出ました。1958 年の上半期、国産の工作機械は国内の市場の 70% を取ります(1957 年は 41%)。一方で業界は、欧州共同市場で関税が下がればドイツ製がもっと入ってくると心配していました[13]。

OMO の新工場と NC の研究

Olivetti の工作機械部門 OMO は、戦後しばらく苦しみましたが、1950 年代に自社の新しいタイプライターと計算機の量産に引っ張られて大きくなります。客の求めは、何でもできる汎用機から、決まった部品を速く削る専用機へ変わっていました。OMO は複数の加工ユニットを組み合わせた専用機や、部品を自動で次の加工台へ送るトランスファーマシンを作り、Fiat・Necchi・Piaggio・Brown Boveri・Renault などに納めます。1955 年には Ivrea 郊外の San Bernardo に新工場を建て始め(設計 Eduardo Vittoria)、1956 年の終わりに移りました[12]。

1957 年、OMO は Olivetti の電子技術を使って、工作機械を数値制御(NC)で動かす研究を始めます[12]。Olivetti の電子計算機の研究所との協力から生まれた最初の試作機が、カム(回転して決まった動きを作る部品)を削るフライス盤 FAC で、会計機 Audit 623 であけた紙テープで動きました。文書館は、これを「たぶんイタリアで最初の NC 工作機械」と書いています。1959 年には、Olivetti がイタリア初の電子計算機 Elea 9003 を発表しました[14]。

1960 年、第 2 回展と「工作機械のルネサンス」

1960 年 10 月の第 2 回イタリア工作機械展の様子を、米国の Control Engineering 誌は「イタリアの工作機械のルネサンス」と書きました。1960 年の生産は 1959 年(約 3 万 5,000 t)より 40% 多く、来場者は 4 万 2,000 人、商談は 1,000 万ドルを超え、国産のシェアは 70% になっていました。北部では人手が足りなくなり、1958 年に自動化に強く反対していた労働者の空気も変わっていました[17][16]。

会場には新しい制御が並びます。Olivetti は自社の事務機の工場で使っていた NC のカムフライス盤(半径 300 mm までのカムを ±0.02 mm で削る)を出し、Monza の San Rocco は中ぐり盤の電子の位置決め装置、Pavia の Caser は紙テープでタレットボール盤のテーブルを動かす制御を見せました。Bologna の Marposs は機械の上で寸法を測る測定ヘッド、Torino の RIV は米国の Moore Products のライセンスで作る空気マイクロメータ、Milano の Ercole Marelli は米国の Westinghouse のライセンスの無接点の制御装置を並べています[17]。米国の技術をライセンスで取り入れながら、自分たちの制御を作り始めた時期でした。1961 年、OMO は Olivetti の工具・治具の工場と合わさり、社内の事業部になります[12]。

NC と輸出の伸び(1963〜1975 年)

Olivetti の NC 機とマシニングセンタ

1963 年、Olivetti は NC のフライス・プレーナ FP9 CN を売り出し、市場で成功します。続いて、穴あけ・ねじ立て・中ぐり・フライス削りを 1 台でこなす NC のボール盤 Auctor 25 を出しました[14][12]。同じ 1963 年には Milano で第 8 回欧州工作機械展が開かれ、NC 機の数は 1967 年の Hannover の回の半分ほどで、西ドイツの Masing の位置決め NC を積んだ機械が展示会の記事に初めて出ました[19]。

1965 年の Auctor 25 Multiplex は、12 本の工具を自動で交換し、3 軸の位置決めの NC で穴あけ・ねじ立て・中ぐり・フライス削りを続けて行う機械でした。同じ年には、工場で削った部品を測る測定機 Inspector 16-6 も出しています。Auctor のデザインは Rodolfo Bonetto(Walter Eichenberg と共同)で、Auctor Multiplex は 1967 年にイタリアの工業デザインの賞 Compasso d'Oro を受けました[14]。1967 年には Hannover の欧州工作機械展で横形マシニングセンタ Horizon を発表します。31 本の工具を自動で探して交換し、4 軸を同時に動かせる機械です。この年、Olivetti は普通の工作機械の生産をやめ、NC の機械と NC 装置に絞りました[14][12]。

Olivetti の NC は国の外でも使われます。西ドイツの Kolb が 1967 年 8 月末までに納めた NC 機 80 台のうち 2 台は Olivetti の NC 装置を載せていて、この年から西ドイツで Olivetti の工作機械を売る部門もできました[19]。1969 年 3 月には、工具を自動で持ち替える装置の特許を出願しています(米国特許 3,710,659 の優先日)[24]。マシニングセンタの誕生と広がりはアメリカ第 4 章「NC の誕生とマシニングセンタ」と国産アーカイブ第 2 章も見てください。

産地の会社が工作機械を作り始める

1960 年代の好景気は、新しい作り手を工作機械に呼び込みました[32]。Piacenza で 1932 年から精密部品を削っていた Mandelli は、1960 年に創業者が 3 人の息子と組み、1965 年に最初の工作機械(POSITIV・MEDAL・THEMA)を作って今の工場の最初の建物を建てます。続いて、マシニングセンタの基本を備えた最初の機械 EGO を作り、株式会社になりました。1970 年には、組み合わせて大きなシステムにできるモジュール式の REGENT を出し、チタンなど航空機の難しい材料の加工も始めます[22]。Ficep は 1965 年、建物の鉄骨を図面の数値どおりに切って穴をあける NC のラインを始めました[10]。部品を削る側から、機械を作る側へ。のちの Piacenza の工作機械の産地は、こうして生まれていきます。

Torino では、Fiat を出た 2 人の技術者が Borgo San Paolo の小さな建屋で三次元測定機の DEA を始めました。創業者は後年、最初の機械をドイツへ直接持って行って発表した、と語っています[33]。創業の年は資料で食い違うので、ここでは書きません(測定機の流れは第 8 章)。

世界でいちばん速く伸びた輸出

1960 年代の後半、イタリアの工作機械は国の外へ出ていきます。インドの輸出調査(1969)がまとめた米国商務省の数字では、イタリアの工作機械の輸出は 1964 年の 4,000 万ドルから 1967 年の 1 億 1,200 万ドルへ 2.8 倍になり、世界の輸出に占める割合は 3.0% から 7.3% に上がりました。報告は、この時期の世界の輸出の大きな変化として、米国の輸出の減少と、日本とイタリアの輸出の急な伸びを挙げています[23]。1971 年には欧州工作機械展がふたたび Milano で開かれ、西ドイツの AEG は集積回路を使ったモジュール式の NC を、Boehringer は削る状態に合わせて送りを変える適応制御の構想を見せました[19]。

1970 年代初めの業界の姿

米国商務省の市場調査(1975 年 1 月)は、1970 年代初めのイタリアの業界を細かく描いています。1972 年の金属加工機械の生産は 3 億 3,410 万ドル、輸出は 3 億 410 万ドル。作り手は約 180 社で、ほとんどが家族経営です。景気の波に備えて幅広い機種を作り、輸出に力を入れていました。NC 機や大形のプレス、製鉄・重工業向けの機械は少数の中堅・大手が作り、その筆頭が Olivetti の Auctor・Horizon と、中ぐり盤・立て旋盤・プレスを作る Innocenti Santeustacchio でした[25]。

NC の工作機械の輸出は 1970 年の 940 万ドルから 1972 年の 1,170 万ドルへ伸び、その 75% は NC のボール盤・フライス盤、ジグ中ぐり盤、自動旋盤でした。国内で NC 機をいちばん多く使っていたのは工作機械メーカー自身(19%)で、次が航空機(11%)です。外国の会社の子会社は作り手の 4% だけで、米国の Ex-Cell-O の Maxnovo などがありました。それよりも多かったのはライセンスで、Innocenti は米国のプレスとフランスの Berthier の切削機械、Ceruti と Giustina は米国の会社の技術を使っていました[25]。

1973 年:OCN と Comau

1973 年、Olivetti の NC の事業部は会社 OCN(Olivetti Controllo Numerico)になります。San Bernardo の工場で縦形の Auctor・横形の Horizon のマシニングセンタ、測定機 Inspector、NC 装置を作り、30 か国以上で売りました。この年の Auctor 3・MultiAuctor 3 は、NC 装置にマイクロコンピュータを入れた CNC1 を積んでいます[14]。米国商務省の調査は、1973 年の Olivetti の工作機械の生産を 2,400 万ドル、輸出をその約 40%、San Bernardo の新しい工場の社員を約 1,000 人としています[25]。1972 年には組み立てロボット Sigma の試作機も作りました[14]。

同じ 1973 年、Fiat に機械を納めていた Torino の小さな会社が集まり、工作機械の連合 Comau(COnsorzio MAcchine Utensili)ができます[26]。Fiat のように大きな会社が自社の生産設備を自分で作る形は、イタリアでは Comau などに残りました[32]。UNIDO は 1990 年ごろの Comau を、イタリアと欧州で最大の工作機械・自動化の会社と書いています[5]。1974 年には、フライス盤の NC 装置を作る Fidia が生まれました[27]。

このころの UCIMU は会員 150 社で業界の生産の 80% を占め、Milano の近くに自前の研究センターを持ち、工作機械の販売と生産を資金で助ける金融会社 Fincimu も作っていました[25]。1975 年、Mandelli は最初の FMS(工作機械と搬送をつないだ柔軟な生産システム)を作り、ドイツとフランスに販売・サービスの子会社を置きます[22]。同じ年、欧州工作機械展は「EMO」の名で Paris で開かれました。EMO が初めて Milano に来るのは 1979 年です[28][19]。イタリアは 1978 年から世界 5 位の工作機械の生産国になります[5](その先は第 3 章)。

数字で見る:輸入・生産・輸出

この時代のイタリアの工作機械の数字は、年ごとにそろった系列が手元に無いため、当時の業界誌と米国政府の調査に書かれた値を並べました。資料ごとに数え方が違い(重さ・ドル・シェア)、1968・1972 年の「金属加工機械」には工作機械の部品・金型なども入っています。資料をまたいで比べないでください。

年何の数字か値出典
1957国内で売れた工作機械のうち外国製10 台に 6 台(国産のシェア 41%)[13]
1958国産のシェア(上半期)70%[13]
1959工作機械の生産量約 3 万 5,000 t[17・p.35]
1960工作機械の生産量1959 年より 40% 多い[17・p.35]
1964工作機械の輸出(世界の輸出に占める割合)4,000 万ドル(3.0%)[23・p.W8]
1967工作機械の輸出(世界の輸出に占める割合)1 億 1,200 万ドル(7.3%)。1964 年の 2.8 倍[23・p.W8][23・p.W9]
1968金属加工機械の生産・輸出・輸入生産 2 億 3,720 万ドル、輸出 1 億 6,070 万ドル、輸入 9,620 万ドル[25・p.61]
1972金属加工機械の生産・輸出・輸入生産 3 億 3,410 万ドル、輸出 3 億 410 万ドル、輸入 2 億 540 万ドル[25・p.61]
1972うち切削形の工作機械生産 1 億 7,220 万ドル、輸出 1 億 5,040 万ドル、輸入 9,390 万ドル[25・p.61]

1972 年の金属加工機械の内訳(百万ドル)は、切削形の工作機械が生産 172.2・輸入 93.9・輸出 150.4、成形形(プレスなど)が生産 78.3・輸入 42.0・輸出 69.2 です[25]。生産の多くを輸出し、同じくらいを輸入する、という「輸出も輸入も多い」形が、この時代にはもうできていました。

現場の加工で何が変わったか

専用機とトランスファーマシン:1950 年代の量産の現場では、決まった部品だけを速く削る専用機が求められました。OMO が作ったのは、加工ユニットを組み合わせて何十本ものドリルで一度に穴をあける機械や、部品を自動で次の加工台へ送るトランスファーマシンです[12]。1 つの部品に何台もの機械を使い、段取りは少なく、品種の切り替えには弱い、という作り方です。

NC とマシニングセンタ:Auctor Multiplex や Horizon のように工具を自動で交換する NC 機では、1 回の取り付けで穴あけ・ねじ立て・中ぐり・フライス削りを続けて行えます[14]。部品を機械から機械へ運ぶ回数と、治具・取り付けの手間が減り、少量の品種を次々に削る仕事に向くようになりました。工作機械メーカー自身が NC 機のいちばんの使い手だったのは、自分たちの機械の部品をこの方法で削ったからです[25]。

機械の上で測る:1960 年の展示会では、Marposs の測定ヘッドや RIV の空気マイクロメータのように、削りながら、あるいは機械の上で寸法を測る装置が目立ちました[17]。Olivetti も 1965 年から工場で部品を測る測定機 Inspector を作り[14]、測定は検査室から現場へ近づいていきます。

デザインされた工作機械:Olivetti の NC 機は、工業デザイナーが形を決めた点でも新しく、Auctor Multiplex は 1967 年に Compasso d'Oro を受けました[14]。カバーで包まれた機械の形、操作盤の位置といった、今の工作機械の見た目の始まりの 1 つです。

⛩日本とのつながり

同じ時期に輸出を伸ばした 2 つの国

1960 年代の後半、世界の工作機械の輸出で急に伸びたのは、日本とイタリアでした。1964〜67 年に、イタリアの世界の輸出に占める割合は 3.0% から 7.3% へ、日本は 1.3% から 3.6% へ上がっています[23]。この時期、輸出ではイタリアが日本より先を行っていました。生産では、日本は 1969 年に西ドイツを抜いて米国・ソ連に次ぐ世界 3 位になり[35]、イタリアは 1978 年から世界 5 位です[5](数字で見る工作機械の歴史)。

マシニングセンタでも、2 つの国は同じころに歩き始めました。日本では 1960 年に日立製作所のグループが工具 8 本の自動工具交換装置(ATC)を持つ NC 機を作り、1966 年の日本国際工作機械見本市には池貝鉄工・日立精機・牧野フライス製作所などのマシニングセンタが並びました[36]。Olivetti の Auctor Multiplex(1965 年)と Horizon(1967 年)は、それと同じ時代の機械です(国産アーカイブ第 2 章の年表)。

工作機械そのものではありませんが、Innocenti が 1948 年に作った鋼管の工場の設計会社 Calmes は、鋼管の製造設備をソ連・米国・日本・ドイツなどへ売っていました[7]。

この先:日伊の工作機械の関係

この章の時代(1945〜75 年)に、日伊の工作機械メーカーの提携は資料で見つけられませんでした。その先では、Mandelli が 1980 年に日本の Amada と生産のライセンス契約を結び[22]、Olivetti の測定機 Inspector Midi(1979 年に Compasso d'Oro)は Rodolfo Bonetto と日本人デザイナー Naoki Matsunaga のデザインでした[14]。1989 年のイタリアの新聞は、三次元測定機の DEA を「測定機では、日本人とは私たちのことだ」という見出しで紹介し、小形の機械でもミツトヨに挑むと伝えています[33]。2023 年には、Rovereto の大形横中ぐりフライス盤の PAMA が日本の Nidec の子会社になりました[34]。

⑂メーカーの系図

この章に出てくる主な会社の名前と持ち主の移り変わりです。帯の色が変わるところで名前や形が変わり、赤い矢印は行き先です。1940 年より前からある会社は 1940 年から描いています。帯の右端は、この章で確かめた時点までで、点線は「その先は未確認」、右端の › は今も続く会社です。

19401960198020002020OMO(Olivetti)Olivetti の事業部OCNOCN-PPL1988 Anfina へ売却Fiat(自社の機械工場)Comau(Fiat グループ)Innocenti の重機械(のちの Innocenti Santeustacchio)Mandelli(部品加工)Officina Mandelli SncMandelli(工作機械)FicepFicep S.p.A.Fidia帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。点線はその先が未確認。
出典:各社の沿革と社史 [12][14][9][8][26][5][7][25][22][10][27]

見に行ける所

Olivetti の町と文書館、デザインの博物館、見本市の会場です。公開日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

Ivrea, città industriale del XX secolo(世界遺産)Ivrea(Piemonte 州、Torino 県)Olivetti の工場と、社員のための住宅・社会施設の町並み。2018 年に世界遺産に登録。1950〜60 年代に OMO と OCN が工作機械と NC を作った町[29][14]
Associazione Archivio Storico OlivettiIvrea(Piemonte 州、Torino 県)Olivetti の文書館。Auctor・Horizon・Inspector の写真やカタログ、社内報が残る。解説サイト(Storia Olivetti)でも一部を見られる。閲覧は予約制[30][14]
ADI Design MuseumMilano(Lombardia 州)イタリアの工業デザインの賞 Compasso d'Oro の歴史コレクションを持つ博物館。1967 年に Olivetti の NC 機 Auctor Multiplex がこの賞を受けた。実物の展示があるかは行く前に確かめてください[31][14]
fieramilano(BI-MU の会場)Rho(Lombardia 州、Milano 県)1958 年に始まったイタリア工作機械展の流れをくむ BI-MU が、偶数の年の秋に開かれる見本市会場(2026 年は 10 月 13〜16 日の第 35 回)[18]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料が開きます。「p.」は本・誌面のページ、「PDF p.」は PDF のページ、「p.W」はインドの輸出調査の章の番号です。

復興と Marshall 計画見本市と国産化NC と輸出の伸び19451950195519601965197019751945194819501954195719601963196519671972黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

復興と Marshall 計画1945〜1953 年

年出来事メーカー・機種出典
1945年12月★戦争が終わった年の 12 月 29 日、Milano でイタリアの工作機械メーカーの団体 UCIMU(Unione Costruttori Italiani Macchine Utensili)が生まれる。設立の書類に署名したのは Fiat・Grazioli・Maserati・Minganti・Santeustacchio・Nebiolo・Pensotti など 10 社の経営者。のちに国内の見本市と欧州の見本市の運営を担う日付と 10 人の署名者は UCIMU の公式サイトの 70 周年(2015 年)・80 周年(2025 年)のページによる。10 社はほかに Schleifer・Cerliani・Ceruti。1953 年には英国商務省の週報が、欧州工作機械展の Milano 開催を UCIMU が運営すると伝えているUCIMU[1][2][3][4・p.1194]
1948年★米国の欧州復興計画(Marshall 計画、ERP)が始まる。この援助とイタリア政府の資金が、戦後の工作機械メーカーの立ち上げを助けたUNIDO(1991)は、イタリアの生産が国境を越えて本格的に伸びたのは 1970 年代だと続ける—[5・PDF p.63]
1949年6月米国の業界誌によると、イタリアは Marshall 計画(ECA)の資金のうち 1,900 万ドルを、1949 年 7 月までの工作機械の購入に割り当てるよう求めた。ECA による工作機械の出荷は、参加国全体でこの年度に 3,000 万ドルに達していた申請の額で、実際に輸入した台数・金額ではない。輸入の台数は今回も確かめられなかった—[6]
1950年Innocenti が戦争で傷んだ Lambrate の工場を立て直す。重機械の部門は鋼管の圧延機のほか、米国のライセンスで旋盤・プレス・重機械を作り、スクーター Lambretta とともに会社の柱になる1948 年には鋼管の工場の設計会社 Calmes を作り、ソ連・米国・日本などへ設備を売ったInnocenti[7]
1950年5月★Fiat が Marshall 計画の援助を受けて 4,500 万ドルの近代化を進める。米国の援助は約 1,500 万ドル、残りはイタリア政府の長期の貸付。Mirafiori には米国製の工作機械が並び、新しい輸出向けの車 1400 の流れ作業が動き始めたBusiness Week の記事の OCR による。1400 は戦後最初の完全な新型車(ACI)Fiat[8][9]
1953年鋼材のせん断機・パンチングマシンの Ficep(Varese 県 Gazzada)が、重機械の最初の工場を開くFicep[10]

見本市と、輸入から国産へ1954〜1962 年

年出来事メーカー・機種出典
1954年9月★欧州の工作機械工業の協力委員会(CECIMO)が、第 4 回欧州工作機械展を Milano の見本市会場で開く(9 月 14〜23 日)。運営は UCIMU。1951 年 Paris、1952 年 Hannover、1953 年 Brussels に続く回で、イタリアの業界が欧州の舞台に出た会期は開催の前年の予告による。1953 年の Brussels の回は 14 か国 769 社が出展した—[4・p.1194][11]
1955年Fiat が小形車 600 を出す。イタリアの車の大衆化が始まり、1957 年 7 月には Nuova 500 が続く。部品を大量に削る機械の需要が一気に増えたFiat[9]
1955年OMO の仕事が増え、Olivetti は Ivrea 郊外の San Bernardo に工作機械の新しい工場を建て始める(設計 Eduardo Vittoria)。1956 年の終わりに移転。Fiat・Necchi・Piaggio・Brown Boveri・Renault などに専用機とトランスファーマシンを納めたOMO(Officina Meccanica Olivetti)[12]
1957年★イタリアで売れた工作機械の 10 台に 6 台は外国製で、輸入先の 1 位はドイツ。国産のシェアは 41% だった。工作機械メーカーは約 250 社あったが、重い機械を作れるのは 5〜6 社だけ米国の Control Engineering 誌の Milano 発の記事による—[13]
1957年OMO が、Olivetti の電子技術を使って工作機械を数値制御(NC)で動かす研究を始める。2 年ほどで、決めた位置に順に動かす「位置決め」の NC の試作機ができたOMO(Officina Meccanica Olivetti)[12][14]
1958年1958 年上半期、国産の工作機械が国内の市場の 70% を取る(1957 年は 41%)。一方で業界は、欧州共同市場で関税が下がればドイツ製がもっと入ると心配していた—[13]
1958年9月★UCIMU が Milano で第 1 回イタリア工作機械展を開く(9 月 12〜21 日)。529 社が約 2 万 7,000 m² に 2,200 台(計 6,300 t)を並べ、来場者は約 7 万人。いまの BI-MU の始まりで、NC を見せたのは Maxnovo 1 社だけだったMachinery は約 530 社・約 27 万平方フィートと書く。展示会は 2 年ごとに続き、2026 年が第 35 回—[15・p.1177][16][13][17・p.35][18]
1959年OMO の最初の NC の試作機、カム(回転して決まった動きを作る部品)を削るフライス盤 FAC ができる。会計機 Audit 623 であけた紙テープで動いた。同じ年、Olivetti はイタリア初の電子計算機 Elea 9003 を発表文書館は「たぶんイタリアで最初の NC 工作機械」と書く。年は「1950 年代の終わり」で、ここでは Elea と同じ 1959 年に置いたOMO(Officina Meccanica Olivetti)FAC[14]
1960年1960 年の工作機械の生産は 1959 年(約 3 万 5,000 t)より 40% 多く、国産のシェアは 70% に。北部では人手が足りなくなり、自動化に反対していた労働者の空気も変わった—[17・p.35]
1960年米国の技術のライセンス生産も広がる。RIV(Torino)は Moore Products の空気マイクロメータなどの測定装置を、Ercole Marelli(Milano)は Westinghouse の無接点の制御装置を作った。Marposs(Bologna)は機上で寸法を測る測定ヘッドを出していた—[17・p.35]
1960年10月★第 2 回イタリア工作機械展(Milano、10 月 7〜16 日)。来場者 4 万 2,000 人、1,000 万ドルを超える商談。Olivetti の NC カムフライス盤(精度 ±0.02 mm)、San Rocco(Monza)の中ぐり盤の位置決め、Caser(Pavia)の紙テープ制御のタレットボール盤が並んだ会期は英国商務省の予告による(Control Engineering は「11 月」と書く)—[16][17・p.35]
1961年OMO と Olivetti の工具・治具の工場が合わさり、社内の「機械・工具の生産」事業部になるOlivetti[12]

NC と輸出の伸び1963〜1975 年

年出来事メーカー・機種出典
1963年★Olivetti が NC のフライス・プレーナ FP9 CN を売り出し、市場で成功する。続いて NC のボール盤 Auctor 25(穴あけ・ねじ立て・中ぐり・フライス削り)を出したOlivettiFP9 CN[14][12]
1963年第 8 回欧州工作機械展が Milano で開かれる。NC 機は 70〜80 台ほどで、1967 年の Hannover の回(約 150 台)の半分ほど。西ドイツの Masing の位置決め NC を積んだ機械が、展示会の記事に初めて出たNC 機の数は「1967 年は 1963 年の約 2 倍」という記述からの目安—[19・PDF p.229][19・PDF p.182]
1965年★Olivetti が 12 本の工具を自動で交換する NC 機 Auctor 25 Multiplex を出す。3 軸の位置決めで、穴あけ・ねじ立て・中ぐり・フライス削りを 1 台でこなすマシニングセンタの考え方の機械。同じ年、工場で削った部品を測る測定機 Inspector 16-6 も出したデザインは Rodolfo Bonetto(Walter Eichenberg と共同)。1967 年の Compasso d'Oro を受けたのは「Auctor Multiplex MUT/40A」で、審査の理由は、NC の工作機械が先端技術として国の経済と輸出に大事なこと、働く場所を今の暮らしに合わせることを挙げるOlivettiAuctor 25 Multiplex[14][20][21]
1965年Piacenza の Mandelli が最初の工作機械(POSITIV・MEDAL・THEMA)を作り、今の工場の最初の建物を建てる。続いてマシニングセンタの基本を備えた最初の機械 EGO を作り、株式会社になる沿革の 1965 年の欄にまとめて書かれていて、EGO の年ははっきりしないMandelli[22]
1965年Ficep が鋼材の加工ラインに電子の数値制御を使い始める。建物の鉄骨を、図面の数値どおりに自動で切って穴をあけるラインになった沿革は「最初の CNC ライン」と書くが、1965 年はコンピュータを使わない NC の時代Ficep[10]
1967年★Olivetti が Hannover の欧州工作機械展で横形マシニングセンタ Horizon を発表。31 本の工具を自動で探して交換し、4 軸を同時に動かせた。この年 Olivetti は普通の工作機械をやめ、NC の機械と NC 装置に絞るOlivettiHorizon[14][12]
1967年西ドイツでも Olivetti の NC が使われる。Kolb の機械 80 台のうち 2 台が Olivetti の NC 装置を載せ、この年から西ドイツで Olivetti の工作機械を売る部門もできたKolb の数は 1967 年 8 月末まで(多くは Grundig の NC)。販売の責任者は、のちに Deckel の販売担当役員になった人Olivetti[19・PDF p.176][19・PDF p.120]
1967年★イタリアの工作機械の輸出は 1964 年の 4,000 万ドルから 1967 年の 1 億 1,200 万ドルへ 2.8 倍になり、世界の輸出に占める割合は 3.0% から 7.3% に。同じ時期の日本は 1.3% から 3.6% で、イタリアの伸びは世界でいちばん大きかったインドの輸出調査(1969)の表 5・表 6。もとは米商務省の『World Trade in Machine Tools』—[23・p.W8][23・p.W9]
1969年3月Olivetti が、工具を自動で持ち替える装置の特許を出願する(米国特許 3,710,659「Automatically controlled tool holding device」の優先日)Olivetti[24]
1970年Mandelli が、組み合わせて大きなシステムにできるモジュール式の新しい機械 REGENT を出す。チタンなど航空機の難しい材料の加工も始めたMandelliREGENT[22]
1971年第 12 回欧州工作機械展がふたたび Milano で開かれる(10 月)。西ドイツの AEG は集積回路を使ったモジュール式の NC を、Boehringer は研究の成果の適応制御(削る状態に合わせて送りを変える)の構想「VDF-AC」を見せた—[19・PDF p.169][19・PDF p.239]
1972年★イタリアの金属加工機械の生産は 3 億 3,410 万ドル、輸出は 3 億 410 万ドル。作り手は約 180 社で、ほとんどが家族経営。NC 工作機械の輸出は 1970 年の 940 万ドルから 1972 年の 1,170 万ドルへ伸び、NC 機の使い手の 19% は工作機械メーカー自身だった米商務省の市場調査(1975)による。金属加工機械には工作機械の部品・金型などを含む—[25・p.61][25・p.62][25・p.67]
1972年Olivetti が組み立てロボット Sigma の最初の試作機を作る。はじめは自社の工場で使ったOlivettiSigma[14]
1973年★Olivetti の NC の事業部が会社 OCN になる。San Bernardo の工場で、縦形の Auctor・横形の Horizon のマシニングセンタ、測定機 Inspector、NC 装置を作り、30 か国以上で売った。この年の Auctor 3・MultiAuctor 3 には、マイクロコンピュータを入れた NC 装置 CNC1 を積んだ米商務省の調査は 1973 年の Olivetti の生産を 2,400 万ドル、輸出 40%、San Bernardo の工場で約 1,000 人とするOCN(Olivetti Controllo Numerico)[14][25・p.67]
1973年★Fiat に機械を納めていた Torino の小さな会社が集まり、工作機械の連合 Comau(COnsorzio MAcchine Utensili)ができる。のちにトランスファーライン・ロボット・FMS のメーカーになるComau の沿革は本文で 1973 年、年表の見出しに 1970 年もある。ここは本文の 1973 年。UNIDO(1991)は Comau をイタリアと欧州で最大の工作機械・自動化の会社で、Fiat グループの会社とするComau[26][5・PDF p.39]
1974年Fidia が生まれ、フライス盤の NC 装置を作り始める。金型や航空機部品のような複雑な形の加工に特化したFidia[27]
1974年UCIMU の会員は 150 社で、業界の生産の 80% を占める。Milano の近くに自前の研究センターを持ち、工作機械の販売と生産を資金で助ける金融会社 Fincimu も作った米商務省の調査(1975 年 1 月)の時点の値。年はその前年に置いたUCIMU[25・p.67]
1975年Mandelli が最初の FMS(工作機械と搬送をつないだ柔軟な生産システム)を作り、ドイツの Wiesbaden とフランスの Paris に販売・サービスの子会社を置くMandelli[22]
1975年欧州工作機械展が「EMO」の名で Paris で開かれ、欧州の外のメーカーにも開かれる。EMO の Milano での最初の開催は 1979 年—[28][19・PDF p.194]

よくある質問

UCIMU とは何ですか?いつできましたか?
イタリアの工作機械メーカーの団体(Unione Costruttori Italiani Macchine Utensili)で、1945 年に Milano で生まれました。1954 年に Milano で欧州工作機械展を運営し、1958 年からは 2 年ごとのイタリア工作機械展(いまの BI-MU)を開いています。1970 年代の初めには会員 150 社で、業界の生産の 80% を占めていました。
BI-MU の第 1 回はいつですか?
UCIMU が Milano で開いた第 1 回イタリア工作機械展は 1958 年 9 月 12〜21 日で、529 社が 2,200 台の機械を並べ、約 7 万人が訪れました。2 年ごとに途切れず続き、2026 年 10 月の回が第 35 回です。
EMO が初めて Milano で開かれたのはいつですか?
「EMO」の名での Milano の最初の開催は 1979 年です。その前身の欧州工作機械展は、Milano で 1954 年(第 4 回)、1963 年(第 8 回)、1971 年(第 12 回)に開かれています。EMO の名が付いたのは 1975 年の Paris の回からです。
イタリアで最初の NC 工作機械は何ですか?
Olivetti の文書館は、1950 年代の終わりに OMO が作ったカム削りのフライス盤 FAC を「たぶんイタリアで最初の NC 工作機械」としています。市場で成功したのは 1963 年の FP9 CN で、1965 年には 12 本の工具を自動で交換する Auctor 25 Multiplex を出しました。なお 1958 年の第 1 回イタリア工作機械展では、Maxnovo が NC を見せています。

この先と関係するページ

出典

当時の英国・米国の業界誌と政府の週報・報告は Internet Archive のスキャン、Olivetti の解説は Archivio Storico Olivetti、国際機関の報告は UNIDO の公開 PDF で、2026 年 10 月に確かめ、使ったページを書いています。「PDF p.」は PDF のページ、「p.」は本・誌面の印刷のページ、「p.W」はインドの輸出調査の「W」の章のページです。業界誌の OCR が荒いところは、読み取れた数字だけを使っています。日本側の出来事は国産アーカイブの出典を使っています。

  1. UCIMU「70 anni di UCIMU」(工業会の公式サイト、2015 年 11 月の記念式典の報告。Internet Archive の 2016 年 1 月の保存)
  2. UCIMU「80 anni di UCIMU」(工業会の公式サイト、2025 年。Internet Archive の 2025 年 3 月の保存)
  3. 「UCIMU – Sistemi Per Produrre」Manufacturing Today(業界誌、2017 年 4 月 6 日)
  4. 「European Machine Tool Exhibition, Milan」Board of Trade Journal(英国商務省の週報)Vol.165 No.2972, 1953 年 12 月 5 日, p.1194p. 1194
  5. UNIDO『The World Machine-Tool Industry』(第 4 回資本財産業協議の背景資料、1991 年 6 月)PDF p. 39・63
  6. 「Machine Tool Builders Fight for Orders」The Iron Age(米国の業界誌)Vol.163 No.22, 1949 年 6 月 2 日
  7. Dizionario Biografico degli Italiani「INNOCENTI, Ferdinando」Istituto della Enciclopedia Italiana(Treccani)
  8. 「ECA Breathes Life Into Fiat」Business Week No.1082, 1950 年 5 月 27 日
  9. Francesco Mosconi「Fiat, i 125 anni dell'azienda che ha messo le ruote al Paese」L'Automobile(ACI、2024 年 7 月 11 日)
  10. Ficep「History」(会社の沿革)
  11. The Engineers' Digest Vol.15 No.10(1954 年 10 月)の第 4 回欧州工作機械展(Milano)の記事
  12. Associazione Archivio Storico Olivetti「La OMO – Officina Meccanica Olivetti e il settore delle macchine utensili」(Storia Olivetti)
  13. 「Italian Machine Control … faces tough foreign competition」Control Engineering(米国の制御の専門誌)Vol.6 No.1, 1959 年 1 月, European Report
  14. Associazione Archivio Storico Olivetti「Grandezza e decadenza dell'OCN – Olivetti Controllo Numerico」(Storia Olivetti)
  15. 「Italian Machine Tool Exhibition, Milan」Machinery(英国の工作機械の週刊誌)Vol.93 No.2401, 1958 年 11 月 19 日, p.1177p. 1177
  16. 「Italian Machine Tool Exhibition」Board of Trade Journal Vol.179 No.3307, 1960 年 8 月 5 日
  17. 「New Controls Spark Renaissance in Italian Machine Tools」Control Engineering Vol.8 No.1, 1961 年 1 月, p.35p. 35
  18. 「BI-MU: una storia lunga 70 anni」第 35 回 BI-MU(2026 年 10 月 13〜16 日、fieramilano Rho)の案内(主催 EFIM・UCIMU)
  19. Thomas Wissert『Einführung der numerisch gesteuerten Werkzeugmaschinen in der Bundesrepublik Deutschland zwischen 1950 und 1980』Logos Verlag Berlin(2023、Stuttgart 大学の博士論文、オープンアクセス)PDF p. 120・169・176・182・194・229・239
  20. ADI(イタリア工業デザイン協会)「Compasso d'Oro 1967 Motivazioni」(受賞理由の記録、PDF)p.5
  21. ADI Design Museum 収蔵品「Auctor Multiplex MUT/40A tool machine」(Designer Rodolfo Bonetto、Producer Ing. C. Olivetti & C.、受賞年 1967)
  22. Mandelli「Azienda」(会社の沿革)
  23. Indian Institute of Management Calcutta・M. N. Dastur & Co.『Survey of India's Export Potential of Machine Tools』Vol. II A(1969、インド政府と米国国際開発庁の委託調査)p.W 8・9
  24. Espacenet の検索「pa=Olivetti AND cpc=B23Q AND pd<1980」(Olivetti の工作機械の部品・付属装置の特許、21 件)
  25. 米国商務省『Global Market Survey: Metalworking and Finishing Equipment』(1975 年 1 月)のイタリアの章(p.61〜70)p. 61・62・67
  26. Comau「History of Comau」(会社の沿革)
  27. Fidia 公式サイト(会社の紹介)
  28. CECIMO(欧州工作機械工業協力委員会)「EMO」
  29. UNESCO World Heritage Centre「Ivrea, industrial city of the 20th century」(2018 年登録)
  30. Associazione Archivio Storico Olivetti(Ivrea)公式サイト
  31. ADI Design Museum(Milano、Compasso d'Oro の歴史コレクション)公式サイト
  32. Secondo Rolfo「The Italian Machine Tool Industry」Ceris-CNR Working Paper 4/1993
  33. 「Una piccola grande: la Dea」l'Unità 1989 年 6 月 17 日 p.15(経済面)
  34. Nidec「Nidec to Execute a Share Transfer Agreement on Italian Machine Tool Manufacturer PAMA and Its Affiliates」(2022 年 11 月 30 日のリリース)
  35. 日本工作機械工業会『事業報告書 昭和44年度』(1970)
  36. 『日本の技術100年 ビジュアル版 第7巻』筑摩書房(1989)