GERMANY 03戦争と東西分断

1930 年代のドイツは、世界で売り買いされる工作機械のほぼ半分を作って輸出する国でした。それが 1933 年からの軍備で国内向けに振り向けられ、戦争と空襲、そして戦後の解体(Demontage、デモンタージュ)を経て、工作機械の中心だったザクセン(Chemnitz・Leipzig)と Berlin は東ドイツ側に残ります。西では東から移ってきた会社と南西部の中小メーカーが輸出で世界一を取り戻し、東では会社が国の人民所有企業(VEB)とコンビナートにまとめられました。1990 年の統一で東の工場の多くは小さくなるか、西や外国の会社に引き取られます。この章では、この 57 年を米国戦略爆撃調査団の報告・国連工業開発機関(UNIDO)の資料・研究書・メーカーの沿革で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けてたどります。ナチ期と戦時の記述は、記録に残る事実だけにしています。

工場は壊れても
機械は残った。
人も機械も
東から西へ

マスコットのチップス

ドイツの工作機械の始まりと科学の時代は第 1 章・第 2 章、NC の話は第 4 章です。旋盤・フライス盤・歯車機械など機械そのものの移り変わりは機種の章(第 5 章 旋盤・第 6 章 フライス盤・MC・第 7 章 研削盤・第 8 章 歯車機械・第 9 章 その他の機械)にまとめています。この章は工場と会社と国境の側からたどります。

軍備と統制(1933〜1939 年)

前史:統一形旋盤と「ロシア注文」

1933 年より前のドイツの工作機械工業は、2 つのことで次の時代の形を決めていました。1 つは規格化です。1927 年、Göppingen の Boehringer、Zerbst の Franz Braun、Hamburg の Heidenreich & Harbeck、Hannover の Wohlenberg の 4 つの旋盤メーカーが VDF(Vereinigte Drehbank-Fabriken、統一旋盤工場)を作りました。旋盤の大きさを 9 つの心高(主軸の中心の高さ)にしぼった「統一形旋盤」を共同で設計し、どの大きさをどの会社が作るかを割り当てたのです。1929 年の Leipzig の春の見本市で発表され、多くの注文を取りました[3]。部品を共通にしてまとめて作れば安くなり、使う工場は予備の部品を手に入れやすくなります。日本の池貝はこの VDF 旋盤を手本にユニット化した普通旋盤を作っています[4](くわしくは第 5 章)。

もう 1 つはソ連への輸出です。世界恐慌で国内の注文が落ちたとき、Chemnitz の Pfauter・Reinecker・Wanderer はソ連向けの輸出(「ロシア注文」)で工場を動かし続け[2]、Berlin の NILES もソ連の貿易公団の大口注文に支えられました[1]。Bielefeld の Gildemeister もソ連の注文で恐慌の年に生産を続けたとされます[15]。

軍備で膨らむ工場

1933 年から国の軍備が進むと、工作機械は兵器を作るための「機械を作る機械」として注文が積み上がります。VDW(ドイツ工作機械工業会)の統計で、1936 年の工作機械の売上は約 4 億 1,300 万ライヒスマルク、受注は約 6 億 4,600 万ライヒスマルクで、受注が売上を 35% も上回っていました[3]。1 つの工場で見ると、Boehringer の従業員は 1933 年の 350 人から、1942 年から 1945 年 2 月までは 2,100 人を超えています[3]。Nürtingen の Heller は 1935 年、Messerschmitt の航空機の軽合金のクランクケースの平面を削る専用のフライス盤を作りました[5]。

それでもドイツは輸出をやめませんでした。国連工業開発機関(UNIDO)がまとめた比べ方では、世界の工作機械の輸出のうちドイツは 1913 年に 48%、1937 年にも 48% で、米国(33%・35%)を上回る世界最大の輸出国でした[10]。日本もこの時代のドイツの機械を買っています。ゲージメーカーなどが Berlin の Lindner のねじ研削盤やジグ中ぐり盤を入れ、1937 年に買われたねじ研削盤はいまも岐阜県関市に残ります[6][7]。

研究も軍備の中へ

大学の研究も同じ流れの中にありました。1936/37 年に Aachen 工科大学の WZL(工作機械研究所)の所長になった Herwart Opitz は、輸入に頼る合金元素を減らした工具鋼、セラミックの工具、装甲材のような削りにくい材料の加工法を研究しました。人名事典は、この時期の研究がコストより「すぐに使える量」を優先していたと書いています[8]。Opitz は戦後、ナチ党の党員で突撃隊(SA)にも属していたことなどから 1946 年に職を解かれ、1948 年に教授に戻ります[8]。

統一形旋盤は現場で何を変えたか。大きさを段階にしぼり、主軸台や送り装置を共通の部品にすると、メーカーは同じ部品をまとめて作れ、使う工場は機械が違っても同じ予備部品と同じ操作で済みます。戦時に機械を急いで増やすときにも、戦後に壊れた機械を直すときにも、この「部品をそろえる」考え方が効きました。

戦時の生産と空襲(1939〜1945 年)

強制労働

戦争が始まると、工作機械メーカーの多くは兵器の部品も作り、人手の不足を強制労働で埋めました。会社の沿革や研究に残る数字を挙げます。Stuttgart の Trumpf では、100 人余りの働き手の 3 分の 1 がフランスから連れて来られた強制労働者でした(同社の沿革)[11]。Boehringer では 1943 年に働き手 1,651 人のうち 415 人が外国人労働者(強制労働)、108 人が捕虜でした[3]。Berlin の NILES では 1941 年末から週 60 時間の軍需生産になり、強制労働者も働かされました[1]。Chemnitz の Wanderer は 1936 年から 1945 年まで軍需が中心で、戦時中は約 9,000 人が働いていました[9]。1942 年には自動車会社の Auto Union が Chemnitz の鋳物工場を買い取り、戦車エンジンのケースを鋳造しています。この建物がいまの Chemnitz 産業博物館です[12]。

空襲で壊れたもの、残ったもの

1944 年になると工業都市への空襲が激しくなります。9 月 11 日の空襲で Chemnitz の Wanderer の工場はほぼ全壊し、そこでの生産は続けられなくなりました[9][2]。München の Grob の工場も 1944 年の空襲で大きく壊れ[14]、Bielefeld の Gildemeister の工場も空襲で破壊されました[15]。1945 年 4 月に赤軍が Berlin-Weißensee に入ったとき、NILES の工場は 80% が壊れていました[1]。Aachen の WZL も 1944 年の空襲で研究所を Eupen に移しています[8]。

ところが、戦後に米国の戦略爆撃調査団(USSBS)が工場を調べてまとめた結論は、意外なものでした。空襲で工場の建物が壊れても、機械と工作機械の被害は建物よりずっと小さく、生産は思ったより早く戻った、というのです。調査団は、ドイツの工業の多くが戦争の間も 1 直(1 日 1 交替)で動いていて、使い切っていない能力が残っていたとも書いています[13]。

なぜ工作機械は残ったのか。当時の工作機械は鋳鉄の重いベッドとコラムでできていて、屋根や壁が落ちても本体が割れることは少なく、がれきを片付けて電気とベルト(または個別のモータ)をつなげば動きました。案内面やねじにきずが付いても、きさげや研削で直せます。だからこそ戦後は、工場ごと機械を運び出す「解体」が、空襲より重い打撃になりました。

✂解体と接収、東西の分かれ目(1945〜1949 年)

「11.4%」の上限

戦争に勝った連合国は、ドイツが再び兵器を作れないよう工業の大きさに上限を設けました。1946 年の第 1 次産業計画では、全ドイツの工作機械の生産を 7,400 万ライヒスマルク、1938 年のわずか 11.4% に抑え、それを上回る能力は工場の解体で減らす方針でした[3]。米国占領地区の Boehringer は 1945 年 11 月に工作機械の製造を禁じられ、女性の靴下を編む機械や、1948〜51 年には小形の万能トラック Unimog(約 600 台)を作ってしのぎました[3]。Esslingen の INDEX は工場が米軍の兵舎になり、1946 年 1 月に旧工場の全面的な解体が決まって、設備は英国の BSA に渡ります。BSA は 1948 年から INDEX の自動旋盤を英国で作り、INDEX が旧工場の土地を取り戻したのは 1954 年 9 月でした[3]。Gildemeister も解体予定の一覧に載りましたが取り消され、1948 年に 25 人で生産を再開しています[15]。

上限は経済の立て直しを妨げたため、米英の占領地区(双子地区)は 1947 年 8 月の第 2 次産業計画で、工作機械の上限を 1936 年の 82.5% にあたる 1 億 7,000 万ライヒスマルクに引き上げます。それでも 10 月には解体予定の会社の一覧が出て、Stuttgart の工作機械メーカー(資料の表記は「Schmidt und Schaudt」で、1 社か 2 社かは読み取れません)・INDEX・Hüller なども載りました。実際の 1948 年の生産は約 6,000 万ライヒスマルク(1936 年の 29%)にとどまり、通貨改革のあと双子地区には工作機械が 67 万台しかないのに、必要な台数は 110 万台とされました[3]。1949 年 4 月の Washington の外相会議で 159 社が解体の一覧から外され、11 月の Petersberg 協定で西側の解体は止まります[3]。

東では、工場ごと運び出された

解体がはるかに重かったのはソ連占領地区でした。戦前のドイツの工作機械の生産額の約 35% はザクセンとテューリンゲン、18% はベルリンにあり、全体の約半分がソ連占領地区に入りました。研究によっては、解体による能力の減少はソ連占領地区全体で約 70%、ベルリンで 91% とされます[3]。工作機械の町 Chemnitz では、1945 年 6 月から 1946 年夏まで解体が続き、Pfauter・Reinecker の工作機械工場も対象になりました。1945 年 7〜8 月には 12,000 人が解体作業に就き、Wanderer の機械を運び出すだけで貨車 509 両が要ったといいます[2]。1946 年 6 月 30 日のザクセンの住民投票のあと、Chemnitz では 70 社が「人民の所有」に移されました[2]。

研究と業界団体の再出発

1948 年、教授に戻った Opitz は Aachen 工作機械会議(AWK)を始めます。戦争の間に国際的な水準から遅れた工作機械工業へ、研究の成果をすぐ渡すための会議で、1953 年には 900 人を超える人が集まりました[8]。1949 年 10 月 5 日、1891 年創立の VDW は西ドイツの Königstein で作り直されます[3][19]。

西ドイツの復興と輸出世界一(1949〜1989 年)

東から西へ移った 43 社

ソ連占領地区では大きな会社の持ち主の多くが財産を取り上げられ、1961 年の壁ができるまでに多くの経営者が西へ逃れました。工作機械メーカーの名簿を 1936 年から追った研究によると、会社ごと西へ移ったメーカーは 43 社で、1938 年に東にあった会社の 23% にあたります。半分(21 社)は東と境を接しない Baden-Württemberg と Nordrhein-Westfalen に落ち着きました。同じ研究は、移った会社は戦後に新しくできた会社より長く生き残り、戦前の技術と人を新しい土地へ持ち運べたことを示しています[17]。

例を挙げます。Chemnitz の歯車機械の Pfauter は兄弟が 1949 年に西へ移って会社を立て直し(Ludwigsburg、くわしくは第 8 章)[17][3]、Leipzig の Pittler は 1945 年から Frankfurt 近くの Langen で仕事を続けて 1949〜51 年に新工場を建てました[18]。Chemnitz の Reinecker の流れをくむ人たちは 1948 年ごろ Ulm 近くに工具研削盤の会社を作り[16]、Bautzen で 1867 年に生まれた EMAG は 1952 年に西の Eislingen で再建されています[23]。こうして工作機械の中心はザクセンから南西部に移り、1960 年には Baden-Württemberg が西ドイツの生産の 38% を占めました[3]。自動車工業に近いことも、この地方の伸びを後押ししたと考えられています[3]。

「経済の奇跡」と輸出

西側では 1950/51 年に工作機械の製造の禁止が解け、Boehringer は VDF の統一形旋盤の生産を戻しました(VDF は Franz Braun が東に残ったため 3 社に)[3]。工作機械の生産は 1950 年の 3 億 8,700 万マルクから、朝鮮戦争の特需、国内の「経済の奇跡(Wirtschaftswunder)」、輸出に支えられて 1980 年の 98 億 8,800 万マルクまで、年平均 11.4% で伸びます[3]。メーカーの数は 1955 年の 804 社が最も多く、その多くは家族経営の中小企業でした[17]。

輸出では、1965 年に世界の工作機械の輸出の 28% を西ドイツが占め、米国(20%)を上回って世界一に戻っています[10]。1978 年から 1989 年まで輸出額は毎年世界一で、1989 年は西ドイツ 43 億ドル、日本 38 億ドルでした[10]。1988 年の西ドイツの輸出の 65% は旋盤・研削盤・マシニングセンタで、欧州の歯車機械の輸出の 40% は西ドイツが占めていました[10]。高い精度と、注文に合わせて作り込む機械が強みだったのです。

見本市:EEMO から EMO へ

戦後の欧州の工作機械工業は、1950 年にできた協力委員会 CECIMO のもとで、メーカーだけが出展できる「欧州工作機械展」(EEMO)を 1951 年から開きます。第 1 回は 1951 年 9 月 1〜10 日、Paris の Porte de Versailles の見本市会場でした[20]。1971 年までは加盟国のメーカーだけの展示会でしたが、1975 年に Paris で開かれた回から「EMO」として欧州の外のメーカーにも開かれました[21]。EMO の名で初めて Hannover で開かれたのは 1977 年、1979 年は Milano です[3]。いまは Hannover・Hannover・Milano の順に奇数年に回り、Milano の回はイタリアの工業会が開いています[31](イタリアの側はイタリア工作機械アーカイブ第 2 章)。1960 年の Hannover の工作機械展には西ドイツの 11 社が NC の工作機械を並べ、NC の時代が始まりますが、その話は第 4 章で書きます[3]。

日本の追い上げ

1969 年、日本の工作機械の生産額が西ドイツを抜いて世界 3 位になり[24]、1982 年には米国も抜いて世界一になります[26]。1983 年の記事では、西ドイツは生産額 34.6 億ドルで日本・米国に次ぐ 3 位でしたが、輸出は売上の 65% を占めていました[27]。西ドイツの国内でも日本の機械は増え、工作機械の輸入に占める日本製の割合は 1975 年の 3% から 1989 年の 17.6% に上がりました[25]。それでも 1989 年の西ドイツは約 300 社・94,000 人、生産額約 68 億ドルで世界 2 位、輸出では 1 位を守っていました[10]。

東ドイツの VEB とコンビナート(1949〜1989 年)

人民所有企業(VEB)へ

東では、残った工場が国の企業になっていきます。Berlin-Weißensee の NILES は 1949 年 2 月に「VEB Deutsche NILES Werke」になり、1950 年 7 月には工作機械の企業連合 VVB WMW Chemnitz に入って、新しい工場の建物に約 1,700 万マルクの投資を受けました。1952 年 11 月には「VEB Großdrehmaschinenbau „7. Oktober“ Berlin」と改称されますが、製品の商標は NILES のまま残ります[1]。Chemnitz の Wanderer は事務機とフライス盤の 2 つに分けられ、フライス盤の工場は 1951 年に「VEB Fritz Heckert」になりました。第 1 次 5 か年計画(1951〜55 年)で機械工業が重んじられ、従業員は 1950 年の 357 人から 1952 年の 865 人に増えます[2]。

東ドイツの工作機械は、主にソ連と東側の国々へ輸出されました。NILES は東ドイツでただ 1 社の歯車研削盤のメーカーで、1958 年には需要が生産能力の 2 倍あり、ソ連・中国・ポーランド・チェコスロバキア・朝鮮が主な輸出先でした[1]。1976 年には米国 Chicago の工作機械展 IMTS にも歯車研削盤を出しています[1](機械の中身は第 8 章)。

人手の不足も東の工場の悩みでした。1950 年代の NILES は材料の不足と経験の浅い働き手に苦しみ、年に最大 400 人の見習いを育てる訓練所を建て、女性が働き続けられるよう工場の隣に保育所も開いています[1]。計画経済のもとでは何を作るかを国が決めるため、1960 年代と 70 年代には得意な製品を生産の計画から外されたり、ソ連に作らせるために大形の立て旋盤の生産をやめさせられたりもしました[1]。

コンビナート

1960 年代の終わりから、東ドイツは似た製品の工場を大きなグループ「コンビナート(Kombinat)」にまとめ、省の下に置きました。VEB Fritz Heckert は 1969 年から同じ名のコンビナートの中心工場になります[2]。UNIDO の資料によると、工作機械は最終的に 3 つのコンビナートに分けられました。角物(箱形の部品)を削る機械の Fritz Heckert(Karl-Marx-Stadt=今の Chemnitz)、丸物(回転する部品)を削る機械の 7. Oktober(Berlin)、プレスなど塑性加工の機械の Umformtechnik „Herbert Warnke“(Erfurt)で、それぞれが部品から完成品までを一手に作りました[10]。

技術の面では、1971 年に Karl-Marx-Stadt で計算機で動かす加工システム prisma 2 が動き始めます。Heckert の流れをくむ Starrag は、これを「世界で最初の FMS(柔軟な生産システム)」と書いています[9][2]。1980 年代には Chemnitz の Union がマシニングセンタ CBFK を作り(1983 年)、NILES は電子ギヤと CNC を付けた歯車研削盤を公開しました(1984 年)[2][1]。1989 年の東ドイツの工作機械工業は約 8 万人、生産額約 14 億ドルで世界 8 位、輸出では世界 5 位の大きさで、外国との取引は国営の貿易会社 WMW が担っていました[10]。

統一と信託公社(1990 年〜)

1989 年の壁の崩壊と 1990 年の通貨統合で、東の工場は一度に 2 つの市場を失いました。東側の国々は西のマルクで払えず、国内でも東の製品は売れなくなったのです。1990 年春、東ドイツの国有財産を引き受ける信託公社(Treuhandanstalt)が仕事を始め、統一後は会社を売って民営化を進めます。Chemnitz だけで 1,094 社が対象になり、Chemnitz の機械工業の働き手は 42,000 人から 1993 年には 5,000 人に減りました[2]。

工作機械の会社の行き先はさまざまです。Fritz Heckert は信託公社のもとで Heckert Chemnitzer Werkzeugmaschinen GmbH になり、1998 年にスイスの Starrfräsmaschinen が 198 人の会社として引き取りました(今の Starrag の Chemnitz 工場)[9]。7. Oktober コンビナートは 24 社に分かれ、NILES は 1990 年後半に 1,600 人まで減り、西の Fritz Werner と合併したあと 1996 年に破産を申し立て、1997〜98 年に Coburg の歯車研削盤メーカー KAPP の傘下に入ります[1]。Chemnitz の大形旋盤の VEB „8. Mai“ は米独の実業家が買って Niles-Simmons となり、NC 装置の VEB Numerik は Siemens が引き取りました。1852 年創業の Union は民営化が何度も失敗し、1996 年に働き手が自分たちで会社を作って再出発しましたが、2019 年末に Chemnitz の工場を閉じています[2]。

戦後に東西に分かれた会社が、再び 1 つになった例もあります。EMAG は 1994 年に、VDF の 1 社 Franz Braun があった町 Zerbst の WEMA を買って中心の工場にし[23][3]、1999 年には Leipzig の Pittler-Tornos と、Chemnitz から Ulm へ移った Reinecker をグループに入れました[23][16]。分断の 40 年をまたいで、名前と技術が同じ会社の中で続いています。

日本とのつながり

この章の時代、日本とドイツの工作機械は何度も交わっています。

⑂メーカーの系図

この章に出てくる主なメーカーの、社名と持ち主の移り変わりです。帯の区切りで社名や持ち主が変わり、赤い矢印は事業の行き先です。東ドイツの会社は VEB(人民所有企業)を経て、1990 年からは信託公社のもとで新しい持ち主を探しました。Pfauter(東の VEB Modul と西の Ludwigsburg)の流れは第 8 章の系図にあります。

18401880192019602000Gebr. Boehringer(Göppingen)Oerlikon-BoehringerBoehringer WerkzeugmaschinenUnion(Chemnitz、のち VEB)Union(働き手の会社)Union(Herkules)Bautzen の鋳物・機械工場EMAG(Eislingen→Salach)Winklhofer & JaenickeWanderer-Werke(Chemnitz)VEB Fritz HeckertHeckert(信託公社)StarragHeckert/StarragLeipziger WZM vorm. W. v. PittlerPittler AG(Leipzig)Pittler Maschinenfabrik(Langen)Deutsche Niles-WerkeMOAGDeutsche Niles-Werke(Weißensee)VEB Deutsche NILES WerkeVEB 7. OktoberNILES(信託公社)KAPP の傘下へJ. E. Reinecker Maschinenbau(Ulm)EMAG へKAPP(Coburg)KAPP NILES帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [3][2][23][9][18][1][16]

見に行ける所

公開日・見学の可否・展示の入れ替えは、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

Industriemuseum Chemnitz(Chemnitz 産業博物館)Chemnitz(ザクセン州)戦時に Auto Union が戦車エンジンのケースを鋳造した鋳物工場の建物(戦後は全面的に解体され、のち国営の鋳物工場として 1982 年まで使われた)。いまはザクセンの工業史の博物館で、収蔵する工作機械は約 500 台とドイツ最大級。公開日は博物館の案内で[12][28]
Deutsches Technikmuseum(ドイツ技術博物館)Berlin1900 年ごろの金属加工の工場を再現した「歴史の工場」。機械の多くは西ベルリンの工場で 1970 年代まで使われていたもので、蒸気機関とベルトで動かす実演がある。AEG の資料も持ち、西ドイツの初期の NC の研究に使われている[29][3]
Deutsches Museum(ドイツ博物館)München(バイエルン州)1925 年からの工作機械の展示(1990/91 年に作り直し)。19 世紀のベルト駆動の工場、1950〜60 年代の個別モータの機械、NC とコンピュータでつないだ生産ラインの 3 部屋。建物の改修で 2022 年 6 月から閉じており、再開は 2028 年の予定(ウェブで 360° の見学ができる)[30]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「p.」は本・論文・PDF のページ(PDF の資料は PDF のページ)、「コマ」は国立国会図書館のスキャンの番号です。1933 年より前の出来事は、背景として「軍備と統制」の表に入れています。

前史軍備戦争東西分断(西:復興と輸出/東:VEB とコンビナート)統一193019401950196019701980199020001937194419501965197119751989黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

軍備と統制1933〜1939 年(前史を含む)

年出来事メーカー・機種出典
1926〜1932年世界恐慌の前後、ベルリンの NILES はソ連の貿易公団 Stankoimport の大口注文で、Chemnitz の Pfauter・Reinecker・Wanderer もソ連向けの輸出(「ロシア注文」)で仕事をつなぐ1933 年より前の背景NILES・Pfauter・Reinecker・Wanderer[1][2・p.6]
1927・1929年4 つの旋盤メーカーが VDF(Vereinigte Drehbank-Fabriken)を作り、旋盤の大きさを 9 つの心高にしぼった「統一形旋盤」を分担して作る。1929 年の Leipzig 春の見本市で発表1933 年より前の背景。Wissert は Haederle(1938 年ごろ)の VDF の記念誌による。Boehringer の沿革は結成を 1928 年とする(第 2 章・第 5 章はそちらを採る)VDF(Boehringer・Franz Braun・Heidenreich & Harbeck・Wohlenberg)VDF Einheitsdrehbank[3・p.233][3・p.234]
1933→1942年Göppingen の旋盤メーカー Boehringer の従業員は 1933 年の 350 人から、1942 年から 1945 年 2 月まで 2,100 人を超える。軍備のための工作機械の注文が工場を大きくした人数は社内資料。Gehrig(1996)の数えでは 1943 年に 1,651 人Gebr. Boehringer[3・p.234]
1935〜56年日本の池貝がドイツの VDF 旋盤を手本にユニット化した普通旋盤を作る(1937 年製が日本工業大学に残る)池貝[4]
1935年Nürtingen の Heller が、Messerschmitt の航空機の軽合金のクランクケースの平面を削る専用フライス盤を作るGebr. Heller[5]
1936年VDW の統計で、工作機械の売上は約 4 億 1,300 万ライヒスマルク、受注は約 6 億 4,600 万ライヒスマルク。受注が売上を 35% 上回り、軍備のための発注が積み上がっていたことがわかる1936 年の売上は資料により 4 億 7,640 万 RM(Glunk 1991)とも—[3・p.94]
1936〜37年日本のゲージメーカーなどが Berlin の Lindner のねじ研削盤やジグ中ぐり盤を買う。1937 年に買われたねじ研削盤 FS1・FS2 形は岐阜県関市に残る—[6・コマ72][7]
1936/37年Herwart Opitz が Aachen 工科大学の WZL(工作機械研究所)の所長に。軍備と自給の政策のもと、合金元素を減らした工具鋼やセラミック工具、装甲材料の削り方などを研究する—[8]
1937年★世界の工作機械の輸出のうちドイツが 48%、米国が 35% を占める。1913 年もドイツ 48%・米国 33% で、ドイツは戦前の世界最大の工作機械輸出国だった—[10・p.51]

戦時の生産と空襲1939〜1945 年

年出来事メーカー・機種出典
1936〜45年Chemnitz の Wanderer の生産は軍需が中心になり、戦時中は Chemnitz で約 9,000 人が働くWanderer-Werke[9]
1939年戦争が始まると、Stuttgart の Trumpf は電動ハンドシャーなどのほか航空機用の部品を作り、100 人余りの働き手の 3 分の 1 はフランスから連れて来られた強制労働者だった(同社の沿革)Trumpf[11]
1941年Berlin-Weißensee の NILES で 500 台目の歯車研削盤(RS 形)。1941 年末から週 60 時間の軍需生産になり、強制労働者も働かされるDeutsche Niles-Werke[1]
1942年Auto Union が Chemnitz の Zwickauer Straße の鋳造所を買い、戦車エンジンのケースを鋳造する。この建物がいまの Chemnitz 産業博物館Auto Union[12][2・p.6]
1943年Boehringer の働き手 1,651 人のうち 415 人が外国人労働者(強制労働)、108 人が捕虜(Gehrig 1996 の集計)Gebr. Boehringer[3・p.234]
1944年★米国戦略爆撃調査団の後の結論:空襲で工場の建物が壊れても、機械と工作機械の被害はずっと小さく、生産は早く戻った。戦争の間も多くの工業は 1 直(1 日 1 交替)で動いていた—[13・p.6][13・p.7][13・p.2]
1944年München の Grob(1926 年創業)の工場が空襲で大きく壊れるGrob[14]
1944年空襲のため Aachen の WZL は研究所を Eupen に移す—[8]
1944年9月9 月 11 日の空襲で Chemnitz の Wanderer の工場がほぼ全壊し、そこでの生産は続けられなくなるWanderer-Werke[9][2・p.7]

解体と接収、東西の分かれ目1945〜1949 年

年出来事メーカー・機種出典
1945年戦前のドイツの工作機械の生産額の約 35% はザクセンとテューリンゲン、18% はベルリンだった。約半分がソ連占領地区にあり、そこで特に強く解体される(解体による能力の減少はソ連占領地区全体で約 70%、ベルリンで 91% とする研究がある)割合は 1939 年の地域別の生産(Kappel 1966)と Schwab 1996・Glunk 1991—[3・p.98]
1945〜48年空襲で壊れた Bielefeld の Gildemeister が連合国の解体予定の一覧に載る。取り消されて 1948 年に 25 人で生産を再開し、1950 年代に多軸自動盤などで大きくなるGildemeister[15]
1945年4月4 月 22 日に赤軍が Berlin-Weißensee を占領したとき、NILES の工場は 80% が壊れていたDeutsche Niles-Werke[1]
1945年6月〜46年夏★ソ連の Chemnitz での工場の解体(Demontage)。Pfauter・Reinecker の工作機械工場も対象になり、1945 年 7〜8 月には 12,000 人が解体作業に就く。Wanderer の機械を運び出すのに貨車 509 両が要ったWanderer・Pfauter・Reinecker[2・p.7]
1945年11月米軍政府が Boehringer に工作機械の製造を禁じる。同社は女性用の靴下を編む機械や、1948〜51 年には小形の万能トラック Unimog(約 600 台)を作ってしのぐGebr. Boehringer[3・p.93][3・p.234]
1946年★連合国の第 1 次産業計画で、全ドイツの工作機械の生産を 7,400 万ライヒスマルク(1938 年の 11.4%)までに制限し、余った能力は解体で減らす方針—[3・p.93][3・p.94]
1946年空襲と解体のあとの Chemnitz の Wanderer の工場で、急ごしらえの体制でフライス盤 38 台を作るWanderer-Werke[9]
1946年1月Esslingen の INDEX の旧工場の全面的な解体が決まり、設備は英国の BSA に渡る。BSA は 1948 年から INDEX の自動旋盤を英国で作り、旧工場の土地が返されたのは 1954 年 9 月INDEX[3・p.94]
1946年6月ザクセンの住民投票(6 月 30 日)を受けて、Chemnitz では 70 社が「人民の所有」に移される—[2・p.7]
1947年8月米英の占領地区(双子地区)の第 2 次産業計画で、工作機械の生産の上限を 1 億 7,000 万ライヒスマルク(1936 年の 82.5%)に引き上げる。10 月に解体予定の会社の一覧が出て、Stuttgart の工作機械メーカー(資料の表記は「Schmidt und Schaudt」)・INDEX・Hüller なども載る—[3・p.94]
1948年西側の工作機械の生産は約 6,000 万ライヒスマルク(1936 年の 29%)にとどまる。通貨改革のあと、双子地区には工作機械が 67 万台しかなく、必要な台数は 110 万台とされた—[3・p.95]
1948年1946 年に連合国に職を解かれた Opitz が教授に戻り、Aachen で AWK(Aachener Werkzeugmaschinen-Kolloquium、Aachen 工作機械会議)を始める。研究の成果をすぐ工場へ渡すための会議で、1953 年には 900 人を超える—[8]
1949年11月4 月の Washington の外相会議で 159 社が解体の一覧から外され、11 月 22 日の Petersberg 協定で西側の解体が止まる。重い工作機械の製造も許可制で認められるようになる—[3・p.95]

西ドイツの復興と「経済の奇跡」1949〜1969 年

年出来事メーカー・機種出典
1948年ごろChemnitz の Reinecker の流れをくむ人たちが、Ulm 近くの Einsingen で J. E. Reinecker Maschinenbau GmbH を作り、工具と工具研削盤を作るJ. E. Reinecker[16]
1949年Chemnitz の歯車機械メーカー Pfauter の兄弟が、解体と接収のあと西へ移って会社を立て直す(のちに Ludwigsburg)Buenstorf・Guenther は移転先を Stuttgart と書く。Ludwigsburg は Stuttgart の北の隣町。くわしくは第 8 章Pfauter[17・p.3][3・p.98]
1949〜51年Leipzig の Pittler は 1945 年から西の Langen(Frankfurt の近く)で仕事を続け、1949〜51 年に新工場を建てて Pittler Maschinenfabrik AG になる。Leipzig の工場は東に残るPittler[18]
1949年10月10 月 5 日、ドイツ工作機械工業会 VDW(1891 年創立)を西ドイツの Königstein(Taunus)で作り直す—[3・p.157][19]
1949〜62年★東から西へ会社ごと移った工作機械メーカーは 43 社。1938 年に東にあった会社の 23% にあたり、半分(21 社)が Baden-Württemberg と Nordrhein-Westfalen に落ち着く—[17・p.13]
1950/51年西側で工作機械の製造の禁止が解け、Boehringer は VDF の統一形旋盤を作り直す。VDF は Franz Braun(Zerbst)が東に残ったため 3 社になるWissert の本文は 1949 年、注は 1950/51 年の年末年始と書くGebr. Boehringer[3・p.93][3・p.235]
1950年★西ドイツの工作機械の生産は 3 億 8,700 万マルク。朝鮮戦争の特需のあと、国内の「経済の奇跡」と輸出で伸び、1980 年には 98 億 8,800 万マルク(年平均 11.4% 増)になる—[3・p.95][3・p.96]
1951年前の年にできた欧州の工作機械工業の協力委員会 CECIMO が、メーカーだけが出展できる「欧州工作機械展」(EEMO)を初めて開く(1951 年 9 月 1〜10 日、Paris の Porte de Versailles の見本市会場)。1971 年までは CECIMO の加盟国のメーカーだけが出展した1969 年の第 11 回も Paris で開かれた—[20・p.474][21][22]
1952年1867 年にザクセンの Bautzen で創業した EMAG が、西の Eislingen で旋盤と専用機のメーカーとして再建する(1969 年に Salach へ)EMAG[23]
1955年西ドイツの工作機械メーカーの数が 804 社で最も多くなる(1969 年も 798 社)。多くは家族経営の中小企業—[17・p.11]
1960年Baden-Württemberg が西ドイツの工作機械の生産の 38% を占める(1964 年は 39%)。戦前の中心だったザクセンを失い、自動車工業に近い南西部が新しい中心になる—[3・p.19][3・p.99]
1960年9月Hannover の工作機械展に、西ドイツの 11 社が NC(数値制御)の工作機械を出す(くわしくは第 4 章)—[3・p.121]
1965年★世界の工作機械の輸出で西ドイツが 28%、米国が 20%。西ドイツは輸出で世界一—[10・p.51]
1969年日本の工作機械の生産額が西ドイツを抜き、米国・ソ連に次ぐ世界 3 位になる(日本工作機械工業会の事業報告)—[24・コマ3]

輸出世界一と日本の追い上げ1970〜1989 年

年出来事メーカー・機種出典
1970年VDF の 1 社だった Hamburg の Heidenreich & Harbeck が Gildemeister に一部売られ(1972 年に全部)、VDF の共同の NC 旋盤の会社は 2 年で解散するHeidenreich & Harbeck・Gildemeister[3・p.237]
1975年★欧州工作機械展が「EMO」として Paris で開かれ、欧州の外のメーカーにも開かれる。1977 年は Hannover、1979 年は Milano—[21][3・p.175][3・p.194]
1975→1989年★西ドイツに入る工作機械の輸入のうち日本製の割合が、1975 年の 3% から 1989 年の 17.6% に上がる—[25・p.36]
1978〜89年工作機械の輸出額は毎年西ドイツが世界一。1989 年は西ドイツ 43 億ドル、日本 38 億ドル、スイス 16 億ドル—[10・p.90]
1982年日本の工作機械の生産額が米国を抜いて世界一になる(2008 年まで 27 年続く)。輸出額では西ドイツの世界一が続く—[26・コマ21][10・p.90]
1983年西欧の誌面の記事によると、西ドイツの工作機械の生産額は 34.6 億ドルで、日本(38.9 億ドル)と米国(36.2 億ドル)に次ぐ世界 3 位。輸出は 23 億ドルで売上の 65%、働く人は 10 万人。日本製の国内のシェアは 1982 年に 3.9% から 3.1% へ下がった記事の英訳では生産額の単位が「million」と誤っている。前後の数字から十億ドルの単位と読んだ—[27・p.35]
1989年西ドイツの工作機械工業は約 300 社・94,000 人、生産額は約 68 億ドルで世界 2 位—[10・p.64][10・p.52]

東ドイツの人民所有企業とコンビナート1949〜1989 年

年出来事メーカー・機種出典
1949年2月Berlin の NILES が人民所有企業(VEB)の「VEB Deutsche NILES Werke」になる。1950 年 7 月には工作機械の企業連合 VVB WMW Chemnitz に入るDeutsche Niles-Werke[1]
1951年★Chemnitz の Wanderer の工場が事務機とフライス盤の 2 つに分けられ、フライス盤の工場が「VEB Fritz Heckert」になる。従業員は 1950 年の 357 人から 1952 年の 865 人にVEB Fritz Heckert[2・p.7][2・p.8]
1951年5月NILES が直径 10m の面板を持つ大形の立て旋盤 DWK 10 を、ベルリンの重電の国営工場に納めるDeutsche Niles-WerkeDWK 10[1]
1952年11月NILES の工場が「VEB Großdrehmaschinenbau „7. Oktober“ Berlin」に改称(商標は NILES のまま)VEB 7. Oktober[1]
1958年NILES は東ドイツでただ 1 社の歯車研削盤のメーカーで、需要は生産能力の 2 倍。ソ連・中国・ポーランド・チェコスロバキア・朝鮮へ輸出するVEB 7. Oktober[1]
1969年VEB Fritz Heckert が同じ名のコンビナート(Kombinat、国営企業のグループ)の中心工場になる。東ドイツでは 1960 年代末から 70 年代初めに、似た製品の工場をまとめたコンビナートが作られるWerkzeugmaschinenkombinat „Fritz Heckert“[2・p.8]
1971年★Karl-Marx-Stadt(今の Chemnitz)で、計算機で動かす加工システム prisma 2 が動き始める。Heckert の流れをくむ Starrag は「世界で最初の FMS」とするWerkzeugmaschinenkombinat „Fritz Heckert“prisma 2[9][2・p.8]
1976年東ベルリンの NILES(7. Oktober コンビナート)が米国 Chicago の工作機械展 IMTS に歯車研削盤 ZSTZ 630 C1/Z を出すVEB 7. OktoberZSTZ 630 C1/Z[1]
1983・84年東ドイツでも CNC の機械が出る。Chemnitz の Union がマシニングセンタ CBFK を作り(1983 年)、NILES が電子ギヤと CNC を付けた歯車研削盤 ZSTZ 06 EG-CNC を公開する(1984 年)VEB Union・VEB 7. OktoberCBFK・ZSTZ 06 EG-CNC[2・p.8][1]
1989年★東ドイツの工作機械工業は 3 つのコンビナート(角物の Fritz Heckert、丸物の 7. Oktober、塑性加工の Umformtechnik Erfurt)に約 8 万人、生産額は約 14 億ドルで世界 8 位、輸出は世界 5 位。外国との取引は国営の貿易会社 WMW が担った—[10・p.64][10・p.52][10・p.89]

統一と信託公社1990 年〜

年出来事メーカー・機種出典
1990年★春に東ドイツの国有財産を引き受ける信託公社(Treuhandanstalt)が仕事を始め、統一後は民営化を進める。Chemnitz だけで 1,094 社が対象になり、Chemnitz の機械工業の働き手は 42,000 人から 1993 年には 5,000 人に減る—[2・p.8]
1990年信託公社のもとで Heckert Chemnitzer Werkzeugmaschinen GmbH ができる。1998 年にスイスの Starrfräsmaschinen が 198 人の会社として引き取り、StarragHeckert になるHeckert Chemnitzer Werkzeugmaschinen[9]
1990年代Chemnitz では、大形旋盤の VEB „8. Mai“ を米独の実業家が信託公社から買って Niles-Simmons とし、NC 装置の VEB Numerik は Siemens が引き取るNiles-Simmons・Siemens[2・p.9]
1990年5月7. Oktober コンビナートが 24 の会社に分かれ、信託公社の NILES Werkzeugmaschinen GmbH ができる。東側への機械の販売が止まり、働き手は 2,250 人から 1990 年後半に 1,600 人にNILES Werkzeugmaschinen[1]
1994年EMAG が東の WEMA Zerbst を買い、グループの中心の生産拠点にする。Zerbst は戦前の VDF の 1 社 Franz Braun の町EMAG・WEMA Zerbst[23][3・p.235]
1996年2月東側の市場を失った Fritz Werner & NILES(1995 年に合併)が破産を申し立てる。NILES は 1997〜98 年に Coburg の KAPP の傘下に入るFritz Werner & NILES[1]
1996年10月1852 年創業の Chemnitz の Union は民営化が何度も失敗し、働き手が自分たちで会社を作って 13 人で再出発する(のち 2011 年に Herkules グループ、2019 年末に Chemnitz の工場を閉じる)Union[2・p.9]
1999年EMAG が Leipzig の Pittler-Tornos と Ulm の Reinecker をグループに入れる。戦後に東西に分かれた 2 つの名門が同じ会社の中で続くNDB は Reinecker の EMAG 入りを 1995 年とする。EMAG の沿革(1999 年 1 月)を採ったEMAG・Pittler-Tornos・Reinecker[23][16]

よくある質問

戦争の空襲で、ドイツの工作機械はほとんど壊れたのですか?
いいえ。米国の戦略爆撃調査団は、空襲で建物が壊れても機械と工作機械の被害は建物よりずっと小さく、生産は早く戻ったとまとめています。戦後の打撃が大きかったのは、むしろ連合国による工場の解体と生産の上限(1946 年の計画では 1938 年の 11.4%)でした。とくにソ連占領地区では、Chemnitz の Wanderer の機械を運び出すのに貨車 509 両が要るほどの解体が行われました。
東ドイツの工作機械メーカーは、どこへ行ったのですか?
1949〜62 年に 43 社が会社ごと西へ移りました(Pfauter・Pittler・Reinecker の流れなど)。東に残った工場は VEB(人民所有企業)になり、Wanderer は VEB Fritz Heckert、Berlin の NILES は VEB 7. Oktober になって、のちに 3 つのコンビナートにまとめられます。1990 年の統一後は信託公社が売り先を探し、Heckert はスイスの Starrag、NILES は KAPP の傘下に入りました。
西ドイツが工作機械の輸出で世界一だったのは、いつですか?
戦前の 1913 年と 1937 年にはドイツが世界の輸出の 48% を占めていました。戦後は 1965 年に 28% で米国を上回り、UNIDO の表では 1978〜1989 年も毎年輸出額で世界一です。生産額では 1982 年から日本が世界一になりましたが、輸出では西ドイツが首位を守りました。いまもドイツは生産の 7 割以上を輸出しています。
EMO はいつから Hannover で開かれているのですか?
欧州の工作機械展は 1951 年に始まり、各国を回って開かれていました(1967 年には Hannover でも)。1975 年の Paris の回から「EMO」として欧州の外にも開かれ、EMO の名で初めての Hannover 開催は 1977 年です。いまは Hannover・Hannover・Milano の順で奇数年に開かれています。

この先と関係するページ

出典

研究書・論文・国際機関の資料・メーカーと博物館の沿革は、2026 年 10 月に各ページを確かめました。PDF の資料のページ番号は PDF のページです(Wissert 2023 は印刷ページ+12、Uhlmann 2020 は印刷ページ=PDF+143、Fleischer 1997 は印刷ページ+2)。国立国会図書館の資料は国産アーカイブと同じコマ番号です。強制労働の数字は、会社の沿革と研究に書かれたものだけを載せました。「世界初」は、本文で「〜とする」「〜と書く」としたものはメーカー自身の記述です。年は資料によって 1〜2 年ずれることがあり、どちらを採ったかは年表の注に書きました。

  1. KAPP NILES「Historie von KAPP NILES」(NILES の 1898 年からの年表)
  2. Wolfgang Uhlmann「Chemnitz – die Industriestadt in Sachsen. Ein Abriss zur Industrie- und Wirtschaftsgeschichte」『Sächsische Heimatblätter』66 巻 2 号(2020)144〜152 ページp. 6・7・8・9
  3. Thomas Wissert『Einführung der numerisch gesteuerten Werkzeugmaschinen in der Bundesrepublik Deutschland zwischen 1950 und 1980』Logos Verlag Berlin(2023、Stuttgart 大学の博士論文、オープンアクセス)p. 19・93・94・95・96・98・99・121・157・175・194・233・234・235・237
  4. 国立科学博物館 HITNET 産業技術史資料共通データベース「普通旋盤」(日本工業大学 工業技術博物館の収蔵品)
  5. HELLER「HELLER history」
  6. 『黒田精工:省力化にいどむ精密機器メーカー』(1970)コマ 72
  7. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ねじ研削盤 ドイツ ハーバート リンドナーFS1型、2型」
  8. Manfred Weck・Hans Starck「Opitz, Herwart Siegfried」『Neue Deutsche Biographie』19 巻(1999)550〜552 ページ
  9. Starrag Group「History」(Wanderer・Heckert の流れを含む沿革)
  10. UNIDO(国連工業開発機関)『The World Machine-Tool Industry. Background paper』ID/WG.516/4(1991 年 6 月 28 日、Prague の第 4 回資本財工業協議会)p. 51・52・64・89・90
  11. TRUMPF「History 1934–1949」
  12. Industriemuseum Chemnitz「Standortgeschichte – Von der Gießerei zum Museum」
  13. United States Strategic Bombing Survey『Summary Report (European War)』(1945 年 9 月 30 日、HyperWar の翻刻)p. 2・6・7
  14. GROB-WERKE「Historie」
  15. 『International Directory of Company Histories』「Gildemeister AG」(Encyclopedia.com 収録)
  16. 「Reinecker, Julius Eduard」『Neue Deutsche Biographie』(Deutsche Biographie)
  17. Guido Buenstorf・Christina Guenther「No place like home? Location choice and firm survival after forced relocation in the German machine tool industry」Jena Economic Research Papers 2007-053(2007)p. 3・11・13
  18. 「Pittler, Wilhelm von」『Neue Deutsche Biographie』(Deutsche Biographie)
  19. VDW(ドイツ工作機械工業会)「125 Jahre VDW: Ein Verein mit Tradition」
  20. 国際鉄道会議協会『Monthly Bulletin』28 巻 7 号(1951 年 7 月)「First European Machine Tool Exhibition」p. 474
  21. CECIMO(欧州工作機械工業協力委員会)「EMO History」
  22. 『Industrial Diamond Review』30 巻(1970)索引「European Machine Tool Exhibition, Paris, 11th」
  23. EMAG「History」
  24. 日本工作機械工業会『事業報告書 昭和44年度』(1970)コマ 3
  25. Manfred Fleischer『The Inefficiency Trap: Strategy Failure in the German Machine Tool Industry』edition sigma/WZB(1997)p. 36
  26. 日本工作機械工業会『成長、変革-。10年の記録 1982-91』(1992)コマ 21
  27. 米国 JPRS『West Europe Report: Science and Technology』JPRS-WST-84-001(1984 年 1 月 4 日。ドイツの工作機械業界についての欧州の誌面の記事の英訳)pp.35–36p. 35
  28. Industriemuseum Chemnitz「Die Sammlung」
  29. Deutsches Technikmuseum Berlin「Dauerausstellung Werkzeugmaschinen」
  30. Deutsches Museum「Werkzeugmaschinen – Grundlage für die Produktion von Gütern」
  31. VDW「Messen des VDW」(EMO Hannover と EMO Milano の開催の順)