USA 04NC の誕生とマシニングセンタ

NC(数値制御)は、刃物や工作物の動きを、職人の手やカムではなく数字の指令で動かすしくみです。今の CNC 旋盤やマシニングセンタの G コードは、どれもここから始まりました。その出発点は、ヘリコプターの羽根を作っていたミシガン州の小さな会社の思いつきと、米空軍の資金、そして MIT のサーボ機構研究所の研究でした。この章では、1949 年の空軍との契約、1952 年の最初の NC フライス盤、1959 年の APT 言語、1958 年の Milwaukee-Matic(工具を自動で替える最初のマシニングセンタ)、紙テープの規格、計算機が何台もの機械を動かす DNC、CNC とロボットまでを、MIT の報告書・特許・当時の業界誌・政府の報告で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典(スキャンのコマやページが分かるものは番号)を付けてたどります。

G コードの
ご先祖さまは
紙テープの穴!

マスコットのチップス

この章は「NC という制御がどう生まれ、どう広まったか」を軸にします。機械の種類としての NC 旋盤・NC フライス盤・マシニングセンタの移り変わりは、機種の章「アメリカの旋盤の系譜」と「アメリカのフライス盤・マシニングセンタの系譜」で詳しく扱います。日本の NC の歴史は国産アーカイブの第 1 章(NC 旋盤)と第 2 章(NC フライス盤・マシニングセンタ)に、今の G コード・M コードの意味はNC プログラムのコード表にまとめています。

Parsons の構想と MIT の NC フライス盤(1940〜1955 年)

ヘリコプターの羽根と IBM の計算機

話はミシガン州 Traverse City の Parsons Corp. から始まります。この会社は第二次世界大戦中、Sikorsky のヘリコプター R-5 のローターブレード(回転翼の羽根)の作り方を考え、その製造を請け負っていました[2][3]。羽根の断面は翼の形をしていて、正しい形かどうかを調べるには、断面の輪郭をかたどった型板(テンプレート)が要ります。型板の輪郭の点の座標は、翼の形の式から 1 点ずつ計算しなければなりません。

1947 年ごろ、社長の John T. Parsons と技術者の Frank L. Stulen は、この座標の計算を IBM のパンチカード式の計算機に任せ、出てきた数字の表に合わせて中ぐり盤のテーブルを手で動かし、型板の輪郭に細かく穴をあけていく方法を考えました[3][2][4]。計算した数字で機械の位置を決める、という発想です。そうであれば、数字をカードやテープに穴で記録し、それを読み取って機械を自動で動かせばよいのではないか――これが NC の考えの出発点になりました。

空軍の契約と MIT

Parsons はこの構想を 1949 年 1 月に米空軍に示し[5]、同じ年の 6 月に空軍の Air Materiel Command(AMC、資材本部)と、カードの数字で動くフライス盤を作る契約を結びました。Noble によると、6 月 15 日付で 20 万ドル・21 か月の契約です[4][5]。空軍が飛びついたのは、ジェット機の時代に入り、主翼の外板や桁のように、複雑な曲面を持つ大きな部品を正確に、たくさん削る必要が出てきたからです。MIT の報告書は、当初の目標を一体削り出しの主翼外板としています[6]。

Parsons は、サーボ(指令どおりに位置を追いかける制御)の専門家として MIT の Servomechanisms Laboratory(サーボ機構研究所)を下請けに選びました。研究所は 1940 年に Gordon S. Brown が作ったもので[1]、MIT での数値制御の研究は 1949 年 7 月に始まります[6]。ここで方針が大きく変わりました。Parsons の構想は、決めた点へ順に位置決めしていくものでしたが、MIT は 3 つの軸を同時に、連続して動かして曲面を削る方式に進んだのです[6]。

連続して動かす方式は、装置が大きくなり、お金も時間もかかります。1951 年 2 月、装置がおよそ 30% できたところで、Parsons Corp. は資金を打ち切りました。空軍の AMC が MIT と直接契約を結んで研究を引き継ぎ、この契約は 1960 年までおよそ 9 年続きます[6]。同じ年の 7 月には、1 つ目の軸を紙テープの指令だけで動かす制御の系ができました[6]。プロジェクトの技術者だった William M. Pease と James O. McDonough が「numerical control(数値制御)」という呼び名を付けた、と MIT の電気工学の通史は書いています[17]。

1952 年:Hydro-Tel を改造した NC フライス盤

1952 年 3 月、MIT の NC フライス盤が完成しました[6]。母機は政府が貸した Cincinnati の Hydro-Tel(油圧の倣いフライス盤)で、もとの駆動と制御の装置を外し、研究所で作った装置に取り替えたものです。テーブル・主軸頭・クロススライドの 3 つの動きをすべて数値で制御し、それぞれを同期させて、どんな経路でもたどれるようにしました。指令は穿孔紙テープで与えます[6]。

完成1952 年 3 月MIT サーボ機構研究所[6]
母機Cincinnati Hydro-Tel加工範囲 60×30×14 インチ[6]
制御装置真空管 約 270 本リレー 170 個・ダイオード 300 個[10]

制御装置は、真空管約 270 本、電話用のリレー 170 個、ゲルマニウムダイオード 300 個を縦のパネルに並べ、L 字形の架台に収めたものでした[10]。小さな部屋ほどの装置で、フライス盤 1 台を動かしていたわけです。研究所は 1952 年 9 月、航空機と工作機械の業界の人たちを招いて正式に公開しました。Noble によると 3 日間で 130 社から 215 人が見に来ています[4]。このとき配った説明の小冊子は、のちに増し刷りを重ねて 2,483 部が配られ、1956 年までに約 30 の団体と 3,000 人を超える人が MIT で機械を見ました[6]。同じ 9 月、Pease は一般向けの科学誌『Scientific American』に「An Automatic Machine Tool(自動の工作機械)」を書いています[9]。この記事は、のちに日本の NC の出発点にもなります(下の「日本とのつながり」)。

2 つの特許:位置決めとサーボ系

特許も 2 本あります。Parsons と Stulen は 1952 年 5 月 5 日に、数値で工作機械を位置決めする装置の特許を出し、1958 年 1 月 14 日に米国特許 2,820,187 として登録されました[7]。MIT 側は、Jay W. Forrester・Pease・McDonough・Alfred K. Susskind の 4 人が 1952 年 8 月 14 日に数値制御のサーボ系の特許を出し、1962 年 12 月 18 日に米国特許 3,069,608 として登録されます。登録の時点で、この特許の権利は John T. Parsons に移っていました[8]。Parsons は両方の特許を持ち、のちに Bendix に独占的に使わせます(次の節)[17]。Parsons は 1985 年に Stulen とともに米国の国家技術賞(National Medal of Technology)を受け、1993 年に全米発明家殿堂に入りました[70][27]。

Whirlwind と「テープを誰が作るか」という問題

機械が動いても、次の壁がありました。曲面を削るには、刃物の中心が通る経路を細かい点に分け、その 1 点 1 点の座標をテープに打たなければなりません。手で計算していたら、部品 1 つに何週間もかかります。MIT は、当時同じ大学で動いていた計算機 Whirlwind I で工具の経路を計算し、そのまま加工に使えるテープを出させました[10]。1952〜54 年に John H. Runyon が Whirlwind で使う計算の手順をそろえ、1955 年には Arnold Siegel が 2 次元の自動プログラミングを試作しています[6]。「機械を動かす」問題から「指令を作る」問題へ――NC の歴史はここで、計算機とソフトウェアの歴史と重なり始めます。

Numericord と、空軍の 100 台

工作機械メーカーも動きます。Wisconsin 州 Fond du Lac の Giddings & Lewis は 1953 年 7 月、MIT に商用の NC 装置の試作を頼み、装置は 1955 年 5 月に納められました[6]。同社は 1955 年 6 月、GE と組んだ磁気テープ式の NC「Numericord」で航空機用の翼桁・外板フライス盤を動かして空軍と航空機メーカーの人たちに見せ、商用に売り出すと発表しました[13][4]。紙テープではなく磁気テープを使うのは、計算機で作った細かい指令を、速く大量に送るためです。

そして 1955 年、空軍は NC フライス盤 100 台の製作の契約を出し始めました。1974 年の会計検査院(GAO)の報告は、総額を 3,500 万ドルとしています[12]。民間の工場がまだ様子を見ているうちに、軍が自分のお金で NC の市場をつくったのです。この点は、のちに歴史家の David F. Noble が鋭く問題にします(下の「Noble の問い」)。

NC の 3 つの動かし方。NC には、穴の位置へ次々に移る位置決め(ボール盤・中ぐり盤向き)、1 軸ずつまっすぐ削る直線切削、2 軸以上を同時に動かして斜めや円弧を削る輪郭制御があります。MIT の機械は最初から 3 軸の輪郭制御で、航空機の曲面を削るためのものでした。値段の安い位置決めの NC が町工場に広がるのは、もう少し後です。今の CNC の G00(早送り)・G01(直線補間)・G02/G03(円弧補間)は、この区別の名残です(コード表)。

APT と最初のマシニングセンタ(1956〜1959 年)

APT:部品の形を言葉で書く

1956 年 6 月、空軍は MIT との契約を、自動プログラミングの研究に組み替えました。3 軸・5 軸の輪郭削りの指令を、計算機に作らせる研究です[6]。担当したのは、研究所の Computer Applications Group を率いた Douglas T. Ross で、ここから APT(Automatically Programmed Tools)が生まれます[6][20]。APT では、プログラマが「この直線」「この円」「この平面」と部品の形と刃物の動かし方を言葉に近い書き方で書くと、計算機が工具の経路を計算してテープを作ります。いまの CAM の考え方そのものです。

APT は 1 つの研究所だけでは作りきれない大きなプログラムでした。航空機の会社の集まりである Aircraft Industries Association(AIA、航空機工業会)が共同作業を引き受け、1957 年 5 月には MIT に 14 社 21 人のプログラマが集まって、IBM 704 で動く APT II を分担して作ることになります。MIT は技術のとりまとめ役でした[6][5]。会社の枠を越えて 1 つのソフトを作る、今でいうオープンな共同開発の早い例です。

1959 年 2 月 25 日、MIT・空軍・AIA は MIT で APT の記者会見を開きました。IBM 704 で APT を動かして見せ、APT でプログラムして MIT の NC フライス盤で削ったアルミの灰皿を記者に配っています[6]。浮き文字で「APT II MIT AMC Feb 59」と入った灰皿は、いま Computer History Museum に所蔵されています[37]。

空軍の 105 台が工場へ

空軍が買った NC 機は、1957〜58 年に航空機メーカーの工場に配られました。1957 年 7 月の『American Machinist』の特集は、連続切削の NC 付きの大形工作機械 105 台と書いています。機械を作ったのは Cincinnati Milling Machine・Giddings & Lewis・Kearney & Trecker・Morey の 4 社、NC 装置は Bendix・GE・Giddings & Lewis(Numericord)・Electronic Control Systems・Cincinnati の 5 社でした[15][22]。Noble によると、105 台の内訳は 5 軸の万能輪郭フライス盤 5 台、3 軸のスキンミル(外板を削る大形機)24 台、3 軸のプロファイルミル 76 台です[4]。

Bendix と Parsons の特許

NC 装置の側では、航空機の電装品の会社 Bendix Aviation が 1956 年ごろ Parsons の特許の独占の権利を買い、空軍の契約で Kearney & Trecker の機械に NC 装置を納めていました[15][16]。Bendix は自社の計算機 G-15 を使ったテープ作成のシステムも、約 7 万ドル(月 1,900 ドルで借りることもできた)で売っています[15]。機械そのものと同じくらい「テープを作る道具」が商品になっていたことが分かります。

Burgmaster:タレットで工具を替えるボール盤

航空機の大物とは別に、穴あけの NC も広がります。California 州 Gardena の Burgmaster は、6 本または 8 本の主軸を並べたタレット(回転する刃物台)を回して工具を替えるボール盤を作っていました。1958 年 8 月の広告では、これに GE の数値制御を付け、穴あけ・タップ・中ぐりをテープの指令で続けて行う機械を売り込んでいます[29]。Holland の研究書によると、GE の NC を付けた最初の Burgmaster は GE 自身に売られました[30]。位置決めの NC と工具の自動交換の組み合わせは、マシニングセンタのすぐ手前の姿です。

1958 年:Milwaukee-Matic

そのマシニングセンタを最初に形にしたのが、Milwaukee の Kearney & Trecker(1898 年創業のフライス盤のメーカー)です[69]。社長の Francis J. Trecker は、航空機の Hughes から技術者 Wallace E. Brainard を招きました。Hughes は自社製の NC 装置を付けた 3 台の機械で部品を加工するラインと工具交換装置の開発を K&T に頼んでいて、Brainard はこの契約とともに 1956 年に K&T に移ります。Hughes の NC 装置がうまく動かず計画は打ち切られましたが、Brainard は K&T のチームを率い、工具交換装置と GE の NC を組み合わせた機械を設計しました[68][35]。

1958 年 6 月 27 日、Brainard ら 5 人は、工具を自動で取り替える工作機械の特許を出願します(1962 年 9 月 4 日に米国特許 3,052,011 として登録)[28]。この特許をめぐる Giddings & Lewis との裁判は、1971 年 10 月に控訴裁判所が、元の審査官を再発行の手続きに使ったことを不正として K&T の負けとしました[47]。そして 1958 年 10 月中旬、Connecticut 州 Hartford で開かれた AIEE(米国電気学会)の工作機械会議で、Brainard が Milwaukee-Matic を発表しました。いちばん新しいのは、円形の工具マガジンに約 30 本の工具を持ち、必要な工具を自動で主軸に付け替える装置です[31][32]。

初公開1958 年 10 月AIEE 工作機械会議(Hartford)[31][32]
工具マガジン約 30 本誌面で 30 本と 31 本に分かれる[31][33]
特許米国特許 3,052,0111958 年出願・1962 年登録[28]

売り出しは 1958 年 12 月です[34]。『American Machinist』が紹介した Model II は、GE の紙テープの NC で動き、主軸は前後・左右・上下(X 24・Y 21・Z 16 インチ)に動き、割り出しテーブルが工作物の向きを変えて、次の面を主軸に向けます[33]。同じ記事によると、交換アームが主軸の工具と次の工具を同時につかんで入れ替える 1 回の工具交換は 8.5 秒でした[33]。1 回取り付けた工作物に、フライス削り・穴あけ・リーマ・タップ・中ぐりを、工具を替えながら続けて行える――今のマシニングセンタの基本の形が、ここでそろいました。売れ行きもよく、売り出しから 1 年余りで受注 55 台・納入 30 台に達しています[34]。日本の『日本の技術100年』は Milwaukee-Matic を世界最初のマシニングセンタとし、年を 1957 年としています[24](当時の業界誌では、公開は 1958 年 10 月、特許の出願は同じ年の 6 月です)。

「マシニングセンタ」という名前

1959 年 1 月、K&T は業界誌の広告で Milwaukee-Matic を「a flexible automated machining center」と呼びました[36]。「マシニングセンタ」はここから機械の種類の名前として広まります。ただ、この言葉自体は 1950 年代の前半から「工場の加工の区画」の意味でも使われていて、K&T が最初に使ったとまでは言えません。

現場で何が変わったか。それまで、1 つの部品の穴あけ・フライス削り・ねじ立ては、別々の機械に工作物を持ち回って行うのが普通でした。持ち回るたびに段取りがあり、取り付け直すたびに位置がずれます。マシニングセンタは「工作物を動かさずに、工具を替える」ことで、段取りの回数と取り付けの誤差をまとめて減らしました。今の MC の ATC・工具番号(T コード)・工具長の補正は、この発想を細かく詰めていったものです(マシニングセンタの解説)。

規格と DNC(1959〜1972 年)

積み木式の NC:Mark Century

1950 年代の NC 装置は高価で、機械ごとの特注品でした。1960 年、GE は NC 装置 Mark Century を広告し、計算機なしで輪郭削りのプログラムを作れること、位置決め・輪郭制御などを積み木のように組み合わせて選べることを売りにしました[38]。NC 装置が「部品として買えるもの」になり、工作機械メーカーが自分の機械に載せて売る形が広がっていきます。MIT のサーボ機構研究所も 1959 年に Electronic Systems Laboratory と名前を変えました[1]。

EIA RS-274:G コードの元

NC が広がると、紙テープの書き方が機械や装置ごとにばらばらでは困ります。米国電子工業会(EIA)は 1963 年 1 月、位置決め用の RS-273 と輪郭削り用の RS-274 を決めました[39][40]。どちらも、「G01」「X12.5」のようにアドレスの文字+数字を並べて 1 つの指令の塊(ブロック)を作る「ワードアドレス」の書式で、ブロックの長さが自由に変えられます。これが今の G コード・M コードの元です。RS-274 は 1965 年の RS-274-A、1967 年の RS-274-B と改められ、RS-274-B は 1968 年に米国の国の規格(ANSI X8.2)になりました[39]。

古いプログラムを読むとき。RS-274 の時代のテープには、ブロックの番号(N)、準備機能(G)、座標(X・Y・Z)、送り(F)、主軸の回転(S)、工具(T)、補助機能(M)が決まった順で並びます。今の機械でも同じ順に書くのが読みやすいのは、この名残です。小数点のない座標(「X125」が 12.5mm か 0.125 インチか)で悩むのも、テープの時代の書き方が残っているからです(小数点の入力)。

DNC:計算機が何台もの機械を動かす

1960 年代の後半、テープを使わずに計算機から直接 NC 機へ指令を送る DNC(Direct Numerical Control、直接数値制御)が出てきます。安い小形計算機(ミニコン)が出てきたことが背景です。1970 年 10 月 2 日に閉幕したシカゴの工作機械見本市では、DNC がいちばんの呼び物で、70 以上の DNC システムが実演されました[46]。

同じ記事は、1960 年の見本市でデビューした NC 機が故障続きだったのに比べ、1970 年の DNC は「よく動いた」という GE の人の言葉を伝えています[46]。真空管がトランジスタと集積回路に替わり、NC の信頼性が上がっていたのです。Cincinnati Milling Machine は、この年の 1 月に Cincinnati Milacron と社名を変えていました[45]。

FMS の芽

計算機で機械を束ねる考えは、工作物の搬送まで含めた FMS(フレキシブル生産システム)へ進みます。1974 年の RAND の報告は、計算機が複数の NC 機を直接動かす例として K&T の System Gemini と Sundstrand の Omni-Control を、搬送まで計算機で結んだ例として英国 Molins の System 24 を挙げています[53](System 24 は英国の「NC・FMS と産業の縮小、そして再生」の章で扱います)。Brainard は K&T で、Gemini や Allis-Chalmers 向けの計算機を使った生産システムを手がけてから 1969 年に引退しました[35]。K&T は 1970 年のシカゴの見本市に旋削もできる複合加工機 TURN-12 も出しましたが、3 台作っただけで商品にはなりませんでした[43](国産アーカイブ第 7 章)。

CNC・ロボットと輸入の波(1973〜1991 年)

なかなか広まらなかった NC

空軍の後押しで始まった NC ですが、民間の工場への広まりはゆっくりでした。1972 年の NC 機の出荷額は 1 億 6,700 万ドルで、金属加工機械の出荷額の 15% です。1973 年に米国の工場で使われていた NC 機は推計約 21,000 台、そのうち約 2,400 台は政府の持ち物でした[12]。1983 年の米国国際貿易委員会(USITC)の報告は、商用の NC 機が 1950 年代半ばに出てから受け入れられるまで 20 年近くかかり、1976 年でも米国で使われている工作機械の 1% しか NC ではなかったと書いています。広まりを妨げたのは、NC 装置の値段と大きさでした[56]。

CNC と RS-274-D

集積回路が NC 装置を小さく安くし、さらに計算機を NC 装置の中に入れた CNC(Computer Numerical Control)へ進みます。米国では Cincinnati Milacron の制御装置の部門が 1973 年に最初の CNC を出し、工場の現場に初めてブラウン管の画面を持ち込みました[19]。USITC の報告は、CNC を「小形の計算機がプログラムを記憶し、NC 装置を補うか置き換えるもの」と説明し、いろいろな機械に合わせやすく、プログラムを作ったり呼び出したりしやすいことを利点に挙げています[56]。テープの書式も 1974 年 4 月の RS-274-C で、位置決め・直線切削・輪郭削りの別々の規格が 1 つにまとまり[39]、1979 年にまとまった RS-274-D(文書は 1980 年 2 月 8 日付)が、今も多くの CNC のプログラムの基本になっています[59][58]。1982 年、米国で使われている工作機械のうち NC はまだ約 2.2% でしたが、その年の工作機械の消費の金額では 36% を NC 機が占めていました[56]。台数は少なくても、高い機械はもう NC が当たり前になっていたのです。翌 1983 年の American Machinist の設備調査では、金属加工業の工作機械約 219 万台のうち NC 機は約 10 万 3,000 台(約 4.7%)で、1976〜78 年の前回の調査(約 5 万 2,900 台)から倍になっていました[62][63]。

T3:ミニコンで動くロボット

計算機で機械を動かす技術は、ロボットにも広がります。Cincinnati Milacron は 1974 年に産業用ロボットに参入し、ミニコンピュータで制御する T3 を出しました。1982 年まで、米国のロボットの市場の半分以上を、先に出ていた Unimation と Cincinnati Milacron の 2 社が占めています[49][50](開発は 1973 年、売り出しは 1974 年です[51][52])。工作機械のメーカーが、工作物の積み下ろしをするロボットまで作る時代になりました。

合併と輸入の波

1970 年代の終わりから、米国の工作機械メーカーは合併と輸入の波にさらされます。マシニングセンタを生んだ Kearney & Trecker は 1979 年にトランスファーマシンの Cross Company と合併して Cross & Trecker になり[57]、1991 年には Giddings & Lewis に買われました[66]。NC 装置では、Allen-Bradley が 1982 年にイタリアの Olivetti の NC 部門(OSAI)と欧州の事業を合わせる合弁で合意しています[56]。

USITC の報告によると、輸入が米国の工作機械の消費に占める割合は 1977 年の 17% から 1982 年には 30% 近くになり、日本からの輸入は 1 億 500 万ドルから 5 億 3,500 万ドルに増えました[56]。米国工作機械工業会(NMTBA)は 1983 年 3 月 10 日、国の安全保障を理由に輸入の制限を求める 232 条の調査を申し立て[64]、1986 年 12 月には日本と台湾がマシニングセンタ・NC 旋盤などの対米輸出を 1987 年から 5 年間自主規制することになります[65][60]。NC を生んだ国が、NC 機の輸入に悩む国になったのです。このいきさつは次の章「輸入の波と再生」で詳しくたどります。

記録再生か数値か:Noble の問い

NC の歴史には、よく引かれる批判があります。歴史家の David F. Noble は 1978 年の論文と 1984 年の本『Forces of Production(生産の力)』で、工作機械の自動化には NC のほかにもう 1 つの道があった、と論じました[71][4]。

それが record-playback(記録再生、教示再生)です。熟練した機械工が 1 個目の部品を削るときの動きを磁気テープに記録し、2 個目からはそれを再生して同じ動きをさせます。GE は 1940 年代の後半からこの方式を研究し、1954 年に製品にしました。GE はのちにこの系統を Mark シリーズと呼んでいます[11][4]。記録再生なら、プログラムを作るのは現場の熟練工自身で、計算機も数学の専門家も要りません。

NC は逆に、部品の形を数式と数字で表し、プログラムを技術部門(のちには計算機)で作ります。Noble は、2 つの方式は技術的にはどちらも成り立ったのに NC が選ばれたのは、プログラミングを現場から技術部門へ移し、工場の主導権を熟練工と組合から経営側へ移せる方式を、経営者と空軍が好んだからだ、と主張しました。空軍が MIT の開発と NC 機の購入にお金を出したことが、技術の進む向きを決めたというのです[71][4]。Noble は、GE の航空機エンジンの工場で、現場の労働者が NC 機の運用を自分たちで管理しようとした試み(Pilot Program)も詳しく描いています[4]。

当事者の側からの記録もあります。1953 年から MIT の研究所の所長を務めた J. Francis Reintjes は[1]、1991 年に NC の開発の経過を 1 冊の本にまとめました[72]。Noble の本と読み比べると、同じ出来事が違って見えてきます。どちらの読み方が正しいかは、この章では決めません。ただ、NC は「職人の技を数字に置き換える」技術として生まれ、その置き換え方をめぐって当時から議論があったことは、今の現場にも通じる話です。CAM が出す工具経路と、ベテランが手で書く短いプログラムのどちらを使うか――この問いの根は 1950 年代にあります。

日本とのつながり

1 冊の雑誌から始まった日本の NC

日本の NC は、MIT の報告を読むところから始まりました。ファナックの成長を追った東北大学の論文によると、1956 年 10 月、早稲田大学で開かれた自動制御の会議で、カリフォルニア大学の高橋安人が富士通信機製造の稲葉清右衛門に、NC フライス盤を紹介した『Scientific American』を見せました。稲葉は、MIT の報告がしばらく研究の「バイブル」になったと振り返っています[21]。記事の題は書かれていませんが、時期と内容から、1952 年 9 月号の Pease の記事とみられます[9]。富士通信機製造は 1956 年に民間で初めて NC とサーボの開発に成功し、1958 年に商用 1 号機を牧野フライス製作所に納めて、日本最初の NC フライス盤ができました[18][26](国産アーカイブ第 2 章)。

大学も早くから動きます。東京工業大学の精密工学研究所は 1957 年 2 月に NC 旋盤の試作に成功しました。日本で最初の NC 旋盤です[24][25](国産アーカイブ第 1 章)。マシニングセンタでは、日立製作所のグループが 1960 年に 2 本の腕で工具を持ち替える ATC(工具 8 本)付きの NC 万能工作機を作り、『日本の技術100年』はこれを国産の MC の第 1 号とし、米国とほぼ同じ時期に日本の技術者も MC を考えていたと書いています[24]。1968 年の新潟鉄工所の MC 50DIU は、話題になっていた米 Sundstrand の MC「オムニミル」の情報も検討したうえで自社で開発されました[42]。

開ループのパルスモーター

富士通は、米国とは違う道も選びました。1959 年に電気・油圧パルスモーターを完成させ[18]、位置の検出器を付けない開ループの NC を進めます。米国の NC の多くが直流モーターと検出器を使う閉ループだったのと逆の選び方で、装置を安く簡単にできました[21]。1972 年に富士通の NC 部門は富士通ファナックとして独立し、CNC を発表します。このころ GE と富士通はそれぞれ年に約 2,000 台の NC 装置を作っていたといいます[18][19]。1974 年には米 Gettys 社との契約で直流サーボモーターの製造・販売を始め、社長の稲葉は米国の NC の協会(Numerical Control Society)の賞を受けました[18]。

輸出、そして GE Fanuc

1970 年、山崎鉄工所(いまのヤマザキマザック)の NC 旋盤 MTC-2500R が、国産の NC 旋盤として初めて米国へ輸出されます[44]。1975 年には松浦機械製作所が立形 MC MC-750V の米国への輸出を始めました[54][55]。ファナックは 1977 年に米国に FANUC America を作り、1982 年には General Motors と合弁で GMFanuc Robotics を作ります[18]。同じ 1982 年、日本の工作機械の生産額は米国を抜いて世界一になりました[60][61]。

そして 1986 年、GE とファナックは折半出資で GE Fanuc Automation を作ります。本社は Virginia 州 Charlottesville[21]。1970 年に DNC の CommanDir を作っていた GE の製造自動化の部門があった町です[46]。MIT の記事を読んで NC を始めた日本の会社が、30 年後には NC の本家の一つだった GE と対等の合弁を組むまでになりました。合弁は 2009 年に解消されています[18]。

日本の NC の「最初」と米国の「最初」。米国の最初の NC フライス盤(MIT、1952 年 3 月)から日本の最初の NC 旋盤(東京工業大学、1957 年 2 月)・NC フライス盤(牧野と富士通、1958 年)まではおよそ 5〜6 年、Milwaukee-Matic(1958 年 10 月)から日立のグループの ATC 付き NC 機(1960 年)までは 2 年ほどです。ただし、試作・製品・量産のどれを数えるかで「最初」の年は変わります。国産アーカイブの第 1 章と第 2 章の注もあわせてどうぞ。

⑂系図

NC の歴史に出てくる研究所と会社の、名前の移り変わりです。帯の色が変わるところで名前が変わり、赤い矢印は事業の行き先です。Cross & Trecker は 1991 年に Giddings & Lewis に買われ、Burgmaster は 1965 年に Houdaille Industries に買われて、その一部門になりました(どちらも買った側の帯は、創業の年を確かめきれなかったので描いていません)[66][30]。Cincinnati・Giddings & Lewis・GE のその後は次の章で扱います。

18801900192019401960198020002020MIT Servomechanisms LaboratoryElectronic Systems LaboratoryLIDSKearney & TreckerCross & TreckerBurgmasterHoudaille が買収富士通信機製造の NC 部門富士通ファナックファナックGMFanuc Robotics全額出資にGE Fanuc Automation合弁を解消帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [1][6][69][57][66][30][41][18][21]

見に行ける所

米国の最初の NC フライス盤そのものが見られる所は、確かめられませんでした。NC の始まりに関わる物と場所を挙げます。公開日・展示の有無は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

Computer History MuseumMountain View(California 州)1959 年の APT の記者会見で配った記念の灰皿(APT でプログラムし MIT の NC フライス盤で削ったアルミの灰皿。浮き文字は「APT II MIT AMC Feb 59」、Douglas Ross の寄贈)と、1980 年の EIA 規格 RS-274-D の文書を所蔵。展示されているかは行く前に確かめを[37][58]
American Precision MuseumWindsor(Vermont 州)1846 年の Robbins & Lawrence の兵器工場の建物を使った工作機械の博物館(ASME の機械工学遺産 #119)。運営する Machine Tool Hall of Fame(Web の『The Manufacturing Ledger』)に、John T. Parsons(1994 年)、Milwaukee-Matic を進めた Francis J. Trecker(1994 年)と設計者の Wallace E. Brainard(2000 年)が選ばれている。NC 機の展示は確かめられていない[67][3][68][35]
MIT Kresge AuditoriumCambridge(Massachusetts 州)1959 年 2 月 25 日に MIT・空軍・航空機工業会が APT の記者会見を開いた講堂(会見は中の Little Theater)。MIT のキャンパスにあり、外から見られる[6]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(番号が分かるものはそのページ)が開きます。「コマ」はスキャンの通し番号(Internet Archive の報告書・業界誌と、国立国会図書館の資料)、「p.」は本や論文のページです。

Parsons と MITAPT と MC規格と DNCCNC とロボット輸入と再編19401950196019701980199019471949195219551957195919631970197419801986黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

Parsons の構想と MIT の NC フライス盤1940〜1955 年

年出来事メーカー・機種出典
1940年Gordon S. Brown が MIT(Massachusetts 工科大学)に Servomechanisms Laboratory(サーボ機構研究所)を作る。のちの NC フライス盤の研究の舞台1939 年とする MIT の記事もある。名前は 1959 年に Electronic Systems Laboratory、1978 年に LIDS に変わるMIT[1]
1944年Michigan 州 Traverse City の Parsons Corp. が、Sikorsky のヘリコプター R-5 のローターブレードの作り方を考え、ブレードの製造を請け負うParsons Corp.[2][3]
1947〜48年★John T. Parsons と Frank L. Stulen が、ローターブレードの検査用の型板の座標を IBM のパンチカード式の計算機で計算し、表にした点に合わせて中ぐり盤で型板を削る方法を考える。座標の数字で機械を動かすという NC の考えの出発点年は資料で 1946〜48 年に分かれる。Machine Tool Hall of Fame と IEEE の Computer Pioneers は 1947 年Parsons Corp.[2][3][4]
1949年1月Parsons が、パンチカードやテープの穴の数字で工作機械の複数の動きを制御する構想を米空軍に初めて示すParsons Corp.[5・コマ69]
1949年6月★空軍の Air Materiel Command(AMC、資材本部)が Parsons Corp. と、カードで動くフライス盤を作る開発契約を結ぶ(6 月 15 日、20 万ドル・21 か月)日付は Noble による。Ross(1978)は 7 月、1974 年の GAO の報告は 1948 年とする。1 月=提案、6 月=契約、7 月=MIT の作業開始と読むと資料が合うParsons Corp.[5・コマ69][4][6・コマ110]
1949年7月MIT のサーボ機構研究所が Parsons の下請けとして数値制御の研究を始める(最初の契約は 1949 年 7 月 1 日〜1950 年 6 月 30 日)。Parsons の構想の位置決めではなく、3 つの動きを同時に連続して制御する方式に進むMIT Servomechanisms Laboratory[6・コマ73][6・コマ75]
1951年2月費用が見積もりを大きく超え、Parsons Corp. が資金を打ち切る(装置はおよそ 30% の出来)。空軍が MIT と直接契約し(AF33(038)-24007)、研究を引き継ぐMIT Servomechanisms Laboratory[6・コマ73][6・コマ79][6・コマ11]
1951年7月フライス盤の 1 つ目の軸を、紙テープの指令だけで動かす制御の系ができるMIT Servomechanisms Laboratory[6・コマ79]
1952〜55年MIT の計算機 Whirlwind I で工具の経路を計算し、テープを作る。1952〜54 年に John H. Runyon が計算の手順をそろえ、1955 年に Arnold Siegel が 2 次元の自動プログラミングを試作するMIT[6・コマ12]
1952年3月★MIT の NC フライス盤が完成する。政府が貸した Cincinnati の Hydro-Tel(倣いフライス盤)の駆動と制御を取り替え、テーブル・主軸頭・クロススライドの 3 つの動きを穿孔紙テープで同時に制御する。加工範囲は 60×30×14 インチ(約 1,520×760×360mm)MIT Servomechanisms LaboratoryCincinnati Hydro-Tel を改造[6・コマ73][6・コマ79][6・コマ117]
1952年5月Parsons と Stulen が、数値で工作機械を位置決めする装置の特許を出願する(5 月 5 日。米国特許 2,820,187)Parsons Corp.[7]
1952年8月MIT の Jay W. Forrester・William M. Pease・James O. McDonough・Alfred K. Susskind が、数値制御のサーボ系の特許を出願する(8 月 14 日。米国特許 3,069,608)MIT[8]
1952年9月★MIT が航空機・工作機械の業界の人たちに NC フライス盤を正式に公開する。Noble によると 3 日間で 130 社から 215 人が見に来た。説明の小冊子は 2,483 部が配られたMIT Servomechanisms Laboratory[6・コマ73][6・コマ94][4]
1952年9月William Pease が『Scientific American』9 月号に「An Automatic Machine Tool」を書き、MIT の NC フライス盤を一般に紹介する—[9]
1952年12月McDonough と Susskind が計算機の学会で NC フライス盤を発表する。制御装置は真空管約 270 本・電話用リレー 170 個・ゲルマニウムダイオード 300 個を L 字形の架台に並べたもの「真空管 250 本・リレー 175 個」と書く資料もあるが、当事者の 1952 年の論文の値を採ったMIT Servomechanisms Laboratory[10・コマ139]
1953年7月Giddings & Lewis(Fond du Lac, Wisconsin 州)が MIT に、商用の NC 装置の試作を依頼する。装置は 1955 年 5 月に Giddings & Lewis へ納められるGiddings & Lewis[6・コマ74][6・コマ84]
1954年GE が、熟練工の動きを磁気テープに記録して再生する制御(record-playback、教示再生)を製品にする。GE はのちにこの系統を Mark シリーズと呼ぶ研究は 1940 年代後半から(Noble)。製品にした年は American Machinist によるGeneral Electric[11][4]
1955年空軍が NC フライス盤 100 台の製作の契約を出し始める(総額 3,500 万ドル)。民間の需要より先に、軍が NC の市場をつくる—[12]
1955年6月★Giddings & Lewis が、GE と組んだ磁気テープ式の NC「Numericord」で航空機用の翼桁・外板フライス盤を動かして見せ、商用に売り出すと発表する1955 年 9 月のシカゴの工作機械見本市で公開したとする話は、当時の誌面では確かめられなかったGiddings & LewisNumericord[13・コマ66][4][14]

APT と最初のマシニングセンタ1956〜1959 年

年出来事メーカー・機種出典
1956年ごろBendix Aviation が Parsons の特許の独占の権利を買い、空軍の契約で Kearney & Trecker の機械に NC 装置を納めるNoble は対価を 100 万ドルと使用料とする(ほかの資料で確かめられない)Bendix Aviation[15・コマ149][16・コマ187][17]
1956年3月MIT が NC フライス盤の 2 冊目の最終報告をまとめる。それまでに約 30 の団体と 3,000 人を超える人が MIT で機械を見て、夏の講習も 2 回開いたMIT[6・コマ92]
1956年6月★空軍の契約を自動プログラミングの研究に組み替える。Douglas T. Ross の Computer Applications Group が、のちの APT(Automatically Programmed Tools)を作り始めるRoss 自身の 1959 年の記事は「1956 年秋に集中研究を始めた」と書くMIT[6・コマ12][20]
1957〜58年★空軍が買った連続切削の NC 付きの大形工作機械 105 台が、航空機メーカーに配られる。機械は 4 社、NC 装置は Bendix・GE・Giddings & Lewis(Numericord)・Electronic Control Systems・Cincinnati。最初に調達した 63 台に、型板の倣いから NC に改造したプロファイルミル 42 台を足した数で、NC の開発を含めた空軍の計画の費用は 1958 年末までに約 3,000 万ドルでした1957 年 10 月の記事は「約 100 台」。内訳は Mechanical Engineering 1959 年 5 月(Webster)がスキンミル 24 台・プロファイルミル 81 台、Noble が 5 軸 5 台・スキンミル 24 台・プロファイルミル 76 台とする。費用は American Aviation 1958 年 12 月 15 日による(GAO は 1955 年に 100 台・3,500 万ドルの契約を出し始めたとする)Cincinnati・Giddings & Lewis・Kearney & Trecker・Morey[15・コマ152][22・コマ161][4][5・コマ70][23・コマ13]
1957年5月Aircraft Industries Association(AIA、航空機工業会)の共同作業として、MIT に 14 社 21 人のプログラマが集まり、IBM 704 で動く APT II を分担して作ることにする(1 月の報告、4 月の Los Angeles の会合を経て)—[6・コマ47][6・コマ49][5・コマ71]
1957年7月Bendix が、自社の計算機 G-15 を使った NC テープの作成システムを約 7 万ドル(月 1,900 ドルの貸し出しも)で売るBendix AviationG-15[15・コマ163]
1958年1月Parsons と Stulen の特許 2,820,187 が登録されるParsons Corp.[7][27]
1958年6月Kearney & Trecker の Wallace E. Brainard ら 5 人が、工具を自動で取り替える工作機械の特許を出願する(6 月 27 日。米国特許 3,052,011)Kearney & Trecker[28]
1958年8月Burgmaster(Gardena, California 州)が、6 本の主軸を並べたタレットを回して工具を替えるボール盤に GE の数値制御を付けた機械を広告する。穴あけ・タップ・中ぐりをテープで続けて行うBurgmaster2BH-T[29・コマ43][29・コマ44][30]
1958年10月★Kearney & Trecker が、Hartford(Connecticut 州)での AIEE(米国電気学会)の工作機械会議で Milwaukee-Matic を初めて公開する。円形の工具マガジンに約 30 本の工具を持ち、工具を自動で取り替えながらフライス削り・穴あけ・リーマ・タップ・中ぐりを 1 台で行う。いまのマシニングセンタの原形工具の本数は誌面で 30 本と 31 本に分かれる。『日本の技術100年』は 1957 年とするKearney & TreckerMilwaukee-Matic[31・コマ66][32・コマ93][33・コマ130]
1958年12月Milwaukee-Matic が売り出される。Model II は GE の紙テープの NC で、主軸は 3 方向(X 24・Y 21・Z 16 インチ)に動き、割り出しテーブルが工作物の向きを変える。American Machinist の紹介では、腕が古い工具と次の工具を同時につかんで入れ替え、1 回の工具交換は 8.5 秒でした交換時間は American Machinist 1958 年 12 月 15 日 p.129 による(ほかの資料では未確認)。同じ記事はマガジンを 31 本とし、Automotive Industries の会議の報告は 30 本とするKearney & TreckerMilwaukee-Matic Model II[34・コマ33][33・コマ130][35]
1959年Milwaukee-Matic の売り出しから 1 年余りで受注 55 台・納入 30 台。設計者として Wallace Brainard の名が出るKearney & TreckerMilwaukee-Matic[34・コマ33]
1959年1月Kearney & Trecker の広告が Milwaukee-Matic を「flexible automated machining center」と呼ぶ。「マシニングセンタ」が機械の種類の名前として広まっていくこの言葉自体は 1950 年代前半に「工場の加工の区画」の意味でも使われていて、K&T が最初に使ったとは言えないKearney & Trecker[36・コマ58]
1959年2月★MIT で APT の記者会見(2 月 25 日)。IBM 704 で APT を動かして見せ、APT でプログラムして MIT の NC フライス盤で削ったアルミの灰皿を記者に配るMIT・AMC・AIA[6・コマ132][6・コマ134][37][20]

規格と DNC1959〜1972 年

年出来事メーカー・機種出典
1959年MIT のサーボ機構研究所が Electronic Systems Laboratory に名前を変えるMIT[1][6]
1960年9月GE が NC 装置 Mark Century を広告する。計算機なしで輪郭削りのプログラムを作れ、位置決め・輪郭制御を組み合わせて選べる「積み木式」の装置General ElectricMark Century[38・コマ109]
1962年9月Brainard らの工具交換の特許 3,052,011 が登録されるKearney & Trecker[28]
1962年12月MIT の 4 人の数値制御のサーボ系の特許 3,069,608 が登録される。権利は John T. Parsons に移っていたMIT[8]
1963年1月★米国電子工業会(EIA)が NC の紙テープの書式の規格 RS-273(位置決め)と RS-274(輪郭削り)を決める。アドレスの文字と数字を並べる「ワードアドレス」の書式で、G コード・M コードの元—[39・コマ53][40・コマ280]
1965年10月タレットボール盤の Burgmaster が、複合企業 Houdaille の一部門になります。6 月 7 日に両社が合併を発表し、10 月の終わりに株主が承認しました。親会社の管理のもとで、家族経営だった工場のやり方は変わっていきましたHolland 1989 の本文の断片による。Blackford 2003 は Burg Tool を 1946 年に共同経営として始め、1986 年になくなったとする(Holland の創業年は 1944 年)Burgmaster・Houdaille[30][41]
1967年RS-274 の改訂版 RS-274-B ができる(1965 年の RS-274-A に続く版)。翌 1968 年に米国の国の規格 ANSI X8.2 になる—[39・コマ53]
1970年Kearney & Trecker がシカゴの見本市に、旋削もできる複合加工機 TURN-12 を出す。1 億円の機械として注目されたが、3 台作っただけで商品にはならなかったKearney & TreckerTURN-12[43]
1970年1月The Cincinnati Milling Machine Co. が Cincinnati Milacron に社名を変えるCincinnati Milacron[45][46]
1970年10月★シカゴの工作機械見本市で、計算機が何台もの NC 機を直接動かす DNC(直接数値制御)が 70 以上実演される。GE の CommanDir(10 台)、Sundstrand の Omnicontrol、Cincinnati Milacron の DNC、K&T の System Gemini(ミニコンで 8 台まで)など。1960 年の見本市で故障続きだった NC と比べ、よく動いたと報じられるGE・Sundstrand・Cincinnati Milacron・Kearney & Trecker[46]
1971年10月Kearney & Trecker が Brainard の工具交換の特許(再発行 Re. 25,737)で Giddings & Lewis を訴えた裁判で、控訴裁判所が 10 月 28 日に地裁の判決を覆します。特許を許した元の審査官が退官後に K&T の再発行の手続きを手伝ったことが不正とされ、K&T は権利を使えなくなりました。最高裁は 1972 年 4 月 17 日に上告を受け付けませんでした地裁(1969 年、306 F.Supp. 189)は請求項 15・19・20 を有効で侵害ありとしていた。控訴裁は再発行で足した請求項 36〜60 を無効とし、15・19・20 も行使できないとしたKearney & Trecker・Giddings & Lewis[47]
1972年NC 工作機械の出荷額が 1 億 6,700 万ドルになり、金属加工機械の出荷額の 15% を占める—[12]

CNC・ロボットと輸入の波1973〜1991 年

年出来事メーカー・機種出典
1973年米国の工場で使われている NC 機は推計約 21,000 台。そのうち約 2,400 台は政府が持つもの約 3 万台とする推計もある(数え方の違いとみられる)—[12]
1973年Cincinnati Milacron の制御装置の部門が、最初の CNC(計算機を組み込んだ数値制御)を出し、工場の現場に初めてブラウン管の画面を持ち込みます。元になったのは 1970 年に出したミニコンピュータ CIP/2000 で、1974 年にはマシニングセンタ向けの CNC の手引き書もできていました年は American Machinist 1998 の部門史による。1965 年の Acramatic IV(集積回路を使った NC)と 1969 年の Acramatic 5 は計算機を持たない配線式の NC。CNC を積んだ最初の機種名は未確認Cincinnati MilacronAcramatic CNC[19][48]
1974年★Cincinnati Milacron が産業用ロボットに参入し、ミニコンピュータで制御する T3 を売り出す。1982 年まで、Unimation と Cincinnati Milacron の 2 社で米国のロボット市場の半分以上を占めるOTA 1984 は「1973 年に Richard Hohn の率いる Cincinnati Milacron が T3 を開発した」、1981 年のシンポジウムの記録は「ミニコンで制御するロボットを 1974 年に商品にした」と書く。開発 1973 年・売り出し 1974 年と読めるCincinnati MilacronT3[49・コマ59][49・コマ57][50][51][52]
1974年RAND の報告が、計算機が複数の NC 機を直接動かす例として K&T の System Gemini と Sundstrand の Omni-Control を、搬送まで計算機で結んだ例として英国 Molins の System 24 を挙げる—[53・コマ18]
1974年4月EIA が RS-274-C を承認する。位置決め・直線切削・輪郭削りの別々の書式(RS-273-B・RS-326-A・RS-274-B)を 1 つにまとめる—[39・コマ53]
1976年米国で使われている工作機械のうち NC 機はわずか 1%。商用の NC 機が出てから 20 年近くたっても、広まりはゆっくりだった—[56・コマ28]
1979年Kearney & Trecker が、トランスファーマシンの Cross Company と合併して Cross & Trecker になる合併は 1979 年の初め。司法省は 1979 年 9 月に合併の取り消しを求めて訴えた(Profiles 1982)Cross & Trecker[57・コマ74][57・コマ90]
1980年2月★EIA の規格 RS-274-D の文書ができる(2 月 8 日付)。中身は 1979 年にまとまっていた。いまも多くの CNC のプログラムの基本になっている書式—[58][59]
1982年米国で使われている工作機械のうち NC 機は約 2.2%。出荷台数では約 3.5% だが、金額では工作機械の消費の 36% を占める—[56・コマ28][56・コマ29]
1982年Allen-Bradley が、イタリアの Olivetti の NC 部門(OSAI)と欧州の NC 事業を合わせる合弁で合意するAllen-Bradley[56・コマ88]
1983年American Machinist の第 13 回の設備調査:金属加工業で使われている工作機械約 219 万台のうち、NC 機は約 10 万 3,000 台(約 4.7%)。マシニングセンタは 24,003 台、NC 旋盤は 33,352 台。前回(1976〜78 年)の NC 機は約 5 万 2,900 台(2.0%)で、5 年ほどで倍になったどちらも NMTBA の Economic Handbook に収められた American Machinist の Inventory の表による。1983 年の NC 機の内訳は金属を削る機械 94,012 台・板金などの成形機 9,296 台—[62・コマ270][62・コマ273][63・コマ267]
1983年3月米国工作機械工業会(NMTBA)が、輸入の工作機械が国の安全保障を損なうとして、1962 年通商拡大法 232 条による調査を商務長官に申し立てる(3 月 10 日)—[64][65]
1983年9月USITC の報告:輸入が米国の工作機械の消費に占める割合は 1977 年の 17% から 1982 年には 30% 近くに。日本からの輸入は 1 億 500 万ドルから 5 億 3,500 万ドルに増える—[56]
1986年12月日本と台湾が、マシニングセンタ・NC 旋盤などの対米輸出を 1987 年 1 月から 5 年間自主規制することで合意したと、米大統領が声明を出す—[65][60・コマ14]
1991年Giddings & Lewis が Cross & Trecker を買収する。マシニングセンタを生んだ Kearney & Trecker の流れは Giddings & Lewis に入るGiddings & Lewis[66]

日本とのつながり1956〜1986 年

年出来事メーカー・機種出典
1956年富士通信機製造が民間で初めて NC とサーボの開発に成功する(制御の開発チームは 1955 年に発足)富士通信機製造[18][19]
1956年10月★早稲田大学の自動制御の会議で、カリフォルニア大学の高橋安人が富士通信機製造の稲葉清右衛門に、NC フライス盤を紹介した『Scientific American』を見せる。MIT の報告はしばらく富士通の NC の研究の「バイブル」になった記事は 1952 年 9 月号の Pease の記事とみられる(Shibata は題を書いていない)富士通信機製造[21・p.5][21・p.6]
1957年2月東京工業大学の精密工学研究所が NC 旋盤の試作に成功する。日本で最初の NC 旋盤。米国の研究の報告が届いて、大学と国の研究所が先に試作を始めた東京工業大学[24・コマ75][25・コマ34]
1958年富士通信機製造の NC の商用 1 号機を牧野フライス製作所に納め、日本最初の NC フライス盤ができる牧野フライス製作所・富士通信機製造[18][26]
1959年富士通が電気・油圧パルスモーターを完成させる。米国の多くの NC が直流モーターと位置の検出器を使う閉ループだったのに対し、検出器のない開ループで安く作る道を選ぶ富士通信機製造[18][21・p.7]
1960年日立製作所のグループが、2 本の腕で工具を持ち替える ATC(工具 8 本)付きの NC 万能工作機を作る。『日本の技術100年』は国産のマシニングセンタの第 1 号とし、米国とほぼ同じ時期に日本の技術者も MC を考えていたと書く日立製作所[24・コマ92]
1968年9月新潟鉄工所がマシニングセンタ 50DIU を完成させる。話題になっていた米 Sundstrand の MC「オムニミル」の情報も検討したうえで自社で開発した新潟鐵工所50DIU[42]
1970年山崎鉄工所(いまのヤマザキマザック)の NC 旋盤 MTC-2500R が、国産の NC 旋盤として初めて米国へ輸出される(2024 年に機械遺産)山崎鉄工所MTC-2500R[44]
1972年富士通の NC 部門が富士通ファナックとして独立し、CNC を発表する。このころ GE と富士通はそれぞれ年に約 2,000 台の NC 装置を作っていた富士通ファナック[18][19]
1974年富士通ファナックが米 Gettys 社との契約で直流サーボモーターの製造・販売を始める。社長の稲葉清右衛門が米国の NC の協会(Numerical Control Society)の賞を受ける富士通ファナック[18][21・p.5]
1975年松浦機械製作所が立形マシニングセンタ MC-750V の米国への輸出を始める松浦機械製作所MC-750V[54][55]
1977年富士通ファナックが米国に現地法人 FANUC America を作る富士通ファナック[18]
1982年ファナックが General Motors と合弁で GMFanuc Robotics を作る(1992 年にファナックの全額出資の FANUC Robotics に)ファナック・General Motors[18]
1982年日本の工作機械の生産額が米国を抜いて世界一になる—[60・コマ9][60・コマ22][61]
1986年★GE とファナックが折半出資で GE Fanuc Automation を作る。本社は GE の NC の拠点だった Virginia 州 Charlottesville。CNC と PLC を扱う(2009 年に合弁を解消)GE・ファナック[18][46][21・p.16][19]

よくある質問

NC(数値制御)を発明したのは誰ですか?
数字で工作機械を動かす構想を出したのは John T. Parsons と Frank L. Stulen(Parsons Corp.)で、1949 年に米空軍と開発の契約を結び、1952 年に位置決めの装置の特許を出しました(1958 年に米国特許 2,820,187)。3 つの軸を同時に連続して動かす最初の NC フライス盤を作ったのは MIT のサーボ機構研究所で、1952 年 3 月に完成しています。構想は Parsons、実際の輪郭制御の機械は MIT、と分けて考えるのが資料に合います。
世界最初のマシニングセンタは何ですか?
工具マガジンから工具を自動で取り替える NC 機として最初に知られるのは、Kearney & Trecker(Milwaukee)の Milwaukee-Matic です。1958 年 10 月の AIEE の工作機械会議で公開され、12 月に売り出されました。約 30 本の工具を持ち、割り出しテーブルで工作物の向きを変えながら、フライス削り・穴あけ・リーマ・タップ・中ぐりを 1 台で行えました。
G コードはいつ決まったのですか?
アドレスの文字と数字を並べる今の書き方の元は、米国電子工業会(EIA)が 1963 年 1 月に決めた紙テープの規格 RS-274(輪郭削り用)と RS-273(位置決め用)です。その後 RS-274-A(1965 年)、RS-274-B(1967 年)、RS-274-C(1974 年)と改められ、1979 年にまとまった RS-274-D が今も多くの CNC のプログラムの基本になっています。
APT とは何ですか?今の CAM とどう関係しますか?
APT(Automatically Programmed Tools)は、MIT の Douglas T. Ross らが 1956 年から作った NC のプログラミング言語です。部品の形と刃物の動かし方を言葉に近い書き方で書くと、計算機が工具の経路を計算してテープを作ります。1957 年から航空機の会社が共同で開発し、1959 年 2 月に MIT で公開されました。図形から工具経路を計算させる考え方は、今の CAM にそのまま受け継がれています。

この先と関係するページ

出典

MIT の報告書・当時の業界誌・政府の報告は、Internet Archive のスキャンで 2026 年 10 月に確かめ、使ったコマ(0 から数える画像の番号)を書いています。特許は特許の公報で出願日と登録日を確かめました。貸出だけの本(Noble・Holland など)は全文検索の抜き出しで確かめたため、ページ番号を付けていません。日本の資料は国産アーカイブと同じ出典(国立国会図書館の資料はコマ番号)です。「最初の」は、試作・公開・特許・売り出しのどれかを本文に書き分けています。

  1. MIT Laboratory for Information and Decision Systems「History」(Servomechanisms Laboratory からの名前と所長の移り変わり)
  2. J. A. N. Lee『Computer Pioneers』(IEEE Computer Society, 1995)「John T. Parsons」
  3. American Precision Museum『The Manufacturing Ledger』Machine Tool Hall of Fame「John T. Parsons」(1994 年選出)
  4. David F. Noble『Forces of Production: A Social History of Industrial Automation』Knopf(1984)Internet Archive では貸出のみで、本文は全文検索の抜き出しで確かめた。章の範囲:5・6 章 By the Numbers pp.79-143、7 章 The Road Not Taken pp.144-192、8 章 Development pp.195-211、11 章 Who's Running the Shop? pp.265-323(Routledge 2017 年版の章の DOI による)
  5. 『Mechanical Engineering』81 巻 5 号(ASME、1959 年 5 月)。W. M. Webster「Air Force Participation」、D. T. Ross「The APT Joint Effort」ほか数値制御の特集コマ 69・70・71番号はスキャンのコマ
  6. J. E. Ward『Automatic Programming of Numerically Controlled Machine Tools』MIT Electronic Systems Laboratory 最終報告 6873-FR-3(1960 年 1 月 15 日、空軍契約 AF-33(038)-24007、DTIC AD0241754)。1952 年の最終報告 FR-1、1956 年の FR-2、1959 年 2 月の APT 記者会見の記録を付録に再録コマ 11・12・47・49・73・74・75・79・84・92・94・110・117・132・134番号はスキャンのコマ(Internet Archive の 0 から数える画像の番号)
  7. 米国特許 2,820,187「Motor controlled apparatus for positioning machine tool」John T. Parsons・Frank L. Stulen、Parsons Corporation(1952 年 5 月 5 日出願、1958 年 1 月 14 日登録)
  8. 米国特許 3,069,608「Numerical Control Servo-System」Jay W. Forrester・William M. Pease・James O. McDonough・Alfred K. Susskind(1952 年 8 月 14 日出願、1962 年 12 月 18 日登録。権利は John T. Parsons へ移転)
  9. William Pease「An Automatic Machine Tool」『Scientific American』187 巻 3 号 pp.101-112(1952 年 9 月)
  10. J. O. McDonough・A. K. Susskind「A Numerically Controlled Milling Machine」『Review of Electronic Digital Computers』Joint AIEE-IRE-ACM Computer Conference(1952 年 12 月)p.133〜コマ 139番号はスキャンのコマ
  11. 『American Machinist』「1950s」(創刊からの歴史の特集、2000 年 8 月 1 日)
  12. 米国会計検査院(GAO)『Numerically Controlled Industrial Equipment: Progress and Problems』B-140389(1974 年 9 月 24 日)
  13. 『Aviation Week』63 巻 3 号(1955 年 7 月 18 日)「Automated Heavy-Duty Production Tools Available to Aircraft Firms」コマ 66番号はスキャンのコマ
  14. Edgar L. McFerren(Giddings & Lewis 技術担当副社長)「Numericord」の記事、『Machinery』(New York)61 巻 12 号(1955 年 8 月)p.178〜
  15. 『American Machinist』101 巻 14 号(1957 年 7 月 15 日)W. M. Stocker Jr.「The production man's guide to numerical control」(Special Report No.446)コマ 149・152・163番号はスキャンのコマ
  16. 『Business Week』1436 号(1957 年 3 月 9 日)数値制御の記事コマ 187番号はスキャンのコマ
  17. Karl L. Wildes・Nilo A. Lindgren『A Century of Electrical Engineering and Computer Science at MIT, 1882-1982』MIT Press(1985)Internet Archive では貸出のみ。全文検索の抜き出しで確かめた
  18. ファナック「ファナックの歴史」
  19. 『American Machinist』「Gaining control over machine tools」(1998 年 8 月 1 日)
  20. Douglas T. Ross「Origins of the APT Language for Automatically Programmed Tools」『ACM SIGPLAN Notices』13 巻 8 号 pp.61-99(1978)。『History of Programming Languages』(Academic Press, 1981)pp.279-338 に再録
  21. Tomoatsu Shibata「Growth trajectory of a firm: A Case of Fanuc from venture within Fujitsu to a leading company of Factory automation」DSSR Discussion Papers No.52、東北大学大学院経済学研究科(2016)p. 5・6・7・16
  22. 『American Machinist』101 巻 21 号(1957 年 10 月 7 日)数値制御シンポジウムの記事コマ 161番号はスキャンのコマ
  23. 『American Aviation』22 巻 15 号(1958 年 12 月 15 日)p.15 の短信(空軍の NC の計画の費用)コマ 13番号はスキャンのコマ
  24. 『日本の技術100年 ビジュアル版 第7巻』筑摩書房(1989)コマ 75・92
  25. 『工作機械の数値制御』日刊工業新聞社(1960)コマ 34
  26. 牧野フライス製作所「沿革」
  27. National Inventors Hall of Fame「John T. Parsons」(1993 年選出)
  28. 米国特許 3,052,011「Machine tool with a mechanical cutting tool changer」Wallace E. Brainard ほか 4 名、Kearney & Trecker Corporation(1958 年 6 月 27 日出願、1962 年 9 月 4 日登録)
  29. 『American Machinist』102 巻 17 号(1958 年 8 月 25 日)Burgmaster の広告(G.E. の数値制御付きタレットボール盤)コマ 43・44番号はスキャンのコマ
  30. Max Holland『When the Machine Stopped: A Cautionary Tale from Industrial America』Harvard Business School Press(1989)Internet Archive では貸出のみ。全文検索の抜き出しで確かめた(Burgmaster は pp.36-41、Houdaille の買収は 1965 年の章)
  31. 『Automotive Industries』119 巻 10 号(1958 年 11 月 15 日)「AIEE Holds Machine Tool Conference」コマ 66番号はスキャンのコマ
  32. 『American Machinist』102 巻 23 号(1958 年 11 月 3 日)AIEE 工作機械会議の記事コマ 93番号はスキャンのコマ
  33. 『American Machinist』102 巻 26 号(1958 年 12 月 15 日)Milwaukee-Matic の紹介コマ 130番号はスキャンのコマ
  34. 『Purchasing Week』3 巻 11 号(1960 年 3 月 14 日)「Milwaukee-Matic Sales Hit 1st-Year Target, Says K&T」コマ 33番号はスキャンのコマ
  35. American Precision Museum『The Manufacturing Ledger』Machine Tool Hall of Fame「Wallace E. Brainard」(2000 年選出)
  36. 『American Machinist』103 巻 1 号(1959 年 1 月 12 日)Kearney & Trecker の広告コマ 58番号はスキャンのコマ
  37. Computer History Museum「APT II Commemorative Ashtray」(所蔵番号 X356.84、Douglas Ross 寄贈)
  38. 『Automation』7 巻 9 号(1960 年 9 月)General Electric の広告「Mark Century numerical control」コマ 109番号はスキャンのコマ
  39. J. M. Evans Jr. ほか『Standards for Computer Aided Manufacturing』NBSIR 76-1094、米国標準局(1976)コマ 53番号はスキャンのコマ
  40. 米国議会図書館著作権局『Catalog of Copyright Entries』第 3 集 1963 年 1〜6 月(EIA 規格 RS-273・RS-274 の登録、1963 年 3 月 8 日)コマ 280番号はスキャンのコマ
  41. Mansel G. Blackford『A History of Small Business in America』2nd ed., University of North Carolina Press(2003)Burg Tool の項Internet Archive は貸出のみ。全文検索の断片で確認
  42. 『新潟鉄工所八十年史』(1977)
  43. 鈴木信貴「モジュール型産業におけるインテグリティーの獲得 ―日本工作機械産業の事例―」『赤門マネジメント・レビュー』9巻9号 pp.635-662(2010年)
  44. 日本機械学会「機械遺産 第126号 米国輸出を果たしたNC旋盤 MTC-2500R」
  45. Eugene C. Murdock『The Buckeye Empire: An Illustrated History of Ohio Enterprise』Windsor Publications(1988)Internet Archive では貸出のみ。全文検索の抜き出しで確かめた
  46. John F. Mason「DNC: The new assembly-line boss」『Electronic Design』18 巻 22 号 p.38〜(1970 年 10 月 25 日)
  47. 米第 7 巡回区控訴裁判所「Kearney & Trecker Corp. v. Giddings & Lewis, Inc.」452 F.2d 579(1971 年 10 月 28 日。再審理の申し立ては 12 月 1 日に却下、最高裁は 1972 年 4 月 17 日に上告を受理せず)地裁の判決は 306 F.Supp. 189(E.D. Wis. 1969)
  48. Cincinnati Milacron『CNC, MC Information Manual』(1974。マシニングセンタ用 CNC の手引き書。古書の販売目録の記載で確認)手引き書そのものは未見。目録の書名と年による
  49. Mel Horwitch・榊原清則『The changing strategy-technology relationship in technology-based industries: a comparison of the United States and Japan』MIT Sloan School of Management ワーキングペーパー(1984)コマ 57・59番号はスキャンのコマ
  50. Robert U. Ayres・Steven M. Miller『Robotics: Applications and Social Implications』Ballinger(1983)Internet Archive では貸出のみ。全文検索の抜き出しで確かめた
  51. 米議会技術評価局(OTA)『Computerized Manufacturing Automation: Employment, Education, and the Workplace』(1984)
  52. National Academy of Engineering『Technological Exchange: The U.S.-Japanese Experience』(1981 年 10 月 21 日のシンポジウムの記録、1982)
  53. G. D. Brewer ほか『Computer-Based Automation of Discrete Product Manufacture』RAND R-1073-ARPA(1974 年 7 月、DTIC ADA004612)コマ 18番号はスキャンのコマ
  54. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「数値制御 立形マシニングセンタ MC-750V」
  55. 松浦機械製作所「沿革について」
  56. 米国国際貿易委員会(USITC)『Competitive Assessment of the U.S. Metalworking Machine Tool Industry』Publication 1428(1983 年 9 月)コマ 28・29・88番号はスキャンのコマ(印刷のページ+26 前後)
  57. J. A. Mateyka ほか『Profiles of Major Suppliers to the Automotive Industry』米国道路交通安全局(1982)Cross & Trecker の項コマ 74・90番号はスキャンのコマ
  58. Computer History Museum「RS-274-D - EIA standard - Interchangeable variable block data format for positioning, contouring, and contouring/positioning numerically controlled machines」(1980 年 2 月 8 日付、所蔵番号 102785172)
  59. T. R. Kramer ほか『The NIST RS274NGC Interpreter - Version 3』NISTIR 6556、米国標準技術研究所(2000)§1.2.2
  60. 日本工作機械工業会『成長、変革-。10年の記録 1982-91』(1992)コマ 9・14・22
  61. 日本工作機械工業会「日本の工作機械産業のあゆみ」
  62. 米国工作機械工業会(NMTBA)『1984-85 Economic Handbook of the Machine Tool Industry』(1984。American Machinist の第 13 回 Inventory of Metalworking Equipment, 1983 の表を収める)コマ 270・273番号はスキャンのコマ
  63. 米国工作機械工業会(NMTBA)『1982-83 Economic Handbook of the Machine Tool Industry』(1982。American Machinist の第 12 回 Inventory of Metalworking Equipment, 1976-1978 の表を収める)コマ 267番号はスキャンのコマ
  64. 米国商務省の 232 条調査の報告の序文(1983 年 3 月 10 日の NMTBA の申し立て。CIA Reading Room 文書 CIA-RDP85-01156R000300380004-0)
  65. Ronald Reagan「Statement on the Revitalization of the Machine Tool Industry」(1986 年 12 月 16 日、The American Presidency Project)
  66. Daniel Baracskay『The Rise and Destruction of the Warner & Swasey Company』BookMasters(2003)Internet Archive では貸出のみ。全文検索の抜き出しで確かめた
  67. ASME「Landmarks by Designator」(Historic Mechanical Engineering Landmark の一覧。#119 American Precision Museum)
  68. American Precision Museum『The Manufacturing Ledger』Machine Tool Hall of Fame「Francis J. Trecker」(1994 年選出)
  69. 『Motor Age』38 巻 26 号(1920 年 12 月 23 日)Kearney & Trecker の再編の記事番号はスキャンのコマ
  70. National Science & Technology Medals Foundation「John T. Parsons」(1985 年 National Medal of Technology)
  71. David F. Noble「Social Choice in Machine Design: The Case of Automatically Controlled Machine Tools, and a Challenge for Labor」『Politics & Society』8 巻 3-4 号 pp.313-347(1978)
  72. J. Francis Reintjes『Numerical Control: Making a New Technology』Oxford University Press(1991)。リンク先は P. E. Ceruzzi の書評(『Science』253 巻 p.212、1991)本文は見られず、書誌と書評で確かめた