ITALY 01輸入から国産へ:統一から第二次世界大戦まで
1861 年に統一されたイタリアは、英国・ドイツ・米国より遅れて工業を始めた国です。19 世紀の工場に並んだ工作機械の多くは外国製で、国の小銃工場には英国の機械が、Torino(トリノ)の自動車工場には米国の機械が並んでいました。それでも 1880 年代から Torino・Milano(ミラノ)・Intra などに工作機械を作って売る会社が生まれ、第一次世界大戦でドイツから機械が来なくなると、新しいメーカーが次々にできます。1920 年代には Olivetti が自社のための工作室 OMO を作り、1930 年代には国際連盟の制裁と自給(アウタルキー)の政策で国産の機械に追い風が吹きました。それでも 1938 年、国内の需要の半分は輸入でした。この章は、1909 年にイタリアの工場を見て回った米国の調査官の報告、イタリア学術会議の研究所の論文、Olivetti の文書館、人名辞典などで1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。
機械は輸入、
腕は国産。
そこから始まった!

この章は「時代の章」です。戦後の復興と見本市、Olivetti の NC は第 2 章「経済の奇跡と工作機械」で扱います。機械ごとの仕組みの移り変わりは機種の章にまとめる予定で、旋盤は第 4 章「イタリアの旋盤の系譜」、歯切り盤は第 7 章、研削盤は第 6 章です。イタリア語の資料の探し方はイタリア工作機械アーカイブのトップの「論文・資料サイトの使い方」にあります。
兵器廠と鉄道工場:輸入機の時代(1848〜1898 年)
統一の前の Torino
イタリアの機械工業は、北西の Piemonte(ピエモンテ)から始まりました。統一の前のサルデーニャ王国の都 Torino では、1848 年の時点で機械を作る仕事の多くが国の施設にありました。王立兵器廠(Regio Arsenale)、Valdocco の兵器工場、Borgo Dora の砲兵工場、鉄道の工場で、働く人は合わせて 1,500〜2,000 人です。繊維の工場に比べれば少数でしたが、ここで育った職人が、のちの機械工業の土台になりました[1]。
1850〜60 年代になると、Torino に民間の機械工場が生まれます。Bertetti e Cavallo、Benech、Colla、Biolley、Polla、Negro、Decker など、50〜120 人ほどの工場で、注文主は軍と鉄道でした。工作機械も作りましたが、ほかの機械と一緒に何でも作る工場で、工作機械の専門のメーカーではありません。研究者の Micheletti は、この時期を「軍の段階」と呼んでいます[1]。Genova(ジェノヴァ)では 1852 年に Ansaldo が創立され、機関車から始めて、のちに造船・兵器の大きな会社になりました[2]。
Terni:英国製の機械が並んだ国の小銃工場
統一後の国は、軍の兵器を自前で作るための工場を整えます。中部の Terni(テルニ)の国の小銃工場には、1880 年代の初め、英国 Leeds の Greenwood & Batley が工作機械を約 900 台納めました。代金は約 38 万 6,000 ドル。ねじを作る自動盤もすべて同社の型でした[3]。Greenwood & Batley は兵器工場向けの機械で知られた会社で、Rome(ローマ)の陸軍の精密工場にも、ねじれ歯車を切る万能歯切り盤などを納めています[3]。工場をまるごと 1 社の機械でそろえる買い方は、「互換性のある部品を機械で作る」仕組みを、機械と一緒に外国から買ってくることでした。
同じ 1884 年、海軍の軍艦の装甲板を国内で作るため、Terni に製鉄・製鋼の会社ができます。国は前払いと、装甲板 8,500 t を買う約束で支えました[4]。兵器のための鉄と機械を国内で持つことが、この時代の工業の大きな目標でした。
Ansaldi・Züst・Dubosc:工作機械を売る会社の始まり
1880 年代、鉄道の延長、鋼の普及、繊維機械の需要、蒸気機関と電気の広がりで、それまでほとんど輸入だった工作機械を作るピエモンテの会社が増えます。1884 年の Torino の国内博覧会には、金属・木の加工機械を出したピエモンテの会社が 12 社ありました[1]。同じ年、Michele Ansaldi(アンサルディ)が Torino に工作機械の工場を建てます。1891 年には普通旋盤・フライス盤・研削盤を作り、1899 年には 300 人で 25,000 m² の新しい工場に移りました。Genova の Ansaldo とは別の会社です[1]。
1889 年の国の統計では、Torino の金属・機械の事業所は 81、働く人は 8,766 人で、そのうち 2,760 人が軍の 4 施設にいました。工作機械も作る私企業で 50 人を超えるのは、Colla(83 人)・Carrera e Prata(70 人)・Ansaldi(60 人)・Tarizzo(60 人)の 4 社だけです[1]。多くはまだ小さな工場で、社員が独立して新しい会社を作り、また合わさるという動きをくり返していました。Rolfo は、技術と人が地域の中を回るこの形を、のちの自動車工業が大いに使ったと書いています[1]。
北の Lago Maggiore(マッジョーレ湖)のほとりの Intra では、1850 年からの機械工場が Güller & Züst を経て、1893 年に Roberto Züst(ツュスト)の工作機械と鋳物の工場になります[1]。Torino では 1888 年に Edmondo Dubosc(デュボスク)が精密機械の仕事を始め、1901 年に電動の形削り盤、1906 年に電動のフライス盤を出しました[1]。
Milano と Genova:機関車の工場
Milano では 1886 年 11 月、Ernesto Breda(ブレーダ)が古い鋳物・機械工場 Elvetica を引き継いで会社を作ります。Breda は外国の鉄道を見て回った技術者で、古い機械を一部米国製の新しい機械に入れ替え、機関車づくりに絞りました。1895 年の会社の文書は、イタリアの機械工業は「10 年ほどの歴史しかない」と書いています[5]。それでも 1891 年には Romania の機関車 22 台の入札に勝ち、1908 年に 1,000 台目の機関車を納めました。Milano の工場は 1904 年に約 4,000 人になり、Sesto San Giovanni に新しい工場を広げます[5]。機関車を作る大きな工場は、旋盤・中ぐり盤・平削り盤の大口の買い手で、工作機械の使い方を覚える場でもありました。
自動車と最初の専業メーカー(1899〜1914 年)
Fiat と自動車ブーム
1899 年 7 月 11 日、Giovanni Agnelli らが Torino で Fiat(Fabbrica Italiana Automobili Torino)を創立します。1900 年に Corso Dante の工場で最初の車を作り始めたときは熟練工約 150 人でしたが、自動車・トラック・路面電車・船のエンジンへと仕事を広げました[6]。1905 年、工作機械メーカーの Michele Ansaldi が Agnelli と組み、Ansaldi の工場は Fiat-Ansaldi になります。Fiat はこの工場の機械を自社のために使い、外には売らなくなりました。工場は 1916 年に Genova の Ansaldo へ、1923 年に Fiat へ戻り、大形エンジンの Fiat Grandi Motori の工場になります[1]。
20 世紀の初め、イタリアでは自動車ブームで 50 社を超える自動車会社が生まれ、そのうち 28 社が Torino にありました。工作機械の多くは輸入で、1905〜07 年の輸入は約 5,000 万リラ、その大部分が米国からでした。米国の調査官が訪ねたとき、Fiat の工場には 649 台の工作機械があり、うち 350 台が新しい米国製でした[1]。1907 年の恐慌で自動車会社が次々につぶれると、質のよい輸入の中古機が市場に出回り、輸入が減って国内のメーカーには追い風になります。それでも調査官は、国際水準で工業規模のメーカーは Ansaldi(830 人)・Dubosc・Savant・Züst の 4 社だけだと見ました[1]。
1909 年、米国の調査官が見た工場
1909 年 5 月、米国商務労働省の調査官 Godfrey L. Carden がイタリアの工場を見て回り、米国の工作機械を売り込むための報告を書きました。この報告は、当時のイタリアの工場の中を知る貴重な一次資料です。
Torino の自動車会社 Itala は、約 800 人の工場に工作機械を 480 台持ち、その大多数が米国製でした。ブレーキハブは Gisholt のタレット旋盤、差動歯車の部品は Potter & Johnston の自動機、歯車は Bilgram の歯切り盤、ピストンの仕上げは Landis の研削盤です。ほかにドイツの Reinecker・Loewe、英国の Herbert の小形タレット旋盤、そしてイタリアの Dubosc の歯切り盤が少なくとも 3 台ありました[3]。自動車の部品を数多く同じ形に削るには、米国で育った専用性の高い機械が欠かせなかったのです。
反対に、Terni の国の小銃工場では、電動の新しい建物に工作機械が 1,400 台並んでいたのに、米国製は 10 台だけでした。中心は 1880 年代の Greenwood & Batley の機械とドイツの機械です。電気は水車 8 台・約 1,000 馬力でまかない、働く人は約 500 人でした[3]。Rome の陸軍の精密工場(Laboratorio di Precisione、約 150 人)では、測距儀などの精密な砲兵器材を作り、ドイツの機械が中心でした。イタリア製は Züst の旋盤・フライス盤、Ansaldi の平削り盤、Dubosc の機械です。米国製の Bilgram の歯切り盤には、イタリアの販売会社の銘板が付いていた、と調査官は書いています[3]。同じイタリアの工場でも、自動車は米国の機械、兵器はドイツと英国の機械、という色分けがあったことがわかります。
Dubosc の歯切り盤
この時代のイタリアの工作機械で、外国にも売れたものに Dubosc の歯切り盤があります。研究者 Micheletti の表は、1906 年に Dubosc がまがりばかさ歯車の歯切り盤を作ったとし[1]、1906 年に Fiat が出資して株式会社になった Dubosc は、1908 年には約 200 人で、かさ歯車の歯切り盤を英国とドイツへ輸出していました[1]。自動車の差動歯車に使うかさ歯車は、当時最も難しい部品の 1 つでした。それを削る機械を自分たちで作ったことは、自動車の町 Torino ならではの成果です(歯車機械の流れは第 7 章)。
1911 年の博覧会と、輸入の色分け
1911 年の Torino 国際博覧会では、金属加工の機械の部門に約 150 社が並びましたが、そのほとんどが米国とドイツの会社で、ピエモンテの会社は Fiat・Dubosc・Savant・Ansaldi など 13 社でした[1]。1,000 人を超える工作機械メーカーが米国やドイツにはいくつもあったのに、イタリアには 100 人を超える会社さえわずかでした[1]。この博覧会の Olivetti の売り場には、最初のタイプライター M1 と並んで、その部品を作るための自社設計の工作機械と金型が置かれていました[8]。
1913 年、米国がイタリアへ輸出した工作機械は 5 万 4,000 ポンド、ドイツは 31 万 9,000 ポンド、英国は 1 万 8,000 ポンドでした[1]。第一次世界大戦の前、イタリアは工作機械の約 3 分の 2 をドイツとオーストリア=ハンガリーから買っていた、と 1939 年の米国の研究は書いています[9]。
第一次世界大戦と戦間期(1915〜1934 年)
産業動員:工場を国が指定する
1915 年にイタリアが参戦すると、7 月 9 日に武器弾薬の供給の最高委員会と次官部ができ、砲兵の将軍 Alfredo Dallolio が次官部を率います。8 月 22 日の規則で「産業動員」(Mobilitazione industriale)が始まり、国が指定した「補助工場」(stabilimenti ausiliari)は、ストライキが禁じられる代わりに、よい値段・資材の手当て・代金の前払い・新しい設備の償却の補助・税の軽減を受けました。1917 年 6 月には武器弾薬省になります[10]。
Torino では、自動車会社・鋳物工場・工作機械メーカー、さらに小さな機械工場まで、ほとんどすべてが補助工場に指定されました。砲弾・兵器の大量生産には工作機械と工具の増産と技術の大きな飛躍が必要でしたが、戦争でドイツの機械はもう来ません。米国の輸出は、工作機械工業の多くが占領地にあったフランスへ向かいました。こうした事情で、イタリアでは新しい会社が生まれ、ほかの業種の会社も工作機械に乗り出します。1917 年には Giuseppe Landriani が工具の会社を作り、印刷機の Nebiolo は戦争中ずっと工作機械だけを作りました[1]。工作機械を外国から買えなくなったことが、国産の始まりを後押しした、と 1939 年の米国の研究も書いています[9]。
戦後に生まれた専業メーカー
戦争で利益を上げた会社は力をつけ、Fiat は戦後、多くの事業を持つ大会社になります。フランスがドイツから賠償として大量の工作機械を受け取って国内の需要がしばらく消えたのに対し、イタリアにはその問題がなく、工作機械の専門のメーカーが次々に生まれました[1]。1919 年、Züst で働いた Ettore Buzzi が Intra で旋盤の会社を作り、1921 年には研削盤の Giustina(Borgomanero)と Tacchella(Cassine)が生まれます。1922 年には Torino でチャックの Mario Pinto と Vagnone & Boeri、1928 年にはチャックの Gamfior ができました[1]。工作機械そのものだけでなく、チャックのような大事な付属品の専門メーカーが同じ時期に生まれているのが目を引きます。
北東の Verona(ヴェローナ)では 1926 年に PAMA が創業し、のちに大形の横中ぐりフライス盤のメーカーになります(1980 年代に Trentino の Rovereto(ロヴェレート)へ移ります)[12][13][14]。1930 年 10 月には Varese 県の Gazzada で、鋼材のせん断機・パンチングマシンの Ficep が[15]、1932 年には Piacenza(ピアチェンツァ)で Renato Mandelli の精密部品の工場が生まれました[16]。Torino の近くでは 1932 年に歯車のシェービング盤の Sicmat、1934 年に研削盤の Favretto ができます[1]。
Lingotto と Adriano Olivetti の米国の旅
1923 年、Fiat の Lingotto(リンゴット)工場が開きます。設計は Giacomo Matté-Trucco で、屋上に試験走路を持つ多層の工場でした。Agnelli が米国の Ford の工場で見た流れ作業を取り入れたもので、創立から 25 年ほどで Fiat の社員は 2 万 7,500 人になっていました[6]。Torino の工作機械の会社は、昔からの Barriera di Milano 地区だけでなく、Fiat の Lingotto や Lancia の工場の近くにも集まっていきます[1]。
Ivrea(イヴレーア)のタイプライター会社 Olivetti では、創業者 Camillo の息子 Adriano が 1925 年 7 月から翌年 1 月まで米国に滞在し、Ford の Highland Park を含む約 100 の工場を見学しました。帰国後、組み立ての時間と方法の合理化を進めます[11]。米国から学ぶ、という流れは、機械を買うことから、工場の作り方そのものを学ぶことへ広がっていきました。
OMO:自社の機械を作る工作室
Olivetti は創業のころから、タイプライターを量産するための専用の工作機械を自分で設計させていました[7]。1917 年には自社用に 10 t のプレスを 2 台作り、1920 年代にも切削の機械を自社のために作ります[1]。会社が大きくなると、Camillo Olivetti は自分で試せる小さな場所を求め、1926 年 10 月、Ivrea の工場の一角に旋盤 6 台ほどとフライス盤、6 人の腕ききの小さな工作室を作りました。のちの OMO(Officina Meccanica Olivetti、オリベッティ機械工場)です[8]。はじめは量産の治具・工具づくりと、新しいタイプライターの試作が仕事でした。Treccani の人名辞典は「1924 年に実験部門として作られ、1926 年に会社として独立した」とし、文書館は「1926 年 10 月に生まれ、1936 年に独立した部門になった」とするなど、資料によって書き方が違います[7][8]。
輸出の始まりと IRI
イタリア製の工作機械の最初の輸出は 1925〜30 年とされます[1]。一方で輸入も続き、1925 年にはイタリアの大手の機械会社 1 社の増設で米国から多くの旋盤が入り、1926 年にはドイツが第一次世界大戦の賠償として多くの旋盤をイタリアへ送りました[9]。1939 年の米国の研究は、イタリアは一般的な工作機械なら自分で作れるが、量産用の機械は作れない、と見ています[9]。
世界恐慌は、イタリアの大銀行が持っていた会社の株を重荷に変えました。1933 年 1 月 23 日、国はそれを引き取るために産業復興公社(IRI)を作り、1937 年に恒久の公法人にします[18]。Ansaldo はすでに 1921 年に国が株を引き取っていました[2]。造船・製鉄・機械の大会社が国の持ち物になり、のちの戦後の重工業の形が決まっていきます。
自給政策と第二次世界大戦(1935〜1945 年)
制裁とアウタルキー
1935 年、エチオピアに侵攻したイタリアに国際連盟が制裁を決めると、ファシスト政権は自給(アウタルキー)の政策を強めます[19]。同じ年の 7 月 14 日には、軍需生産を統制する戦時生産総監部ができ、Dallolio が率いました[10]。再軍備で兵器の生産が増え、工作機械の需要も増えますが、制裁で輸入はしにくくなり、国内のメーカーに追い風が吹きます[1]。米国の研究によれば、1935 年には弾薬のために米国からの旋盤や研削盤の輸入が増えていました[9]。
新しい会社も増えます。Novara の Bossetti は、工作機械の販売会社 Mascherpa の出資を受けて旋盤に絞り、1937 年に Maxnovo の名で単プーリの旋盤 Tam を、1940 年に多刃旋盤 XPU を出して、50 人ほどから約 200 人の会社になりました[1]。1938 年には Alessandria 県の Tortona に、のちに Ursus の旋盤で知られる CMT ができ、研削盤の Giustina は Torino に移って歯切り盤も作り始めます[1]。
OMO の市販機
1930 年代の半ば、OMO は自社の工場のための工作室から、工作機械を作って売る部門に変わります。最初の市販機は 1936 年の卓上ボール盤 TS1 で、2 本の主軸と 36 の速度を持ち、事務機・ミシン・電気器具のような精密な部品の量産向けでした。続いて Camillo Olivetti 自身の設計の、重い切削に耐える剛性の高いフライス・プレーナ FP0(1937 年)、12 本の主軸で一度に 12 個の穴をあける多軸自動ボール盤 TMV1(1938 年)、1950 年まで作られた FP2(1939 年)、内面と外面の研削を簡単に切り替えられる万能研削盤 R3 が出ました[8]。自社の量産のために磨いた機械を外に売る、という OMO の形は、Fiat が自社の工作機械の工場を持ったのと並んで、イタリアの「使う会社が作る」流れの代表です(戦後の OMO は第 2 章)。
1938 年の数字:需要の半分は輸入
新しい会社が勢いよく生まれても、1938 年のイタリアの工作機械の生産は 2 億 2,400 万リラ、輸出は 600 万リラあまりで、国内の需要の半分しか国産でまかなえませんでした。輸入は主にドイツからです。政治の上では同盟国であり、技術の上でもドイツは 1920 年代のあとに米国に追いついていました[1]。第一次世界大戦の前と同じく、イタリアの工場はふたたびドイツの機械に頼ることになります。
戦争と Fiat の発注
1939 年 5 月、Fiat の Mirafiori(ミラフィオーリ)工場が開所します[20][6]。1940 年にイタリアが参戦すると、Torino に研削盤の CIMAT とチャックの OMLAT が生まれ、1942 年にはチャックの Autoblok ができました[1]。
1942 年の Fiat の工作機械の発注は、当時の業界の姿をよく表しています。最も多く受けたのは Bologna(ボローニャ)の Minganti で、旋盤 109 台・Heald 型の研削盤 13 台・Gleason 型の歯切り盤 6 台。Intra の Buzzi は Potter 型の旋盤 62 台、ほかに Ceruti・Nebiolo・Giustina・Sicmat・Rasetti も受けました[1]。Rolfo はここから 2 つのことを読み取ります。Fiat は地元の Torino にこだわらず、作れる会社に注文したこと。そして、機種を米国の有名メーカーの名前で呼ぶほど、手本は米国の機械だったことです[1]。
Adriano Olivetti の「工作機械の問題」
この遅れは、当時の業界の中でも議論されていました。1941 年 12 月、Adriano Olivetti は雑誌『Tecnica e Organizzazione』に「工作機械の問題」を書き、イタリアで独自に設計した機械や、外国の機械を本当に改良した機械は「ごく少ない」と述べます。原因として挙げたのは、鋳物の材料の弱さと、工作機械の付属品や部品を専門に作る会社が足りないことでした[1]。戦争中にチャックなどの専門メーカーが生まれたのは、この不足を埋めるためでもありました[1]。
戦争の終わりは工場にも及びます。1943 年 3 月、Torino の工場で戦争に反対するストライキが広がり、約 800 人の工作機械メーカー Rasetti の人たちもその先頭にいました[1]。Innocenti が 1939 年に Apuania に建てた鋼管工場は 1942〜43 年にだけ動き、1943 年にドイツ軍が解体して国外へ運び去ります[17]。一方で Alessandria 県には、戦争中に旋盤の Graziano と、歯切り盤・研削盤の PTP が生まれ、Tacchella・CMT と合わせて工作機械の産地が育っていました[1]。
現場の加工で何が変わったか
動力:水車の電気で回す工場。19 世紀の末から、北イタリアでは山の水の力で作る電気が工業を支えました。Rolfo は、蒸気機関の段階を飛ばして電気へ進んだことを、Torino の工業化の転機に挙げています[1]。1909 年の Terni の小銃工場は水車 8 台の電気で機械を回し、Rome の精密工場も天井の軸とベルトを電動機で回していました[3]。1937 年の Maxnovo の旋盤 Tam は「単プーリ」(ベルト車が 1 つ)の旋盤で、主軸の速さの切り替えをベルトのかけ替え(段車)ではなく、主軸台の中の歯車に任せる形です[1]。
機械:用途ごとに買い分ける。1909 年の Itala の工場では、ハブはタレット旋盤、小さな部品は自動機、歯車は歯切り盤、ピストンは研削盤と、仕事ごとに専用性の高い機械を米国から買っていました[3]。普通旋盤で何でも削る時代から、仕事ごとに機械を選ぶ時代への変化です。旋盤の流れは第 4 章、研削盤は第 6 章で詳しく扱います。
歯車:いちばん遅れた分野。Dubosc のかさ歯車の歯切り盤という早い例がありながら、1930 年代のイタリアは歯切り盤を十分に作れず、米国から高価な歯切り盤を輸入していました[9]。1932 年の Sicmat のシェービング盤、1942 年に Fiat が Minganti に頼んだ「Gleason 型」の歯切り盤は、その穴を埋めようとする動きでした[1]。
付属品:チャックと工具。1910〜40 年代の Torino には、工具の Elli Zerboni(1912 年)、チャックの Pinto・Vagnone & Boeri・Gamfior・OMLAT・Autoblok が次々に生まれました[1]。旋盤そのものより先に、くわえる道具と削る道具の専門メーカーが育ったことは、のちの産地の中小企業の形につながっています。
⛩日本とのつながり
同じころの日本と比べる
イタリアと日本は、どちらも英・米・独より遅れて工業を始め、工作機械を輸入しながら国産を育てた国です。日本では 1889 年 5 月に池貝庄太郎が東京で池貝工場を始め、同じ年に自家用の英式旋盤を作りました(機械遺産第 53 号)[23][24]。同じ 1889 年、Torino で工作機械も作る私企業のうち 50 人を超えるのは 4 社だけでした。1906 年、ドイツの Pfauter のホブ盤が日本に初めて輸入されたとされる年に[25]、Torino の Dubosc はまがりばかさ歯車の歯切り盤を作っていました。
見本市でも違いがあります。1911 年の Torino の博覧会の工作機械の部門はほとんど外国の会社でしたが、日本で最初の工作機械展覧会(1921 年 10 月、大阪、126 社)は国産機を並べる場でした[24]。1930 年代は、イタリアの制裁と自給の政策(1935 年)に対し、日本は工作機械製造事業法(1938 年)で国産の許可会社を決めます。そして 1940 年、米国が日本への工作機械の輸出を止めたとき、日本の輸入の 8 割以上は米国からでした[24]。イタリアが 1938 年に主にドイツから買っていたのとは、頼る先が違ったことになります(国産アーカイブ第 1 章の年表、第 4 章の年表)。
この先:日本の会社になったイタリアのメーカー
この章で 1926 年の創業を見た Rovereto の PAMA は、2023 年 2 月に日本の Nidec の完全子会社になりました。Nidec は歯車機械と大形機の部門に足りなかった横中ぐりフライス盤を、PAMA で補うとしています[12]。戦後のイタリアと日本の工作機械の関係は、第 2 章の「日本とのつながり」で扱います。
⑂メーカーの系図
この章に出てくる主な会社の名前と持ち主の移り変わりです。帯の色が変わるところで名前や持ち主が変わり、赤い矢印は行き先です。帯の右端は、この章で確かめた時点までで、そこで会社が終わったとは限りません。点線は「その先は未確認」、右端の › は今も続く会社です。
見に行ける所
工場の町並みと、資料を見られる文書館です。公開日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。
⌛年表
この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料が開きます。「p.」は本・報告のページ、「PDF p.」は PDF のページです。
兵器廠と鉄道工場:輸入機の時代1848〜1898 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1848年 | Torino(トリノ)の機械の生産は、まだ国の施設に集まっている。王立兵器廠(Regio Arsenale)、Valdocco の兵器工場、Borgo Dora の砲兵工場、鉄道の工場で、働く人は合わせて 1,500〜2,000 人統一(1861 年)の前のサルデーニャ王国の時代。Micheletti(1970)による | — | [1・PDF p.8] |
| 1852年 | Genova(ジェノヴァ)の金融・産業の人たちが Ansaldo を創立。最初の仕事は機関車づくりで、のちに造船・兵器・重機械の大きな会社グループになるTreccani は 1852 年。創業を 1853 年とする資料もある | Ansaldo | [2] |
| 1850〜60 年代 | Torino に、兵器廠と鉄道の注文で仕事をする機械工場(Bertetti e Cavallo、Benech、Colla、Biolley、Polla、Negro、Decker など。50〜120 人)が生まれる。工作機械も作るが、ほかの機械と一緒の「何でも屋」の工場だったMicheletti(1970)はこの時期を、軍の施設と注文が中心の「軍の段階」と呼ぶ | — | [1・PDF p.8] |
| 1880 年代初め | Terni(テルニ)の国の小銃工場に、英国 Leeds の Greenwood & Batley が工作機械を約 900 台納める。代金は約 38 万 6,000 ドル。ねじを作る自動盤もすべて同社の型だった1909 年に工場を見た米国の調査官 Carden の報告による。納入の年は「1880 年代初め」とだけ書かれている | Greenwood & Batley(英国 Leeds) | [3・p.169] |
| 1884年 | ★Michele Ansaldi(アンサルディ)が Torino に工作機械の工場を建てる(約 3,500 m²)。同じ年の Torino の国内博覧会には、金属・木の加工機械を出したピエモンテの会社が 12 社あったGenova の Ansaldo とは別の会社。Ansaldi は 1891 年に普通旋盤・フライス盤・研削盤を作っていた | Officine Michele Ansaldi | [1・PDF p.9][1・PDF p.8] |
| 1884年4月 | 海軍の装甲板を国内で作るため、Terni の鋳物工場を土台に製鉄・製鋼の会社(Terni 製鋼所)ができる。国が前払いと装甲板 8,500 t の購入を約束した1884 年 4 月 8 日の決議で社名を変更。中心になったのは Vincenzo Stefano Breda | Società degli Altiforni, Fonderie e Acciaierie di Terni | [4] |
| 1886年11月 | ★Ernesto Breda(ブレーダ)が Milano(ミラノ)の古い鋳物・機械工場 Elvetica を引き継いで会社を作る。古い機械を一部米国製の新しい機械に入れ替え、機関車づくりに絞った会社の設立は 1886 年 11 月 6 日。1888 年からは砲弾や野砲も作る | Ing. Ernesto Breda e C. | [5] |
| 1888年 | Edmondo Dubosc(デュボスク)が Torino で精密機械の仕事を始める。のちに電動の形削り盤(1901 年)とフライス盤(1906 年)を出す | Dubosc | [1・PDF p.9] |
| 1889年 | 国の統計で、Torino の金属機械の事業所は 81、働く人は 8,766 人。うち 2,760 人は軍の 4 施設。工作機械も作る私企業で 50 人を超えるのは Colla(83 人)・Carrera e Prata(70 人)・Ansaldi(60 人)・Tarizzo(60 人)の 4 社農商務省『Annali di Statistica』(1889)による | — | [1・PDF p.9] |
| 1893年 | Lago Maggiore(マッジョーレ湖)のほとりの Intra で、1850 年からの機械工場(Güller & Croff → Güller & Züst)を Roberto Züst(ツュスト)が一人で引き継ぎ、工作機械と鋳物の工場にするCarden(1910)は Rome の兵器工場で Züst の旋盤・フライス盤を見ている | Ing. Roberto Züst | [1・PDF p.9][3・p.168] |
| 1899年 | Ansaldi の工場が 300 人になり、25,000 m² の新しい工場に移る。工作機械のほか印刷機・農機・銃や大砲の部品も作った | Officine Michele Ansaldi | [1・PDF p.9] |
自動車と最初の専業メーカー1899〜1914 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1899年7月 | ★Giovanni Agnelli らが Torino で Fabbrica Italiana Automobili Torino(Fiat)を創立。1900 年に Corso Dante の工場で最初の車を作り始める創立は 1899 年 7 月 11 日。1900 年の工場は熟練工約 150 人 | Fiat | [6] |
| 1905年 | Michele Ansaldi が Agnelli と組み、Ansaldi の工場は Fiat-Ansaldi になって 4 気筒の車を作る。Fiat は工作機械の工場を自社で使うためのものにした工場は 1916 年に Genova の Ansaldo へ、1923 年に Fiat が買い戻し、Fiat Grandi Motori(大形エンジン)の工場になる | Fiat-Ansaldi | [1・PDF p.9][1・PDF p.10] |
| 1906年 | ★Dubosc がまがりばかさ歯車の歯切り盤を作る。同じ年に Fiat が出資して株式会社になり、1908 年には約 200 人で、かさ歯車の歯切り盤を英国とドイツへ輸出していたRolfo の付録の表(Micheletti 1970)に「Dubosc 1906 年 まがりばかさ歯車」とある。輸出は Carden(1909)による。Carden(1910)は Itala の工場で Dubosc の歯切り盤を少なくとも 3 台見ている | Dubosc | [1・PDF p.17][1・PDF p.9][3・p.166] |
| 1907年 | 自動車ブームで Torino だけで 28 社、全国で 50 社を超える自動車会社が生まれ、1905〜07 年の工作機械の輸入は約 5,000 万リラ、多くは米国から。Fiat の工場には 649 台があり、うち 350 台は新しい米国製だった米国の調査官 Carden の 1909 年の報告(p.185、p.204–205)を Rolfo が引いたもの | — | [1・PDF p.10] |
| 1908年 | 1907 年の恐慌で自動車会社がつぶれ、輸入の中古機が出回って輸入が減る。米国の調査官は、国際水準の工作機械メーカーは Ansaldi(830 人)・Dubosc・Savant・Züst の 4 社だけ、と見たCarden(1909)p.187–188。Ansaldi が Fiat に入って社外に売らなくなったので、実際は 3 社だったと Rolfo は書く | — | [1・PDF p.10] |
| 1908年 | Breda が 1,000 台目の機関車を納める。Milano の工場は 1904 年に約 4,000 人になり、のちに Sesto San Giovanni(セスト・サン・ジョヴァンニ)と Niguarda に工場を広げた | Breda | [5] |
| 1908年10月 | Camillo Olivetti(オリベッティ)が Ivrea(イヴレーア)でタイプライターの会社を作る(20 人)。量産のために専用の工作機械を自分で設計させた会社の設立は 1908 年 10 月 29 日。M1 の生産のために旋盤・2 軸ボール盤・フライス盤・小形研削盤を設計した | Ing. C. Olivetti & C. | [7][8] |
| 1909年5月 | ★米国の調査官 Carden が Torino の自動車会社 Itala を訪ねる。約 800 人の工場に工作機械が 480 台あり、大多数が米国製だった。ブレーキハブは Gisholt のタレット旋盤、差動歯車は Potter & Johnston、歯切りは Bilgram、ピストンの仕上げは Landis の研削盤ドイツの Reinecker・Loewe、英国の Herbert、イタリアの Dubosc の機械も少しあった | Itala(Torino) | [3・p.164][3・p.165] |
| 1909年5月 | ★Carden が Terni の国の小銃工場を訪ねる。電動の新しい工場に工作機械が 1,400 台あったが、米国製は 10 台だけ。英国の Greenwood & Batley とドイツの機械が中心で、電気は水車 8 台・約 1,000 馬力でまかなっていた働く人は約 500 人で、必要なら 2,000 人まで増やせる、と報告にある | — | [3・p.168][3・p.169] |
| 1909年5月 | Rome(ローマ)の陸軍の精密工場(Laboratorio di Precisione、約 150 人)では、測距儀などの精密な砲兵器材を作り、ドイツの機械が多かった。イタリア製は Züst の旋盤・フライス盤、Ansaldi の平削り盤、Dubosc の機械報告は平削り盤の会社を「Ansaldo, of Turin」と書くが、Torino の Ansaldi のことと判断した | — | [3・p.166][3・p.168] |
| 1911年 | Torino 国際博覧会の金属加工機械の部門に約 150 社が出るが、ほとんどが米国・ドイツの会社で、ピエモンテの会社は 13 社。Olivetti はタイプライター M1 とともに、自社設計の精密な工作機械と金型を見せた | — | [1・PDF p.10][1・PDF p.11][8] |
| 1913年 | この年、米国がイタリアへ輸出した工作機械は 5 万 4,000 ポンド、ドイツは 31 万 9,000 ポンド、英国は 1 万 8,000 ポンド。第一次世界大戦の前、イタリアは工作機械の約 3 分の 2 をドイツとオーストリア=ハンガリーに頼っていた輸出額は Saul(1968)の表を Rolfo が引いたもの。「3 分の 2」は Packard(1939)が米商務省の報告から引いた値 | — | [1・PDF p.11][9] |
第一次世界大戦と戦間期1915〜1934 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1915年7月 | ★第一次世界大戦に参戦したイタリアで、武器弾薬の供給の最高委員会と次官部(Alfredo Dallolio)ができる。8 月 22 日の規則で「産業動員」(Mobilitazione industriale)が始まり、国が指定した「補助工場」(stabilimenti ausiliari)は、ストライキ禁止と引き換えに前払い・資材・新設備の償却の補助を受けた1915 年 7 月 9 日の勅令 n.1065。1917 年 6 月 16 日に武器弾薬省になる | — | [10] |
| 1915〜18 年 | Torino の自動車会社・鋳物工場・工作機械メーカーはすべて補助工場に指定される。ドイツから機械が来なくなり、新しい会社が生まれ、印刷機の Nebiolo は戦争中ずっと工作機械だけを作ったフランスの工作機械工業は占領地にあったり兵器生産に回されたりしたので、米国の輸出はフランスへ向かった、と Rolfo は書く | — | [1・PDF p.12][9] |
| 1917年 | Olivetti が自社用に最初の工作機械、10 t のプレス 2 台を作る。1920 年代にも自社用の切削の機械を作り続けた | Olivetti | [1・PDF p.12] |
| 1919年 | Züst で働いた Ettore Buzzi が Intra(Verbania)で旋盤の会社を作る。1921 年には研削盤の Giustina(Borgomanero)と Tacchella(Cassine)、1922 年にはチャックの Mario Pinto(Torino)が生まれるBuzzi は 12 人の出資で始め、のちに一人の持ち主になって 1960 年代まで旋盤を作った | Officine Meccaniche E. Buzzi | [1・PDF p.12] |
| 1923年 | ★Fiat の Lingotto(リンゴット)工場が開く。設計は Giacomo Matté-Trucco。屋上に試験走路を持つ多層の工場で、Agnelli が Ford の工場で見た流れ作業を取り入れた創立から約 25 年で Fiat は 2 万 7,500 人になっていた(ACI) | Fiat | [6][1・PDF p.14] |
| 1925年 | イタリアの大手の機械会社 1 社の増設で、米国からイタリアへの旋盤の輸出が多い年になる。翌 1926 年には、ドイツが第一次世界大戦の賠償として多くの旋盤をイタリアへ送った会社名は書かれていない。リラ高で注文主が倒産しかけた、とある | — | [9] |
| 1925年7月 | Adriano Olivetti が 1926 年 1 月まで米国に滞在し、Ford の Highland Park を含む約 100 の工場を見学。帰国後、組み立ての時間と方法の合理化を進める | Olivetti | [11] |
| 1926年 | Verona(ヴェローナ)で PAMA が創業。のちに大形の横中ぐりフライス盤のメーカーになり、1980 年代に Trentino の Rovereto(ロヴェレート)へ移る創業地と移転は Trento 自治県の 2026 年 6 月の発表による(移転の正確な年は書かれていない) | PAMA | [12][13][14] |
| 1926年10月 | ★Camillo Olivetti が Ivrea の工場の一角に、旋盤 6 台ほどと 6 人の腕ききで小さな工作室を作る。のちの OMO(オリベッティ機械工場)で、はじめは量産の治具・工具づくりと新しいタイプライターの試作をした文書館は「1926 年 10 月に生まれ、1936 年に独立した部門に」とし、Treccani は「1924 年に実験部門として作られ、1926 年に会社として独立」とする。Rolfo は 1926 年。ここでは 1926 年を採った | OMO(Officina Meccanica Olivetti) | [8][7][1・PDF p.12] |
| 1925〜30 年 | イタリア製の工作機械の最初の輸出が始まるAbrate(1978)p.155 による | — | [1・PDF p.12] |
| 1930年10月 | Varese 県の Gazzada で、Colombo 家と Giuliani 家が鋼材のせん断機・パンチングマシンの工場 Ficep(Fabbrica Italiana Cesoie e Punzonatrici)を作る | Ficep | [15] |
| 1932年 | Piacenza(ピアチェンツァ)で Renato Mandelli が精密部品の加工の個人工場を始める。工作機械を作り始めるのは 1965 年 | Mandelli | [16] |
| 1932年 | Torino 近くの Pianezza に、歯車のシェービング盤の Sicmat ができる。1934 年には研削盤の Favretto が生まれる | Sicmat | [1・PDF p.13] |
| 1933年 | Ferdinando Innocenti が Milano の Lambrate(ランブラーテ)に鋼管の継手の工場を建てる。戦後、この工場から旋盤・プレスなどの重機械とスクーター Lambretta が生まれる | Innocenti | [17] |
| 1933年1月 | ★世界恐慌で傷んだ大銀行から、持っていた会社の株を国が引き取るため、産業復興公社(IRI)ができる。Ansaldo などの重工業も国の持ち物になり、1937 年に IRI は恒久の公法人になる1933 年 1 月 23 日の勅令法 n.5。1937 年 6 月 24 日の n.905 で恒久化 | IRI | [18] |
自給政策と第二次世界大戦1935〜1945 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1935年 | ★エチオピア侵攻に国際連盟が制裁を決め、ファシスト政権は自給(アウタルキー)の政策を強める。7 月 14 日には戦時生産総監部(Dallolio)ができる。工作機械を輸入しにくくなり、国内のメーカーに追い風になったPackard(1939)は、1935 年に弾薬の需要で米国からイタリアへの旋盤・研削盤の輸出が増えたと書く | — | [19][10][1・PDF p.12][1・PDF p.13] |
| 1936年 | ★OMO が最初の市販の工作機械、2 軸の卓上ボール盤 TS1(36 の速度)を出す。1937 年には Camillo Olivetti 設計の重切削用フライス・プレーナ FP0 が続くFP0 は本文で 1937 年、写真の説明で 1938 年。ここは 1937 年(Rolfo も 1937 年) | OMO(Officina Meccanica Olivetti)TS1 | [8][1・PDF p.12] |
| 1937年 | Novara の Bossetti が、Maxnovo の名で単プーリ(1 本のベルト車で主軸を回す)の旋盤 Tam を出す。1940 年には多刃旋盤 XPU を出し、50 人ほどだった会社は約 200 人になる1935 年に工作機械の販売会社 Mascherpa が資本に入り、旋盤に絞った | Officine G. G. Bossetti(Maxnovo)Tam | [1・PDF p.13] |
| 1938年 | ★イタリアの工作機械の生産は 2 億 2,400 万リラ、輸出は 600 万リラあまり。国内の需要の半分しか国産でまかなえず、残りは主にドイツから輸入したZignoli(1966)p.12 の値を Rolfo が引いたもの | — | [1・PDF p.13] |
| 1938年 | OMO が 12 本の主軸で一度に 12 個の穴をあける多軸自動ボール盤 TMV1 を出す。1939 年にはフライス・プレーナ FP2(1950 年まで生産)、続いて万能研削盤 R3 | OMO(Officina Meccanica Olivetti)TMV1 | [8] |
| 1938年 | Alessandria 県の Tortona に、のちに Ursus の旋盤で知られる CMT ができる。同じ年、研削盤の Giustina が Torino に移り、歯切り盤も作り始める | CMT(Costruzioni Meccaniche Tortona) | [1・PDF p.13] |
| 1939年5月 | Fiat の Mirafiori(ミラフィオーリ)工場が開所する。戦後はイタリア最大の自動車工場になる | Fiat | [20][6] |
| 1940年 | イタリアが第二次世界大戦に参戦。Torino に研削盤の CIMAT とチャックの OMLAT が生まれ、1942 年にはチャックの Autoblok ができる | — | [1・PDF p.13] |
| 1941年12月 | Adriano Olivetti が雑誌に「工作機械の問題」を書き、イタリアで独自に設計した機械はごく少ないと指摘。原因に、鋳物の材料の弱さと、工作機械の部品・付属品の専門メーカーが足りないことを挙げた『Tecnica e Organizzazione』21 号(1941 年 12 月 10 日)pp.23–29 | Olivetti | [1・PDF p.13][1・PDF p.14] |
| 1942年 | ★Fiat の工作機械の発注で、Bologna の Minganti に旋盤 109 台・Heald 型研削盤 13 台・Gleason 型歯切り盤 6 台、Intra の Buzzi に Potter 型旋盤 62 台。機種を米国の有名メーカーの名前で呼ぶほど、手本は米国の機械だったBigazzi(2000)p.188 による。ほかに Ceruti・Nebiolo・Giustina・Sicmat・Rasetti にも発注 | Fiat | [1・PDF p.13] |
| 1942年 | Innocenti が 1939 年に Apuania に建てた鋼管工場が動き始めるが、1943 年にドイツ軍が解体して国外へ運び去る | Innocenti | [17] |
| 1943年3月 | Torino の工場で戦争に反対するストライキが広がる。約 800 人の工作機械メーカー Rasetti の人たちもその先頭にいたRolfo は Torino のレジスタンス史の研究所(istoreto)の資料を引く | — | [1・PDF p.13] |
| 戦争中 | Alessandria 県に旋盤の Graziano と、歯切り盤・研削盤の PTP が生まれる。Tacchella・CMT と合わせ、Alessandria は工作機械の産地になっていく創業の年は資料に書かれていない(「戦争中」) | Graziano | [1・PDF p.14] |
よくある質問
- 統一のころのイタリアの工場は、どこの工作機械を使っていましたか?
- 多くは輸入でした。1909 年に米国の調査官が見た Terni の国の小銃工場では、1,400 台のうち米国製は 10 台だけで、1880 年代初めに英国の Greenwood & Batley が納めた約 900 台とドイツの機械が中心でした。反対に Torino の自動車会社 Itala の 480 台は、大多数が米国製でした。兵器は英独、自動車は米国、という色分けがありました。
- イタリアで最初の工作機械メーカーはどこですか?
- 「最初」を 1 社に決められる資料はありませんが、1884 年に Torino に工作機械の工場を建てた Michele Ansaldi、1893 年に Intra で工作機械の工場を持った Roberto Züst、1888 年から Torino で精密機械を作り、1906 年にまがりばかさ歯車の歯切り盤を作った Dubosc が早い例です。1907 年ごろ、米国の調査官は国際水準のメーカーをこの 3 社と Savant の 4 社とみなしました。
- Olivetti はなぜ工作機械を作ったのですか?
- タイプライターを量産するための専用の機械を、自分で設計する必要があったからです。1926 年に Ivrea の工場に小さな工作室(のちの OMO)を作り、1936 年の卓上ボール盤 TS1 から外部への販売を始めました。戦後は NC の機械とマシニングセンタの会社 OCN へ育ちます。
- 第二次世界大戦の前、イタリアは工作機械を自給できていましたか?
- できていませんでした。1938 年の生産は 2 億 2,400 万リラで、国内の需要の半分ほどしかまかなえず、残りは主にドイツから輸入していました。1935 年の国際連盟の制裁と自給の政策で国産のメーカーは増えましたが、量産用の機械や歯切り盤では外国の機械が手本でした。
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出典
研究論文・米国の政府の報告・人名辞典・企業文書館・各社の公式サイトを 2026 年 10 月に確かめ、使ったページを書いています。「PDF p.」は PDF のページ(Rolfo 2020 は印刷のページ+2)、「p.」は本の印刷のページです。Rolfo 2020 は 19 世紀の統計(農商務省 1889)・米国の Carden 報告(1909)・Zignoli(1966)・Bigazzi(2000)などの原資料を引いていて、その値は Rolfo の書き方のまま載せています。日本側の出来事は国産アーカイブの出典を使っています。
- Secondo Rolfo「Storia dell'industria delle macchine utensili in Piemonte dalle origini alla seconda guerra mondiale」CNR-IRCrES Working Paper 5/2020(イタリア学術会議の研究所の論文、2020 年 8 月)PDF p. 8・9・10・11・12・13・14・17
- Treccani『Dizionario di Storia』「Ansaldo」
- Godfrey L. Carden『Machine-Tool Trade in Austria-Hungary, Denmark, Russia, and Netherlands, with Supplementary Reports on Italy and France』米国商務労働省 Special Agents Series(1910。1909 年 5 月のイタリアの工場の訪問記)p. 164・165・166・168・169
- Dizionario Biografico degli Italiani「BREDA, Vincenzo Stefano」Istituto della Enciclopedia Italiana(Treccani)
- Dizionario Biografico degli Italiani「BREDA, Ernesto」Istituto della Enciclopedia Italiana(Treccani)
- Francesco Mosconi「Fiat, i 125 anni dell'azienda che ha messo le ruote al Paese」L'Automobile(イタリア自動車クラブ ACI の雑誌、2024 年 7 月 11 日)
- Dizionario Biografico degli Italiani「OLIVETTI, Camillo」Istituto della Enciclopedia Italiana(Treccani)
- Associazione Archivio Storico Olivetti「La OMO – Officina Meccanica Olivetti e il settore delle macchine utensili」(Storia Olivetti)
- Wendell H. Packard『The Exportation of Machine Tools from the United States 1923–1936』Boston University 経営学修士論文(1939)のイタリアの節(印刷の p.31〜33)
- Dizionario Biografico degli Italiani「DALLOLIO, Alfredo」Istituto della Enciclopedia Italiana(Treccani)
- Dizionario Biografico degli Italiani「OLIVETTI, Adriano」Istituto della Enciclopedia Italiana(Treccani)
- Nidec「Nidec to Execute a Share Transfer Agreement on Italian Machine Tool Manufacturer PAMA and Its Affiliates」(2022 年 11 月 30 日のリリース)
- PAMA「Cento anni di storia: un anniversario condiviso」(創業 100 年の記念行事の記事)
- Trento 自治県 広報「I 100 anni di Pama」(Comunicato 1850、2026 年 6 月 19 日)
- Ficep「History」(会社の沿革)
- Mandelli「Azienda」(会社の沿革)
- Dizionario Biografico degli Italiani「INNOCENTI, Ferdinando」Istituto della Enciclopedia Italiana(Treccani)
- Treccani『Dizionario di Storia』「IRI」
- Treccani『Dizionario di Storia』「autarchia」
- Dizionario Biografico degli Italiani「AGNELLI, Giovanni」(1921〜2003 年の Gianni Agnelli の項)Istituto della Enciclopedia Italiana(Treccani)
- UNESCO World Heritage Centre「Ivrea, industrial city of the 20th century」(2018 年登録)
- Associazione Archivio Storico Olivetti(Ivrea)公式サイト
- 日本機械学会「機械遺産 第53号 池貝工場製第1号旋盤」
- 一寸木俊昭『日本の工作機械工業の発展過程の分析』(1963)
- 会田俊夫『歯車の技術史』開発社(1970)