UK 03二つの大戦と工作機械の統制
工作機械は、それ自体は戦場に出ません。それでも、砲弾も航空機のエンジンも戦車も、工作機械がなければ 1 つも作れません。英国は二つの世界大戦で、この当たり前のことを思い知らされました。第一次世界大戦では砲弾が足りなくなり、第二次世界大戦では航空機と戦車のために、平時の何倍もの工作機械が一度に要りました。どちらの戦争でも英国の工作機械工業だけでは足りず、米国からの輸入に大きく頼り、政府は工作機械の注文・配分・使い方まで細かく統制しました。この章では、その仕組みと、なぜ輸入頼みになったのかを、軍需省と補給省の公刊の戦史(History of the Ministry of Munitions、Hornby『Factories and Plant』1958 年、Postan『British War Production』1952 年)と、当時の業界誌(The Engineer・Engineering・Board of Trade Journal)で1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。
機械を作る
機械が
足りない!

この章は「時代の章」です。機械ごとの仕組みの移り変わりは機種の章にまとめています。タレット旋盤・自動盤は第 5 章「英国の旋盤の系譜」、フライス盤は第 6 章、研削盤とゲージ用の精密機械は第 7 章、歯車の機械は第 8 章で扱います。同じ時代の米国はアメリカ第 3 章「大量生産と二つの大戦」、ドイツはドイツ第 3 章「戦争と東西分断」にあります。
砲弾不足と軍需省の工作機械部(1914〜1918 年)
大戦前:まだ足りていた国内の生産
第一次世界大戦の前、英国の工作機械工業は、国内の平時の需要をまかなう力は持っていました。1907 年の生産額は 290 万ポンド、重さにしておよそ 4 万 5,000 トンと見積もられています。1913 年の輸出は 1 万 6,537 トン、輸入は 3,852 トンで、量だけ見れば輸出のほうがずっと多い国でした[1]。1909 年に輸出が急に倍近くに増えたのは、世界中で戦争への備えが進んだためで、増えた分の多くは日本・イタリア・ロシア・フランスへ向かいました[1]。
ただし、世界の中で見ると英国の地位はすでに下がっていました。1913 年のドイツの工作機械の輸出は英国の少なくとも 4 倍、米国は約 3 倍です[1]。輸出が大きい国ほど、戦争で需要が急に増えたときに国内へ回せる余力も大きくなります。英国はこの余力が小さいまま戦争を迎えました。しかも、軽い工作機械と小工具の多くは米国製を輸入業者が売っていて、輸入の 2 大産地は米国とドイツでした。開戦でドイツからの輸入が止まると、米国がほぼ唯一の外国の仕入れ先になります[6]。
「工作機械が足りない」
開戦から 1 か月ほどは注文が手控えられましたが、弾薬の需要は「飛ぶように」増え、工作機械業界への圧力は一気に高まります。熟練工の出征と材料不足が重なり、普通のやり方では間に合わないことがはっきりしました[6]。1915 年 3 月に工場監督官が全国の工作機械を調べると、政府の仕事に使われていたのは約 30% だけでした[6]。米国に頼んだフライス盤や旋盤は、Liverpool の港と鉄道の混雑で何週間も遅れていました。6 月、のちに軍需供給局長になる Girouard(ジルアード)は大臣への報告で、工作機械の不足が、メーカーが弾薬の約束を果たせなかった大きな原因の 1 つだと書いています[8]。
そして 1915 年 5 月 14 日、Times 紙に従軍記者 Repington(レピントン)の記事が載ります。敵の塹壕をくずす高性能爆薬の砲弾が足りないことが国民に知られ、のちに「砲弾不足(Shell Crisis)」と呼ばれる政治問題になりました。19 日に連立内閣への組み替えが発表され、6 月 9 日には軍需省(Ministry of Munitions)をつくる法律が裁可されて、Lloyd George(ロイド・ジョージ)が初代の大臣になります[8]。
Alfred Herbert と工作機械部
工作機械の統制は、政府より先に業界の中から動き出しました。1915 年 3 月、Coventry(コヴェントリー)の工作機械メーカー Alfred Herbert 社を率い、業界団体の長でもあった Alfred Herbert(アルフレッド・ハーバート)が、工作機械の配分の混乱を立て直す案を Lloyd George らに手紙で送ります[6][8]。4 月 25 日、陸軍省の Girouard が Herbert に工作機械業界の組織づくりを頼み、Herbert は 27 日に London の Cecil Chambers に部屋を構えました。この日が工作機械部(Machine Tool Department)の始まりとされます。初めは権限のはっきりしない陸軍省の一部局でしたが、6 月に軍需省へ移り、Herbert が引き続き長(Controller)を務めました[8][6]。
工作機械部を動かしたのは、ほとんどが無給の民間人でした。業界のことを知っている人を普通の採用で集めるのは無理だったからで、公刊の戦史は、業界との近さこそが成功の秘密だったと書いています[6]。Herbert 自身はのちに、工作機械部は「ほかのすべての部の召使い」で、各部の言い分の板ばさみになる損な役回りだったと振り返っています[6]。
注文を許可制にする
Herbert の最初の手は、メーカーの受注に順番を付けることでした。1915 年 5 月 10 日、陸軍会議の名で命令が出され、受注を A(英国と連合国の政府・軍需会社とその下請け)と B(中立国・民需など)に分け、A を先に納め、B は止めたり振り替えたりしてよいとしました[8]。中立国向けの機械の一部がドイツに流れていた疑いもありました[6]。7 月 16 日の通達で、工作機械業界は軍需法の下で統制され、注文はすべて工作機械部の許可が要るようになります。この月の調べでは、メーカーは平均で 6 か月先まで受注で埋まっていました[6]。同じ月、大臣が任命する 6 人の諮問委員会(主な産地 4 地区の代表と輸入業者の代表、委員長は Herbert)もでき、議事録は今も公文書館に残っています[6][9]。
許可制には、もう 1 つの効き目がありました。注文が全部集まるので、どの機種がどれだけ要るのかが初めて分かったのです[6]。1916 年 8 月には、許可がなければ工作機械の商売そのものができなくなり(国土防衛法の規則 30A)、これは主に値段を抑えるためでした[6]。
国営工場・下請け・米国
足りない分をどう増やすか。工作機械部は、国営の工作機械工場をつくる案は採らず、下請けに頼りました。工作機械メーカーに、手のあいた一般の機械工場や印刷機械の工場へ仕事を出させ、図面と助言で手伝ったのです。初めのうちは質の落ちる機械も多かったものの、戦争の終わりまでこのやり方が続きました[6]。弾薬のほうは国営工場で増やしました。1915 年 5 月 7 日に Leeds の国営砲弾工場が承認され、6 月末までに 17、年末までに約 30 の工場が決まります[6]。夏からは重い砲弾のための大きな国営発射体工場が建てられ、その設備の工作機械の手配も工作機械部の仕事になりました[6]。
それでも国内だけでは足りません。1915 年秋、工作機械部は Searle と Lang を米国に送り、英国向けの出荷を増やすよう頼み、一般の機械工場にも工作機械を作らせました。J. P. Morgan を通じた注文は 100 万ポンドに達しましたが、材料と仕上げの劣る機械も多く、米国に検査の仕組みを置いています。工作機械 1,387 箱を積んだ船 Cymric が沈められたこともありました[6]。輸入は 1914 年の 4,833 トンから 1915 年には 2 万 742 トンに増え、大戦の 4 年間で計 7 万 7,000 トンになります[1]。一方で、平時に英国の機械に頼っていたロシア・フランス・イタリアへの輸出も増やさなければならず、1917 年には 1 万 8,000 トンを超えました[1]。1918 年に米国自身が参戦すると米国製の機械は回ってこなくなり、工作機械部はメーカーごとに作る機種をしぼらせて国内の生産を増やそうとしましたが、休戦までに効き目は出ませんでした[6]。
ゲージと小工具
砲弾やヒューズの部品を互換にそろえるには、通り・止まりのゲージが大量に要ります。ところが当時の英国には、ゲージを作るための精密な旋盤や研削盤がほとんどなく、とくにねじゲージを細かい公差で切る機械が足りませんでした。1915 年 8 月に Alfred Herbert 社がヒューズ用ゲージ 50 組を納めた記録がありますが、全体としては多くの会社に少しずつ注文を割り振るしかなく、スイスから機械を取り寄せ、簡単な精密機械を国内で設計して補いました[6]。小工具でも国が工場に乗り出します。1916 年 5 月に Gateshead にできた国営工具工場は、砲弾の穴をくりぬくスペードカッタを形をそろえて作り、週 3,000 本から 5,000 本に増やして、値段を市価の半分にしました[6]。
現場で何が変わったか。第一次世界大戦の工作機械部がしたことは、受注の順番を決める・注文を許可制にして全体を見渡す・作る機種をメーカーごとにしぼる・下請けに図面を渡して作らせる、の 4 つにまとめられます。どれも、需要が生産の何倍にもなったときに、限られた機械と熟練工をどこに回すかを決める仕組みです。軍需省の技術者が新しい砲弾工場に、工程の一覧と時間、合う機械、切削速度、機械の並べ方まで教えたという記録もあり、今でいう工程設計を国が肩代わりしていました[6]。
戦間期:輸入頼みはなぜ生まれたか(1919〜1935 年)
重い機械の老舗が去る
1918 年 4 月、Herbert は工作機械部の長を Edward M. Iliffe に譲ります[6]。前年の 1917 年には軍需省での働きで勲章(K.B.E.)を受けて Sir Alfred Herbert となり、1919 年から 1934 年まで、1910〜11 年にできた業界団体 Machine Tool Trades Association(MTTA)の会長を務めました[5]。
戦後の好景気が終わると、英国の工作機械工業の姿は変わります。造船・機関車・大砲向けの重い工作機械を作ってきた老舗の多くが、工作機械から手を引いたのです。19 世紀の英国の工作機械工業を支えたのは、まさにこの分野でした[1]。一方で、ドイツは 1920 年以降すぐに工作機械の輸出の首位を取り戻し、英国の輸出が 1913 年の量に戻ったのは 1932 年になってからでした[1]。1933〜37 年の世界の工作機械の貿易に占める英国の割合は 10.0% から 7.1% に下がり、1937 年はドイツが 48.3%、米国が 35.3% でした[1]。
自動車工場は米独の自動盤で
この時代にいちばん大きく変わったのは、輸入の中身です。1925〜35 年の英国の工作機械の輸入は平均で年 8,000 トンと、大戦前(1911〜13 年の平均 2,449 トン)の 3 倍を超えました。増えたのは、自動車と軽い機械の工場が量産のために入れた、米国とドイツの自動盤や専用機です[1]。Hornby の公刊戦史は、英国の業界は自動車の量産に要る専用機をほとんど作ろうとせず、1935 年の英国は 1913 年よりもむしろ外国の機種に頼る度合いが大きかった、とまとめています[1]。
なぜそうなったのか。戦史の説明は、英国の工作機械工業の経営の事情です。需要の波が大きく先が読めない業界では、国内と輸出で確かな需要がある機種にしぼらないと、量がまとまらず採算が合いません。その分、量産用の特殊な機械は輸入に任せる、という考えが業界全体に受け入れられていました。英国の大手の工作機械メーカーの中には、外国の機械の大きな輸入代理店を兼ねるところもありました[1]。Alfred Herbert 社自身も早くから米国の工作機械の輸入を手がけ、自社の標準機を補う「副業」として大きく育てていました[5]。
不況の底と、静かな準備
1935 年を 100 とした英国の工作機械の生産の指数は、1924 年が 60、1930 年が 72、不況の底の 1933 年は 47 まで下がりました[1]。輸出の山は、ソ連の重工業づくりのような外国の基幹産業の大口の注文があるときにしか来ません[1]。1935 年の生産センサスでは、工作機械工業は 123 事業所・2 万 1,000 人で、上位 10 工場が生産の半分を占めていました。生産の約 3 分の 1 が輸出され、国内の工場が手に入れる工作機械の約 4 分の 1 は輸入でした[1]。
政府の側では、1929 年にできた国防の補給委員会(Supply Board)が、1930 年にゲージ、1931 年に工作機械の小委員会を置き、戦時に要る機種と生産能力を調べ始めます。第一次世界大戦のゲージと工作機械の苦労が、まだ生々しく記憶されていたからです。ただ、効き目があったのはゲージと精密な工作機械の分野だけで、全体の供給を増やすところまでは届きませんでした[1]。のちに英国一の旋盤メーカーになる 600 Group が最初の工作機械の会社をつくったのも、この不況のさなかの 1932 年です[10]。
再軍備と影の工場(1936〜1939 年)
1936 年の選択:輸入を増やす
1936 年に再軍備が始まると、3 軍が 1936〜38 年に要る工作機械は少なくとも 1,100 万ポンド分と見積もられました。1935 年の英国の工作機械の生産額は 650 万ポンドですから、年に 400〜500 万ポンドの上乗せは大きな負担です。下院の討論では Lloyd George と Churchill(チャーチル)が工作機械の大切さを強く訴え、Lloyd George は国が工作機械を作ることまで提案しましたが、政府はこれを採りませんでした[1]。
政府と業界が選んだのは、輸出を減らさず、その分を輸入で補う道でした。景気の回復と輸出を妨げないことが政府全体の方針で、商務省はとくに工作機械の輸出の割合が下がるのを嫌いました。1936 年 7 月、関税なしの工作機械の輸入を増やす方針が政府と業界で合意され、1936 年の輸入は重さで 1935 年の約 3 倍、1937 年はさらに増えます。国内のメーカーの納期が長いという理由で関税を免除された輸入は、1937〜38 年には免税の輸入の半分近くになりました[1]。一方で、大砲と弾薬の専用機だけは英国で設計して作ると 1936 年に決め、開戦のときには一部の生産能力ができていました[1]。
影の工業:自動車会社がエンジンを作る
同じ 1936 年の国防白書で発表されたのが、航空機の「影の工業(shadow industry)」です。航空機会社の外の会社、とくに量産に慣れた自動車会社に、国の費用で建てた工場を運営させ、航空機とエンジンを作らせる仕組みでした。最初に加わったのは 7 社の自動車会社で、Bristol 型の航空機エンジンを、部品ごとに会社を分けて作る共同の組をつくりました。1937 年 11 月には最初のエンジンが納められています[1]。
ここで工作機械の問題が出てきます。1938 年までの戦時の計画は、自動車のエンジン工場の機械を一部入れ替えれば航空機のエンジンを作れる、と考えていました。ところが 1938 年に調べてみると、今ある設備はほとんど使えず、大がかりな機械の入れ替えが必要だと分かります[1]。航空機のエンジンは公差がきびしく、材料も形も自動車とは違うからです。航空機の生産のために国が 1936 年から 1944 年に設備に出した費用のうち、40% がエンジン工場の設備でした[1]。1939 年 5 月には Rolls-Royce の Merlin エンジンの需要が倍になり、同社が経営する大きな代理工場を Glasgow に建てる計画が 500 万ポンド余りで承認されます[1]。
1939 年夏までに、英国の工作機械の生産は 1935 年の約 2 倍、重さで約 10 万トン・3 万 7,000 台に増えていました。増えた分の多くは、新しい会社ではなく既存の会社が人を増やし、遊んでいた設備を使い切って生み出したものです[1]。それでも 1939 年春の陸軍の拡張で需要が急に増え、「生産の半分まで輸出を伸ばす」方針は見直しを迫られました。ただ輸出の多くはソ連向けで、急に止めれば外交の問題になるという悩みもありました[1]。
★第二次世界大戦と Machine Tool Control(1939〜1945 年)
統制官は誰だったか
1939 年 6 月に補給省(Ministry of Supply)ができると、大臣の工作機械顧問が置かれました。開戦で工作機械統制令(S.R.&O. 1939 No.1373)が出されると、顧問がそのまま工作機械統制官(Controller of Machine Tools)になります。統制令は、工作機械を作る・持つ・売る・使う人すべてに、補給省の指示に従い帳簿を付けることを義務づけ、「工作機械」には木工機械や小工具・付属品まで含めました[1]。10 月には、工作機械の輸入の許可も統制官を通すことになっています[11]。
では、その統制官は誰だったのか。第一次世界大戦の工作機械部を率いた Alfred Herbert の名が挙がることがありますが、当時の業界誌を見るかぎり、第二次世界大戦の統制官は Herbert ではありません。The Engineer の 1940 年 6 月 21 日号は、統制官 Arthur A. Rowse(ラウズ)の辞任を伝え、Rowse は 12 か月前に Burgin 大臣の顧問になり、開戦直後に工作機械の統制を引き受けたと書いています。後任の統制官は Percy Mills(パーシー・ミルズ)、次長は J. C. Blair でした[12]。Rowse は Morris Motors の生産担当重役を 15 年務めた人で、のちの業界誌も、Burgin が補給相だった時期に Rowse が統制官だったと紹介しています[13]。Herbert は 1940 年 1 月、「前の大戦の統制官」として労働力の不足を論じ、講演や自社の機関誌で政府の統制について発言を続けましたが、第二次世界大戦の統制の長には就いていません[14][15][5]。
ダンケルクの後
開戦から 1 年あまり、統制は手さぐりでした。どの省がどの機種をどれだけ要るのか、だれにも分からなかったのです。米国への注文も、1940 年 6 月までは各社が個別の輸入許可でばらばらに出していて、その記録さえ残っていません[16]。1940 年 6 月、フランスが降伏しダンケルクから兵が引き揚げると、事態は一変します。6 月 17 日、米国への工作機械の注文はすべて英国購買委員会を通すことに決まりました[16]。同じころ、フランスが米国に注文していた大量の工作機械を英国が引き取ります[16]。国内では、メーカーに売れ残りの損を国が補う「継続協定」を出し、機種ごとに前の数か月より高い率で作り続けさせました。統制の人手では、メーカーごとに作る量を決めている時間がなかったからです[1]。
許可制と「使い方」の調べ
1940 年 12 月 9 日、輸入品を含めて、工作機械を買うにはすべて統制の許可が要るようになります[16][1]。第一次世界大戦の許可制と同じく、重複した注文や急がない注文を除き、全国の注文を見渡すための仕組みでした。統制が退けた注文は 1942 年だけで 8,000 台にのぼります[1]。
第二次世界大戦の統制で新しかったのは、工作機械の使い方まで調べたことです。統制の活用の課は、注文された機械が本当にその仕事に合っているか、台数が多すぎないか、今ある機械が十分な時間動いているかを確かめ、合う機種に替えさせるだけで能率が 50% 上がることもよくあったといいます。フライス・研削など作業ごとの専門家の組を工場に送り、機械の並べ方と工程の順番を見直させることもありました[1]。1941 年 9 月には、業界から集めた実演者と作業者約 120 人の緊急工作機械活用隊ができ、新しい機械の立ち上げと作業者の訓練を手伝っています[1]。
米国からの機械:cash and carry から Lend-Lease へ
開戦からしばらく、米国の品物は代金を払って自分で運ぶ「cash and carry」が原則でした。英国は少ないドルを食料・原料・工作機械に優先して回し、兵器そのものはあまり買えませんでした[16]。1940 年の工作機械の輸入は 7 万 2,261 トン、1941 年は 7 万 7,658 トンと、1 年で第一次世界大戦の 4 年分を超えます。米国から届いた工作機械は 1940 年に 3 万 3,111 台、1941 年に 3 万 2,044 台で、1940〜41 年は国内の総供給の少なくとも 3 分の 1 を輸入が占めました[1]。
1941 年 3 月、米国で武器貸与法(Lend-Lease)が成立し、支払いの制約が外れます。ただ、1941 年中の武器貸与の物資は主に食料と原料で、兵器が大量に届くのはその後でした[16]。機種で見ると、輸入頼みはもっとはっきりします。1940〜41 年の米国からの年間の最大の輸入台数を 1942 年の英国の生産台数と比べると、自動盤は 249%、タレット旋盤は 280%、立てボール盤は 198% と、国内の生産を上回っていました[1]。米国から来たのは、量産用の高度な専用機が中心でした。
1942 年の山と、人
英国の工作機械の生産は 1942 年に最高になります。9 万 5,788 台・3,350 万ポンド、重さで 20 万トンを超え、1935 年の約 4.5 倍でした[1]。工作機械を主に作る会社は 1939 年の約 190 社から 1942 年はじめには 330 社を超え、完成機を作る下請けも約 310 社、合わせて 600 社余りが関わりました。それでも、最盛期の生産の約 75% は戦前からの会社が出しています[1]。
増産を縛ったのは人でした。工作機械を作る仕事は熟練工の割合が高く、1942 年 3 月の時点で全体の 62%、男の作業者の 75% が熟練工です。小さな会社が多く、量産の方式もほとんどなかったため、熟練の仕事を分けて未熟練の人に回す「希釈(dilution)」も進めにくかったのです。1943 年 3 月の 6 万 8,600 人が最多で、女性が 2 割を超えました[1]。2 交代で動かす工場も少なく、1941 年 10 月に来た米国の調査官は、英国のメーカーが設備を使い切っていないと指摘しています。英国の生産が増えれば米国への注文を減らせる、というのが米国側の見方でした[1]。
作れなかった機械を作る
戦争の後半、統制は「英国で作ったことのない機械」に手を付けます。1942 年 12 月、統制総監(1941 年から Controller General)は、これまで英国で作っていなかった主な機種を月 66 台作れるようになり、250 台に増やす計画だと報告しました。5 種類の自動盤、ブローチ盤、自動フライス盤、歯車形削り盤など、米国製の少なくとも 14 機種の代わりになる機械です[1]。同時に、同じ用途の機械を作る会社の重なりを減らし、1943 年末までに 100 を超える銘柄の生産をやめさせました[1]。1944 年には輸入は国内の供給の 6 分の 1 まで下がり、輸出が輸入を上回ります[1]。
影の工場も大きく育ちました。Ford が Manchester の Trafford Park に建てた Merlin エンジンの工場は、建物の費用 150 万ポンドに対して工作機械に 400 万ポンド余りをかけ、1941 年 10 月に最初のエンジンを出し、1944 年には月平均 900 台と、1 つの工場として最大の月産に達します。同じ型のエンジンに専念できたことが強みでした[1]。1944 年はじめのエンジンの月産は、影の工場が 2,483 台、本来のメーカーが 3,007 台でした[1]。
二つの大戦で何が同じで、何が違ったか。どちらの戦争でも、英国は米国の工作機械に頼り、注文を許可制にして配分しました。違うのは、第二次世界大戦では統制が工場の中の機械の使い方まで踏み込み、さらに輸入していた機種を国内で作らせたことです。Hornby の戦史は、英国の代わりの機種を育てれば、かなりの程度まで外国に頼らずにすむことが分かった、と結んでいます[1]。ただし、その教訓が戦後の英国の工作機械工業にどう生かされたかは、第 4 章で見るように別の話です。
統制の終わりと戦後(1945 年〜)
戦争の終わりが見えると、統制はゆるめられます。1945 年 2 月 1 日、補給省は全面的な統制を「選択的な統制」に切り替えました。足りない機種だけを指定の一覧に残してそれ以外の注文の許可をやめ、新しい金属加工機械の価格の統制も外しました。木工機械の許可と価格の統制は続きます[20]。政府が持っていた余りの工作機械は統制の「プール」に集められ、産業の設備を入れ替えやすいよう買い手に有利な値段で売り出されました。London・Birmingham・Bristol・Glasgow・Leeds・Manchester の事務所で在庫の記録を見ることができ、買い手は英国内で自分の事業に使うと約束し、転売のための買い付けは認められませんでした[20]。
工作機械を作る人は、1945 年 5 月には 4 万 5,000 人に減っていました[1]。戦後の英国の工作機械工業の総生産額は、1948 年の 7,210 万ポンドから 1952 年には 1 億 4,880 万ポンドに増えます。戦争中の山から下がった 1940 年代の終わりは不況と受け止められましたが、のちの研究は、それは戦前の水準に戻っただけだったと見ています[18]。戦時に入れた米国の量産機と、戦時に覚えた「機種をしぼって作る」やり方は、戦後の工場に残りました。英国の工作機械がこのあと NC と輸入の波にどう向き合ったかは、第 4 章「NC・FMS と産業の縮小、そして再生」で扱います。
⛩日本とのつながり
日本と英国の工作機械の関係は、この章の時代には向きが入れ替わる場面がありました。1909 年に英国の工作機械の輸出が急に増えたとき、増えた分の多くは、軍備を広げていた日本・イタリア・ロシア・フランスへ向かいました[1]。明治の日本は、英国の工作機械を買う側だったのです。ところが第一次世界大戦でヨーロッパからの供給が細ると、今度は日本の池貝鉄工所が英国・ロシアなどへ旋盤を輸出し、1915 年には英国へ旋盤 5 台を送っています(国産アーカイブ第 1 章「国産旋盤の系譜」)[7]。英国が米国の機械を必死に集めていた時期に、日本の旋盤も少しだけその穴を埋めていたことになります。
工作機械を国が統制する、という点でも両国は同じ道を通りました。日本は 1938 年に工作機械製造事業法をつくり、一定以上の設備を持つ会社を許可会社に指定して増産させました[23]。米国が 1940 年に日本への工作機械の輸出を止めると、それまで輸入の 8 割以上を米国に頼っていた日本は大きな打撃を受けます[24]。同じ時期の英国は、反対に米国からの工作機械と武器貸与で戦時の生産を支えました。日本側の流れは国産アーカイブ第 1 章の年表と、生産額の推移をまとめた数字で見る国産工作機械の歴史にあります。
⑂組織と工場の系図
この章に出てくる、工作機械を統制した役所と、主な工作機械メーカー・影の工場の移り変わりです。帯の色が変わるところで名前や経営が変わっています。帯の右端は、この章で確かめた時点までで、点線の先はこの章では確かめていません(Alfred Herbert と 600 Group のその後は第 4 章)。
見に行ける所
この章の一次資料が残る文書館と、Alfred Herbert ゆかりの博物館です。開館日・閲覧の条件は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。
⌛年表
この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料が開きます。「p.」は本・誌面のページ、「コマ」は Internet Archive のスキャンの番号、「PDF p.」は博士論文の PDF のページです。
第一次世界大戦と軍需省の工作機械部1907〜1918 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1907年 | 英国の工作機械の生産額は 290 万ポンド、重さにしておよそ 4 万 5,000 トンと見積もられる。1913 年の生産量も、ドイツの輸出量を上回らなかったとみられる | — | [1・p.323] |
| 1909年 | ★英国の工作機械の輸出が 1908 年の 8,183 トンから 1 万 5,164 トンに急増する。増えた分の多くは、軍備を広げていた日本・イタリア・ロシア・フランスへ向かった | — | [1・p.323][1・p.324] |
| 1910〜11 年 | 業界団体 Machine Tool Trades Association(MTTA)ができる。前身の Machine Tool and Engineering Association は 1910 年に生まれ、1911 年に MTTA の名で事務局長を募った。Alfred Herbert は有力な会員で、のちに会長になるPEP(1957)は 1910 年、初代の事務局長 Herbert Williams の回想(1944)と Gas Journal(1948)は 1911 年とする | — | [2][3][4][5・p.680] |
| 1913年 | ドイツの工作機械の輸出は英国の少なくとも 4 倍、米国は約 3 倍。英国の生産は平時の国内の需要をまかなうには足りており、輸入 3,852 トンに対して輸出は 1 万 6,537 トンだった | — | [1・p.323][1・p.324] |
| 1914年8月 | 第一次世界大戦が始まる。それまでの輸入元は米国とドイツで、ドイツからの輸入が止まると米国がほぼ唯一の輸入先になる。軽い工作機械と小工具の多くは米国製に頼っていた | — | [6・コマ415] |
| 1915 年夏 | 重い砲弾をつくるため、建物から新しく建てて設備する国営発射体工場(National Projectile Factories)の計画が始まる。設備の工作機械の手配は工作機械部の仕事になった | — | [6・コマ44][6・コマ424] |
| 1915 年秋 | 工作機械部が Searle と Lang を米国に送り、英国向けの出荷を増やすよう頼む。一般の機械工場にも工作機械を作らせ、J. P. Morgan を通じた注文は 100 万ポンドに達した。品質と納期にばらつきがあり、米国に検査の仕組みを置いた | — | [6・コマ419][6・コマ426] |
| 1915年 | 第一次世界大戦中、日本の池貝鉄工所が英国・ロシアなどへ旋盤を輸出する。1915 年には英国へ旋盤 5 台を送った | 池貝 | [7・コマ66] |
| 1915年3月 | 工場監督官が全国の工場の工作機械を調べる。政府の仕事に使われていたのは約 30% だけだった。ただ、この調べは機種の細かい情報がなく、役に立たなかったとされる | — | [6・コマ423] |
| 1915年3月 | 工作機械の業界団体の長で、国内最大級の工作機械メーカーを率いる Alfred Herbert(アルフレッド・ハーバート)が、混乱した工作機械の配分を立て直す案を Lloyd George らに手紙で送り、3 月 22 日に自分の働きを申し出る | Alfred Herbert | [6・コマ416][8・コマ380] |
| 1915年4月 | 4 月 26 日の枢密院令で、金属加工機械の一部の外国への輸出が禁じられる | — | [8・コマ381] |
| 1915年4月 | ★4 月 25 日、陸軍省の Girouard の依頼で Herbert が工作機械業界の組織づくりを引き受け、27 日に London の Cecil Chambers で工作機械部(Machine Tool Department)が動き始める。初めは権限のはっきりしない陸軍省の一部局だった | Alfred Herbert | [8・コマ381][6・コマ416] |
| 1915年5月 | 5 月 10 日、陸軍会議の名で工作機械メーカーに命令が出る。受注を A(英国と連合国の政府・軍需会社とその下請け)と B(中立国・民需など)に分け、A を先に納め、B は止めたり振り替えたりしてよいとした。のちの優先順位の仕組みの手本になった | — | [8・コマ381][6・コマ423] |
| 1915年5月 | 5 月 7 日、Leeds の国営砲弾工場(National Shell Factory)の計画が承認される。地元の委員会が経営を引き受ける方式で、6 月末までに 17、年末までに約 30 の工場が決まる | — | [6・コマ45] |
| 1915年5月 | ★5 月 14 日、Times 紙に Repington の記事が載り、敵の塹壕をくずす高性能爆薬の砲弾が足りないことが国民に知られる(砲弾不足、Shell Crisis)。19 日に連立内閣への組み替えが発表される | — | [8・コマ548] |
| 1915年6月 | ★6 月 9 日、軍需省(Ministry of Munitions)をつくる法律が裁可され、Lloyd George が初代の大臣になる。工作機械部は陸軍省から軍需省へ移り、Herbert が引き続き率いる | — | [8・コマ548][6・コマ416] |
| 1915年6月 | Girouard が大臣への報告で、工作機械が足りないことが、英国のメーカーが弾薬の約束を果たせなかった大きな原因の 1 つだと書く。米国に頼んだフライス盤や旋盤の到着も、港の混雑で何週間も遅れていた | — | [8・コマ379] |
| 1915年7月 | Lloyd George の提案で、大臣が任命する 6 人の工作機械諮問委員会(主な産地 4 地区の代表と輸入業者の代表、委員長は Herbert)ができる | — | [6・コマ417][9] |
| 1915年7月 | ★7 月 16 日の通達で、工作機械業界は軍需法の下で統制されることになり、注文はすべて工作機械部の許可が要るようになる。この月の調べでは、メーカーは平均 6 か月先まで受注で埋まっていた | — | [6・コマ423][6・コマ424] |
| 1915年8月 | Alfred Herbert 社がヒューズ用ゲージ 50 組を納める。当時の英国には精密な旋盤や研削盤がほとんどなく、とくにねじゲージを細かい公差で作る機械が足りなかった | Alfred Herbert | [6・コマ394] |
| 1915年9月 | 工作機械部に小工具の課ができ、工場を回る監督官が置かれ始める。同じ月に Birmingham の小工具工場が国の管理に入り、11 月には Croydon のゲージ工場が続く | — | [6・コマ416][6・コマ418][6・コマ55] |
| 1915年11月 | 布告で、工作機械の輸入は商務省(Board of Trade)の許可制になる。ねらいは数量の制限ではなく、値段の管理だった | — | [6・コマ426] |
| 1916年5月 | Gateshead に国営の工具工場(National Tool Factory)ができ、Lumsden Machine Tool の Lumsden が経営する。砲弾の穴をくりぬくスペードカッタを形をそろえて作り、1916 年末に週 3,000 本、のちに 5,000 本。値段は市価の半分にできた | National Tool Factory(Gateshead) | [6・コマ428] |
| 1916年8月 | 国土防衛法の規則 30A が工作機械業界に適用され、許可なしに商売ができなくなる。主なねらいは値段の統制だった | — | [6・コマ425] |
| 1917年 | ロシア・フランス(1915 年からはイタリアも)への工作機械の輸出が、1914 年の 5,000 トン余りから 1 万 8,000 トンを超えるまでに増える。平時に英国の機械に頼っていた連合国を支えるためだった | — | [1・p.324] |
| 1917年 | 軍需省での働きにより、Herbert が大英帝国勲章(K.B.E.)を受け、Sir Alfred Herbert になる | Alfred Herbert | [5・p.680] |
| 1915〜18 年 | 大戦の 4 年間に輸入された工作機械は計 7 万 7,000 トン。英国の年間の生産は多い年でも 10 万トンを超えず、1913 年の約 2 倍だったとみられる | — | [1・p.326] |
| 1918年2月 | 米国の参戦で米国製の機械が回ってこなくなり、大臣が米国機の輸入を最小にする方針を示す。工作機械部はメーカーごとに作る機種をしぼらせ、国内で作れる量を増やそうとした | — | [6・コマ425][6・コマ427] |
| 1918年4月 | Edward M. Iliffe が Herbert の後を継いで工作機械部の長(Controller)になる。休戦のときの工作機械部は 7 つの課(供給・価格・小工具・クレーン・統制・調査・払い下げ)を持っていた | — | [6・コマ417] |
戦間期:重い機械の時代の終わりと輸入頼み1919〜1935 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1919年 | Herbert が Machine Tool Trades Association の会長になり、1934 年まで 15 年務める | Alfred Herbert | [5・p.680] |
| 1920 年代 | 戦後の好景気が終わると、造船・機関車・大砲向けの重い工作機械を作っていた老舗の多くが工作機械から手を引く。19 世紀の英国の工作機械工業を支えた分野だった | — | [1・p.333][1・p.334] |
| 1920 年以降 | ドイツが工作機械の輸出で再び首位に立つ。英国の輸出は戦前の量を下回り続け、1913 年の水準に戻ったのは 1932 年だった | — | [1・p.324] |
| 1925〜35 年 | ★英国の工作機械の輸入は平均年 8,000 トンで、1911〜13 年の平均 2,449 トンを大きく上回る。自動車と軽機械の工場が、量産用の自動盤や専用機を米国とドイツから入れたためで、英国の業界はこの分野の機械をほとんど作ってこなかった | — | [1・p.325] |
| 1929年 | 国防の補給委員会(Supply Board)ができる。1930 年にゲージ、1931 年に工作機械の小委員会が置かれ、戦時の生産能力と機種ごとの手に入りやすさを調べる。ゲージと精密な工作機械では効果があったが、全体の供給には届かなかった | — | [1・p.345] |
| 1931 年から | ソ連の重工業づくりに向けた大口の輸出が始まる。英国の工作機械の輸出が大きく伸びるのは、こうした外国の基幹産業の設備の注文があるときだった | — | [1・p.334] |
| 1932年 | East London の 600 Commercial Road を名の由来とする 600 Group が、最初の工作機械の会社をつくる。のちに Colchester Lathes(1954 年)と T. S. Harrison(1971 年)を買い、英国一の旋盤メーカーになる | 600 Group | [10] |
| 1933年 | 1935 年を 100 とした英国の工作機械の生産の指数は、1924 年が 60、1930 年が 72、不況の底の 1933 年は 47 まで下がる(1934 年は 74) | — | [1・p.332] |
| 1933〜37 年 | 世界の工作機械の貿易に占める英国の割合は 1933 年の 10.0% から 1937 年の 7.1% に下がる。1937 年はドイツが 48.3%、米国が 35.3% だった | — | [1・p.324] |
| 1935年 | 生産センサスで、工作機械工業は 123 事業所・2 万 1,000 人。生産の約 3 分の 1 が輸出され、国内の工場が手に入れる工作機械の約 4 分の 1 が輸入だった。上位 10 工場で生産の半分を占めた | — | [1・p.325][1・p.334] |
再軍備と影の工場1936〜1939 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1936年 | 下院の討論で Lloyd George と Churchill が工作機械の大切さを強く訴え、Lloyd George は国が工作機械を作ることを提案する。政府はこれを採らず、国防調整相が業界団体(MTTA)と会合を重ねる。3 軍の需要は 1936〜38 年で少なくとも 1,100 万ポンド分で、1935 年の英国の生産額 650 万ポンドと比べて大きな負担だった | — | [1・p.321] |
| 1936年 | 大砲と弾薬を作る専用機は英国で設計して作ると決まる。開戦のときには一部の専用機の生産能力ができており、輸入に頼る危うさを大きく減らした | — | [1・p.341] |
| 1936年3月 | ★国防白書(Cmd. 5107)で航空機の「影の工業(shadow industry)」が発表される。自動車会社が国の費用で建てた工場を運営し、航空機と Bristol 型エンジンを作る仕組みで、まず 7 社の自動車会社が加わった | — | [1・p.218][1・p.219][1・p.255] |
| 1936年7月 | ★輸出を減らさずに再軍備の需要に応えるため、政府と業界が関税なしの工作機械の輸入を増やす方針で合意する。1936 年の輸入は重さで 1935 年の約 3 倍になった | — | [1・p.322] |
| 1937年11月 | 自動車会社の影の工場の組が、最初の航空機エンジン(Bristol 型)を納める。部品ごとに会社を分けて作る、珍しい共同の仕組みだった | — | [1・p.255] |
| 1938年 | 工作機械の輸出が過去最高になり、生産の 3 分の 1 余りを占める。多くはソ連向けだった | — | [1・p.323][1・p.326] |
| 1938年 | Nuffield が Spitfire を作る巨大な影の工場(100 万平方フィート超)を引き受ける。1940 年 5 月に Vickers の経営に移り、1943 年には Spitfire の最盛期の生産の 70% を出した | — | [1・p.220] |
| 1939年 | 英国の工作機械の生産は 1935 年の 5 万トン足らずから約 10 万トンに倍増し、台数は 3 万 7,000 台。それでも陸軍の拡張で需要が急に増え、生産の半分まで輸出を伸ばす方針は見直された | — | [1・p.323][1・p.326][1・p.330] |
| 1939年5月 | Rolls-Royce の Merlin エンジンの需要が倍になり、同社が経営する大きな代理工場をスコットランド(Glasgow)に建てる計画が 500 万ポンド余りで承認される | Rolls-Royce | [1・p.257] |
第二次世界大戦と Machine Tool Control1939〜1945 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1939 年秋 | ★開戦で工作機械統制令(S.R.&O. 1939 No.1373)が出され、顧問の Rowse が工作機械統制官(Controller of Machine Tools)になる。工作機械を作る・持つ・使う人すべてに補給省の指示に従う義務が生まれ、10 月には工作機械の輸入の許可も統制官を通すことになった | — | [1・p.346][1・p.348][11][12・p.547] |
| 1939年6月 | 補給省(Ministry of Supply)ができ、大臣の工作機械顧問が置かれる。Morris Motors の生産担当重役だった Arthur A. Rowse が Burgin 大臣の顧問になった | — | [1・p.346][12・p.547][13] |
| 1940年 | 工作機械の輸入が 7 万 2,261 トンに急増し、米国から 3 万 3,111 台が届く(1941 年の輸入は 7 万 7,658 トン)。1940〜41 年は国内の総供給の少なくとも 3 分の 1 を輸入が占めた | — | [1・p.326][1・p.330][1・p.331] |
| 1940年1月 | 70 代になった Sir Alfred Herbert は、前の大戦の統制官として、労働力の不足が軍需品と工作機械の生産をおさえていると発言する。第二次世界大戦では統制の長には就かず、自社の経営と講演・論説を続けた | Alfred Herbert | [14][15][5・p.680] |
| 1940年1月 | Ford が Rolls-Royce の Merlin を作る影の工場の場所が Trafford Park(Manchester)に決まる。建物 150 万ポンドに対し、工作機械に 400 万ポンド余りが見込まれた | Ford | [1・p.257] |
| 1940年6月 | ★6 月 17 日、統制官 Rowse の辞任が発表され、Percy Mills が統制官、J. C. Blair が次長になる。Rowse の在任中に、英国の工作機械の生産と米国からの新品・中古の輸入はともに大きく増えていた | — | [12・p.547] |
| 1940年6月 | 6 月 17 日、米国への工作機械の注文はすべて英国購買委員会(British Purchasing Commission)を通すことに決まる。それまでは各社が個別の輸入許可で注文し、記録も残っていなかった | — | [16・p.94] |
| 1940年6月 | ダンケルクの後、フランスが米国に注文していた大量の工作機械を英国が引き取る。補給省が言い出したもので、一部は航空機を急ぐため米国のメーカーに回された | — | [16・p.230][16・p.235] |
| 1940年6月 | フランスの降伏を受け、メーカーに売れ残りの損を国が補う「継続協定」を出し、機種ごとに前の数か月より高い率で作り続けさせる。配分の課もこの月にできた | — | [1・p.352][1・p.353] |
| 1940年11月 | 「工作機械週間」が開かれ、統制官 Mills が「Machine Tools for Victory」を合言葉に、遊んでいる工作機械の届け出と活用を呼びかける | — | [17] |
| 1940年12月 | ★12 月 9 日、輸入品を含むすべての工作機械の購入に統制の許可(ライセンス)が要るようになる。重複した注文や急がない注文を除き、統制が初めて全国の注文を見渡せるようになった | — | [16・p.94][1・p.350] |
| 1941年 | 統制官の肩書きが工作機械統制総監(Controller General)になる。本部の職員は 1940 年 1 月の 33 人から 1943 年 4 月には 650 人を超えた | — | [1・p.346][1・p.347] |
| 1941年2月 | Coventry の空襲を受けて、エンジン工場の予備の生産場所として、Coventry の近くにトンネルの工場をつくる案が出される | — | [1・p.207] |
| 1941年3月 | ★米国で武器貸与法(Lend-Lease)が成立する。それまでは代金を払って自分で運ぶ「cash and carry」で、少ないドルを食料・原料・工作機械に回していた。武器貸与の物資は 1941 年中は主に食料と原料だった | — | [16・p.229][16・p.236] |
| 1941年4月 | 新しい工作機械工場 6 か所(250 万ポンド)を国の代理工場として建てる案をやめ、下請けと既存の工場の拡張に頼ると決める | — | [1・p.335] |
| 1941年9月 | 緊急工作機械活用隊(Emergency Machine Tool Utilisation Corps)ができる。業界から集めた実演者・作業者約 120 人が 40 組ほどに分かれ、新しい機械の立ち上げと作業者の訓練を手伝った | — | [1・p.351][1・p.352] |
| 1941年10月 | 米国の調査官が英国の工作機械メーカーを調べ、2 交代で動かしている工場が少ないと指摘する。英国が設備を使い切れば米国への注文を減らせる、という米国側の見方を裏づけた | — | [1・p.340] |
| 1942年 | ★英国の工作機械の生産が最高になる。9 万 5,788 台・3,350 万ポンド、重さで 20 万トン超。工作機械を主に作る会社は 1939 年の約 190 社から 330 社超に、完成機を作る下請けも約 310 社に増え、600 社余りが関わった | — | [1・p.326][1・p.330][1・p.333][1・p.336] |
| 1942年6月 | 生産省(Ministry of Production)ができ、工作機械の需要のとりまとめ・配分・活用は生産相、生産と海外からの調達は補給相、と統制総監の責任が分けられる | — | [1・p.346][1・p.347] |
| 1942年12月 | 統制総監が、これまで英国で作っていなかった主な機種を月 66 台作れるようになり、250 台に増やす計画だと報告する。5 種類の自動盤、ブローチ盤、自動フライス盤、歯車形削り盤など、米国製の少なくとも 14 機種の代わりになる機械だった | — | [1・p.343][1・p.344] |
| 1943年 | 同じ用途の機械を作る会社の重なりを減らすため、メーカーの諮問委員会と相談して、この年の終わりまでに 100 を超える銘柄の工作機械の生産をやめさせる | — | [1・p.354] |
| 1943年3月 | 工作機械の生産に就く人が 6 万 8,600 人で最多になる。女性は 1 万 3,800 人で、熟練の男の仕事とされてきた業界で 2 割を超えた | — | [1・p.338][1・p.339] |
| 1944年 | 輸入は国内の供給の 6 分の 1 まで下がり、輸出(3 万 2,262 トン)が輸入(1 万 6,895 トン)を上回る。国内の需要が戦時の山を越え、英国の生産で量は足りるようになった | — | [1・p.326][1・p.327][1・p.330] |
| 1944年 | Ford の Trafford Park 工場が月平均 900 台の Merlin を出し、1 つの工場として最大の月産になる。1944 年はじめのエンジンの月産は、影の工場が 2,483 台、本来のメーカーが 3,007 台だった | Ford | [1・p.255][1・p.257] |
| 1944年 | Alfred Herbert 社が株式を公開する。1959 年には資本 1,100 万ポンドの英国最大の工作機械メーカーだった | Alfred Herbert | [18・PDF p.96] |
| 1944年11月 | Percy Mills が、ドイツ管理委員会の英国側の経済部門の長になるため、工作機械統制総監を退く。後任は Machine Tool Control の幹部で米国に駐在していた S. F. Steward | — | [19] |
統制の終わりと戦後1945 年〜
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1945年2月 | ★2 月 1 日、補給省が工作機械の全面的な統制を「選択的な統制」に切り替える。足りない機種だけを指定の一覧に残し、新しい金属加工機械の価格の統制はやめた(Control of Machine Tools (No.14) Order) | — | [20・p.174] |
| 1945年4月 | 政府が持っていた余りの工作機械は工作機械統制の「プール」に集められ、買い手に有利な値段で売り出される。London・Birmingham・Bristol・Glasgow・Leeds・Manchester の事務所で在庫の記録を見られ、買い手は英国内で使うことを約束した | — | [20・p.174] |
| 1945年5月 | 工作機械の生産に就く人は 4 万 5,000 人まで減る(最多の 1943 年 3 月は 6 万 8,600 人) | — | [1・p.338] |
| 1948〜52 年 | 英国の工作機械工業の総生産額は 1948 年の 7,210 万ポンドから、1952 年には 1 億 4,880 万ポンドに増える。戦時の山から下がった 1940 年代末は不況と受け止められたが、戦前の水準に戻っただけだった | — | [18・PDF p.98][18・PDF p.99] |
| 1952年11月 | 下院の歳出委員会が王立兵器工場について報告し、工場が工作機械を買うときは、なお「品不足を理由とする工作機械統制官(Controller of Machine Tools)の承認」に従うと書く。工作機械の統制の一部は 1952 年にも残っていた | — | [21] |
よくある質問
- 第一次世界大戦の「砲弾不足(Shell Crisis)」と工作機械はどう関係していますか?
- 1915 年 5 月に砲弾、とくに高性能爆薬の砲弾が足りないことが新聞で明らかになり、軍需省ができるきっかけになりました。砲弾を増やすには、砲弾を削る旋盤やゲージを作る精密な機械が要ります。軍需供給局長の Girouard は、工作機械の不足をメーカーが弾薬の約束を果たせなかった大きな原因の 1 つに挙げており、軍需省は Alfred Herbert の率いる工作機械部で注文を許可制にし、配分を統制しました。
- 第二次世界大戦の Machine Tool Control の長は Alfred Herbert でしたか?
- いいえ。Herbert が統制の長(Controller)を務めたのは第一次世界大戦の工作機械部(1915〜1918 年)です。第二次世界大戦の工作機械統制官は、開戦から 1940 年 6 月までが Morris Motors 出身の Arthur A. Rowse、その後が Percy Mills(1941 年から統制総監。1944 年 11 月に退き、後任は S. F. Steward)でした。70 代だった Herbert は、講演や論説で発言を続けました。
- 英国はなぜ二つの大戦で米国の工作機械に頼ったのですか?
- 英国の工作機械工業は、国内と輸出で確かな需要がある機種にしぼって作り、自動車などの量産に使う自動盤や専用機は米国とドイツからの輸入に任せていたからです。戦争では、まさにその量産用の機械が大量に要りました。1940〜41 年は国内の総供給の少なくとも 3 分の 1 が輸入で、自動盤やタレット旋盤は米国からの輸入が国内の生産を上回りました。
- 「影の工場(shadow factory)」とは何ですか?
- 1936 年の再軍備で始まった仕組みで、国の費用で建てて設備した工場を、航空機会社の外の会社(とくに自動車会社)に運営させ、航空機やエンジンを作らせたものです。のちには航空機会社が運営する国の工場も影の工場と呼ばれました。Ford が Merlin エンジンを作った Trafford Park の工場はその代表で、工作機械に建物の 2 倍以上の費用がかかりました。
この先と関係するページ
出典
公刊の戦史と業界誌は Internet Archive、博士論文は University of Warwick の WRAP、公文書は The National Archives の目録で 2026 年 10 月に確かめ、使ったページを書いています。軍需省史(History of the Ministry of Munitions)は 1 冊に複数の部がとじてあり同じページ番号がくり返すため、番号は Internet Archive のスキャンのコマ(n 番号)です。公刊の戦史は政府の立場からの記述で、戦時の数字には集め方の違いがあるため、本文では資料ごとの数字を書き分けました。日本側の出来事は国産アーカイブの出典を使っています。
- William Hornby『Factories and Plant』History of the Second World War, United Kingdom Civil Series(HMSO、1958)p. 207・218・219・220・255・257・321・322・323・324・325・326・327・330・331・332・333・334・335・336・338・339・340・341・343・344・345・346・347・348・350・351・352・353・354
- PEP『Industrial Trade Associations』Allen & Unwin(1957)
- Sir Herbert Williams『Politics — Grave and Gay』Hutchinson(1944)第 5 章「A New Job」p.49(MTTA の初代の事務局長の回想)
- Gas Journal 第 255 巻 4448 号(1948 年 9 月 1 日)p.479「Machine Tool and Engineering Exhibition」
- Engineering 第 183 巻 4760 号(1957 年 5 月 31 日)p.680 訃報「Sir Alfred Herbert」p. 680
- Ministry of Munitions『History of the Ministry of Munitions』第 8 巻『Control of Industrial Capacity and Equipment』(HMSO、1922 年ごろ)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号)コマ 44・45・55・394・415・416・417・418・419・423・424・425・426・427・428
- 日本工学会『明治工業史 機械・地学篇』(1930)コマ 66
- Ministry of Munitions『History of the Ministry of Munitions』第 1・2 巻(HMSO、1922 年ごろ。第 1 巻第 3 部 Industrial Mobilisation 1914-15、第 2 巻第 1 部 General Administration)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号)コマ 379・380・381・548
- The National Archives(Kew)MUN 4/5019「Machine Tool Committee: minutes」(1915 年 7 月〜1919 年 4 月)
- The 600 Group PLC「About:Company History」
- The Board of Trade Journal 第 143 巻 2238 号(1939 年 10 月 26 日)工作機械の輸入許可と Controller of Machine Tools
- The Engineer 第 169 巻 4406 号(1940 年 6 月 21 日)p.547「Ministry of Supply Departmental Changes」p. 547
- Electrical Review 第 133 巻 3424 号(1943 年 7 月 9 日)A. A. Rowse の紹介
- Engineering 第 149 巻 3861 号(1940 年 1 月 12 日)Sir Alfred Herbert の発言の記事
- Journal of the Institution of Production Engineers 第 19 巻 6 号(1940 年 6 月)Sir Alfred Herbert の講演「We are at War」
- M. M. Postan『British War Production』History of the Second World War, United Kingdom Civil Series(HMSO、1952)p. 94・229・230・235・236
- Gas Journal 第 232 巻 4042 号(1940 年 11 月 6 日)論説「Machine Tools for Victory」
- Ross Hamilton『Continuous Path: The Evolution of Process Control Technologies in Post-War Britain』University of Warwick 博士論文(1997)※番号は PDF のページPDF p. 96・98・99
- Foundry Trade Journal 第 74 巻 1474 号(1944 年 11 月 16 日)(Percy Mills の工作機械統制総監の退任と後任)
- The Board of Trade Journal 第 151 巻 2524 号(1945 年 4 月 21 日)p.174「Machine Tool Control」p. 174
- The Engineer 第 194 巻(1952 年 11 月 28 日)下院歳出委員会の王立兵器工場の報告の要約
- The National Archives(Kew)AVIA 46/180「Machine tool control 1939-1945」(補給省の叙述史料)
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「工作機械製造事業法・御署名原本・昭和十三年・法律第四〇号」
- 一寸木俊昭『日本の工作機械工業の発展過程の分析』(1963)