USA 08アメリカの研削盤の系譜

研削盤は、砥石の無数の小さな粒で少しずつ削り、焼入れした硬い部品を μm(1000 分の 1 mm)の精度に仕上げる機械です。アメリカは、万能研削盤、人造の砥粒(カーボランダムと人造アルミナ)、旋盤の仕上げを置き換えた重研削、ころや軸を支えずに研ぐセンタレス研削、焼入れ後に穴の位置を研ぐジグ研削盤、鉄を研げる超砥粒の CBN を、次々に実用にしました。この章では、砥石と機械の仕組みがどう変わり、工場の仕事がどう変わったかを、Woodbury の研究書・当時の業界誌・特許・博物館の資料で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典(ページが分かるものはページ番号)を付けてたどります。

機械と砥石は
二人三脚で
進んだんだ!

マスコットのチップス

研削盤は、何を研ぐかで形が分かれます。丸い軸の外側を研ぐ円筒研削盤(砥石台や主軸台が首を振れて内面やテーパも研げるものが万能研削盤)、穴の内側の内面研削盤、平らな面の平面研削盤、工作物をセンタで支えずに 2 つの車の間で回すセンタレス研削盤、そして歯車・ねじ・カム・工具などの形を研ぐ専用機です。今の研削盤と砥石の表示の読み方は研削の基本に、日本の研削盤の歴史は国産アーカイブ第 3 章「研削盤の系譜」にまとめています。歯車研削盤はアメリカの歯車機械の章で扱います。

砂岩とエメリー:研削盤の始まり(1818〜1859 年)

19 世紀のはじめ、研削は刃物を研いだり表面を磨いたりする仕事で、寸法を決める加工ではありませんでした。砥石は川原の石と同じ天然の砂岩か、鉄分の多い天然のアルミナであるエメリーの粒です。1818 年、Thomas Blanchard(ブランチャード)は Springfield の兵器廠のために、銃身を研ぐ機械を作る約束をしました。銃身の長さより厚い大きな砂岩の砥石をベルトで毎分 400 回転させ、職人がハンドルで銃身を回しながら、てこを体で押して砥石に当てるものです[1]。天然の大きな石は重く、つり合いも悪いので、精度は職人の腕次第でした。

それでもアメリカの機械工は、早くから「研削で寸法をそろえる」ことに目を向けます。Providence(Rhode Island 州)の James Wheaton(ウィートン)が 1834 年 5 月に取った特許の機械は、工作物をセンタで支えて往復台に載せ、動力で回る砥石の前を自動で往復させるものでした。センタには研削の熱で工作物が伸びるのを逃がすばねが入り、砥石がへったら砥石台をねじで寄せられ、ならい板で形も研げました。Wheaton と同じころの Jonathan Bridges の説明から、こうした「紡錘研削盤」は 1830 年より前から使われていたことが分かります。研究者の Woodbury は、今の円筒研削盤の基本の要素がこの時点でほぼそろっていたと見ています[1]。

平らな面を研ぐ機械も生まれました。1831 年に J. W. Stone が取った平面研削盤の特許は、動力で送る平らなテーブルと、ばねで押す砥石を持っていました(明細書は特許庁の火事で失われました)。1853 年に Samuel Darling(ダーリング)が特許を取った平面研削盤は、横軸の砥石の下でテーブルが V 形の案内の上を自動で往復し、横送りと上下の調整を持つ、今の平面研削盤とよく似た形です[2][1]。Darling は 1866 年に Brown & Sharpe に加わり、この特許も同社のものになりました。

この時代に変わったこと。木の枠から鉄の枠へ、手回しから動力の回転と動力の送りへ、という変化で、研削盤は「機械」になりました。ただ、砥石は天然の石か、鋳鉄の円板に膠(にかわ)を塗ってエメリーの粒をまぶした手作りのもので、性質がそろいません。精度は旋盤で出し、研削は磨きの仕上げ、という時代が続きました。

Brown & Sharpe の万能研削盤(1860〜1885 年)

研削を精密加工に変えたのは、時計とミシンです。1860 年ごろ、Nashua(New Hampshire 州)の時計会社のために小さな精密研削盤が作られ、1862 年に Waltham の American Watch Company に移って、時計の部品を互換性のある精度で作る道具になりました[1]。

ミシンのための研削旋盤

Providence の J. R. Brown & Sharpe(ブラウン・アンド・シャープ)は 1858 年から Willcox & Gibbs のミシンを作っていました。針棒や軸は焼入れするので、旋盤では仕上げられません。そこで同社は 14 インチの旋盤の往復台にエメリー砥石を載せ、自動の送りと反転を付けた研削旋盤を作ります(1864 年 11 月の図面)。工作物を止まったセンタ(デッドセンタ)の上で回す車、振れ止め、水を掛ける口が順に足され、数年で約 30 台が作られて 1867 年の最初のカタログに載りました[1][3]。しかし旋盤の改造なので剛性が足りず、往復台に重りを載せて振動を抑えるほどでした。最初の担当者 Thomas Goodrum の日給は 7 ドルで、研削は高給の名人芸でした[1]。

研削のために一から考えた機械

Joseph R. Brown(ジョセフ・ブラウン)は、旋盤の改造ではなく研削のために一から設計した機械を考えます。1868 年 4 月 10 日付の図面は、往復するテーブルの上に角度を変えられる旋回テーブルを載せ、主軸台も旋回できる作りでした。工場が忙しく棚上げになりましたが、1874 年 6 月に製作が始まり、旋回する砥石台・横送りのハンドル・内面研削の付属品を加えて、1875 年 1 月 1 日のカタログに載りました[1][4]。

1876 年、Brown & Sharpe はこの万能研削盤を Philadelphia の建国百年博覧会(Centennial Exposition)に出し、審査員から頑丈でよく考えられた機械だと評されました。展示した 1 号機は閉会後に Mulhouse の会社に売られ、工場で最初に使う機械は、Brown が 7 月 23 日に亡くなった数日後に動き始めています[4][3]。Woodbury の本は「1876 年の Paris 博覧会」と書いていますが、1876 年に Paris の万博はなく、ここでは同社の技師 Burlingame(1910 年)と Roe(1916 年)の記述を採りました。特許(米国特許 187,770)は 1877 年 2 月 27 日に遺産管理人に与えられ、旋回テーブルの上の旋回主軸台など、今の万能研削盤の基本と形を研ぐ装置まで含んでいました[5][6]。

構想の図面1868 年 4 月Brown の口述[1]
出品1876 年Philadelphia 建国百年博覧会[4]
特許米国特許 187,7701877 年 2 月 27 日[5]
販売1880 年までに 15 台以上米国内と海外[1]

この機械が工場にもたらした変化を、当時 Brown & Sharpe の職長で、のちに Cadillac を興す Henry M. Leland は、先に焼入れしてから研いで正確に仕上げられるようになったこと、案内面を砥粒から守ったこと、工作物をデッドセンタで回して主軸の誤差を持ち込まないようにしたことだと回想しています[1]。焼入れのひずみを研削で取るという今の工程の順番は、ここから始まりました。

平面・内面研削盤と、重いロールの研削

Brown & Sharpe は続けて、1877 年に平削り盤形の平面研削盤とプレーン円筒研削盤、1880 年に内面研削の付属品、1883 年に柱形、1885 年にひざ形、1887 年に正面形の平面研削盤を出し、研削盤の主な形が 10 年でそろいました。1885 年には職人の手引『Treatise on Grinding Machines』を出し、研削は焼入れ材にも生材にも使え、安く速く、精度と仕上げ面がよいとまとめ、ゲージで測ることを大きく扱っています[1]。

重い工作物では別の考え方が生まれます。1870 年ごろ、J. Morton Poole(プール)は製紙用の大きなロールを研ぐ機械で、2 つの砥石を振り子のように吊り、ロールの太さが狙いより太い所だけを重力で削るようにしました。案内面の真直度に頼らず、工作物そのものに誤差を直させる仕組みで、真っすぐで太さのそろったロールを研げました[1]。

砥石の革命:ビトリファイドと人造砥粒(1856〜1925 年)

研削盤がいくら精密になっても、砥石の性質がそろわなければ、どの砥石を何 m/s で回せばよいかという知識がたまりません。1860 年ごろまでの砥石は、鋳鉄の円板に膠を垂らしてエメリーの粒をまぶし、油砥石で整えたものを機械工が自分で作っていました。長持ちせず、軽い仕上げにしか使えません[1]。

砥粒を「結合剤」で固める

そこで、砥粒を結合剤で固めた一体の砥石が試されます。1859 年、T. J. Mayall は加硫ゴムでエメリーを固める特許を取り、「Vulcanite」の名で売られました(ゴムの結合剤は、のちのセンタレス研削の調整車に生き残ります)。けい酸ソーダで固める砥石や、焼き固める砥石も試されました[1]。

今の砥石の主流であるビトリファイド(粘土・長石で焼き固めた)砥石は、Worcester(Massachusetts 州)の陶器工場から生まれました。1873 年、F. B. Norton の工場の陶工 Swen Pulson が、エメリーと粘土を焼いて 3 度目に砥石を作ることに成功します。1877 年 2 月に Norton が長石を使う形で特許を取り、1885 年 6 月には事業を引き継ぐ Norton Emery Wheel Company(のちの Norton Company)ができました[1][7][3]。砥石の硬さ(結合度)は、John Jeppson が工具を差し込む手ごたえで決め、柔らかい順にアルファベットで並べました。アルファベットで砥石の硬さを表す今のやり方につながります[1]。1884 年には Detroit の Gilbert Hart の試験で、天然のほぼ純粋なアルミナであるコランダムがエメリーよりはるかによく削れると分かり、1893 年までに砥粒の主役はコランダムに移りました[1]。

砥石は機械と組みで考える必要がありました。1886 年に Brown & Sharpe に来た Charles H. Norton(チャールズ・ノートン。F. B. Norton と血縁はありません)は、社内の研削のトラブルの原因が、砥石のつり合いの悪さと、砥石の結合度に対して周速が速すぎることだと突き止めました。研削のくずを顕微鏡で見て、正しく選んだ砥石なら刃物と同じように小さな切りくずを出すことも示しています[1]。Norton Company は砥石を使う速さの 2 倍で回して試験し、結果を砥石のラベルに書いて出荷しました[1]。

カーボランダムと人造アルミナ

天然のコランダムは高く、性質もばらつきます。1891 年 3 月、電灯会社で働いていた Edward G. Acheson(アチソン)は、電気炉で粘土と炭素を熱した試験で、炭素の電極のまわりに青く光る硬い結晶を見つけました。炭化けい素(SiC)で、炭素(carbon)とコランダムから「カーボランダム」と名付けます。自然にはない、初めての人造の砥粒でした[11][1]。Acheson は 1891 年 9 月 21 日に The Carborundum Company を作り、1893 年に製法の特許を取って、1895 年に安い水力発電を求めて Niagara Falls(New York 州)へ移りました[12][13][1]。カーボランダムの砥石は 1896 年に市販され、とても硬い一方で割れやすいため、鋳鉄・非鉄金属のような硬くもろい材料に向きました。のちに分かるように、鋼には炭化けい素より柔らかいアルミナのほうが長持ちします[1]。

鋼のための人造砥粒は、Charles B. Jacobs が 1897 年に考えた電融アルミナでした。ボーキサイトに少しのコークスと鉄くずを混ぜて電気の炉で溶かし、不純物を金属として沈めます。Norton Emery Wheel Co. はこの方法の権利を得て、1901 年に Niagara Falls に工場を開き、商品名を Alundum(アランダム)としました。1904 年に Aldus Higgins が考えた、外側を水で冷やして溶けた中身自体を炉の壁にする炉で製造費は半分になり、1906 年には Norton の砥石からエメリーとコランダムがなくなって、社名も Norton Company に変わります。1910 年には純度の高い白いアルミナの砥石が出ました[1][14]。業界誌の統計では、1906 年の米国の人造砥粒の生産はカーボランダムとアランダムが中心です[11]。

現場で何に効くか。今の一般砥石の表示「A(アルミナ)・WA(白色アルミナ)・C/GC(炭化けい素)」「粒度」「結合度 A〜Z」「組織」「V(ビトリファイド)・B(レジノイド)・R(ゴム)」は、ここに出てきた砥粒と結合剤と、Jeppson の硬さの並べ方がもとになっています。鋼にはアルミナ、鋳鉄・非鉄・超硬には炭化けい素という使い分けも、この時代の経験から決まりました。くわしくは研削の基本「砥石」をどうぞ。

重研削と自動車:Norton と Landis(1886〜1919 年)

1890 年代まで、研削は旋盤で寸法の近くまで仕上げたあとに、うすく磨くための「仕上げのまた仕上げ」でした。これを、旋盤で荒削りしたものを研削でじかに寸法まで仕上げる重研削(生産研削)に変えたのが、Charles H. Norton です。

Norton の考え:重い機械・広い砥石・プランジ研削

Norton は Brown & Sharpe で万能研削盤を設計し直し、1897 年には自動の切込み送りの特許も取りました。同じ年の終わりの社内の会議で、Norton は次のような考えを出します。機械を十分に重く強くすれば、機械そのものをマイクロメータとして使える(目盛りを 0.00025 インチ回せば工作物も 0.00025 インチ小さくなる)。幅が 1 フィートもある広い砥石を使い、工作物を長手に送らずに砥石を突っ込んで研ぐ(プランジ研削)。旋盤の細かい仕上げ削りをやめて、強い動力で研削する。動力は人の手間より安い。しかし会議では、砥石がすぐへる、びびって焼ける、と退けられました[1]。

Norton は 1900 年に Worcester に移り、Norton Emery Wheel Co. の出資者たちが作った Norton Grinding Company の技師長になります[3][9]。1900 年 3 月から設計した 18×96 インチの円筒研削盤は、11 月に 2 台が完成しました。中を補強した重いベッドを 3 点で支え、直径 24 インチ・幅 2 インチの砥石を強い動力で回し、切込み送りは精密な自動で、毎分 50 ガロンの研削液で工作物の熱による伸びを抑えます。砥石は以前の 4 倍の大きさで、16 倍の速さで削り、1 分に 1 立方インチの鋼を 0.001 インチの精度で研ぎました[1][16]。1 号機は印刷機メーカーで約 30 年働いたあと、いまは Dearborn の The Henry Ford にあります[16]。

完成1900 年 11 月Norton Grinding Co.[1]
砥石φ24 インチ×幅 2 インチ約 φ610mm×51mm[1]
能率以前の 16 倍1 分に 1 立方インチ・0.001 インチ[1][16]

Landis:砥石台を動かす研削盤とクランク軸

同じころ、Waynesboro(Pennsylvania 州)でもう 1 つの研削盤メーカーが育ちます。農業機械会社 Geiser で働いていた A. B. Landis(ランディス)は、工具室に Brown & Sharpe の機械を買ってもらえず、1886 年に自分で円筒研削盤を作りました。工作物のテーブルではなく砥石台を長手に動かす作りで、重く長い工作物に向き、この特徴はのちの Landis の機械すべてに受け継がれます[6]。兄の F. F. Landis とともに 1889 年に Landis Bros. を始め、これがのちの Landis Tool Co. になりました[8][10]。1897 年 5 月の業界誌の広告によると、火事で焼けた Landis Bros. の工場の跡に新工場を建て、資本金 10 万ドルの Landis Tool Co. として組織し直しています[15]。1906 年の業界誌は、湿式の円筒研削盤を買うなら Norton Grinding・Landis Tool・Brown & Sharpe の 3 社しかない、と書いています[6]。同じ記事は、砥石の幅が 3/4 インチから 1〜3 インチに広がり、振れ止めは長さ 12 インチごとに 1 つ付けるまでに増え、研削液も細い流れから 1 インチ管いっぱいに増えて、研削盤が工具室の繊細な機械から、削り落とす量で旋盤と張り合う機械に変わったとまとめています[6]。

自動車は、研削盤にとって最大の客になりました。クランク軸は、ピンと軸受部の両方から多くの肉を取り、寸法と面の粗さの要求も厳しい部品です。Norton はプランジ研削でピンの幅と隅の丸みを 1 つの砥石で一度に研ぎ、旋削・やすり・磨きで 5 時間かかった仕事を 15 分にしました。研削盤の作業者の時給は旋盤工の 30 セントに対して 85 セントだったので、初めは米国のほとんどの自動車のクランク軸が Norton の工場に送られて研がれました。1905 年に Locomobile が初めて自社で研削盤を買い、のちに Ford も 35 台を注文します[1]。同じ 1905 年、Landis はクランク軸を 2 つの回る主軸台で両端から支えてねじれを防ぎ、つり合いおもりと振れ止めを付けたクランク軸研削盤を出しました[1][6][10]。1912 年には A. B. Landis がカム軸研削盤の特許を取ります。大きな手本のカムを工作物と同じ軸で回して砥石台をならわせ、1 本の軸の上のカムを順に研ぐ方式で、カムを別に研いで軸に付けるやり方を終わらせました[24][1]。

Heald:砥石の軸を回すシリンダ研削盤

Worcester のもう 1 つの研削盤メーカーが、James N. Heald(ヒールド)の Heald Machine Co. です。Heald は 1903 年に家業の工場を Worcester に移し、1904 年にピストンリングの両面を研ぐロータリ研削盤を出しました[17][1]。自動車のシリンダは薄く、中ぐりでは刃物が硬い所で逃げ、柔らかい所で食い込んで真円になりません。重いシリンダブロックは回せないので、Heald は工作物を止めたまま、砥石の軸を偏心させて円を描くように回す(遊星運動の)シリンダ研削盤を 1905 年にまとめました。偏心した 2 重のスリーブの角度で円の大きさを変え、テーブルを横に送れば次のシリンダに移れます。中ぐり・リーマ・ラップの手間がなくなり、自動車と第一次世界大戦の航空機エンジンの標準の機械になりました[1][18][19]。

1918 年の Ford の工場では、Norton が作った 33 台の専用研削盤が、直径 20 インチ・幅 6 インチの砥石の 1 回のプランジで変速機の軸を 0.0005 インチの公差で研ぎ、8 時間に 550 本を仕上げていました[1]。1919 年、砥石の Norton Company と研削盤の Norton Grinding Company は一体になり、Norton は 80 代まで機械部門の技師長を続けます[9]。

現場で何に効くか。「旋盤で荒、研削で仕上げ」「幅の広い砥石でプランジ」「機械の剛性で精度を出し、送りの目盛りで寸法を決める」は、Norton が 1900 年ごろに唱えた考えそのものです。クランク軸・カム軸・シリンダ・ピストンリングという自動車のエンジン部品が、研削盤の専用化を引っ張りました。この流れは第 3 章「大量生産と二つの大戦」でも扱っています。

⚒量産と精密の専用機:センタレス・内面・平面・ジグ(1887〜1945 年)

自転車と軸受

玉軸受は、真球で大きさのそろった焼入れ球と、真円で同心の玉受けがなければ使えません。1887 年の Henry Richardson の鋼球研削の特許、1899 年に Pratt & Whitney が出した自転車の玉受けの研削盤(小さな砥石を毎分 28,500 回転)など、研削盤が軸受を作れるようにし、軸受がまた機械の摩擦と摩耗を減らしました[1]。1909 年、Jones & Lamson の製図主任だった William L. Bryant(ブライアント)は Springfield(Vermont 州)に Bryant Chucking Grinder Co. を作ります。工作物をチャックでつかみ、内径用の小さく速い砥石・外径用・端面用の 3 つの砥石をカムと止めで自動で動かす研削盤で、自動車の軸受の内輪・外輪の量産を支えました[20][1]。

自動定寸と油圧

量産では、測る手間がいちばんの無駄になります。1908 年の Pratt & Whitney の円筒研削盤は、寸法の近くで自動で細かい送りに切り替え、砥石がへっても決まった寸法で止まりました[1]。送りは 1900 年代のはじめから油圧になり、機械の自動化がしやすくなります。内面研削では、Heald が 1922 年に自動定寸の開発を始め、穴を研ぎながら寸法で荒から仕上げに切り替えて止まる Size-Matic を出しました。1926 年の業界誌の索引と広告にこの名前があり、冷蔵庫を作る Delco Light では生産が 3 倍、不良が 1% 未満になったと宣伝しています[29][30][1]。Landis も 1928 年に最初の自動のカム軸研削盤と自動の内面研削盤を出しました。自動車のバルブタペットの研削は、1920 年のセンタ形から 1929 年のホッパ給材の全自動センタレスへ進み、1 人が 3 台を受け持って 1 時間に 1,350 個を研ぐまでになります[1]。

センタレス研削:支えずに研ぐ

センタレス研削は、工作物をセンタでもチャックでもつかまず、研削砥石と、逆向きにゆっくり回る調整車の間に置き、下からブレードで支えて研ぎます。工作物は研削砥石に引きずられて回ろうとしますが、ゴムの結合剤の調整車がブレーキになり、その速さの差で削れます。工作物の中心を 2 つの車の中心を結ぶ線より少し上に置くと、もとが少しいびつでも研ぐうちに真円に近づきます。調整車を少し傾ければ、工作物は自分で軸方向に進み、次々に通して研げます(通し送り)[1]。

決め手の発明は、軸受のころを作っていた Danbury(Connecticut 州)の Ball and Roller Bearing Co. の Lewis R. Heim(ハイム)が 1915 年 3 月に出願し、1917 年 1 月に成立した特許です。止まった押し板の代わりに動力で回る調整車を使い、ブレードで力の向きを決めて、ころの寸法を 0.0005 インチから 0.00025 インチへ詰めました[25][26]。Cincinnati Milling Machine Co. はこの特許を手に入れ、1922 年に量産用のセンタレス研削盤を作ります。研削砥石は直径 20 インチ、調整車は 12 インチで、両方にダイヤモンドの目直し装置が付き、肩の付いたプッシュロッドやバルブタペットも送り込み(インフィード)で研げました[1][28][26]。1925 年には長さ 6 インチのバルブステムを 1 時間に 350 本研ぎ、砥石は使い捨ての消耗品だという考えが工場に広まりました。1932 年には鋳鉄のクランク軸やピストンを研ぐ大形の機械も出ています[1]。1933 年には Heald が、外径を 3 点で支えて内径を研ぐ内面センタレス研削盤を、Cincinnati Grinders と GM の Hyatt 軸受部門の協力で出しました。内外径が完全に同心になり、軸受の輪の量産に向きました[1][32]。

平面研削:電磁チャックと Blanchard

平面研削盤は 1880 年代に形がそろったあと、工具室の機械のままでした。変わるきっかけは、1896 年に Worcester の O. S. Walker が考えた電磁チャックです。薄い部品をゆがめずに固定でき、平削り盤やフライス盤のように取り付け具を作らなくてよくなりました[1]。Heald は 1904 年に回転テーブルのロータリ研削盤を出し、Cambridge(Massachusetts 州)の Blanchard Machine Co. は 1909 年から、立軸の円筒形の砥石の下で回転テーブルを回す平面研削盤を作り始めました。厚い鋳物や鍛造品の面を速く平らに研ぐこの方式は、いまも「ブランチャード研削」と呼ばれることがあります[21][22]。1915 年の米国の研削の手引書は、Blanchard のモータ駆動の立軸平面研削盤(回転テーブルは 8 段の速さ)を標準の機械として解説しています[23]。Michigan 州 Grand Rapids の Gallmeyer & Livingston のように、平面研削盤と工具研削盤を得意とする地方のメーカーも育ちました[67]。Woodbury は、平面研削盤が機械の案内面やテーブルを速く安く仕上げ、高い手間のきさげ作業の一部を置き換えたと書いています(ただし油だまりのできるきさげは最後の仕上げに残りました)[1]。

ジグ研削盤とねじ研削

金型やゲージの穴は、位置の精度が命です。Bridgeport(Connecticut 州)の Moore Special Tool Co. は、1930 年代のはじめに焼入れ研削・ラップ仕上げの親ねじを使うジグ中ぐり盤を作り、1940 年にジグ研削盤を作りました。それまでは焼入れのひずみを見込んで柔らかいうちに穴を中ぐりするしかありませんでしたが、焼入れの後に穴を正しい位置へ研げるようになり、順送り型や時計の型、ゲージの精度が上がりました[35][36][37]。

ねじは長く自動盤で量産され、研ぐのはタップやゲージだけでした。第二次世界大戦の航空機の需要で、ねじ研削は量産の加工になり、ピッチ径 0.0002 インチ・フランク角 5 分の精度が求められます。研ぐ前の砥石の形づくりにも、鋼のロールを押し付けて形を写すクラッシュ成形が広まり、ダイヤモンドで 1 本ずつ形を削るより速く砥石の形を作り直せるようになりました[1]。機械のほうでは、Detroit の Ex-Cell-O が 1935 年の Cleveland の見本市に出したねじ研削盤を、業界誌が「米国製で初めて売りに出された商用のねじ研削盤」と紹介しています[33][34]。歯車研削も自動車の焼入れ歯車の静かさのために広がりましたが、これはアメリカの歯車機械の章で扱います。

★超砥粒・NC と業界の再編(1930 年〜)

ダイヤモンド砥石

1920 年代の終わりに超硬合金の工具が広がると、それを研ぐ砥石が問題になります。Norton の Baalis Sanford は 1930 年 10 月、レジンで固めた小さなダイヤモンド砥石を試作し、1934 年に直径 7 インチのダイヤモンド砥石を売り出しました。ダイヤモンドは外周の 1/32〜1/8 インチの層だけに入れます[1]。1936 年の業界誌は、砥粒が 1 ポンド 2,500 ドルもするのに、超硬の刃のフライスを歯ごとに合わせ直さずに研げるので引き合う、と書いています[31]。1939 年には金属で固めたダイヤモンド砥石も生まれ、ガラスやセラミックスを研げるようになりました。1946 年には Norton の Raymond Ridgeway が、炉の中で決まった大きさのアルミナの結晶を作り、砕かずに砥粒にする方法を実用にしています[1]。

人造ダイヤモンドと CBN(Borazon)

天然のダイヤモンドに頼る状況を変えたのは、General Electric(GE)の研究所です。1955 年 2 月に GE は、高い圧力と温度でダイヤモンドを人工に作ったと発表し、研究者たちの論文が 7 月に Nature に載りました[38][39]。GE は 1957 年に人造ダイヤモンドを工業用の砥粒として売り出し、1960 年には米国の市場の約 1 割を占めるまでになります[44][45]。同じチームの Robert H. Wentorf(ウェントルフ)は 1957 年、窒化ほう素を超高圧で立方晶(ダイヤモンドと同じ形の結晶)に変えたと発表します。GE は「Borazon」と名付けました。当時の業界誌は、ダイヤモンドをこすって傷つけるほど硬く、ダイヤモンドが燃えてしまう温度でも硬さを保つと紹介しています[46][40]。

ダイヤモンドは炭素なので、高い温度で鉄と反応してすりへります。鉄と反応しにくい CBN は、焼入れ鋼を研ぐための超砥粒として期待されましたが、商品になるまで 12 年かかり、GE が焼入れした鉄系の金属の精密研削用に Borazon を売り出したのは 1969 年でした[54]。CBN 砥石はへりにくく形が崩れにくいので、砥石を速く回して、カム軸のような量産部品を寸法の狂いなく研げます。日本の研削盤メーカーが 1970 年代からこの方向で大きく伸びたことは、国産アーカイブ第 3 章「CBN・高速研削」にあります。

NC の研削盤

研削盤の数値制御は、輪郭を研ぐ機械から始まりました。Moore は 1967 年、数値制御で輪郭を研ぐ No.3 ジグ研削盤を作り、1970 年には英国の業界誌の索引にも NC 付きの Moore No.3 が載っています[37][50]。円筒研削盤や平面研削盤の CNC 化の米国での始まりについては、今回の調べでは一次資料で年を確かめきれませんでした(日本のメーカーは 1964 年に NC 円筒研削盤を出品しています。国産アーカイブ第 3 章「NC 研削盤」)。NC そのものの誕生は第 4 章「NC の誕生とマシニングセンタ」で扱います。

会社の再編

研削盤の老舗は、20 世紀の後半に大きな会社の一部になっていきます。Heald は 1955 年 9 月に Cincinnati Milling Machine Co. に買われて子会社になり、1980 年には Cincinnati Milacron の Heald Division でした[41][42][19]。Bryant は 1958 年に Ex-Cell-O の子会社に、Landis Tool は 1967 年に複合企業 Litton Industries の事業部になり、Norton は 1990 年に英国 BTR の敵対的な買収をかわしてフランスの Saint-Gobain の一部になりました[47][51][53][56]。その Cincinnati Milacron は 1998 年 10 月に工作機械部門を UNOVA に売り、UNOVA は Landis Grinding Systems も持っていました[58][59]。2005 年 12 月、UNOVA は Landis(米国の Landis と英国の Landis Lund など)をフランスの Fives-Lille グループに売り、クランク軸・カム軸研削盤の老舗はフランスの会社の一部になりました[60][61]。Moore は 1994 年に PMT Group に入り、1997 年に超精密加工機の Moore Nanotechnology Systems を作りました[37]。Blanchard の平面研削盤は、2004 年から Rockford(Illinois 州)の Bourn & Koch が受け継いでいます[22]。

現場で何に効くか。超硬工具はダイヤモンド砥石、焼入れ鋼の量産は CBN 砥石、穴位置の精度が要る型はジグ研削盤、軸受や小物の量産はセンタレス、という今の使い分けは、ここに挙げた 1930〜60 年代の発明で形になりました。中古の機械を見るときは、メーカー名の移り変わり(Heald → Cincinnati、Landis → Fives、Blanchard → Bourn & Koch)を知っておくと、部品やサービスの問い合わせ先が分かります。

日本とのつながり

日本の研削盤は、アメリカの機械を手本に始まりました。大隈鐵工所(いまのオークマ)の製品沿革によると、同社は 1918 年に陸軍工廠の図面で米国の「ノルトン」の No.1 万能工具研削盤にならった GA-1 形工具研削盤を作り、1919 年には米 Heald の製品を手本に内面研削盤を作り、大正の後半には Brown & Sharpe の No.13 にならった GA-2 形万能工具研削盤を作っています[69]。戦時に 500 台作られて戦後の研削盤生産の基礎になった大隈の GHU 形油圧式万能研削盤も、米 Landis の研削盤が手本でした[70][71](国産アーカイブ第 3 章の年表)。

戦後、日本の研削盤メーカーは軸受と自動車部品の量産で力を付けますが、1983 年の米国際貿易委員会(USITC)の報告は、日本へ輸出される米国の工作機械は歯車・研削・フライスの高精度の機械が中心で、日本のメーカーはまだその技術に追いつけていない、と書いています[55]。一方、CBN 砥粒を焼入れ鋼の量産研削に早くから使ったメーカーには日本の研削盤メーカーもあり、豊田工機は 1972 年ごろから CBN の研究を始め、1977 年に CBN 生産形カム研削盤で機械振興協会賞を受けています[72](国産アーカイブ第 3 章)。

⑂メーカーの系図

アメリカの研削盤・砥石の主なメーカーの、社名の移り変わりと買収です。帯の色が変わるところで社名が変わり、赤い矢印は事業の行き先です。Brown & Sharpe・Carborundum は、のちの研削盤事業の行方を一次資料で確かめきれなかったので描いていません。Bryant は 1982 年の工業名鑑で確かめられたところまでを描き、その先は点線にしています。

18401880192019602000F. B. Norton(陶器・砥石)Norton Emery Wheel Co.Norton CompanySaint-Gobain の NortonNorton Grinding Co.一体にLandis Bros.Landis Tool Co.Litton の Landis Tool 事業部(1990 年代は UNOVA の一部門)Fives(Cinetic Landis)Heald Machine Co.(Worcester)子会社にCincinnati Milling Machine → Cincinnati MilacronUNOVABryant Chucking Grinder Co.(Springfield, Vermont)Ex-Cell-O の Bryant(のち Bryant Grinder 事業部)Blanchard Machine Co.(Boston → Cambridge)Bourn & Koch へBourn & Koch(Rockford)Moore Special Tool Co.(Bridgeport)PMT Group の Moore Tool帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。点線はその先が未確認。
出典:各社の沿革と社史 [1][3][56][9][8][15][51][59][61][17][41][58][20][47][49][21][22][68][37][36]

見に行ける所

研削盤は工場で使い切られることが多く、古い機械が見られる所はわずかです。公開日・見学や資料の閲覧の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

The Henry Ford(Henry Ford Museum of American Innovation)Dearborn(Michigan 州)Charles H. Norton が 1900 年に設計した重研削の円筒研削盤(Object ID 31.368.1、長さ約 4.1m)。1 号機は印刷機メーカーで約 30 年使われたあと Norton Company に戻り、博物館に寄贈された。所蔵の案内では常設展「Made in America」の所在。展示の有無は博物館の案内で[16][1]
American Precision MuseumWindsor(Vermont 州)米国の精密工作機械の博物館。Bryant のチャック形研削盤 Model 10 A(1920 年ごろ。砥石軸を上の丸い棒に吊る三点支持の作り)を所蔵し、2016〜2018 年に修復した。Landis 兄弟・Heald・Heim・Bryant・Moore など研削盤の人物を Machine Tool Hall of Fame で紹介している。開館の時期は博物館の案内で[62][20][63]
Worcester Historical MuseumWorcester(Massachusetts 州)Norton Company の資料(Norton Company Collection、Part 1・2)を持つ地域の博物館と資料室。Norton と Heald の工場があった町で、研削の歴史の資料を調べられる。資料室は館内閲覧で、事前に連絡を[64]
Worcester Polytechnic Institute(Gordon Library)Worcester(Massachusetts 州)Norton Company の経営者 George N. Jeppson の文書(MS 74)。中身の多くは Norton Company の記録。研削盤の Heald の創業者 James N. Heald もこの大学の出身[65][17]
Smithsonian National Museum of American HistoryWashington, D.C.Carborundum Company の F. A. J. Fitzgerald の 1900 年の特許模型(カーボランダムの製品と製造法)など、人造砥粒の資料を所蔵。いまは展示されていない(収蔵品の検索で見られる)[66][1]
Grand Rapids Public Library(Michigan Memories)Grand Rapids(Michigan 州)平面研削盤・工具研削盤の Gallmeyer & Livingston Co. の No.10 研削盤の写真など、地元の機械工業の画像をオンラインで公開。工場は Straight Ave. SW にあった[67]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「p.」は本や雑誌のページ、「コマ」はスキャンの通し番号(Woodbury の本・Internet Archive の雑誌・国立国会図書館の資料)です。

砂岩とエメリー万能研削盤人造砥粒と重研削専用機と自動化超砥粒・NC・再編182018401860188019001920194019601980200020201834186418761885190019091922193019401957黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

砂岩とエメリー:研削盤の始まり1818〜1859 年

年出来事メーカー・機種出典
1818年11月Thomas Blanchard が Springfield の兵器廠に銃身を研ぐ機械を作る約束をする。銃身の長さより厚い砂岩の砥石をベルトで毎分 400 回転させ、職人が銃身を回しながら体で押し付けて研いだWoodbury が 1818 年 11 月 28 日付の Blanchard の手紙から書いたものSpringfield Armory[1・コマ20]
1831年4月Washington の J. W. Stone が平面研削盤の特許を取る。動力で送る平らなテーブルと、ばねで押し付ける砥石を持ち、焼入れした金属板を研ぐためのものだった。明細書は特許庁の火事で失われ、雑誌の写しだけが残るJ. W. Stone[1・コマ24]
1834年5月★Providence の James Wheaton が「楕円紡錘研削盤」の特許を取る。センタで支えた工作物を往復台に載せて砥石の前を動かす円筒研削盤で、ならい板(テンプレート)で形を出すこともできた。Woodbury は今の円筒研削盤の要素がほぼそろっていたと評価する1834 年 5 月 28 日付の特許。番号の付く前の特許で、Woodbury が全文を引いているJames Wheaton[1・コマ22][1・コマ24]
1853年8月Bangor(Maine 州)の Samuel Darling が平面研削盤の特許(米国特許 9,976)を取る。横軸の砥石の下で、V 形の案内の上をテーブルが自動で往復し、横送りと上下の調整も付いた今の形に近い機械で、Darling が 1866 年に Brown & Sharpe に加わった後も長く使われたSamuel Darling平面研削盤[2][1・コマ28]

Brown & Sharpe の万能研削盤1860〜1885 年

年出来事メーカー・機種出典
1860年ごろNashua(New Hampshire 州)の時計会社のために Charles S. Moseley が小さな精密研削盤を設計する。1862 年に Waltham の American Watch Company に移され、時計の部品を互換性のある精度で作る道具になった設計者は Moseley とも Ambrose Webster ともされる。Woodbury は 1889 年の Brown & Sharpe の特許調査にしたがって Moseley としたNashua Watch Co.[1・コマ30][1・コマ31]
1864年11月★Brown & Sharpe が、Willcox & Gibbs ミシンの針棒や軸を研ぐため、14 インチの旋盤の往復台にエメリー砥石と自動の送り・反転装置を付ける図面を描く。この「研削旋盤」は数年で約 30 台作られ、1867 年の最初のカタログに載ったJ. R. Brown & Sharpe研削旋盤[1・コマ35][1・コマ36][3・p.214]
1867年Brown & Sharpe で研削旋盤を受け持つ Thomas Goodrum の日給が 7 ドルになる。機械が軽く、どこに足を置き手を添えるかまで腕次第で、研削は名人の仕事だったBrown & Sharpe[1・コマ36]
1868年4月Joseph R. Brown が万能研削盤の構想を口述で図面にさせる(4 月 10 日付)。往復テーブルの上に角度を変えられる旋回テーブルを載せ、主軸台も旋回できる。工場が忙しく、図面はしばらく棚上げになったJ. R. Brown & Sharpe[1・コマ37][4・コマ2]
1870年ごろJ. Morton Poole が製紙用の大きなロールを研ぐ研削盤を作る。2 つの砥石を振り子のように吊り、ロールそのものに案内面の誤差を直させる仕組みで、重い工作物でも真っすぐで太さのそろったロールが得られたPoole の基本特許は 1868〜1872 年の 4 件(Woodbury)J. Morton Pooleロール研削盤[1・コマ32][1・コマ33][1・コマ34]
1874年6月棚上げになっていた万能研削盤の製作が始まる。1875 年 1 月 1 日のカタログに載った最初の機械は、旋回する砥石台と横送りのハンドル、内面研削の付属品を持っていたBrown & Sharpe Mfg. Co.万能研削盤[1・コマ37][4・コマ2]
1876年★Brown & Sharpe が万能研削盤を Philadelphia の建国百年博覧会に出品する。審査員は「頑丈でよく考えられた機械」と評した。出品した 1 号機は閉会後に Mulhouse(当時ドイツ領)の会社に売られ、工場で最初に使った機械は Brown が 7 月 23 日に亡くなった数日後に動き始めたWoodbury は「1876 年の Paris 博覧会」と書くが、1876 年に Paris の万博はなく(Paris は 1878 年)、Roe と Burlingame は Philadelphia の Centennial Exposition とする。こちらを採ったBrown & Sharpe Mfg. Co.万能研削盤[4・コマ2][3・p.214][1・コマ34][1・コマ38]
1877年Brown & Sharpe のカタログに平削り盤形の平面研削盤と、プレーン円筒研削盤が載る。続いて 1880 年に内面研削の付属品、1883 年に柱形、1885 年にひざ形、1887 年に正面形の平面研削盤を出し、研削盤の主な形が出そろったBrown & Sharpe Mfg. Co.[1・コマ39]
1877年2月万能研削盤の特許(米国特許 187,770)が Brown の遺産管理人に与えられる。旋回テーブルの上の旋回主軸台など、今の万能研削盤の基本の仕組みと、形を研ぐ装置まで含んでいた成立日は Burlingame に載る特許図面の写しで 2 月 27 日。Woodbury の「2 月 25 日」は日曜で誤りBrown & Sharpe Mfg. Co.[5][4・コマ3][6・p.492]
1880年万能研削盤は 1880 年までに少なくとも 15 台が米国内と海外の機械メーカーに売られる。米国で最初に売れた先は New York の Whitehill Mfg. Co. だったBrown & Sharpe Mfg. Co.[1・コマ37][4・コマ2]
1885年10月研削の職人を育てる手引として、Brown & Sharpe が『Treatise on Grinding Machines』の初版を出す。研削の利点を、焼入れ材も生材も削れる、安く速い、精度と仕上げ面がよい、とまとめ、ゲージによる測定を大きく扱ったBrown & Sharpe Mfg. Co.[1・コマ40]

砥石の革命:ビトリファイドと人造砥粒1856〜1925 年

年出来事メーカー・機種出典
1856年Massachusetts 州 Chester でエメリー(鉄分を含む天然のアルミナ)の鉱床が見つかる。それまでエメリーはおもにギリシャの Naxos 島や小アジアから運ばれていた—[1・コマ42]
1859年10月T. J. Mayall が加硫ゴムでエメリーを固めた砥石の米国特許を取る。New York Belting & Packing Co. が「Vulcanite」の名で売り、のちのセンタレス研削の調整車にもゴムの結合剤が使われるT. J. Mayall[1・コマ43]
1873年Worcester の F. B. Norton の陶器工場で、陶工 Swen Pulson が粘土でエメリーを焼き固める砥石を試し、3 度目で成功する。焼き固める(ビトリファイド)砥石の始まりで、Norton は 1879 年にこれを売り出したRoe は Norton が 1873 年ごろ試作し 1879 年に売り出したとするF. B. Norton[1・コマ44][3・p.224]
1877年2月Pulson の方法を、スリップ粘土の代わりに長石を使う形にして F. B. Norton が特許(米国特許 187,167)を取る。当時は雇い主が特許を取るのが普通だったF. B. Norton[7][1・コマ44]
1884年Detroit Emery Wheel Co. の Gilbert Hart がエメリーとコランダム(天然のほぼ純粋なアルミナ)の削れ方を比べる大がかりな試験をし、コランダムがはるかに優れることを示す。1893 年までに砥石の砥粒の主役はエメリーからコランダムに移ったDetroit Emery Wheel Co.[1・コマ45]
1885年6月★病気の F. B. Norton の砥石事業を引き継ぐため、Worcester の 7 人の出資で Norton Emery Wheel Company が設立される(のちの Norton Company)。砥石の硬さは John Jeppson が工具を差し込む手ごたえで決めていたNorton Emery Wheel Co.[1・コマ44][1・コマ45][3・p.224]
1891年3月★Edward G. Acheson が電気炉で粘土と炭素を熱し、青く光る硬い結晶を見つける。炭化けい素(SiC)で、炭素(carbon)とコランダムから「カーボランダム」と名付けた。自然にはない、初めての人造の砥粒Edward G. Acheson[11・p.19][1・コマ50]
1891年9月Acheson が The Carborundum Company を設立する(9 月 21 日)。初めは高価でダイヤモンドの粉の代わりに売られたが、1893 年の特許(米国特許 492,767)と炉の改良で値が下がり、1895 年に安い電力を求めて Niagara Falls(New York 州)へ移ったThe Carborundum Company[12・p.101][12・p.108][13][1・コマ50]
1896年カーボランダムの砥石が市販される(Sterling Emery Wheel のカタログ)。とても硬いが割れやすいので、鋳鉄・非鉄金属・超硬のような硬くもろい材料に向いた—[1・コマ51][1・コマ95]
1897年Charles B. Jacobs がボーキサイトを電気の炉で溶かして人造のアルミナを作る方法を開発する(米国特許 659,926、1900 年 10 月)。品質をそろえられ、鋼を研ぐ砥粒の主役になったCharles B. Jacobs[1・コマ51][14]
1898年Norton Emery Wheel Co. が試験部(Department of Tests)を作る。砥粒の研究所の始まりで、1912 年には機械・化学・窯業・有機の 4 部門、21 人に育ったNorton Emery Wheel Co.[1・コマ58]
1901年Norton Emery Wheel Co. が Jacobs の方法の権利を得て、Niagara Falls に人造アルミナ(商品名 Alundum)の工場を開く。1904 年には Aldus Higgins が水で冷やす炉を考えて製造費を半分にしたNorton Emery Wheel Co.[1・コマ51][1・コマ52]
1906年Norton の砥石からエメリーとコランダムがなくなり、すべて人造アルミナになる。これを機に社名を Norton Company に改めるNorton Company[1・コマ51][1・コマ52]
1910年Norton が純度の高いボーキサイトから白いアルミナ(38 Alundum)の砥石を売り出す。熱を持ちにくく、焼入れ鋼や工具の研削に向いたNorton Company[1・コマ52]
1925年71 万 5,000 種を超えた砥石の種類を減らすため、商務省標準局(NBS)の簡素化部が会議を開き、推奨規格 R45 で約 25 万 5,000 種にまとめる。1918 年の釣り合いの基準、1920 年の表示記号、1915 年の安全規則と並ぶ標準化の動きNational Bureau of Standards[1・コマ88]

重研削と自動車:Norton と Landis1886〜1919 年

年出来事メーカー・機種出典
1886年Waynesboro(Pennsylvania 州)の農業機械会社 Geiser で働く A. B. Landis が、最初の円筒研削盤を作る。工作物ではなく砥石台を長手に動かす作りで、のちの Landis の研削盤すべてに受け継がれた。1906 年の時点でもこの 1 号機は Geiser の工場で動いていたNoyes(1906)は 1 号機を 1886 年とする。American Precision Museum は兄の F. F. Landis が 1872 年に設計し、兄弟が 1889 年に製造の会社 Landis Bros. を始めたとするLandis Bros.[6・p.493][8]
1886年11月Seth Thomas 時計会社で 20 年働いた Charles H. Norton が Brown & Sharpe に移る。社内の研削のトラブルを調べ、Norton Emery Wheel Co. の Charles L. Allen と、砥石の釣り合いの悪さと砥石の周速が速すぎることが原因だと突き止めたBrown & Sharpe Mfg. Co.[9][1・コマ45][3・p.224]
1889年A. B. Landis と兄の F. F. Landis が、Landis の研削盤を作る会社 Landis Bros. を Waynesboro で始める。のちの Landis Tool Co. で、1903 年にはねじ切り盤の Landis Machine Co. が別に生まれたAmerican Precision Museum の 2 つの人物紹介で 1889 年と 1890 年に分かれる。兄の紹介の 1889 年を採ったLandis Bros.[8][10][6・p.493]
1890年Norton が内面研削の伸縮する主軸の特許を取る。穴の奥まで細い砥石軸を突き出しても振れにくくし、内面研削盤を実用にしたWoodbury は主軸の完成を 1887〜1889 年とし、特許を 1890 年 6 月 10 日の 429,697 とするBrown & Sharpe Mfg. Co.[1・コマ39][1・コマ54][1・コマ89]
1897年末Norton が社内の会議で、幅 1 フィートもの広い砥石を使い、工作物を送らずに砥石を突っ込んで研ぐ(プランジ研削)こと、機械を十分に重くすれば機械そのものをマイクロメータにできることを提案するが、相手にされなかったNorton の 1929 年の回想(Norton Company 所蔵)を Woodbury が引いたものBrown & Sharpe Mfg. Co.[1・コマ54][1・コマ55]
1897年5月火事で Landis Bros. の工場が焼け、その跡に新工場を建てて、資本金 10 万ドルの Landis Tool Co. として組織し直す。同じ号の業界誌の購買案内では、Landis Tool Co. が万能研削盤・研削盤のメーカーに並んでいる業界誌の広告は「新たに組織され、まもなく研削盤を出荷する」と書く。Roe は Landis Tool Co. が 1890 年の Landis Brothers から生まれたと書くLandis Tool Co.[15・p.24][15・p.22][3・p.259]
1897年9月Norton が研削盤の自動の切込み送りの特許(米国特許 590,850 ほか)を取り、Brown & Sharpe の機械に付ける。テーブルが折り返すたびに砥石台が決まった量だけ進む仕組みBrown & Sharpe Mfg. Co.[1・コマ40][6・p.496]
1900年Brown & Sharpe で認められなかった Norton が Worcester に移り、Norton Emery Wheel Co. の出資者が作った Norton Grinding Company の技師長になる。砥石の会社と研削盤の会社は別だったNorton Grinding Co.[3・p.224][9][1・コマ55]
1900年11月★Norton の重研削盤 2 台が完成する。直径 24 インチ・幅 2 インチの砥石を強い動力で回す重い機械で、精密な切込み送りと毎分 50 ガロンの研削液を持ち、それまでの 16 倍の速さで 1 分に 1 立方インチの鋼を 0.001 インチの精度で削った1 号機は印刷機の R. Hoe & Co. で約 30 年使われ、いまは The Henry Ford にあるNorton Grinding Co.18×96 インチ円筒研削盤[1・コマ56][1・コマ57][1・コマ58][16]
1905年★Landis Tool Co. が自動車のクランク軸研削盤を出す。クランク軸を 2 つの回る主軸台で両端から支えてねじれを防ぎ、つり合いおもりと振れ止めを付け、砥石の角の丸みも機械の上で整えられたLandis Tool Co.クランク軸研削盤[1・コマ66][1・コマ67][6・p.497][10]
1905年Norton Grinding Co. がクランク軸を量産で研ぐようになり、ほとんどの米国の自動車のクランク軸が Norton に送られて研がれた。旋削・やすり・磨きで 5 時間かかった仕事が、プランジ研削で 15 分になった。同じ年 Locomobile が自社用の研削盤を初めて買い、のちに Ford も 35 台を注文するWoodbury は Norton の実験の開始を 1908 年とも書いており、年に揺れがあるNorton Grinding Co.[1・コマ57][1・コマ58]
1906年業界誌は、湿式の円筒研削盤を買うなら Norton Grinding・Landis Tool・Brown & Sharpe の 3 社しかないと書く。初期の機械に比べ、砥石は幅 3/4 インチから 1〜3 インチに広がり、振れ止めの数も研削液の量も増えて、研削盤は工具室の機械から削り落とす量で旋盤と張り合う機械になった—[6・p.492][6・p.494][6・p.496]
1910年Heald が American Machinist に「自動車のシリンダの研削」を書き、研いだ穴は真円で真っすぐ、圧縮がよく、出荷したときから全出力が出ると説く。研削は互換性のある部品を安く作る手段だと強調したHeald Machine Co.[1・コマ68][1・コマ71]
1912年2月A. B. Landis がカム軸研削盤の特許(米国特許 1,017,879)を取る。大きな手本のカムを工作物と同じ軸で回して砥石台をならわせ、1 本のカム軸の上のカムを順に送りながら研ぐ。それまでカムを別に研いで軸に付けていた方法が要らなくなった1909 年 7 月 7 日出願。番号と日付は特許公報で確かめたLandis Tool Co.カム軸研削盤[24][1・コマ58][10]
1918年Ford の工場で、Norton が作った 33 台の専用研削盤がバナジウム鋼の変速機の軸を研ぐ。直径 20 インチ・幅 6 インチの砥石で 1 回のプランジで仕上げ、公差は 0.0005 インチ、8 時間に 550 本を研いだFord Motor Co.[1・コマ65][1・コマ66]
1919年砥石の Norton Company と研削盤の Norton Grinding Company が一体になる。Charles H. Norton は新しい会社の機械部門の技師長を 80 代まで続けたNorton Company[9][1・コマ56]

量産と精密の専用機:センタレス・内面・平面・ジグ1887〜1945 年

年出来事メーカー・機種出典
1887年6月Henry Richardson が精密な鋼球を研ぐ機械の特許(米国特許 365,407)を取る。これで玉軸受に使える真球で大きさのそろった焼入れ球が作れるようになったHenry Richardson[1・コマ60]
1896年Worcester の O. S. Walker が電磁チャックを考える。薄い部品もゆがめずに平面研削盤のテーブルに固定でき、平面研削が量産の加工になる土台になったO. S. Walker[1・コマ68][1・コマ77]
1899年Pratt & Whitney が自転車の玉軸受の玉受けを研ぐ専用研削盤を出す。カムで砥石の動きを決め、小さな砥石を毎分 28,500 回転まで回したPratt & Whitney[1・コマ61][1・コマ62]
1904年Worcester の Heald Machine Co. が、自動車のピストンリングの両面を研ぐロータリ研削盤を出す。回転テーブルの電磁チャックに並べ、マイクロメータで厚さを合わせたHeald Machine Co.6 インチ ロータリ研削盤[1・コマ67][1・コマ68][17]
1905年6月★James N. Heald が、エンジンのシリンダブロックを動かさずに、砥石軸そのものを円を描くように回して穴を研ぐ遊星形のシリンダ研削盤をまとめる。中ぐり・リーマ・ラップの手間が要らなくなり、自動車と第一次世界大戦の航空機エンジンの標準の機械になった遊星形シリンダ研削盤の最初の特許は George H. Newton の 791,570(1905 年 6 月 6 日、Woodbury)。Heald は 1905 年の最初の機械を Model 60 とするHeald Machine Co.遊星形シリンダ研削盤[1・コマ69][1・コマ70][1・コマ71][18][17][19・p.218]
1908年Pratt & Whitney が定寸装置付きの円筒研削盤を作る。寸法の近くで自動で細かい送りに切り替え、砥石がへっても決まった寸法で止まる。作業者は工作物を取り替えて送りを入れるだけになったPratt & Whitney[1・コマ73][1・コマ74]
1909年Jones & Lamson の製図主任だった William L. Bryant が Springfield(Vermont 州)で Bryant Chucking Grinder Co. を始める。工作物をチャックでつかみ、内径・外径・端面の 3 つの砥石をカムと止めで自動で動かす研削盤で、自動車の軸受の内輪・外輪の量産に使われたBryant Chucking Grinder Co.[20][1・コマ73]
1909年★Cambridge(Massachusetts 州)の Blanchard Machine Co. が Blanchard 平面研削盤を作り始め、すぐに主力製品になる。立軸の円筒形の砥石の下で回転テーブルを回し、平らで平行な面を速く研ぐ方式で、いまも「ブランチャード研削」と呼ばれることがあるBourn & Koch は MIT 出の技師 Henry K. Spencer の設計で「世界初の立軸ロータリ平面研削盤」とするが、立軸と回転テーブルの組み合わせは 19 世紀の鏡の研磨機にもあり(Woodbury)、ここでは同社の表現として扱うBlanchard Machine Co.立軸ロータリ平面研削盤[21][22][23・p.200]
1915年米国の研削の手引書が、Blanchard の立軸平面研削盤(モータ駆動、回転テーブルは 8 段の速さ)や Heald のロータリ平面研削盤を、標準の機械として解説する—[23・p.188][23・p.200]
1915年3月★軸受のころを作る Danbury(Connecticut 州)の Ball and Roller Bearing Co. の Lewis R. Heim が、速く回る研削砥石と逆向きにゆっくり回る調整車の間で、ブレードに載せたころを研ぐセンタレス研削盤の特許を出願する(1917 年 1 月 2 日成立)American Precision Museum は「1915 年の特許」とするが、1915 年は出願で成立は 1917 年Ball and Roller Bearing Co.[25][1・コマ81][26]
1922年自動車部品の研削の手引書『Production Grinding』が出る。Heald の内面・平面・シリンダ研削盤、Cincinnati と Landis の円筒研削盤で、ギヤの穴やシリンダブロック、ナックルを研ぐ工程を紹介した—[27・p.8][27・p.16][27・p.27]
1922年★Cincinnati Milling Machine Co. が Heim の特許を手に入れ、量産用のセンタレス研削盤を作る。研削砥石は直径 20 インチ、ゴムの調整車は 12 インチで、肩の付いたプッシュロッドやバルブタペットも研げたWoodbury と American Precision Museum は 1922 年、American Machinist は 1923 年 8 月に「最近開発され、売り出された」と紹介Cincinnati Milling Machine Co.センタレス研削盤[1・コマ82][28・コマ28][26]
1925年センタレス研削で、長さ 6 インチのバルブステムを 1 時間に 350 本、ピストンピンを 225〜325 本研ぐようになる。調整車の直しは 1 シフトに 1〜2 回で、砥石は使い捨ての消耗品だと考えられるようになった—[1・コマ83]
1926年★Heald の「Size-Matic」内面研削盤が業界誌に載る。穴を研ぎながら決まった寸法で自動で仕上げに切り替えて止まり、そのたびに栓ゲージで測る手間を省いた。Frigidaire の冷蔵庫を作る Delco Light では生産が 3 倍、不良が 1% 未満になったと広告したWoodbury は Heald が 1922 年に開発を始め、自動定寸の内面研削盤を 1927 年に完成したとする。業界誌の索引と広告では 1926 年に名前が出るHeald Machine Co.Size-Matic[29・コマ4][30・コマ216][1・コマ75]
1928年Landis Tool Co. が最初の自動のカム軸研削盤を出す。同じ年に自動の内面研削盤も作り、油圧の送りと油圧の締め付け、A. P. Steiner の荒・仕上げの自動定寸を自動車向けの機械に広げたLandis Tool Co.[1・コマ75][1・コマ76]
1929年バルブタペットの研削は、1920 年のセンタ形研削盤から、手動のセンタレス(1923 年)、自動の排出(1925 年)、ホッパから自動で送る全自動(1929 年)へ進み、1 人が 3 台を受け持って 1 時間に 1,350 個を研ぐようになる—[1・コマ97]
1932年Cincinnati が幅の広い砥石を使う強力なセンタレス研削盤を作り、鋳鉄のクランク軸の送り込み研削や、ピストンの通し送り研削に使うCincinnati Milling Machine Co.[1・コマ82][1・コマ83]
1933年Heald が内面センタレス研削盤を出す。外径を 3 点で支えて内径を研ぐので、内外径が完全に同心になる。Cincinnati Grinders と GM の Hyatt 軸受部門の協力で作られ、Size-Matic か Gage-Matic の自動定寸を選べたHeald Machine Co.内面センタレス研削盤[1・コマ84][1・コマ85][32・コマ37]
1935年9月Detroit の Ex-Cell-O が Cleveland の工作機械見本市にねじ研削盤を出す。自社の工場で 5 年ほど使ってきた機械で、焼入れした素材からタップ・チェーサ・ウォーム・ねじを研いだ。業界誌は「米国製で初めて売りに出された商用のねじ研削盤」と紹介した「初めて」は The Tool Engineer 1935 年 11 月号の書き方。試作機の何台かはそれ以前にタップの研削用に売られていたEx-Cell-O Aircraft & Tool Corp.Precision Thread Grinder[33・p.26][34・p.19]
1940年★Bridgeport(Connecticut 州)の Moore Special Tool Co. がジグ研削盤を作る。焼入れの後に穴を正しい位置へ研げるので、焼入れのひずみを見込んで柔らかいうちにジグ中ぐりする苦労がなくなり、順送り型や時計の型、ゲージの穴の精度が上がった同社は 1931 年または 1932 年にジグ中ぐり盤を作っている(社の本で年が分かれる)Moore Special Tool Co.ジグ研削盤[35・コマ10][36・コマ165][37]
1940年代第二次世界大戦の航空機の需要で、ねじ研削が量産の加工になる。ピッチ径 0.0002 インチ、フランク角 5 分の精度を出し、硬い(あるいは柔らかすぎる)材料のねじも研いだ。鋼のロールを押し付けて砥石に形を写すクラッシュ成形もこのとき広まった—[1・コマ79][1・コマ80]

超砥粒・NC と業界の再編1930 年〜

年出来事メーカー・機種出典
1930年10月★Norton の Baalis Sanford が、超硬合金を研ぐため、レジンで固めた小さなダイヤモンド砥石を試作する。1934 年に直径 7 インチのダイヤモンド砥石を売り出し、超硬工具を研ぐ唯一の実用的な方法になったNorton Company[1・コマ86][1・コマ87][31・コマ16]
1939年Norton の Van der Pyl が金属で固めたダイヤモンド砥石を作り、ガラス・水晶・セラミックスのような硬い非金属を研げるようにするNorton Company[1・コマ87]
1946年Norton の Raymond Ridgeway が、炉の中で決まった大きさのアルミナの結晶を作る方法を実用にする。砕かずに砥粒にできるので切れ刃が多く、適度に割れて新しい刃が出る「冷たく速く削る」砥粒になったNorton Company[1・コマ87]
1955年2月General Electric の研究所が、高い圧力と温度でダイヤモンドを人工に作ったと発表する。研究者の論文は同じ年の 7 月に Nature に載ったGeneral Electric[38][39][40・コマ129]
1955年9月Cincinnati Milling Machine Co. が Worcester の Heald Machine Co. を買い、子会社にする。同じ 9 月には Giddings & Lewis も Cincinnati Bickford を買っており、業界誌は工作機械メーカーの合併のうわさが広がったと伝えた。1933 年の内面センタレス研削盤も、Cincinnati の研削盤の子会社 Cincinnati Grinders との協力で作られていた1955 年 9 月 15 日の Automotive Industries が「Cincinnati Acquires Heald」と報じ、9 月 26 日の American Machinist も Cincinnati Milling の Heald 買収に触れる。1956 年 12 月の広告では「Subsidiary of The Cincinnati Milling Machine Co.」と名乗るHeald Machine Co.[41・p.21][42・p.112][43・コマ3][32・コマ37]
1957年GE が人造ダイヤモンドを「Man-Made」の名で工業用の砥粒として売り出す。1957 年の半ばには 12kg を公開し、1960 年には米国の工業用ダイヤモンドの約 1 割を占めるまでになった販売開始の年は Physics Today の Strong の訃報による。12kg と約 1 割は Chimia 1960 によるGeneral Electric[44][45]
1957年4月★GE の Robert H. Wentorf が、ダイヤモンドに並ぶ硬さの立方晶窒化ほう素(CBN)を作ったと発表する。GE は「Borazon」と名付けた。ダイヤモンドが燃える温度でも硬さを保ち、鉄と反応しにくいので、焼入れ鋼を研ぐ砥粒として期待されたGeneral ElectricBorazon[46][40・コマ129][40・コマ131]
1958年2月Springfield(Vermont 州)の Bryant Chucking Grinder Co. が、2 月 1 日付で Detroit の Ex-Cell-O の子会社になる。1982 年の工業名鑑では「Ex-Cell-O の Bryant Grinder 事業部」として内面・外面研削盤を載せているBryant Chucking Grinder Co.[47][48][49]
1967年Moore が数値制御で輪郭を研ぐ(連続切削の)No.3 ジグ研削盤を作る。1970 年には英国の業界誌にも NC 付きの Moore No.3 が載っているMoore Special Tool Co.No.3 ジグ研削盤(NC)[37][50・コマ12]
1967年9月大きな複合企業の Litton Industries が Landis Tool Co. の買収を発表する。Landis は「Litton Industries の Landis Tool Company 事業部」になり、1970 年代の裁判の記録もこの名で残るNewsweek 1967 年 9 月 11 日号が買収の計画を伝え、1968 年の本はすでに Litton が買った会社に Landis Tool を挙げる。買収が完了した月日は確かめていないLandis Tool Co.[51][52][53]
1969年8月GE が Borazon を、焼入れした鉄系の金属を精密に研ぐための工業用の砥粒として売り出す。金属で被覆した形で、評価用に出された合成の発表(1957 年)から商品化まで 12 年かかったGeneral ElectricBorazon[54]
1983年米国際貿易委員会(USITC)の報告は、日本へ輸出される米国の工作機械は歯車・研削・フライスの高精度の機械が中心で、日本のメーカーはまだその技術に追いつけていないと書く—[55・p.28]
1990年3 月 16 日に英国の BTR が Norton への敵対的な株式の買付けを始める。Worcester の町を挙げた反対の中、Norton はフランスの Compagnie de Saint-Gobain との友好的な合併を選び、砥石の老舗は Saint-Gobain の一部になった米国の対米外国投資委員会(CFIUS)は BTR と Saint-Gobain の両方の案を調べた(Mergers and Acquisitions 1991)Norton Company[56][57]
1994年Moore Special Tool Co. が Producto Machine Co. に買われ、PMT Group になる。1997 年には超精密加工機の Moore Nanotechnology Systems ができたMoore Special Tool Co.[37]
1998年10月Cincinnati Milacron が工作機械部門を UNOVA に売る(10 月 2 日)。Heald を含む Cincinnati の研削盤は、Landis とともに UNOVA の工作機械事業に入ったCincinnati Milacron[58][59]
2005年12月UNOVA が Landis Grinding Systems(米国の Landis と英国の Landis Lund ほか)をフランスの Fives-Lille グループに売る(10 月に合意、12 月 9 日に完了)。クランク軸・カム軸研削盤の老舗は外国の会社の一部になったLandis Grinding Systems[60][61]

よくある質問

万能研削盤を最初に作ったのは誰ですか?
今の万能研削盤の形を決めたのは Brown & Sharpe の Joseph R. Brown です。1868 年に構想の図面を作り、1874 年に製作を始め、1876 年の Philadelphia の建国百年博覧会に出しました。特許は 1877 年 2 月 27 日に遺族に与えられています。似た機械は同じころ時計の工場や Lynn(Massachusetts 州)の Furbush も作りましたが、広く使われて手本になったのは Brown & Sharpe の機械でした。
Norton Company と Norton Grinding Company は同じ会社ですか?
もとは別の会社です。Norton Company(はじめは Norton Emery Wheel Company、1885 年)は F. B. Norton の陶器工場から生まれた砥石の会社で、Norton Grinding Company(1900 年)は Charles H. Norton が技師長になった研削盤の会社です。2 人に血縁はありません。2 社は 1919 年に一体になりました。
センタレス研削は誰が考えたのですか?
工作物を支えずに研ぐ考えは 19 世紀からありましたが、今のように研削砥石と逆向きに回る調整車とブレードで研ぐ方式は、軸受のころを作っていた Lewis R. Heim の特許(1915 年出願、1917 年成立)が決め手です。Cincinnati Milling Machine Co. がこの特許を手に入れ、1922 年に量産用の機械を作って広めました。
CBN 砥石はいつからありますか?
CBN(立方晶窒化ほう素)は、GE の Robert H. Wentorf が 1957 年に合成を発表し、GE は「Borazon」と名付けました。焼入れ鋼を研ぐ工業用の砥粒として GE が売り出したのは 1969 年です。日本では 1970 年代からカム軸などの量産研削に使われ、研削盤の高速化と CNC 化が進みました。

この先と関係するページ

出典

研究書・当時の業界誌・会社の本は Internet Archive のスキャンで、政府の資料は National Park Service・米国際貿易委員会・SEC(米証券取引委員会)の公開資料で、博物館とメーカーの解説は各ページを 2026 年 10 月に確かめました。Woodbury の本と雑誌の番号はスキャンのコマ(Woodbury は 1 コマに見開き 2 ページ)、国立国会図書館の資料もコマ番号です。古い米国特許の番号と日付は、今回 Google Patents が自動の閲覧を受け付けなかったため、Woodbury の注と当時の業界誌(Burlingame 1910 ほか)で確かめ、リンクは Google Patents にしています。「世界初」「最初の」は、本文で「同社は〜とします」と書いたものはメーカー自身の記述です。特許の年(出願・成立)と製品の年(発表・出荷)は 1〜数年ずれることがあるので、本文で書き分けています。

  1. Robert S. Woodbury『History of the Grinding Machine: A Historical Study in Tools and Precision Production』MIT Technology Press(1959)コマ 20・22・24・28・30・31・32・33・34・35・36・37・38・39・40・42・43・44・45・50・51・52・54・55・56・57・58・60・61・62・65・66・67・68・69・70・71・73・74・75・76・77・79・80・81・82・83・84・85・86・87・88・89・95・97
  2. 米国特許 9,976「Apparatus for grinding and shaping metals」(1853 年 8 月 30 日、Samuel Darling)
  3. Joseph W. Roe『English and American Tool Builders』Yale University Press(1916。Internet Archive は 1926 年の刷り、同じページ)p. 214・224・259
  4. Luther D. Burlingame「History of the Invention of the Universal Grinding Machine」Machinery(New York)1910 年 7 月号コマ 2・3
  5. 米国特許 187,770「Grinding Machine」(1877 年 2 月 27 日、J. R. Brown の遺産管理人 C. D. Owen・L. Sharpe)
  6. H. F. Noyes「Earlier and Modern Wet-Grinding Machines and Practice」The Engineering Magazine 第 31 巻 4 号(1906 年 7 月)pp.492〜499p. 492・493・494・496・497
  7. 米国特許 187,167「Improvement in Grinding and Polishing Surfaces and Wheels」(1876 年 11 月 20 日出願、1877 年 2 月 6 日成立、F. B. Norton。粘土・長石で焼き固めるビトリファイド砥石)
  8. American Precision Museum(Machine Tool Hall of Fame)「Franklin F. Landis」
  9. National Park Service「National Register of Historic Places Inventory—Nomination Form: Charles H. Norton House」(1975 年 8 月、James Sheire)
  10. American Precision Museum(Machine Tool Hall of Fame)「Abraham B. Landis」
  11. Alfred Haenig・Charles Salter『Emery and the Emery Industry: A Technical Study of Modern Abrasives and the Development of the Modern Grinding-Machine Industry』Scott, Greenwood & Son, London(1912)p. 19
  12. Edward G. Acheson『A Pathfinder: Discovery, Invention and Industry』The Press Scrap Book, New York(1910。Acheson の自伝)p. 101・108
  13. 米国特許 492,767「Production of Artificial Crystalline Carbonaceous Materials」(1893 年 2 月 28 日成立、Edward G. Acheson、The Carborundum Company に譲渡。炭化けい素の製造)
  14. 米国特許 659,926「Process of Manufacturing Abrasive Material」(1900 年 5 月 4 日出願、10 月 16 日成立、Charles B. Jacobs。電気炉でボーキサイトを溶かして作る人造アルミナ)
  15. Landis Tool Co. の広告(Landis Bros. の工場の焼け跡に新工場、資本金 10 万ドルで新たに組織)American Machinist 第 20 巻 20 号(1897 年 5 月 20 日)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号)p. 22・24
  16. The Henry Ford「Norton Cylindrical Grinder, 1900」(Object ID 31.368.1、Norton Company の寄贈)
  17. American Precision Museum(Machine Tool Hall of Fame)「James N. Heald」
  18. 米国特許 791,570「Grinding Machine」(1904 年 11 月 7 日出願、1905 年 6 月 6 日成立、George H. Newton。遊星運動のシリンダ研削盤)
  19. Worcester Polytechnic Institute 卒業アルバム『The Peddler』1980 年版 p.218 の Heald Division of Cincinnati Milacron の広告p. 218
  20. American Precision Museum(Machine Tool Hall of Fame)「William L. Bryant」
  21. Cambridge Historical Society「Blanchard Machine」(Cambridge の産業史)
  22. Bourn & Koch「Blanchard Surface Grinder」(Blanchard の沿革)
  23. Douglas T. Hamilton・Franklin D. Jones『Advanced Grinding Practice』The Industrial Press, New York(1915)p. 188・200
  24. 米国特許 1,017,879「Grinding Machine」(1909 年 7 月 7 日出願、1912 年 2 月 20 日成立、A. B. Landis。カム軸研削盤)
  25. 米国特許 1,210,937「Roll-Grinding Machine」(1915 年 3 月 6 日出願、1917 年 1 月 2 日成立、Lewis R. Heim、Ball and Roller Bearing Co. に譲渡)
  26. American Precision Museum「Heim Centerless Grinder, 1918」
  27. Fred B. Jacobs『Production Grinding』The Penton Publishing Co., Cleveland(1922)p. 8・16・27
  28. 「Cincinnati Centerless Grinder」American Machinist 第 59 巻 9 号(1923 年 8 月 30 日)p.339コマ 28
  29. American Machinist 第 64 巻(1926 年 1〜6 月)索引「Heald “Size-matic” internal grinding machine」p.377コマ 4
  30. Machinery(New York)1926 年 8 月号 pp.109〜111(The Heald Machine Co. の SIZE-MATIC の広告・Delco Light Company の使用例)コマ 216
  31. 「Progress Made in Tool-Grinding Methods」ほか Machinery(New York)1936 年 11 月号(ダイヤモンド砥石による超硬工具の研削)コマ 16
  32. 「Heald Internal Centerless Grinders」Machinery(New York)1934 年 3 月号 p.420コマ 37
  33. 「Ex-Cell-O Thread Grinder and Carbide Tool Grinder」(New Equipment at the Show)Machinery(New York)1935 年 9 月号 ※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号)p. 26
  34. 「Ex-Cell-O Precision Thread Grinder」The Tool Engineer 第 4 巻 7 号(1935 年 11 月)p.19p. 19
  35. Moore Special Tool Co.(F. C. Victory・Richard F. Moore)『Holes, Contours and Surfaces』(1955)コマ 10
  36. Wayne R. Moore『Foundations of Mechanical Accuracy』Moore Special Tool Co.(1970)コマ 165
  37. Moore Tool Company「Timeline」
  38. 「Man-Made Diamonds」Chemical & Engineering News 第 33 巻 8 号 p.718(1955 年 2 月)
  39. F. P. Bundy・H. T. Hall・H. M. Strong・R. H. Wentorf Jr.「Man-Made Diamonds」Nature 第 176 巻 pp.51〜55(1955 年 7 月 9 日)
  40. 「Borazon」Machine and Tool Blue Book 第 52 巻 4 号(1957 年 4 月)p.126〜コマ 129・131
  41. 「Cincinnati Acquires Heald」Automotive Industries 第 113 巻 6 号(1955 年 9 月 15 日)p.21p. 21
  42. American Machinist 第 99 巻 20 号(1955 年 9 月 26 日)p.112(業界の動き。Giddings & Lewis の Cincinnati Bickford 買収と Cincinnati Milling の Heald 買収)p. 112
  43. Steel 第 139 巻 27 号(1956 年 12 月 31 日)The Heald Machine Company の広告(「Subsidiary of The Cincinnati Milling Machine Co.」)コマ 3
  44. 「Herbert Maxwell Strong」(訃報)Physics Today 第 55 巻 7 号 p.82(2002 年 7 月)
  45. H. J. Rodewald「Neues über die Diamantsynthese der General Electric Co.」Chimia 第 14 巻 pp.162〜165(1960 年 5 月)
  46. R. H. Wentorf Jr.「Cubic Form of Boron Nitride」The Journal of Chemical Physics 第 26 巻 p.956(1957 年 4 月)
  47. Wayne G. Broehl Jr.『Precision Valley: The Machine Tool Companies of Springfield, Vermont』Prentice-Hall(1959)
  48. Bryant Computer Products『DSD Random Access Mass Memories』(1964 年のパンフレット。会社の沿革の欄)
  49. 『Thomas Register of American Manufacturers』1982 年版(「Bryant Grinder Div., Ex-Cell-O Corp., Springfield, VT」)
  50. Machinery and Production Engineering(London)第 117 巻(1970)索引「Jig Grinder, Moore No 3 with numerical control」コマ 12
  51. Newsweek 第 70 巻(1967 年 7〜12 月)索引「Litton Industries, Inc.:Plans to acquire Landis Tool Co.」(9 月 11 日号 p.65)
  52. Ira U. Cobleigh『Happiness Is a Stock That Doubles in a Year』Bernard Geis Associates(1968。Litton が買った会社として Landis Tool を挙げる)
  53. 合衆国最高裁判所『Landis Tool Co. v. National Labor Relations Board』409 U.S. 915(1972、No.72-194。申立人を「Landis Tool Company, Division of Litton Industries」と書く)
  54. 「New Materials」Aircraft Engineering 第 41 巻 8 号 p.34(1969 年 8 月。General Electric の Borazon の発売)
  55. U.S. International Trade Commission『Competitive Assessment of the U.S. Metalworking Machine Tool Industry』USITC Publication 1428(1983)p. 28
  56. 『Mergers and Acquisitions: Meeting the Challenges in Europe and North America after 1992』Kluwer Law and Taxation Publishers(1991。BTR PLC/Norton Company/Compagnie de Saint-Gobain の項)
  57. Barbara Polan『Worcester: An Illustrated History』Community Communications(1999。Norton Company の項)
  58. Milacron Inc. Form 10-K(1998 年度。1998 年 10 月 2 日の工作機械部門の売却)
  59. UNOVA, Inc. Form 10-K(2002 年度。Landis Grinding Systems 事業部と Cincinnati Machine 事業部)
  60. UNOVA, Inc. Form 8-K(2005 年 10 月 28 日。Landis Grinding Systems を Groupe Fives-Lille へ売る合意)
  61. UNOVA, Inc. Form 8-K(2005 年 12 月 12 日。12 月 9 日に Landis の売却を完了)
  62. American Precision Museum「Machine of the Month: Bryant Chucking Grinder Model 10 A」
  63. American Precision Museum(Machine Tool Hall of Fame)「Richard P. Moore」
  64. Worcester Historical Museum「Finding Aids: Business and Industry」(Norton Company Collection Part 1・2)
  65. WPI Archives & Special Collections「MS 74 George N. Jeppson Papers」(Norton Company の記録)
  66. Smithsonian National Museum of American History「patent model, carborundum article」(F. A. J. Fitzgerald、米国特許 650,235、1900 年、ID AG.308780)
  67. Grand Rapids Public Library(Michigan Memories)「Gallmeyer and Livingston Co.」No.10 研削盤の写真
  68. J. Goral「Continuing a Legacy:Bourn & Koch Provides Retrofit Machine for Gear Shaping」Gear Technology 2020 年 11/12 月号
  69. 大隈鉄工所『製品沿革写真集:創業70周年記念』(1968)
  70. 『日本の技術100年 ビジュアル版 第7巻』筑摩書房(1989)
  71. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「油圧式万能研削盤 GHU-300形」
  72. 豊田工機『技に夢を求めて:豊田工機50年史』(1991)