GERMANY 07ドイツの研削盤の系譜

研削盤は、回る砥石で工作物を少しずつ削り、旋盤やフライス盤では出せない精度と面の細かさに仕上げる機械です。ドイツの研削盤の歴史は、砥石の会社が研削盤も作ったところから始まります。Frankfurt の Naxos-Union は、ギリシャの Naxos 島のエメリー(天然の砥粒の鉱石)を売る権利から出発して、砥石と研削盤を両方作りました。そのあと Stuttgart の Fortuna が玉軸受のスピンドル・油圧の送り・測りながら研ぐ定寸装置を、Leipzig の Mikrosa がセンタレス研削盤を、Hamburg の Blohm がクリープフィード研削を、Nordrach の Junker がCBN の高速研削を、それぞれ量産の現場に持ち込みました。この章では、砥粒と砥石、主軸と軸受、送りと制御、測定、研ぎ方の 5 つがどう変わり、現場の研削がどう変わったかを、当時の本・業界誌・学位論文・文書館の解説・特許・メーカーの沿革で 1 つずつ確かめ、出典(ページが分かるものはページ番号)を付けてたどります。

砥石の会社から
研削盤の会社へ。
ドイツの研削盤史!

マスコットのチップス

研削盤には、丸い軸の外側を研ぐ円筒研削盤(砥石台が首を振れて内面も研げるものが万能研削盤)、穴の内側を研ぐ内面研削盤、平らな面を研ぐ平面研削盤、センタで支えずに 2 つの車の間で回して研ぐセンタレス研削盤、刃物を研ぐ工具研削盤などがあります。今の研削の基本は研削のページに、日本の研削盤の歴史は国産アーカイブ第 3 章「研削盤の系譜」に、米国の Norton・Landis・Brown & Sharpe はアメリカの研削盤の章にまとめています。歯車研削盤(Niles・KAPP・Reishauer)は第 8 章 歯車機械で詳しく扱います。この章ではスイスの Studer・Kellenberger・Mägerle も、ドイツの会社と深く結び付いているので一緒に扱います。

エメリーと砥石、最初の研削盤(1871〜1913 年)

研削の道具の出発点は砥粒です。19 世紀の工場で使われた砥粒の代表が、鋼玉(アルミナ)と磁鉄鉱などがまざった天然の鉱石エメリーで、なかでもギリシャの Naxos 島のものが良質とされました。1912 年に英訳されたドイツの技術者 Haenig の本によると、Naxos の鉱床はギリシャ政府のもので、1871 年 4 月 6 日に販売権が競売にかけられ、Frankfurt am Main の Julius Pfungst(ユリウス・プフングスト)が長い期間の世界の独占販売権を手に入れました[1]。いまの後継の会社の沿革では、1871 年 10 月 15 日にその権利が新しく作った「本物の Naxos エメリーの会社」、つまり Naxos-Union に移っています[2]。1872 年 7 月の Danzig の新聞には、Naxos の鉱山を借りていた Syra の会社が、独占販売を Pfungst に任せたという証明つきの広告が載りました[3]。Haenig は、ギリシャ政府はドイツの会社がこの独占からどれだけの利益を生むかを知ると、1880 年代の契約の切れ目で更新しなかったと書いています[1]。

砥石から研削盤へ:Naxos-Union

Naxos-Union は、エメリーを粉にして売るだけでなく、それを固めた砥石を作りました。後継の会社の沿革では、砥石の生産を始めたのは 1880 年、人造の鋼玉の砥石は 1900 年、クランク軸を研ぐ直径 1,500mm のビトリファイド(ガラス質で焼き固めた)砥石は 1905 年、樹脂とゴムで固めた砥石は 1910 年です[2]。砥石が速く回るようになると、割れたときの危険が問題になります。Haenig によると、ドイツ技術者協会(VDI)の求めで Dresden の Grübler 教授が独米 10 社の砥石を割る試験をしたとき、植物性の結合剤の砥石で最も強かったのは Naxos-Union の砥石でした[1]。

同じ会社は研削盤も作りました。Haenig の本には、保護カバーの付いた研削盤、柔らかい軸で回す研削・研磨のモーター、ドリルの先を自動で研ぐ「Cui」、テーブルの往復と砥石の切り込みを自動にした円筒研削盤が、Naxos-Union の製品として図入りで出てきます。Cui は直径 4 インチ(約 100mm)までのドリルを、軸のまわりに回しながら研いで先端を中心に正しくそろえ、未熟な人でも何台も受け持てたといいます[1]。研削で出る粉じんを水の霧で落として機械の台の中にためる装置にはドイツ特許 126,473 が付いていました[1]。Haenig は、研削盤は初め機械メーカーに疑いの目で見られ、博覧会を通じてようやく工場の必需品と認められたと書いています[1]。1906 年のミラノ万博のドイツの公式目録では、Naxos-Union の研削盤は 450 を超える型を数えていました[8]。

旋盤で仕上げるか、研削で仕上げるか

研削盤が工場に入ると、仕上げの考え方が変わります。Haenig は Berlin の Ludwig Loewe の報告を引き、直径 2.5 インチ・長さ 14 インチの軸を旋盤で荒削りして Norton の研削盤で仕上げると全部で 38 分、旋盤だけで荒・仕上げをすると 48 分かかり、しかも旋盤で仕上げた軸はあとでやすりがけが要って腕しだいで出来が変わった、と紹介しています[1]。Loewe は米 Norton の研削盤をドイツで作っていました(第 2 章 科学としての生産技術)。旋盤は荒削り、研削盤は仕上げという分担がここで定まります。

専用の研削盤も生まれました。Chemnitz の Reinecker は 1902 年に、蒸気機関とガス機関のピストンリングの上下の面を、横軸の砥石と回転テーブルの磁気チャックで研ぐ平面研削盤を出しています[5]。1905 年のリエージュ万国博覧会には、砥石の軸が穴の中で円を描いてシリンダの内面を研ぐプラネタリ式の内面研削盤を、Naxos-Union と Offenbach の Mayer & Schmidt が出し、同じ Offenbach の Schmaltz は立て形を出しました[5]。Schmaltz の機械は、速く回る砥石の軸を、偏心した 2 重の軸の中に入れ、外の 2 本の軸を逆に回すと砥石の軸が中心から少しずつずれて円を描く仕組みでした。内側の軸は毎分 4,000 回転です[1]。Haenig は、Naxos-Union が Frankfurt と Offenbach のあたりに砥石の産業の土台を作ったと書いており、研削盤のメーカーもこの地域に集まっていました[1]。

玉軸受のスピンドルと Hirth-Minimeter(Fortuna)

研削盤の精度と能率を決めるのは、砥石を回す主軸(スピンドル)です。1903 年、発明家の Albert Hirth(アルベルト・ヒルト)と商人の Emil Lilienfein は、Stuttgart-Bad Cannstatt の革すき機の会社 Fortuna-Werke を買いました[6][7]。Hirth は Bosch の点火装置のための玉軸受を作る Norma Compagnie も作り、その量産のために玉や保持器を研ぐ機械を設計します[6]。ここから生まれたのが精密な玉軸受で支えた研削スピンドルでした。1969 年の Fahr の学位論文(Fortuna の 1953 年の社史による)によると、それまでの研削スピンドルはすべり軸受で、速く回せないため小さな砥石で小さな穴を研ぐのが難しかったのに対し、玉軸受のスピンドルは毎分 60,000 回転を出し、たちまち広まりました[6]。同じころ Hirth は、刃の支点のてこで動きを拡大する測定器 Hirth-Minimeter を作ります。精度は型によって 1/100mm から 5/10,000mm で、未熟な人でも寸法を速く確かめられ、軸受の量産を支えました[6][7]。

Naxos-Union の創立1871 年 10 月Frankfurt am Main、J. Pfungst[2]
玉軸受の研削スピンドル毎分 60,000 回転Fortuna(Hirth)[6]
旋盤だけと研削の併用48 分→38 分Loewe の報告。やすりがけも不要に[1]

現場で何に効くか。「砥石は消耗品」「主軸は転がり軸受で高速に」「寸法は測りながら追い込む」という、いまの研削の前提は、この時代に砥石の会社と軸受の会社の中から生まれました。古い研削盤のスピンドルを見るときは、すべり軸受か転がり軸受かで、出せる回転数と小径の内面研削の得意・不得意が分かります。

油圧・プランジ研削・定寸装置(1914〜1944 年)

第一次世界大戦は、研削盤を「部品の会社の内側の道具」から「売り物の機械」に変えました。Fahr によると、Fortuna は 1913 年に Naxos から研削盤の設計者 Loose を引き抜いて設計を任せ、大戦中は研削スピンドルの量産を軍需として指定されてドイツ中の工作機械メーカーに納めました。その経験の上に、1916 年に最初の万能円筒研削盤を出し、1919 年には標準の円筒研削盤を作っています[6]。

油圧の送りとプランジ研削(1926・1928 年)

Loose の大きな仕事は、テーブルの往復と砥石の送りを油圧で動かすことでした。油圧なら速さを段なしで変えられ、往復の切り返しも滑らかです。Fahr は、1926 年のライプツィヒの見本市に出た Fortuna の最初の油圧式研削盤が、最初の玉軸受スピンドルと同じくらい話題になったと書いています[6]。油圧は新しい研ぎ方も可能にしました。テーブルを往復させず、幅の広い砥石を工作物に真横から押し込むプランジ研削(Einstechschleifen)です。1928 年の Fortuna のプランジ外面円筒研削盤は、直径 900mm・幅 250mm までの砥石を使いました[6]。1930 年代には、幅の広い砥石や何枚も重ねた砥石を油圧のドレッサ(砥石の形を整える装置)で決まった形に削り、段の付いた軸の何か所も 1 回で研ぐ方法も作っています[6]。

「油圧の研削盤の最初」には注意が要ります。米国では Brown & Sharpe が 1902〜03 年に円筒研削盤の送りに油圧を使い始め、1922 年には Heald が自動の油圧駆動の内面研削盤を出しています[5]。Jung は 1925 年に最初の油圧式平面研削盤を、Studer は 1936 年に油圧制御の円筒研削盤を出したとし、Studer はこれを「世界初」と書きますが[13][11]、Fortuna の 1926 年の機械のほうが早く、どれも「その会社の機種として最初」と読むのが安全です。

測りながら研ぐ:Finitor(1939 年)

研削には、旋削にない難しさがあります。砥石そのものが減っていくので、目盛りどおりに切り込んでも寸法が決まりません。そのため作業者は何度も研削を止めて工作物を測っていました。Fahr によると、研削盤と測定器の両方を作っていた Fortuna は、まず研削中も触針が工作物に当たって針で進み具合を見せる測定器を作り、次に寸法が決めた値になると油圧の制御に信号を送って研削を自動で止める装置を Hirth が作りました。Bosch の量産で試したあと、1939 年から「Finitor」として量産します。精度は 1/1,000mm で、工作物をマガジンから入れ、砥石を早送りで近づけ、決めた速さで切り込み、寸法で戻るという全自動の流れができました。熟練の少ない人でも精密部品を研げ、1 人で何台も受け持て、不良も減ったと Fahr はまとめています[6]。1939 年の Fortuna は 900 人の会社になっていました[6]。

最初の油圧式研削盤1926 年Fortuna、ライプツィヒの見本市[6]
プランジ研削の砥石直径 900mm・幅 250mmFortuna、1928 年[6]
定寸装置 Finitor1/1,000mm1939 年から量産[6]

研削盤の専業メーカーが出そろう

この時代に、いまも名の残る研削盤の会社が次々に生まれました。スイスの Thun の Studer(1912 年)と St. Gallen の Kellenberger(1917 年、最初の万能円筒研削盤)[11][12]、Berlin で高精度の研削盤を作り始めた Karl Jung(1919 年)[13]、自社の多軸自動盤の刃物を研ぐために工具・万能研削盤を作った Köln の Schütte(1919 年、1934 年に万能工具研削盤 WU2〜WU4)[14]、のちに工具研削盤の会社になる Walter(1919 年に Düsseldorf で創業、1924 年に Tübingen へ)[15]、Hamburg で測定器の工場として始まった Robert Blohm(1924 年)[17]、1932 年に研削盤に入ったスイスの Mägerle です[18]。Jung は 1938 年に、十字に動くスライドと立った柱という平面研削盤の骨組み(G 60)を作りました[13]。Fahr によると、Stuttgart では 1920 年代に Fortuna が万能研削盤に入ったころ、すでに Karl Unger(のちの Schaudt KG)が同じ種類の機械を作っており、のちに Fortuna はクランク軸とピストンの楕円研削、Schaudt はピストンピンとカム軸の研削盤へと分かれていきました[6]。

研削を研究する大学

研削は、大学の研究の対象にもなります。TH Berlin の Georg Schlesinger は 1921 年に『Wirtschaftliches Schleifen(経済的な研削)』を出し、総形研削や自動車部品の研削を論じました[16]。Aachen の WZL では 1936 年から Herwart Opitz が研削の研究を強め、航空機用のクロムモリブデン鋼の研削割れを、砥石と研削液の選び方で防ぐ国の研究を受けました。研削液の影響(1939 年)や精密研削(1943 年)の学位論文が出ています[19]。1937 年には Gotthold Pahlitzsch が TH Braunschweig の講座を受け持ち、講座の名に「研削・研磨技術」が入り、1950 年からは研削・研磨技術研究所を率いました[22](研究の流れは第 2 章)。

戦争は研削盤の会社にも影を落としました。Naxos-Union の持ち主だった Dr. Arthur Pfungst-Stiftung を率いた Marie Pfungst は 1936 年にナチス政権に財団から退かされ、1942 年に Theresienstadt の収容所へ送られて亡くなりました[2]。Berlin の Jung の工場は 1945 年に設備をすべて撤去されます[13](第 3 章 戦争と東西分断)。

東西の復興:センタレスとクリープフィード(1945〜1968 年)

西:Göppingen・Hamburg・Stuttgart

西ドイツでは、研削盤の会社が場所を変えて出直します。Jung は 1948 年に Göppingen で会社を立て直し、Blohm は同じ年に案内に玉を使った平面研削盤を作りました[13][17]。玉の案内は、すべりの案内より動き出しの引っかかり(スティックスリップ)が少なく、細かい送りが効きます。1951 年の Hannover の見本市を報告した連合国側の資料には、Stuttgart-Hedelfingen の Schaudt Maschinenbau が穴径 20〜400mm の内面研削盤と、2 枚の成形砥石で歯の左右の面を同時に荒・仕上げする歯車研削盤を、Hamburg-Bergedorf の Blohm が平面研削盤を出したと書かれています[24]。Walter は 1953 年に全自動の工具研削盤(同社は世界初とする)を、Schütte は同じ年に、ジンバル(2 軸の首振り)で吊ってフライスのねじれ角と逃げ角を換算表なしで合わせられる研削ヘッドの特許を出しています[15][14]。Studer は 1965 年に、すべての機械の砥石軸を動圧軸受(回転で油の膜を作って浮かせる軸受)にしました[11]。

東:Leipzig のセンタレス研削盤(Mikrosa)

東ドイツでは、Leipzig-Mockau のフライス盤の会社 Arno Krebs(1901 年創業)が 1948 年に人民所有企業(VEB)になります[49]。ザクセン州立文書館の解説によると、統合を重ねたこの工場は、1949 年に初めて作られ 1951 年に量産に入ったセンタレス外面研削盤を受け継ぎ、1952 年に「Mikrosa」の商標を作りました。1958 年に Fräs- und Schleifmaschinenwerk Leipzig、1964 年に VEB Mikrosa Leipzig と名を変え、1965 年からはセンタレス研削盤 SASL のシリーズだけを作る工場になります[23]。

センタレス研削盤は、工作物をセンタで支えず、研削砥石と調整車(ゴムなどで固めた遅く回る車)とブレード(受け台)の 3 点で支えて回しながら研ぎます。センタ穴が要らず、工作物を次々に通したり押し込んだりでき、ピストンピン・ころ・弁棒のような量産の丸物に向きます。1958 年 6 月の英国の Machinery 誌は、Mikrosa の SASI 200 がディーゼル機関のシリンダライナをマガジンから自動で送り、電気の測定ヘッドで寸法を見ながら 1 時間に 70 本プランジ研削する様子を伝えています。砥石は直径 24 インチ(約 610mm)、40 馬力でした[27]。Mikrosa は 1970 年に東ベルリンの工作機械コンビナート「7. Oktober」の工場になり、ソ連の自動車工業のために SASL を改良し続けました[23]。

深く切り込んで遅く送る:クリープフィード研削(1962 年)

平面研削の普通のやり方は、テーブルを速く往復させ、1 回に数 μm〜数十 μm ずつ切り込む往復研削(Pendelschleifen)です。これに対し、1 回に数 mm も深く切り込み、テーブルをごく遅く送って形を一度に研ぎ出すのがクリープフィード研削(Tiefschleifen、深切り込み研削)です。Blohm は、1962 年に平面研削盤 HFS でこの研ぎ方を始めたとしています[17]。砥石と工作物の接触の弧が長くなるので、機械には高い剛性と送りのむらのなさが、砥石には目づまりしにくい柔らかく気孔の多いものが、研削液にはたくさんの量が要ります。そのかわり、タービンの翼の根元のような難しい形を、フライス削りを挟まずに焼入れ後の材料から研ぎ出せます。Blohm はのちに CNC のクリープフィード研削盤(1980 年)と、タービン向けの 12 軸の研削センタ GC 1200 DK(1983 年)へ進みました[17]。

Junker の創業(1962 年)

同じ 1962 年、黒い森の村 Nordrach の古い製粉所で Erwin Junker(エルヴィン・ユンカー)が会社を始めます。1963 年にタップ(ねじ立ての刃物)の先を研ぐ研削盤、1966 年にタップの溝を全自動で研ぐ NAJ I を作り、工具の研削から出発しました[28][29]。

現場で何に効くか。センタレス研削は「センタ穴なしで、通すだけで丸く研げる」反面、調整車の角度・ブレードの高さ・工作物の中心高さの段取りで真円度が大きく変わります。クリープフィード研削は「荒取りから仕上げまで 1 回」ですが、研削焼けを防ぐ研削液の当て方が要です。どちらも 1950〜60 年代のドイツで量産の工程になった研ぎ方です。

CBN・高速研削・CNC(1969〜1992 年)

CBN 砥石と高速研削

1957 年に米 GE の Wentorf が合成した立方晶窒化ほう素(CBN)は、ダイヤモンドに次いで硬く、ダイヤモンドが苦手な鉄系の材料とも反応しにくい砥粒です[32]。1969 年に GE が焼入れ鋼を研ぐ工業用の砥粒「Borazon」として売り出すと[31]、ドイツの砥石と研削盤の会社がすぐ取り組みます。Naxos-Union は 1978 年にビトリファイド結合の CBN 砥石を作り(後継の会社の沿革は「最初の」と書く)、Junker は同じ 1978 年に CBN 砥石を使う高速研削盤を出しました[2][28]。歯車の分野では Coburg の KAPP が 1971 年から CBN をホブの研削に使っています(第 8 章)。

CBN の砥石は減りにくく形が崩れにくい反面、値段が高く、性能を出すには砥石の周速を上げる必要があります。周速が上がれば 1 つの砥粒が削る切りくずが薄くなり、同じ時間にたくさん削れて、砥石の減りも減ります。そのぶん、主軸の軸受・砥石のつり合い・割れたときの安全カバー・研削液の当て方まで機械の作りが変わります。大学の研究もこれを追いました。WZL の Opitz・König らは 1970 年に、砥石の周速を上げて能率を高める平面研削の研究を報告し[33]、TU Berlin の Spur と Druminski は 1973 年に高速研削の総説を書いています[34]。1977 年には Druminski が高速度鋼を炭化ケイ素と CBN の砥石でクリープフィード研削する研究を、1981 年には Spur と Klocke が削りにくい高速度鋼を CBN 砥石で研ぐ研究を出し、1986 年には Spur らが非酸化物のセラミックスをダイヤモンド砥石でクリープフィード研削する研究に進みました[35][38][42]。

点で研ぐ:Junker の Quickpoint(1985 年)

Junker は CBN の高速研削を、新しい研ぎ方に結び付けます。1985 年の第 6 回 EMO Hannover で発表した QUICKPOINT は、幅が数 mm しかない CBN(またはダイヤモンド)の砥石を高速で回し、砥石を少し傾けて逃げを付けることで、工作物との接触を線から点に減らした外面研削です[29][41]。幅の広い総形砥石で段やテーパを一度に研ぐ代わりに、細い砥石で輪郭をなぞるので、1 回のつかみで肩・テーパ・面取り・溝を研ぎ分けられ、品種の切り替えにも強いとされます[41]。Junker は 1984 年 3 月の優先権で、回転対称の工作物を高速度で成形研削する方法と装置の特許を出願しています(1985 年 9 月公開)[40]。同社は 1987 年から自動車の部品に入り、1989 年の EMO を「自動車工業への突破口」としています[29]。

CBN の砥粒の発売1969 年米 GE「Borazon」[31]
CBN の高速研削盤1978 年Junker(Nordrach)[28]
QUICKPOINT1985 年幅数 mm の CBN 砥石・点接触[29][41]

NC と CNC の研削盤

研削盤の NC 化は、旋盤やフライス盤より少し遅れました。研削では、砥石の減りを測ってドレッサで形を整え、その分を補正しながら切り込む、という手順まで制御しなければならないからです。TU Berlin の研究所 IPA Berlin は、1980 年までの産業との共同研究の 1 つに「自動のドレッシング装置を持つ研削盤のための計算機制御」を開発していました[50]。また Heidenhain は、自社の NC を正式に出す前に、Stuttgart の Fortuna に特別な制御装置を納めていたといいます[50]。

1970 年代後半、各社の NC・CNC の研削盤がそろいます。Studer は 1976 年に石の粒を樹脂で固めた鉱物鋳物 Granitan を機械の台に使い(特許)、1977 年に CNC の円筒研削盤を開発しました(同社は世界初とする)[11]。Jung は 1977 年にドイツで最初の NC の精密平面・成形研削盤 JF を出し、1979 年に NC で 3 軸を動かして砥石の形を整える成形ドレッサ PA30K を作っています(どちらも同社の表現)[13]。工具研削盤では Walter が 1977 年に NC の helitronic 20 NC を(同社は世界初とする)、Schütte が 1980 年に 4 軸を輪郭制御する WU50CNC4 を、1988 年に 6 軸の WU500/750CNC6 を出しました[15][14]。スイスの Mägerle は 1980 年に静圧案内と静圧軸受の砥石軸で 1 時間に 1kg を削り取れる平面・成形研削盤を作り、1985 年に最初の CNC 平面研削盤 MFP を出しています[18]。Jung は 1989 年に Siemens の SINUMERIK 805・810 を使うシリーズを、1992 年には工作物と砥石を自動で交換する研削センタ JC500Z を出しました[13]。東の Mikrosa も 1976 年から CNC の機械を作り、年に約 400 台を作るセンタレス外面研削盤の世界最大のメーカーになっていました[23]。

東ドイツ・ソ連の研削盤と西の会社

東ドイツの円筒研削盤は Karl-Marx-Stadt(いまの Chemnitz)の研削盤工場が作りました。ザクセン州立文書館の目録には、この工場の外面円筒研削盤 SA 5 x 630 が 1978 年のライプツィヒ春の見本市で「Gutes Design」の賞を受けた記録があり、Mikrosa や砥石の工場(Dresden-Reick)とともに 7. Oktober コンビナートの工場として並んでいます[37]。東西をまたぐ分業もありました。1987 年の米国政府の翻訳資料によると、ソ連の Orsha の平面研削盤工場 Krasnyy Borets の工場長は、西ドイツの Elb-Schliff と協力生産をしていて、年 500 台の輸出のうち最大 100 台を Elb-Schliff に送ると語っています[43]。

★統合と UNITED GRINDING(1993 年〜)

危機と Körber Schleifring

1990 年代はじめ、世界の不況で自動車とタービンの会社が投資を止め、研削盤の会社は苦しみます。UNITED GRINDING の社内誌の対談で、元 Körber AG の取締役会長 Werner Redeker は、Schaudt に半年間ひとつも引き合いが来なかったと振り返っています[36]。Hamburg-Bergedorf でたばこ機械の Hauni を育てた Kurt A. Körber は、1978 年に隣の Blohm を、1983 年に Stuttgart の Schaudt を買っており[17][51][39]、1992 年の EMO には Blohm と Schaudt が並んで出ていました。Körber は 1992 年から独・スイスの研削盤と工具研削盤の会社を集め、1993 年に Körber Schleifring を作ります[36]。旧東ドイツの Mikrosa は統一後に信託公社の下で人と土地を減らしたあと、1993 年に Körber に買われました[23]。1994 年にはスイスの Studer と Mägerle が加わり[11][18]、Mikrosa はセンタレス研削盤の Herminghausen と Koenig & Bauer の Multimat の製品を引き継ぎました[23]。

その後もグループは形を変えます。Göppingen の Jung が 1998 年 12 月に入り、2008 年に Blohm と合併して Blohm Jung になりました[13][17]。Walter AG の工作機械の部門は 2004 年に加わって Walter Maschinenbau になり[15]、Studer の名の付いた Schaudt と Mikrosa の会社は 2009 年に Schaudt Mikrosa になって 2010 年に Leipzig にまとまり[23]、2021 年 11 月に Blohm Jung に吸収されています[46]。2013 年、Körber Schleifring は Körber AG から分かれ、米国の United Grinding Technologies とともに UNITED GRINDING Group になりました[36][11]。

ほかの道:EMAG・DVS・Getrag・Hardinge

すべての会社が 1 つのグループに入ったわけではありません。もう 1 つの集まり先は、立て形のピックアップ旋盤の EMAG でした。EMAG は 1997 年に軸物の外面研削の Karstens、1999 年にチャック物の内面研削の Ulm の Reinecker、2000 年にカム軸研削の Kopp を傘下に入れ、1998 年には旋削と研削を 1 台でする VSC 250 DDS を出しています[44](第 5 章 旋盤)。Frankfurt の Naxos-Union のクランク軸研削盤の事業も、2002 年に EMAG グループに入りました。EMAG の沿革によると、Naxos-Union は 2007 年に重さ 6t・長さ 6m までのクランク軸を研ぐ PM 460 を出しています。クランクピンを主軸のまわりで回したまま、砥石を追いかけさせて研ぐ「ピンチェイシング」は同社が開いた方法です[44]。砥石の工場は 1992 年に Butzbach へ移り、2005 年に DVS Technology Group の Naxos-Diskus になりました[45][2]。Fortuna は 1975 年に Getrag のグループに入り、1994 年に Stuttgart の工場をたたんで、Weil der Stadt で革の機械とスピンドルを続けています[7]。スイスの Kellenberger は 1995 年に米国の Hardinge に買われ、2024 年に独立しました[12]。Junker は 1992 年にチェコの 3 つの工場を引き継いでグループになり[28]、いまも CBN の研削を看板にしています。

研究とこれから

研究所と会社の共同研究は続いています。Blohm は 2000〜04 年に WZL と、航空機エンジンの難削材を速い往復で研ぐスピードストローク研削の研究 AGNETA に加わり、2005 年に速く往復する研削盤 PROKOS を出しました[17]。研削盤の見本市も独立しました。VDW は 2022 年に Stuttgart で研削技術の専門の見本市 GrindingHub を始め、2026 年には 28 か国の 462 社が出展しています[47]。

現場で何に効くか。いまの研削盤の銘板は、会社の合併で何度も変わっています。古い Schaudt・Mikrosa・Jung の機械の部品やサービスは Blohm Jung、古い Naxos-Union のクランク軸研削盤は EMAG、Fortuna の研削スピンドルは Weil der Stadt の会社、というように、系図をたどると今の窓口が分かります(下の系図)。

日本とのつながり

日本の精密研削は、ドイツの機械を手本の 1 つにしました。ゲージメーカーの黒田挾範製作所(いまの黒田精工)が 1936 年に買った Berlin の Lindner のねじ研削盤は日本で 3 台目で、月の生産額より高い買い物だったといいます[20]。1937 年に買われた Lindner のねじ研削盤 FS1・FS2 形は、国立科学博物館の産業技術史資料として岐阜県関市に残っています[21](国産アーカイブ第 3 章の年表)。

NC の研削盤では、日本のほうが早い例があります。大隈鐵工所は 1964 年に自社の NC 装置を付けた数値制御の円筒研削盤 GCS-N 形を見本市に出し[30]、岡本工作機械製作所は 1968 年に CNC の平面・成形研削盤 NFG-5 形を開発しました(同社は世界初とする)[52]。Studer の CNC 円筒研削盤(1977 年)や Jung の NC 平面研削盤(1977 年)の「最初」は、それぞれの会社・国の中での表現として読むのがよいでしょう[11][13]。CBN でも、豊田工機は 1972 年ごろから CBN 砥石の研究を始めており[53]、Naxos-Union と Junker の 1978 年の CBN の製品とほぼ同じ時期に、日独で CBN の研削が量産に向かったことになります[2][28]。

ドイツの研削盤の会社は、日本の市場にも直接出てきます。Junker は 1992 年に東京の JIMTOF に出展し[29]、Walter は 2003 年に日本に自社の拠点を作って世界の販売とサービスの網を完成させたとしています[15]。歯車研削盤では、三菱重工業が 1966 年にスイスの Reishauer の技術で歯車研削盤を作り始め、KAPP が 1988 年に日本に拠点を設けています(第 8 章 歯車機械)。

⑂メーカーの系図

ドイツとスイスの主な研削盤メーカーの、社名の移り変わりと合併です。帯の色が変わるところで社名や持ち主が変わり、赤い矢印は合併・事業の行き先です。Schaudt は、UNITED GRINDING の沿革がいう創業の 1906 年から描き、前身の Carl Unger と、1930〜40 年代の Schmid & Schaudt KG の名は 1947 年の米国の報告書の目録で確かめました。Naxos-Union は研削盤の事業の流れで、砥石の工場は 1992 年に Butzbach へ移り、2005 年から DVS グループの Naxos-Diskus です。Schütte・Mägerle・Elb-Schliff は本文と年表で扱い、系図には描いていません。

186018801900192019401960198020002020Naxos-Union(Frankfurt am Main)EMAG へ(研削盤)Fortuna-Werke(Hirth)Fortuna-Werke AG(Stuttgart)研削盤をやめるCarl Unger → Schmid & Schaudt KG(Stuttgart)Schaudt Maschinenbau(Stuttgart)Schaudt(Körber)合併Arno Krebs(Leipzig)人民所有企業(VEB)VEB MikrosaMikrosa(1993 年から Körber)合併Schaudt Mikrosa吸収K. Jung(Berlin)K. Jung(Göppingen、1998 年から Körber)合併Robert Blohm(Hamburg)Blohm(Hauni・Körber)合併Blohm Jung(UNITED GRINDING)Fritz Studer(スイス Thun)Studer(Körber Schleifring→UNITED GRINDING)Walter(1924 年から Tübingen)Walter AGWalter Maschinenbau(UNITED GRINDING)Erwin Junker(Nordrach)Kellenberger(スイス St. Gallen)Hardinge の傘下独立帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [2][44][6][7][9][10][24][39][23][49][46][13][17][11][15][28][29][12]

見に行ける所

研削盤は工場で使い切られることが多く、古い機械が見られる所はわずかです。会社の歴史は文書館の解説で読めます。公開日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

Naxoshalle(ナクソスハレ)Frankfurt am Main(ヘッセン州)、Ostend 地区Naxos-Union が砥石と研削盤を作った工場の建物の一つ。いまは文化の催しに使われ、創業家の Marie Pfungst の小さな記念碑がある。催しのないときに中に入れるかは、行く前に確かめてください[4]
Deutsches Technikmuseum(ドイツ技術博物館)「工作機械」Berlin(ベルリン州)1900 年ごろの金属工場を再現した「歴史の工房」で、1860 年の蒸気機関が天井の伝動軸とベルトで機械を回す。穴あけ・のこ引き・旋削・フライス削りと並んで研削の機械も見られ、実演の日がある[48]
Sächsisches Staatsarchiv Leipzig(ザクセン州立文書館 Leipzig 館)Leipzig(ザクセン州)Mikrosa の前身 Arno Krebs(1910〜46 年)と VEB Mikrosa Leipzig の文書群を持つ。製品カタログ、1996 年の短い社史の資料、技術部長 Johannes Bohmann の資料などがあり、文書群ごとの会社の歴史の解説はオンラインで読める[49][23]
Wirtschaftsarchiv Baden-Württemberg(バーデン=ヴュルテンベルク経済文書館)Stuttgart-Hohenheim(バーデン=ヴュルテンベルク州)Fortuna-Werke の 1898〜1986 年の文書(棚 25m 分)を持つ。会社の歴史の解説は読めるが、文書そのものは利用できない扱いになっている[7]
GrindingHub(研削技術の見本市)Stuttgart(バーデン=ヴュルテンベルク州)、Messe Stuttgart2022 年に始まった研削・研磨の専門の見本市。VDW・Messe Stuttgart・スイスの Swissmem が主催し、2024 年・2026 年と 2 年ごとに開かれた。研削盤・砥石・ドレッサ・測定の最新の機械がまとめて見られる[47]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「p.」は本・論文のページ(Wissert の本は PDF のページ)、「コマ」はスキャンの通し番号(Woodbury の本と国立国会図書館の資料)です。「同社は世界初とする」はメーカー自身の表現です。

エメリーと砥石油圧と定寸東西の復興CBN と CNC統合188019001920194019601980200020201871190319261936194919621977198519932013黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

エメリーと砥石、最初の研削盤1871〜1913 年

年出来事メーカー・機種出典
1871年10月★ギリシャ政府が 1871 年 4 月に Naxos 島のエメリー(天然の砥粒の鉱石)の販売権を競売にかけ、Frankfurt am Main の Julius Pfungst(ユリウス・プフングスト)が手に入れる。10 月 15 日、その権利が新しい会社「本物の Naxos エメリーの会社」(Naxos-Union)に移るHaenig は「政府の競売で世界の独占販売権を得た」と書き、1872 年の新聞広告は「Naxos の鉱山を政府から借りた Syra の会社が、独占販売を Pfungst に任せた」とする。権利の持ち主の書き方が資料で違うNaxos-Union[1・p.7][2]
1872年7月Danzig の新聞に、Naxos のエメリーの独占販売を Frankfurt の Julius Pfungst に任せたという Syra の会社の証明(7 月 8 日付)と、「Naxos-Union, Naxos-Schmirgel-Dampfwerk」の広告が載る。すでに船 1 隻分のエメリーが届いていると書くNaxos-Union[3]
1880年Naxos-Union が、エメリーを固めた研削用の砥石の生産を始める。これが同社の長い成長の始まりになったと、いまの後継の会社は書くNaxos-Union[2]
1899年Julius Pfungst が亡くなり、息子の Arthur と娘の Marie が会社を率いるNaxos-Union[2][4]
1900年Naxos-Union が、人造の鋼玉(アルミナ)の砥粒で作る砥石の生産を始めるNaxos-Union[2]
1902年Chemnitz の Reinecker が、蒸気機関・ガス機関のピストンリングの上下の面を研ぐ専用の平面研削盤を出す。砥石の軸は横向きで、回転するテーブルに磁気チャックを付けたJ. E. Reineckerピストンリング用平面研削盤[5・コマ67]
1903年★発明家の Albert Hirth(アルベルト・ヒルト)と商人の Emil Lilienfein が、Stuttgart-Bad Cannstatt の Fortuna-Werke Benno Fischer(革すき機とのこ盤、約 30 人)の会社と工場と商標を買い、Fortuna-Werke Albert Hirth を始めるFortuna-Werke[6・p.143][7]
1904年Hirth が玉軸受の研究の会社 Norma Compagnie を作る。Bosch の磁石発電機(点火装置)のための軸受を作り、その量産のために Fortuna が軸受の保持器と玉を研ぐ機械を作るNorma Compagnie[6・p.145]
1905年Naxos-Union が、クランク軸を研ぐための直径 1,500mm のビトリファイド(焼き固めた)砥石を作るNaxos-Union[2]
1905年リエージュ万国博覧会に、Brown & Sharpe のプラネタリ式(砥石の軸が穴の中で円を描く)内面研削盤と並んで、Naxos-Union と Offenbach の Mayer & Schmidt が同じ形の機械を、Offenbach の Schmaltz が立て形を出すNaxos-Union・Mayer & Schmidt・Schmaltz[5・コマ71]
1906年★Hirth が、精密な玉軸受で支えた研削スピンドルを作る。すべり軸受では回せなかった毎分 60,000 回転が出せ、小さな穴を研ぎやすくなった。同じころ、刃の支点のてこで拡大する測定器 Hirth-Minimeter(1/100〜5/10,000mm)もできるFortuna-Werke玉軸受の研削スピンドル・Hirth-Minimeter[6・p.146][6・p.147][7]
1906年ミラノ万国博覧会のドイツの公式目録に、Naxos-Union は研削盤を 450 を超える型で作り、とくに精密研削盤を得意とすると載る。砥石は直径 1,500mm まで、工場の敷地は約 35,000 m²。働く人を粉じんから守る集じんの装置(ドイツ特許)を出品した研削盤を作り始めた年と、1880 年の生産台数は確かめていないNaxos-Union[8・p.157]
1906年いまの UNITED GRINDING は、Stuttgart の Schaudt の創業をこの年とする。前身は Stuttgart の Carl Unger の研削盤の会社創業の年は UNITED GRINDING の沿革のみ。Unger が前身であることは 1947 年の米国の報告書の目録によるSchaudt(前身 Carl Unger)[9][10・p.1153]
1912年Haenig の本(1912 年の英訳)が、Naxos-Union の機械として、直径 4 インチ(約 100mm)までのドリルの先を自動で研ぐ「Cui」と、テーブルの往復・砥石の切り込みを自動にした円筒研削盤を紹介する。Cui は未熟な人でも何台も受け持てたNaxos-UnionCui・自動円筒研削盤[1・p.89][1・p.90][1・p.91]
1912年スイスの Thun(トゥーン)で Studer が創業するFritz Studer AG(スイス)[11]
1913年Lilienfein が Naxos から研削盤の設計者 Loose を引き抜き、設計の部門を任せる。1914 年の Fortuna は 300 人Fortuna-Werke[6・p.150]

油圧・プランジ研削・定寸装置1914〜1944 年

年出来事メーカー・機種出典
1916年Fortuna が最初の万能円筒研削盤を出す。玉軸受の研削盤づくりの経験と Loose の知識を使い、普通の円筒研削盤・内面研削盤としても売る。大戦中は研削スピンドルの量産も軍需として指定されたFortuna-Werke万能円筒研削盤[6・p.150][6・p.151]
1917年スイスの St. Gallen で Leonhard Kellenberger が創業し、最初の万能円筒研削盤を作るKellenberger(スイス)[12]
1918年兄 Arthur(1912 年没)を記念して、Marie Pfungst が Dr. Arthur Pfungst-Stiftung(財団)を作り、Naxos-Union はこの財団の持ち物になる。従業員は約 700 人Naxos-Union[4][2]
1919年Karl Jung が Berlin で高精度の研削盤の会社を創業するK. Jung[13]
1919年Köln の Schütte が最初の工具・万能研削盤を作る。自社の多軸自動盤の刃物を作り、研ぎ直すための機械だったAlfred H. Schütte工具・万能研削盤[14]
1919年Richard Walter が Düsseldorf で Walter Montanwerke を作る(1924 年に本社を Tübingen へ)。1926 年に超硬合金の特許を出し「Dynit」の名で売るWalter[15]
1921年TH Berlin の Georg Schlesinger(シュレジンガー)が『Wirtschaftliches Schleifen(経済的な研削)』を出し、総形研削や自動車部品の研削を論じる—[16]
1924年Robert Blohm が Hamburg で測定器と装置の工場を創業する(のちの平面研削盤の Blohm)Robert Blohm[17]
1925年Jung が最初の油圧式の平面研削盤を出す米国では Brown & Sharpe が 1902〜03 年に円筒研削盤の送りを油圧にしている(Woodbury)。「最初」は Jung の製品としてK. Jung[13]
1926年★Fortuna が、Loose の考えたテーブルと送りの油圧制御を持つ研削盤をライプツィヒの見本市に出す。速さを段なしで変えられ、機械式の送りより能率が上がった。Fahr は、最初の玉軸受のスピンドルと同じくらい話題になったと書くFahr(社史による)は 1926 年のライプツィヒの見本市、Fortuna の販売店の沿革は 1925 年に「欧州初の油圧式外面円筒研削盤」とする。ここでは見本市の年を採ったFortuna-Werke油圧式円筒研削盤[6・p.151]
1928年油圧で砥石を真横から押し込む「プランジ研削(Einstechschleifen)」の外面円筒研削盤を Fortuna が出す。砥石は直径 900mm・幅 250mm まで。テーブルを往復させないので、量産の部品の研削時間が縮むFortuna-Werkeプランジ外面円筒研削盤[6・p.151]
1931〜43年Carl Unger を継いだ Stuttgart の Schmid & Schaudt KG が、歯車の歯面を研ぐ研削盤の図面を描き続ける。戦後、連合国の調査機関 FIAT がこの図面と Unger 以来のカタログをマイクロフィルムに撮り、米国で公開したSchmid & Schaudt KG[10・p.1153]
1932年1929 年に金属品の商いで始めた Mägerle 兄弟の会社が、Uster の Fritz Wunderli AG の研削盤の事業を引き継いで研削盤に入る(1941 年に Wunderli を買う)Mägerle(スイス)[18]
1936年★Aachen の工作機械研究所(WZL)で、Herwart Opitz(オーピッツ)が研削の研究を強める。航空機用のクロムモリブデン鋼の研削割れを、砥石と研削液の選び方で防ぐ研究を国から受け、研削液の影響(Vits、1939 年)や精密研削(Ley、1943 年)の学位論文が出るRWTH Aachen WZL[19・p.95]
1936年Studer が油圧で制御する円筒研削盤を出す(同社は世界初とする)。1937 年に中国へ、1943 年に米国へ初めて輸出するFortuna の油圧式(1926 年)や米国の油圧の送り(1902 年〜)のほうが早い。「世界初」は Studer 自身の表現Fritz Studer AG(スイス)[11]
1936〜37年日本のゲージメーカーが Berlin の Lindner のねじ研削盤を買う(日本で 3 台目、月の生産額より高い買い物)。1937 年に買われた Lindner のねじ研削盤 FS1・FS2 形は岐阜県関市に残るHerbert Lindner(Berlin)[20・コマ72][21]
1937年Gotthold Pahlitzsch(パーリッチュ)が TH Braunschweig の工作機械の講座を受け持つ。講座の名はのちに「研削・研磨技術」を含むものに変わり、1950 年から研削・研磨技術研究所を率いる(1971 年まで)TH Braunschweig[22]
1938年Jung が、十字に動くスライドと立った柱の構造の平面研削盤 G 60 を作るK. JungG 60[13]
1939年★Fortuna が、研削しながら工作物の寸法を測り、決めた寸法になると油圧の制御で自動で止める定寸装置「Finitor」の量産を始める(Bosch の量産で試したあと)。精度は 1/1,000mm。熟練のない人でも精密部品を研げ、1 人で何台も受け持てるようになったFortuna-WerkeFinitor[6・p.153][6・p.154][6・p.155]
1942年1936 年にナチス政権に財団から退かされた Marie Pfungst が、80 歳近くで Theresienstadt の収容所へ送られ、亡くなるNaxos-Union[2]

東西の復興:センタレスとクリープフィード1945〜1968 年

年出来事メーカー・機種出典
1945年Berlin の Jung の工場が、設備をすべて撤去されるK. Jung[13]
1948年Jung が西ドイツの Göppingen で会社を立て直し、高精度の研削盤の生産を再び始めるK. Jung[13]
1948年Blohm が、案内に玉を使った平面研削盤を開発するRobert Blohm[17]
1949年★東ドイツの Leipzig で、センタを使わずに 2 つの車の間で工作物を回して研ぐセンタレス(心なし)外面研削盤が初めて作られ、1951 年に量産に入る。1952 年に「Mikrosa」の商標ができるLeipzig の人民所有企業(のちの Mikrosa)センタレス研削盤[23]
1950年Pahlitzsch が TH Braunschweig の研削・研磨技術研究所(Institut für Schleif- und Poliertechnik)の長になるTH Braunschweig[22]
1951年Hannover の見本市に、Stuttgart-Hedelfingen の Schaudt Maschinenbau が内面研削盤(穴径 20〜400mm)と、2 枚の成形砥石で歯の左右の面を同時に研ぐ歯車研削盤を、Hamburg-Bergedorf の Blohm が平面研削盤を出すSchaudt・Blohm[24]
1953年Walter が全自動の工具研削盤を出す(同社は世界初とする)Walter[15]
1953年Schütte が、ジンバル(2 軸の首振り)で吊った「空間斜め」の研削ヘッドの特許を出す。フライスのねじれ角と逃げ角を、換算表なしで簡単に合わせられるAlfred H. Schütte[14]
1957年12月米国の研削の専門誌が、Babenhausen(Hessen)の Elb-Schliff の倣い平面研削盤を紹介する。工作物と同じ大きさの型板を触針でなぞり、45° までの傾きの輪郭を幅 20 インチ(約 510mm)まで研いだ。社名は創業者 Edmund Lang と町の名 Babenhausen の頭文字創業の年は確かめていない(会社は 2020 年に「60 年を超える」とする)Elb-Schliff[25][26]
1958年6月英国の Machinery 誌が東ドイツの Mikrosa のセンタレス研削盤 SASI 200 を紹介する。ディーゼル機関のシリンダライナを、マガジンから自動で送り、電気の測定ヘッドで寸法を見ながら 1 時間に 70 本プランジ研削する。砥石は直径 24 インチ(約 610mm)、40 馬力Leipzig の人民所有企業(Mikrosa)SASI 200[27]
1962年★Blohm が、平面研削盤 HFS でクリープフィード研削(Tiefschleifen、深い切り込みを遅い送りで 1 回で研ぐ方法)を始めるBlohm の沿革の表現は「導入」。だれが最初に考えたかは資料で確かめていないRobert BlohmHFS[17]
1962年Erwin Junker(エルヴィン・ユンカー)が、黒い森の Nordrach の古い製粉所で機械と装置の会社を創業する。1963 年にタップ(ねじ立ての刃物)の先を研ぐ研削盤を出すErwin Junker[28][29]
1964年Leipzig の研削盤工場が VEB Mikrosa Leipzig と名を変え、1965 年からセンタレス研削盤 SASL のシリーズだけを作るVEB Mikrosa Leipzig[23]
1964年10月日本では大隈鐵工所が、自社の NC 装置 OSP200 を付けた数値制御の円筒研削盤 GCS-N 形を見本市に出す大隈鐵工所GCS-N[30・コマ81][30・コマ84]
1965年Studer がすべての機械の砥石軸を動圧(回転で油の膜を作る)軸受にし、RHU 450 などで精度を上げるFritz Studer AG(スイス)RHU 450[11]

CBN・高速研削・CNC1969〜1992 年

年出来事メーカー・機種出典
1969年8月1957 年に米 GE の Wentorf が合成した立方晶窒化ほう素(CBN)が、焼入れ鋼を研ぐ工業用の砥粒「Borazon」として売り出されるGeneral Electric(米国)Borazon[31][32]
1970年WZL の Opitz・König らが、砥石の周速を上げて能率を高める平面研削の研究(Hochgeschwindigkeitsschleifen、高速研削)の報告を出すRWTH Aachen WZL[33]
1970年Mikrosa が東ベルリンの工作機械コンビナート「7. Oktober」の工場になる。ソ連の自動車工業の需要に合わせて SASL を改良し続けるVEB Mikrosa Leipzig[23]
1973年TU Berlin の Günter Spur と Druminski が、高速研削の総説を ZwF 誌に書くTU Berlin[34]
1976年Mikrosa が CNC の機械を作り始める。年に約 400 台を作り、センタレス外面研削盤では世界最大のメーカーになるVEB Mikrosa Leipzig[23]
1976年Studer が、石の粒を樹脂で固めた鉱物鋳物 Granitan S103 を機械の台に使う(特許)。振動を吸い、熱で変形しにくいFritz Studer AG(スイス)Granitan S103[11]
1977年★Studer が CNC の円筒研削盤を開発する(同社は世界初とする)日本の大隈は 1964 年に NC の円筒研削盤 GCS-N を出している。NC(配線で組んだ制御)と CNC(コンピュータの制御)の違いで「最初」の意味が変わるFritz Studer AG(スイス)[11]
1977年Jung がドイツで最初の NC の精密平面・成形研削盤 JF シリーズを出す(同社の表現)。1979 年には NC で 3 軸を動かす成形ドレッサ PA30K(欧州初、同社の表現)K. JungJF[13]
1977年★Walter が NC の工具研削盤 helitronic 20 NC を出す(同社は世界初とする)Walterhelitronic 20 NC/LIP2[15]
1977年8月Druminski が、高速度鋼を炭化ケイ素と CBN の砥石でクリープフィード研削する研究を ZwF 誌に出す—[35]
1978年Naxos-Union がビトリファイド(ガラス質で焼き固めた)結合の CBN 砥石を作る(後継の会社は「最初」とする)Naxos-Union[2]
1978年★Junker が CBN 砥石を使う高速研削盤を出すErwin Junker[28]
1978年Hamburg の Hauni-Werke(Kurt A. Körber のたばこ機械の会社)が Blohm を買うRobert Blohm・Hauni(Körber)[17][36]
1978年3月東ドイツの Karl-Marx-Stadt(いまの Chemnitz)の研削盤工場の外面円筒研削盤 SA 5 x 630 が、ライプツィヒ春の見本市で「Gutes Design」の賞を受けるVEB Schleifmaschinenwerk Karl-Marx-StadtSA 5 x 630[37]
1980年創業 100 年の Schütte が、4 軸を輪郭制御する工具・万能研削盤 WU50CNC4 を出す(同社は世界初とする)。1988 年に 6 軸の WU500/750CNC6Alfred H. SchütteWU50CNC4[14]
1980年Mägerle の平面・成形研削盤が、静圧案内・静圧軸受の砥石軸・上からのドレッサを備え、1 時間に 1kg を削り取れるようになる。1985 年に最初の CNC 平面研削盤 MFPMägerle(スイス)[18]
1980年Blohm が CNC のクリープフィード研削盤のシリーズを出す。1983 年にはタービン向けの 12 軸の研削センタ GC 1200 DKRobert Blohm[17]
1981年Spur と Klocke が、削りにくい高速度鋼を CBN 砥石で研ぐ研究を ZwF 誌に出すTU Berlin[38]
1983年Körber の Hauni が、Stuttgart の円筒研削盤メーカー Schaudt Maschinenbau を買う。1978 年の Blohm に続く 2 つ目の研削盤の会社Schaudt・Hauni(Körber)[39][9]
1984年3月Junker が「回転対称の工作物を高速度で成形研削する方法と装置」の特許を出願する(ドイツの優先権 1984 年 3 月、公開 1985 年 9 月)この出願が Quickpoint の特許そのものかは確かめていないErwin Junker[40]
1985年★Junker が第 6 回 EMO Hannover で、特許の QUICKPOINT を発表する。幅が数 mm の CBN 砥石を高速で回し、砥石を少し傾けて逃げを付けることで工作物との接触を線から点にし、段・テーパ・溝を 1 回のつかみで輪郭をなぞるように研ぐ外面研削Erwin JunkerQUICKPOINT[29][28][41]
1986年6月Spur らが、非酸化物のセラミックスをダイヤモンド砥石でクリープフィード研削する研究を出すTU Berlin[42]
1987年ソ連の Orsha の平面研削盤工場 Krasnyy Borets の工場長が、西ドイツの Elb-Schliff と協力生産をしていて、年 500 台の輸出のうち最大 100 台を Elb-Schliff に送ると語るElb-Schliff・Krasnyy Borets(ソ連)[43]
1989年Jung が Siemens の SINUMERIK 805・810 を使う CNC の研削盤のシリーズ(円テーブルの JR、平面・成形の JA、送り研削の JC、門形の JP)を出すK. Jung[13]
1990年東西ドイツの統一で 7. Oktober コンビナートがなくなり、Mikrosa は信託公社(Treuhandanstalt)の下に入る。人が減らされ、工場の土地の多くが売られるMikrosa[23]
1992年Jung が、工作物と砥石を自動で交換する研削センタ JC500Z を出すK. JungJC500Z[13]

統合と UNITED GRINDING1993 年〜

年出来事メーカー・機種出典
1993年★Körber AG が、危機にあった独・スイスの研削盤の会社をまとめて Körber Schleifring を作る。Blohm が創立に加わり、Leipzig の Mikrosa も Körber に買われる。UNITED GRINDING の沿革は、同じ年に BWF と Chemnitz の研削盤工場も加わったとするKörber Schleifring[36][17][23][9]
1994年スイスの Studer(Thun)と Mägerle が Körber Schleifring に入る。Mikrosa はセンタレス研削盤の Herminghausen と、Koenig & Bauer の Multimat の製品を引き継ぐFritz Studer AG・Mägerle[11][18][23]
1994年Fortuna が Stuttgart の工場をたたみ、Weil der Stadt の工場(革の機械とスピンドル)だけを続ける。1975 年から Getrag グループの会社だったFortuna-Werke[7]
1995年米国の Hardinge が Kellenberger を買うKellenberger(スイス)[12]
1997年10月軸物の外面円筒研削を得意とする研削盤メーカー Karstens が、旋盤の EMAG グループに入るKarstens・EMAG[44]
1998年12月Jung が Körber Schleifring に入る(12 月 23 日)。同じ年、リニアモータで砥石台を速く上下させる平面研削盤 S320 を出すK. Jung[13]
1999年1月チャックでつかむ部品の精密な内面研削を得意とする Ulm の Reinecker が EMAG グループに入る。2000 年 8 月にはカムとカム軸の研削の Kopp(Neu-Ulm)も入るReinecker(Ulm)・EMAG[44]
2002年Frankfurt のクランク軸研削盤のメーカー Naxos-Union が、旋盤の EMAG グループに入るNaxos-Union・EMAG[44]
2004年Walter AG の工作機械の部門が Schleifring グループに入り、Walter Maschinenbau GmbH になるWalter[15]
2005年WZL と組んだ研究 AGNETA(2000〜04 年、航空機エンジンの難削材をスピードストローク研削で安く研ぐ)から、速く往復する研削盤 PROKOS が生まれるRobert Blohm・RWTH Aachen WZLPROKOS[17]
2005年Naxos の砥石の工場(1992 年に Butzbach へ移っていた)が DVS Technology Group に入る(Naxos-Diskus)Naxos-Diskus[2][45]
2007年Naxos-Union が、重さ 6t・長さ 6m までのクランク軸を研ぐ PM 460 を出す。クランクピンを主軸のまわりで回したまま研ぐ「ピンチェイシング」は同社が開いた方法Naxos-Union(EMAG)PM 460[44]
2008年Blohm と Jung が合併して Blohm Jung GmbH になるBlohm Jung[17][13]
2009年Studer Mikrosa と Studer Schaudt が合併して Schaudt Mikrosa GmbH になる。2010 年に本社と生産を Leipzig にまとめるSchaudt Mikrosa[23]
2013年★Körber Schleifring が Körber AG から分かれ、米国の United Grinding Technologies とともに UNITED GRINDING Group になる。EMO Hannover でグループの共通デザインの機械を初めてそろえて見せるUNITED GRINDING Group[36][11]
2021年11月Schaudt Mikrosa GmbH が Blohm Jung GmbH に吸収される(11 月 8 日から)Blohm Jung[46]
2022年5月VDW が Stuttgart で研削技術の見本市 GrindingHub を始める。2024 年は約 500 社・1 万 1,100 人、2026 年は 28 か国の 462 社・約 1 万 1,000 人VDW[47]
2024年Kellenberger が Hardinge から独立し、Usach と Super Precision を加えたグループになる。同じ年、Blohm が創業 100 年を迎えるKellenberger(スイス)[12][17]

よくある質問

Naxos-Union はどんな会社でしたか?
1871 年に Frankfurt am Main で Julius Pfungst が作った、ギリシャの Naxos 島のエメリー(天然の砥粒)を売る会社です。砥石を作り、研削盤も作りました。1918 年からは財団の持ち物になり、のちにクランク軸研削盤で知られました。研削盤の事業は 2002 年に EMAG グループに、砥石の工場は 2005 年に DVS グループ(Naxos-Diskus)に入っています。
クリープフィード研削(Tiefschleifen)はドイツで生まれたのですか?
深く切り込んで遅く送り、形を 1 回で研ぎ出す研ぎ方です。Hamburg の Blohm は 1962 年に平面研削盤 HFS でこの研ぎ方を始めたとしていますが、だれが最初に考えたかは、この章では確かめきれていません。1970〜80 年代にはドイツの大学(TU Berlin など)が CBN やダイヤモンドの砥石でのクリープフィード研削を研究しました。
Junker の Quickpoint とは何ですか?
Junker が 1985 年の EMO Hannover で発表した外面の高速研削です。幅が数 mm の CBN(またはダイヤモンド)の砥石を高速で回し、砥石を少し傾けて工作物との接触を点にし、段・テーパ・溝などの輪郭を 1 回のつかみでなぞるように研ぎます。
UNITED GRINDING にはどの会社が入っていますか?
1993 年に Körber AG が作った Körber Schleifring が 2013 年に UNITED GRINDING Group になったもので、平面・成形研削の Blohm・Jung・Mägerle、円筒研削の Studer・Schaudt・Mikrosa、工具研削の Walter・Ewag などのブランドがあります。Schaudt Mikrosa の会社は 2021 年に Blohm Jung に吸収されました。

この先と関係するページ

出典

本と業界誌は Internet Archive のスキャンで、学術誌の論文は出版社の DOI の書誌で、特許は DEPATISnet の書誌で、文書館の解説・メーカーの沿革・博物館の案内は各ページを 2026 年 10 月に確かめました。Woodbury の本の番号はスキャンのコマ(1 コマに見開き 2 ページ)、国立国会図書館の資料もコマ番号、Wissert の本は PDF のページです。Fahr の学位論文の Fortuna の章は、Fortuna の 1953 年の社史と社内資料によっています。「最初」「世界初」は、本文で「同社は〜とする」と書いたものはメーカー自身の記述です。

  1. A. Haenig『Emery and the Emery Industry: A Technical Study of Modern Abrasives and the Development of the Modern Grinding-Machine Industry』Scott, Greenwood & Son(1912。ドイツ語の原著を C. Salter が英訳)p. 7・89・90・91
  2. DVS Technology Group「150 Years of Expertise in Grinding」(Naxos-Diskus の 150 周年、Naxos-Union の沿革)
  3. Danziger Zeitung 第 7400 号(1872 年 7 月 20 日朝刊)の広告:Naxos 島のエメリーの独占販売を Julius Pfungst に任せるという Syra の Société du Véritable Emeri de Naxie の証明(1872 年 7 月 8 日付)
  4. hessenschau.de(Hessischer Rundfunk)「Naxos, Schmirgel und Marie – das Porträt einer ungewöhnlichen Frau」
  5. Robert S. Woodbury『History of the Grinding Machine: A Historical Study in Tools and Precision Production』MIT Technology Press(1959)コマ 67・71
  6. Jochen Fahr『Die Entwicklung industrieller Repertoires im Maschinenbau』(学位論文、Erlangen-Nürnberg 大学、1969。Fortuna-Werke の章は社史『50 Jahre Fortuna-Werke』1953 と社内資料による)p. 143・145・146・147・150・151・153・154・155
  7. Wirtschaftsarchiv Baden-Württemberg「Fortuna-Werke」(文書群 1898〜1986 年の解説)
  8. 『Catalogo ufficiale dell'esposizione dell'impero tedesco』(1906 年ミラノ万国博覧会のドイツの公式目録、Berlin: Georg Stilke、1906)p. 157
  9. UNITED GRINDING「Our history」
  10. 米国商務省 OTS『Bibliography of Scientific and Industrial Reports』5 巻 13 号(1947 年 6 月 27 日)PB L 73458 の項p. 1153
  11. Fritz Studer AG「History」(Studer の沿革)
  12. KELLENBERGER「History」(Kellenberger とグループの沿革)
  13. Blohm Jung「JUNG: History」(K. Jung GmbH の沿革)
  14. Alfred H. Schütte「History」(Schütte の沿革)
  15. Walter Maschinenbau「History」(WALTER の沿革)
  16. Georg Schlesinger『Wirtschaftliches Schleifen』Springer(1921)
  17. Blohm Jung「BLOHM: History」(Blohm の沿革)
  18. Mägerle AG Maschinenfabrik「History」(Mägerle の沿革)
  19. C. Kompe『Zwischen Wissenschaft und Industrie. Mechanismen des Wissens- und Technologietransfers am Aachener Werkzeugmaschinenlabor von 1906 bis 2006』(RWTH Aachen 博士論文、2009)p. 95
  20. 『黒田精工:省力化にいどむ精密機器メーカー』(1970)コマ 72
  21. 国立科学博物館 産業技術史資料データベース「ねじ研削盤 ドイツ ハーバート リンドナーFS1型、2型」
  22. TU Braunschweig 教授目録「Pahlitzsch, Karl Walther Gotthold」
  23. Sächsisches Staatsarchiv Leipzig, Bestand 20827「VEB Mikrosa Leipzig」(文書群の解説と会社の歴史)
  24. CIA Information Report「Report on the Hannover Fair」(1951 年 8 月。連合国の Military Security Board の顧問 Dietrich Fiecke の 1951 年 Hannover 見本市の報告の抜き書き)
  25. 『Grinding and Finishing』3 巻(1957 年 12 月)新しい研削盤の紹介
  26. ELB-Schliff Werkzeugmaschinen「ELB History」(Wayback Machine の 2020 年 12 月 3 日の保存)
  27. 「Mikrosa Centreless Grinders」Machinery 第 92 巻 2378 号(1958 年 6 月 13 日)p.1397
  28. JUNKER「Erwin Junker Maschinenfabrik GmbH」(年表)
  29. Erwin Junker Maschinenfabrik「Firmengeschichte」(2005 年 3 月の旧サイト)
  30. 大隈鉄工所『製品沿革写真集:創業70周年記念』(1968)コマ 81・84
  31. 「New Materials」Aircraft Engineering 第 41 巻 8 号 p.34(1969 年 8 月。General Electric の Borazon の発売)
  32. R. H. Wentorf Jr.「Cubic Form of Boron Nitride」The Journal of Chemical Physics 第 26 巻 p.956(1957 年 4 月)
  33. H. Opitz・W. König・F. Sperling・M. A. Younis『Untersuchungen beim Flachschleifen mit erhöhten Umfangsgeschwindigkeiten und gesteigerten Zerspanleistungen』Westdeutscher Verlag(1970、Nordrhein-Westfalen 州の研究報告)
  34. G. Spur・R. Druminski「Hochgeschwindigkeitsschleifen — Ein Überblick」Zeitschrift für wirtschaftlichen Fabrikbetrieb 68 巻(1973)pp.181–186
  35. R. Druminski「Tiefschleifen von Schnellarbeitsstahl mit Siliziumkarbid- und Bornitrid-Schleifscheiben」Zeitschrift für wirtschaftlichen Fabrikbetrieb 72 巻 8 号(1977)pp.387–397
  36. UNITED GRINDING『Motion』「How it all started」(Körber Schleifring の 30 年。元 Körber AG 取締役会長 Werner Redeker と CEO Stephan Nell の対談)
  37. Sächsisches Staatsarchiv, Bestand 31011「VEB Großdrehmaschinenbau „8. Mai“ Karl-Marx-Stadt」(目録。7. Oktober コンビナートの写真と記録)
  38. G. Spur・F. Klocke「Schleifen schwer zerspanbarer Schnellarbeitsstähle mit Schleifscheiben aus kubisch kristallinem Bornitrid」Zeitschrift für wirtschaftlichen Fabrikbetrieb 76 巻(1981)pp.173–179
  39. 『International Directory of Company Histories』「Körber AG」(Encyclopedia.com 収録)
  40. Erwin Junker「Verfahren und Vorrichtung zum Hochgeschwindigkeits-Profilschleifen von rotationssymmetrischen Werkstücken」ドイツ特許出願 DE 3435313 A1(出願 1984 年 9 月 26 日、優先権 DE 3409575・1984 年 3 月 15 日、公開 1985 年 9 月 26 日。欧州 EP 0176654)
  41. JUNKER「QUICKPOINT」(製品の説明。高速の外面研削と点接触の仕組み)
  42. G. Spur・Chr. Stark・E. Uhlmann「Tiefschleifen von Nichtoxidkeramiken mit Diamantschleifscheiben」Zeitschrift für wirtschaftlichen Fabrikbetrieb 81 巻 6 号(1986)pp.314–319
  43. JPRS Report「Science & Technology, USSR: Engineering & Equipment」(1987 年 8 月。Orsha の Krasnyy Borets 工作機械工場の工場長へのインタビュー、p.47)
  44. EMAG「History」(EMAG グループの沿革。Naxos-Union・Kopp・Reinecker などの買収)
  45. DVS Technology Group「NAXOS-DISKUS: Company」(砥石の工場の Butzbach への移転)
  46. UNITED GRINDING Group「Our brands」(SCHAUDT MIKROSA GmbH が 2021 年に Blohm Jung GmbH と合併したお知らせを含む)
  47. VDW「GrindingHub」(研削技術の見本市。主催 VDW・Messe Stuttgart・Swissmem)
  48. Deutsches Technikmuseum(ドイツ技術博物館)「Werkzeugmaschinen」(常設展示の案内)
  49. Sächsisches Staatsarchiv Leipzig, Bestand 20779「Arno Krebs, Werkzeugmaschinenfabrik, Leipzig」(文書群の解説)
  50. Thomas Wissert『Einführung der numerisch gesteuerten Werkzeugmaschinen in der Bundesrepublik Deutschland zwischen 1950 und 1980』Logos Verlag Berlin(2023、Stuttgart 大学の博士論文、オープンアクセス)
  51. Körber「Our story」(Körber の沿革)
  52. 岡本工作機械製作所「会社沿革」
  53. 豊田工機『技に夢を求めて:豊田工機50年史』(1991)