USA 03大量生産と二つの大戦

20 世紀の前半、アメリカの工作機械は「自動車」と「戦争」という 2 つの大きな客に引っぱられて姿を変えました。Ford は Highland Park の工場で、工作機械を工程の順に並べ、品物専用の治具と多軸のヘッドを付け、組立を動くラインに載せて、1 台の自動車にかかる手間を何分の 1 にも減らします。その量をさばくために、センタレス研削盤・生産フライス盤・トランスファーマシンが生まれ、刃物は超硬工具に、寸法の基準はゲージブロックに変わりました。一方で工作機械の注文は、戦争のたびに何倍にもふくらみ、終わると 10 分の 1 近くまでしぼみます。第二次世界大戦では国が機械をまとめて買い上げ、戦後は 70 万台ともいわれる余剰の機械が市場にあふれました。この章は、Ford の工場を同時代に取材した本(Arnold & Faurote 1915)、American Machinist などの当時の業界誌、連邦官報や議会の報告、国立公園局(NPS)の資料で1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。

機械を
工程の順に並べる。
それだけで速くなる!

マスコットのチップス

この章は「時代の章」です。機械ごとの仕組みの移り変わりは機種の章にまとめています。センタレス研削盤は第 8 章「アメリカの研削盤の系譜」、生産フライス盤は第 7 章「アメリカのフライス盤・マシニングセンタの系譜」、トランスファーマシン・多軸ボール盤などは第 10 章「その他の機械」で詳しく扱います。高速度鋼(1900 年)と専業メーカーの時代は第 2 章、NC の誕生は第 4 章です。

Ford と専用機、第一次世界大戦(1900〜1918 年)

工作機械メーカーの団体ができる

20 世紀に入ったころ、アメリカの工作機械メーカーの多くは小さな会社でした。1902 年 6 月、旋盤を作る 17 社が集まって National Machine Tool Builders' Association(NMTBA、全米工作機械工業会。今の AMT)をつくります。Cincinnati と Worcester の旋盤メーカーが中心で、ねらいは値引き合戦をやめさせ、商売のやり方を整えることでした[1][2][3]。この団体はのちに見本市を開き、統計を集め、戦時には国との窓口になります。設立の年は 1914 年の記念誌だけが「1901 年」と書いていますが、1922 年の大会で会長が「20 年目」と述べていることなど、3 つの資料がそろって 1902 年なので、この章は 1902 年を採りました[64]。

Highland Park:機械を工程の順に並べる

1903 年にできた Ford Motor Company は、1910 年に Detroit の北の Highland Park(ハイランドパーク)の新しい工場へ移りました。建物の多くは工場建築で知られる Albert Kahn の設計で、Model T の注文に合わせて 1922 年まで増築を重ねます[4]。

ここで Ford の技術者がしたことは、新しい機械を発明したことより、機械の並べ方を変えたことでした。それまでの工場は、旋盤は旋盤の場所、ボール盤はボール盤の場所というように、機械の種類ごとに並べるのが普通でした。品物は部門から部門へ運ばれ、そのたびに待たされます。Ford は 1914〜15 年に、500 台を超える工作機械を部品ごとに、加工の順に並べ替えていきました。同時代に工場を取材した Arnold と Faurote は、そのやり方を 3 つにまとめています。工具と人を作業の順に置いて部品の移動を最短にすること、作業が終わった部品を決まった場所に置けば重力で次の人の手元へ滑っていくシュートを使うこと、そして移動式の組立ラインです[6]。機械どうしの間もぎりぎりまで詰めました。床の広さにも間接費がかかるからで、Arnold は「ニューイングランドのいちばん詰めた工場でもまだ床を無駄にしている」と比べています[6]。

専用機は「市販の機械+凝った治具」

Model T の 4 気筒の一体鋳造のシリンダブロックは、取り付け・取り外しを含めて延べ 45 分で加工され、手仕上げはありませんでした。Foote-Burt の多軸ボール盤が 4 方向から 45 個の穴を一度にあけ、Ingersoll のフライス盤が面を削ります。長いテーブルのフライス盤では、ブロックを数珠つなぎに締めて流し、刃を抜けたものから順に外しました。刃物は研いだ予備を用意して、シフトごとに替えています[6]。Arnold は、Ford の機械は多くが市販品で、そのかわり治具(ジグ・取付具)が凝っていて、作業者が気をつかわずに済むと書いています[6]。汎用のボール盤やフライス盤に、その部品専用の多軸ヘッドと治具を付けて「専用機」にする。今の量産工場の専用機・治具の考え方は、ここでほぼできあがっています。

工作機械メーカーの側も量産向けの機械を出し始めます。1913 年、Cincinnati Milling Machine(シンシナティ・ミリング・マシン)は A. L. De Leeuw の設計で、テーブルの早送り・切削送り・早戻しを自動でくり返す量産用のベッド形フライス盤(manufacturing miller)を出し、1916 年には単頭・両頭の型をそろえました[5]。ひざ形の汎用フライス盤と違い、1 つの部品を同じ段取りで何千個も削るための機械です(詳しくは第 7 章)。

移動式組立ライン

動くラインは、まず小さな部品で試されました。1913 年の春、Highland Park では、はずみ車に付ける磁石発電機(フライホイール・マグネト)の組立を 29 の作業に分け、品物を人の前へ動かすようにします。1 人で全部組むと 1 個に約 20 分かかった仕事が 13 分 10 秒になり、改良を重ねて 5 分になりました[6]。据え付けの日は同じ本の中で 4 月 1 日ごろと 5 月 1 日ごろの 2 通りに書かれていて、この章では「春」としています。

次はシャシー(車台)です。1913 年 8 月、据え置きでの組立は 1 台に延べ 12 時間 28 分かかっていました。ロープと巻き上げ機でシャシーを床の上で引いていく実験で 5 時間 50 分に縮み、10 月 7 日には長さ約 46m の移動式ラインで組立を始め、140 人で 1 日(9 時間)に 435 台、1 台あたり延べ 2 時間 57 分になります。翌 1914 年 4 月 30 日には、チェーンで動く 3 本の高床ラインで 8 時間に 1,219 台を組み、1 台あたり延べ 1 時間 33 分になりました[6][4]。国立公園局の資料も「728 分から 93 分」と書いています。Model T の生産は 1909 年の 13,840 台から 1913 年に 189,088 台、1916 年に 585,388 台へ増え[10]、値段は 1908 年の 850 ドルから 1924 年には 260 ドルまで下がりました[4]。

シャシーの組立728 分 → 93 分1913 年 8 月 → 1914 年 4 月[6][4]
シリンダブロック延べ 45 分多軸ボール盤が 4 方向から 45 穴[6]
Model T の値段850 → 260 ドル1908 → 1924 年[4]

移動式組立は組立の話ですが、工作機械に与えた影響は大きなものでした。ラインは、部品がそのまま組み付けられることを前提にしています。1 個でも寸法が外れて手で合わせると、ライン全体が止まります。だから機械加工の側には、毎日同じ寸法を出し続ける機械と、それを確かめるゲージが求められました。そして 1 台のラインが 1 日に何百台も組むなら、それに部品を送る加工の側も、同じ速さで流れなければなりません。この要求が、後で見るセンタレス研削盤やトランスファーマシンにつながります。

第一次世界大戦の注文

1914 年にヨーロッパで戦争が始まると、英仏などの兵器の注文がアメリカの工場に流れ込みます。1914 年の国勢調査で工作機械の生産額は 3,145 万ドルでしたが、NMTBA の推計では金属切削の工作機械の出荷は 1914 年の 3,530 万ドルから 1918 年には 2 億 2,060 万ドルと、約 6 倍になりました[7]。台数の指数(1913 年=100)でも 1917 年は 192 です[16]。戦争はゲージの不足も表に出しました。ゲージブロックはヨーロッパからしか買えなかったため、1917 年、発明家の William Hoke が国立標準局(NBS)に製法を持ち込み、陸軍兵器局の資金で 81 個組 50 セットを作っています[11]。

戦間期:落ち込み・センタレス研削・ゲージブロック・超硬(1919〜1938 年)

戦争のあとの落ち込み

1919 年の国勢調査では工作機械の生産額はまだ 2 億 1,240 万ドルありましたが[7]、戦争の注文が消えた 1921 年、出荷は 2,300 万ドルまで落ちます。台数の指数も 1917 年の 192 から 1921 年には 20.5 と、10 分の 1 近くになりました[15][16]。工作機械は丈夫で 15 年以上使える機械です。戦争で買われた機械は工場に残り、次の注文を何年も先まで食ってしまいます。第二次世界大戦の前夜に業界が増設をためらったのも、この落ち込みの記憶があったからです[38]。1920 年代の出荷を立て直したのは、自動車工業の量産でした。

センタレス研削盤:砥石は消耗品になった

自動車の量産で、いちばん困ったのは研削でした。焼入れした小さな丸物(ピストンピン・バルブのステム・軸受のころ)を、両端のセンタで支えて 1 本ずつ研いでいては、ラインの速さに追いつきません。そこで実用になったのがセンタレス研削(心なし研削)です。品物をセンタで支えず、速く回る研削砥石と、逆向きにゆっくり回るゴム結合の調整車(regulating wheel)の間に置き、下から刃(ブレード)で支えます。調整車がブレーキの役をし、2 つの車の速さの差で品物が削られます。品物の中心を 2 つの車の中心を結ぶ線より少し上に置くと、丸さが出ます[9]。

決め手になった調整車と刃の仕組みは、Connecticut の軸受メーカー Ball and Roller Bearing Co. の L. R. Heim(ハイム)の特許で、1915 年 3 月に出願、1917 年 1 月に成立しました。Woodbury や Ashburn は「1915 年の特許」と書きますが、1915 年は出願の年です[8][9]。Heim は軸受のころの寸法をそろえるためにこの機械を作りました[18]。Cincinnati Milling Machine はこの特許を手に入れ、1922 年に量産用のセンタレス研削盤を出します。研削砥石は直径 20 インチ(約 510mm)、調整車は 12 インチで、肩の付いたプッシュロッドやバルブタペットも研げました。業界誌 American Machinist が「最近売り出された」と紹介したのは 1923 年 8 月です[9][17]。

現場では何が変わったのでしょうか。1925 年の業界誌によれば、長さ 6 インチのバルブステムを 1 時間に 350 本、ピストンピンを 225〜325 本研ぎ、調整車の目直しは 1 シフトに 1〜2 回で足りました。Woodbury は、センタレス研削が工場に「砥石は消耗品で、量産ではその費用は小さい」と教えた、とまとめています。熟練した研削工はいらなくなり、そのかわり段取りの上手な人が要るようになりました[9]。American Machinist の元編集長の Ashburn は、Norton のクランク軸研削、Heald の内面研削、両頭の平面研削とともに、Heim のセンタレスを自動車工業を支えた研削の 4 つの発達に数えています[10](研削盤の仕組みの移り変わりは第 8 章、今のセンタレス研削の段取りは研削のページ)。

ゲージブロック:長さの基準を工場に置く

部品を組み付けて合うようにするには、工場のすべてのゲージが同じ物差しにそろっている必要があります。スウェーデンの C. E. Johansson(ヨハンソン)は 1896 年に、何個かを組み合わせればたくさんの寸法を作れる鋼のブロックを思いつきました。2 つの面を平らに平行に磨くと、ごく薄い油の膜でぴたりと密着し(リンギング)、その膜は約 25nm で寸法に足しても無視できました[11]。米国国立標準技術研究所(NIST)のハンドブックは、Henry Ford がこれを熱心に採り入れ、それが手本になって工業界の長さの基準になったと書いています[11]。

Johansson は 1919 年に米国へ戻り、米国の会社 C. E. Johansson, Inc. で角度ブロックなどを売り出します。工場は New York 州 Poughkeepsie に置かれました[12]。1923 年 11 月、Henry Ford はこの会社を買い取り、Johansson 本人も Ford に移ります。ゲージと製法の米国の権利も Ford のものになり、その後もゲージブロックは Ford の名前で売られました[13][20]。1937 年のカタログは Ford の発行で、Dearborn の Ford の技術研究所を「Johansson ゲージブロックの米国の本拠」としています[21]。工場ごとに何百ものゲージを作って持つかわりに、少数のブロックを組み合わせてどんな寸法の基準でも作れる。量産の検査と、治具やゲージを作るツールルームの物差しが、これでそろいました(今のゲージの使い分けはゲージのページ)。

専用機からトランスファーマシンへ

機械を工程の順に並べたら、次は機械と機械の間の運び手を減らす番です。Milwaukee の A. O. Smith は 1920 年、自動車のフレームを作る自動の生産ラインを入れました。Ashburn は、近代的な意味での最初の連続自動ラインとしています[14][10]。1924 年には英国 Coventry の Morris の工場で、標準の機械を 1 本の長いベッドに並べ、共通の軸で各ヘッドの動きをそろえて、シリンダブロックに 53 の加工をする機械が作られます。長さ 181 フィート(約 55m)、1 個のサイクルは 4 分でした。これが本格的なトランスファーマシンの最初とされます[14]。米国では 1929 年に自動車メーカーの Graham-Paige(グラハム・ペイジ)が、シリンダの加工で、治具を自動で締め、搬送バーで品物を機械から機械へ送る仕組みを入れました。今のトランスファーマシンの要素がそろった米国の早い例として、1955 年の Ashburn、1963 年の Shils、1988 年の Flink がそろって挙げています[14][32][33]。

機械そのものの動かし方も変わります。Cincinnati Milling Machine は 1927 年、テーブルの送りを油圧で動かし、送りの速さを無段で変えられる標準品のフライス盤を出しました[5]。歯車の段で送りを選ぶ機械と違い、早送りから切削送りへの切り替えを自動にしやすく、量産の機械の自動サイクルに向いていました。トランスファーマシンの仕組みは第 10 章で詳しく扱います。

超硬工具:刃物が機械を追い越した

炭化タングステンの粉をコバルトなどの金属で焼き固めた超硬合金は、ドイツの電球メーカー Osram の研究から生まれました。Karl Schröter の米国特許は 1923 年 10 月に出願され、1925 年 8 月に成立して General Electric(GE)に譲られています[19]。シカゴ大学の法律雑誌の解説によると、米国の特許は Osram が 1922〜25 年に取り、電球用だけを GE に許し、残りの権利は Krupp に渡っていました[29]。超硬工具は 1926 年にヨーロッパで商品になり[22]、1928 年 3 月のライプツィヒの見本市で Krupp が Widia(ヴィディア)の切削を実演します。軟鋼を毎分 560 フィート(約 170m)、鋳鉄を毎分 780 フィート(約 240m)で削ったと、米国の業界誌が 5 月に伝えました[25][26]。高速度鋼の何倍もの速さです。

GE は 1928 年 10 月、研究所で作った超硬工具を「Carboloy」の名で売り出し、新会社 Carboloy Company を作りました。GE の S. L. Hoyt の発表では、硬さはブリネルで 2,100〜2,500(焼入れ鋼は 850〜1,000)、ただし曲げの強さは高速度鋼の 6 割ほどでした[27]。11 月には GE と Krupp が契約し、Krupp の米国の特許の権利も GE が持つことになります。GE は超硬の値段を 1 ポンド 453 ドルとしました。それまでの輸入品の約 10 倍でした[29][30]。この高い値段と特許のまとめ方は、のちに 1941 年 10 月の起訴と 1948 年 10 月の有罪判決(反トラスト法)につながります[31][29]。判決文は、GE の製造原価が 1 グラム 6〜12 セントだったのに、値段を 1 グラム 1 ドルとしたと認めています。

超硬は「刃物が機械を追い越した」出来事でした。硬いけれど欠けやすい超硬で速く削るには、機械に高い剛性と振動の少なさが要ります。剛性が足りなければ刃先が欠け、びびりは致命的でした。遅い回転ではすぐ摩耗します。すぐに主軸 900 回転の旋盤や、切削速度毎分 1,000 フィートの立て旋盤が出ましたが、そこへ大恐慌が来て設備投資が止まります。超硬に合わせた剛性の高い機械が品ぞろえとしてそろうのは 1939 年でした[10]。それでも超硬の単刃で速く細かく送る仕上げ中ぐり(ファインボーリング)が始まり、鋳鉄のシリンダの仕上げが研削から中ぐりへ移り始めます[10]。国立標準局は 1930 年、Taylor の工具寿命の式が超硬にも当てはまるかを試験しています[22](今の超硬の切削条件は切削加工のページ)。

見本市と大恐慌

NMTBA は 1927 年 9 月 19〜23 日、Cleveland の公会堂で第 1 回の工作機械見本市(National Machine Tool Builders' Exposition)を開き、180 社が出展しました。1929 年の第 2 回は 270 社に増えます[23][24]。今の IMTS の始まりです[3]。1929 年の出荷は 1 億 8,500 万ドルで 1920 年代の最高でしたが、大恐慌で 1932 年には 2,200 万ドル、約 8 分の 1 まで落ちました[15][16]。1935 年の第 3 回の見本市には、6 年分の新しい機械が並びました[35]。

第二次世界大戦:民主主義の兵器廠(1939〜1945 年)

中止になった見本市と、輸出の許可制

1939 年 9 月に Cleveland で開く予定だった見本市は、ヨーロッパの開戦で直前に中止になりました。American Machinist は、この見本市のために設計した 1939 年型の機械が、そのまま戦時の生産の主力になったと書いています[36]。1940 年 7 月 2 日、国防強化法にもとづく布告 2413 号で、金属を切る・研削する工作機械などが輸出の許可制になります。国内の兵器工場に回すためで、日本への工作機械の輸出もここで止まっていきました[37](後の「日本とのつながり」)。

業界は英仏の注文であふれ、受注残が 18 か月を超えるメーカーもありました。それでも増設はためらわれます。Cleveland の Warner & Swasey の重役は、第一次大戦のときに建てて一度も使わなかった工場の建物を、1940 年になっても窓から眺めていたといいます。今の売りすぎは明日の市場を食う、という心配でした[38]。

プール発注:国が売れ残りのリスクを負う

1940 年 12 月 29 日、Roosevelt 大統領はラジオ演説で、アメリカは「民主主義の兵器廠(arsenal of democracy)」にならなければならないと呼びかけ、工場と機械をすぐ増やすよう訴えました[39][40]。同じ月、復興金融公社の子会社 Defense Plant Corporation(DPC)が工作機械のプール発注を始めます。買い手の兵器工場が決まる前に国が工作機械を注文し、売れ残ったら国が引き取る仕組みです。メーカーは見込みで材料を仕込み、増設もできるようになりました。真珠湾の後には、プール発注に 30% の無利子の前払いも付きます[38]。DPC は工作機械メーカーの新工場 35 か所と、131 工場の設備の買い入れにも約 9,200 万ドルを出しました[38]。プール発注は合計約 19 億 4,500 万ドルにのぼり、プールで作られた工作機械の出荷 16 億 9,900 万ドルは、1941〜1945 年の業界の生産の半分近くにあたります。買い手が見つからずに DPC が引き取ったのは 300 万ドルに満たなかったとされます[38]。

配分の命令と、生産の頂点

1942 年 1 月 16 日、大統領令 9024 号で戦時生産局(War Production Board、WPB)ができ、工作機械の割り当ても WPB に移ります[43]。1 月の命令 E-1-a は、工作機械を 2 つの群に分けて納入の順番を決め、5 月の E-1-b は、新しい工作機械を機種・大きさごとに各メーカーの毎月の納入の 75% まで陸海軍と海事委員会へ回すとしました[45][44]。工作機械は、どの工場がいつ何台受け取るかを国が決める「配給品」になったのです。

1942 年の出荷は 13 億 2,000 万ドルと、史上最高になりました。1939 年(2 億ドル)の約 6.6 倍で、12 月だけで 1 億 3,200 万ドルを出荷しています[41][42]。1943 年の業界誌は、場所や機械より人手(徴兵で熟練工が減る)が問題になり、普通旋盤・フライス盤・平削り盤などの標準機のメーカーから先に仕事が減り始めたと伝えています[42]。兵器工場に機械が行き渡ると、1944 年の出荷は 4 億 9,700 万ドルと 1942 年の 4 割を切りました[15]。

1942 年の出荷13 億 2,000 万ドル1939 年の約 6.6 倍[41]
プール発注約 19 億 4,500 万ドル1940〜45 年、DPC[38]
軍への割り当て75%1942 年 5 月の命令 E-1-b[44]

戦時の工作機械づくりは、新しい設計より「同じ機械をたくさん、速く」でした。設計の大きな前進は戦後の 1947 年の見本市までお預けになります[36]。ただ、戦争は量産の考え方を兵器へ広げ、専用機と治具とゲージで素人の工員でも部品を作れるようにする工夫を、全国の工場に教えることになりました。

戦後:余剰機械・Detroit Automation・朝鮮戦争(1945〜1950 年代)

70 万台の余剰機械

戦争が終わると、国が持つ工作機械のうち最大 70 万台(取得額 18 億ドル)が余剰になると見積もられました。プールで作られた機械の 3 分の 2 は国の持ち物になっていたのです[38]。余剰の処分は 1946 年 3 月に独立の機関になった戦時資産管理局(War Assets Administration)が受け持ち、1947 年 3 月までに約 17 万台の工作機械が売られます。中古の機械が安く出回り、新しい機械の市場を圧迫しました。1946 年の新しい工作機械の売り上げは 3 億 7,500 万ドルにとどまります[38]。出荷は 1949 年に 2 億 4,900 万ドルと戦後の底になりました[46]。

国はすべてを売ったわけではありません。1948 年 7 月の National Industrial Reserve Act(国家産業予備法)で、国の工場の一部と「工作機械の国の予備」を、次の非常時にすぐ使えるように残すことが決まります[52][38]。

戦後の見本市

1947 年 9 月、戦後初めての見本市が、戦時に航空機のエンジンを作った Chicago の Dodge-Chicago 工場で開かれ、約 2,000 台が実際に動いて並びました[50][51]。戦時中に止まっていた新しい設計が、ここでまとめて出てきます。

Automation:Ford の新しい部署

1947 年 4 月、Ford は製造部門の中に Automation Department を作りました。「automation」は Ford の副社長 D. S.(Del)Harder の言葉とされ、1955 年の Ashburn の記事は、部品を人の手の遅れなしに扱う方法を求められた Harder が「もっと automation が要る」と言ったのが始まりで、語が印刷物に出たのは American Machinist の 1948 年 10 月 21 日号が最初だとしています[14][48]。その号の定義は、品物を設備に出し入れし、工程の間で裏返し、切りくずを除き、これを機械の動きと時間を合わせて行い、ラインを押しボタンで動かせるようにする技術、というものでした。最初の対象はプレスで、発足から 500 以上の装置(300 万ドル)を設計し、生産を平均 20% 上げる見込みでした。装置は 1 人分の作業を減らすのに 3,000 ドル以内、1 年で元が取れることが条件です[48]。

automation は、Ford が 1951 年に動かした Cleveland のエンジン工場で、機械加工のラインへ広がります。シリンダブロック・ヘッド・クランクシャフト・カムシャフトなどを、自動でつないだラインで加工し、ブロックのラインの能力は最新の半自動ラインの倍以上とされました。トランスファーマシンの工具交換の時期は、工具の使用回数を数える装置が知らせました[54][53]。トランスファーマシンは 1950 年代に米国のエンジン工場の主役になり、「Detroit automation」と呼ばれます[59]。

トランスファーラインの弱点。トランスファーラインは 1 つの部品のためだけの機械なので、車の設計が少し変わるだけで作り直しになり、その型が売れなければ丸ごと捨てるしかありません。工具 1 本の交換でライン全体が止まる問題もあり、ラインを区切って間に仕掛品をためる場所を置き、工具を寿命の回数でまとめて替える工夫がされました。1950 年代の終わりには、標準の部品(ユニット)を組み替えて別の部品のラインに作り直す「building-block」方式が考えられます[10][59]。この「ラインの柔軟さ」の問題を解くのが、次の章の NC とマシニングセンタです。

朝鮮戦争と、古くなる設備

1950 年に朝鮮戦争が始まると、工作機械は再び足りなくなります。1951 年 2 月 28 日、国家生産局の命令 M-40 で国のプール発注が復活しました。はじめは条件が合わずに引き受け手が少なかったものの、8 月に条件を直した契約を出すと、4 か月で 61 社が 35,150 台・8 億 600 万ドル分を引き受けています[55]。出荷は 1953 年に 11 億 9,100 万ドルと、第二次大戦のピークに近づきました[46]。それでも 1953 年 11 月の American Machinist の設備調査では、米国の金属加工業の工作機械 1,941,612 台のうち 55% が 10 年以上前の機械でした[56]。戦時に大量に入れた機械が、そのまま古くなりつつあったのです。

現場で何に効くか。この時代に生まれたものの多くは、今の量産工場の当たり前になっています。工程順の機械の配置(今のセル生産やライン)、品物専用の治具と多軸ヘッド、センタレス研削、ゲージブロックで校正する限界ゲージ、超硬工具に合わせた剛性の高い機械、そしてトランスファーライン。中古の専用機やトランスファーラインの話を聞くとき、「段取り替えでほかの部品に使えるか」「ユニットを組み替えられる building-block 式か」を見ると、その機械の世代と使い道がわかります。

数字で見る:工作機械の出荷額

米国の工作機械の出荷額(名目、百万ドル)です。1920 年までは NMTBA の推計の金属切削の工作機械、1921〜1936 年は NMTBA の報告の年の値、1937 年からは NMTBA の月の値の合計で、系列の境目で数え方が少し違います。戦争のたびに何倍にもなり、終わると何分の 1 にもなる動きが、この業界の性格でした。

年出荷額(百万ドル)できごと出典
191435.3金属切削(NMTBA の推計)。第一次世界大戦が始まる[7・p.483]
1916141金属切削(NMTBA の推計)[7・p.483]
1918221金属切削(NMTBA の推計)。大戦の注文のピーク[7・p.483]
1919161金属切削(NMTBA の推計)[7・p.483]
1920152金属切削(NMTBA の推計)[7・p.483]
192123.0戦後の不況の底[15・p.148]
192382.0[15・p.148]
1926105[15・p.148]
19291851920 年代の最高[15・p.148]
193096.0[15・p.148]
193222.0大恐慌の底(1929 年の約 8 分の 1)[15・p.148]
193585.0[15・p.148]
1937189[46][15・p.148]
1939200欧州で開戦[46][15・p.148]
1940443プール発注が始まる[46][15・p.148]
1941772[46][15・p.148]
19421,322史上最高[46][15・p.148]
19431,180[46][15・p.148]
1944499[46][15・p.148]
1945424月の値の合計。1946 年の業界誌の表は 407.1[46][15・p.148]
1946335余剰機械の放出[46]
1947306[46]
1949249戦後の底[46]
1950306朝鮮戦争[46]
1951632プール発注が復活[46]
19531,191朝鮮戦争のピーク[46]
1955670[46]
1957844[46]
1958411不況[46]

⛩日本とのつながり

1940 年の輸出の許可制と、日本の工作機械

1940 年 7 月の米国の輸出の許可制は、日本の工作機械工業にとって大きな転機でした。国産アーカイブの第 1 章では、この年の「米国が対日工作機械輸出を禁止」を年表に載せ、それまで日本の工作機械の輸入の 8 割以上が米国からだったことを書いています[65](国産アーカイブ第 1 章の年表)。輸入が止まった日本は、それまで手本にしていた米国の機械を自分で作るしかなくなり、第 4 章の歯切り盤のように、外国の一流の機械をそのまま手本にした試作が命じられました(国産アーカイブ第 4 章)。

センタレス研削とゲージブロック

米国の自動車工業が育てたセンタレス研削盤は、日本では軸受の量産とともに広がります。国産アーカイブ第 3 章では、日進機械製作所が 1940 年にセンタレスグラインダの製造を始めたことを★の出来事にしています[66](国産アーカイブ第 3 章)。ゲージブロックでは、津上退助が 1923 年に東京で研究を始め、1937 年に津上製作所(今のツガミ)を作ってゲージブロックの生産を始めました[67](人物)。Ford が Johansson の会社を買ったのと同じ 1923 年です。

賠償の撤去と、その取りやめ

戦後、米国は日本の工業設備を賠償として取り外し、アジアの国々に渡すことを考えました。1946 年 11 月に大統領へ出された Pauley 大使の最終報告は、兵器工場の全部撤去に加え、工作機械を「相当量の撤去」の対象に挙げています[47]。1947 年 4 月には、撤去してよいと決まった設備の 30% を中国・フィリピンなどへ先に渡す指令が出ました[49]。しかし冷戦が始まると方針は変わり、1949 年 5 月 12 日、米国はこの先渡しの指令を撤回し、それ以上の撤去を求めない方針を出します[49]。日本の工作機械は国内に残り、戦後の復興に使われることになりました。

1950 年代の技術提携

朝鮮戦争で米国自身が工作機械不足に悩んでいたころ、日本のメーカーは米国の量産の機械と工具の技術を取り入れ始めます。1953 年 11 月には不二越鋼材工業(今の不二越)が米 Michigan Tool とシェービングカッタの製造で提携し[58](国産アーカイブ第 4 章)、1954 年 7 月には新潟鐵工所が米 Sundstrand と生産フライス盤の製造で提携しました[57](国産アーカイブ第 2 章)。この章で見た「生産フライス盤」「量産の歯車の仕上げ」の技術が、20〜30 年遅れて日本の自動車の量産を支えることになります。そして日本の工作機械が米国へ逆に流れ込む話は、第 5 章に続きます。

⑂メーカーの系図

この章に出てくる主な会社・団体の名前の移り変わりです。帯の色が変わるところで名前が変わっています。赤い矢印は買収や特許の権利の移り先です(Johansson からの矢印は 1923 年の Ford による買収)。帯の右端は、この章で確かめた時点までで、そこで会社が終わったとは限りません(Cincinnati Milacron のその後は第 5 章)。

18801900192019401960198020002020NMTBA(全米工作機械工業会)AMTCincinnati Milling Machine(前身を含む)Cincinnati MilacronFord Motor CompanyC. E. Johansson, Inc.Krupp の Widia(独)1928 米国の特許を GE へCarboloy Company(GE の子会社)帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [1][3][62][63][4][12][13][22][29][27]

見に行ける所

大量生産の始まりの工場と、資料・機械を見られる所です。開館日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

Highland Park Ford PlantHighland Park, Michigan(ミシガン州)1910〜1927 年の Ford の工場。1913 年に最初の移動式組立ラインが据えられた建物と、移動式組立に合わせて建てた工場が残る(1977 年の国の調査時点)。1973 年に国家歴史登録財に載り、1978 年 6 月 2 日に国定歴史建造物(National Historic Landmark)に指定された。いまは民間の敷地で、中は公開していない[4][60][61]
The Henry Ford(Benson Ford Research Center)Dearborn, Michigan(ミシガン州)Ford の資料館。1952 年の Cleveland エンジン工場の自動化ラインの写真などを公開している。閲覧のしかたは館の案内で[53]
American Precision MuseumWindsor, Vermont(バーモント州)米国の精密工作機械の博物館。館のウェブで Heim のセンタレス研削盤(1918 年)を紹介している。実物が展示されているかは行く前に確かめてください[18]
IMTS(International Manufacturing Technology Show)Chicago, Illinois(イリノイ州、McCormick Place)1927 年に Cleveland で始まった NMTBA の工作機械見本市の流れをくむ、2 年ごとの展示会。主催は AMT(もとの NMTBA)[3]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料が開きます。「p.」は本・誌面のページ、「コマ」は Internet Archive のスキャンの番号、「PDF p.」は PDF のページです。

Ford と専用機戦間期と大恐慌第二次大戦余剰機械と自動化19001910192019301940195019601902191419221927192919321940194219461951黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

Ford と専用機、第一次世界大戦1900〜1918 年

年出来事メーカー・機種出典
1902年6月★旋盤メーカー 17 社が集まり、National Machine Tool Builders' Association(NMTBA、全米工作機械工業会。いまの AMT)をつくる。値引き合戦で利益が出ない状態をなくすのが目的だった。最初の年次大会は同じ年の 10 月 14 日1914 年の Worcester の記念誌は「1901 年 6 月 12 日、New York の Waldorf-Astoria」とする。1922 年の大会で会長が「20 年目」と述べていること、事務局長 Du Brul の 1923 年の記事、AMT の沿革がそろって 1902 年なので 1902 年を採る—[1・p.923][2・p.61][3]
1910年Ford が Detroit 北の Highland Park の新工場へ移る。建物の多くは Albert Kahn の設計で、1910〜1922 年に Model T の量産に合わせて増築を重ねたFord Motor Company[4・PDF p.2][4・PDF p.3]
1913年Cincinnati Milling Machine が A. L. De Leeuw の設計で、テーブルの早送り・送り・戻りを自動で回す量産用のベッド形フライス盤を出す。1916 年には単頭・両頭の型がそろい、量産工場の「生産フライス盤」の型になったWoodbury(1960)による。特許は De Leeuw の US 1,180,685・1,132,534(1915)Cincinnati Milling Machine自動のベッド形フライス盤(manufacturing miller)[5・コマ47]
1913年4〜5月Highland Park で、はずみ車磁石発電機(フライホイール・マグネト)の組立に初めての移動式組立ラインを使う。1 人で全部組んで約 20 分かかった仕事を 29 の作業に分け、1 個あたり 13 分 10 秒、のちに 5 分になった同じ本の中で「1913 年 5 月 1 日ごろ据え付け」(p.112)と「4 月 1 日ごろ」(p.136)が食い違うFord Motor Company[6・コマ134][6・コマ137][6・コマ158]
1913年7月移動式組立に合わせて設計した 6 階建ての W・X 工場の建設が始まる。部品は最上階へ揚げ、階を下りながら組み立て、1 階で最後の組立をするFord Motor Company[4・PDF p.6]
1913年8月据え置きのシャシー組立は 1 台あたり延べ 12 時間 28 分。閑散期に、ロープと巻き上げ機でシャシーを床の上で引いていく試みをし、5 時間 50 分まで縮めるFord Motor Company[6・コマ158]
1913年10月10 月 7 日、長さ 150 フィート(約 46m)の移動式ラインでシャシーの組立を始める。140 人で 9 時間に 435 台を組み、1 台あたり延べ 2 時間 57 分になった。H 工場が自動車の最初の移動式組立ラインの場所になった時間は Arnold & Faurote の誌面(p.136)の画像で確かめた(OCR の文字は「3 時間 57 分」と読めるが誤り。140 人×9 時間÷435 台≒2 時間 54 分とも合う)。12 月 1 日には 177 人で 606 台、1 台あたり約 2 時間 38 分Ford Motor Company[6・コマ158][4・PDF p.5]
1914〜15年★Ford の技術者が 500 台を超える工作機械を工程の順に並べ替える(「progressive production」)。原則は、工具と人を作業順に置く・重力で次へ滑らせるシュート・移動式組立の 3 つで、機械どうしの間隔もぎりぎりまで詰めたFord Motor Company[6・コマ126][6・コマ181][6・コマ182][6・コマ61]
1914〜15年ごろModel T の一体鋳造の 4 気筒シリンダブロックを、手仕上げなしで延べ 45 分で加工。Foote-Burt の多軸ボール盤が 4 方向から 45 個の穴を一度にあけ、Ingersoll のフライス盤が面を削ったArnold & Faurote(1915)の取材時点の記述Foote-Burt・Ingersoll ほか[6・コマ95][6・コマ101][6・コマ102]
1914年Highland Park の生産能力は、急げば 1 日 1,200 台に達するFord Motor Company[6・コマ149]
1914年国勢調査(Census of Manufactures)で、工作機械の生産額は 3,145 万ドル。NMTBA の推計では、金属切削の工作機械の出荷は 3,530 万ドルRobertson 1966 の p.481(国勢調査の値)と p.483 表 1(NMTBA の推計)。国勢調査は成形機(プレス等)を含む金属加工機械を別に数える—[7]
1914年4月★4 月 30 日、チェーンで動く 3 本の高床ラインで 8 時間に 1,219 台のシャシーを組む。1 台あたり延べ 1 時間 33 分(93 分)で、据え置きの 12 時間 28 分(728 分)から大きく縮んだチェーン駆動の最初の高床ラインは 1914 年 2 月 27 日(Arnold & Faurote p.138)Ford Motor Company[6・コマ161][4・PDF p.3]
1915〜1918年第一次世界大戦の兵器の注文で、工作機械の出荷が急に増える。NMTBA の推計で、金属切削の工作機械の出荷は 1914 年の 3,530 万ドルから 1918 年には 2 億 2,060 万ドル(約 6 倍)にp.483 表 1。台数の指数(1913 年=100)でも 1917 年 192、1918 年 181(NBER a01168a)—[7]
1915年3月軸受のころを作っていた L. R. Heim が、速く回る研削砥石と逆向きにゆっくり回る調整車(regulating wheel)の間でころを研ぐ研削盤の特許を出願(1917 年 1 月に成立)。センタレス研削の決め手になったWoodbury・Ashburn は「1915 年の特許」とするが、1915 年は出願で成立は 1917 年(US 1,210,936・1,210,937)。American Precision Museum は「1915 年に成立」と書くが特許の記載と合わないBall and Roller Bearing Co.[8][9・コマ81][10・PDF p.54]
1909〜1916年Model T の生産は 1909 年 13,840 台、1913 年 189,088 台、1916 年 585,388 台Ashburn が Ford の生産報告から引いた値(会計年度か暦年かは書かれていない)Ford Motor Company[10・PDF p.55]
1917年第一次世界大戦でヨーロッパからのゲージブロックが途絶え、発明家 William Hoke が国立標準局(NBS)に製法を持ち込む。陸軍兵器局の資金で、81 個組 50 セットを NBS で作った—[11・PDF p.14]

戦間期:落ち込み・センタレス研削・ゲージブロック・超硬1919〜1938 年

年出来事メーカー・機種出典
1919年国勢調査で、工作機械の生産額は 2 億 1,240 万ドル。戦争の注文が終わったあとも、まだ高い水準だった—[7]
1919年10月スウェーデンのゲージブロックの考案者 C. E. Johansson が米国に戻り、米国の会社 C. E. Johansson, Inc. で角度ブロックなどを売り出す。1919 年末までに工場は New York 州 Poughkeepsie に置かれた1919 年 10 月の記事は販売の住所を New York 市とし、同年 12 月以降の広告は Poughkeepsie。工場の設立年は確かめられていないC. E. Johansson, Inc.[12・コマ24][13・コマ36]
1920年Milwaukee の A. O. Smith が自動車のフレームを作る自動の生産ラインを入れる。近代的な意味での最初の連続自動生産ラインとされ、40 年以上動いたAshburn(1955・1988)。1988 年の文は「おそらく最初」と書くA. O. Smith[10・PDF p.58][14・コマ6]
1921年戦後の不況で、工作機械の出荷は 2,300 万ドルまで落ちる。台数の指数(1913 年=100)でも 1917 年の 192 から 1921 年は 20.5 と、10 分の 1 近くになった1918 年の値(Robertson、NMTBA 推計の金属切削)と 1921 年の値(NMTBA 報告)は同じ系統だが、出どころの資料が違う—[15・p.148][16]
1922年★Cincinnati Milling Machine が Heim の特許をもとに量産用のセンタレス研削盤を出す。研削砥石は直径 20 インチ(約 510mm)、調整車は 12 インチで、肩付きのプッシュロッドやバルブタペットも研げたWoodbury と Ashburn は 1922 年の最初の生産機とし、American Machinist の紹介記事は 1923 年 8 月(「最近開発され、売り出された」)。American Precision Museum は 1922 年に Cincinnati が Heim の研削盤を手に入れたとする。Woodbury の序章は「1921 年から」とも書くCincinnati Milling Machineセンタレス研削盤[9・コマ82][10・PDF p.54][17・コマ28][18]
1923年10月ドイツの Karl Schröter が、炭化タングステンをコバルトなどの金属で焼き固めた超硬合金の米国特許を出願し、General Electric に譲渡(1925 年 8 月成立)General Electric[19]
1923年11月★Henry Ford が Poughkeepsie の C. E. Johansson, Inc. を買い取り、Johansson 本人も Ford に移る。ゲージと製法の米国の権利も手に入れ、Ford がゲージブロックを売り続けた1937 年のカタログは Dearborn の Ford の技術研究所を「Johansson ゲージブロックの米国の本拠」とするFord Motor Company[13・コマ36][20・コマ32][21]
1924年(英国の出来事)Coventry の Morris の工場で、標準の機械を 1 本のベッドに並べてシリンダブロックに 53 の加工をする機械ができる。長さ 181 フィート(約 55m)、サイクル 4 分。本格的なトランスファーマシンの最初とされる米国の出来事ではないが、米国のトランスファーマシンの出発点として米国の資料が必ず挙げる—[10・PDF p.58][14・コマ6]
1924年Model T の価格は 1908 年の 850 ドルから 1924 年には 260 ドルまで下がるFord Motor Company[4・PDF p.3]
1925年センタレス研削で、6 インチのバルブステムを 1 時間に 350 本、ピストンピンを 225〜325 本研ぐようになる。調整車の直しは 1 シフトに 1〜2 回で、砥石は使い捨ての消耗品と考えられるようになったWoodbury が Abrasive Industry 1925 年 4 月号から引いた値—[9・コマ83]
1925年10月10 月 31 日、Model T が 10 秒に 1 台のペースでラインを出るFord Motor Company[4・PDF p.3]
1926年焼結した炭化タングステンの工具(超硬工具)が、ヨーロッパで商品として売られ始める。米国はその数年後NBS(1930)は欧州での発売を 1926 年とし、Ashburn は工具になると分かったのが 1926 年ごろ、実演は 1928 年 3 月とする—[22・コマ2][10・PDF p.56]
1927年Cincinnati Milling Machine が、テーブルの送りを油圧で動かし、無段で変えられる標準品のフライス盤を出すCincinnati Milling Machine[5・コマ47]
1927年9月★NMTBA が第 1 回の National Machine Tool Builders' Exposition(工作機械見本市)を Cleveland の Public Auditorium で開く(9 月 19〜23 日、出展 180 社)。いまの IMTS の始まり—[23・コマ145][24・p.544][3]
1928年3月Krupp がライプツィヒの見本市で超硬工具 Widia の切削を実演。軟鋼を毎分 560 フィート(約 170m)、鋳鉄を毎分 780 フィート(約 240m)で削り、米国の業界誌が 5 月に伝えたKruppWidia[25・コマ3][26・コマ39][10・PDF p.56]
1928年10月★General Electric が研究所で作った超硬工具を「Carboloy」の名で売り出す。販売は新会社 Carboloy Company, Inc. で、Schenectady に工場を計画したGeneral Electric(Carboloy Company)Carboloy[27・コマ22][27・コマ32][28・コマ51]
1928年11月General Electric と Krupp が契約し、Krupp の超硬合金の米国の特許の権利を GE が持つことになる。GE は超硬の値段を 1 ポンド 453 ドルとし、それまでの輸入品の約 10 倍だった輸入の Widia は 1 ポンド 45〜50 ドルほどだった(University of Chicago Law Review 1950)。Ashburn(1988)は初めの超硬を「1 ポンド 500 ドル」とするGeneral Electric・Krupp[29・p.359][29・p.360][30・コマ40][31]
1929年工作機械の出荷が 1 億 8,500 万ドルと 1920 年代の最高に。10 月の第 2 回の見本市(Cleveland)には 270 社が出展した—[15・p.148][24・p.544]
1929年★自動車メーカーの Graham-Paige が、シリンダの加工で、治具を自動で締め、搬送バーで品物を機械から機械へ送る仕組みを入れる。今のトランスファーマシンの要素がそろった米国の早い例とされるAshburn(1955)・Shils(1963)・Flink(1988)が 1929 年とする。Flink は「最初の本格的なトランスファーマシン」と書くGraham-Paige Motors[14・コマ6][32][33]
1930年国立標準局(NBS)が超硬バイトの切削試験の報告を出し、Taylor の工具寿命の式が超硬にも当てはまるかを調べる—[22・コマ2]
1932年★大恐慌で、工作機械の出荷は 2,200 万ドルに。1929 年の約 8 分の 1 で、統計の残る 1920 年代以降で最も少ないNBER の金額の指数(1922〜24 年=100)でも 1929 年 285 → 1932 年 38—[15・p.148][34][16]
1935年9月第 3 回の工作機械見本市が Cleveland で開かれる(9 月 11〜21 日)。1929 年からの 6 年分の新しい機械が並んだ—[35・コマ14][36・コマ449]

第二次世界大戦:民主主義の兵器廠1939〜1945 年

年出来事メーカー・機種出典
1939年超硬工具に合わせた剛性の高い機械が、ようやく品ぞろえとして出そろう。初めは 1 ポンド 500 ドルもした超硬は、機械の側が追いつかず 10 年以上使い方が限られていた—[10・PDF p.56][10・PDF p.57]
1939年9月9 月に Cleveland で開く予定だった工作機械見本市が、欧州の開戦で直前に中止になる。見本市のために設計した 1939 年型の機械が、そのまま戦時の生産の主力になったAshburn(1988)も同じことを書く—[36・コマ449]
1940年7月7 月 2 日の国防強化法にもとづく布告 2413 号で、金属を切る・研削する工作機械などが輸出許可制になる。国内の兵器工場に回すためで、日本への工作機械の輸出もこれで止まっていく国産アーカイブ第 1 章の年表の「1940 年 米国が対日工作機械輸出を禁止」と同じ年—[37・p.13][38・p.83]
1940年12月★Roosevelt 大統領がラジオ演説で「民主主義の兵器廠(arsenal of democracy)」になろうと呼びかけ、工場と機械をすぐ増やすよう訴える(12 月 29 日)—[39・p.8][40]
1940年12月国防諮問委員会(NDAC)の求めで、復興金融公社(RFC)の子会社 Defense Plant Corporation(DPC)が工作機械の「プール発注」を始める。買い手が決まる前に国が注文を出してリスクを負い、メーカーが見込みで作れるようにした。1941 年は 3,500 万ドルまで、5 月に重爆撃機計画の 2 億ドルを追加—[38・p.85]
1940〜1945年DPC が工作機械メーカーの新工場 35 か所の建設と、131 工場の設備の買い入れに約 9,200 万ドルを出す。業界が自分で出した増設資金より少し多かったpp.75〜76—[38・p.75]
1941年10月司法省が、超硬の特許をまとめて値段を決めていたとして GE・Carboloy・Krupp などを反トラスト法(Sherman 法)で起訴する。戦争のため裁判は 1947 年まで延ばされた起訴(indictment)は 1941 年 10 月 21 日(判決文)。シカゴ大学の法律雑誌の解説(1950)は 1940 年とするGeneral Electric・Carboloy・Krupp[31][29・p.358]
1942年★工作機械の出荷が 13 億 2,000 万ドルと史上最高に。1939 年(2 億ドル)の約 6.6 倍、1938 年の約 9 倍で、12 月だけで 1 億 3,200 万ドルを出荷した。受注残は 7 月がピーク—[41・コマ43][42・コマ53][15・p.148]
1942年1月大統領令 9024 号で戦時生産局(War Production Board、WPB)ができる(1 月 16 日)。工作機械の割り当ても WPB の工具の部門に移る—[43][44・p.61]
1942年1〜2月DPC が、ゲージ(上限 5,000 万ドル)と切削工具(上限 1 億 8,000 万ドル)のプール発注も始める。工作機械と同じく、値段と売り先を国が保証した—[38・p.85]
1942年5月WPB の優先命令 E-1-b で、新しい工作機械は機種・大きさごとに各メーカーの毎月の納入の 75% を陸海軍と海事委員会へ、25% を外国と国内の重要産業へ割り当てるその前は 1941 年の OPM の E-1、1942 年 1 月の E-1-a(納入順位の命令)—[44・p.61][45・p.148]
1941〜1945年DPC のプール発注は合計約 19 億 4,500 万ドル。プールで発注された工作機械の出荷は 16 億 9,900 万ドルで、1941〜1945 年の業界の生産 41 億 8,400 万ドルの半分近くにあたる表 8(RFC の統計)。1940〜1945 年の業界の生産は 4.4・7.75・13.2・11.8・5.02・4.07 億ドル—[38・p.83][38・p.87]
1944年兵器工場に機械が行き渡り、工作機械の出荷は 4 億 9,700 万ドルと 1942 年の 4 割を切る—[15・p.148][46]

戦後:余剰機械・Detroit Automation・朝鮮戦争1945〜1950 年代

年出来事メーカー・機種出典
1945年11月戦争が終わり、国が持つ工作機械のうち最大 70 万台(取得額 18 億ドル)が余剰になると見積もられる。プールで作られた工作機械の 3 分の 2 は国の持ち物になっていた—[38・p.110]
1946年3月★余剰の処分を一手に担う戦時資産管理局(War Assets Administration)が独立の機関になる(3 月 25 日)。1947 年 3 月までに約 17 万台の工作機械が売られ、新しい機械の市場を圧迫した。1946 年の新しい工作機械の売り上げは 3 億 7,500 万ドルにとどまった—[38・p.100][38・p.111]
1946年11月日本の賠償を調べた Pauley 大使の最終報告が大統領に出される(11 月 17 日、報告は 4 月に完成)。兵器工場の全部撤去に加え、工作機械を「相当量の撤去」の対象に挙げた1945 年 12 月の中間報告がもとになっている—[47・p.957]
1947年4月★Ford が製造部門の中に Automation Department を作る。「automation」は Ford の副社長 Del Harder の言葉とされ、まずプレスのラインに材料の送り込み・取り出し・反転の装置を付けたAshburn(1955)は語の生まれを 1947 年とし、印刷物に出たのは American Machinist の 1948 年 10 月 21 日号が最初とするFord Motor Company[48・コマ90][48・コマ108][10・PDF p.57][10・PDF p.58][14・コマ7]
1947年4月米国が、日本の賠償の一部を先に渡す「先渡し(Advance Transfer)」の指令(JCS 75 号、4 月 4 日)を出す。撤去してよいと決まった設備の 30% を、中国・フィリピンなど 4 か国へ先に渡す4 か国のうち FRUS 1949 の本文で名前を確かめられたのは中国(15%)とフィリピン。残る 2 か国(英国・オランダとされる)は一次資料で未確認—[49・p.700][49・p.717]
1947年9月戦後初めての工作機械見本市が、戦時の工場だった Chicago の Dodge-Chicago 工場で開かれる(9 月 17〜26 日)。約 2,000 台が実際に動いて並び、戦時中に止まっていた新しい設計がまとめて出た—[50・p.194][51・コマ4][36・コマ449]
1948年7月National Industrial Reserve Act(国家産業予備法)が成立(7 月 2 日)。国の工場の一部と「工作機械の国の予備」を、次の非常時にすぐ使えるよう残すことを定めた。予備は朝鮮戦争のころ約 15 万台White 1980 は「1947 年 8 月に予備を定める法律が成立」と書くが、法律名・承認日は Statutes at Large(62 Stat. 1225、1948 年 7 月 2 日)に従う。White の 1947 年は別の法律か誤りか、確かめられていない—[52][38・p.112]
1948年10月American Machinist が Ford の automation を特集。発足から 500 以上の装置(300 万ドル)を設計し、生産を平均 20% 上げ、約 1,000 人を別の仕事へ移す見込みとした。装置は 1 人分の作業を減らすのに 3,000 ドル以内、1 年で元が取れることが条件だった記事の本文の装置の数は誌面が読みにくい。社説は「500 以上」とするFord Motor Company[48・コマ90][48・コマ108][48・コマ109]
1948年10月New York の連邦地裁が、GE・Carboloy・Krupp などに、超硬合金の市場を独占し値段を決めたとして有罪の判決を出す(United States v. General Electric ほか)判決は 1948 年 10 月 8 日(Knox 首席判事、80 F. Supp. 989)。判決文は、GE が最初の値段を 1 ポンド 453 ドル(1 グラム 1 ドル)とし、製造原価は 1 グラム 6〜12 セントだったと認定した。GE と Krupp は 1936 年に世界の市場を分け合う取り決めもしていた(シカゴ大学の解説 p.360)General Electric・Carboloy・Krupp[31][29・p.358]
1949年余剰の機械の放出もあって、工作機械の出荷は 2 億 4,900 万ドルと戦後の底になるNMTBA の月次の値の合計。Conference Board の Business Record(1950 年 10 月)も 2 億 4,900 万ドルとする(全文検索の抜粋で確認)—[46]
1949年5月米国が日本の賠償の先渡しの指令を撤回し、それ以上の工業設備の撤去を求めない方針を出す(5 月 12 日)。日本の工作機械は国内に残り、戦後の復興に使われることになった—[49・p.744]
1951年★Ford の Cleveland エンジン工場(Ohio 州 Brook Park)が動き出す。シリンダブロック・ヘッド・クランクシャフトなどを自動でつないだラインで加工し、ブロックのラインの能力は半自動のラインの倍以上とされたFord Motor Company[53][54・コマ139][54・コマ140]
1951年2月朝鮮戦争で工作機械が再び足りなくなり、国家生産局(NPA)の命令 M-40 で国の「プール発注」が復活する(2 月 28 日)。8 月 28 日に条件を直した契約にすると、4 か月で 61 社が 35,150 台・8 億 600 万ドル分を引き受けたpp.31〜32。最初の 6 か月は条件が合わず、48 社のうち引き受けたのは 18 社(5,000 万ドル)—[55・p.31]
1953年朝鮮戦争の需要で、工作機械の出荷は 11 億 9,100 万ドルに。1950 年(3 億 600 万ドル)の約 4 倍で、第二次大戦のピークに近づいた—[46][36・コマ449]
1953年11月American Machinist の第 7 回の設備調査で、米国の金属加工業の工作機械は 1,941,612 台。そのうち 55% が 10 年以上前の機械で、戦時に大量に入れた機械が古くなりつつあった10 年を古さの目安にしたのは 1925 年の第 1 回調査から—[56・コマ80]
1954年7月(日本)新潟鉄工所が米 Sundstrand と生産フライス盤の製造で技術提携する。1953 年には不二越鋼材工業が米 Michigan Tool とシェービングカッタで提携しており、米国の量産の機械と工具の技術が日本に入り始めた国産アーカイブ第 2 章(/history/mc/)と第 4 章(/history/gear/)の出来事新潟鐵工所・Sundstrand[57・コマ247][58・コマ71]
1950年代トランスファーマシンが米国のエンジン工場の主役になり、「Detroit automation」と呼ばれる。ただ設計が少し変わるだけで使えなくなるため、1950 年代の終わりに標準の部品を組み替える「building-block」方式が工夫された—[59][10・PDF p.59]

よくある質問

Ford の移動式組立ラインで、工作機械の何が変わったのですか?
機械の並べ方と使い方が変わりました。Ford は 1914〜15 年に 500 台を超える工作機械を、機械の種類ごとではなく部品の加工の順に並べ替え、汎用のボール盤やフライス盤に品物専用の多軸ヘッドと治具を付けて専用機にしました。ラインが止まらないよう、部品は手合わせなしで組み付けられる寸法で毎日そろえる必要があり、それがセンタレス研削盤・ゲージブロック・トランスファーマシンの普及につながりました。
トランスファーマシンを最初に作ったのはどこですか?
米国の資料がそろって「本格的なトランスファーマシンの最初」とするのは、1924 年の英国 Coventry の Morris の工場の機械です(53 の加工、長さ約 55m)。米国では 1920 年の A. O. Smith のフレームの自動ラインや、1929 年の Graham-Paige のシリンダの加工が早い例です。1950 年代に Ford の Cleveland のエンジン工場などで広がり、「Detroit automation」と呼ばれました。
超硬工具はいつから使われていますか?
焼結した炭化タングステンの工具は 1926 年にヨーロッパで商品になり、1928 年 3 月に Krupp が Widia の切削をライプツィヒで実演しました。米国では GE が 1928 年 10 月に Carboloy の名で売り出しています。ただ初めは 1 ポンド 450〜500 ドルと高く、超硬に合う剛性の高い機械がそろったのは 1939 年ごろでした。
第二次世界大戦で、米国は工作機械をどれだけ作りましたか?
出荷額は 1939 年の 2 億ドルから 1942 年には 13 億 2,000 万ドルと約 6.6 倍になり、これが史上最高です。国の Defense Plant Corporation が、買い手が決まる前に工作機械をまとめて注文する「プール発注」で約 19 億ドル分を引き受け、1941〜45 年の業界の生産の半分近くを占めました。戦後は最大 70 万台が余剰になると見積もられ、中古の機械が安く出回りました。

この先と関係するページ

出典

本・業界誌・政府資料は Internet Archive・米国立公園局(NPS)・NIST・米 SEC・NBER などの公開資料で 2026 年 10 月に確かめ、使ったページを書いています。「コマ」は Internet Archive のスキャンの番号(n 番号)、「PDF p.」は PDF のページです(Ashburn 1988 の PDF は印刷のページ+15)。貸出制限の本(Shils 1963・Flink 1988)は全文検索で該当の記述を確かめ、ページは書いていません。出荷額は系列ごとに数え方が違い、1945 年は月の値の合計(4 億 2,370 万ドル)と 1946 年の業界誌の表(4 億 710 万ドル)で食い違います。日本側の出来事は国産アーカイブの出典を使っています。

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  2. Mill Supplies, vol.13 no.5(1923 年 5 月)Ernest F. Du Brul「Big Sales Problem in Machine Tool Industry」p. 61
  3. AMT(The Association For Manufacturing Technology)「AMT 120 Years On: Where It Is – and Going」(2022)
  4. National Park Service「National Register of Historic Places Inventory–Nomination Form: Highland Park Ford Plant」(Ralph J. Christian, 1977)PDF p. 2・3・5・6
  5. Robert S. Woodbury『History of the Milling Machine』Technology Press, MIT(1960)コマ 47
  6. Horace L. Arnold & Fay L. Faurote『Ford Methods and the Ford Shops』Engineering Magazine Co.(1915)コマ 61・95・101・102・126・134・137・149・158・161・181・182
  7. Ross M. Robertson「Changing Production of Metalworking Machinery, 1860–1920」『Output, Employment, and Productivity in the United States after 1800』(NBER Studies in Income and Wealth 30、1966)
  8. Lewis R. Heim, US Patent 1,210,937「Roll-Grinding Machine」(1915 年 3 月 6 日出願、1917 年 1 月 2 日成立、Ball and Roller Bearing Co. に譲渡)
  9. Robert S. Woodbury『History of the Grinding Machine』Technology Press, MIT(1959)コマ 81・82・83
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  11. Ted Doiron & John S. Beers『The Gauge Block Handbook』NIST Monograph 180(1995)PDF p. 14
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  13. 「Johansson Joins Ford Motor Company」American Machinist, Vol.59 No.18(1923 年 11 月 1 日)コマ 36
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  20. 「Johansson Gage Blocks and Tools」American Machinist, Vol.59 No.20(1923 年 11 月 15 日)コマ 32
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  26. American Machinist, Vol.68 No.20(1928 年 5 月 17 日)ロンドン通信(ライプツィヒ見本市の Widia の実演)コマ 39
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  28. American Machinist, Vol.69 No.15(1928 年 10 月 11 日)設備計画の欄(Carboloy Co. の Schenectady 工場)コマ 51
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  51. Automotive Industries, vol.97 no.3(1947 年 8 月 1 日号)コマ 4
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  53. The Henry Ford「Two-Directional Automation Device at the Ford Motor Company Cleveland Engine Plant, January 1952」(写真資料の解説)
  54. Rupert Le Grand「Automation」Special Report No.303, American Machinist, Vol.96 No.6(1952 年 3 月 17 日)p.135〜コマ 139・140
  55. U.S. Congress, Joint Committee on Defense Production『Machine Tools』(Defense Production Act Progress Report No.13、Senate Report No.1107、82nd Congress、1952 年 1 月 23 日)p. 31
  56. American Machinist, vol.97 no.24(1953 年 11 月中旬号)「The Seventh American Machinist Inventory of Metalworking Equipment」コマ 80
  57. 『新潟鉄工所八十年史』(1977)コマ 247
  58. 『不二越五十年史』不二越(1978)コマ 71
  59. David A. Hounshell「Automation, Transfer Machinery, and Mass Production in the U.S. Automobile Industry in the Post–World War II Era」Enterprise & Society 1(1)(2000)pp.100–138
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  62. Datapro Reports「Cincinnati Milacron CIP/2200」(1973 年 9 月。bitsavers の写し)
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  66. 日進機械製作所「会社概要・沿革」
  67. ツガミ「沿革」