UK 07英国の研削盤の系譜

研削盤は、砥石の無数の小さな粒で少しずつ削り、焼入れした硬い部品を μm(1000 分の 1 mm)の精度に仕上げる機械です。英国は、工作機械を生んだ国でありながら、研削盤では米国に先を越され、追いかけた国でした。それでも、平面の基準をきさげで作る考え方、けい酸塩やゴムで砥粒を固める砥石、研削盤を数式で分析した最初の本、多山の砥石で研ぐねじ研削盤、センタレス研削盤の専門メーカー、砥石の形をパンタグラフで整える装置、そして超精密の大形研削盤を生んでいます。この章では、砥石と機械の仕組みがどう変わり、工場の仕事がどう変わったかを、当時の業界誌・英国政府の資料・博物館の目録で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典(ページが分かるものはスキャンのコマ)を付けてたどります。

研ぐのをやめた
Whitworth から
話は始まるよ!

マスコットのチップス

研削盤は、何を研ぐかで形が分かれます。丸い軸の外側を研ぐ円筒研削盤(砥石台や主軸台が首を振れるものが万能研削盤)、穴の内側の内面研削盤、平らな面の平面研削盤(砥石の軸が横なら周面で、縦なら端面で研ぐ)、工作物をセンタで支えずに 2 つの車の間で回すセンタレス研削盤、ねじ・歯車・工具の形を研ぐ専用機です。英国では研削盤は grinding machine または grinder、センタレスは centreless とつづります。今の研削盤と砥石の表示の読み方は研削の基本に、日本の研削盤の歴史は国産アーカイブ第 3 章「研削盤の系譜」に、米国とドイツはアメリカの研削盤の章・ドイツの研削盤の章にまとめています。歯車研削盤と Holroyd のロータ研削は次の章「英国の歯車機械の系譜」でも扱います。

砂岩とエメリー:研ぎ場と平面の基準(1823〜1867 年)

Sheffield の研ぎ場

19 世紀のはじめ、英国でいちばん大きな「研削の工業」は、Sheffield の刃物の研ぎ場でした。ナイフ・フォーク・はさみ・鎌は、川の水車で回す大きな天然の砂岩の砥石で研がれました。いまも市内の Porter Brook の谷には、1500 年代にさかのぼる水車の研ぎ場 Shepherd Wheel が残り、ほかの研ぎ場が電動になった後も 1930 年代まで水の力で刃物を研いでいました[35]。

研ぎ場は、職人の命を縮める場所でもありました。Sheffield の医師 G. Calvert Holland は 1843 年の本で、昔の研ぎ場は町から数 km 離れた川べりにあって空気もよく、水が多すぎても少なすぎても休みになったのに、蒸気機関が来てからは町の中の高い土地に詰め込んだ建物で一日中研ぐようになり、しかも水を使わない乾式の研ぎが速いので広まった、と書いています。砥石から立つ石と鉄の粉を吸い続けたフォーク研ぎの職人の多くは、30 歳になる前に亡くなっていました[3]。粉じんを防ぐ工夫は 1820 年代からあり、1824 年までには集じん装置の付いた研削機も使えましたが、多くの研ぎ場では顔に布を巻くだけでした[1]。Holland は、砥石ごとの吸い込み口を床下の溝で 1 本にまとめ、砥石と同じ軸からベルトで回す送風機で外へ吐き出す仕組みを図入りで紹介し、職人 1 人あたり 1 ポンドほどでできると勧めています[3]。今の研削盤のカバーと集じん、研削液をかける湿式の研削の背景には、こうした研ぎ場の経験があります。

研削盤の芽:プーリ・銅の円板・大きな石の円板

機械工場でも、研削で寸法をそろえる試みが始まります。1838 年、スコットランドの James Whitelaw は、動力を伝えるベルト車(プーリ)の外周を研ぐ鉄製の円筒研削盤を作りました。直径 42 インチ(約 1.07m)の砥石と工作物を逆向きに回し、手回しで切り込み、砥石の幅の方向には動力で送ります。10 時間に直径 18 インチのプーリを 15 個仕上げ、1 年半使っても自動旋盤と同じように丈夫だったと報告しました。Whitelaw は、薄い鋳物は硬くて旋盤では歯が立たないが、研削盤なら関係ない、薄いプーリも仕上げられるので材料も節約できる、と研削の利点を書いています[1]。

J. G. Bodmer は 1839 年の特許で、エメリーを付けて使う直径 31 インチの銅の円板で焼入れした鉄の円筒や平面を研ぎ、のちに立軸の研削機で旋盤のベッドの案内面も研ぎました。James Nasmyth は、直径約 7 フィートの鋳鉄の輪に天然の石のかたまり 12 個をねじで留めた大きな円板の研削盤を作り、工作物を自動で送りました[1]。どれも、砥石が「天然の石」か「柔らかい金属にエメリーの粉を付けたもの」しかなかった時代の工夫です。

Whitworth:研ぐのをやめて、きさげで平面を作る

この時代の英国でいちばん大きな出来事は、皮肉にも「研ぐのをやめよう」という主張でした。1840 年、Joseph Whitworth は Glasgow の British Association で、平らな面(定盤や案内面)の作り方の論文を読みます。当時は、やすりで仕上げた面同士をエメリーの粉でこすり合わせて「研ぐ」のが当たり前でした。Whitworth は、こすり合わせると片方の誤差がもう片方に移るだけで本当の平面にはならず、粉が縁にたまって縁がだれ、エメリーの粒が金属の肌に食い込んで滑り面を早く傷める、と指摘しました。そして、3 枚の定盤を順に当てて、当たりの強い所だけをきさげ(スクレーパ)で削る方法なら、誤差を確かめながら消していける、と示しました[2]。Liverpool and Manchester 鉄道の機関車の責任者は、エメリーですり合わせた滑り弁は 5 か月で深さ 1/8 インチ(約 3mm)の溝が付いて面がへこんだが、きさげで仕上げた弁は狂いがなく、あと 5 か月は使えそうだと Whitworth に書き送っています[2]。

一方で Whitworth は、硬さが要る基準には研削を使いました。1857 年に Manchester の機械学会で、穴の径 0.5770 インチの内側ゲージに、0.5769 インチと 0.5770 インチの円筒ゲージを入れて見せ、1 万分の 1 インチ(約 2.5μm)の差で入り方がまったく違うことを示しています。このゲージは表面を焼入れした後に研削で仕上げたもので、工場では 2 万分の 1 インチまで測っていました[2]。平面の基準はきさげで作り、焼入れした寸法の基準は研削で仕上げて測るという分担は、今の工作機械の工場でも続いています。

砥石の発明:焼き固める・けい酸塩・ゴム

研削盤が「機械」になるには、性質のそろった人工の砥石が必要でした。英国はここで多くの特許を出しています。1825 年にインドから天然のコランダム(ほぼ純粋なアルミナ)が入り、エメリーよりよく削れることが分かりました。1837 年までには英国でエメリーを固めた一体の砥石が作られ、1842 年には Henry Barclay が砥粒を焼き固める(ビトリファイド)砥石の特許を取ります。1857 年には Deplanque が加硫ゴムで固める特許を取り、1862 年には London で作られていました。ゴムの結合剤は、のちにセンタレス研削の調整車として生き残ります[1]。

1859 年、Frederick Ransome はエメリーなどの粒をけい酸カリ・けい酸ソーダで固めて焼く砥石の特許を取りました。けい酸塩の結合剤の最初とされ、1867 年に技術者の Donkin が試すと、Newcastle の上等な天然砥石の 50 倍以上削ったといいます[1]。工場の砥石を平らに保つ工夫として、1853 年の William Muir の二重砥石(2 つの砥石を違う速さで回してこすり合わせる)、1856 年の David Fisher の合成エメリー砥石の特許もあり、その模型と見本は London の科学博物館に収められています[4]。Manchester の Barker と Holt は 1853 年、2 枚の鉄板の溝の間で焼入れ鋼球をエメリーと水で転がして研ぐ機械の特許を取りました。のちの玉軸受の鋼球の研削につながる方式です[1]。

この時代に変わったこと。研削は「刃物を研ぐ」「表面を磨く」仕事から、「硬い物の寸法を出す」仕事へ動き始めました。ただし平面の基準は Whitworth のきさげが主役で、研削盤はまだ旋盤やきさげの脇役です。今でも工作機械の摺動面にきさげが残るのは、研削で出した面に油だまりを作り、当たりを確かめながら直せるからです。

研削盤メーカーの誕生と Guest の本(1887〜1915 年)

精密な研削盤を工業にしたのは、米国の Brown & Sharpe(1876 年の万能研削盤)と Norton(1900 年の重研削盤)でした(アメリカの研削盤の章)。英国では、国産の研削盤はまず鉄道の部品のような専用機に現れます。Manchester の機関車メーカー Beyer, Peacock は 1887 年、弁装置のリンクを研ぐ立軸の研削盤を出していました[1]。

Churchill:研削盤に絞った Manchester のメーカー

1906 年、Manchester で Churchill Machine Tool Company が生まれます。はじめはいろいろな工作機械を作りましたが、まもなく研削盤に絞りました。1957 年の業界誌は、創業のころ英国の工場では研削盤は「硬すぎて他では削れない物を削るための、仕方のない道具」と見られており、自動車工業が研削に最初の機会を与えた、と同社の 50 年を振り返っています[6]。1919 年には Manchester 近郊の Broadheath(Altrincham)に新しい工場を建て、Pendleton の工場は売られました[13][14]。

Churchill の初期の機械は、米国式の研削盤を英国でも作れることを示すものでした。1912 年には Norton の砥石(直径 26×幅 3 インチ)を付けたモータ内蔵の単能研削盤と、20×60 インチの万能研削盤を作り、同じころ、平削りした後の長さ 7 フィート×幅 6 フィートまでの鋳鉄の板を仕上げる、重さ約 20 トンの精密平面研削盤を作りました。当時「これまでで最大の精密平面研削盤」と紹介されています。1913 年には Pendleton の工場から立軸の平面研削盤、直径 30〜40 インチのピストンリング研削盤も出しました[9]。平削り盤で削ってきさげで仕上げていた大きな平面を、研削で仕上げる動きが英国でも始まったわけです。

Lumsden と Coventry Gauge

北東部 Gateshead の Lumsden Machine Company は 1910 年から研削盤だけを作る会社になり、首を振る形の工具研削盤を出して、第一次世界大戦の間は工具研削盤に力を入れました[8]。1913 年には、Coventry の Alfred Herbert で見習いから働いた Harry Harley が Coventry Gauge and Tool Company を作ります。ゲージと工具の会社で、これがのちの Matrix ねじ研削盤のメーカーになります[10]。

Guest『Grinding Machinery』:研削盤を数式で考える

1915 年、James J. Guest が London で『Grinding Machinery』を出しました。Guest は材料の強さの「Guest の法則」(延性材料は一定のせん断応力で降伏する)でも知られる技術者で、自分の名の研削盤も設計していました[12]。この本は、砥石の直径・工作物の直径と周速・切込みの関係から、砥石が「くずれすぎて寸法が出ない」か「目つぶれして削れない」かの境目を式で示し、乾式研削のひずみ、研削液の役目、内面研削の高速の主軸に油を押し込む必要、主軸の軸受の設計、作業の時間と費用まで論じました。米国の研究者 Woodbury は、研削盤とその使い方に工学の分析を持ち込んだ最初の仕事だと評価しています[1]。図は Churchill と米国の Landis が特別に描いて提供しました[12]。

現場で何に効くか。「砥石の周速と工作物の周速の比」「切込みと送り」「軟らかめの砥石を使い、砥石代より人の手間を減らす」という研削条件の考え方は、Guest が 1915 年に数式で示したものです。今の研削条件の目安は研削の基本「研削条件」にあります。

自動車・ねじ研削・センタレス(1918〜1932 年)

Matrix のねじ研削盤:1 山から多山へ

ねじのゲージやタップ、ホブのような焼入れするねじは、焼入れでひずむので、旋盤や旋削で仕上げても精度が出ません。Coventry Gauge & Tool は第一次世界大戦の終わりに最初の Matrix ねじ研削盤を出しました。はじめは山を 1 つだけ付けた砥石でねじ溝を 1 本ずつ研ぎましたが、のちに息子の Stanley Harley が特許を取った多山のダイヤモンドドレッサを組み込み、何山も付けた砥石で一度に研げるようにします[11]。1949 年の英国のねじ研削の本は、同社を「先駆けの経験を持ち、今のねじ研削の水準を高めた」と評しています[19]。

1924 年の Olympia:自動車の部品を研ぐ

1924 年 9 月、London の Olympia の工作機械展で、英国の研削盤は自動車の量産の機械として並びました。Churchill は 4 台を出し、自動車の焼入れしたスプライン軸を、形を付けた砥石でなく 2 枚の砥石の外周で 1 面ずつ研ぐ研削盤、6×18 インチの重研削の単能研削盤、段取りと寸法を測る時間を減らす工夫をした内面研削盤を見せました。砥石軸は、砥石の近くに調整できる滑り軸受、ベルトを掛けるプーリの側に転がり軸受を使う新しい標準の作りでした[8]。Leicester の A. A. Jones & Shipman も内面研削盤と万能研削盤を出しています。高速のカウンタシャフトからベルトで砥石を回し、ポンプで研削液を掛けました[8]。

平面研削では Lumsden が目を引きました。小さな砥石のかたまり(セグメント)を並べた砥石が自分の軸で回りながら、さらに円を描いて動く「遊星ヘッド」の平面研削盤を、平面研削の新しい原理として出し、直径 30 インチの砥石の横軸平面研削盤では機関車・繊維機械・電機の部品の平面を研いでいました。展示の記事は、こうしたセグメント砥石の平面研削盤が、フライス盤や平削り盤と正面から張り合う機械になったと書いています[8]。英国の自動車工業での研削の利用は米国より少し遅れましたが、1925 年には Vauxhall で全面的に使われていました[1]。

センタレス研削の専門メーカー Scrivener

米国で 1920 年代に量産に入ったセンタレス研削は、英国でも専門のメーカーを生みました。Birmingham の Arthur Scrivener は第一次大戦の後、町の工作機械の会社の経営を任されていましたが、1932 年に Tyburn Road に自分の工場と会社を作ります。最初のセンタレス研削盤がうまくいったので、それに絞り、とくに自動運転の改良を重ねました。最初の特許(1933 年)は研削盤の軸受で、生涯にセンタレス研削盤などの特許を 40 件以上取っています[15]。1944 年に出願した米国特許は、米国の Landis Machine Company が進めた、焼入れした止めねじを 1 回で研ぐセンタレスのねじ研削のもとになりました[1]。

1932 年、業界誌 The Engineer は連載「Precision Grinding Machines」でセンタレス研削を取り上げ、Churchill の機械を詳しく紹介しています。研削砥石は直径 20 インチ、調整車は 12 インチで、寸法は調整車のほうを研削砥石に向けて送って決めます。記事は Churchill の説明として、びびりの原因を、工作物の中心が高すぎる、砥石が硬すぎる・細かすぎる、受け板(ブレード)の角度が急すぎる・薄すぎる、段取りのどこかにがたがある、と挙げました[16]。今のセンタレス研削の段取りの注意とほとんど同じです。同じ連載は、Lumsden の立軸の平面研削盤も紹介しました。平削り盤に似た往復テーブルに、セグメント砥石を 25 馬力のモータで回し、油圧で送る作りで、テーブルの往復と砥石頭の横送りを組み合わせると、額縁のような面もぐるりと研げました[17]。

現場で何に効くか。ねじゲージ・タップ・ホブを「焼入れしてから研ぐ」、軸受やピンの量産を「センタレスで研ぐ」、大きな平面を「セグメント砥石で研ぐ」という今の工程は、この時代の英国の業界誌にもうはっきり出てきます。センタレスの段取りは研削の基本「段取り」、ねじの精度はねじのページもどうぞ。

⚑第二次世界大戦と研削盤(1930 年代〜1945 年)

再軍備の時代、英国政府がまず心配したのは、兵器を作るためのゲージでした。補給委員会のゲージの小委員会は 1930 年から検討を重ね、ゲージを作るのに欠かせないジグ中ぐり盤・割出し台・ねじ研削盤が英国に足りないと指摘し、その勧めで国内で作る手立てが取られました[18]。

それでも戦争が始まると、研削盤は大きく不足します。英国政府の公式戦史『Factories and Plant』によると、信管と 20mm 砲弾の生産でいちばん手に入りにくかったのは自動盤・半自動旋盤とセンタレス研削盤で、大部分を米国から買うしかありませんでした。1942 年の英国の研削盤の生産は 11,903 台でしたが、米国からの研削盤の輸入は多い年で約 11,000 台にのぼり、国内の生産の 92% にあたりました。しかも輸入には高価な専用機の割合が高く、台数以上に頼っていたといいます[18]。

研削盤の生産(1942 年)11,903 台英国[18]
米国からの輸入(年の最大)約 11,000 台国内の生産の 92%[18]
研削盤の増産計画28 件・295,481 ポンド1939〜45 年[18]

政府は研削盤の増産に 28 件・約 30 万ポンドの計画を立て、1942 年 12 月には、英国でそれまで作っていなかった米国型の機械の代わりを国内で作る計画を進めます。多くの機種は 1 社だけが受け持ちましたが、自動盤と平面研削盤は 5 社が作ることになりました。ただ、間に合ったのは戦争のピークを過ぎてからでした[18]。切削工具でも、研削仕上げのタップは、ねじ研削盤の不足と寸法の種類の多さで生産が進みませんでした[18]。

ねじ研削盤のメーカーは急に大きくなります。Coventry Gauge & Tool の従業員は一時 6,000 人になり、ゲージ・測定器・工具のほか、ジェットエンジン(ガスタービン)の翼の根元の形を研ぐ研削盤も作りました。創業者の Harley は政府の仕事で 20 の工場を受け持っています[11][10]。1949 年の本は、戦時は訓練を受けたばかりの人や女性がねじ研削盤を扱い、ねじ研削はゲージ室の名人芸から量産の加工に変わったと書いています[19]。研削の仕事を「誰でもできる」ようにしたのは、機械の改良と、砥石をロールで押して形を付けるクラッシュ成形や多山の砥石でした。戦時の工作機械の統制の全体は第 3 章「二つの大戦と工作機械の統制」で扱います。

戦後の研削盤と業界の再編(1949〜1979 年)

ねじ研削盤の完成形

1949 年の『Thread Grinding and Measurement』は、戦後の英国のねじ研削盤を紹介しています。Peterborough の Newall の Model 836 は、モータを本体の中に置いてベッドから振動を切り離し、直径 16 インチの砥石を毎分 5,000 フィート(約 25 m/s)まで回し、切込みは 0.0002 インチ刻み、ダイヤモンドのドレッサとクラッシュ成形のロールを数分で付け替えられました。Matrix の 16G は、多山のドレッサ・多山のクラッシュ装置・1 山のドレッサを備え、ピッチの誤差を直す装置を組み込んでいました。研ぎ方も、1 山で送りながら研ぐ、2 山・多山で送りながら研ぐ、多山の砥石を突っ込んで(プランジで)一度に研ぐ、の 4 つが使い分けられています[19]。本は、砥石の目直しの装置は「英国の設計がどこにも負けない」とまで書きました[19]。

Jones & Shipman の 540 と Diaform

工具室の平面研削盤では、Leicester の Jones & Shipman の Model 540 が定番になりました。1954 年の Milan の欧州工作機械展の記事は、540 を「よく知られた油圧の平面研削盤」と呼んでいます[20]。横軸の砥石の下でテーブルを油圧で往復させる工具室の平面研削盤で、下で述べる砥石の成形装置の実演台にも使われました[22]。

平面研削盤で形の付いた部品を研ぐには、砥石に正確な形を付ける必要があります。1958 年の Olympia の工作機械展では、Toolmasters(Hillingdon、London の西)が Diaform の新形 5/1 を Jones & Shipman の 540 に付けて実演しました。型板をなぞる針の動きを 10 対 1 に縮めてダイヤモンドに伝えるパンタグラフで、砥石に精密な形を写す装置です。円筒・平面・ジグ研削盤用があり、ジグ研削盤に付けて内歯車用のシェービングダイの歯形を研ぐ実演もありました[22]。形を砥石に写して研ぐ「成形研削」を、職人の勘でなく型板で再現する道具で、のちに日本にも入ります(下の「日本とのつながり」)。

研削砥石の安全の規則

戦後の英国では、研削砥石の安全が法律の大きな問題になりました。1955 年の判決で、工場法のもとでは研削砥石を例外なくしっかり囲う義務があるとされ、砥石が使えなくなるほどの囲いまで求められかねなくなったからです。政府は 1956 年に囲いを作業に必要な分だけゆるめる規則の草案を出しましたが、労働組合が反対し、砥石の取付け・回転速度・保管・表示まで扱う規則に作り直されます。1968〜69 年の公開の調査で、労働組合は砥石を取り付ける人の訓練を規則に入れるよう求め、調査官は、取付けをする人の正式な訓練を規則の別表の科目で定めるよう勧めました。砥石の表示(砥粒・粒度・結合度・結合剤、BS 1814)を法の義務にする案は、安全とは直接関係しないとして採られていません[21]。こうしてできたのが Abrasive Wheels Regulations 1970 です[26]。日本でも労働安全衛生規則で研削といしの取替え・試運転には特別教育が要りますが、砥石の「取付けをする人」を訓練して決めるという考え方は、英国ではこの規則で法になりました。

会社の再編

1950 年代の終わりから、研削盤の老舗は大きなグループに入っていきます。1958 年、Coventry Gauge & Tool は Rockwell グループと合併しました[11]。1960 年 11 月には、BSA(Birmingham Small Arms)が Altrincham の Churchill に約 850 万ポンドの買収を申し入れます。Churchill は中形・小形の精密研削盤のメーカーで、いちばん利益の出た年は 1953〜54 年でした[23]。センタレスの Scrivener は、1963 年の業界誌の索引では Wickman と名を並べた Wickman-Scrivener の両頭研削盤として出てきます[24]。1972 年には、Matrix と Churchill の名を合わせた Matrix-Churchill が、鋼管の大手 Tube Investments(TI)の工作機械部門として研削盤と旋盤を売っていました[27]。

それでも 1970 年代の英国の工作機械産業は苦しくなります。1979 年 1 月の下院の討論では、Blaydon(北東部)の Churchill が同じような機械を納められたのに、国の自動車会社 British Leyland がドイツの会社に発注した、と議員が問題にしました[28]。産業全体の縮小は第 4 章「NC・FMS と産業の縮小、そして再生」で扱います。

★超精密と今の英国の研削盤(1993 年〜)

1980〜90 年代、英国の研削盤メーカーの多くは姿を消すか、外国の会社の一部になりました。Matrix Churchill の名は、1990 年代には別の形で知られることになります。イラクへの機械の輸出をめぐる裁判と、それを調べた Scott 報告です。1996 年 2 月の下院の討論では、湾岸戦争の後にイラクの核の施設で Matrix Churchill の旋盤 30 台が見つかったことなどが取り上げられ、工作機械が「兵器を作る機械」として輸出管理の対象になることが大きな議論になりました[31]。

一方で、得意な分野にしぼった研削盤は今も英国で作られています。Rochdale の Holroyd(1860 年創業)は、ねじ圧縮機のロータを削って研ぐ機械で 1993 年に、ねじと歯車の研削の技術で 2004 年に Queen's Award を受け、2010 年から中国の重慶機電(CQME)のグループの一員になっています[30](くわしくは次の章「英国の歯車機械の系譜」)。

超精密の研削では、Cranfield 大学が大きな仕事をしました。大学が開発した大形光学部品の研削盤 BoX は、1.5m までの部品を研げ、超大型望遠鏡の鏡の 1 枚分にあたる差し渡し 1m の六角形の鏡を研いで、誤差を補正して 1m の面の形を ±1μm に収めた結果が 2010 年に発表されています。研削で形の精度を上げ、表面の下の傷を減らせば、その後の磨きの時間を短くできる、という考え方です[32]。今、フランスの Fives は Landis と Cranfield Precision の銘柄で研削盤を作り、2026 年 5 月には英国と米国の技術を合わせた Landis の新しい研削盤 TTG 3000 を発表しました。砥石と工作物をそれぞれ別のタレットに載せ、いくつもの面を 1 回の段取りで研ぐという作りです[33][34]。英国の CNC 研削盤の始まりの年は、今回の調べでは一次資料で確かめきれませんでした。

現場で何に効くか。中古の英国製研削盤を見るときは、社名の移り変わり(Coventry Gauge → Matrix、Churchill → Matrix-Churchill、Scrivener → Wickman-Scrivener、Landis の英国の事業 → Fives)を知っておくと、部品や図面の問い合わせ先の手がかりになります。インチの機械が多いので、目盛りの単位も確かめてください。

日本とのつながり

英国の研削盤と日本をつないだのは、機械そのものより成形研削の道具でした。1965 年、黒田挾範製作所から改称した黒田精工は、英国の Diaform と提携して、砥石の形を整える装置を組み込んだ平面研削盤を出しています[25](国産アーカイブ第 3 章の年表)。金型やゲージの形を平面研削盤で研ぐ日本の工具室の仕事に、英国のパンタグラフの考え方が入ったわけです。

1972 年に東京・晴海で開かれた第 6 回日本国際工作機械見本市には、英国から Churchill の研削盤、Jones & Shipman の研削盤、Matrix-Churchill の研削盤と旋盤、Wickman の内面研削盤が出品されました。在東京英国大使館の報告は、Diaform の装置が自社の展示だけでなく、日本・イタリア・スイスの出展者の機械でも実演されていたと満足げに書き、英国が日本の工作機械の輸入に占める割合は 1972 年の 1〜9 月で 4.5%(前年は 3.7%)だったとしています[27]。報告によると、日本は前年の 1971 年に金属切削工作機械の生産で世界 3 位になっていました。研削盤の分野では、日本は米国の機械を手本に始まり(アメリカの研削盤の章)、1970 年代には CBN 砥石の量産研削で先を行くようになります(国産アーカイブ第 3 章「CBN・高速研削」)。

⑂メーカーの系図

英国の研削盤の主なメーカーの、社名の移り変わりです。帯の色が変わるところで社名や持ち主が変わります。点線の先は、今回の調べで確かめきれなかった部分です(Churchill と Coventry Gauge が Tube Investments に入った年、Jones & Shipman の今の持ち主など)。Jones & Shipman は同社の言う創業の 1898 年から、Lumsden は業界誌で確かめた最初の年から描いています。

18501890193019702010Churchill Machine Tool Co.(Manchester → Altrincham、のち Blaydon)Coventry Gauge & Tool Co.(Matrix)Rockwell グループと合併Matrix-Churchill(TI の工作機械部門 → Matrix Churchill)A. A. Jones & Shipman(Leicester)Arthur Scrivener Ltd.(Birmingham)Wickman-ScrivenerLumsden Machine Co.(Gateshead)John Holroyd(Manchester → Rochdale)PTG Holroyd(CQME の一員)Fives(Landis・Cranfield Precision)帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。点線はその先が未確認。
出典:各社の沿革と社史 [6][23][28][10][11][27][31][5][38][8][20][15][24][17][30][39][34][33]

見に行ける所

英国の研削の歴史は、工作機械より先に刃物の研ぎ場から始まります。公開日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

Shepherd Wheel WorkshopSheffield(England)Porter Brook の流れで回る水車の研ぎ場。1500 年代にさかのぼり、ペンナイフ・肉切り包丁などの刃物を研いだ。ほかの研ぎ場が電動になった後も 1930 年代まで水力で動いた、市内でいちばん古い完全な例。週末に公開(時間は案内で確かめてください)[35][36]
Abbeydale Industrial HamletSheffield(England)1700 年代にさかのぼる大鎌(scythe)の工場の村。川の堰からの水車が、つちと送風機、砥石と中ぐりの機械を回した。研ぎ場(grinding hull)と英国で最後の完全なるつぼ製鋼炉が残る。開館日は案内で確かめてください[37]
Science Museum(科学博物館)London(England)工作機械の収蔵品に、William Muir の二重砥石の模型(1858 年)、David Fisher の合成エメリー砥石の見本(1866 年)、Holtzapffel の工具研ぎの器具、Brown & Sharpe と Landis の初期の研削盤がある(1966 年の目録による。今展示されているかは行く前に確かめてください)[4]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「コマ」はスキャンの通し番号(Internet Archive の本と雑誌、国立国会図書館の資料)です。

砂岩とエメリーメーカーの誕生自動車と戦争戦後と再編超精密・CNC18201840186018801900192019401960198020002020183818571906191519321942194919702010黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

砂岩とエメリー:研ぎ場と平面の基準1823〜1867 年

年出来事メーカー・機種出典
1823〜24年研ぎ場の粉じんを防ぐ工夫が始まる。1823 年に Abraham が砥石のまわりに布の幕と磁石を置く集じんを考え、1824 年までに集じん装置の付いた Sheffield の研削機が使えるようになった。ただし多くの研ぎ場では、職人は顔に布を巻くだけだった—[1・コマ18]
1825年インドから天然のコランダム(ほぼ純粋なアルミナ)の見本が英国に入り、エメリーよりよく削れることが分かる。インドでは樹脂で固めた砥石として宝石を研いでいた—[1・コマ42][1・コマ43]
1837年1837 年までに、英国でエメリーを固めた一体の砥石が作られるようになる(1838 年の技術誌の報告による)。フランスでは 1848 年、ドイツでは 1850 年までに市販された—[1・コマ43]
1838年★スコットランドの James Whitelaw が、ベルト車(プーリ)の外周を研ぐ鉄製の円筒研削盤を作り、のちに Royal Scottish Society of Arts に報告する。直径 42 インチの砥石と工作物を逆向きに回し、10 時間に直径 18 インチのプーリを 15 個仕上げた。硬い鋳物は旋盤では削れないが研削盤なら問題ない、と利点を述べているJames Whitelawプーリ研削盤[1・コマ25]
1839年J. G. Bodmer の特許 8070 号。焼入れした鉄の円筒や平面を、直径 31 インチの銅の円板(エメリーを付けて使う)で研いだ。のちに立軸の研削機で旋盤のベッドの案内面も研いでいるJ. G. Bodmer[1・コマ26]
1840年★Joseph Whitworth が Glasgow の British Association で「Plane Metallic Surfaces, or True Planes」を発表する。それまでの定盤や案内面は、やすりで仕上げた後にエメリーでこすり合わせて「研いで」いたが、すり合わせでは誤差が相手に移り、粉が縁にたまって縁が下がると指摘し、3 枚の定盤を順に当てて高い所だけをきさげで削る方法を示したJoseph Whitworth[2・コマ19][2・コマ25][2・コマ27]
1840年12月Liverpool and Manchester 鉄道の機関車の責任者が Whitworth に手紙を書く。エメリーですり合わせた滑り弁は 5 か月で深さ 1/8 インチの溝が付いて面がへこんだが、きさげで仕上げた弁は狂いがなかった、という比べた結果で、Whitworth はこれを論文の注に載せた—[2・コマ31]
1842年4月Henry Barclay が、砥粒を焼き固める(ビトリファイドの)砥石の英国特許 9337 号を取る。焼き固める結合剤の始まりとされるHenry Barclay[1・コマ43]
1843年★Sheffield の医師 G. Calvert Holland が、刃物の研ぎ師の肺の病気を調べた本を出す。昔の研ぎ場は郊外の川の水車小屋にあったが、蒸気機関で町の中の狭い建物に移り、速い乾式の研ぎが広まって粉じんを吸うようになったと書く。フォークを研ぐ職人の多くは 30 歳になる前に亡くなっていた—[3・コマ18][3・コマ19][3・コマ82]
1843年Holland の本は、砥石ごとの吸い込み口を床下の溝で集め、砥石と同じ軸からベルトで回す送風機で粉を外へ吐き出す集じんの方法を紹介し、費用は職人 1 人あたり 1 ポンドほどだと書く—[3・コマ69][3・コマ70]
1853年William Muir が、2 つの砥石を同じ水槽で触れ合わせ、違う速さで回してお互いをこすり合い、平らに保つ二重砥石の特許を取る。溝ができないよう片方を横に動かした。1858 年の模型が科学博物館にあるWilliam Muir[4・コマ88]
1853年6月Manchester の Hiram Barker と Francis Holt が、機関車のポンプの弁に使う焼入れ鋼球を研ぐ機械の英国特許 1502 号を取る。2 枚の鉄板の溝の間で、エメリーと水を使って球を転がしながら研ぐ方式で、のちの玉軸受の鋼球の研削につながるHiram Barker・Francis Holt[1・コマ28]
1856年David Fisher が、工具を研ぐための合成のエメリー砥石の特許を取る。1866 年の砥石とやすり形の棒の見本が科学博物館に残るDavid Fisher[4・コマ88]
1857年★Whitworth が Manchester の機械学会(IMechE)で「Standard Decimal Measures of Length」を発表する。穴の径 0.5770 インチの内側ゲージに、0.5769 インチと 0.5770 インチの円筒ゲージを見せ、1 万分の 1 インチの差で入り方が違うことを示した。ゲージは表面を焼入れした後に研削で仕上げ、工場では 2 万分の 1 インチまで測っていたJoseph Whitworth[2・コマ79][2・コマ84]
1857年3月Deplanque が加硫ゴムでエメリーを固める砥石の英国特許を取る。1862 年には London の Warne & Co. が作っていた。ゴムの結合剤は、のちのセンタレス研削の調整車に受け継がれるDeplanque[1・コマ43]
1859年6月★Frederick Ransome が、エメリーなどの粒をけい酸カリ・けい酸ソーダで固めて焼く砥石の英国特許 2929 号を取る。けい酸塩の結合剤の最初とされるFrederick Ransome[1・コマ43]
1867年技術者の Donkin がけい酸塩の砥石の削る力を試し、Newcastle の上等な天然砥石の 50 倍以上だったと報告するDonkin[1・コマ43]

研削盤メーカーの誕生と Guest の本1887〜1915 年

年出来事メーカー・機種出典
1887年Manchester の機関車メーカー Beyer, Peacock が、機関車の弁装置のリンクを研ぐ立軸の研削盤を出す。英国では 1887 年には鉄道の部品の専用研削盤が使われていたBeyer, Peacock & Co.[1・コマ62]
1898年Leicester の Jones & Shipman は、1898 年に事業を始め、1910 年から研削盤を作ってきたとしている1959 年の米国の業界誌に載った同社の紹介による。Grace's Guide も 1898 年に Frederick Pollard と Frank Shipman が開業し、1905 年に A. A. Jones が加わったとする(手がかり)A. A. Jones & Shipman(Leicester)[5]
1906年★Manchester で Churchill Machine Tool Company が創業する。はじめはいろいろな工作機械を作ったが、まもなく研削盤に絞った。当時の英国の工場では研削盤は「硬い物を削るための仕方のない道具」と見られていたRolt(1965)も、1906 年に Charles Churchill が Manchester で創業し、同じ年に重い量産用の研削盤の系列の 1 号機を作ったと書くChurchill Machine Tool Co.[6・コマ20][7]
1910年Gateshead の Lumsden Machine Co. が研削盤だけを作る会社になり、首を振る形の工具研削盤(oscillating tool grinder)を出す。第一次大戦の間は工具研削盤の開発に力を入れたLumsden Machine Co.[8・コマ14]
1912年Churchill が、Norton の砥石(直径 26×幅 3 インチ)を付けた 6×84 インチのモータ内蔵の単能研削盤と、20×60 インチの大きな万能研削盤を作る(米国の業界誌の欧州版の記事の要約)Churchill Machine Tool Co.6×84 インチ単能研削盤・20×60 インチ万能研削盤[9・コマ67]
1912〜13年Churchill が、平削りした後の鋳鉄の板(長さ 7 フィート×幅 6 フィートまで)を仕上げる精密平面研削盤を作る。重さ 45,000 ポンド(約 20 トン)で、当時「これまでで最大の精密平面研削盤」と紹介されたChurchill Machine Tool Co.[9・コマ91]
1913年Alfred Herbert で見習いから働いた Harry Harley が、Coventry で Coventry Gauge and Tool Company を創業する。ゲージと工具の会社で、のちに Matrix の名でねじ研削盤を作るCoventry Gauge & Tool Co.[10・コマ16][11・コマ153]
1913年6月Manchester の Pendleton の Churchill が新しい立軸の平面研削盤を出す。同じ年には直径 30 インチと 40 インチのピストンリング・平面研削盤も出したChurchill Machine Tool Co.立軸平面研削盤[9・コマ125]
1915年★James J. Guest が『Grinding Machinery』を London で出す。研削盤を自分でも設計した Guest は、砥石と工作物の速さ・切込みの関係、主軸の軸受、研削液、費用を数式で整理し、研削盤の工学的な分析の始まりとされる。図は Churchill と米 Landis が特に描いて提供したJames J. Guest[12・コマ6][12・コマ9][12・コマ172][1・コマ93]

自動車・ねじ研削・センタレス1918〜1932 年

年出来事メーカー・機種出典
第一次大戦の終わり★Coventry Gauge & Tool が最初の Matrix ねじ研削盤を出す。はじめは山が 1 つの砥石で研いだが、のちに息子の Stanley Harley が特許を取った多山のダイヤモンドドレッサを組み込み、何山も同時に研げるようになったCoventry Gauge & Tool Co.Matrix ねじ研削盤[11・コマ153]
1919年Churchill が Manchester 近郊の Broadheath(Altrincham)に新しい工場を建てる。それまでの Pendleton の工場は、この年の 10 月に電機メーカーへ売られることになったGrace's Guide は、1918 年に Broadheath の土地を買い、1920 年までに生産を移し終えたとするChurchill Machine Tool Co.[13][14]
1924年9月London の Olympia の工作機械展(Machine Tool Trades Association 主催)に Churchill の研削盤 4 台が出る。自動車の焼入れしたスプライン軸を、成形砥石でなく 2 枚の砥石の外周で 1 面ずつ研ぐ研削盤、6×18 インチの重研削の単能研削盤、段取りとゲージの時間を減らす内面研削盤で、砥石軸は砥石側に調整できる滑り軸受、プーリ側に転がり軸受を使う新しい標準の作りだったChurchill Machine Tool Co.スプライン軸研削盤・内面研削盤[8][8・コマ1]
1924年9月Leicester の A. A. Jones & Shipman も同じ展示会に内面研削盤と万能研削盤を出す。砥石は高速のカウンタシャフトからベルトで回し、ポンプで研削液を掛ける作りだったA. A. Jones & Shipman[8・コマ8]
1924年9月同じ展示会で Lumsden が、セグメント砥石が自分の軸で回りながら、さらに円を描いて動く「遊星ヘッド」の平面研削盤を出し、平面研削の新しい原理だとうたう。直径 30 インチの砥石の横軸平面研削盤も出し、機関車・繊維機械・電機の部品の平面を研いでいたLumsden Machine Co.遊星ヘッド平面研削盤[8・コマ14][8・コマ15]
1925年英国の自動車工業での研削の利用は米国より少し遅れたが、1925 年には Vauxhall で全面的に使われていたVauxhall[1・コマ66]
1932年★Arthur Scrivener が Birmingham の Tyburn Road に自分の工場と会社を作り、センタレス研削盤を作り始める。最初の機械がうまくいき、センタレス研削盤に絞った。最初の特許(1933 年)は軸受についてで、生涯にセンタレス研削盤などの特許を 40 件以上取ったArthur Scrivener Ltd.[15・コマ6]
1932年11月業界誌 The Engineer の連載「Precision Grinding Machines」が Churchill のセンタレス研削盤を紹介する。調整車のほうを研削砥石に向けて送る方式で、研削砥石は直径 20 インチ、調整車は 12 インチ、15〜25 馬力。びびりの原因(中心高が高すぎる、砥石が硬すぎる、ブレードが薄いなど)も Churchill の説明として載るChurchill Machine Tool Co.センタレス研削盤[16・コマ4]
1932年11月Gateshead の Lumsden Machine Co. の立軸の平面研削盤が同じ連載に載る。平削り盤に似た往復テーブルに、セグメント砥石を 25 馬力のモータで回し、油圧で送る作りで、テーブルの往復と砥石頭の横送りを組み合わせて額縁形の面も研げたLumsden Machine Co.立軸平面研削盤[17・コマ6]

第二次世界大戦と研削盤1930 年代〜1945 年

年出来事メーカー・機種出典
1930年代政府の補給委員会のゲージの小委員会(1930 年から検討)が、ゲージを作るためのジグ中ぐり盤・割出し台・ねじ研削盤が足りないと指摘し、英国内で作る手立てが取られる—[18・コマ391]
1940年代信管と 20mm 砲弾の生産で、いちばん手に入りにくかった機械は自動盤・半自動旋盤とセンタレス研削盤で、大部分を米国から買うしかなかった—[18・コマ329]
1940年代半ば〜切削工具が足りなくなり、とくに研削仕上げのタップは、ねじ研削盤の不足と寸法の種類の多さで生産が進まなかった—[18・コマ386]
1942年★1942 年の英国の研削盤の生産は 11,903 台。米国からの研削盤の輸入は、いちばん多い年で約 11,000 台にのぼり、英国の生産の 92% にあたった—[18・コマ351]
1942年12月工作機械の統制官が、英国でそれまで作っていなかった米国型の機械の代わりを作る計画を報告する。多くの機種は 1 社だけが受け持ったが、自動盤と平面研削盤は 5 社が作ることになった—[18・コマ364]
第二次大戦中Coventry Gauge & Tool の従業員は一時 6,000 人に増え、ゲージ・測定器・工具のほか、ガスタービンの翼の根元を研ぐ研削盤も作った。創業者の Harley は政府の仕事で 20 の工場を受け持ったCoventry Gauge & Tool Co.[11・コマ153][10・コマ16]
1944年9月Birmingham の A. Scrivener がセンタレス研削の米国特許を出願する(米国特許 2,427,024、1947 年 9 月成立)。米国の Landis Machine Company(Waynesboro)が進めた、焼入れした止めねじを 1 回で研ぐセンタレスのねじ研削は、この特許から始まったArthur Scrivener Ltd.[1・コマ85]
1939〜45年戦時の工作機械の増産計画のうち、研削盤は 28 件・295,481 ポンドで、自動盤・フライス盤・タレット旋盤に次ぐ規模だった—[18・コマ363]

戦後の研削盤と業界の再編1949〜1979 年

年出来事メーカー・機種出典
1949年★Parkinson と Dawney の『Thread Grinding and Measurement』が出る。ねじ研削はゲージだけの特別な加工から量産の加工になり、戦時は訓練を受けたばかりの人や女性もねじ研削盤を扱ったと書く。Newall(Peterborough)の Model 836 と Matrix の 16G を紹介し、多山の砥石とロールで砥石を押し成形するクラッシュ成形を説明している—[19・コマ7][19・コマ13][19・コマ15][19・コマ17]
1950年Jones & Shipman が、米国 Detroit の Micromatic Hone のホーニング盤を米国の外で作って売り始める。1959 年には逆に、Micromatic が Jones & Shipman の工具室用の研削盤を米国・カナダで扱うことになったJones & Shipman・Micromatic Hone[5]
1954年9月★Milan の欧州工作機械展で、Jones & Shipman が「よく知られた」油圧の平面研削盤 Model 540 に加えて、量産に入ったばかりの半万能研削盤 Model 1300 を出す。540 はこの時すでに定番の機械だったJones & Shipman540・1300[20・コマ8]
1956年1955 年の判決(John Summers and Sons 対 Frost)で、工場法のもとでは研削砥石を例外なくしっかり囲う義務があるとされ、砥石が使えなくなるほどの囲いが求められかねなくなった。そこで政府は 1956 年に、作業に必要な分だけ囲いをゆるめる「Fencing of Abrasive Wheels Special Regulations」の草案を出す。労働組合の反対で、砥石の取付け・回転速度・保管・表示まで扱う規則に作り直され、1963 年に予備草案が出た—[21・コマ1]
1958年5月Olympia の工作機械展で、Toolmasters が砥石の形を整える装置 Diaform の新形 5/1 を Jones & Shipman の 540 に付けて実演する。10 対 1 のパンタグラフで型板の形をダイヤモンドに写し、砥石に精密な形を付ける装置で、円筒・平面・ジグ研削盤用があったToolmasters(Diaform)Diaform 5/1[22・コマ17]
1958年10月Coventry Gauge & Tool が Rockwell グループと合併する。当時の Coventry の工場は約 1,800 人で、工作機械・ブローチ・測定器・ゲージを作っていたCoventry Gauge & Tool Co.[11・コマ153]
1960年11月BSA(Birmingham Small Arms)が、Altrincham の Churchill Machine Tool に約 850 万ポンドの買収を申し入れる。Churchill は中形・小形の精密研削盤のメーカーで、いちばん利益の出た年は 1953〜54 年だったChurchill Machine Tool Co.[23・コマ12]
1963年業界誌 Machinery の索引に Wickman-Scrivener の 36 DPG・18/20 の両頭(duplex)研削盤など、Wickman と Scrivener の名を並べた研削盤が載る(2 社の関係の始まりの年は確かめられなかった)Wickman-Scrivener36 DPG[24・コマ9]
1965年6月日本の黒田精工が英国の Diaform(ダイヤフォーム)と提携し、砥石の形を整える装置を組み込んだ平面研削盤を出す黒田精工[25・コマ59][25・コマ76][25・コマ90]
1970年★研削砥石の安全の規則 Abrasive Wheels Regulations 1970 ができる。もとになった 1968〜69 年の公開の調査では、労働組合(TUC)が砥石を取り付ける人の訓練を規則に入れるよう求め、調査官は取付けをする人の正式な訓練を規則の別表の科目で定めるよう勧めた。砥石の表示(砥粒・粒度・結合度・結合剤、BS 1814)を法の義務にする案は、安全とは直接関係しないとして採られなかった—[26][21][21・コマ2]
1972年東京・晴海の第 6 回日本国際工作機械見本市に、英国から Churchill の研削盤、Jones & Shipman の研削盤、Tube Investments の工作機械部門 Matrix-Churchill の研削盤と旋盤、Wickman の内面研削盤が出る。Diaform の装置は日本・イタリア・スイスの出展者の機械でも実演された—[27・コマ16]
1979年1月英国下院の工作機械産業の討論で、Blaydon の Churchill が同じような機械を納められたのに、British Leyland がドイツの会社に発注したと議員が取り上げる—[28]
1980年10月Financial Times が Jones & Shipman を取材する。売上の約 8 割が研削盤で、残りはホーニング盤と小物の工具。Leicester と Derbyshire の工場で約 1,500 人が働き、機械の平均の値段は 1 万ポンドほどだった。1979 年の英国の研削盤は、輸入 3,750 万ポンドに対し輸出 2,500 万ポンドだったJones & Shipman[29]

超精密と今の英国の研削盤1993 年〜

年出来事メーカー・機種出典
1993年Rochdale の Holroyd が、ねじ圧縮機のロータを削り・研ぐ機械で Queen's Award(技術の功績)を受けるHolroyd[30]
1996年2月下院で、イラクへの輸出をめぐる Scott 報告の討論がある。湾岸戦争の後、イラクの核の施設で Matrix Churchill の旋盤 30 台が見つかったことなどが取り上げられ、英国の工作機械の輸出管理が大きな問題になった—[31]
2004年Holroyd が、ねじと歯車の研削の技術の革新で Queen's Award を受けるHolroyd[30]
2010年★Cranfield 大学が開発した超精密の大形光学部品の研削盤 BoX で、超大型望遠鏡の鏡の 1 枚分(差し渡し 1m の六角形)を研いだ結果が発表される。1.5m までの部品を研げ、誤差を補正して 1m の面の形を ±1μm に収めたCranfield UniversityBoX[32]
2010年Holroyd を含む Precision Technologies Group が、中国の重慶機電(CQME)の一員になるPTG(Holroyd)[30]
2026年5月フランスの Fives が、英国と米国の研削の技術を合わせて開発した Landis TTG 3000 を発表する。砥石と工作物をそれぞれ別のタレットに載せ、いくつもの面を 1 回の段取りで研ぐ新しい形の研削盤とする。Fives は Landis のほか Cranfield Precision の銘柄で超精密の研削盤も持つFives LandisTTG 3000[33][34]

よくある質問

Whitworth は研削に反対したのですか?
反対したのは、定盤や案内面のような「平面の基準」をエメリーでこすり合わせて作るやり方です。1840 年の論文で、こすり合わせでは誤差が相手に移るだけで、縁がだれ、エメリーの粒が肌に残ると指摘し、3 枚の定盤を当てて高い所をきさげで削る方法を勧めました。一方で、焼入れした円筒ゲージは研削で仕上げて 1 万分の 1 インチの差を示しています。平面はきさげ、硬い寸法の基準は研削、という使い分けです。
英国の代表的な研削盤メーカーはどこですか?
円筒・内面・平面・センタレスの Churchill(1906 年、Manchester)、ねじ研削盤の Matrix(Coventry Gauge & Tool、1913 年創業)、工具室の平面研削盤 540 の Jones & Shipman(Leicester)、平面研削盤の Lumsden(Gateshead)、センタレス研削盤の Scrivener(1932 年、Birmingham)、ねじ研削盤の Newall(Peterborough)、ロータ・ねじ・歯車研削の Holroyd(Rochdale)などです。多くは 1950〜80 年代に大きなグループに入り、名前が変わりました。
第二次世界大戦で英国の研削盤は足りていましたか?
足りませんでした。英国政府の公式戦史によると、1942 年の英国の研削盤の生産 11,903 台に対し、米国からの研削盤の輸入は多い年で約 11,000 台と、国内の生産の 92% にあたりました。とくにセンタレス研削盤とねじ研削盤が不足し、平面研削盤は米国型の代わりを 5 社で作る計画が立てられました。
Abrasive Wheels Regulations 1970 とは何ですか?
英国の研削砥石の安全の規則です。砥石の囲い・回転速度・取付け・保管などを定め、もとになった公開の調査では、砥石を取り付ける人の正式な訓練を規則で定めるよう勧められました。日本の研削といしの取替え・試運転の特別教育と同じく、「砥石を付ける人を訓練する」ことを重く見た決まりです。

この先と関係するページ

出典

本と業界誌(The Engineer・Engineering・英国版 Machinery・Steel Times・英国商務省の週報 Trade and Industry)と英国政府の戦史・規則の報告は Internet Archive のスキャンで、議会の議事録は Hansard で、博物館とメーカーの解説は各ページを 2026 年 10 月に確かめました。番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号)で、Woodbury の本は 1 コマに見開き 2 ページです。国立国会図書館の資料もコマ番号です。英国の 19 世紀の特許の番号と日付は、Woodbury の注と科学博物館の目録で確かめました。「最初の」と書いたものは、出典がそう書いているもので、何の最初か(特許・製品)を本文で書き分けています。商社・輸入代理店の社名は出していません。

  1. Robert S. Woodbury『History of the Grinding Machine: A Historical Study in Tools and Precision Production』MIT Technology Press(1959)コマ 18・25・26・28・42・43・62・66・85・93
  2. Joseph Whitworth『Miscellaneous Papers on Mechanical Subjects』Longman ほか, London(1868。1840 年の「Plane Metallic Surfaces, or True Planes」と 1857 年の「Standard Decimal Measures of Length」を収める)コマ 19・25・27・31・79・84
  3. G. Calvert Holland『The Diseases of the Lungs from Mechanical Causes; and Inquiries into the Condition of the Artisans Exposed to the Inhalation of Dust』London(1843)コマ 18・19・69・70・82
  4. K. R. Gilbert『The Machine Tool Collection: Catalogue of Exhibits with Historical Introduction』Science Museum, HMSO, London(1966)コマ 88
  5. Machinery(New York)第 66 巻 1 号(1959 年 9 月)Jones & Shipman の研削盤の紹介と業界ニュース
  6. 「Grinder Story: Growth of Churchill's」Engineering 第 183 巻(1957 年 3 月 8 日)p.309(社史『The Story of the Churchill Machine Tool Company』の紹介)コマ 20
  7. L. T. C. Rolt『Tools for the Job: A Short History of Machine Tools』Batsford(1965)
  8. 「British Machine Tools at the Olympia Exhibition」The Engineer 第 138 巻 Machine Tool Supplement(1924 年 9 月 12 日)コマ 1・8・14・15
  9. Norton Company『Grits and Grinds』第 4〜5 巻(1912〜1913。業界誌の研削の記事の要約欄に American Machinist 欧州版などの Churchill の記事が載る)コマ 67・91・125
  10. 「Obituary: Sir Harry Harley, C.B.E.」The Engineer 第 191 巻(1951 年 1 月 26 日)pp.129–130コマ 16
  11. 「Coventry Gauge–Rockwell Merger」Machinery(London)第 93 巻(1958 年 10 月 15 日)コマ 153
  12. James J. Guest『Grinding Machinery』Edward Arnold, London(1915)コマ 6・9・172
  13. American Machinist 第 51 巻 10 号(1919 年 9 月 4 日)英国の工作機械メーカーの拡張の記事
  14. The Electrical Review 第 85 巻 2184 号(1919 年 10 月 3 日)Ward & Goldstone の目論見書の記事
  15. 「Mr. Arthur Scrivener, M.C.: The Development of Centreless Grinders」(訃報)Engineering 第 178 巻(1954 年 12 月 31 日)p.846コマ 6
  16. 「Precision Grinding Machines. No. VII: Centreless Grinding Machines (continued)」The Engineer 第 154 巻(1932 年 11 月 4 日)pp.448–449コマ 4
  17. 「Precision Grinding Machines. No. IX: Surface Grinding」The Engineer 第 154 巻(1932 年 11 月 18 日)p.503コマ 6
  18. William Hornby『Factories and Plant』History of the Second World War, United Kingdom Civil Series, HMSO, London(1958。英国政府の公式戦史)コマ 329・351・363・364・386・391
  19. A. C. Parkinson・W. H. Dawney『Thread Grinding and Measurement』Sir Isaac Pitman & Sons, London(1949)コマ 7・13・15・17
  20. 「The European Machine Tool Exhibition at Milan: (1) Some British Exhibits」Engineering 第 178 巻(1954 年 9 月 17 日)pp.359–360コマ 8
  21. Department of Employment and Productivity『Draft Abrasive Wheels Regulations: Report of the Inquiry』HMSO(1970)コマ 1・2
  22. Machine Tool Exhibition(Olympia, 1958)の出品の紹介(Toolmasters の Diaform ほか)Machinery(London)第 92 巻(1958 年 5 月 9 日)コマ 17
  23. 「BSA's £8,500,000 Bid for Churchill Machine Tool Company」Steel and Coal(Steel Times)第 181 巻(1960 年 12 月 2 日)p.1211コマ 12
  24. Machinery(London)第 102〜103 巻 索引(1963)コマ 9
  25. 『黒田精工:省力化にいどむ精密機器メーカー』(1970)コマ 59・76・90
  26. The Abrasive Wheels Regulations 1970(S.I. 1970/535)legislation.gov.uk
  27. 「Lively buying interest at Tokyo Machine Tool Fair」Trade and Industry 第 9 巻 11 号(英国商務省の週報、1972 年 12 月 14 日)p.516コマ 16
  28. Hansard(下院)「Machine Tool Industry」1979 年 1 月 16 日 vol.960 cc1671–82
  29. Financial Times 1980 年 10 月 1 日「Sharp approach to avoid grinding to a halt」(Hazel Duffy、Jones and Shipman の取材)
  30. Precision Technologies Group(PTG Holroyd)「History」
  31. Hansard(下院)「Scott Report」1996 年 2 月 26 日 vol.272 cc589–694
  32. X. Tonnellier・P. Morantz・P. Shore・P. Comley「Precision grinding for rapid fabrication of segments for extremely large telescopes using the Cranfield BoX」Proc. SPIE 7739, 773905(2010)
  33. Fives「Fives Landis unveils the TTG 3000, a new platform for high-precision grinding」(2026 年 5 月)
  34. Fives「Grinding | Ultra Precision」(Landis・Bryant・Cincinnati・Cranfield Precision ほかの研削盤の銘柄)
  35. Sheffield Museums「Spotlight: Shepherd Wheel Workshop」
  36. Sheffield Museums「Shepherd Wheel Workshop」(見学の案内)
  37. Sheffield Museums「Abbeydale Industrial Hamlet」(見学の案内)
  38. The Engineer 第 118 巻 索引(1914。A. A. Jones and Shipman の立てボール盤・砲弾のねじ切りの記事)
  39. UNOVA, Inc. Form 8-K(2005 年 12 月 12 日。12 月 9 日に Landis の売却を完了)