UK 04NC・FMS と産業の縮小、そして再生

第二次世界大戦の後、英国は工作機械の新しい技術で何度も世界の先頭に立ちました。磁気テープで動く Ferranti の NC、光学格子で位置を数える測定、世界で早い座標測定機、FMS(フレキシブル生産システム)の先がけとされる Molins の System 24、そして工作機械や測定機に付ける Renishaw のタッチプローブです。ところが、工作機械を作る産業そのものは縮み続け、1980 年には最大手の Alfred Herbert が清算に入ります。この章では、技術では先を行き、産業では後退した英国の戦後を、当時の技術誌・議会の議事録(Hansard)・特許・NC の歴史の博士論文(Hamilton 1997)で1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。今の英国が「測ること」と研究拠点でどう生きているかまで追います。

作るのは
苦手でも
測るのは得意!

マスコットのチップス

この章は「時代の章」です。機械ごとの仕組みの移り変わりは機種の章にまとめています。Ferranti の NC フライス盤と Molins・Kearney & Trecker Marwin は第 6 章「英国のフライス盤・マシニングセンタの系譜」、NC 旋盤は第 5 章、Holroyd のロータ研削は第 8 章、三次元測定機とプローブは第 9 章でも扱います。同じ時代の米国はアメリカ第 4 章「NC の誕生とマシニングセンタ」、ドイツはドイツ第 4 章「NC・メカトロニクスとインダストリー 4.0」にあります。

戦後と NC の始まり(1945〜1959 年)

戦後の好況

戦後の英国の工作機械工業は、まず在来の機械でよく売れました。総生産額は 1948 年の 7,210 万ポンドから 1957 年の 1 億 8,340 万ポンドに、働く人は 7 万 9,000 人から 10 万 3,600 人に増えます[1]。1956 年には、メーカーの受注残が今の生産の速さで 15 か月分に達していました[1]。同じ 1956 年は輸入が輸出を上回り、労働組合は英国が工作機械の輸入国になったと訴えましたが、商務省は需要が特に大きい年の例外だと反論しています[1]。需要が大きいときに輸入が膨らむという、第 3 章で見た形はここでも続いていました。

Ferranti:磁気テープで動く NC

英国で NC の研究を最も深く進めたのは、電機と防衛の会社 Ferranti(フェランティ)でした。部門の長 J. N. Toothill(トゥースヒル)と技術開発の長 D. T. N. Williamson(ウィリアムソン)は 1950 年代はじめに米国へ渡り、MIT の NC の研究を見てきます。帰国後、Edinburgh(エディンバラ)の Crewe Toll 研究所で NC の研究が始まりました。Hamilton の博士論文は開始を 1952 年 7 月とし、Williamson 自身は 1958 年の記事で 1951 年に少量の部品の作り方の研究から始まったと書いています[1][2]。きっかけは、レーダーの導波管のような精密な部品を少しずつたくさん作る必要があったのに、熟練の機械工が足りなかったことでした[1][2]。

1955 年にできた試作機は、Du Four 社の 3 軸のフライス盤を磁気テープで動かすものでした。設計者が部品の図に円の中心や線の端など大事な寸法を書き込み、それを紙テープに打って計算機に入れると、計算機が工具の通り道を細かく計算し、軸ごとのパルスの列として磁気テープに書き出します。テープの 1 つのパルスで、工具は 1 万分の 1 インチ動きました[1]。Williamson は、NC のいちばん難しいところは制御ではなくデータの扱いだと考えました。そこで計算は中央の計算機サービスが受け持ち、工場に置く制御装置はサーボだけにして安く、古くなりにくくする、という分け方をとります。2 次の曲線は近似なしに作れるとも書いています[2]。1 台の計算機でおよそ 50 台の工作機械のテープを作れると見積もられ、Ferranti は London・Manchester・Edinburgh に計算センターを持っていました[1]。

光学格子とモアレ縞:位置を数える

Ferranti の NC を支えたもう 1 つの技術が、位置の測り方です。細かい目盛りを刻んだ光学格子 2 枚を少し傾けて重ねると、縞模様(モアレ縞)が現れ、格子をずらすと縞が動きます。この縞の数を光電素子で数えれば、動いた量を一定の刻みで数字にできます。Ferranti は 1955 年にこの方法の特許を出しました。格子は国立物理学研究所(NPL)の研究から生まれた 1 インチ 5,000 本のもので、1 インチを 1 万の刻みで数えることができました[1]。送りねじの精度ではなく、格子で直接位置を測るので、駆動の方式を自由に選べるのも強みでした[5]。今のリニアスケールにつながる考え方です。

1956 年の Olympia と、ほかの 3 つの試み

1956 年 6〜7 月、London の Olympia で開かれた国際工作機械見本市で、Ferranti の NC の最初の製品が公開されます。これを見た航空機の Fairey Aviation が共同開発を申し出ました[1]。1950 年代半ばの英国では、ほかに 3 つの試みがありました。EMI は制御装置の中に補間の回路を持つ方式で、Cincinnati と組んで 3 軸のフライス盤を動かします。British Thomson-Houston(BTH)はパンチカードで穴の位置を指令する位置決めの NC を Kearns の横中ぐり盤に付け、手で合わせる場合の約半分の時間で加工しました。そして英国最大の工作機械メーカー Alfred Herbert は、熟練工の操作を磁気テープに録音して再生する古い方式を研究し、製品にはしませんでした[1]。NC を先に進めたのは電機の会社で、工作機械の老舗ではなかったことが、のちの英国の工作機械工業の行方を暗示しています。

Ferranti は費用への批判に応え、1959 年に位置決めだけの安い装置と、3 軸の連続制御の Mark IV を出します。Fairey との共同を通じて油圧のサーボとトランジスタの回路に改め、普通の電源で動くようにしました[1]。同じ 1959 年、科学産業研究庁(DSIR)の調べは、NC では英国がまだ先を行っており、それを生かすべきだと報告しています[1]。

座標測定機の始まり

NC で加工が速くなると、こんどは検査が追いつかなくなります。Williamson は 1958 年の記事で、検査が加工の 100 倍も時間がかかることがあると書き、決めた点に探針を動かして位置の誤差を記録する機械が要ると論じました[2]。1959 年 12 月、Ferranti は座標で部品を測る測定機(Inspection Machine)を発表します。NC と同じ光学格子と電子の計数回路で、作業者が動かす探針の位置を 1,000 分の 1 インチまで数字で示し、測れる範囲は 24×15 インチ。ダイヤルゲージと定盤で測るより大きく時間を減らせ、同じ型の機械は世界にないとされました[4]。翌 1960 年には米国の Bendix が、Ferranti の NC と測定機を米国で売り始めます[5]。今の三次元測定機(CMM)の早い例です。

NC の広がりと System 24・タッチプローブ(1960〜1973 年)

期待ほど売れなかった NC

1950 年代の「オートメーション」ブームの中で、NC はすぐに広がると予想されていました。ところが 1964 年に業界誌が調べると、英国で納められた NC 工作機械は 1962 年末までに 232 台、注文中を含めても 547 台で、10 年前の予想の 10 分の 1 ほどでした。しかも 7 割以上は穴の位置決め用で、曲線を削る連続制御は 100 台余りにすぎません[1]。生産技術研究協会(PERA)が 1963 年に 17 か所の使い手を調べると、NC で加工の時間と費用は 4〜6 割減っていました。それでも、買ったのは航空機のエンジンのような高い技術の工場や、大きな近代化をしている工場が中心でした[1]。

Hamilton は、英国の早い NC が伸び悩んだ理由を、電機の会社の売り方のまずさと、それ以上に在来の工作機械メーカーの保守的な姿勢に求めています[1]。それでも 1964 年の Olympia の見本市には 20 を超える NC が並び、Wadkin・Alfred Herbert・BSA Tools・Staveley-Richards・Archdale・Kearns など英国の工作機械メーカー自身が NC 機を売り始めます[1]。1966 年、技術省の大臣は下院で、NC は人を減らすためではなく熟練工の不足を補うために要ると答え、5 月の NC 工作機械展を支援すると述べました[7]。英国で使われる NC 工作機械が 800 台に達したのは、この 1966 年です[1]。1969 年の工作機械への投資は 1 億 4,500 万ポンドで前年並みでしたが、NC の購入は急に伸びていました[15]。

Herbert-BSA と Herbert-Ingersoll

この時代、工作機械の業界は合併で大きくなろうとします。1966 年、Alfred Herbert は Churchill Machine Tool と一緒になり、Herbert-BSA のグループの一員になりました[6]。さらに 1966 年には、米国の Ingersoll Milling Machine と組んだ Herbert-Ingersoll ができ[8][10]、Northamptonshire の Daventry に新しい工場を持ちます。米国の業界誌は、1 人あたりの生産を 3 倍にすることをめざす工場として紹介しました[11][12]。しかし Herbert-Ingersoll は 1972 年 6 月、管財人の手に渡ります[16][17]。

Molins の System 24:FMS の先がけ

1967 年 9 月、Manchester で開かれた第 8 回工作機械設計研究会議(MTDR)で、たばこ製造機のメーカー Molins(モリンズ)が System 24 を発表します。率いたのは、Ferranti から移った Williamson でした[13]。Molins は世界のたばこ製造機の 7 割を作る会社で、数インチほどの小さな部品を、種類多く少しずつ作る必要がありました。Williamson たちはまず部品を調べ、8〜9 割はアルミなどの軽合金で作れ、約 7 割は 12×12×6 インチに収まると分かります。軽合金なら鋼よりずっと速く削れるからです[13]。

System 24 では、部品をパレットに固定し、計算機の指示でパレットが搬送装置に乗って NC 機の間を回ります。前の日に計算機が材料の一覧と加工プログラムの一覧を出し、準備の係が材料をそろえ、次の日に段取りの係が部品をパレットに取り付けると、あとは機械が順に加工しました。最初の設備は London の Deptford に置かれ、3 軸のフライス盤 2 台・3 軸のボール盤 2 台・6 軸の機械などからなり、多くは 2 本の主軸で 2 個を同時に削る機械でした[13]。1974 年の米国の報告書も、計算機で動く多品種少量の生産の進んだ例として System 24 を挙げています[14]。複数の NC 機を搬送と計算機でつなぐ FMS の考え方の、早い例です。

タッチトリガプローブ

1972 年、Rolls-Royce の技術者 David McMurtry(マクマートリー)は、Concorde の Olympus エンジンの部品を測るために、タッチトリガプローブを考えます[19]。探針(スタイラス)は決まった休み位置に正確に収まっていて、物に触れてわずかに傾くと、それを電気の接点が知らせる。その瞬間の機械の座標を読めば、触れた点の位置が分かる、というしくみです。英国での特許の優先日は 1972 年 9 月 21 日で、米国特許 4,153,998 は 1979 年に成立し、権利者は Rolls-Royce でした[20]。1973 年、McMurtry と John Deer は Renishaw Electrical Ltd をつくり、三次元測定機用のプローブ TP1 を売り出します[19]。

現場で何が変わったか。タッチトリガプローブで、三次元測定機は探針を当てるだけで点の座標を取れるようになりました。1977 年に Renishaw は工作機械に付けるプローブを出し、工作物の位置合わせ(段取り)と加工後の検査を、機械から下ろさずに自動でできるようにします[19]。今のマシニングセンタで当たり前の「機上計測」の始まりです。プローブの使い方は5 軸加工のページでも触れています。

輸入の波と Alfred Herbert の破綻(1974〜1989 年)

国が Alfred Herbert を救う

1970 年代、英国の工作機械工業の衰えは政治の問題になります。1974 年 10 月 29 日、政府は赤字の続く Alfred Herbert の当座貸越を保証し、はじめは 500 万ポンドまでとしました。1975 年 7 月 9 日には最大 2,500 万ポンドの支援を決め、8 月には産業法による工作機械工業全体への支援策も発表します[21]。12 月 2 日、下院は政府の持株会社 Herbert Ltd に 2,617 万 9,765 ポンドを出すことを承認しました。Alfred Herbert の株を 1 株 6 ペンスで買い取り、残りを資本と貸付に回し、持株は国家企業庁(NEB)に移すという案です。政府の担当者は、会社の問題は深く、人が多すぎ、機種が広がりすぎていると認めています[21]。

「国内の需要の 46% は輸入」

1979 年 1 月の下院の討論は、当時の状況をよく伝えます。労働党の議員は、古い会社が投資と新しい設計を怠り、外国製の転売と古い標準品に頼ってきたと批判し、NC 工作機械は輸入が輸出の約 3 倍、Ford は金型と治具を作る能力を台湾やブラジルにまで探しに行ったと述べました[22]。答えた政府側は、1977 年の英国の工作機械工業の売上は 4 億ポンド弱で、その半分近い 1 億 8,500 万ポンドが輸出、輸入は 1 億 4,440 万ポンドで、多軸自動盤やエンジンブロックの専用機は世界に負けないと反論します。ただ、英国の産業全体では工作機械の需要の 46% を輸入に頼っていたことも認めました[22]。輸出は多いのに、国内の工場は外国の機械を買う。第 3 章で見た戦間期と同じ形が、NC の時代にくり返されていました。

1980 年、Alfred Herbert の清算

国の支援も実らず、1980 年、Alfred Herbert は任意清算に入ります[6]。1888 年に Coventry で始まり、二つの大戦で国の工作機械の統制の中心にいた会社でした。Coventry 市の市史は、かつて世界最大の工作機械メーカーだった Alfred Herbert の破綻と、人が去った工場で機械が売りに出された光景を、1980 年代はじめの Coventry の不況の象徴として書いています[23]。清算のあとも Alfred Herbert の名の事業は CNC 工作機械を作り続けましたが、1983 年 4 月には管財人がその事業と資産を売りに出しました[31][32]。1950 年代の Herbert の研究部門が、電機の会社の NC ではなく熟練工の操作を録音する古い方式を研究していたことを思い出すと、技術の選び方の差がここで表に出たとも言えます。

日本の工場がやって来る

英国の老舗が消えていくのと入れ替わるように、日本の工作機械メーカーが英国に工場を持ちます。1980 年 7 月、日本の山崎鉄工所(今のヤマザキマザック)が英国法人 Yamazaki Machinery U.K. Ltd をつくり[26][27]、1987 年 6 月には Worcester(ウスター)の欧州工場で、計算機で統合した生産(CIM)の工場の本格的な操業を始めます。今は 2 万 9,000 平方メートル・900 人超の規模です[27][33]。1988 年 3 月には、この英国工場が初めて CNC 工作機械を日本へ輸出しました[27]。日本の工作機械が英国に入り、英国で作られた日本の機械が日本に戻る。英国の工作機械の歴史の中で、大きな向きの変化でした。

一方、英国の技術の会社は「測ること」と「ソフトウェア」で伸びます。Renishaw は 1981 年に米国とアイルランドへ出て、1987 年に工作機械の精度を測るレーザ干渉計、1989 年にエンコーダの読み取りヘッドを出しました[19]。CAM では、1960〜70 年代に Cambridge 大学で始まった曲面の CAD/CAM の研究を Delta Group が引き継ぎ、1980 年にソフトウェアの販売を始めます。のちの Delcam です[25]。

測ること・研究拠点で生きる今(1990 年〜)

測定と CAM の会社

1990 年、Delcam の社員が会社を買い取り、Birmingham に本社を置きます。1997 年に株式を公開し、2009 年には顧客が 3 万社を超える CAM の会社になりました[25]。Renishaw は 1991 年に、工作機械に円を描かせて位置決めの癖を短時間で調べるボールバー QC10 を出し、2005 年には三次元測定機の 5 軸の測定システム REVO で触って測る速さを約 10 倍にし、2011 年には金属の積層造形にも進みました[19]。工作機械を作る国としての地位は下がっても、工作機械を測り、調整し、プログラムする道具では、英国の会社は今も世界の工場の中にいます。CAM の今の使い方はCAD/CAMのページにあります。

残った老舗

古い工作機械メーカーの中にも、形を変えて残ったところがあります。Rochdale の Holroyd は 1860 年創業で、1897 年にねじフライス削りの機械の特許を取った会社です。1993 年にはロータ用の切削・研削の機械で女王賞を受け、今は Precision Technologies Group として製品の 98% を輸出しています[34]。旋盤の Colchester(1954 年に買収)と Harrison(1971 年に買収)を持ち、英国一の旋盤メーカーだった 600 Group は、2022 年 4 月に工作機械の事業を売り、産業用レーザの会社になりました[3]。

研究拠点:AMRC と MTC

21 世紀の英国は、大学と企業が一緒に使う研究拠点で製造の技術を育てようとしています。Sheffield 大学が 2001 年に Boeing と共同でつくった先端製造研究センター(AMRC)[35]は、2004 年に始まった Advanced Manufacturing Park の核になりました[37]。2010 年には Loughborough・Birmingham・Nottingham の 3 大学が、Coventry に Manufacturing Technology Centre(MTC)をつくります[38]。AMRC は今、国の高付加価値製造の研究機関の網(High Value Manufacturing Catapult)の一員で、Boeing・Rolls-Royce・BAE Systems・Airbus など 120 社を超える企業と組んでいます[40]。かつて Alfred Herbert があった Coventry に、いまは製造の研究拠点がある、という巡り合わせです。

数字で見る今の英国

業界団体 Manufacturing Technologies Association(MTA)の 2023 年の資料によると、2021 年の英国の工作機械の生産(売上)は 4 億 8,800 万ポンド、輸出 5 億 3,800 万ポンド、輸入 5 億 1,800 万ポンドでした。英国は世界で 16 番目の工作機械の生産国、18 番目の市場とされます。一方、測定機器の生産は約 10 億ポンドと工作機械の 2 倍ほどあり、輸出の割合がとても高い分野です[39]。工作機械を作る国から、測ることで稼ぐ国へ。数字の上でも、英国の戦後の流れがはっきり見えます。

⛩日本とのつながり

戦後の英国と日本の工作機械の関係は、時代とともに向きが大きく変わりました。1950 年代は、日本でも NC の研究が始まったころです(日本の NC の始まりは国産アーカイブ第 2 章「フライス盤・マシニングセンタの系譜」)。ところが 1980 年代には、日本の工作機械メーカーが英国に工場を建て、技術を渡す側になります。1983 年には安田工業がマシニングセンタ YPC30 の製造技術を英国の工作機械メーカーに供与し、1986 年には YPC45H も続きました[30]。1987 年にはヤマザキマザックの Worcester 工場が本格的に動き出し、翌年には英国から日本へ CNC 工作機械を送っています[27][41]。

反対に、英国の「測る技術」は日本の工場に入りました。Renishaw は 1982 年に日本に事務所を置き、日本の工作機械メーカーや測定機メーカーを直接支える体制をつくっています[29]。日本の工場で使われる機上計測のタッチプローブやボールバーは、この章で見たように英国で製品になった道具です。統計で見ても、2020 年の英国の工作機械の輸入元はドイツに次いで日本が 2 位でした[39]。日本の工作機械の生産と輸出が英国を追い越していった流れは、数字で見る国産工作機械の歴史で確かめられます。

⑂メーカーと研究拠点の系図

この章に出てくる主な会社と研究拠点の移り変わりです。帯の色が変わるところで名前や持ち主が変わっています。右端の矢印は今も続いていること、点線はこの章では確かめていないその先を示します。

19401960198020002020Ferranti(Edinburgh)の NC と測定機Alfred Herbert LtdHerbert-BSANEB 傘下清算後の Alfred Herbert1983 年 管財人が売却Herbert-Ingersoll(Daventry)管財人の手にMolins の System 24RenishawDelta Group の中Delcam(Birmingham)Yamazaki Machinery U.K.Yamazaki Mazak U.K.600 Group の工作機械(Colchester・Harrison)事業を売却Holroyd(Rochdale、今は PTG)AMRC(Sheffield)MTC(Coventry)帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。点線はその先が未確認。
出典:各社の沿革と社史 [1][4][6][21][24][31][8][12][16][13][19][25][26][3][34][35][37][40][38]

見に行ける所

今の英国の製造技術の拠点です。どこも研究施設・工場なので、見学は催しや事前の相談が前提です。行く前にそれぞれの案内で確かめてください。

Advanced Manufacturing Research Centre(AMRC)Sheffield 近郊(イングランド)Sheffield 大学が Boeing と共同でつくった先端製造の研究拠点。2004 年に始まった Advanced Manufacturing Park の核で、企業との共同研究の設備がそろう。見学は催しや事前の相談で[37][40]
Manufacturing Technology Centre(MTC)Coventry(イングランド)2010 年に 3 大学がつくった製造技術の研究拠点。積層造形・計測・自動化などの研究設備を持つ。見学は催しや事前の相談で[38]
Yamazaki Mazak 欧州工場・European Technology CentreWorcester(イングランド)1987 年に本格的に動き出したヤマザキマザックの欧州の工場と技術センター。展示会(オープンハウス)の時期に機械と工場を見られることがある[33][27]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料が開きます。「p.」は誌面のページ、「PDF p.」は論文・報告の PDF のページです。

戦後と NC の始まりNC の広がり輸入の波と縮小測定と研究拠点1950196019701980199020002010202019521955195919671972197519801987200420102021黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

戦後と NC の始まり:Ferranti・EMI・BTH1945〜1959 年

年出来事メーカー・機種出典
1948〜57 年英国の工作機械工業の総生産額は 1948 年の 7,210 万ポンドから 1957 年の 1 億 8,340 万ポンドに、働く人は 7 万 9,000 人から 10 万 3,600 人に増える(商務省の数字とされる。工具などを含めるかで資料により値が違う)—[1・PDF p.99]
1952年7月★MIT の NC の研究を見てきた Ferranti の J. N. Toothill と D. T. N. Williamson が、Edinburgh の Crewe Toll 研究所で NC の研究を始める。レーダーの導波管など少量で精密な部品が、熟練の機械工の不足で作りきれなかったのがきっかけだったWilliamson 自身は 1958 年の記事で「1951 年に少量の部品の作り方の研究から始まった」と書く。Hamilton は研究の開始を 1952 年 7 月とするFerranti[1・PDF p.88][1・PDF p.89][2・p.19]
1954〜57 年英国の工作機械の生産は 6,560 万ポンドから 9,530 万ポンドに増える。1956 年は輸入(2,570 万ポンド)が輸出(2,390 万ポンド)を上回ったが、商務省は需要が特に大きい年の例外だと説明した—[1・PDF p.100]
1954年600 Group が Colchester Lathes を買い、英国一の旋盤メーカーへの道を開く(1971 年には T. S. Harrison も買う)600 Group・Colchester[3]
1955年★Ferranti が、細かい目盛りの光学格子 2 枚を重ねてできるモアレ縞で動いた量を数える測定のしくみを特許に出す。格子は国立物理学研究所(NPL)の研究から生まれた 1 インチ 5,000 本のもので、1 インチを 1 万の刻みで数えられたFerranti[1・PDF p.90]
1955年Ferranti の NC の試作機ができる。計算機で工具の通り道を計算して磁気テープに書き、3 軸のフライス盤をテープの指令パルスで 1 万分の 1 インチずつ動かすしくみだったFerrantiDu Four のフライス盤[1・PDF p.89][1・PDF p.90]
1950 年代半ばBritish Thomson-Houston(BTH)がパンチカードで穴の位置を指令する位置決めの NC を Kearns の横中ぐり盤に付け、Leicester の工場で試す。精度は 1 万分の 1 インチで、手で位置を合わせる場合の約半分の時間で加工できたとされるBritish Thomson-HoustonKearns 横中ぐり盤[1・PDF p.94][1・PDF p.95]
1950 年代半ば英国最大の工作機械メーカー Alfred Herbert も機械の自動化を研究するが、熟練工の動きを磁気テープに録音して再生する古い方式で、製品にならなかったAlfred Herbert[1・PDF p.96][1・PDF p.97]
1956年在来の工作機械はよく売れ、英国の工作機械メーカーの受注残は、今の生産の速さで 15 か月分に達していた—[1・PDF p.100]
1956年6月★London の Olympia の国際工作機械見本市(6 月 22 日〜7 月 6 日)で Ferranti の NC の最初の製品が公開され、航空機の Fairey Aviation が共同開発を申し出る。同じ見本市で EMI も NC を見せ、Cincinnati と組んで 3 軸の制御に進んだFerranti・Fairey Aviation[1・PDF p.91][1・PDF p.93][1・PDF p.94]
1958年7月Williamson が Control 誌で Ferranti の NC を解説する。計算は中央の計算機サービスが受け持って磁気テープを作り、工場の制御装置はサーボだけにして安く保つ考え方で、2 次の曲線は近似なしに作れるとしたFerranti[2・p.19][2・p.20]
1959年科学産業研究庁(DSIR)の調べが、NC では英国がまだ先を行っており、それを生かすべきだと報告する—[1・PDF p.109]
1959年8月Ferranti が費用への批判に応えて、位置決めだけの安い装置と、3 軸の連続制御の Mark IV を出す。Fairey との共同で油圧サーボとトランジスタの回路に改め、普通の電源で動くようにしたFerrantiMark IV[1・PDF p.101]
1959年12月★Ferranti が座標で部品を測る測定機を発表する。NC と同じ光学格子と電子の計数で、探針の位置を 1,000 分の 1 インチまで数字で示し、測れる範囲は 24×15 インチ。ダイヤルゲージと定盤で測るより大きく時間を減らせた。研究は約 2 年前に始まり、同じ型のものは世界にないとされたFerranti座標測定機(Inspection Machine)[4][5・p.142]

NC の広がりと System 24、タッチプローブ1960〜1973 年

年出来事メーカー・機種出典
1960年5月米国の Bendix が、Ferranti の位置決め装置・連続制御の NC・座標測定機を米国で売り始めるFerranti[5・p.141][5・p.142]
1963年生産技術研究協会(PERA)の調べで、英国で買える NC 装置は Ferranti Mark IV(1 万 2,000〜2 万ポンド)、AEI、EMI、Mullard、Plessey など十数種類。17 か所の使い手の数字では、NC で時間と費用が 4〜6 割減っていた—[1・PDF p.106][1・PDF p.107][1・PDF p.108]
1964年3月業界誌の調べで、英国で納められた NC 工作機械は 1962 年末までに 232 台、注文中を含めても 547 台。10 年前の予想の 10 分の 1 ほどで、その多くは穴の位置決め用だった—[1・PDF p.103][1・PDF p.104]
1964年6月Olympia の国際工作機械見本市に 20 を超える NC が並び、Wadkin・Alfred Herbert・BSA Tools・Staveley-Richards・Archdale・Kearns など英国の工作機械メーカー自身が NC 機を売り始める—[1・PDF p.105]
1966年英国で使われる NC 工作機械が 800 台に達する。英国製の NC 工作機械は 1956〜65 年の合計が 553 台、1966 年の 1 年で 301 台だった—[1・PDF p.104][1・PDF p.105]
1966年Alfred Herbert が Churchill Machine Tool と一緒になり、Herbert-BSA のグループの一員になるAlfred Herbert[6]
1966年2月技術省(Ministry of Technology)の大臣が下院で、NC は人を減らすためではなく熟練工の不足を補うために要ると答え、5 月の Olympia の NC 工作機械展を省として支援すると述べる—[7]
1966年6月Alfred Herbert と米国 Illinois 州 Rockford の Ingersoll Milling Machine が、注文に合わせた専用の工作機械を作る Herbert-Ingersoll をつくる(出資は Herbert 51%・Ingersoll 49%)。Northamptonshire の Daventry の新しい工場は 1968 年に動き出し、米国の業界誌は「1 人あたりの生産 3 倍」をめざす工場として紹介したGrace's Guide は 1967 年とするが、米国の業界誌 Steel(1966 年 6 月 20 日号)と The Engineer の 1966 年上期の索引が設立を伝えるHerbert-Ingersoll[8][9][10][11][12]
1967年9月★たばこ製造機のメーカー Molins が、Manchester の第 8 回工作機械設計研究会議で System 24 を発表する。計算機の指示でパレットに載せた部品が NC 機の間を回り、たばこ製造機の小さな部品を作る構想で、Ferranti から移った Williamson が率いた。最初の設備は London の Deptford で 6 台の機械からなるMolinsSystem 24[13・p.16][13・p.17][14・p.11]
1969年英国内の工作機械への投資は 1 億 4,500 万ポンドで前年並み。中では NC 工作機械の購入が急に伸びていると技術省が下院で答える—[15]
1971年600 Group が旋盤の T. S. Harrison を買う600 Group・Harrison[3]
1972年6月Herbert-Ingersoll に管財人が入る。産業再編公社(IRC)は 1970 年に Daventry の工場の生産を広げるための融資を決めていた。政府は下院で、管財人の手に渡った経緯の説明を求められたHerbert-Ingersoll[16][17][18][10]
1972年9月★Rolls-Royce の技術者 David McMurtry が、探針がわずかに触れた瞬間を電気の接点で知らせるタッチトリガプローブを考え、英国で特許を出す(優先日 9 月 21 日)。Concorde の Olympus エンジンの部品の測定のためだった。米国特許 4,153,998 は 1979 年に成立し、権利者は Rolls-RoyceRolls-Royce・Renishaw[19][20]
1973年McMurtry と John Deer が Renishaw Electrical Ltd をつくり、三次元測定機用のプローブ TP1 を売り出すRenishawTP1[19]

輸入の波と Alfred Herbert の破綻、日本の工場1974〜1989 年

年出来事メーカー・機種出典
1974年10月10 月 29 日、政府が赤字の続く Alfred Herbert の当座貸越を保証すると発表する(はじめ 500 万ポンドまで)Alfred Herbert[21]
1975年8月政府が産業法(Industry Act 1972)第 8 条による工作機械工業への支援策を発表する—[21]
1975年12月★下院が、政府の持株会社 Herbert Ltd に 2,617 万 9,765 ポンドを出すことを承認する。Alfred Herbert の株を 1 株 6 ペンスで買い取り、残りを資本と貸付に回し、持株は国家企業庁(NEB)に移す。政府は、人が多すぎ機種が広がりすぎていると認めたAlfred Herbert[21]
1976年Renishaw が Gloucestershire の Wotton-under-Edge の元アイスクリーム工場に最初の自前の建物を持つRenishaw[19]
1977年★Renishaw が工作機械に付けるプローブを初めて出す。段取りと検査を工作機械の上で自動でできるようにしたRenishaw[19]
1977年英国の工作機械工業の売上は 4 億ポンド弱で、輸出 1 億 8,500 万ポンド、輸入 1 億 4,440 万ポンド。ただし国内の需要の 46% は輸入だった—[22]
1979年1月下院で工作機械工業の衰えが討論される。古い会社が投資と新しい設計を怠り、外国製の転売と古い標準品に頼ってきたと指摘され、NC 工作機械は輸入が輸出の約 3 倍、Ford は金型・治具の能力を台湾やブラジルまで探したと述べられた—[22]
1980年★かつて世界最大の工作機械メーカーといわれた Alfred Herbert が任意清算に入る。Coventry の市史は、人が去った工場で機械が売りに出された光景を、1980 年代はじめの Coventry の不況の象徴として書いているFinancial Times(1980 年 9 月 26 日)によると、国の持株機関 NEB の完全子会社だった Herbert は 3 か月前に事実上破綻し、10 月 17 日の臨時株主総会に任意清算を諮った。主な工場は売られ、約 3,400 人の職が残ったAlfred Herbert[6][23][24]
1980年1960〜70 年代に Cambridge 大学で始まった曲面の CAD/CAM の研究を Delta Group が引き継ぎ、この年にソフトウェアの販売を始める(のちの Delcam)Delcam[25]
1980年7月日本の山崎鉄工所(今のヤマザキマザック)が英国法人 Yamazaki Machinery U.K. Ltd をつくる(7 月 24 日設立)Yamazaki Machinery U.K.[26][27]
1980年7月電機大手の GEC が、Alfred Herbert のグループから Herbert Numerical Controls の資産を買い、英国の大手として初めて工作機械の NC 装置の設計・製造に入るGEC・Alfred Herbert[28]
1981年Renishaw がアイルランドに工場を、米国 Chicago に最初の販売会社を置き、海外に出るRenishaw[19]
1982年Renishaw が日本に事務所を置き、日本のパートナーを直接支えるようになるRenishaw[29]
1983年安田工業がマシニングセンタ YPC30 の製造技術を英国の工作機械メーカーに供与する(1986 年に YPC45H も)安田工業YPC30[30]
1983年4月管財人の手にある Alfred Herbert(Coventry)の事業と資産が、続けて営む会社として売りに出される。広告は、この 5 年で FMS に組み込める CNC 工作機械を開発し、約 3 万 7,000 m²(40 万平方フィート)の工場を持つと書いた1980 年の清算のあとも Alfred Herbert の名で事業が続いていた。だれが引き継いでいたかは一次資料で確かめきれなかったAlfred Herbert[31][32]
1987年Renishaw が最初のレーザ干渉計を出し、工作機械の位置決めの精度を測る時間を大きく減らすRenishaw[19]
1987年6月★ヤマザキマザックの英国法人が Worcester の欧州工場で、計算機で統合した生産(CIM)の工場の本格的な操業を始める。今は 2 万 9,000 平方メートル・900 人超の規模Yamazaki Mazak[27][33]
1988年3月ヤマザキマザックの英国工場が、初めて CNC 工作機械を日本へ輸出するYamazaki Mazak[27]
1989年Renishaw が位置を読むエンコーダの読み取りヘッドを出し、工作機械や装置の位置の測定に広げるRenishaw[19]

測ること・研究拠点で生きる今1990 年〜

年出来事メーカー・機種出典
1990年Delcam の社員が会社を買い取り、Birmingham に新しい本社を置く。1997 年に株式を公開したDelcam[25]
1991年Renishaw がボールバー QC10 を出す。円を描かせて工作機械の位置決めの癖を短い時間で調べる道具になったRenishawQC10[19]
1993年Rochdale の Holroyd(1860 年創業)が、ロータ用の切削・研削の機械で女王賞(技術)を受ける。1897 年にねじフライス削りの機械の特許を取った会社で、今は Precision Technologies Group として製品の 98% を輸出するHolroyd[34]
2001年Sheffield 大学の Keith Ridgway と実業家 Adrian Allen が Boeing と組んで、大学の研究と生産の現場をつなぐ先端製造研究センター(AMRC)を始める—[35][36]
2004年★Sheffield 大学が Boeing と共同でつくった先端製造研究センター(AMRC)を核に、Sheffield の近くに Advanced Manufacturing Park が始まる—[37・PDF p.39]
2005年Renishaw が三次元測定機用の 5 軸の測定システム REVO を出し、触って測る速さを約 10 倍にするRenishawREVO[19]
2010年★Loughborough・Birmingham・Nottingham の 3 大学が、製造技術の研究拠点 Manufacturing Technology Centre(MTC、Coventry)をつくる—[38]
2011年Renishaw が金属の積層造形の製品を始めるRenishaw[19]
2020年英国の工作機械の輸入元はドイツ(9,450 万ポンド)に次いで日本(4,290 万ポンド)が 2 位。2022 年は日本が 9 位で、台湾・中国からの輸入が伸びた—[39・PDF p.11]
2021年★英国の工作機械の生産(売上)は 4 億 8,800 万ポンド、輸出 5 億 3,800 万ポンド、輸入 5 億 1,800 万ポンド。英国は世界で 16 番目の工作機械の生産国、18 番目の市場とされる。測定機器は生産約 10 億ポンドで、輸出の割合がとても高い—[39・PDF p.3][39・PDF p.5][39・PDF p.9]
2022年4月Colchester と Harrison の旋盤で知られた 600 Group が工作機械の事業を売却し、産業用レーザの会社になる600 Group[3]
今AMRC は国の高付加価値製造の研究機関の網(High Value Manufacturing Catapult)の一員で、Boeing・Rolls-Royce・BAE Systems・Airbus など 120 社を超える企業と組む—[40]

よくある質問

英国の Ferranti の NC は、米国の MIT の NC とどう違ったのですか?
どちらも計算機で工具の通り道を計算しましたが、Ferranti は計算を中央の計算機サービスに任せ、工場の制御装置は磁気テープのパルスに従うサーボだけにして安くする考え方でした。位置は光学格子のモアレ縞で直接数えました。研究は 1951〜52 年に Edinburgh で始まり、1956 年の Olympia の見本市で製品が公開されています。
三次元測定機(CMM)を最初に作ったのはどこですか?
早い例として知られるのが、1959 年 12 月に発表された Ferranti の座標測定機(Inspection Machine)です。NC と同じ光学格子で探針の位置を 1,000 分の 1 インチまで数字で示し、当時の業界誌は同じ型の機械は世界にないと書いています。「最初」の定義(試作・製品・量産)によって答えが変わるため、本ページでは発表の年と内容を示すにとどめています。
Molins の System 24 はなぜ FMS の先がけと言われるのですか?
1967 年に発表された System 24 は、複数の NC 機をパレットの搬送装置と計算機でつなぎ、多くの種類の小さな部品を順に加工する構想だったからです。部品をパレットに付ける段取りと加工を分け、計算機が前の日に材料と加工の予定を出すなど、のちの FMS の要素をそろえていました。
Alfred Herbert はなぜつぶれたのですか?
議会の議事録では、人が多すぎ、機種を広げすぎて赤字が続いたことが挙げられています。1975 年に国が持株会社を通じて救済し国家企業庁(NEB)の傘下に入りましたが立て直せず、1980 年に任意清算に入りました。業界全体についても、投資と新しい設計の不足、外国製の転売への依存が議会で批判されていました。

この先と関係するページ

出典

業界誌は Internet Archive、議会の記録は Historic Hansard(英国議会)、博士論文は University of Warwick の WRAP、会社の記録は各社の公式サイトと Companies House で 2026 年 10 月に確かめ、使ったページを書いています。Hamilton(1997)は NC の初期の歴史を当時の技術誌・公文書・聞き取りでまとめた博士論文で、本ページの 1950〜60 年代の数字の多くはこの論文が引く当時の資料(商務省・業界誌・PERA の調べ)によります。会社の沿革は会社自身の説明なので、特許・議事録・業界誌で確かめられたものを優先しました。日本側の出来事は国産アーカイブの出典を使っています。

  1. Ross Hamilton『Continuous Path: The Evolution of Process Control Technologies in Post-War Britain』University of Warwick 博士論文(1997)※番号は PDF のページ(論文の印刷ページ+9)PDF p. 88・89・90・91・93・94・95・96・97・99・100・101・103・104・105・106・107・108・109
  2. D. T. N. Williamson「Computer Control of Machine Tools」Control 第 1 巻 1 号(1958 年 7 月)pp.19〜p. 19・20
  3. The 600 Group PLC「About:Company History」
  4. Mechanical World and Engineering Record 第 139 巻 3485 号(1959 年 12 月)「Co-ordinate Inspection Machine」(Ferranti)
  5. American Machinist 第 104 巻 10 号(1960 年 5 月 16 日)pp.141〜142「Bendix to Distribute Ferranti Positioning, Numerical Control And Inspection Systems」p. 141・142
  6. Science Museum Group Collection「Alfred Herbert Ltd」
  7. 英国下院議事録(Hansard)1966 年 2 月 15 日「Numerically Controlled Machine Tools」HC Deb vol 724 cc1088-9
  8. Steel 第 158 巻(1966)索引「Herbert-Ingersoll Ltd. formed in England」(6 月 20 日号 p.30)
  9. The Engineer 第 222 巻(1966 年 1〜6 月)索引「Ingersoll Milling Machine Co., Rockford, Ill., joining in Herbert Ingersoll Ltd.」(p.913 の論説)
  10. D. Hague・G. Wilkinson『The IRC: An Experiment in Industrial Intervention』Allen & Unwin(1983)
  11. Daventry Borough Council『Annual Report of the Medical Officer of Health for the Year 1970』(Wellcome Collection の公衆衛生報告)
  12. American Machinist 第 112 巻(1968)索引「Goal: triple output per man — Herbert Ingersoll's Daventry plant」(10 月 7 日号 p.128)
  13. Electronics Australia 1968 年 5 月号 pp.16〜17(New Scientist の技術担当編集者の記事の転載。Molins の System 24)p. 16・17
  14. 『Computer-Based Automation of Discrete Product Manufacture: A Preliminary Discussion of Feasibility and Impact』(1974 年 7 月、DTIC ADA004612)pp.11〜12p. 11
  15. 英国下院議事録(Hansard)1970 年 3 月 23 日「Machine Tools」HC Deb vol 798 cc945-6
  16. 『Index to the Times』1972 年 4〜6 月「Herbert-Ingersoll — receiver brought in, June 6」
  17. 『Trade and Industry』1972 年 8 月 17 日号(下院の質問への Chataway 大臣の答弁:Herbert-Ingersoll が管財人の手に渡った経緯)
  18. 『Index to the Times』1970 年 5〜6 月「Herbert-Ingersoll — to receive loan to expand production」
  19. Renishaw「Our history」
  20. 米国特許 4,153,998「Probes」発明者 David R. McMurtry、権利者 Rolls-Royce (1971) Limited(1979 年 5 月 15 日成立、英国の優先権 1972 年 9 月 21 日)
  21. 英国下院議事録(Hansard)1975 年 12 月 2 日「Herbert Limited」HC Deb vol 901 cc1609-45
  22. 英国下院議事録(Hansard)1979 年 1 月 16 日「Machine Tool Industry」HC Deb vol 960 cc1671-82
  23. Coventry City Council「Coventry in the 20th century」
  24. Financial Times 1980 年 9 月 26 日(NEB の Alfred Herbert の損失と任意清算の臨時株主総会)
  25. J. Lubell ほか『Model-Based Enterprise Summit Report』NIST Technical Note 1820(2013、米陸軍研究所 ARL-RP-466 として 2014 年に再刊)所収の Delcam の発表「Delcam's History」
  26. Companies House「YAMAZAKI MAZAK U.K. LIMITED(01508951)」(1980 年 7 月 24 日設立、2003 年まで旧名 Yamazaki Machinery U.K. Limited)
  27. Yamazaki Mazak(英国)「Company History」
  28. Financial Times 1980 年 7 月 3 日「GEC が Herbert Numerical Controls の資産を買う」(Hazel Duffy)
  29. レニショー「日本法人設立 40 周年」(2022 年 5 月)
  30. 安田工業「YASDAのあゆみ」
  31. Financial Times 1983 年 4 月 12 日 広告「Alfred Herbert (in receivership)」(管財人による事業・資産の売却)
  32. The Economist 1983 年の索引「Alfred Herbert, collapse of」(4 月 9 日号 p.65)
  33. Yamazaki Mazak(英国)「About Mazak Europe」
  34. Holroyd(Precision Technologies Group)「Our History」
  35. AMRC「Our story」(University of Sheffield Advanced Manufacturing Research Centre)
  36. Sheffield City Council「MIPIM 2019 Investor Dinner」情報公開請求への回答(2019)の出席者紹介(Keith Ridgway)
  37. B. Grubb・L. Lane・A. Power『Sheffield City Story』LSE CASE Report 103(2016)※番号は PDF のページPDF p. 39
  38. Manufacturing Technology Centre(MTC)「Our journey」
  39. Manufacturing Technologies Association(MTA)『Basic Facts 2023』(英国国家統計局・歳入関税庁の数字と MTA の推計)※番号は PDF のページPDF p. 3・5・9・11
  40. University of Sheffield「Advanced Manufacturing Research Centre(AMRC)」
  41. ヤマザキマザック「沿革」