GERMANY 06ドイツのフライス盤・マシニングセンタの系譜

フライス盤は、刃がたくさん付いた回る刃物(フライス)で金属を削る機械です。最初の形はアメリカで生まれましたが、ドイツはそれを写すところから始めて、歯車で速さを変える主軸台、コラムに電動機を入れた個別駆動、横と縦を 1 台で削る工具フライス盤、腕を使わない工具交換、工作物を吊るして削るマシニングセンタと、機械の仕組みを 1 つずつ変えてきました。この章では、Chemnitz の Reinecker と Wanderer、ミュンヘンの Deckel、Pfronten の Maho、Nürtingen の Heller、Gosheim の Hermle、Tuttlingen の Chiron、Mindelheim の Grob などの歩みを、当時の教科書・人名事典・特許・博物館の会報・メーカーの沿革で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けてたどります。

写すところから
始まって
5 軸の国へ!

マスコットのチップス

フライス盤には、テーブルを載せた台(ひざ)がコラムに沿って上下するひざ形、主軸が水平の横形と垂直の立て形、両方を 1 台にした万能形、大きな工作物をベッドに置いて主軸の側を動かす平削り形(プラノミラー)と門形があります。工具を自動で取り替えるフライス盤がマシニングセンタ(MC)です。NC(数値制御)の歴史そのものは第 4 章 NC とインダストリー 4.0で扱い、この章は機械の側の変化に集中します。米国の流れはアメリカのフライス盤・MC の系譜、日本の流れは国産アーカイブ第 2 章 フライス盤・マシニングセンタの系譜にあります。

米国に学んだ始まりと Chemnitz(1866〜1913 年)

19 世紀の半ば、金属の平らな面や溝を削る主役は平削り盤と形削り盤でした。刃物は 1 本で、往復するたびに少しずつ削ります。回る刃物で連続して削るフライス盤は、アメリカの兵器工場で育ち、1862 年に Brown & Sharpe の万能フライス盤が出て、ねじれ溝まで削れるようになりました(くわしくはアメリカの章)。

ドイツは、この機械を輸入し、写すところから始めます。MIT の Robert S. Woodbury は 1959 年の『History of the Milling Machine』で、1870〜80 年代の大陸のメーカーはまず米国製のフライス盤を使い、やがて質の劣る大陸製の写しを使うようになったと書いています。写しの中には、元の米国メーカーの名前まで写したものがあったといいます。この状態は 1908 年ごろまで続いたというのが Woodbury の見方です[2]。

Reinecker と Loewe:米国を手本にした 2 つの会社

Chemnitz(ザクセン州)の Julius Eduard Reinecker(ユリウス・エドゥアルト・ライネッカー)は、工具の店から始めて 1867 年に工場を持ち、人名事典 NDB によると 1872 年に米国を手本にしてフライス盤・研削盤・二番取り旋盤を作り始めました[3]。Woodbury も、立てフライス盤の歴史の注で Reinecker の 1867 年の機械に触れています[2]。Chemnitz 産業博物館の後援会の会報に載った Peter Stölzel の記事も、Chemnitz のフライス盤づくりは 1870 年代の初めに Reinecker から始まったとしています[7]。Reinecker の機械は精度の高さで知られ、1893 年のシカゴ万博にはドイツの工作機械メーカーでただ 1 社出品しました[3]。

ベルリンの Ludwig Loewe(ルートヴィヒ・レーヴェ)は、技術者ではなく商人でした。経済史家 Wolfram Fischer の論文によると、Loewe は 1870 年の創業の前に米国を見て回り、設計と製造の密な協力、少ない品種への集中、標準化、互換部品、品質の管理という米国式の作り方をそのまま持ち込みました。1890 年代の半ばに新しい工作機械工場を建てるときには米国人の技師を 3 人雇い、1897 年に入社した若い Georg Schlesinger(ゲオルク・シュレジンガー)は、その通訳から始めて、米国式の工具・ゲージ・治具と、万能フライス盤・旋盤・タレット旋盤など主な機種の生産の準備を任されました[4]。Schlesinger はのちにベルリン工科大学の教授になり、ドイツの生産技術の研究を引っ張ります(第 2 章)。

Wanderer:自転車の部品のために作ったフライス盤

Chemnitz の自転車メーカー Winklhofer & Jaenicke(のちの Wanderer、ヴァンデラー)は、1890 年、自社の部品を正確に作るためのフライス盤と専用機を自分で開発し始めます。売っている機械では精度が足りなかったからです。1899 年、最初のひざ形フライス盤の 1 つ「単純フライス盤 Nr. 1」を国内の客に売り出しました[7][9]。Stölzel の記事によると、この機械は角(つの)の付いた曲がった形のコラムを持ち、アーバ(フライスを通す棒)の先をオーバアームのセンタで支え、送りは主軸の段車から 4 段の段車で取る仕組みでした。1900 年ごろには、テーブルを旋回できる万能形の Nr. 1 と Nr. 3 が続きます[7]。

1919 年の Hülle の教科書は、Wanderer の単純フライス盤を、形削り盤の形をまねて往復する刃物台の代わりに回る主軸を付けたもの、と説明しています。主軸は前の軸受の円すいで両方向の力を受け、後ろの軸受では熱で伸びても逃げられるようにしてありました[12]。ベルトと段車で回す、一列に並んだ工場の時代の機械です。

歯車箱と閉じたコラム:高速度鋼への答え

20 世紀の初め、米国の Taylor と White の高速度鋼が広まり、刃物はずっと速く、深く削れるようになります。すると、細いベルトと段車では力が足りず、機械のたわみが仕上げ面を悪くしました。Wanderer は 1905 年ごろの単純フライス盤 Nr. 2 で、初めて送りの歯車箱をコラムの下に組み込みます。1909 年からは、オーバアームの受けと主軸の歯車箱を閉じた剛いコラムの中に収め、段車をやめました[7]。

同じころ、ドイツのメーカーの顔ぶれは厚くなっていました。1905 年の Hermann Fischer の教科書の索引には、Reinecker の横形・立て形・長物用・平行フライス盤、Bielefeld の Droop & Rein、Düsseldorf の Ernst Schiess のフライス盤が並びます[10]。1866 年創業の Schiess は、1870 年ごろから立て旋盤と門形のフライス盤を作り、大形機のメーカーとして育ちました[1]。1913 年には Wanderer がフライス盤をロシア・オーストリア・ハンガリー・フランス・イタリアへ輸出し、1899〜1920 年に Schönau の工場で作ったフライス盤は 1 万台を超えています[7]。写すところから 40 年で、ドイツはフライス盤を輸出する国になりました。

Reinecker のフライス盤1872 年米国を手本に(NDB)[3]
Wanderer の量産の始まり1899 年単純フライス盤 Nr. 1[7]
閉じた剛いコラム1909 年段車をやめ、主軸の歯車箱を内蔵[7]

現場で何に効いたか。段車の機械は、速さを変えるたびにベルトを掛け替え、重く削るとベルトが滑りました。歯車箱になって、切削の力が落ちずに主軸へ伝わり、ハンドル操作で回転数を選べるようになります。今の汎用フライス盤の変速レバーは、この時代の仕組みの子孫です。

歯車変速・電動機・重切削と二つの大戦(1914〜1945 年)

16 段の歯車変速と、ひざをやめた平面フライス盤

1919 年の Hülle の教科書(第 4 版)は、変わりつつあるドイツのフライス盤を詳しく描いています。新しい Wanderer のフライス盤は、天井の伝動軸から1 枚の平ベルト車で動力を入れ、主軸の側の歯車の変速箱で 16〜352 回/分の 16 段に速さを変える構造になっていました。Hülle は、フライス盤は切削の力が大きいので段車の欠点がとくにはっきり出た、と理由を書いています[12]。

同じ本は、高速度鋼のフライスで重く削るときにいちばん弱いのはひざ形のテーブルだと指摘し、ひざをやめて箱形のベッドに工作物を置き、主軸の側をコラムに沿って上下させる Reinecker の平面フライス盤を紹介しています[12]。テーブルを上下させる機械(ひざ形)と、主軸を上下させる機械(ベッド形・門形)の分かれ道は、ここにあります。今の横形 MC や門形 MC がベッドの上の重い工作物を動かさず主軸の側を動かすのも、同じ考えです。

Wanderer の D 形:電動機をコラムの中へ

1925 年、Wanderer は D 形の開発を始めます。Stölzel の記事によると、D 形はコラムの中に入れたフート形の電動機で 1 台ずつ動かす個別駆動で、コラムを強くし、すべての軸を転がり軸受にし、焼入れして研削した歯車を使いました。テーブルに付けたカムで送りと早送りを自動で切り替える仕組みも、同社で初めてこの形に入りました。1926〜30 年に 900 台作られ、1932〜33 年からは「D 900」と呼ばれます[7]。天井の伝動軸とベルトから機械を切り離したことで、工場の中の機械の並べ方を、作業の順に自由に決められるようになりました。

1926 年に Siegmar の新工場でフライス盤づくりが始まり、1935 年には Wanderer のフライス盤工場は約 1,000 人・年約 1,800 台の欧州最大のフライス盤工場になりました(StarragHeckert の沿革は 1934 年とします)[7][9]。1940 年までに生産は年約 2,000 台に増え、ひざ形のほか、ねじフライス盤、平面フライス盤、専用フライス盤、フライス工具も作りました。増えた大きな理由は軍需でした[7]。

Deckel の特許:横と縦を 1 台で

ミュンヘンの Friedrich Deckel(フリードリヒ・デッケル)は、カール・ツァイスで Ernst Abbe の下にいた精密機械工で、カメラのシャッター「Compur」で名を上げた会社です。NDB によると、Deckel は 1910 年に精密工作機械の製作を始めました。自分の工場で要る精密な機械が、市販では手に入らなかったからです[11]。

1932 年 12 月、Deckel は横形の主軸のフライス盤に、上から載せるアングルフライス装置を組み合わせる特許を出願しました(ドイツ特許 665218、1938 年公告)[20]。横の主軸の前に、直角に曲げて縦の主軸を作る頭を載せれば、1 台で横と縦の両方を削れます。金型・治具・試作品のように、1 個ずつ形の違うものを削る工具室(ツールルーム)には、ちょうど良い機械です。のちに世界に広まる Deckel の万能工具フライス盤は、この考え方の上にあります。

油圧、専用機、そして新しい会社

戦間期には、のちの主役たちが生まれます。1920 年に Pfronten で精密工 5 人が Maho(マーホー)を作り[13]、1920 年 2 月に Adolf Waldrich が Coburg で今の Waldrich Coburg を[14]、1921 年に Tuttlingen で手術器具の Chiron(キロン)が[15]、1923 年に Ludwigsburg で Karl Hüller が[16]、1926 年にミュンヘンで Ernst Grob が[17]、1938 年に Gosheim で Berthold Hermle が会社を作りました[23]。1894 年創業の Nürtingen の Heller は、1935 年に Messerschmitt の高速機の軽合金のクランクケースを削る専用フライス盤を作り、1942 年には油圧の制御、クランク軸フライス盤、組み立て式の重いひざ形フライス盤を出しています[8]。Waldrich は 1936 年に特許の油圧駆動をライプツィヒの見本市で発表しました[14]。

1944 年、Wanderer は 1900 年から数えて 25,000 台目のフライス盤を出しますが、同じ年の 9 月の空襲で Siegmar の工場は 60% が壊れました[7][9]。戦争と東西の分断については第 3 章にまとめています。

現場で何に効いたか。電動機を内蔵した個別駆動、転がり軸受、研削した歯車、テーブルのカムによる自動の送り・早送りは、どれも今の汎用フライス盤の基本の装備です。古いひざ形を手に入れたときは、主軸が転がり軸受か、送りに早送りがあるかで、作られた時代がおおよそ分かります。

東西の再建、工具フライス盤と最初の NC(1945〜1969 年)

東:Wanderer から Fritz Heckert へ

戦争が終わると、Chemnitz の Wanderer の機械と設備はソ連の占領軍に取り外されて運び出されました。ザクセン州立文書館の解説では 1945 年 7 月 6 日から 1946 年 3 月までです[24][7]。それでも 1946 年 6 月には Siegmar でフライス盤づくりが再開し、100 人余りで年末までに 38 台を出しました[7][9]。1948 年 7 月 1 日に会社は人民所有(国有)になり、フライス盤の部門は VEB Wanderer Fräsmaschinenbau として分かれ、1951 年から Fritz Heckert の名になります[24][7]。1960 年に企業連合の基幹工場、1968 年には 21 の工場・2 万人余りをまとめた工作機械コンビナート「Fritz Heckert」の中心になり[24][9]、UNIDO の報告によると、1970 年代の終わりの再編で角物(箱形の部品)を削る機械を受け持ちました[32]。1960 年代の末には、ここで自動の加工システム PRISMA 2 が生まれています(Chemnitz 産業博物館の会報は 1960 年代末に開発・設置、StarragHeckert の沿革は 1975 年に稼働とします)[33][9]。

西では、1948 年にミュンヘン近くの Haar で Wanderer の元幹部たちが新しい Wanderer の工場を作り、1951 年から 1980 年ごろまで Wanderer の名でフライス盤を作りました[7]。同じ名前のフライス盤が、東と西で別々に作られていたことになります。

西:工具フライス盤と旋回する主軸頭

西ドイツのフライス盤を世界に知らせたのは、Deckel の万能工具フライス盤です。NDB によると Deckel の従業員は 1956 年に 3,000 人を数え、「Deckel の精度」は精密機械の世界で決まり文句になっていました[11]。Deckel 家の Friedrich Wilhelm Deckel と Hans Deckel は 1951 年に倣いフライス盤の特許を[25]、1960 年には主駆動軸の軸線のまわりに旋回するフライス頭の特許を出願しています[26]。旋回の中心を駆動軸に合わせておけば、頭をどの角度に回しても、駆動の歯車のかみ合いは外れません。横の主軸と、角度を自由に付けられる縦の主軸を 1 台にまとめるための、機械の側の工夫です。なお、FP1 は戦後の型ではありません。1929 年には型の名のない Deckel の万能工具フライス盤が米国で売り出され、1935 年の米国の誌面には FP-1 の名が出ています[19][21]。1937 年の新しい FP1 には、旋回する立て頭や取り外せる旋回テーブルを付けられました[22]。

Pfronten の Maho も、1950 年に自社用の工作機械づくりを始め、やがて特別仕様の機械の注文を受けるようになります[13]。1967 年には Werner Babel が立てフライス頭付きの万能フライス盤の特許を出願しました[31]。1961 年の英国の誌面には、Maho の万能工具フライス・彫り込み盤が MH 600 から MH 1000 まで 4 機種並んでいます[27]。Gosheim の Hermle は 1957 年にフライス盤の生産を始め[23]、Ludwigsburg の Hüller は専用機とトランスファーライン(1953 年に Opel へ)に加えて、1954 年からひざ形フライス盤などの標準機も作りました[16]。

量産のフライス盤と、最初の NC・MC

自動車の量産を相手にした会社は、別の道を進みます。Heller は 1952 年に横形の量産用フライス盤 FH 140 を出しました。はじめはひざ形、のちにベッド形(PF)になったこの機械を、同社は 1960 年代のマシニングセンタの先駆けと位置づけています。そして 1962 年、NC のフライス盤と、自動工具交換装置を付けたマシニングセンタを作りました[8]。1968 年には Grob が Mindelheim の新工場で最初のトランスファーラインと、NC で送りの長さを変えられる専用機を作っています[18]。NC 装置の歴史(Siemens の SINUMERIK や Aachen の研究)は第 4 章をご覧ください。

現場で何に効いたか。旋回する縦の主軸頭と横の主軸を持つ万能工具フライス盤は、段取りを替えずに側面・上面・斜めの面を削れるので、金型や治具を 1 個ずつ作る仕事で重宝されました。主軸頭の旋回の目盛りと、旋回後の主軸の直角を確かめる作業は、今の 5 軸機の「旋回軸の校正」と同じ発想です。

マシニングセンタと工具交換の工夫(1970〜1993 年)

工具室の万能機に自動工具交換を

1970 年代、フライス盤は NC から CNC へ進みます。Hermle は 1972 年に最初の万能フライス盤を発表し、1973 年に万能フライス盤用の旋回できる工作物テーブルを出願、1975 年に NC、1978 年に CNC のフライス盤を作り始めました[23][36]。Maho は 1979 年、万能ボール・フライス盤の工具置き場としての皿形マガジンを出願しています[38]。工具室で使う万能機に、量産の MC の装備だった自動工具交換を載せる工夫です。

Chiron のかご形工具交換:腕を使わない

小さな部品を速く削る立形 MC で、工具交換の時間を縮めたのが Tuttlingen の Chiron です。同社は 1958 年に送りユニットから工作機械に入り[15]、1977 年に工具交換装置付きの工作機械の実用新案を出願しました[37]。1980 年に Eugen Rütschle が出願した工具交換装置は、主軸に平行な軸で回る円板のマガジンを、カムで割り出しながら主軸の方へ出し入れする仕組みです[39]。さらに 1982 年の出願(米国特許 4,557,035)では、工具を主軸のまわりに輪のように並べ、それぞれのホルダーが自分の駆動で主軸の軸線上に入り、工具を渡す形になりました。工具をつかんで運ぶ交換の腕(アーム)が要りません[41]。主軸のまわりを工具がかごのように囲むので、かご形(バスケット)とも呼ばれます。

大形の門形と、量産の MC

大きな工作物の側では、Coburg の Waldrich が 1971 年に最初の NC 機を出し、1973 年に門形(ガントリー)のフライス盤を発電機メーカーの Kraftwerk Union に納め、1975 年にはテーブル幅 5,000mm・取り付け長さ 18,000mm の門形フライス盤を作りました[14]。Siegen の H. A. Waldrich は、1961 年に Ingersoll と相互のライセンスを結んで互いの機械を作り合ったあと[28][29]、1971 年に米国の Ingersoll Milling Machine に売られ、Coburg も 1986 年に Ingersoll のグループに入ります[35][14]。門形のプラノミラーで先頭を走っていた米国の会社と、ドイツの大形機のメーカーが一つになったわけです(米国の Ingersoll はアメリカの章)。

量産の側では、Heller が 1982 年に自社の CNC(uniPro NC 80)を積んだ BEA マシニングセンタの量産を始め[8]、Grob は 1977 年に最初の MC、1983 年に BZ シリーズの開発を始めました[18]。Rheinstahl(のち Thyssen)の傘下で 1975 年に生まれた Hüller Hille の系列では、Mosbach の Maschinenfabrik Diedesheim が 1984 年にカセット式の工具マガジン PROCASS PC 601 を考え、柔軟な加工システムを Opel に納めています[16]。1984 年には、精密部品の請負の Kern が、自社のために作った0.001mm 台の精度の CNC 微細穴あけ・フライス盤を動かし、工作機械メーカーにもなりました[30]。

日本との競争と、Deckel・Maho の行き詰まり

この時代のドイツのフライス盤は、日本の MC と正面からぶつかります。米国の業界誌の元編集者 Anderson Ashburn によると、1981 年のハノーファーの工作機械展には 200 社が MC を出し、日本の出展者が技術で前に出たことがドイツの業界を驚かせました。1985 年(160 社)には、赤字の中でも研究開発を続けたドイツが主導権を取り戻したように見えた、と Ashburn は書いています[40]。UNIDO の統計では、1988 年にフライス削りをする機械の生産額のうち MC が占める割合は日本 81%・西ドイツ 39%でした[32]。日本は MC へ一気に移り、ドイツは万能フライス盤と MC の両方を作り続けていたことが数字に表れています。

1990 年の UNIDO の報告は、西ドイツ最大の工作機械メーカーを Deckel とし、NC に力を入れすぎて、新しい技術を難しいと感じた中小の昔からの客を失ったことが不振の一因だと伝えています[32]。統一の年 1990 年には、東の Seebach の工場(1970 年ごろ建設、万能フライス盤とボール盤)が Maho と協力を始め[34]、Chemnitz の Heckert は Treuhand のもとで会社になり、1992 年に MC の CWK シリーズを作ったあと 1993 年に Traub に買われました[9]。Maho は 1989 年にレーザでフライスのように彫り込む機械のノズル頭を出願しています[43]。

現場で何に効いたか。アーム式の工具交換は大きな工具も扱えますが、動きが多く時間がかかります。かご形やマガジン直結の交換は、工具の大きさと本数に限りがある代わりに速く、小物の量産部品の「切りくずから切りくずまで」の時間を大きく縮めました。今の小形の立形 MC やタッピングセンタの多くがこの系統です。

★5 軸と統合(1994 年〜)

DMG の誕生

1990 年代の初め、Deckel と Maho は一つになった Deckel Maho として破産し、1994 年に Bielefeld の旋盤メーカー Gildemeister がその大部分を引き取りました[5][13]。1870 年創業の Gildemeister は自動盤・旋盤の会社で[5]、ここに旋盤の Gildemeister とフライス盤の Deckel Maho をあわせた「DMG」ができます。2007 年の Gildemeister の年報は、Pfronten で小形の 5 軸機 DMU 40 monoBLOCK の量産を始めたこと、5 軸同時制御の DMC 125 FD duoBLOCK でまがりばかさ歯車を 1 台で仕上げたことを伝えています[47]。工具室の万能フライス盤から始まった Deckel と Maho の系譜が、旋回するテーブルと主軸頭を NC で動かす 5 軸機に行き着いたことになります。

剛性をどこに置くか:Hermle と Grob

5 軸の時代のドイツのメーカーは、機械の骨組みで競いました。Hermle は 1994 年に、ベッドの左右の壁の上と、その間に置いた 3 本目のレールの 3 本で縦の送り台を支え、真ん中で駆動する構造を出願しています。偏った力でねじれても、力が案内に直角にかかるので受け止めやすい、という説明です[44]。加工する場所をベッドの左右の壁の間に置くこの形は、テーブルを動かさずに上の送り台を動かす門形に近い考え方です。

Grob は 1996 年に、テーブルをパレットの上に置き、工作物をパレットから下へ吊るして削るマシニングセンタを出願しました[45]。切りくずが工作物や治具の上にたまらず、下へ落ちます。1998 年にリニアモータの BZ600L、2004 年にモジュール式の G モジュール(3 年足らずで 1,000 台)、2007 年に 5 軸のユニバーサル機 G350 を出しました[18]。Heller は 2007 年に 4 軸の横形 H シリーズ、2009 年に 5 軸の F シリーズ、2016 年に HF シリーズを出しています[8]。

超精密と、大形の行方

Kern は 2005 年に、各軸を静圧(油の膜で浮かせる)軸受で支える超精密の Pyramid Nano を出しました[46][30]。転がりもすべりもない案内で、摩擦と摩耗を減らし、ナノメートルの台の面を狙う機械です。大形の側では、米国の親会社 Ingersoll の破産で 2004 年に Waldrich Coburg と Waldrich Siegen が Herkules グループに売られ、Coburg は 2005 年に北京第一工作機械の傘下に入りました[14][35]。Düsseldorf の Schiess は統一後に東の Aschersleben の工場と一つになり、2004 年に中国の瀋陽、2019 年に中国の Longma の傘下に入っています[1]。東の Heckert は 1998 年にスイスの Starrag に買われ、2000 年に StarragHeckert になりました[9]。

DMG MORI へ

2009 年、DMG(Gildemeister)と日本の森精機製作所が資本・業務提携を結び、森精機は 2013 年に DMG森精機と名を変えました[48]。ドイツの DMG MORI AKTIENGESELLSCHAFT は、2016 年 6 月 2 日の支配・利益移転契約で、日本の DMG森精機のグループの一員になっています[6]。いまも Pfronten(旧 Maho)は約 1,600 人で 50 種のフライス盤・MC を作り[13]、東の Seebach は 5 軸機 DMU 50 の開発と生産を受け持っています[34]。2026 年には、韓国の DN Solutions が Heller を買いました(Heller の沿革による)[8]。

現場で何に効くか。5 軸機を選ぶときは、旋回するのがテーブルか主軸頭か、送り台を支える案内の配置、切りくずが落ちる向き、静圧かリニアかを見ると、その機械が「重い荒削り」「速い仕上げ」「量産」「超精密」のどれを得意にするかが分かります。5 軸の基本は5 軸加工のページにまとめています。

日本とのつながり

ドイツと日本のフライス盤・MC は、1980 年代から競争相手として向き合いました。ハノーファーの展示会で日本の MC がドイツの業界を驚かせたこと(1981 年)、ドイツが研究開発で巻き返しを図ったこと(1985 年)、1988 年には MC が日本のフライス系の生産の 81% を占め、西ドイツでは 39% だったことは、上で見たとおりです[40][32]。日本の MC の歩みは国産アーカイブ第 2 章に、5 軸と複合加工機は第 7 章にあります。

競争の相手は、やがて同じグループになります。2009 年の DMG と森精機製作所の提携、2013 年の DMG森精機への社名変更[48](国産アーカイブ第 1 章の年表)、2016 年の DMG MORI AG の支配契約[6]で、Deckel と Maho の流れをくむフライス盤は、日本の会社のグループの機械になりました。Mindelheim の Grob も 2019 年に横浜に拠点を開いています[17]。

⑂メーカーの系図

ドイツの主なフライス盤・MC のメーカーの、社名の移り変わりと合併・買収です。帯の色が変わるところで社名や持ち主が変わり、赤い矢印は事業の行き先です。Wanderer は東のフライス盤部門だけを描いています(西の Haar の Wanderer は本文)。Deckel と Maho が一つになった Deckel Maho の時期(1990 年代の初め)は短いので、矢印の札に書きました。

186018801900192019401960198020002020Winklhofer & Jaenicke(Chemnitz)Wanderer-FahrradwerkeWanderer-Werkeフライス盤部門VEB Wanderer FräsmaschinenbauVEB Fritz HeckertWMK Fritz Heckert(コンビナート)Heckert(Treuhand→Traub)Starrag へStarragStarragHeckertFriedrich Deckel(München)Deckel Maho→DMGMaho(Pfronten)Deckel Maho→DMGSeebach の工場(東ドイツ)Maho と協力Gildemeister(Bielefeld)Gildemeister(DMG)DMG MORI AG(DMG森精機グループ)Gebr. Heller(Nürtingen)Berthold Hermle(Gosheim)Chiron(Tuttlingen)Grob(München)Grob(Mindelheim)Adolf Waldrich(Coburg)Waldrich Coburg(Ingersoll)Waldrich Coburg(Beijing No.1)帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [24][7][9][11][5][13][34][6][8][23][15][17][14]

見に行ける所

古いフライス盤は工場で使い切られることが多く、見られる所は限られます。公開日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

Industriemuseum Chemnitz(ケムニッツ産業博物館)Chemnitz(ザクセン州)Wanderer と Reinecker のふるさと Chemnitz の工作機械の歴史を見せる博物館。ベルトで機械を回す工房のほか、Fritz Heckert(旧 Wanderer)の柔軟な加工システム FMS 630 の全体の模型と実物の部品を持つ。2025 年には同じく Heckert の PRISMA 2 の模型を Starrag Chemnitz から借りて、デジタルツインと並べて見せた[49][33]
Deutsches Technikmuseum(ドイツ技術博物館)Berlin常設展示「工作機械」の歴史的な工房で、1860 年の蒸気機関が天井の伝動軸とベルトで 1900 年ごろの工作機械を回す。穴あけ・のこ引き・旋削・フライス削り・研削の機械が並び、実演の日がある[50]
DMG MORI Pfronten(旧 Maho の工場)Pfronten(バイエルン州)Maho が 1920 年に生まれた町の工場。いまは DMG MORI の欧州の主力工場の一つで、約 1,600 人が 50 種のフライス盤・マシニングセンタを作る。毎年はじめのオープンハウス(展示会)のときに見学できる[13]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「p.」は本・会報のページ、「コマ」は Internet Archive のスキャンの通し番号、「PDF p.」は PDF のページ番号です。特許の年は出願の年(優先日のあるものは優先日)です。

米国に学ぶ変速・電動機東西の再建MC と工具交換5 軸と統合18601880190019201940196019802000202018721899190919191925193219521960197919942016黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

米国に学んだ始まりと Chemnitz1866〜1913 年

年出来事メーカー・機種出典
1866年Ernst Schiess が Düsseldorf で工場を始める。修理と請負の仕事から、1870 年ごろに立て旋盤・門形のフライス盤・のちには横形のフライス盤を作るようになり、1880 年には国内の三大工作機械工場の一つになったと同社はするSchiess[1]
1867年Woodbury(1959)は立てフライス盤の歴史の注で、Chemnitz の J. E. Reinecker の 1867 年の機械に触れる(American Machinist 1918 年 p.890 による)。Reinecker が工具の店から工場になったのも 1867 年J. E. Reinecker[2・コマ42][3]
1870年Ludwig Loewe が、創業の前に米国を見て回り、ベルリンで米国式の製造(設計と製造の密な協力、少ない品種への集中、標準化、互換部品、品質の管理)を始めるLudwig Loewe & Co.[4]
1870年Friedrich Gildemeister が Bielefeld で工作機械づくりを始める(のちの Gildemeister、いまの DMG MORI AG)Gildemeister[5][6・PDF p.13]
1872年★Reinecker が米国の機械を手本に、フライス盤・研削盤・二番取り旋盤を作り始める。Chemnitz 産業博物館の会報も、Chemnitz でのフライス盤づくりは 1870 年代の初めに Reinecker から始まったとするJ. E. Reinecker[3][7・p.5]
1870〜80年代Woodbury によると、1870〜80 年代の大陸のメーカーはまず米国製のフライス盤を使い、やがて質の劣る大陸製の写しも使った。写しに元の米国のメーカーの名前まで写した例があった(1873 年のウィーン万博の米国の報告による)。この状態は 1908 年ごろまで続いた—[2・コマ6]
1890年Chemnitz の自転車メーカー Winklhofer & Jaenicke(のちの Wanderer)が、自社の部品を正確に作るためのフライス盤と専用機を自分で開発し始めるWanderer[7・p.5]
1894年Hermann Heller が Nürtingen で工具と小物の商売を始める(のちの Gebr. Heller)。1908 年にはラジアルボール盤 RB0〜RB2 を売っていたHeller[8]
1897年Loewe がベルリンに新しい工作機械工場を建てるため、米国人の技師 3 人を雇う。この年入社した Georg Schlesinger は、米国式の工具・ゲージ・治具と、万能フライス盤・旋盤・タレット旋盤など主な機種の生産の準備を任されたLudwig Loewe & Co.[4]
1899年★Wanderer が最初のひざ形フライス盤の一つ「単純フライス盤 Nr. 1」を国内の客に売る。角(つの)のある曲がったコラム、アーバの先をオーバアームのセンタで支える形、主軸の段車から 4 段の段車で送りを取る仕組み。ここから量産が始まった量産の開始を 1898 年とする地元の資料もある。会報と StarragHeckert の沿革の 1899 年を採ったWandererEinfach-Fräsmaschine Nr. 1[7・p.5][9]
1900年ごろWanderer が、テーブルを旋回できるひざ形の万能フライス盤 Nr. 1 と Nr. 3 を出すWandererUniversal-Konsol-Fräsmaschine Nr. 1・Nr. 3[7・p.5]
1905年Hermann Fischer の教科書『Die Werkzeugmaschinen』第 2 版の索引に、Reinecker(Chemnitz)の横形・立て形・長物用・平行フライス盤、Droop & Rein(Bielefeld)、Ernst Schiess(Düsseldorf)のフライス盤が並ぶ—[10・コマ834]
1905年ごろWanderer の単純フライス盤 Nr. 2 で、初めて送りの歯車箱をコラムの下に組み込む。主軸はまだ段車と歯車の減速(バックギヤ)で回し、送りもそこから取ったWandererEinfach-Fräsmaschine Nr. 2[7・p.5]
1909年★高速度鋼で切削速度と送りが上がったのに応えて、Wanderer がオーバアームの受けと主軸の歯車箱を、閉じた剛いコラムの中に収め始める。段車をやめ、アーバはオーバアーム側のすべり軸受で支えるようにしたWanderer[7・p.5]
1910年ミュンヘンでカメラのシャッターを作っていた Friedrich Deckel が、精密工作機械の製作を始める。翌 1911 年に自社の工場が動き出すFriedrich Deckel[11]
1913年Wanderer がフライス盤をロシア・オーストリア・ハンガリー・フランス・イタリアへ輸出する。Schönau の工場で 1899〜1920 年に作ったフライス盤は 1 万台を超えたWanderer[7・p.5]

歯車変速・電動機・重切削と二つの大戦1914〜1945 年

年出来事メーカー・機種出典
1919年★Hülle の教科書(第 4 版)は、新しい Wanderer のフライス盤が、1 枚の平ベルト車で入れ、歯車の変速箱で主軸を 16〜352 回/分の 16 段に変える構造になったと説明する。段車では大きな切削の力を伝えきれないためだったWanderer[12・コマ307]
1919年同じ本は、高速度鋼のフライスで重く削るとひざ形テーブルがいちばん弱いとして、ひざをやめて箱形のベッドにし、主軸の側を上下させる Reinecker の平面フライス盤(プラノミラーの小形版)を紹介するJ. E. ReineckerPlanfräsmaschine[12・コマ343]
1920年Pfronten(アルゴイ地方)で精密工 5 人が会社を作る(のちの Maho)Maho[13]
1920年2月Siegen の H. A. Waldrich の共同経営者だった Adolf Waldrich が、Coburg で Globuswerke を作る(のちの Maschinenfabrik Adolf Waldrich、いまの Waldrich Coburg)Waldrich Coburg[14]
1921年6月Tuttlingen で Otto Staebler と Gottfried Schnell が、手術器具と精密機器の会社を作る(のちの Chiron)Chiron[15]
1923年Karl Hüller が Ludwigsburg で治具の会社を作る(のちの Hüller Hille)。1931 年に最初の工作機械(ねじ立て盤)を作り、専用機へ進むKarl Hüller[16]
1925年★Wanderer が D 形の開発を始める。コラムに入れたフート形の電動機で 1 台ずつ動かし、すべての軸を転がり軸受に、歯車を焼入れ・研削したものに変え、テーブルのカムで送りと早送りを自動で切り替えたWandererD 形[7・p.5]
1926年Wanderer が Siegmar の新工場でフライス盤を作り始める。D 形は 1926〜30 年に 900 台作られ、1932〜33 年から「D 900」と呼ばれたWandererD 900[7・p.5][7・p.6]
1926年Ernst Grob がミュンヘンで会社を作る。1933 年に最初のねじフライス盤を作り、工作機械づくりに入るGrob[17][18]
1929年8月米国の業界誌が、Deckel の万能工具フライス盤が米国で売り出されたと伝える。抜き型(ポンチ)や工具を 1 回のつかみで削るための機械で、主軸頭と割出し台を動かして、フライス削り・穴あけ・中ぐり・溝削りを工作物を外さずにできたFriedrich Deckel万能工具フライス盤[19]
1932年12月★Deckel が、横形の主軸のフライス盤に「上から載せるアングルフライス装置」を組み合わせる特許を出願する(ドイツ特許 665218、1938 年公告)。1 台で横と縦の両方を削る、のちの万能工具フライス盤につながる考え方Friedrich Deckel[20]
1935年Siegmar の Wanderer のフライス盤工場が欧州最大になる。約 1,000 人で年に約 1,800 台。StarragHeckert の沿革は 1934 年を欧州最大のフライス盤工場とするWanderer[7・p.6][9]
1935年Heller が、Messerschmitt の高速機(Me 109 R)の軽合金のクランクケースの平面を削る専用フライス盤を作るHeller[8]
1935年5月米国の業界誌の新刊カタログの欄に、Deckel の「FP-1 万能工具フライス盤」の名が出る。FP1 は戦後の型ではなく、1930 年代なかばにはこの名で売られていたFP1 の最初の発表の年は確かめていない。1929 年の米国の記事は型の名を書いていないFriedrich DeckelFP1[21・p.414]
1936年Waldrich(Coburg)が特許の油圧駆動をライプツィヒの見本市で発表する。平削り盤のテーブルを油圧で動かすWaldrich Coburg[14]
1937年7月米国の業界誌が「新しい Deckel FP1 形」を紹介する。横の主軸に加えて、旋回できる立てフライス頭、電動機付きの高速の立て頭、取り外せる旋回テーブル、行程 3 インチ(約 76mm)の立て削り(スロッタ)の装置を付けられ、2 速・2 馬力の電動機で 12 段の回転と送りを選べたFriedrich DeckelFP1[22]
1938年Berthold Hermle が Gosheim でボルト・小ねじの会社を作るHermle[23]
1940年Wanderer のフライス盤の生産は年約 400 台から約 2,000 台に増える。ひざ形のほか、短・長ねじフライス盤、平面フライス盤、専用フライス盤、フライス工具も作った。増産の大きな理由は軍需Wanderer[7・p.6]
1942年Heller の機械に油圧の制御が入る。クランク軸フライス盤と、組み立て式の重いひざ形フライス盤も出すHeller[8]
1944年9月1900 年から数えて 25,000 台目のフライス盤を出したこの年、Siegmar のフライス盤工場が空襲で 60% 壊れる(StarragHeckert の沿革では 9 月 11 日)Wanderer[7・p.6][9]

東西の再建、工具フライス盤と最初の NC1945〜1969 年

年出来事メーカー・機種出典
1945年ソ連の占領軍が Wanderer の機械と設備を取り外して運び出す(州立文書館の解説では 1945 年 7 月 6 日〜1946 年 3 月)Wanderer[24][7・p.6]
1946年6月Siegmar でフライス盤づくりが再開し、100 人余りで年末までに 38 台を出すWanderer[7・p.6][9]
1948年ミュンヘン近くの Haar で、Wanderer の元幹部たちが新しい Wanderer の工場を作る。1951 年からフライス盤を作り、1980 年ごろまで Wanderer の名で続けたWanderer(Haar)[7・p.6]
1948年7月Wanderer が人民所有(国有)になり、フライス盤の部門が VEB Wanderer Fräsmaschinenbau になる。約 200 人で年 100 台。1951 年から VEB Fritz Heckert の名になるVEB Wanderer Fräsmaschinenbau[24][7・p.6]
1950年Maho が自社用の工作機械を作り始め、やがて大きな会社から特別仕様の機械の注文を受けるようになるMaho[13]
1951年8月Deckel 家の Friedrich Wilhelm Deckel と Hans Deckel が、倣いフライス盤の特許を出願する(スイス特許 301083)。前年にはねじ状の加工をするフライス盤の特許も出しているFriedrich Deckel[25]
1952年★Heller が横形の量産用フライス盤 FH 140 を出す。はじめはひざ形、のちにベッド形(PF)になり、同社は 1960 年代のマシニングセンタの先駆けと位置づけるHellerFH 140[8]
1954年専用機とトランスファーライン(1953 年に Opel へ変速機の箱のライン)の Hüller が、ひざ形フライス盤などの標準の工作機械も作り始めるKarl Hüller[16]
1956年Deckel の従業員が 3,000 人になる(創業者の没年 1948 年は 1,926 人)。NDB は「Deckel の精度」が精密機械の世界で決まり文句になったと書くFriedrich Deckel[11]
1957年Hermle がフライス盤の生産を始めるHermle[23]
1958年Chiron が金属加工用の送りユニットを出し、それを組み合わせた専用機へ進むChiron[15]
1960年旧 Wanderer の Fritz-Heckert-Werk(Karl-Marx-Stadt=いまの Chemnitz)が、工作機械の企業連合の中心の工場(基幹工場)になるVEB Fritz Heckert[24]
1960年10月★Deckel 家が「主駆動軸の軸線のまわりに旋回するフライス頭」の特許を出願する(ドイツ特許 1222355)。主軸頭を回して角度を変えても、駆動の歯車のかみ合いが外れない仕組みFriedrich Deckel[26]
1961年1月英国の業界誌に、Maho の万能工具フライス・彫り込み盤 MH 600・MH 700・MH 800・MH 1000 の 4 機種が並ぶ。最新とされた MH 800 は、横の主軸と立て頭を回す電動機と歯車をラムの中に収め、横の主軸の回転を毎分 32〜1,320 回の 18 段に変えられたMH の各機種の最初の発表の年は確かめていないMahoMH 600・MH 700・MH 800・MH 1000[27・p.17][27・p.98]
1961年8月Siegen の H. A. Waldrich と米国 Rockford の Ingersoll Milling Machine が相互のライセンスを結ぶ。Ingersoll は Waldrich の重旋盤とロール研削盤を米国で、Waldrich は Ingersoll の専用機を欧州向けに作り、フライスと中ぐりの刃物を作る Waldrich Siegen-Ingersoll Werkzeug GmbH も作る。Waldrich-Ingersoll の銘板は、9 月の Brüssel の第 7 回欧州工作機械展で初めて出たH. A. Waldrich(Siegen)・Ingersoll(米国)[28・p.85][29・p.14]
1962年★Heller が NC のフライス盤と、自動工具交換装置を付けたマシニングセンタを作るHeller[8]
1962年Kurt Kern が精密部品の請負の会社を作る(いまの Kern Microtechnik、Eschenlohe)Kern[30]
1967年6月Maho の Werner Babel が「立てフライス頭付きの万能フライス盤」の特許を出願する(ドイツ特許 1627098)Maho[31]
1968年Grob が Mindelheim に工場を作り、最初のトランスファーラインと、NC で送りの長さを変えられる専用機を作るGrob[18]
1968年東ドイツで工作機械コンビナート「Fritz Heckert」ができる。21 の工場・2 万人余りをまとめ、旧 Wanderer が基幹工場になる。のちに角物(箱形の部品)の機械を受け持ったVEB WMK Fritz Heckert[9][32・p.64]
1960年代末〜1975年Fritz Heckert で自動の加工システム PRISMA 2 が作られる。Chemnitz 産業博物館の会報は 1960 年代末に開発・設置とし、StarragHeckert の沿革は 1975 年に稼働とするStarragHeckert は「世界初の FMS」とするが、何をもって初とするかの資料は確かめていないVEB WMK Fritz HeckertPRISMA 2[33・p.2][9]

マシニングセンタと工具交換の工夫1970〜1993 年

年出来事メーカー・機種出典
1970年ごろThüringen の Seebach に工作機械の工場が建ち、1 年後に万能フライス盤とボール盤を作り始める(いまの DMG MORI Seebach)Seebach の工場(東ドイツ)[34]
1971年Siegen の H. A. Waldrich が米国の Ingersoll Milling Machine に売られ、Burbach の新工場へ移るWaldrich Siegen[35]
1972年Hermle が最初の万能フライス盤を発表する。翌 1973 年には万能フライス盤用の「旋回できる工作物テーブル」の特許を出願(ドイツ特許出願 2328439)Hermle[23][36]
1973年Waldrich Coburg が門形(ガントリー)のフライス盤を初めて発電機メーカーの Kraftwerk Union(Mülheim)に納める。最初の NC 機は 1971 年Waldrich Coburg[14]
1975年Waldrich Coburg が、テーブル幅 5,000mm・取り付け長さ 18,000mm の門形フライス盤を作るWaldrich Coburg[14]
1975年Hermle が NC フライス盤を作り始める。1978 年からは CNC のフライス盤Hermle[23]
1975年石油危機のあと Karl Hüller が Rheinstahl(のち Thyssen)の傘下に入り、同じ傘下の Hille Henschel と一つになって Hüller Hille になるHüller Hille[16]
1977年4月Chiron が「工具交換装置付きの工作機械」の実用新案を出願する。同じ年、Grob も最初のマシニングセンタ(車の車軸用)を作るChiron[37][18]
1979年7月★Maho が「万能ボール・フライス盤の工具置き場としての皿形マガジン」を出願する(ドイツ特許出願 2927823)。工具室の万能フライス盤に自動の工具交換を載せる工夫Maho[38]
1980年5月Chiron の Eugen Rütschle が「マガジン付き工具交換装置」を出願する。主軸に平行な軸で回る円板のマガジンを、カムで割り出しながら主軸の方へ出し入れするChiron[39]
1981年ハノーファーの工作機械展にマシニングセンタを出した会社は 200 社。AEI の本は、この年日本の出展者が技術で前に出たことがドイツの業界を驚かせ、1985 年(160 社)にはドイツが主導権を取り戻したように見えたと書く—[40・PDF p.65][40・PDF p.95]
1982年Heller が自社の CNC(uniPro NC 80)を積んだ BEA マシニングセンタの量産を始め、Chicago に工場を持つHellerBEA[8]
1982年9月★Chiron がかご形の工具交換の特許を出す(優先日。米国特許 4,557,035)。工具を主軸のまわりに輪に並べ、それぞれのホルダーが自分の駆動で主軸の真下に入る。工具交換の腕が要らないChiron[41]
1983年Grob が BZ シリーズ(マシニングセンタ)の開発を始めるGrob[18]
1977〜83年Pfronten の Maho(フライス盤とマシニングセンタ)の売上が、1976/77 年度の 8,000 万マルクから 1982/83 年度の 2 億マルクに伸びる。同じ記事は、売上の 3〜4%(多い会社で 7%)を研究開発に使って不況をしのいだ会社として Deckel・Index・Maho・Traub・Trumpf を挙げるMaho[42・p.36]
1984年Kern が自社用に開発した最初の CNC 微細穴あけ・フライス盤が動き出し、0.001mm 台の精度を出す。翌年バイエルン州の賞を受け、外にも売り始めるKern[30]
1984年Mosbach の Maschinenfabrik Diedesheim(のち Hüller Hille)がカセット式の工具マガジン PROCASS PC 601 を考え、同じ年に最初の柔軟な加工システムを Opel に納めるMaschinenfabrik DiedesheimPROCASS PC 601[16]
1986年Waldrich Coburg が米国の Ingersoll グループに売られるWaldrich Coburg[14]
1988年UNIDO の統計では、フライス削りをする機械の生産額のうちマシニングセンタの割合は、日本 81%・西ドイツ 39%。汎用のマシニングセンタの世界の供給は西ドイツ 48%・日本 36% と見積もられた—[32・p.143][32・p.32]
1989年10月Maho が「レーザフライス盤のノズル頭」の実用新案を出す。金型の彫り込みをレーザで削る機械で、のちの DMG MORI の LASERTEC につながるMaho[43]
1990年UNIDO の報告は、西ドイツ最大の工作機械メーカーを Deckel とし、NC に力を入れすぎて中小の昔からの客を失ったことが不振の一因だと伝える(International Management 1990 年 6 月による)Friedrich Deckel[32・p.39][32・p.137]
1990年東西統一で、Treuhand(信託公社)のもとに Heckert Chemnitzer Werkzeugmaschinen GmbH ができる。1992 年にマシニングセンタ CWK 400〜1600 を作り、1993 年に Traub に買われるHeckert[9]
1990年東の Seebach の工場が Pfronten の Maho と協力を始め、のちに DMG の一員になる。同じ年、Hermle が株式会社になり上場するSeebach・Maho[34][23]

5 軸と統合1994 年〜

年出来事メーカー・機種出典
1994年★1990 年代初めに破産した Deckel Maho(Deckel と Maho が一つになった会社)の大部分を、Bielefeld の旋盤メーカー Gildemeister が引き取る。旋盤の Gildemeister とフライス盤の Deckel Maho で「DMG」になるGildemeister・Deckel Maho[5][13]
1994年11月Hermle がボール・フライス盤の構造の特許を出す(優先日。米国特許 5,611,137)。ベッドの左右の壁と、その間の 3 本目のレールで縦の送り台を支え、真ん中で駆動する。偏った力でねじれても、力が案内に直角にかかるHermle[44]
1996年Thyssen のもとで一つになった Hüller Hille が、Mosbach で横形マシニングセンタ NBH 170 を出す(のちに NBH 230・290・350)。1998 年には 4 主軸の 4-CUTHüller HilleNBH 170[16]
1996年7月★Grob がマシニングセンタの特許を出す(優先日。ドイツ特許出願 19654536)。テーブルをパレットの上に置き、工作物をパレットから下へ吊るして削るGrob[45]
1998年Grob が直線の軸にリニアモータを使った最初のマシニングセンタ BZ600L を作るGrobBZ600L[18]
1998年Traub の破産(1996 年)のあと新しく作られた Heckert(198 人)を、スイスの Starrag が買う。2000 年に StarragHeckert グループになるStarrag・Heckert[9]
2004年Grob がモジュール式のマシニングセンタ G シリーズ(G モジュール)を出す。3 年足らずで 1,000 台を納めたGrobG モジュール[18]
2004年米国の親会社 Ingersoll の破産で、Waldrich Coburg と Waldrich Siegen がまとめて Herkules グループに売られる。2005 年に Coburg は北京第一工作機械(Beijing No.1)の傘下へWaldrich Coburg・Waldrich Siegen[14][35]
2005年Kern が Evo と Pyramid Nano を出す。Pyramid Nano は各軸を静圧(油の膜で浮かせる)軸受で支える超精密のマシニングセンタKernKern Evo・Kern Pyramid Nano[46][30]
2007年Grob が 5 軸のユニバーサル・マシニングセンタ G350 をハノーファーの EMO で発表する。2009 年に G550、2011 年に旋削もできる G550TGrobG350[18]
2007年Deckel Maho Pfronten が小形の 5 軸機 DMU 40 monoBLOCK の量産を始める。同じ年の Gildemeister の年報の表紙は、5 軸同時制御の DMC 125 FD duoBLOCK で 890 分かけて仕上げたまがりばかさ歯車Gildemeister(DMG)DMU 40 monoBLOCK・DMC 125 FD duoBLOCK[47・PDF p.94][47・PDF p.4]
2009年Heller が 5 軸の量産機 F シリーズを出す(2007 年に 4 軸の横形 H シリーズ、2016 年に 5 軸の HF シリーズ)HellerF シリーズ[8]
2009年ドイツの DMG(Gildemeister)と日本の森精機製作所が資本・業務提携を結ぶ。森精機は 2013 年に DMG森精機と名を変えるDMG・森精機製作所[48]
2016年6月★DMG MORI AKTIENGESELLSCHAFT が、日本の DMG森精機の子会社との支配・利益移転契約(2016 年 6 月 2 日)で、DMG森精機のグループの一員になるDMG MORI AG[6・PDF p.9]
2019年Grob が横浜に拠点を作る(同じ年にフランス・ベトナムにも)Grob[17]
2026年韓国の DN Solutions が Heller を買う(Heller の沿革による)Heller[8]

よくある質問

ドイツでフライス盤を最初に作ったのはどこですか?
はっきりした年が人名事典で確かめられる早い例は、Chemnitz の J. E. Reinecker です。NDB によると 1872 年に米国を手本にしてフライス盤・研削盤・二番取り旋盤を作り始めました。Woodbury の本は Reinecker の 1867 年の機械にも触れています。それ以前のドイツの工場は、米国製のフライス盤を輸入したり写したりしていました。
Deckel と Maho はどんな会社で、今はどうなっていますか?
Deckel(1903 年、ミュンヘン)はカメラのシャッターの会社から精密工作機械に進み、横と縦の主軸を 1 台にした万能工具フライス盤で知られました。Maho(1920 年、Pfronten)も万能フライス盤から CNC の機械へ進みました。両社は 1990 年代の初めに一つになり、1994 年に Gildemeister が引き取って DMG になりました。いまは DMG MORI の一員で、Pfronten の工場が今もフライス盤・MC を作っています。
Chiron の「かご形」の工具交換とは何ですか?
工具を主軸のまわりに輪のように並べ、それぞれの工具ホルダーが自分の駆動で主軸の真下に入って工具を渡す仕組みです。工具を運ぶ交換の腕が要らないので、交換が速くなります。Chiron は 1980 年にマガジン付きの工具交換装置を、1982 年にこの形の特許を出願しました。
東ドイツのフライス盤のメーカーはどうなりましたか?
Chemnitz の Wanderer のフライス盤部門は、戦後に国有の VEB Fritz Heckert になり、1968 年から工作機械コンビナートの中心でした。統一後は Treuhand のもとで会社になり、1993 年に Traub に買われ、1996 年の破産のあと新会社になり、1998 年にスイスの Starrag に買われて StarragHeckert になりました。東の Seebach の工場は Maho と協力し、いまは DMG MORI の 5 軸機の工場です。

この先と関係するページ

出典

特許は DEPATISnet(ドイツ特許商標庁)の書誌で番号・出願日・出願人を、人物と会社の古い歩みは『Neue Deutsche Biographie』(NDB)とザクセン州立文書館の解説で、当時の教科書と Woodbury の本は Internet Archive のスキャンで、Chemnitz 産業博物館の会報は博物館の PDF で、メーカーの沿革と年次報告書は各ページを 2026 年 10 月に確かめました。Internet Archive の本の番号はスキャンのコマ(Woodbury は 1 コマに見開き 2 ページ)です。「最初」「最大」は、本文で「同社は〜とします」と書いたものはメーカー自身の記述です。特許の年(出願)と製品の年(発表・出荷)は 1〜数年ずれることがあるので、本文で書き分けています。

  1. SCHIESS Werkzeugmaschinenfabrik「Unsere Geschichte」
  2. Robert S. Woodbury『History of the Milling Machine』MIT Technology Press(1959)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号。1 コマに見開き 2 ページ)コマ 6・42
  3. Wolfgang Uhlmann「Reinecker, Julius Eduard」Neue Deutsche Biographie 21(2003)S.349
  4. Wolfram Fischer「American influence on German manufacturing before World War I: the case of the Ludwig Loewe Company」『L’américanisation en Europe au XXe siècle』第 1 巻、IRHiS(OpenEdition Books)pp.59–69
  5. 『International Directory of Company Histories』「Gildemeister AG」(Encyclopedia.com 収録)
  6. DMG MORI AKTIENGESELLSCHAFT『Geschäftsbericht 2020』(年次報告書、ESEF 版)※番号は PDF のページPDF p. 9・13
  7. Peter Stölzel「Der Bau von Fräsmaschinen in den Wanderer-Werken」『Vereinskurier』12 号(2004 年 12 月)S.5–6、Förderverein Industriemuseum Chemnitzp. 5・6
  8. HELLER「HELLER history」
  9. StarragHeckert Holding AG「Historie」(2011 年の Web Archive の保存版)
  10. Hermann Fischer『Die Werkzeugmaschinen』第 1 巻 第 2 版、Julius Springer(1905)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号)コマ 834
  11. Franz Ludwig Neher「Deckel, Friedrich Wilhelm」Neue Deutsche Biographie 3(1957)S.543 f.
  12. Fr. W. Hülle『Die Werkzeugmaschinen』第 4 版、Julius Springer(1919)※番号はスキャンのコマ(Internet Archive の n 番号。コマ 303=p.269、307=p.273、343=p.309)コマ 307・343
  13. DMG MORI「Pfronten – Precision as a passion」(工場の案内)
  14. WALDRICH COBURG「Our company history」
  15. CHIRON Group「History」
  16. Zuse Hüller Hille「Historie」(2016 年の Web Archive の保存版)
  17. GROB-WERKE「Historie」
  18. GROB-WERKE「Technologische Meilensteine」
  19. 『American Machinist』71 巻 7 号(1929 年 8 月 15 日)「Deckel Universal Tool Milling Machine」
  20. Friedrich Deckel「Fräsmaschine mit waagerechter Arbeitsspindel und einer aufsetzbaren Winkelfräseinrichtung」ドイツ特許 665218(1932 年 12 月 4 日出願、1938 年公告)
  21. 『American Machinist』79 巻(1935 年 5 月 22 日)新刊カタログの欄p. 414
  22. 『Tooling & Production』3 巻 4 号(1937 年 7 月)「New Deckel Type FP1 Universal Milling Machine」
  23. HERMLE「Milestones of our company history」
  24. ザクセン州立文書館 Chemnitz 館 31030「Wanderer-Werke AG, Siegmar-Schönau」(文書群の解説)
  25. F. W. Deckel・Hans Deckel「Fräsmaschine, insbesondere Kopierfräsmaschine」スイス特許 301083(1951 年 8 月 10 日出願)
  26. F. W. Deckel・Hans Deckel「Fräsmaschine mit einem um die Achse der Hauptantriebswelle schwenkbaren Fräskopf」ドイツ特許 1222355(1960 年 10 月 18 日出願)
  27. 『Machinery』(英国)98 巻 2513 号(1961 年 1 月 11 日)p.17 の広告と p.98 の新製品の記事p. 17・98
  28. 『American Machinist』105 巻 17 号(1961 年 8 月 21 日)「Ingersoll-Waldrich agreement」p. 85
  29. 『Purchasing Week』4 巻 34 号(1961 年 8 月 21 日)「Ingersoll Concludes Pact With West German Firm」p. 14
  30. 「Kern Microtechnik celebrates 60 successful years」etmm(European Tool & Mould Making)2022 年 10 月 1 日
  31. Werner Babel(Maho)「Universal-Fräsmaschine mit Senkrechtfräskopf」ドイツ特許 1627098(1967 年 6 月 19 日出願)
  32. UNIDO 事務局『The World Machine-Tool Industry. Background paper』ID/WG.514/4(1991 年 6 月 28 日)p. 32・39・64・137・143
  33. Eberhard Kühlfluck「Editorial」『Transmission』54 号(2024 年 12 月)S.2–3、Industriemuseum Chemnitzp. 2
  34. DMG MORI「Seebach」(工場の案内)
  35. 「WaldrichSiegen feiert 175-jähriges Unternehmensjubiläum」Industrial Production(industrial-production.de)
  36. Paul Bernlöhr(Berthold Hermle KG)「Schwenkbarer Universal-Aufspanntisch für eine Universal-Fräsmaschine」ドイツ特許出願 2328439(1973 年 6 月 5 日出願)
  37. Chiron-Werke「Werkzeugmaschine mit einem Werkzeugwechsler」ドイツ実用新案 7711470(1977 年 4 月 13 日出願)
  38. Werner Babel・Willi Krug(Maho)「Tellermagazin als Werkzeugspeicher einer Universal-Bohr- und Fräsmaschine」ドイツ特許出願 2927823(1979 年 7 月 10 日出願)
  39. Eugen Rütschle(Chiron-Werke)「Werkzeugwechsler mit Magazin」ドイツ特許出願 3017964(1980 年 5 月 10 日出願)
  40. Anderson Ashburn「The Machine Tool Industry: The Crumbling Foundation」, Donald A. Hicks 編『Is New Technology Enough? Making and Remaking U.S. Basic Industries』American Enterprise Institute(1988)※番号は PDF のページPDF p. 65・95
  41. R. Haninger・E. Rütschle・H.-H. Winkler(Chiron-Werke)「Machine tool with tool magazine」米国特許 4,557,035(1983 年 9 月 2 日出願、優先権はドイツ 1982 年 9 月 13 日)
  42. 米国 JPRS『West Europe Report: Science and Technology』JPRS-WST-84-001(1984 年 1 月 4 日。ドイツの工作機械業界についての欧州の誌面の記事の英訳)pp.35–36p. 36
  43. Maho AG「Düsenkopf für eine Laser-Fräsmaschine」ドイツ実用新案 8911733(1989 年 10 月 2 日出願)
  44. Hans-Dieter Braun(Berthold Hermle AG)「Machine tool, more particularly for drilling and milling」米国特許 5,611,137(1995 年 10 月 27 日出願、優先権はドイツ 1994 年 11 月 19 日)
  45. Karl Rehm(Grob-Werke)「Bearbeitungszentrum」ドイツ特許出願 19654536(1996 年 12 月 27 日出願、優先権 1996 年 7 月 26 日)
  46. KERN Microtechnik「Company brochure」(英語版 PDF)
  47. GILDEMEISTER AG『Geschäftsbericht 2007』(年次報告書)※番号は PDF のページPDF p. 4・94
  48. DMG森精機「History」
  49. Günter Rudolph「Fünf Jahre Arbeitsgruppe Werkzeugmaschinen」『Vereinskurier』3 号(2001 年 12 月)S.6–7、Förderverein Industriemuseum Chemnitz
  50. Deutsches Technikmuseum(ドイツ技術博物館)「Werkzeugmaschinen」(常設展示の案内)