GERMANY 08ドイツの歯車機械の系譜
歯車の歯を削る機械(歯切り盤)と、焼入れした歯を仕上げる機械の歴史で、ドイツ語圏は世界の中心の 1 つでした。ねじのような刃物で歯を連続して削り出すホブ盤の基本の形、円すい形のホブで曲がり歯のかさ歯車を削る方法、歯車研削盤、そして 100 年眠っていたスカイビング。どれもドイツ(とスイス)で特許になり、機械になりました。この章では、機械の仕組みがどう変わったか(差動歯車 → 親歯車と換え歯車 → 電子ギヤ、高速度鋼 → 超硬 → CBN)と、それで現場の歯車づくりがどう変わったかを、特許・人名事典・業界誌・大学とメーカーの沿革で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けてたどります。
ホブ盤も
スカイビングも
特許はドイツ!

歯車の歯の削り方は、刃物そのものが歯溝の形をしていて 1 溝ずつ削る成形法と、刃物と素材をかみ合う歯車どうしのように動かして歯形を「生み出す」創成法に分かれます。ホブ切り・歯車形削り・スカイビング・連続創成研削は創成法、総形砥石の成形研削は成形法です。今の削り方は歯車の加工法、工具はホブ・スカイビングカッタ・シェービングカッタのガイドで解説しています。アメリカの Gleason・Fellows の歩みはアメリカの歯車機械の章、日本の歯切り盤は国産アーカイブ第 4 章にあります。
ホブ盤の誕生と、歯車の会社の始まり(1887〜1918 年)
ホブ切りは何が新しかったか
19 世紀の歯車は、歯溝の形をした成形フライスで 1 溝削っては素材を 1 歯ぶん回す(割り出す)、というやり方が主流でした。これだと歯数やモジュールが変わるたびに刃物を替えなければならず、割り出しのたびに機械が止まります。ホブは、ねじ(ウォーム)に溝を切って刃を付けた刃物です。ホブを 1 回転させるあいだに素材を 1 歯ぶん回すように、両方を決まった比で回し続けると、ホブの刃はラックのように素材に次々と当たり、インボリュートの歯形が「転がり」で自然にできます。同じモジュールなら歯数の違う歯車を 1 本のホブで削れ、しかも止まらずに削り続けられるのが強みでした[4]。
考え方そのものは 19 世紀の英国と米国にもあり、ドイツでも 1893 年の Juengst、1894 年の Chemnitz(ケムニッツ)の J. E. Reinecker(ライネッカー)が平歯車用のホブ盤を出しています。ただ、どれも素材の軸とホブの送りが水平の初期の形でした[4]。Reinecker で 1887 年から設計主任をしていたのが、のちのホブ盤の父 Robert Hermann Pfauter(プファウター、1854〜1914)です[1]。
Pfauter の特許:差動歯車ではすば歯車を削る
Pfauter は 1897 年 9 月 1 日、ホブではすば歯車を削る方法と機械をドイツで特許出願しました(DRP 112082。人名事典 NDB は成立の年で「1900 年の特許」と書きます)[7][1]。はすば歯車では、ホブが歯幅の方向に下りていくにつれて歯が斜めにずれていくので、素材の回転を送りに合わせて少しずつ足したり引いたりしなければなりません。Pfauter の要点は、この「足し引き」を差動歯車でホブと素材の回転に加えたことです。特許の請求では、軸方向のまっすぐな送りに差動歯車からの円周方向の動きを足し、送りねじの回転を差動歯車に入れてホブの駆動を進めたり遅らせたりする仕掛けが書かれています[7]。1900 年に成立した米国特許 640,728 も、カッタの台を回して角度を変えれば平歯車も削れ、送りに合わせて余分の回転を足すとはすばの歯になる、と説明しています[11]。
米国の歴史家 Woodbury は、ホブの軸を歯車の軸に対して自由な角度に傾けられ、差動歯車ではすば歯車まで削れる Pfauter の機械で、ホブ盤の基本の要素がそろったと評価しています[4]。現場の言葉でいえば、割り出しの換え歯車と、ねじれ角のための換え歯車を分けて組めるようになったので、ねじれ角を変えるたびに割り出しの歯車を全部組み直す手間がなくなりました。日本のホブ盤の「差動歯車付き」がありがたがられたのも、この仕組みのためです(国産アーカイブ第 4 章)。
Pfauter は 1900 年に Chemnitz に自分の会社を作り、ホブ盤の専門メーカーになります[8][1]。NDB によると 1905〜13 年におよそ 2,000 台を作り、アメリカでもよく売れました(Gleason-Pfauter の沿革は 2,000 台目を 1908〜14 年とします)[1][8]。1914 年に Pfauter が亡くなると妻の Clara が会社を継ぎ、息子たちが小さな歯車用から大きな歯車用まで品ぞろえを広げました[1]。1961 年の英国の業界誌によると、Pfauter は 1936 年に 10,000 台目を祝い、大戦が終わる 1945 年までに 17,000 台を作っています[28]。
形削り盤・研削盤・シェービングの会社が生まれる
同じころ、のちのドイツの歯車機械を担う会社が次々に生まれています。Ettlingen(エットリンゲン)では実業家 Wilhelm Lorenz が 1890 年に工場を買い、1893 年に Maschinenfabrik Lorenz としました。歯車の形をした刃物を上下させて歯を削る歯車形削り盤(ギヤシェーパ)と歯切り工具の名門になる会社です[2][3]。1909 年の米国の本には Lorenz のホブ盤が載り、1934 年にはモスクワの工場が Lorenz の歯車形削り盤を手本に作っていました[14][27]。München(ミュンヘン)では 1896 年に Carl Hurth(フルト)が機械工場を開き、自社の歯車の質を保つために最初の歯切り盤を自分で作りました[5][6]。Berlin では 1898 年、米国の Niles Tool Works の技術を使う Deutsche Niles-Werke ができます。初めは大形の旋盤や平削り盤の会社で、歯車研削盤に進むのは 1930 年代です[9]。
焼入れした歯車を研ぐ機械も、早くから Chemnitz で生まれていました。1909 年の米国の本『Gear-Cutting Machinery』は、自動車の焼入れ歯車を仕上げる Reinecker の研削盤を紹介しています。ラックの歯の形に整えた砥石の両側を使い、歯車を仮想のラックの上で転がすように動かして 1 溝ずつ研ぐ機械で、直径約 11 インチ(約 280mm)・歯幅 2 インチまでの歯車を研げました[14]。Woodbury はこれを自動車の焼入れ歯車を研削した最初の機械としています[4]。
1910 年のスカイビングの特許
この時期でいちばん先を見ていた特許が、1910 年 3 月 1 日から有効になったドイツ特許 243514 です。歯車の形をした刃物(歯の端面に刃を付けたもの)と素材の軸を斜めに交差させ、両方を連続して回すと、軸が交差しているぶん刃が素材の上を滑り、それが切削の動きになる、という方法でした。明細書は、形削り盤では刃物が往復するたびに戻り行程がむだになり、ホブ切りは止まらずに削れるが内歯車には使えない、と書き、この方法なら内歯車を止まらずに削れるとうたっています[15]。今のスカイビング(Wälzschälen、パワースカイビング)そのものです。
論文やメーカーはこれを「Wilhelm von Pittler(ピットラー)の特許」と呼びます[16][17]。Pittler は Leipzig でタレット旋盤のメーカーを起こした発明家で、1909 年に London へ移り、1910 年 9 月に亡くなりました[18]。特許庁の書誌では出願人が London の George Adams だけになっていますが、1912 年 2 月に発行された明細書の表紙を見ると、名義は「London の George Adams と、London で亡くなった Wilhelm von Pittler の権利承継人」です[15]。考えは正しかったのに、この方法が工場で使われるまでには約 100 年かかります(再編・ドライカット・スカイビング)。
Maag と ZF:歯車の会社が機械を広める
隣のスイスでは、1913 年に Max Maag(マーグ)が Zürich で歯車の会社を起こしました。Maag は刃物の動かし方(転位)を変えて歯元を強くする独自の歯形を考え、ラック形の刃物で削る歯車平削り盤と、ベルギーの自動車会社 Minerva の求めで作った平歯車の研削盤を出しています[19][20]。ドイツとの結びつきは強く、Maag は 1915 年に Mülheim の Thyssen などにライセンスを出し、同じ年に飛行船の Zeppelin 社と共同で Friedrichshafen に Zahnradfabrik Friedrichshafen(ZF)を作りました。ZF の初代の経営者 Alfred von Soden-Fraunhofen は、飛行船の発動機の歯車がうるさいことに悩んでいた技術者です[23][19]。歯車を使う側の会社が、精密な歯車を作るために機械と歯形を一緒に買う。この形は、のちの自動車の変速機づくりにつながります。
工具の側では、Remscheid(レムシャイト)の工具商 Klingelnberg(クリンゲルンベルク)が 1914〜16 年に歯切り用のホブを作り始め、1916 年に工場を Hückeswagen(ヒュッケスヴァーゲン)へ移しました[21][22]。第一次世界大戦中、米国が敵側になると、Deutsche Niles-Werke は米国の会社の名前を外して Maschinenfabrik Oberschöneweide と名乗っています(1920 年に元の名に戻る)[9]。
かさ歯車・歯車研削・ダウンカット(1918〜1945 年)
Klingelnberg の Palloid:円すい形のホブでかさ歯車を削る
自動車の後車軸に使う曲がり歯かさ歯車は、米国の Gleason が 1913 年に刃物頭(カッタヘッド)で 1 溝ずつ削る機械を出し、市場を押さえていました(アメリカの歯車機械の章)。Klingelnberg は 1922 年、ホブでかさ歯車を削る Schicht と Preis の特許を買い取ります。NDB によると、思いがけない数学と製作の難しさがあり、大きな費用をかけて Klingelnberg と技術者たちが解きました[21]。これが Palloid(パロイド)方式で、同社の沿革は 1922 年から Palloid 方式の歯切り盤を作り始めたとしています[22]。
1923 年に Hückeswagen の工場でできた最初のかさ歯車ホブ盤 FK 150 は、刃物台をいろいろな円すい角に合わせられ、円すい角 40° のホブを使いました[22]。円すい形のホブ(円すい形のウォームをまねた刃物)を回しながら素材も回し続けるので、Gleason の方式のように 1 溝ずつ割り出して止まる時間がありません。歯すじの形も違い、Gleason の歯車は円弧、Palloid はほぼインボリュートの曲線になります[47]。NDB は、最初期のこの種の機械の 1 台が München の Deutsches Museum にあると書いています[21]。Klingelnberg は 1935 年に振り子式の万能歯車試験機も出し[22]、歯車を「削る」と「測る」の両方を持つ会社になりました。
戦後、かさ歯車には刃物頭(円形のカッタ)を使いながら割り出しなしで削る方式が加わります。スイスの Oerlikon は 1950 年までに、刃物頭の回転・素材の回転・創成の転がりの 3 つをつなげて連続で削る Spiromatic No. 2 を出し[35]、Klingelnberg も刃物頭で削る Cyclo-Palloid 方式の機械を作りました。1957 年の英国の技術誌は、小さなかさ歯車用の FK 41(先の FK 40 の改良)を紹介しています[46]。Cyclo-Palloid と Oerlikon の歯すじは、延長エピサイクロイドという曲線になります[47]。
歯車研削盤:Niles の部分創成研削
1920〜30 年代、自動車と航空機の発動機の歯車は、焼入れしたあとの歪みを取って静かに回すために研削が欠かせなくなります。ZF は 1925 年に乗用車・トラック・バスに共通の変速機を売り出し、1926 年には静かな歯車のため、ベルギーの Minerva からはすば歯車を研削する技術のライセンスを買いました[23]。
Berlin の Niles では、技術者 Paul Uhlich が 1926 年ごろから下準備を進め、1931 年に自分の部分創成研削(Teilwälzschleifen)の歯車研削盤を作り、特許で守りました。KAPP NILES の年表は、自動車・航空機の発動機・機械の分野で精密な歯車の需要が増え、それまでの方法では足りなくなったと書いています[9]。部分創成研削は、ラックの歯の形の砥石に対して歯車を転がして 1 つの歯溝の両側を研ぎ、終わったら 1 歯ぶん割り出して次の溝へ進む方法です。全部の歯を連続して研ぐ方法(あとで出てくる連続創成研削)に対して「部分」と呼びます。Niles は 10 年で 500 台目の研削盤(RS 形)を出しますが、1941 年末からは週 60 時間の軍需生産になり、強制労働者も働かされました[9]。
Pfauter のダウンカット
ホブ盤の側では、Pfauter が 1938〜39 年にダウンカット(送りと同じ向きに削るホブ切り)を製品にし、最初の自動ホブ盤とモーター付きのホブ頭を出しました[8]。戦後のソ連の技術誌は、Pfauter が戦前に直径 350〜2,500mm の歯車用の大きな RS 形に送り方向の歯切りの装置(油圧のつり合い装置を含む)を付けていたことを紹介し、機械が静かで振動が少なく、刃物が長持ちして切削速度も上げられると説明しています[29]。普通のホブ切り(アップカット)は刃が薄いところから食い込むので刃先がこすれる時間が長いのですが、ダウンカットは厚いところから入るので摩耗と熱が減ります。そのかわり送りねじのガタで刃物が引き込まれないよう、つり合いの仕掛けが要りました。今のホブ盤でダウンカットがふつうに選べるのは、この時期の工夫が元になっています。1927 年には VDI の会誌に Pfauter の方式の成り立ちを解説する論文も載りました[4][1]。
歯車の強さの研究の始まりと戦争
歯車を作る側だけでなく、使う側の計算も大学で研究され始めます。Gustav Niemann(ニーマン、1899〜1982)は 1934 年に TH Braunschweig の機械要素の教授になり、ローラの試験機で歯面の転がりの圧力と寿命を調べ、1942 年にはウォームギヤの流体潤滑の理論と、歯形が凹んだ円弧の Cavex ウォームを出しました[25][26]。1939 年、ZF は工場を軍需生産に切り替えます[23]。大戦の終わりには、Berlin-Weißensee の Niles の大きな工場は焼け跡になっていました[9]。
東西に分かれた歯車機械(1945〜1974 年)
Pfauter は東の Chemnitz と西の Ludwigsburg に分かれる
敗戦で、ドイツの歯車機械の産地は東西に分かれました。ソ連の占領地域になった Chemnitz では、Pfauter の工場は設備の大半を解体・搬出され、接収されます[8][1]。米国の情報機関の 1952 年の報告も、ソ連地域の工作機械工場の多くが、価値の高い機械を賠償として持ち去られたあと、半端な部品から機械を組み直して 1947〜48 年に再開したと書いています(この報告は Pfauter を Leipzig の会社と書き誤っています)[30]。
Pfauter の家族と技術者の多くは Chemnitz を離れていったん Berlin へ移り、西側で再出発します。1961 年の英国の業界誌によると、1947 年 6 月に Opel が Rüsselsheim の爆撃で傷んだ小さな建物を貸し、1948 年には Bochum の Eickhoff が Pfauter の RS2 形を 15 台作り、1949 年秋に Kornwestheim の元戦車修理所へ移って RS1 形と小形の R16 形を作りました。新しく計画した Ludwigsburg(ルートヴィヒスブルク)の工場が動き出したのは 1951 年です[28](NDB は Ludwigsburg を 1948 年、Gleason-Pfauter の沿革は 1952 年と書きます[1][8])。1961 年には Ludwigsburg で 20,000 台目を祝い、最後の 3,000 台の約 45% は Frieseke & Hoepfner などのライセンス生産でした[28]。米国では Fellows が「Fellows-Pfauter」の名で Pfauter のホブ盤を売り、1961 年に直径約 635mm までの P 630 を出しています[50]。一方、Chemnitz の本工場は 1950 年に人民所有企業 VEB Zahnschneidemaschinenfabrik „Modul“(歯切り盤工場モドゥール)として再出発します[32][1]。同じ Pfauter の流れから、西の「Pfauter」と東の「Modul」の 2 つのホブ盤メーカーが生まれたわけです。Modul は東ドイツの輸出公社 WMW を通して ZFWZ 形のホブ盤(ZFWZ 250 から 2000 まで)を売り、1982 年のライプツィヒ春の見本市には曲がり歯かさ歯車用のホブ盤 ZFTKK 500/2 K も出しています[54]。
東ベルリンの Niles:東側でただ 1 社の歯車研削盤
東ベルリンの Niles は 1949 年 2 月に人民所有企業 VEB Deutsche Niles-Werke になり、1950 年に Chemnitz の工作機械の連合(VVB WMW)に入って、1952 年に VEB Großdrehmaschinenbau「7. Oktober」と名前を変えました[9]。歯車研削盤では東ドイツでただ 1 社のメーカーで、1958 年には作れる量の 2 倍の注文を抱え、ソ連・中国・ポーランド・チェコスロバキア・朝鮮へ輸出しています[9]。1966 年の ZSTZ 315 C はライプツィヒ春の見本市に出て西ドイツにも売れ、1968 年の型はすでにプログラム制御を備えていました。開発には Karl-Marx-Stadt(東ドイツ時代の Chemnitz)の工作機械研究所と TU Dresden が協力しています[9]。1970 年には左右の歯面を同時に研ぐ二歯面研削で研削時間を最大 40% 縮め、DIN 3962 の 5〜6 級の精度を出しました[9]。
西の新しい顔ぶれ:Hurth のシェービング、Liebherr、KAPP
西ドイツでは、自動車の量産が歯車機械の新しい需要を作ります。München の Hurth は 1946 年にはすば歯車のための最初のシェービング盤を考えたとされます[5]。シェービングは、細かい溝の刃をもつ歯車形のカッタを、軸を少し交差させて歯車とかみ合わせて回し、焼入れの前に歯面を薄くそいで仕上げる方法です。ホブで削ったあとの細かい凹凸と歯形の誤差を、研削よりずっと短い時間で整えられるので、変速機の歯車の量産で「ホブ切り → シェービング → 焼入れ」が型になりました。
クレーンの Liebherr(リープヘル)は、変速機の歯車が手に入りにくかったことから、1952 年に Kirchdorf an der Iller の工場でホブ盤を自分で作り始めました。1962 年に歯切り盤の生産を Kempten(ケンプテン)へ移し、1969 年に Liebherr-Verzahntechnik GmbH になります[36][37][3]。1967 年には、油の膜で浮かせて滑らせる静圧案内を使った最初の歯車形削り盤を作りました[3]。往復運動の多いギヤシェーパで案内の摩耗を減らし、精度を長く保つための工夫です。
Coburg(コーブルク)では 1953 年 7 月、技術者 Bernhard Kapp が Maschinenfabrik KAPP & CO を作りました。初めは木工機械を作り、1958 年からホブなどの工具を研ぐ研削盤に進みます[9]。1970 年に CBN(立方晶窒化ホウ素、ダイヤモンドの次に硬い砥粒)の砥石が市場に出ると、KAPP はいち早く使い始めました[9]。
スイスの Reishauer:ねじ状の砥石で連続して研ぐ
隣のスイスでは、1945 年に Reishauer(ライスハウアー)が、ホブと同じねじ状の砥石を歯車とかみ合わせて回し、全部の歯を止まらずに研ぐ連続創成研削の機械 ZA を出しました[31]。部分創成研削より速いこの方式は、のちに自動車の変速機の歯車の仕上げの主流になり、日本では三菱重工業が 1966 年に Reishauer の技術で歯車研削盤の生産を始めています[48]。
この時代の機械の中身。ホブ盤も歯車研削盤も、刃物(砥石)と素材の回転は、親歯車(マスタウォームホイール)と換え歯車の列で機械的に合わせていました。精度は親歯車の精度と歯車列のガタで決まり、歯数やねじれ角を変えるたびに換え歯車を計算して組み替えます。中古の古いドイツ機で換え歯車の表が付いているのは、このためです。
NC・電子ギヤ・CBN(1975〜1994 年)
NC ホブ盤と PE150
1975 年、Pfauter はパリの工作機械見本市 EMO で最初の数値制御(NC)のホブ盤を見せました[8][5]。1983 年に 1 号機が納められた CNC ホブ盤 PE150 は、Gleason が「史上いちばん売れたホブ盤」と呼ぶ機種になります[8][5]。NC 化の意味は、換え歯車の計算と組み替えがなくなり、段取り替えが数字の入力で済むことでした。少量多品種の歯車工場ほど効き目が大きかったわけです。
電子ギヤ:歯車研削盤から始まった同期の電子化
回転の同期そのものを電子にしたのは、東ベルリンの旧 Niles です。1984 年に公開した ZSTZ 06 EG-CNC は、直流サーボモータと電子の制御器、回転角を測るレゾルバで砥石と歯車の回転を合わせる電子ギヤ(電子の転がり歯車列)と CNC を初めて備えた部分創成研削盤で、1983 年から研究所で試運転していました[9]。親歯車と換え歯車がなくなると、機械の精度は歯車列ではなく、モータとセンサと制御の速さで決まるようになります。この電子ギヤの考え方が、30 年後のスカイビングの実用化を支えることになります。
KAPP の CBN 総形砥石と、成形研削
KAPP は 1980 年に 3 人で CBN の総形砥石の開発を始め、内スプラインを研ぐうちに、形を整え直す(ドレスする)必要のない電着の CBN 総形砥石を自分で作りました。1982 年には航空機の歯車の仕事で世界から注目され、1984 年には月 500 枚を作るまでになります[9]。総形砥石で 1 溝ずつ研ぐ成形研削は、砥石の形がそのまま歯形になるので、砥石が減らない CBN と相性がよく、内歯車や段のある軸のように砥石の入りにくい形も研げました。1983 年に KAPP はホブ研削盤から歯車研削盤へ軸足を移し、外歯車・内歯車の研削盤 VAG・VIG・VAS・VIS を順に出します。1987 年の VAS 531 は 5 つ目の NC 軸を足し、粗い CBN 砥石と細かい CBN 砥石を順に使って能率をほぼ 2 倍にしました[9]。
ホブ盤の Pfauter も研削へ進みます。1984 年に KAPP と契約して研削ヘッドと CBN 研削の技術を受け、直径 2,400mm までの歯車を研ぐ PFAUTERKAPP PE-G シリーズを出し(協力は 1996 年まで)、1987 年には自社の最初の成形研削盤を作りました[9][8]。Liebherr も 1989 年に CBN 砥石を使う歯車研削盤を出しています[3]。東の旧 Niles は 1980 年に直径 250〜2,500mm の歯車を DIN 3962 の 4 級で研ぐ大形の ZSTZ 2500 D を作り、機械をユニットの組み合わせで作る方式に切り替えていました[9]。
統一と再編
1989 年にベルリンの壁が崩れると、東の工場は一気に苦しくなります。工作機械コンビナート「7. Oktober」は解体され、1990 年 5 月に信託公社のもとで NILES Werkzeugmaschinen GmbH ができましたが、東側への輸出が止まり、人は 2,250 人から約 1,600 人に減りました[9]。Chemnitz の Modul は 1993 年に München の Hurth に引き取られて Hurth Modul になります[32][56]。
西でも再編が進みます。Klingelnberg は 1991 年にスイスの Oerlikon(エリコン)のかさ歯車部門と合弁を作り、1993 年に Zürich の Oerlikon Geartec AG を引き取りました[22]。かさ歯車の歯切りで Gleason と並ぶ 2 つの流れ(Klingelnberg の Palloid と、スイスの Oerlikon の方式)が 1 つの会社にまとまったことになります。Ettlingen の Lorenz は 1971 年にスイスの Maag の傘下に入っていましたが[2]、1990 年代はじめに Liebherr が引き取り、Ettlingen は Liebherr の歯切り工具の工場になりました[3][55]。その Maag は 1990 年に最後の歯車形削り盤を納め、歯車加工機の製造をやめています[20]。
ドライカットと仕上げの工夫
1994〜95 年、Pfauter はスイス Biel の Mikron の歯切り盤部門を買い、切削油を使わないドライのホブ切りの機械 P100 を出しました[8]。超硬ホブで速く削り、熱を切りくずと一緒に外へ出す方法で、油の処理と部品の洗浄の手間が減ります。2005 年の EMO では、Liebherr の LC 120 と Fette の超硬ホブで、荒削りから仕上げまでを 1 本の工具で乾いたまま削る方法が見せられました[60]。仕上げでは、Hurth が 1993 年に Spheric Honing の機械を出し、歯面を少しふくらませるなどの歯形の修整を仕上げで付けやすくしました[5]。1994 年には Niles が砥石の形を整える装置を組み込んだ成形研削盤 ZP を、KAPP が研削・機上での測定・補正の研削をひとつの機械で行う VAS 55 P を出しています[9]。
★再編・ドライカット・スカイビング(1995 年〜)
米国の Gleason がドイツの 2 社を買う
1995 年、米国のかさ歯車の Gleason が München の Carl Hurth Maschinen und Werkzeuge(シェービング盤・歯車研削盤・ホーニング盤)を買いました[5][6]。続いて 1996 年 9 月、シカゴの見本市 IMTS の直前に Pfauter グループを買う基本合意を発表します。グループは約 1,050 人、1995 年の売上は 1 億 7,500 万ドルで、交渉は数週間、秘密のうちに進められました[57]。1997 年に買収が決まり、Ludwigsburg の会社は Gleason-Pfauter として、ホブ切り・形削り・スカイビング・成形研削などを受け持つ Gleason の円筒歯車の開発拠点になりました[58][5]。2015 年には Gleason-Hurth の機械部門も Ludwigsburg にまとめられ、München は工具の拠点になっています[8][5]。
KAPP NILES と Klingelnberg
東の旧 Niles は、西の Fritz Werner との合併でも立て直せず、1996 年 2 月に破産を申し立てました。1997 年に KAPP が NILES を引き取り、KAPP NILES のグループになります[9]。同じ 1997 年、KAPP は CBN のねじ状砥石で連続創成研削する KX 1 を出し、2003 年には形を整え直せる砥石も使える KX シリーズに広げました[9]。Reishauer が 1945 年に始めた連続創成研削が、ドイツの研削盤メーカーの主力にもなったわけです。
Klingelnberg は 1996 年に Ettlingen の Zeiss の歯車測定(旧 Höfler)を買い、1997 年には Oerlikon C 28 でかさ歯車のドライカットを始めました。2008 年に Hückeswagen-Winterhagen に大きなかさ歯車の工場を動かし、2010 年に本社を Zürich に置き、2012 年には Ettlingen の Höfler Maschinenbau(円筒歯車の研削盤と測定機)を中核の事業として買っています。2018 年にはスイスの証券取引所に上場しました[22]。
Chemnitz の Modul の行方
Chemnitz のホブ盤工場は、持ち主を何度も替えながら続いています。2000 年にイタリアの Samputensili が Hurth Modul を買い[56]、2010 年には米国の工作機械グループ MAG が買って MAG Modul Verzahntechnik に、2013 年に FFG グループの傘下に入り、2024 年に独立した会社(MODUL MT Verzahntechnik)に戻りました。いまも直径 2,300mm・モジュール 28 までのホブ盤を作っています[61][32][33]。歯車の工作機械のグループ化はほかにも進み、旋盤の EMAG は 2005 年に Furtwangen のホブ盤メーカー Koepfer を、2021 年にイタリアの Samputensili Machine Tools を傘下に入れています(イタリアの歯車機械の章)[59]。
スカイビング:100 年眠った特許が目を覚ます
1910 年の特許から約 100 年、2010 年代のはじめにスカイビング(パワースカイビング)が量産の方法になります。Gleason-Pfauter は 2012 年にスカイビング盤の品ぞろえをそろえ[8]、Pittler の名を継ぐ PITTLER T&S、Wuppertal の Profilator、Liebherr も機械を出しました[17][62][3]。日本でも 1969 年に Pfauter のギヤスカイビング盤が業界誌で紹介され、1971 年に技術提携もありましたが[51][52]、広まったのは 2010 年代です。
なぜ 100 年かかったのか。スカイビングでは、刃物と素材の軸が交差しているぶんのすべりの速さが切削速度になります。十分な切削速度を出すには、刃物と素材を高い回転数で回し、しかも 1 歯のずれもなく正確に同期させ続けなければなりません。機械の歯車列でこれをやると、歯車列のガタと振動で精度が出ず、刃物もすぐ摩耗しました。PITTLER T&S は、最近の電子の同期(電子ギヤ)の進歩でようやく経済的に使えるようになったと説明し[17]、日本機械学会の論文も、刃物の材料の進歩と CNC との組み合わせで利点がはっきりしたとまとめています[16]。
速さの差は数字で見るとよく分かります。Profilator は、60 歯の刃物を毎分 2,000 回転で回すと毎分 12 万回の切れ刃が素材を削るのに対し、歯車形削りで毎分 1,800 往復なら 3,600 回にとどまると説明しています[62]。内歯車をギヤシェーパより何倍も速く削れ、逃げ溝のない段付きの歯車にも使えるのが強みです[62]。刃物の寿命、切りくずの逃げ、刃物の設計の難しさは今も課題で、読みもの「ギヤスカイビングの 2 つの弱点を解く新技術」で詳しく扱っています。
いまの顔ぶれ
| メーカー(本拠) | 得意な機械 | 系譜 |
|---|---|---|
| Liebherr-Verzahntechnik(Kempten) | ホブ盤・歯車形削り盤・スカイビング盤・歯車研削盤、Ettlingen で歯切り工具[36][3] | 1952 年のクレーン工場のホブ盤から。Lorenz を引き継ぐ |
| Gleason-Pfauter(Ludwigsburg) | ホブ盤・形削り盤・スカイビング盤・成形研削盤・ねじ状砥石研削盤[5] | Pfauter(1900 年)の西の流れ。1997 年から米国 Gleason のグループ。Hurth を統合 |
| Klingelnberg(Hückeswagen・Zürich) | かさ歯車の歯切り盤・研削盤、歯車測定機、Höfler の円筒歯車研削盤[22] | Palloid(1922 年)と Oerlikon の流れ |
| KAPP NILES(Coburg・Berlin) | 歯車研削盤(成形研削・連続創成研削)、CBN 工具、測定機[9] | KAPP(1953 年)と Niles(1898 年)が 1997 年に一つに |
| MODUL MT(Chemnitz) | 大形までのホブ盤、スカイビング盤[33] | Pfauter の東の流れ(VEB Modul) |
| EMAG(Salach。歯車は Koepfer・EMAG SU) | ホブ盤・歯車研削盤・シェービング盤・スカイビング盤[59] | 2005 年に Koepfer、2021 年に Samputensili Machine Tools |
| PITTLER T&S(DVS グループ)・Profilator | スカイビング盤[17][62] | 同じ DVS グループに歯車ホーニングの Präwema |
今のメーカーの機種と工具は歯切り工具・歯車加工機のメーカーにまとめています。
研究と規格:FZG・WZL・DIN・ISO
Niemann と FZG:歯車の強さを試験機で決める
ドイツの歯車機械の強さの裏には、歯車を「どこまで使えるか」を決める研究があります。Braunschweig で歯車の研究を始めていた Niemann は、1951 年に München で FZG(Forschungsstelle für Zahnräder und Getriebebau、歯車・伝動装置研究所)を始めました[26](NDB は FZG の創設を 1948 年と書き、Braunschweig 時代からの研究所の名前とも読めます[25])。Niemann は、Heinz Glaubitz が作った、2 組の歯車箱をつないでねじりの荷重をかけたまま回す試験台(Verspannungsprüfstand)を使い、1950 年からは繰り返し荷重をかける試験機(パルセータ)も使って、歯面の強さと潤滑を調べました[25]。Niemann が 1952〜53 年に作った、潤滑油がどこまでの荷重で歯面の焼き付きを起こすかを段階的に調べる試験は、1959 年に DIN 51354 になり、今も「FZG 試験」と呼ばれます[25]。
Niemann の教科書『Maschinenelemente(機械要素)』は 1950 年に初版が出て、日本語を含む各国語に訳されました。1950 年からは VDI と 2 年ごとに歯車と伝動装置の学会を開き、1965 年には日本機械学会の名誉員になっています[25]。FZG はその後 Hans Winter(1968 年から)、Bernd-Robert Höhn(1989 年から)、Karsten Stahl(2011 年から)に受け継がれ、規格づくりにも深くかかわっています[26]。
Aachen の WZL:歯車を「作る」側の研究
FZG が歯車を「使う」側の研究なら、Aachen の WZL は「作る」側です。1956 年、WZL の Herwart Opitz は企業の代表と歯車の研究会「Getriebekreis」を作り、歯車の強さ・騒音・歯切りの方法を、競争の前の段階で会員の企業と共同で研究する場にしました。1959 年からは毎年、研究発表会(Getriebetagung)を開いています[44]。この WZL-Getriebekreis は今も続き[45]、WZL はかつて古い軍の掩蔽壕にたくさんの歯車の試験台を置いていました[65]。WZL と Schlesinger の生産技術の学問の歩みは第 2 章「科学としての生産技術」で扱います。
DIN から ISO へ
精度の等級は、長くドイツの DIN 3962 の等級がものさしでした。もとになる DIN 3960・3961 は 1953〜54 年ごろに出て、精度を 12 の等級に分けています[39][40]。Niles の年表も、1970 年の二歯面研削を「DIN 3962 の 5〜6 級」、1980 年の大形研削盤を「4 級」と書いています[9]。国際規格の ISO 1328 は 1975 年の第 3 版で要素ごとの誤差の定義・許容値と測り方の助言をまとめ、1995 年の ISO 1328-1 で歯面の誤差(ピッチ・歯形・歯すじ)の定義と許容値だけに絞られ、2013 年の第 2 版で歯形・歯すじの評価法が足され、振れの評価が第 1 部に戻りました[53]。日本の JIS B 1702-1 も 2016 年にこの 2013 年版に合わせています(精度等級の読み方は「歯車の勉強」)。古いドイツの図面の「Qualität 6 nach DIN 3962」を今の ISO や JIS の等級に読み替えるときは、規格ごとに誤差の項目と許容値の式が違うので、数字が同じなら同じ精度とは考えず、元の規格の表で確かめてください。
日本とのつながり
日本の歯切りの歴史の節目は、どれもドイツ語圏の機械とつながっています(くわしくは国産アーカイブ第 4 章の年表)。
- 最初のホブ盤:1906 年ごろ、Pfauter のホブ盤が石川島と呉海軍工廠に輸入され、日本で最初のホブ盤とされます[12][13]。1918 年ごろにはスイスの Maag の歯形・歯切り盤・歯車研削盤が紹介されて評判になり[12]、1920 年には樫藤鉄工所(いまのカシフジ)で Pfauter のホブ盤を手本にした 40 インチホブ盤が完成しています[12][24]。Maag の歯車の仕組みは、東北大学の成瀬政男らの研究でも解き明かされました(人物)。
- 戦後の技術提携:1961 年に三菱重工業が西ドイツの Lorenz と歯切り盤で技術提携し、立形ホブ盤「三菱ローレンツ」を作り始めます(初号機は 1962 年)。1971 年に提携を解消して自社の技術に切り替え、1972 年に GH シリーズを出しました[48][49]。1966 年にはスイスの Reishauer の技術で歯車研削盤の生産を始めています[48]。1971 年には不二越が「西ドイツのホブ盤専業メーカー」と、内歯車スカイビングマシンと生産用ホブ盤で提携しました(相手の社名は資料で確かめられませんでした)[52][13]。
- スカイビング:1969 年に業界誌『マシナリー』が Pfauter のギヤスカイビング盤 P630WS を紹介しています[51]。日本の各社のスカイビング盤とカッタが出そろうのは 2014 年で、ドイツと同じく電子ギヤと工具の進歩を待った再登場でした[24][63]。
- 研究と会社:Niemann は 1965 年に日本機械学会の名誉員になり、『Maschinenelemente』は日本語にも訳されました[25]。Klingelnberg は 1954 年ごろに日本に子会社を置き(2024 年に 70 周年)[22]、KAPP も 1988 年に、日本の顧客に CBN 工具の再めっきの技術をライセンスするため KAPP Tools を日本に設けています[9]。
⑂メーカーの系図
ドイツ(とスイス)の歯車機械の主なメーカーの、社名の移り変わりと買収です。帯の色が変わるところで社名や持ち主が変わり、矢印は事業の行き先です。Pfauter は戦後、東の Chemnitz(Modul)と西の Ludwigsburg の 2 本に分かれました。Gleason(米国)の側の流れはアメリカの章の系図にあります。
見に行ける所
歯車機械は工場で使い切られることが多く、古い機械が見られる所はわずかです。公開日・見学の可否・展示の入れ替えは、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。
⌛年表
この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「p.」は本や電子版のページ、「コマ」はスキャンの通し番号(国立国会図書館の資料と Woodbury の本)です。スイスの会社は社名のあとに(スイス)と書いています。
ホブ盤の誕生と、歯車の会社の始まり1887〜1918 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1887年 | Robert Hermann Pfauter が Chemnitz(ケムニッツ)の工作機械メーカー J. E. Reinecker(ライネッカー)の設計主任になり、平歯車とウォームホイールを削るホブ盤の仕事にかかわる年は NDB のみ | J. E. Reinecker | [1] |
| 1890〜93年 | 実業家 Wilhelm Lorenz が Ettlingen(エットリンゲン)の板金工場を買い、1893 年に Maschinenfabrik Lorenz と改める。のちに歯車形削り盤(ギヤシェーパ)と歯切り工具の名門になる | Maschinenfabrik Lorenz | [2][3] |
| 1894年 | Chemnitz の Reinecker が平歯車用のホブ盤を出す。素材の軸もホブの送りも水平の、初期の形Woodbury(1958)の図 48。同書は同じころの Juengst の機械(1893 年)も挙げる | J. E. Reinecker | [4・コマ59] |
| 1896年 | Carl Hurth(カール・フルト)が München(ミュンヘン)に機械工場を開く。自社の歯車の質を保つため、最初の歯切り盤を自分で作る | Carl Hurth | [5・p.29][6] |
| 1897年9月 | ★Pfauter が、ホブ(ねじ状の刃物)ではすば歯車を削る方法と機械の特許を出願する(1897 年 9 月 1 日)。ホブの軸方向の送りに、差動歯車で素材の回転を進めたり遅らせたりする動きを足すのが要点出願日 1897-09-01 は DEPATISnet と Google Patents の書誌。NDB は成立(公告)の年で「1900 年の DRP 112 082」と書く | PfauterDRP 112082 | [7][1][8][4・コマ60] |
| 1898年4月 | 米国の Niles Tool Works(Hamilton, Ohio)の技術を使う会社として、Berlin-Oberschöneweide に Deutsche Niles-Werke AG ができる。初めは大形の旋盤・フライス盤・平削り盤・ボール盤を作るKAPP NILES の年表のみ(10 年の技術契約で、ヨーロッパ大陸への独占供給権を得たとする) | Deutsche Niles-Werke | [9] |
| 1900年 | Pfauter が Chemnitz に自分の会社(Hermann Pfauter Maschinenfabrik)を作り、ホブ盤の専門メーカーになる | Pfauter | [8][1][10][6] |
| 1900年ごろ | Pfauter のホブ盤は、ホブの軸を歯車の軸に対して自由な角度に傾けられ、差動歯車ではすば歯車も削れた。米国の歴史家 Woodbury は、これでホブ盤の基本の形がそろったとみる | Pfauter | [4・コマ59][4・コマ60] |
| 1900年1月 | Pfauter の米国特許「ウォームホイールを削る装置」が成立する(1899 年 8 月出願)。カッタの台を回して角度を変えれば平歯車も削れ、送りに合わせて余分の回転を足すとはすばの歯になると説明する | PfauterUS 640,728 | [11] |
| 1905〜1913年 | Pfauter の会社がおよそ 2,000 台のホブ盤を作る。アメリカでもよく売れたNDB は 1905〜13 年に約 2,000 台、Gleason-Pfauter の沿革は 1908〜1914 年に 2,000 台目とする | Pfauter | [1][8] |
| 1906年ごろ | Pfauter のホブ盤が石川島と呉海軍工廠に輸入される。日本に入った最初のホブ盤とされる | Pfauter | [12・コマ104][13・コマ23] |
| 1909年ごろまで | 焼入れした自動車の歯車を研削する機械を Chemnitz の Reinecker が作る。ラックの歯の形に整えた砥石の両側を使い、歯車を仮想のラックの上で転がすように動かして 1 溝ずつ研ぐ。直径約 11 インチ(約 280mm)・歯幅 2 インチまで1909 年の Flanders の本に載る機械。Woodbury(1958)はこれを自動車の焼入れ歯車の最初の研削盤とする | J. E. Reinecker | [14・p.101][14・p.102][4・コマ67] |
| 1909年 | 米国の Flanders の歯切り盤の本が、Ettlingen の Lorenz のホブ盤を紹介する。いくつかの大きさがあり、大きいほうから 2 番目の型は直径 110 インチ(約 2.8m)までの歯車を削れた。はすば歯車は総形の刃物で削る仕組みだった | Maschinenfabrik Lorenz | [14・p.95][14・p.147] |
| 1910年3月 | ★歯車の形をした刃物と素材の軸を斜めに交差させ、両方を連続して回して歯を削る方法(のちのスカイビング、Wälzschälen)がドイツで特許になる(1910 年 3 月 1 日から有効、1912 年発行)。ホブ盤では削れない内歯車を、形削り盤のような空振りの戻り行程なしで削れるとうたう論文やメーカーは「Wilhelm von Pittler の特許」と書く。明細書の名義は London の George Adams と、同年 9 月に London で亡くなった Pittler の権利承継人(死亡は NDB) | PittlerDRP 243514 | [15][16][17][18] |
| 1913年 | スイスの Max Maag(マーグ)が Zürich で歯車会社(Maag-Räder-Gesellschaft、1917 年から Maag Zahnräder AG)を起こす。ラック形の刃物で削る歯車平削り盤と、ベルギーの自動車会社の求めで作った平歯車の研削盤で知られるスイスの会社。ドイツとのつながりは 1915 年のライセンス(Thyssen・ZF)と 1971 年の Lorenz の買収 | Maag(スイス) | [19][20] |
| 1914〜16年 | Remscheid(レムシャイト)の工具商 Klingelnberg(クリンゲルンベルク)が歯切り用のホブを作り始め、1916 年に工具の工場を Hückeswagen(ヒュッケスヴァーゲン)へ移す | Klingelnberg | [21][22] |
| 1914年10月 | Robert Hermann Pfauter が Chemnitz で亡くなる(60 歳)。妻の Clara が会社を継ぎ、息子たちが小さな歯車用から大きな歯車用まで品ぞろえを広げる | Pfauter | [1][8] |
| 1915年 | ★飛行船の Zeppelin 社とスイスの Maag の会社の共同で、Friedrichshafen に Zahnradfabrik Friedrichshafen(ZF)ができる。初代の経営者は Alfred von Soden-Fraunhofen。Maag は同じ年、Mülheim の Thyssen などにも自分の歯形と機械のライセンスを出す | ZF | [23][19] |
| 1915年 | 米国が敵側になったため、Deutsche Niles-Werke が Maschinenfabrik Oberschöneweide と名前を変える(1920 年に元の名に戻し、Berlin-Weißensee へ移る)年表は「米国が大戦に加わったとき」と書くが、改名の年は 1915 年としている | Deutsche Niles-Werke | [9] |
| 1918年ごろ | スイスの Maag の歯形・歯切り盤・歯車研削盤が日本に紹介され、評判になる | Maag(スイス) | [12・コマ105] |
かさ歯車・歯車研削・ダウンカット1918〜1945 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1920年 | 日本の樫藤鉄工所(いまのカシフジ)で、Pfauter のホブ盤を手本にした 40 インチ(約 1,000mm)ホブ盤が完成するカシフジの沿革は 1918 年に 1 号機を試作とする | 樫藤鉄工所40インチホブ盤 | [12・コマ105][24] |
| 1922年 | ★Klingelnberg が、円すい形のホブで曲がり歯かさ歯車を連続して削る Schicht と Preis の特許を買い、Palloid(パロイド)方式の歯切り盤を作り始める。数学と製作の難しさを解くのに大きな費用がかかった | KlingelnbergPalloid | [21][22] |
| 1923年 | Hückeswagen の工場で最初のかさ歯車ホブ盤 FK 150 ができる。刃物台をいろいろな円すい角に合わせられ、円すい角 40° のホブを使ったNDB(1980)は、最初期の Klingelnberg のかさ歯車ホブ盤の 1 台が Deutsches Museum にあると書く | KlingelnbergFK 150 | [22][21] |
| 1925〜26年 | ZF が乗用車・トラック・バス用の「統一変速機」を売り出し、1926 年には静かな歯車のためベルギーの Minerva からはすば歯車を研削する技術のライセンスを買うNDB の Soden の項のみ | ZF | [23] |
| 1927年 | VDI の会誌(Zeitschrift des VDI)71 巻に、Pfauter のホブ切りの方式の成り立ちを解説する論文が載る | Pfauter | [4・コマ60][1] |
| 1931年 | ★Niles の技術者 Paul Uhlich が、自分で考えた「部分創成研削」(Teilwälzschleifen)の歯車研削盤を作り、特許で守る。自動車・航空機の発動機・機械の精密な歯車を研ぐ機械の始まりKAPP NILES の年表のみ(独語版・英語版)。1926 年から下準備をしていたとする | Deutsche Niles-Werke | [9] |
| 1934〜38年 | Gustav Niemann(ニーマン)が TH Braunschweig の機械要素の教授になり、1938 年ごろから歯車と伝動装置の研究を始める。転がりの圧力と寿命をローラの試験機で調べる | TH Braunschweig | [25][26] |
| 1934年6月 | 米国の業界誌の記者が、モスクワの工作機械工場 Krasny Proletary(赤いプロレタリア)の展示に、Lorenz の歯車形削り盤(米国の Fellows を好む自動車の技術者には頭痛の種、と書く)と、ドイツの VDF の歯車式主軸台の旋盤の型が並ぶのを見る。ソ連の工場がドイツと米国の機械を手本に作っていたLorenz が歯車形削り盤を始めた年は確かめていない。遅くとも 1930 年代はじめにはあった | Maschinenfabrik Lorenz | [27・p.401] |
| 1935年 | Klingelnberg が振り子式の最初の万能歯車試験機を出すKlingelnberg の沿革のみ | Klingelnberg | [22] |
| 1936年 | Pfauter が 10,000 台目のホブ盤を祝う。1900 年に Chemnitz で工場を始めてから 36 年かかった | Pfauter | [28・p.1164] |
| 1938〜39年 | ★Pfauter がダウンカット(送りと同じ向きに削るホブ切り)を製品にし、最初の自動ホブ盤とモーター付きのホブ頭を出す。大きな RS 形(直径 350〜2,500mm 用)にも送り方向の歯切りの装置を付けた工場の面積(約 17,000 m²)・人数(約 800 人)は Gleason-Pfauter の沿革のみ | Pfauter | [8][29] |
| 1939年 | ZF が工場を軍需生産に切り替える | ZF | [23] |
| 1941年 | Niles が 10 年で 500 台目の歯車研削盤(RS 形)を出す。1941 年末から週 60 時間の軍需生産になり、強制労働者も働かされた | Deutsche Niles-Werke | [9] |
| 1942年 | Niemann がウォームギヤの流体潤滑の理論を出し、のちに広く使われる Cavex ウォーム(歯形が凹んだ円弧のウォーム)を考える | TH Braunschweig | [25] |
東西に分かれた歯車機械1945〜1974 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1945〜48年 | Pfauter は大戦中も Chemnitz でホブ盤を作り続け、1945 年までに通算 17,000 台に達していた。ソ連の占領地域になった Chemnitz の工場は設備の大半を解体・搬出され、接収される。Berlin-Weißensee の Niles の大きな工場も 1945 年 4 月には焼け跡になっていたPfauter の接収の正確な年は資料で食い違う(Gleason は 1952 年、NDB は年を書かない) | Pfauter | [28・p.1164][8][1][30][9] |
| 1945年 | スイスの Reishauer が、ホブと同じねじ状の砥石を歯車とかみ合わせて回し、全部の歯を連続して研ぐ歯車研削盤 ZA を出す(連続創成研削)。のちに自動車の変速機の歯車の仕上げの主流になる方式Reishauer の沿革のみ(2026 年 10 月に確認。スイスの会社)。1966 年の三菱重工業との技術提携で日本ともつながる | Reishauer(スイス)ZA | [31] |
| 1946〜47年 | Pfauter の家族と技術者の多くは Chemnitz を離れ、いったん Berlin へ移る。西側では 1947 年 6 月、Opel が Rüsselsheim の爆撃で傷んだ小さな建物を貸し、戦後最初の小さな工場ができるNDB は兄弟が 1946 年に Rüsselsheim で修理から再出発したと書き、1961 年の業界誌は Opel の建物を借りたのを 1947 年 6 月とする | Pfauter | [28・p.1164][28・p.1165][1] |
| 1946年 | Carl Hurth がはすば歯車のための最初のシェービング盤(歯面を薄くそいで仕上げる機械)を考えるGleason の 160 周年誌のみ。Hurth は 1920 年代にヨーロッパ最大のオートバイ用変速機のメーカーだったとも書く | Carl Hurth | [5・p.29] |
| 1948〜51年 | 1948 年に Bochum の Eickhoff が Pfauter の RS2 形を 15 台作り、Pfauter は 1949 年秋に Kornwestheim の元戦車修理所へ移って RS1 形と小形の R16 形を作る。新しく計画した Ludwigsburg(ルートヴィヒスブルク)の工場が 1951 年に動き出すLudwigsburg の新工場の年は、NDB が 1948 年、Gleason-Pfauter の沿革が 1952 年とする。ここでは工場の完成を書いた 1961 年の業界誌の 1951 年を採った | Pfauter | [28・p.1165][28・p.1166][1][8] |
| 1949年2月 | 東ベルリンの Niles が人民所有企業(VEB)Deutsche Niles-Werke になる。1950 年に Chemnitz の工作機械の連合(VVB WMW)に入り、1952 年に VEB Großdrehmaschinenbau「7. Oktober」と名前を変える | VEB Deutsche Niles-Werke | [9] |
| 1950年 | ★Chemnitz の旧 Pfauter の本工場が、人民所有企業 VEB Zahnschneidemaschinenfabrik „Modul“(歯切り盤工場モドゥール)として再出発する。ドイツのホブ盤は東の Chemnitz と西の Ludwigsburg の 2 つに分かれるModul の沿革は 1950 年創立。後継会社の紹介は「1949 年から製造」と書く | VEB Modul | [32][33][1][34] |
| 1950年 | Niemann の教科書『Maschinenelemente(機械要素)』の初版が出る(1961 年に 2 巻本。日本語などに訳される)。同じ年から VDI と 2 年ごとに歯車と伝動装置の学会を開く | Niemann | [25] |
| 1950年までに | スイスの Oerlikon が、曲がり歯かさ歯車を割り出しなしで削る Spiromatic No. 2 を出す。刃物頭の回転・素材の回転・創成の転がりの 3 つの回転をつなげ、Mammano の Eloid 歯形を作る英国の技術誌(1950 年 2 月)の解説のみ。スイスの会社で、1993 年に Klingelnberg に引き取られる | Oerlikon(スイス)Spiromatic No. 2 | [35] |
| 1951年 | ★Niemann が München で FZG(Forschungsstelle für Zahnräder und Getriebebau、歯車・伝動装置研究所)を始める。歯車の強さ・潤滑・騒音を試験機で調べる、ドイツの歯車研究の中心になるFZG の沿革は 1951 年に München で創立。NDB は「1948 年に FZG を作った」と書き、Braunschweig 時代からの研究所の名前とも読める。本文では 1951 年の München の FZG とする | FZG(TU München) | [26][25] |
| 1952年 | クレーンの Liebherr(リープヘル)が、変速機の歯車が手に入りにくいため、Kirchdorf an der Iller の工場でホブ盤を自分で作り始める。のちの Liebherr-Verzahntechnik の始まり | Liebherr | [36][37][3] |
| 1952〜59年 | Niemann が、歯車を回して潤滑油がどこまでの荷重に耐えるかを調べる試験法を作る(1952〜53 年)。1959 年に DIN 51354 になり、いまも「FZG 試験」と呼ばれる | FZG(TU München)FZG 試験 | [25] |
| 1952年1月 | Ettlingen の Lorenz が米国の業界誌に、外歯車・内歯車の平歯車とはすば歯車を削る自動の高速歯車形削り盤と、自動のホブ盤の広告を出す | Maschinenfabrik Lorenz | [38] |
| 1953年7月 | 技術者 Bernhard Kapp が Coburg(コーブルク)に Maschinenfabrik KAPP & CO を作る。初めは木工機械を作り、1958 年からホブなどの工具を研ぐ研削盤に進む | KAPP | [9] |
| 1954年ごろ | Klingelnberg が日本に子会社(いまの KLINGELNBERG Japan)を置くKlingelnberg の沿革の「2024 年に KLINGELNBERG Japan が 70 周年」から数えた年。1951 年に最初の外国の子会社を作ったとも書く | Klingelnberg | [22] |
| 1953〜54年 | 平歯車の寸法と誤差の決め方(DIN 3960)と、平歯車の公差の全体(DIN 3961)のドイツ規格が出る。米国の規格の団体の 1954 年 5 月号に新着の外国規格として載り、1955 年の米国の業界誌は、DIN 3961 が歯車の精度を 12 の等級に分けると紹介した初版の月は確かめていない。等級ごとの公差の表 DIN 3962(Bl. 1〜4)は 1963 年の製図の教科書に載る | DINDIN 3960・DIN 3961 | [39・p.158][40・p.187][41・p.143] |
| 1955年 | VEB Modul の工場の写真集(1955 年)が作られる。いまはベルリンのドイツ歴史博物館(DHM)にある | VEB Modul | [42] |
| 1955年6月 | Ludwigsburg の Pfauter が、ホブ切りの方法と装置の特許を出す(ドイツ優先日 1955 年 6 月 21 日、発明者 Hans-Peter Mente。米国では 1961 年に US 2,996,958) | Pfauter | [43] |
| 1956年 | Aachen の WZL の Herwart Opitz が、企業の代表と歯車の研究会「Getriebekreis」を作る。歯車の強さ・騒音・歯切りの方法を、会員の企業と競争の前の段階で共同研究する場で、1959 年から毎年「Getriebetagung(歯車の研究発表会)」を開く創立の年は Kompe の博士論文のみ。WZL-Getriebekreis がいまも続いていることは WZL のページで確認 | WZL(RWTH Aachen) | [44][45] |
| 1957年4月 | Klingelnberg が、刃物頭の円形カッタで削る Cyclo-Palloid 方式の小さなかさ歯車用の歯切り盤 FK 41 を出す(先の FK 40 の改良)。歯すじの形は Palloid の近似インボリュートに対し、延長エピサイクロイドになる | KlingelnbergFK 41 | [46・p.545][47・p.349] |
| 1958年 | 東ドイツでただ 1 社の歯車研削盤のメーカーになった旧 Niles には、作れる量の 2 倍の注文が来る。ソ連・中国・ポーランド・チェコスロバキア・朝鮮へ輸出し、この年に ZSWZ 形の 500 台目を作る | VEB 7. Oktober(Niles) | [9] |
| 1961年 | ★三菱重工業が西ドイツの Lorenz と歯切り盤で技術提携し、立形ホブ盤「三菱ローレンツ」を作り始める三菱重工の 2012 年の発表は「西ドイツからの技術導入で 1962 年にホブ盤の初号機」とする(提携 1961 年・初号機 1962 年) | Lorenz・三菱重工業三菱ローレンツ | [48・コマ383][48・コマ542][49] |
| 1961年 | Ludwigsburg の Pfauter が 20,000 台目のホブ盤を祝う。2 つ目の 10,000 台は 25 年で作り、最後の 3,000 台の約 45% は Frieseke & Hoepfner と Schwartzkopf(誌面の表記)などがライセンスで作った | Pfauter | [28・p.1164][28・p.1166] |
| 1961年8月 | 米国の Fellows が、Pfauter のホブ盤を「Fellows-Pfauter」の名で売り、P 400 に続いて直径 25 インチ(約 635mm)までの P 630 を出す | Fellows(米国)・PfauterP 630 | [50] |
| 1962年 | Liebherr が歯切り盤の生産を Kirchdorf から Allgäu 地方の Kempten(ケンプテン)へ移す | Liebherr | [36] |
| 1965年 | Niemann が日本機械学会の名誉員になる | Niemann | [25] |
| 1966年 | 三菱重工業がスイスの Reishauer(ライスハウアー)の技術で歯車研削盤 NZA 型の生産を始め、1968 年 3 月に国産化する | Reishauer(スイス)・三菱重工業NZA 型 | [48・コマ540][48・コマ384] |
| 1966年 | 旧 Niles の歯車研削盤 ZSTZ 315 C がライプツィヒ春の見本市に出て、西ドイツにも輸出される。1968 年の型はプログラム制御を備えていた。Karl-Marx-Stadt の工作機械研究所と TU Dresden が開発に協力 | VEB 7. Oktober(Niles)ZSTZ 315 C | [9] |
| 1967年 | Liebherr が、静圧案内(油の膜で浮かせて滑らせる案内)を使った最初の歯車形削り盤を作る | Liebherr | [3] |
| 1969年 | Kempten の歯切り盤部門が Liebherr-Verzahntechnik GmbH になる | Liebherr | [36][3] |
| 1969年11月 | 日本の業界誌『マシナリー』が、西ドイツ Pfauter のギヤスカイビング盤 P630WS を紹介する誌面では「パウター社」。ドイツ側の資料は見つからず、発売年としては書かない | PfauterP630WS | [51・コマ90] |
| 1970年 | 旧 Niles が左右の歯面を同時に研ぐ二歯面研削を入れ、研削時間を最大 40% 縮める(精度は DIN 3962 の 5〜6 級)。この年 Berlin-Weißensee で 300 台を超える機械を作る | VEB 7. Oktober(Niles) | [9] |
| 1971年 | 1970 年に市場に出た CBN(立方晶窒化ホウ素)砥石を、KAPP がいち早く使い始め、ホブ研削盤 AST シリーズを出す | KAPP | [9] |
| 1971年 | Ettlingen の Lorenz が、スイスの Maag Zahnräder AG の傘下に入るNDB の Lorenz の項のみ | Maschinenfabrik Lorenz | [2] |
| 1971年 | 三菱重工業が Lorenz との提携を解消して自社の技術に切り替え、1972 年に高性能ホブ盤 GH シリーズを出す | 三菱重工業 | [48・コマ383][48・コマ541] |
| 1971年 | 不二越が「西ドイツのホブ盤専業メーカー」と、内歯車スカイビングマシンと生産用ホブ盤で技術提携し、翌年から売り出す提携先の社名は資料で確かめられなかった | 不二越 | [52・コマ101][13・コマ102][13・コマ149] |
NC・電子ギヤ・CBN1975〜1994 年
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1975年 | ★Pfauter がパリの工作機械見本市 EMO で、最初の数値制御(NC)のホブ盤を見せるどちらも Gleason の資料。沿革は NC、160 周年誌は CNC と書く | Pfauter | [8][5・p.31] |
| 1975年 | 歯車の精度の国際規格 ISO 1328 の第 3 版(ISO 1328:1975)が出る。歯車の要素ごとの誤差の定義・許容値と、測り方の助言をまとめていた | — | [53] |
| 1980年 | 旧 Niles が大形の歯車研削盤 ZSTZ 2500 D(直径 250〜2,500mm、特別仕様は 3,000mm)を作る。精度は DIN 3962 の 4 級。1980 年代はじめに機械をユニットの組み合わせで作る方式に切り替える | VEB 7. Oktober(Niles)ZSTZ 2500 D | [9] |
| 1980〜82年 | ★KAPP が、形を整え直さずに使える電着の CBN 総形砥石を自分で開発し、1982 年には航空機の歯車の仕事で注目される。内スプラインなど砥石の入りにくい形も研げるようになる | KAPP | [9] |
| 1982年 | 東ドイツの Modul は ZFWZ 形のホブ盤(ZFWZ 250 から 2000 まで)を作り、1982 年のライプツィヒ春の見本市に曲がり歯かさ歯車用のホブ盤 ZFTKK 500/2 K を出す | VEB ModulZFWZ・ZFTKK 500/2 K | [54] |
| 1983年 | KAPP がホブ研削盤から歯車研削盤へ軸足を移し、外歯車・内歯車用の研削盤(VAG・VIG・VAS・VIS)を順に出す | KAPPVAG・VIG・VAS・VIS | [9] |
| 1983年 | Pfauter の CNC ホブ盤 PE150 の 1 号機が納められる。Gleason は史上いちばん売れたホブ盤とする | PfauterPE150 | [8][5・p.31] |
| 1984年 | KAPP が Ludwigsburg の Pfauter と契約し、研削ヘッドと CBN 研削の技術を出す。直径 2,400mm までの歯車を研ぐ PFAUTERKAPP PE-G シリーズが生まれ、協力は 1996 年まで続く | Pfauter・KAPPPFAUTERKAPP PE-G | [9] |
| 1984年 | ★旧 Niles が、電子ギヤ(直流サーボモータとレゾルバで砥石と歯車の回転を合わせる仕組み)と CNC を初めて備えた歯車研削盤 ZSTZ 06 EG-CNC を公開する(1983 年から試運転) | VEB 7. Oktober(Niles)ZSTZ 06 EG-CNC | [9] |
| 1987年 | Pfauter が最初の歯車の成形研削盤(総形砥石で 1 溝ずつ研ぐ機械)を作る | Pfauter | [8][5・p.31] |
| 1987年 | KAPP が 5 つ目の NC 軸を足した VAS 531 を出し、粗い CBN 砥石と細かい CBN 砥石を順に使って能率をほぼ 2 倍にする | KAPPVAS 531 | [9] |
| 1988年 | 日本の顧客に KAPP の研削盤が入り、CBN 工具の再めっきの技術を日本でライセンスするため、KAPP Tools が日本に設けられる | KAPP | [9] |
| 1989年 | Liebherr が CBN 砥石を使う最初の歯車研削盤を出す「最初」は Liebherr の顧客誌の表現 | Liebherr | [3] |
| 1989年 | Klingelnberg が Dr.-Ing. Wiener GmbH を買い、研削の技術を手に入れる | Klingelnberg | [22] |
| 1990年 | スイスの Maag が最後の歯車形削り盤を納め、歯車加工機の製造を終える | Maag(スイス) | [20] |
| 1990年5月 | ベルリンの壁が崩れたあと、工作機械コンビナート「7. Oktober」が解体され、信託公社のもとで NILES Werkzeugmaschinen GmbH ができる。東側への輸出が止まり、人は 2,250 人から約 1,600 人に減る | Niles Werkzeugmaschinen | [9] |
| 1991・1993年 | Klingelnberg がスイスの Oerlikon(エリコン)のかさ歯車部門と合弁を作り(1991 年)、1993 年に Zürich の Oerlikon Geartec AG を引き取る。CNC のラップ盤・試験機も Oerlikon Geartec から合併を 2003 年とする説もあるが、Klingelnberg の沿革は 1991 年の合弁・1993 年の買収と書く。こちらを採った | Klingelnberg・Oerlikon | [22] |
| 1992年ごろ | Liebherr が Ettlingen の Lorenz(歯車形削り盤と歯切り工具のメーカー)を引き取る。Ettlingen はいまも Liebherr の歯切り工具の工場顧客誌は「1989 年の 3 年後」と書くだけで年を明記しない | Liebherr | [3][55] |
| 1993年 | 旧 VEB Modul を München の Hurth が引き取り、Hurth Modul になる | Hurth Modul | [32][56] |
| 1993年 | Hurth が Spheric Honing の機械を出し、歯形の修整(歯面を少しふくらませるなど)を仕上げで付けやすくする | Carl Hurth | [5・p.29] |
| 1994年 | Niles が砥石の形を整える装置を組み込んだ成形研削盤 ZP を出す。KAPP は研削・機上測定・補正研削をひとつの機械で行う VAS 55 P を出す | Niles・KAPP | [9] |
| 1994〜95年 | Pfauter がスイス Biel の Mikron の歯切り盤部門を買い、切削油を使わないドライのホブ切りの機械 P100 を出すGleason-Pfauter の沿革のみ | PfauterP100 | [8] |
再編・ドライカット・スカイビング1995 年〜
| 年 | 出来事 | メーカー・機種 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1995年 | 歯車の精度の規格が ISO 1328-1:1995(第 1 版)として作り直される。歯面の誤差(ピッチ・歯形・歯すじ)の定義と許容値だけを残す | — | [53] |
| 1995年 | 米国の Gleason が München の Carl Hurth Maschinen und Werkzeuge(シェービング盤・歯車研削盤・ホーニング盤)を買い、Gleason-Hurth になる | Gleason(米国) | [5・p.29][6] |
| 1996年 | Klingelnberg が Ettlingen の Zeiss の歯車測定(旧 Höfler)を買う | Klingelnberg | [22] |
| 1996年2月 | 東側の市場を失った FRITZ WERNER & NILES が破産を申し立てる。1997 年に KAPP が NILES を引き取り、KAPP NILES のグループになるKAPP NILES のページは「1997 年から KAPP と NILES が一つ」と書き、2022 年に「NILES が KAPP に入って 25 年」を祝ったとする | Niles | [9] |
| 1996年9月 | Gleason が Pfauter グループを買う基本合意を発表する。グループは約 1,050 人、1995 年の売上は 1 億 7,500 万ドル | Gleason(米国) | [57] |
| 1997年 | ★Gleason が Pfauter グループの買収を決める。Ludwigsburg の会社は Gleason-Pfauter になり、ホブ切り・形削り・成形研削など Gleason の円筒歯車の開発拠点になる | Gleason-Pfauter | [58][5・p.31][6] |
| 1997年 | Klingelnberg が Oerlikon C 28 で、かさ歯車の切削油なしの歯切り(ドライカット)を始める | KlingelnbergC 28 | [22] |
| 1997年 | KAPP が CBN のねじ状砥石で歯車を連続創成研削する KX 1 を出す。2003 年には形を整え直せる砥石も使える KX シリーズに広げる | KAPPKX 1 | [9] |
| 2000年 | イタリアの Samputensili が Chemnitz の Hurth Modul を買い、平歯車とかさ歯車のホブ盤を品ぞろえに加える | Samputensili(イタリア) | [56][32] |
| 2005年 | 旋盤の EMAG が Furtwangen のホブ盤の専門メーカー Koepfer を傘下に入れる | EMAG | [59] |
| 2005年9月 | Hannover の EMO 2005 で、Liebherr のホブ盤 LC 120 と Fette のダイヤモンドの膜を付けた超硬ホブで、荒削り・面取り・仕上げを 1 台・1 本の工具で、切削油を使わずに行うドライのホブ切りが見せられる。ねらいは自動車の歯車Liebherr がドライのホブ切りの機械を出した最初の年は確かめていない | Liebherr・FetteLC 120 | [60] |
| 2006年 | Gleason が新しいホブ盤のシリーズ Genesis を出す | Gleason-PfauterGenesis | [8][6] |
| 2008年 | Klingelnberg が Hückeswagen-Winterhagen に大きなかさ歯車の工場を動かし、2010 年には本社を Zürich に置く | Klingelnberg | [22] |
| 2010年 | 米国の工作機械グループ MAG が Samputensili の Chemnitz のホブ盤の事業を買い、MAG Modul Verzahntechnik にする | MAG Modul | [61][32] |
| 2010年代はじめ | ★1910 年の特許から約 100 年、スカイビング(パワースカイビング)が量産の方法になる。Gleason-Pfauter は 2012 年に機械の品ぞろえをそろえ、Pittler・Profilator・Liebherr も機械を出す。電子ギヤで刃物と歯車を高速で正確に同期できるようになったのが決め手 | Gleason-Pfauter・Liebherr・Profilator・Pittler | [8][17][62][3][16] |
| 2012年 | Klingelnberg が Ettlingen の Höfler Maschinenbau(円筒歯車の研削盤と測定機)を中核の事業として買う | Klingelnberg | [22] |
| 2013年 | Chemnitz の Modul が FFG グループの傘下に入る | Modul | [32] |
| 2013年9月 | ISO 1328-1:2013(第 2 版)が出る。歯形・歯すじの評価法を足し、振れの評価を第 1 部に戻す。日本の JIS B 1702-1 も 2016 年にこれに合わせる | — | [53] |
| 2014年 | 日本の歯切り盤・工具のメーカーからも、スカイビング盤とスカイビングカッタが出そろう(国産アーカイブ第 4 章) | — | [24][63] |
| 2015年 | Gleason-Hurth の機械部門(シェービング盤など)が Ludwigsburg の Gleason-Pfauter にまとめられる。München はホブ・ドレス工具などの工具の拠点に | Gleason-Pfauter | [8][5・p.29] |
| 2018年6月 | Klingelnberg の株がスイスの証券取引所(SIX)に上場する | Klingelnberg | [22] |
| 2021年2月 | EMAG がイタリアの Samputensili Machine Tools(歯車研削盤・シェービング盤・スカイビング盤)を買い、EMAG SU にする | EMAG | [59] |
| 2024〜25年 | Modul が独立した会社(MODUL MT Verzahntechnik)に戻り、2025 年に Chemnitz の新しい工場へ移る。いまも直径 2,300mm・モジュール 28 までのホブ盤を作る | MODUL MT | [32][33] |
よくある質問
- ホブ盤を発明したのは Pfauter ですか?
- ホブで歯を創成する考えや初期のホブ盤は、19 世紀の英国・米国にも、ドイツの Juengst(1893 年)や Reinecker(1894 年)にもありました。Pfauter の功績は、ホブの軸を自由な角度に傾け、差動歯車で素材の回転を足し引きして、はすば歯車まで 1 台で削れる今のホブ盤の形をまとめたことです。ドイツ特許 DRP 112082(1897 年 9 月 1 日出願)と米国特許 640,728(1900 年成立)で確かめられます。
- スカイビングはなぜ 100 年も実用にならなかったのですか?
- スカイビングは、刃物と素材の軸の交差で生まれるすべりを切削速度に使うため、両方を高い回転数で正確に同期させ続ける必要があります。機械の歯車列ではガタと振動で精度が出ず、刃物の摩耗も激しかったのです。1980 年代に歯車研削盤で使われ始めた電子ギヤ(サーボモータとセンサで回転を合わせる仕組み)と、刃物の材料・コーティングの進歩がそろった 2010 年代に、ようやく量産で使えるようになりました。
- Klingelnberg の Palloid と Gleason のかさ歯車の削り方は、どう違いますか?
- Gleason が 1913 年に出した曲がり歯かさ歯車の機械は、刃物頭で 1 つの歯溝を削っては素材を割り出して次の溝へ進みます。Klingelnberg の Palloid(1922 年から)は、円すい形のホブを回しながら素材も回し続け、割り出しで止まらずに削ります。1990 年代に Klingelnberg がスイスの Oerlikon のかさ歯車部門を引き取り、2 つの流れの片方がまとまりました。Gleason の側はアメリカの歯車機械の章にあります。
- 東ドイツの歯車機械のメーカーは、どうなったのですか?
- Chemnitz の VEB Modul(旧 Pfauter の本工場)は、統一後に Hurth、イタリアの Samputensili、米国の MAG、FFG グループと持ち主を替え、2024 年に MODUL MT として独立しました。東ベルリンの旧 Niles は東側でただ 1 社の歯車研削盤のメーカーでしたが、1996 年に破産し、1997 年に Coburg の KAPP に引き取られて KAPP NILES になりました。どちらも今も歯車機械を作っています。
この先と関係するページ
出典
ドイツの特許は DEPATISnet(ドイツ特許商標庁)の書誌と明細書、米国特許は Google Patents で、人物と会社の古い歩みは『Neue Deutsche Biographie』(NDB)で、メーカー・大学の沿革と業界誌は各ページを 2026 年 10 月に確かめました。Woodbury の本の番号はスキャンのコマ(見開き 1 コマ)、Gleason の 160 周年誌は電子版のページです。国立国会図書館の資料は国産アーカイブと同じコマ番号です。メーカーの沿革の「最初」「世界初」は、本文で「〜とする」と書いたものはメーカー自身の記述です。年は資料によって 1〜4 年ずれることがあり(特許の出願と成立、試作と発売、合意と買収の完了)、どちらを採ったかは年表の注に書きました。
- Seherr-Thoß「Pfauter, Hermann」『Neue Deutsche Biographie』20 巻(2001)pp.305 f.
- H. Schäfer「Lorenz, Wilhelm」『Neue Deutsche Biographie』15 巻(1987)pp.179 f.
- Liebherr 顧客誌 2019「Pioneers in gear manufacturing(50 年)」
- R. S. Woodbury『History of the Gear-Cutting Machine』MIT(1958)コマ 59・60・67
- Gleason Corporation『Gleason 160』(160 周年誌、2025)p. 29・31
- Gleason「Milestones in Gear Technology」
- DRP 112082(R. H. Pfauter、出願 1897 年 9 月 1 日)
- Gleason-Pfauter Maschinenfabrik「This is our story」(沿革)
- KAPP NILES「Historie」(年表。KAPP 1953 年 Coburg・NILES 1898 年 Berlin)
- IHK Region Stuttgart(Ludwigsburg)「Pfauter 125 周年」企業記念日の紹介
- US 640,728「Apparatus for cutting worm-wheels」(R. H. Pfauter、1900 年)
- 会田俊夫『歯車の技術史』開発社(1970)コマ 104・105
- 『不二越五十年史』不二越(1978)コマ 23・102・149
- R. E. Flanders『Gear-Cutting Machinery』Industrial Press(1909)p. 95・101・102・147
- DRP 243514「歯車状で歯の端面に刃をもつ工具で歯車を切る方法」(George Adams と故 Wilhelm von Pittler の権利承継人、1910 年 3 月 1 日から特許、1912 年 2 月 16 日発行)
- Han, Jiang, Deng「Machining and meshing analysis of face gears by power skiving」Journal of Advanced Mechanical Design, Systems, and Manufacturing 16(1)(2022、日本機械学会)
- PITTLER T&S(DVS Technology Group)「Der Wälzschälprozess」
- Seherr-Thoß「Pittler, Julius Wilhelm von」『Neue Deutsche Biographie』20 巻(2001)pp.491 f.
- Seherr-Thoß「Maag, Max」『Neue Deutsche Biographie』15 巻(1987)pp.595–597
- 『Gear Solutions』2003 年 10 月「More MAAG for your Money」
- H. Busch「Klingelnberg, Adolf」『Neue Deutsche Biographie』12 巻(1980)pp.77 f.
- Klingelnberg「History」(沿革)
- Seherr-Thoß「Soden-Fraunhofen, Carl Alfred Maria Graf von」『Neue Deutsche Biographie』24 巻(2010)pp.521 f.
- カシフジ「沿革」
- Seherr-Thoß「Niemann, Gustav」『Neue Deutsche Biographie』19 巻(1999)pp.232 f.
- TU München FZG(歯車・伝動装置研究所)「Geschichte」
- 『American Machinist』78 巻(1934 年 6 月 6 日)ソ連の工作機械の展示の見学記p. 401
- 『Machinery』(英国)99 巻 2557 号(1961 年 11 月 15 日)「20,000th Pfauter Gear Hobber」pp.1164–1166p. 1164・1165・1166
- CIA 英訳:M. O. Yakobson「送り方向の歯切り」(Vestnik mashinostroyeniya 1948 年 3 号、1950 年配布)
- CIA 情報報告「Machine Tool Building in the USSR」(1952 年 8 月)
- Reishauer「History」(沿革、スイス)
- MODUL MT Verzahntechnik「Historie」(沿革)
- German Pavilion SIMTOS 2026 出展者紹介「MODUL MT Verzahntechnik」
- fertigungstechnik.de 企業データ「Samputensili Machine Tools」(Chemnitz)
- 『The Engineers' Digest』11 巻 2 号(1950 年 2 月)Oerlikon「Spiromatic」No. 2 の図と解説
- Liebherr「Liebherr-Verzahntechnik GmbH(Kempten)」事業所紹介
- Liebherr グループ沿革「1949–1960」
- 『American Machinist』96 巻 1 号(1952 年 1 月 7 日)Maschinenfabrik Lorenz AG の広告
- 米国規格協会『Industrial Standardization』25 巻 5 号(1954 年 5 月)新着の外国規格の一覧p. 158
- 『The Tool Engineer』34 巻 6 号(1955 年 6 月)「Tolerances for Gears」(Werkstattstechnik und Maschinenbau の Karl Keck の記事の紹介)p. 187
- Bachmann・Forberg『Technisches Zeichnen』(Teubner、1963)p. 143
- ドイツ歴史博物館(DHM)「VEB Zahnschneidefabrik „Modul“ Karl-Marx-Stadt の写真集」1955 年(SI 90/2119)
- US 2,996,958「Method and apparatus for hobbing toothed elements」(Fa. Hermann Pfauter、1961 年)
- C. Kompe『Zwischen Wissenschaft und Industrie:Aachener Werkzeugmaschinenlabor の知識と技術の移転の仕組み 1906〜2006』(RWTH Aachen 博士論文、2009)
- RWTH Aachen WZL「Arbeitskreise」(WZL-Getriebekreis)
- 『The Engineer』203 巻 5280 号(1957 年 4 月 5 日)「Hobbing Machine for Small Cyclo-Palloid Bevel Gears」p.545p. 545
- F. L. Litvin『Theory of Gearing』NASA RP-1212(1989)第 17 章「Synthesis of Spiral Bevel Gears」p. 349
- 『海に陸にそして宇宙へ:続三菱重工業社史 1964-1989』三菱重工業(1990)コマ 383・384・540・541・542
- 三菱重工業 プレス発表「歯車工作機械 累計 1 万台」(2012 年 11 月 1 日)
- 『American Machinist』105 巻 16 号(1961 年 8 月 7 日)Fellows-Pfauter P 630 の広告
- 『マシナリー』32(485)(1969 年 11 月)コマ 90
- 『マシナリーオートメーション』34(506)(1971 年 8 月)コマ 101
- ISO 1328-1:2013(第 2 版)の前書き・序文(iTeh Standards のプレビュー)
- ザクセン州立文書館 Chemnitz 33330 WMW-Export-Import 宣伝 Nr. 570「Zahnrad-Wälzfräsmaschinen」(1965〜1985)
- 『Gear Technology』2002 年 5/6 月号(Publisher's Page:Sigma Pool の Liebherr・Lorenz ほか)
- 『Gear Technology』2000 年 9/10 月号 Industry News(Samputensili が Hurth Modul を買収)
- 『Gear Technology』1996 年 11/12 月号 IMTS 報告「Gleason to Acquire Pfauter Group」
- 『Gear Technology』1997 年 9/10 月号「Gleason Corporation Acquires the Pfauter Group」
- EMAG「History」(沿革)
- 『American Machinist』(2005 年 9 月 23 日)「German companies develop unique, one-step gear hobbing system」
- 『Gear Technology』2010 年 10 月 11 日「MAG Acquiring Samputensili Gear Hobbing Line」
- Profilator「SCUDDING® von Innen- & Außenverzahnungen」
- ニデックマシンツール「製品の歴史」
- Industriemuseum Chemnitz「Dauerausstellung」
- RWTH Aachen WZL「Institutsgeschichte」