GERMANY 02科学としての生産技術

工作機械をどう作り、どう使えば、速く・正確に・安く削れるのか。この問いを大学の研究室で、測って確かめる学問にしたのがドイツです。1904 年、Berlin の工業大学に工作機械と工場経営の講座ができ、2 年後には Aachen にも講座が生まれました。メーカーは業界団体 VDW を作り、国は規格(DIN)と能率の運動(合理化)を進め、Krupp は超硬工具 Widia を売り出します。この章では 1890 年から 1933 年まで、工作機械づくりが「職人の勘」から「研究と規格」へ移っていく様子を、新ドイツ人名事典(NDB)、特許、当時の技術誌、大学と研究機関の歴史の研究で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。

測って
比べて
規格にする!

マスコットのチップス

この章は「時代の章」です。機械ごとの仕組みの移り変わりは機種の章にまとめています。Pittler・Loewe のタレット旋盤や Index の自動盤は第 5 章「ドイツの旋盤の系譜」、Wanderer のフライス盤は第 6 章、研削盤は第 7 章、Pfauter のホブ盤は第 8 章「ドイツの歯車機械の系譜」、Schiess の大形機や Heller のボール盤は第 9 章で詳しく扱います。前の時代は第 1 章「ザクセンとベルリン:ドイツ工作機械の始まり」です。

業界団体・専門メーカーと高速度鋼(1890〜1903 年)

VDW:メーカーが手を組む

1891 年 12 月 7 日、Düsseldorf の大形工作機械メーカー Ernst Schiess の呼びかけで、11 社の経営者が Hannover の Hotel Kastens に集まり、工作機械メーカーの団体 VDW(Verein Deutscher Werkzeugmaschinenfabriken=ドイツ工作機械工業会)を作りました。会の記録に残る目的は「主なメーカーどうしの関係を固めること」で、初代の会長には Schiess が就き、亡くなる 1915 年まで務めます[2][3]。NDB によると、Schiess は会長として国の新しい関税表づくりや通商条約の準備にも関わりました[24]。メーカーがまとまって国と話し、のちには研究を支え、見本市を運営する。日本でいえば日本工作機械工業会(日工会)にあたる団体です。

VDW 自身は創立を 1891 年としますが、NDB の Schiess の項は、メーカーをまとめた VDW を 1898 年としています[24]。組織を整えた年の違いと思われますが、確かめられていません。1892 年は機械工業全体の団体 VDMA の創立の年で、混同しやすいので注意が要ります[2]。

得意な機種を持つ専門メーカー

1890 年代には、得意な機種を持つメーカーが次々に育ちます。Leipzig の Pittler は 1890 年にタレット(刃物を順に回して使う刃物台)を持つ機械を出し、1894 年にタレットの穴を 6 から 16 に増やし、1895 年に株式会社になってタレット旋盤の専門メーカーになりました[5][7]。1892 年の Dingler 誌は、Pittler の精密工作用の旋盤を「万能金属加工機」として紹介し、足踏みでも天井の伝動軸からのベルトでも動かせると書いています[4]。1894 年には Nürtingen で Hermann Heller が創業し、のちにねじ切り盤・丸のこ盤、1908 年からはラジアルボール盤を作ります[6]。Chemnitz の自転車メーカー Wanderer は、買ったフライス盤では品質が足りないため、1898 年に自分でフライス盤を作り始め、やがてフライス盤の大手になりました[15]。1897 年には Chemnitz の Hermann Pfauter が、はすば歯車も切れるホブ盤の特許を出願しています(くわしくは第 8 章)[12][13]。

米国への対抗も表に出てきます。1898 年、銀行と電機の AEG などの出資で、米 Niles Tool Works の技術で作る Deutsche Niles が Berlin にできました。その目的は国内の工作機械の生産を強め、米国製品を市場から押し出すことでした[14]。

Loewe の Moabit 工場:米国式の先へ

1896 年、Berlin の Loewe は兵器部門を新しい兵器会社 DWM に移し、工作機械のメーカーになります。1896〜98 年に Moabit に建てた新工場では、米国人の技師を招いて互換生産を入れ、電動機による群運転(何台かの機械をまとめて 1 台の電動機で回す)、工作機械の流れ作業、短い運搬の道筋、手本になる測定室を取り入れました。1901 年には米 Norton の円筒研削盤の許諾生産を始め、1901〜02 年にはドイツで最初の社内の規格の部署を作っています[10]。工場では鋼球と玉軸受も作っていたため、Loewe は Richard Stribeck に球と軌道輪の強さの研究を頼み、これが玉軸受の設計の基礎になりました[10]。NDB は、Loewe が第一次世界大戦の前にヨーロッパ最大の工作機械工場になったと書いています[10]。この工場に 1897 年に入ったのが、のちの Schlesinger です。

1900 年:高速度鋼の衝撃

1900 年のパリ万博で、米国の Taylor と White が高速度鋼(ハイス)の刃物を実演しました。刃先が赤くなるほどの速さでも切れ続ける刃物です。会場の旋盤は 40 馬力の電動機で動く、ごく頑丈な機械でした[16]。Loewe はこの刃物を Berlin に持ち帰り、旋盤とボール盤で最大の能力で試しました。すると2 台とも 1 か月足らずで壊れてしまったのです[17]。刃物が良くなると、機械の方が負ける。1914 年のドイツの技術事典は、旋盤の進歩は高速度鋼に引っぱられ、主軸の回転の段を増やし、すべての部分を強く作るようになったとまとめています[33]。米国の高速度鋼の話はアメリカ工作機械アーカイブ 第 2 章にあります。

現場で何が変わったか。高速度鋼は、それまでの炭素工具鋼より何倍も速く削れました。速く・深く削るには、主軸を回す力(馬力)、主軸と案内面の剛性、切りくずを逃がす空間が要ります。天井の伝動軸から細いベルトで回していた機械では力が足りず、太いベルト、歯車式の主軸台、やがて機械ごとの電動機へと、駆動のしかたそのものが作り直されていきました。

大学の研究室と技術誌(1904〜1913 年)

Schlesinger と TH Berlin の講座

Georg Schlesinger(1874〜1949 年)は TH Berlin で機械を学び、1897 年に Loewe に入りました。1899 年に治具・工具・量産設備の課長、1902 年に設計の長になり、自分で考えたはめあいと公差の方式を工場に入れます。この方式を工場での測定と互換部品の作り方の論文にまとめ、1903 年に博士になりました[11]。1904 年 7 月、TH Berlin に新しくできた「工作機械・工場設備・工場経営」の講座の教授になります。この種の講座はドイツで最初で、いまの TU Berlin の工作機械・工場経営研究所(IWF)の始まりです[11][18][20]。着任の前には Loewe のために米国を数週間視察し、翌年のリエージュ万博の工作機械の報告を本にしています[18][19]。

メーカーの設計の長が大学の教授になる。この経歴が、Schlesinger の研究の性格を決めました。研究の目当ては、工場で本当に役に立つことでした。

工作機械試験場と Werkstattstechnik 誌

1907 年、Schlesinger は大学に工作機械試験場(Versuchsfeld für Werkzeugmaschinen)を作りました。ドイツで最初のものです。建物は大学、運営費は国が出し、試験に使う工作機械はメーカーが寄付したり貸したりしました[27][28][29]。同じ 1907 年、技術誌『Werkstattstechnik(工場技術)』を Springer から創刊し、約 30 年編集します。大学の研究と工場の現場を結ぶのが狙いでした[11][18][30]。1912 年からは米国の業界誌『Machinery』の出版社と組み、記事の約 4 割を Schlesinger が『Machinery』から選んで載せています。1911 年の購読は約 2,200 でした[18]。米国の最新の工場の情報を、ドイツの現場に毎月届ける仕組みです。

試験場では、工作機械を実際に動かして測りました。1912 年にはベルトで動く旋盤、1921 年には 1 台ごとの電動機で動く形削り盤の試験の報告が出ています[32][44]。NDB は、Schlesinger の刃物鋼・ドリル・フライスの研究が、硬い鋼を速く削るときの大きな力に耐える工作機械へと、機械の作りを変えたと評しています[11]。

工作機械の講座1904 年 7 月TH Berlin、ドイツで最初[11]
工作機械試験場1907 年ドイツで最初の試験場[27]
Aachen の講座1906 年Wallichs、いまの WZL[21]

Aachen の WZL と Taylor の翻訳

1906 年には Aachen の工業大学にも、ドイツで 2 番目の工作機械の講座ができ、製鉄所の機械部門の長だった Adolf Wallichs が教授になりました。この年が、いまの工作機械研究所 WZL の始まりとされます[21][22]。Wallichs は米国の Taylor の本を次々に訳しました。1908 年に『金属切削の技術』を『Über Dreharbeit und Werkzeugstähle(旋削と工具鋼)』として出し、ドイツでは切削速度の単位(m/min か mm/s か)がそろっていなかったので m/min にそろえたと前書きに書いています[31][16]。1909 年には『工場管理(Shop Management)』も訳しました[18]。いま日本の現場で「切削速度 V=毎分○m」と書くのは当たり前ですが、その単位をそろえるところから研究が始まったのです。Aachen の WZL は大戦とインフレで建物が遅れ、1924 年 6 月にラインとルールの産業界の寄付で完成しました[21]。1936〜37 年に Wallichs の後を継いだのが、戦後の WZL を率いる Herwart Opitz です[73]。

1 台ごとの電動機(個別駆動)へ

高速度鋼で強く速く削る機械が求められると、天井の伝動軸から 1 台ずつベルトで回す方式は、費用が高くても1 台ごとの電動機(個別駆動)に置き換わっていきました。VDW の記念誌は、1910 年の電動機を組み込んだ Wanderer のフライス盤を例に挙げています[2]。1906 年の事典には、約 25 馬力の電動機で動く Schiess の大形の立旋盤(直径 9.5m まで、テーブルの速さ 20 段)[23]、1914 年の事典には主軸台に電動機を載せた Boehringer の精密高速旋盤と、直径 11m の面板を持つ重さ 300t の Schiess の立旋盤が載っています[33]。Boehringer 自身は、1896 年に電動機で動く最初の旋盤を作ったとしています[9]。電動機を機械に組み込むと、ベルトの掛け替えなしに回転数を変えやすくなり、機械をどこにでも置けるようになりました。工場の配置を工程の順に並べ直す、のちの流れ作業の前提です。

1913 年、Schlesinger は Leipzig の VDI(ドイツ技術者協会)の総会で「工場経営と経営科学」を講演し、Taylor の方式の長所と短所を論じました[29]。同じ年に、ドイツで最初のねじの規格づくりを提案しています[11]。

第一次世界大戦・規格・合理化(1914〜1923 年)

兵器工場の Schlesinger

1914 年 8 月に第一次世界大戦が始まると、Schlesinger は Spandau の兵器廠の小銃工場を任され、日産 450 丁を 1,000 丁にすることをめざしました。Loewe の工場も開戦から数か月で能力いっぱいになります[11][28]。工作機械メーカーは砲弾を削る機械や砲身の中ぐり盤を作り、Berlin の Niles は砲弾そのものも作りました[9][14]。1915 年からは外科医 Sauerbruch と、戦争で手足を失った人の義手・義足づくりにも取り組みます[11]。1916 年のヒンデンブルク計画で兵器の大増産が命じられ、年末には兵器の設計部署が 1 つにまとめられて部品の標準化が進みました[28]。

規格の始まり:NADI と DIN 1

兵器を何十万も作るには、ねじ・ピン・キーのような小さな部品の寸法を、どの工場でもそろえる必要があります。1917 年 5 月、Spandau の砲兵工場の Hellmich らの発案で「一般機械の標準部品委員会」ができ、VDI が後押ししました。これがいまの DIN(ドイツ規格協会)の原形です[37][38]。12 月 22 日には「ドイツ工業規格委員会(NADI)」になり、1918 年 3 月に最初の規格 DIN 1「テーパピン」が出ました[39][43]。1926 年には仕事が工業の外にも広がったため「ドイツ規格委員会(DNA)」と名を変えます[39][37]。1925 年の Leipzig の見本市では、規格の枚数はすでに 800 を超え、ねじ・用紙の大きさ・キーなどの分野は本にまとめられていました。7 社の部品を組み合わせた伝動装置を並べ、規格のおかげでどの会社の軸受や軸も取り替えられることを見せています[52]。

現場で何に効いたか。図面に「M10」「A4」「DIN 912」と書くだけで部品が決まるのは、規格があるからです。工作機械にとっても、ねじ・はめあい・主軸端・工具のシャンクがそろうと、機械と工具と治具を別々の会社から買って組み合わせられます。ドイツの規格は、戦争の部品の統一から生まれ、工作機械メーカーと大学の研究者が中身を作りました(はめあいの部会は TH Berlin 出身の Kienzle が 1930 年から率います[45])。いまのはめあいの考え方ははめあいのページで解説しています。

Taylor から合理化運動へ

1915 年、Dingler 誌は 3 月に亡くなった Taylor の追悼記事で、「テイラー主義」ほど技術者と経済学者の心を揺さぶった新しい教えはまれだと書きました[36]。戦後のドイツは、この考えを国の運動にします。1918 年 2 月に VDI の中に経済的生産委員会(AWF)ができ[29][42]、5 月には VDW の発案で工作機械試験場を資金で支える研究会ができました。会長は Schlesinger、事務は VDW です[29]。10 月には Schlesinger の発案で、試験場に心理学者 Moede の「産業心理技術」の班ができ、働く人の適性を測る研究が始まります[29]。1921 年 6 月には国の経済省の発案で、能率を上げる運動の本部 RKW(国家経済性本部)が Berlin にでき、会長の Carl Friedrich von Siemens のもとで Taylor と Ford を手本にしました[46][47]。1924 年には作業の時間を測って標準時間を決める REFA もできます[42]。ただし研究によると、Ford 式の流れ作業が Berlin の機械工業に根づくのは 1930 年代で、1920 年代の工作機械の現場の合理化は、主に時間研究と標準化でした[46]。

Leipzig の技術見本市と INDEX

1918 年、Leipzig に技術見本市(Technische Messe)の会社ができ、1920 年からいまの Alte Messe の会場で開かれるようになりました[41][8]。インフレのさなかの 1923 年春の第 5 回には、工作機械のメーカー約 270 社が出品します。Dingler 誌は、1 つの国がこれほどそろえて見せたことは、どの万博にもなかったと書き、職長や組長こそ見本市で動く機械を見て学ぶべきだと勧めています[50]。1925 年には、VDW の新しい巨大な第 9 館ができました[52]。1936 年の業界誌は、工作機械の展示は機械が実際に旋削・フライス削り・平削り・穴あけをしてみせる「大きな工場」のようだと書き、第一次世界大戦の前には生産のための機械は見本市で売る品と見なされていなかったと振り返っています[78]。見本市は、工作機械を「見て、動かして、比べて」買う場になったのです。

大戦の始まった 1914 年には、Esslingen で Hermann Hahn が自動盤のメーカー INDEX を作っています[35]。名前は、タレットを割り出す(index)ことから来たとされます。

超硬工具と精度検査、恐慌まで(1924〜1933 年)

Widia:ダイヤモンドのような刃物

1923 年 3 月、電球メーカー Osram の Karl Schröter が、炭化タングステンの粉にコバルトなどを少し加えて押し固め、焼いて作る「焼結の硬い合金」の特許を出願しました(DE 420689、1925 年 10 月に公告)。同じ発明の米国の特許は 1925 年 8 月に登録され、米 GE の持ち物になっています[51][77]。Krupp はこの権利を得て、1925 年 12 月に商標「Widia」を出願し(1926 年 5 月登録)[53][54]、1926 年に超硬工具として売り出し、1927 年春の Leipzig の見本市で一般に公開しました[55][54]。名前は「wie Diamant(ダイヤモンドのよう)」から来ています。

住友電気工業の技術誌によると、高速度鋼で鋼を削る速さが毎分 20〜40m だったのに対し、超硬工具ではおよそ 100〜150m、約 4 倍になりました[56]。1900 年の高速度鋼のときと同じことが、もっと大きな幅で起きたのです。工作機械は、さらに速く回る主軸、さらに強い剛性、超硬の刃先が欠けないための振動の少なさを求められるようになります。最初の超硬は鋳鉄や非鉄金属を削るのが得意で、鋼をよく削れる超硬が広まるのは 1930 年代です[56]。いまの超硬工具の選び方は切削加工のページで解説しています。

超硬合金の特許1923 年 3 月 30 日Osram の Schröter、DE 420689[51]
商標 Widia1926 年 5 月登録Krupp、wie Diamant[53]
切削速度約 4 倍ハイス 20〜40 → 超硬 100〜150m/min[56]

1927 年:精度検査の本

この時代のドイツの成果で、いまの工場にいちばん直接つながっているのが、Schlesinger の工作機械の精度検査の本です。1927 年に Springer から出た『Die Arbeitsgenauigkeit der Werkzeugmaschinen(工作機械の加工精度)』は、旋盤・フライス盤・ボール盤などの機械ごとに、何をどう測るか(検査の項目と方法)と、どこまでの誤差を許すか(許容値)を表にまとめたものでした。のちの版は『Prüfbuch für Werkzeugmaschinen(工作機械の検査の本)』と呼ばれます[11][57][58]。1932 年には英語版『Inspection Tests on Machine Tools』がロンドンで出て(第 2 版から『Testing Machine Tools』)、世界に広まりました[62]。

工作機械の規格に詳しい上野滋は、この「Schlesinger 規格」と、1933 年のフランスの Salmon の実削りの試験法が、いまの工作機械の試験規格の 2 つの源で、その発展した形がいまの ISO 規格(ISO 230)だと書いています[49][75]。主軸の振れ、テーブルの真直度、主軸とテーブルの直角度をダイヤルゲージと精密水準器で測る。いま工作機械を据え付けたときや精度を点検するときの手順の多くは、ここで形になりました。NDB は、Schlesinger がこの本で、規格に合った部品を精密に互換で作れることの大切さを示したと評しています[11]。

VDF・ソ連の注文と恐慌

1920 年代の後半には、メーカーどうしが手を組む動きも出てきます。1928 年、旋盤メーカー 4 社(Boehringer・Franz Braun・Heidenreich & Harbeck・H. Wohlenberg)が、大きさごとに受け持つ旋盤を分けて作り、一緒に売る「VDF(Vereinigte Drehbank-Fabriken)」を作りました[9][59]。1929 年には Loewe が電機の会社 Gesfürel と合併します[10]。世界恐慌の中で支えになったのはソ連からの注文で、VDF の輸出の半分以上はソ連向け、Gildemeister もソ連の注文で生産を続けました[9][61]。Schlesinger は 1925 年と 1929 年にソ連を訪れ、そこで決まった注文がドイツの工作機械メーカーを 1930 年代の終わりまで忙しくしたといいます[11]。経済史の研究は、ドイツの工作機械メーカーが 19 世紀の終わりと 1920 年代に、米国の技術をまねて追いつく戦略をとったことを、特許の統計から示しています[64]。研究と規格で追い越そうとしながら、米国から学ぶことも続けていたのです。

1933 年

1933 年、ナチ政権のもとで、ユダヤ系の Schlesinger は大学を追われ、ソ連との関係から反逆の疑いをかけられて約 9 か月拘束されました。長く協力してきた VDW は釈放のために動いています。1934 年に国外に追放され、チューリヒとブリュッセルを経て 1939 年に英国に渡り、1949 年にロンドン近郊で亡くなりました[11][28]。TH Berlin の講座は 1934 年に Kienzle が継ぎます[45]。工作機械づくりが軍備と統制の中に入っていく時代は、第 3 章「戦争と東西分断」に続きます。

⛩日本とのつながり

ホブ盤と旋盤:ドイツの機械を手本に

日本に最初に入ったホブ盤は、1906 年ごろに輸入された独 Pfauter の機械とされます[25][26]。大正の国産のホブ盤には Pfauter の機械を手本にしたものがあり、歯切り盤の国産化はドイツの機械から始まりました(国産アーカイブ 歯切り盤の章)。旋盤では、1935〜56 年に池貝がドイツの VDF の旋盤を手本に、部品をユニットにまとめた普通旋盤を作っています。1937 年製の 1 台が日本工業大学の工業技術博物館に残っています[74](国産アーカイブ第 1 章)。VDF は、この章で書いた 1928 年の旋盤メーカーの共同体です。

精度検査と規格

日本の工作機械の精度検査の歴史は、1921 年 10 月に農商務省が開いた初めての工作機械展覧会に始まるとされます。出品された機械の精度が検査されたのです[48][49]。同じ 1921 年 4 月には工業品規格統一調査会ができ、日本標準規格(JES)づくりが始まりました[76]。1933 年には調査会がドイツの規格づくりを調べた報告をまとめ、1937 年には機械学会誌に「独逸における工作機械規格」が載っています[65][66]。Schlesinger の精度検査の本は 1939 年に『工作機械の檢査法』として訳されました[67]。上野滋は、日本の工作機械の試験に最も大きな影響を与えたのが Schlesinger 規格であることに異論はないだろうと書き、いまの JIS B 6191 は ISO 230-1 の日本語訳だと説明しています[75]。1927 年のドイツの本が、ISO を通して、いまの日本の工作機械の検査の規格につながっているのです。Schlesinger の合理化の記事も、1932 年に『ベドー式生産管理』として訳されています[63]。

超硬工具

超硬工具は、日本でもすぐに追いかけられました。芝浦製作所は 1929 年 8 月に超硬合金の開発に成功し、1930 年に「タンガロイ」として売り出しています[60]。住友電線製造所は 1928 年に超硬の伸線ダイスを試作し、1931 年に超硬工具の製造を始めました[56]。住友の技術誌は、Osram の発明(1923 年)・Krupp の Widia から自社の開発までを一続きの流れとして書いています[56]。ただし、日本の会社が Widia の技術を直接入れたことを示す資料は見つかっていません。

⑂メーカーの系図

この章に出てくる主な工作機械メーカーの、名前の移り変わりです。帯の色が変わるところで名前が変わっています。帯の右端は、この章で確かめた時点までで、そこで会社が終わったとは限りません。1945 年前後の切れ目は、戦争の終わりの解体・接収で途切れた期間です。戦後の東西の分かれ方と、Pfauter・Niles のその後は第 3 章と第 8 章で扱います。

186018801900192019401960198020002020Ernst SchiessErnst Schiess AGSchiess-Defries AGSchiess AGLudwig Loewe & Co.Ludw. Loewe & Co. AGGesfürel と合併AEGLudwig Loewe(DIAG)Gildemeister & Comp.Gildemeister(いまの DMG MORI AG)J. E. ReineckerJ. E. Reinecker AGReinecker(Ulm)EMAG グループWinklhofer & JaenickeWanderer-FahrradwerkeWanderer-Werke AGInventionPittler AGPittler WZM AGPittler(Langen)Hermann HellerGebr. Heller(いまの HELLER)Deutsche NilesNiles(Weißensee)Hermann Pfauter(Chemnitz)INDEX(Esslingen)Widia(Krupp。いまの商標の持ち主は Kennametal)帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [24][10][71][61][1][72][15][5][7][6][14][13][35][53][54]

見に行ける所

研究所と見本市の跡、工場の跡、ベルトで動く旋盤を保存する施設です。開館日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。19 世紀の機械を見られる博物館は第 1 章にあります。

TU Berlin 工作機械・工場経営研究所(IWF)Berlin(ベルリン州)1904 年の Schlesinger の講座と 1907 年の工作機械試験場の流れを継ぐ研究所。大学の構内で、見学は研究所の案内で確かめること[68][11]
RWTH Aachen 工作機械研究所(WZL)Aachen(ノルトライン=ヴェストファーレン州)1906 年に Wallichs の講座から始まった研究所。最初の自前の建物は 1924 年に完成した[69][21]
Alte Messe Leipzig(旧見本市会場)Leipzig(ザクセン州)1920 年から技術見本市が開かれた会場。1928 年までに約 17 の展示館が建ち、1925 年には VDW の第 9 館ができた。いまも当時の建物の一部が残る[41][52]
旧 Pittler の工場(Pittlerstraße 26)Leipzig-Wahren(ザクセン州)1899 年から Pittler がタレット旋盤を作った工場の跡。建物は 2018 年から別の用途で使われている[7]
Göppinger TechnikforumGöppingen(バーデン=ヴュルテンベルク州)Boehringer の旋盤を中心に、天井の伝動軸とベルトで動かす機械を元社員が動態で保存している。公開は作業日か予約で[70]
Industriesalon SchöneweideBerlin(ベルリン州)1898 年に Deutsche Niles の工場ができ、のちに AEG の変圧器工場になった Oberschöneweide の工業地区の歴史を見せる博物館[14]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料が開きます。「p.」は本・誌面のページ(Dingler 誌は記事のページ)、「コマ」は国立国会図書館デジタルコレクションのページ、「PDF p.」は PDF のページです。

団体と高速度鋼大学の研究室大戦・規格・合理化超硬と精度検査次の章18901900191019201930194018911896190019041906191419171921192519271933黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

業界団体・専門メーカーと高速度鋼1890〜1903 年

年出来事メーカー・人出典
1891年Reinecker が Chemnitz-Gablenz の新工場で、職工 226 人・工作機械 211 台で生産を始める。1893 年のシカゴ万博にはドイツの工作機械メーカーでただ 1 社出品J. E. Reinecker[1]
1891年12月★Düsseldorf の Ernst Schiess の呼びかけで、12 月 7 日に Hannover の Hotel Kastens に工作機械メーカー 11 社の経営者が集まり、VDW(Verein Deutscher Werkzeugmaschinenfabriken=ドイツ工作機械工業会)を作る。初代の会長は Schiess(1915 年まで)。目的は主なメーカーどうしの関係を固めることだったVDW は 1891 年 12 月 7 日に Hannover で集まったとする。NDB の Schiess の項は、メーカーをまとめた VDW を 1898 年とする(組織を整えた年と思われるが確かめていない)。1892 年は機械工業全体の団体 VDMA の年VDW[2・p.104][3]
1892年Dingler 誌が、Leipzig の Pittler の「万能金属加工機」と呼ぶ精密工作用の旋盤を紹介する。足踏みでも、天井の伝動軸からのベルトでも動かせたMaschinenfabrik Invention(W. v. Pittler)[4・p.6]
1894年Pittler のタレット(刃物を順に回して使う刃物台)が 6 穴から 16 穴になるMaschinenfabrik Invention(W. v. Pittler)[5]
1894年2月Hermann Heller が Nürtingen で創業(特許品と工具の商い)。1898 年にねじ切り盤と金属用の丸のこ盤、1900 年に兄弟の工場 Gebr. Heller、1908 年からラジアルボール盤を売るHeller[6]
1895年Pittler の会社が株式会社「Leipziger Werkzeug-Maschinen-Fabrik vorm. W. v. Pittler」になり、タレット旋盤の専門メーカーとして 1899 年に Leipzig-Wahren へ移るPittler[5][7]
1895年Leipzig で世界最初の見本市(Mustermesse)が開かれる。のちに工作機械の展示の中心になる—[8]
1896年Göppingen の Gebr. Boehringer が、電動機で動く最初の旋盤を作ったとする(同社の沿革)会社の記述のみで、当時の資料では確かめていないGebr. Boehringer[9]
1896年★Isidor Loewe が兵器部門を DWM に移し、Loewe は工作機械のメーカーになる。1896〜98 年に Berlin の Moabit に米国人の技師を招いて新工場を建て、電動機の群運転(何台かの機械をまとめて 1 台の電動機で回す)、工作機械の流れ作業、短い運搬の道筋、手本になる測定室を取り入れたLudw. Loewe & Co. AG[10]
1897年TH Berlin を出た Georg Schlesinger が Loewe に入る。1899 年に治具・工具・量産設備の課長、1902 年に設計の長になり、自分で考えたはめあいと公差の方式を工場に入れたLudw. Loewe & Co. AG[11]
1897年9月Chemnitz の Hermann Pfauter が、はすば歯車も切れるホブ盤の特許を出願(DRP 112082、1900 年に公告)。1900 年に自分の工場を作る(くわしくは歯車機械の章)Hermann Pfauter[12][13]
1898年銀行と AEG などの出資で、米 Niles Tool Works の技術で作る Deutsche Niles-Werkzeugmaschinenfabrik が Berlin にできる。国内の工作機械の生産を強め、米国製品を市場から押し出すのが狙いだったDeutsche Niles[14]
1898年Chemnitz の自転車メーカー Wanderer が、買ったフライス盤では品質が足りないため、共同創業者 Jaenicke の設計でフライス盤を作り始める。のちにフライス盤の大手になる1899 年、1900 年とする資料もある。NDB の 1898 年を採ったWanderer[15]
1900年米 Taylor と White の高速度鋼がパリ万博で実演される。会場の旋盤は 40 馬力の電動機で動く、ごく頑丈な機械だった—[16・p.41][17・PDF p.51]
1900年★Loewe が高速度鋼の刃物を Berlin に持ち帰り、旋盤とボール盤で最大の能力で試すと、2 台とも 1 か月足らずで壊れてしまう。工作機械を作り直す時代が始まるLudw. Loewe & Co. AG[17・PDF p.51]
1901年Loewe が米 Norton の円筒研削盤の許諾生産を始め、1901〜02 年にドイツで最初の社内の規格の部署(Normenbüro)を作る。1906 年から自社の標準部品を量産Ludw. Loewe & Co. AG[10]
1903年Schlesinger が TH Berlin で、工場での測定と互換部品の作り方(はめあい)の論文で博士になる。1904 年に『Die Passungen im Maschinenbau(機械のはめあい)』を出す博士の年を 1904 年とする資料もある(Spur 2008・Sarkowski)Georg Schlesinger[11]

大学の研究室と技術誌1904〜1913 年

年出来事メーカー・人出典
1904年Schlesinger が Loewe のために数週間の米国視察に出る。翌年のリエージュ万博の工作機械の報告は 1906 年に Springer から本になったGeorg Schlesinger[18・p.201][19]
1904年7月★Schlesinger が TH Berlin(Charlottenburg)に新しくできた「工作機械・工場設備・工場経営」の講座の教授になる(7 月 20 日付)。この種の講座はドイツで最初で、いまの TU Berlin の IWF の始まりGeorg Schlesinger[11][18・p.200][20]
1906年★Aachen の工業大学に、ドイツで 2 番目の工作機械の講座ができ、Adolf Wallichs が教授になる。この年が工作機械研究所 WZL の始まりとされる講座の正式の名は資料で違うAdolf Wallichs[21][22]
1906年Schiess の電動機で動く大形の立旋盤(直径 9.5m まで、約 25 馬力、テーブルの速さ 20 段)が事典に載る。同じ年に会社は Ernst Schiess AG になるErnst Schiess[23][24]
1906年ごろPfauter のホブ盤が日本の造船所と海軍工廠に輸入される。日本で最初のホブ盤とされるHermann Pfauter[25・コマ104][26・コマ23]
1907年★Schlesinger が TH Berlin に工作機械試験場(Versuchsfeld für Werkzeugmaschinen)を作る。ドイツで最初のもので、建物は大学、運営費は国、機械はメーカーが寄付や貸出しをした1906 年とする大学の広報もあるGeorg Schlesinger[27・p.190][28][29・p.377]
1907年★Schlesinger が技術誌『Werkstattstechnik(工場技術)』を Springer から創刊し、約 30 年編集する。大学の研究と工場の現場を結ぶのが狙い(見本誌は 1906 年のクリスマス前)Georg Schlesinger[11][18・p.202][30]
1908年Wallichs が Taylor の『金属切削の技術』を『Über Dreharbeit und Werkzeugstähle(旋削と工具鋼)』として訳す。ドイツでは切削速度の単位がそろっていなかったため、m/min にそろえたAdolf Wallichs[31][16・p.5][21]
1909年Wallichs が Taylor の『工場管理(Shop Management)』も訳し、Springer から出るAdolf Wallichs[18・p.200][21]
1910年電動機を組み込んだ Wanderer のフライス盤(1910 年)。高速度鋼で、より強く速く削れる機械が求められ、費用が高くても天井の伝動軸から 1 台ごとの電動機(個別駆動)に置き換わっていったWanderer[2・p.57]
1911年Reinecker が株式会社になるJ. E. Reinecker AG[1]
1912年工作機械試験場が、ベルトで動く旋盤の試験の報告を出す。駆動のしかたを測って比べる研究が続く—[32]
1912年1月Springer と米国の業界誌『Machinery』の出版社が共同の会社を作り、Werkstattstechnik が月 2 回の発行になる。記事の約 4 割は Schlesinger が『Machinery』から選んだ。1911 年の購読は約 2,200—[18・p.203]
1913年Schlesinger が Leipzig の VDI の総会で「工場経営と経営科学」を講演し、Taylor の方式の長所と短所をドイツで早く論じる。同じ年、ドイツで最初のねじの規格づくりを提案し、1924 年までねじの委員会を率いるGeorg Schlesinger[29・p.377][11]

第一次世界大戦・規格・合理化1914〜1923 年

年出来事メーカー・人出典
1914年事典に、Schiess の直径 11m の面板を持つ立旋盤(重さ 300t、直径 12m・高さ 3.4m の工作物まで)と、Boehringer の主軸台に電動機を載せた精密高速旋盤が載るErnst Schiess AG[33・p.182]
1914年大戦中、工作機械メーカーは砲弾を削る機械や砲身の中ぐり盤を作り、Berlin の Niles は砲弾そのものも作った—[9][14]
1914年Stuttgart の工具の会社の子会社として、Esslingen に Index(のちの INDEX-Werke)ができる。やがて Esslingen の機械工業の中心の会社に育つ創業の日(1914 年 1 月 2 日とされる)と最初の機種は確かめていないIndex(Esslingen)[34・p.67]
1914年1月★Hermann Hahn が Esslingen に INDEX を作り、自動盤(タレットを割り出しながら自動で削る旋盤)を作り始める創業の日(1 月 2 日)は会社の沿革以外では確かめていないINDEX[35]
1914年8月第一次世界大戦。Schlesinger が Spandau の兵器廠の小銃工場を任され、日産 450 丁を 1,000 丁にすることをめざす(1915 年 3 月まで)。Loewe の工場も開戦から数か月で能力いっぱいになるGeorg Schlesinger[11][28]
1915年Dingler 誌が 3 月に亡くなった Taylor の追悼記事を載せ、「テイラー主義」ほど技術者と経済学者の心を揺さぶった新しい教えはまれだと書く—[36・p.301]
1915年Schlesinger が外科医 Sauerbruch と、戦争で手足を失った人の義手・義足を作る。働く人の能力を測る研究につながるGeorg Schlesinger[11][29・p.381]
1916年8月ヒンデンブルク計画で弾薬の生産を倍に、大砲・機関銃・航空機を 3 倍にすることが命じられる。年末には兵器の設計部署が王立製造局(Fabo)にまとめられ、兵器の部品の統一(標準化)が進む—[28]
1917年5月Berlin で「一般機械の標準部品委員会(Normalienausschuss für den allgemeinen Maschinenbau)」ができる。Spandau の砲兵工場の Hellmich らが始め、VDI が後押しした。いまの DIN の原形—[37][38]
1917年12月★委員会が「ドイツ工業規格委員会(NADI)」になる(12 月 22 日)—[39][40][38]
1918年Leipzig に「Technische Messe(技術見本市)」の会社ができる。1920 年から、Völkerschlachtdenkmal の近くのいまの Alte Messe(旧見本市会場)で開かれ、1928 年までに約 17 の展示館が建つ—[41][8]
1918年2月VDI の中に「経済的生産委員会(AWF)」ができる。1922 年に RKW に加わる—[29・p.377][42]
1918年3月★最初のドイツ規格 DIN 1「テーパピン」が出る(最初の名は DI-Norm 1)—[39][43]
1918年5月VDW の発案で、工作機械試験場を資金で支える研究会(Forschungsgesellschaft)ができる。会長は Schlesinger、事務は VDWVDW[29・p.377]
1918年10月Schlesinger の発案で、試験場に心理学者 Walther Moede の「産業心理技術」の班ができる。働く人の適性を測る研究の始まり。1920 年に Schlesinger は『心理技術と経営科学』を出すGeorg Schlesinger[29・p.378]
1921年試験場が、1 台ごとの電動機で動く形削り盤の試験の報告を出すGeorg Schlesinger[44]
1921年Otto Kienzle が TH Berlin で、はめあいの方式の研究で博士になる。のちに規格委員会のはめあいの部会を率いるOtto Kienzle[45]
1921年6月★国の経済省の発案で、能率を上げる運動の本部「RKW(国家経済性本部)」が Berlin にできる(6 月 10 日)。会長は Carl Friedrich von Siemens で、Taylor と Ford を手本にした—[46][47]
1921年10月日本の農商務省が初めての工作機械展覧会を開く(10 月 22 日開会)。出品された機械の精度が検査された、日本で最初の例とされる—[48][49・p.1419]
1923年インフレのさなかの第 5 回 Leipzig 技術見本市に、工作機械のメーカー約 270 社が出る。Dingler 誌は、1 つの国がこれほどそろえて見せたことは、どの万博にもなかったと書いた—[50・p.111]
1923年3月Osram の Karl Schröter が、炭化タングステンの粉にコバルトなどを加えて固めて焼く「焼結の硬い合金」(超硬合金)の特許を出願(3 月 30 日、DE 420689、1925 年 10 月に公告)Osram(K. Schröter)[51]

超硬工具と精度検査、恐慌まで1924〜1933 年(その後の話を少し)

年出来事メーカー・人出典
1924年Schlesinger が米国を視察。1925 年と 1929 年にはソ連を訪れ、そこで決まった注文がドイツの工作機械メーカーを 1930 年代の終わりまで忙しくしたGeorg Schlesinger[11]
1924年6月大戦とインフレで遅れた Aachen の WZL の研究所の建物が、ラインとルールの産業界の寄付で完成する(6 月 22 日)WZL[21]
1924年9月作業の時間を測って標準時間を決める「REFA(国家作業時間測定委員会)」ができる同じ REFA のサイトに 1923 年とする所もある—[42]
1925年★Leipzig の技術見本市に、VDW の「新しく建てた巨大な第 9 館」ができる。規格委員会もここに出展し、規格の枚数は 800 を超えていたVDW[52・p.41]
1925年12月Krupp が Osram の超硬合金の権利を得て、商標「Widia」(wie Diamant=ダイヤモンドのよう)を出願(1926 年 5 月登録)Fried. Krupp[53][54]
1926年★Krupp が超硬工具 Widia を売り出す。高速度鋼で鋼を削る速さが毎分 20〜40m だったところ、超硬ではおよそ 100〜150m、約 4 倍になった売り出しを 1926 年とする資料(Krupp の後身の会社)と、1927 年春の Leipzig 見本市で初めて見せたとする資料があるFried. Krupp[55][56・p.11]
1926年11月NADI が「ドイツ規格委員会(DNA)」と名を変える。仕事が工業の外にも広がったため—[39][37]
1927年★Schlesinger が工作機械の精度検査の本『Die Arbeitsgenauigkeit der Werkzeugmaschinen(工作機械の加工精度)』を出す。機械ごとに検査の項目と許される誤差を決めたもので、のちの「Prüfbuch(検査の本)」。いまの ISO 230 につながる検査の規格の源とされるGeorg Schlesinger[11][57][58][49・p.1419]
1927年3月Leipzig の春の見本市で Widia が一般に公開されるFried. Krupp[54][56・p.11]
1928年旋盤メーカー 4 社(Boehringer・Franz Braun・Heidenreich & Harbeck・H. Wohlenberg)が、大きさごとに受け持つ旋盤を分けて作り、一緒に売る「VDF(Vereinigte Drehbank-Fabriken)」を作る。輸出の半分以上はソ連向けだったBoehringer の沿革による。1927 年とする資料もある。1934 年の Winkler も、1928 年に Franz Braun が Boehringer・Heidenreich & Harbeck・Wohlenberg と、統一の設計の旋盤を一緒に作って売るための利益共同体を作ったと書くVDF[9][59・p.169]
1928年10月各国の規格団体の国際組織 ISA(いまの ISO の前身)が Prague で正式に発足する1926 年を発足の年とする資料もある(準備の会合)—[37]
1929年Loewe が、Isidor Loewe が作った電機の会社 Gesfürel と合併するLudw. Loewe & Co. AG[10]
1929年8月日本の芝浦製作所が超硬合金の開発に成功し、1930 年に「タンガロイ」として売り出す。住友電線製造所も 1931 年に超硬工具「イゲタロイ」の製造を始める芝浦製作所[60][56・p.11]
1930年世界恐慌の中、ソ連からの注文が多くのメーカーの支えになる。VDF の輸出の半分以上はソ連向けで、Gildemeister もソ連の注文で生産を続けた—[9][61]
1930年Kienzle が規格委員会のはめあいの部会の長になり、国際組織 ISA にもドイツの代表として出るOtto Kienzle[45]
1932年Schlesinger の精度検査の本の英語版『Inspection Tests on Machine Tools』がロンドンで出る(第 2 版から『Testing Machine Tools』)。同じ年、日本では Schlesinger の Werkstattstechnik の記事が『ベドー式生産管理』として訳されるGeorg Schlesinger[62][63]
1932年経済史の研究は、ドイツの工作機械メーカーが 19 世紀の終わりと 1920 年代に、米国の技術をまねて追いつく戦略をとったことを、1877〜1932 年の特許の統計で示している—[64]
1933年★ナチ政権のもとで Schlesinger が大学を追われ、約 9 か月拘束される。VDW は釈放のために動いた。1934 年に国外に追放され、チューリヒ・ブリュッセルを経て 1939 年に英国へ渡るGeorg Schlesinger[11][28]
1933年日本の工業品規格統一調査会が、ドイツの規格づくりを調べた報告をまとめる。1937 年には機械学会誌に「独逸における工作機械規格」が載る—[65][66]
1939年9月Schlesinger の精度検査の本が日本語に訳され『工作機械の檢査法』として出る—[67]

よくある質問

Georg Schlesinger は何をした人ですか?
Berlin の Loewe の設計の長から、1904 年に TH Berlin のドイツ最初の工作機械と工場経営の講座の教授になった人です。1907 年に工作機械試験場と技術誌 Werkstattstechnik を作り、はめあい・ねじの規格づくり、切削と工作機械の研究、働く人の適性の研究を進めました。1927 年の工作機械の精度検査の本は、いまの ISO 230 につながる検査の規格の源とされます。
工作機械の精度検査(ISO 230・JIS B 6191)はドイツから来たのですか?
源の 1 つがドイツです。Schlesinger が 1927 年に出した本は、機械ごとに検査の項目・方法・許される誤差を決めたもので、1932 年に英語、1939 年に日本語にも訳されました。工作機械の規格の専門家は、これと 1933 年のフランスの Salmon の実削りの試験法がいまの試験規格の 2 つの源で、日本に最も大きな影響を与えたのは Schlesinger 規格だと書いています。いまの JIS B 6191 は ISO 230-1 の日本語訳です。
超硬工具はドイツで生まれたのですか?
はい。炭化タングステンの粉にコバルトなどを加えて焼き固める超硬合金は、1923 年に Osram の Karl Schröter が特許を出願し、Krupp が 1926 年に「Widia」の名で工具として売り出しました(一般公開は 1927 年春の Leipzig の見本市)。日本では芝浦製作所が 1930 年に「タンガロイ」、住友が 1931 年に超硬工具を出しています。
DIN 規格はいつ、なぜできたのですか?
第一次世界大戦中の 1917 年です。兵器を大量に作るため、ねじ・ピンなどの部品の寸法をどの工場でもそろえる必要があり、5 月に標準部品の委員会、12 月にドイツ工業規格委員会(NADI)ができました。最初の規格 DIN 1「テーパピン」は 1918 年 3 月に出ています。

この先と関係するページ

出典

人物と会社は新ドイツ人名事典(NDB)、特許は Google Patents とドイツ特許商標庁の記録、当時の様子は Dingler 誌・事典・Taylor の訳書、研究所と規格の歴史は大学の研究・公式の沿革・国立国会図書館の書誌で、2026 年 10 月に確かめました。Dingler 誌は 1 本の記事ごとに 1 つの出典にし、ページは記事の始まりのページです。会社の沿革だけにある記述(Boehringer の最初の電動旋盤、VDF の創立など)は本文と年表で「同社の沿革」と書き分けました。年が資料で違うものは年表の注に書いています。日本側の出来事の一部は国産アーカイブの出典を使っています。

  1. Wolfgang Uhlmann「Reinecker, Julius Eduard」Neue Deutsche Biographie 21(2003)S.349
  2. Berthold Leibinger「Die Entwicklung der Werkzeugmaschinenindustrien in Deutschland, Japan und USA」博士論文、TU Wien(2014。VDW の記念誌 Glunk『Ein Jahrhundert VDW』1991 を引く)p. 57・104
  3. VDW(ドイツ工作機械工業会)「125 Years of the German Machine Tool Builders' Association」
  4. Dinglers Polytechnisches Journal 284 巻(1892)S.6「Neuere Drehbänke」(W. v. Pittler's Mechaniker-Drehbank)p. 6
  5. Hans Christoph Graf von Seherr-Thoß「Pittler, Julius Wilhelm von」Neue Deutsche Biographie 20(2001)S.491 f.
  6. HELLER「Company history」
  7. Leipziger Industriekultur「Pittlerstr. 26 – Pittler AG」
  8. Leipziger Messe「History」(見本市会社の公式の沿革)
  9. Boehringer(Göppingen)の沿革「History」
  10. Hans Christoph Graf von Seherr-Thoß「Loewe, Isidor」Neue Deutsche Biographie 15(1987)S.78–81
  11. Hans Christoph Graf von Seherr-Thoß「Schlesinger, Georg」Neue Deutsche Biographie 23(2007)S.63–64
  12. ドイツ特許 DE 112082(H. Pfauter、出願 1897-09-01、ホブ切りの方法と機械、Google Patents)
  13. Hans Christoph Graf von Seherr-Thoß「Pfauter, Hermann」Neue Deutsche Biographie 20(2001)S.305 f.
  14. Industriesalon Schöneweide「TRO Betriebschronik」(旧 Deutsche Niles の工場の年代記、PDF)
  15. W. Fischer「Jänicke, Richard Adolf」Neue Deutsche Biographie 10(1974)S.286 f.
  16. F. W. Taylor 著・A. Wallichs 訳『Über Dreharbeit und Werkzeugstähle』Springer(1916 年の第 2 刷、Internet Archive)p. 5・41
  17. Anderson Ashburn「The Machine Tool Industry: The Crumbling Foundation」, Donald A. Hicks 編『Is New Technology Enough?』American Enterprise Institute(1988)※番号は PDF のページPDF p. 51
  18. Heinz Sarkowski『Der Springer-Verlag. Stationen seiner Geschichte, Teil I: 1842–1945』Springer(1992)第 4 章「1907–1918」p. 200・201・202・203
  19. 国立国会図書館サーチ:G. Schlesinger『Die Werkzeugmaschinen auf der Weltausstellung in Lüttich』Springer(1906)の書誌
  20. Günter Spur・S. Voglrieder「Gründung des Schlesinger-Lehrstuhls」ZWF 94(3)(1999)S.136–139
  21. Christian Kompe「Zwischen Wissenschaft und Industrie. Mechanismen des Wissens- und Technologietransfers am Aachener Werkzeugmaschinenlabor von 1906 bis 2006」博士論文、RWTH Aachen(2009)
  22. W. Eversheim ほか編『100 Jahre Produktionstechnik. Werkzeugmaschinenlabor WZL der RWTH Aachen von 1906 bis 2006』Springer(2006)
  23. 『Meyers Großes Konversations-Lexikon』第 6 版 第 5 巻(1906)「Drehbank」(zeno.org の翻刻)
  24. Horst A. Wessel「Schiess, Ernst David」Neue Deutsche Biographie 22(2005)S.747
  25. 会田俊夫『歯車の技術史』開発社(1970)コマ 104
  26. 『不二越五十年史』不二越(1978)コマ 23
  27. Günter Spur「Vor 75 Jahren: Georg Schlesingers Verfolgung und Vertreibung」ZWF 103(4)(2008)S.190–193p. 190
  28. 幸田亮一「ドイツにおける第二次産業革命と「経営科学」:G・シュレジンガー再考」産業経営研究 41(熊本学園大学、2022)pp.57–73
  29. G. Spur・S. Voglrieder・T. Klooster「Von der Psychotechnik zur Arbeitswissenschaft ... TH Berlin-Charlottenburg 1918 bis 1933」BBAW Berichte und Abhandlungen 8(2000)S.371–401p. 377・378・381
  30. Internet Archive「Werkstattstechnik」(誌のコレクションの解説。1907 年創刊、Springer)
  31. CiNii Books:F. W. Taylor 著・A. Wallichs 訳『Über Dreharbeit und Werkzeugstähle』Springer(1908)の書誌
  32. 国立国会図書館サーチ:『Untersuchung einer Drehbank mit Riemenantrieb』Springer(1912、工作機械試験場の報告)の書誌
  33. Otto Lueger 編『Lexikon der gesamten Technik』第 2 版 第 9 巻(1914)「Drehen, Drehbank」(zeno.org の翻刻)p. 182
  34. Ingolf Wille『Esslingen, Ludwigsburg, Waiblingen – Nachbar- oder Nebenstädte Stuttgarts?』(Tübingen 大学、1965)p. 67
  35. INDEX グループ「100 years INDEX」
  36. Dinglers Polytechnisches Journal 330 巻(1915)S.301、W. Speiser「Frederick Winslow Taylor」p. 301
  37. VDE(ドイツ電気技術者協会)「Chronik:Normwesen und Prüfwesen」
  38. F. Haßler「Hellmich, Waldemar」Neue Deutsche Biographie 8(1969)S.485 f.
  39. DIN(ドイツ規格協会)「History of DIN」
  40. DIN「Chronik」(2020 年 1 月版、PDF)
  41. Leipziger Industriekultur「Alte Messe」
  42. REFA「Industrial Engineering」(REFA 事典、沿革の節)
  43. DIN Media「DIN 1:1918-03 Kegelstifte」(廃止された規格の書誌)
  44. 国立国会図書館サーチ:G. Schlesinger・M. Kurrein『Untersuchung einer Wagerecht-Stossmaschine mit elektrischem Einzelantrieb und Riemenzwischengliedern』Springer(1921)の書誌
  45. K. Lange「Kienzle, Otto」Neue Deutsche Biographie 11(1977)S.590–592
  46. J. Ronald Shearer「The Reichskuratorium für Wirtschaftlichkeit: Fordism and Organized Capitalism in Germany, 1918–1945」Business History Review 71(4)(1997)pp.569–602
  47. RKW Kompetenzzentrum「Die Geschichte des RKW」
  48. 国立国会図書館サーチ:平佐惟一編『工作機械展覧會報告:農商務省主催』(1922)の書誌
  49. 上野滋「工作機械の性能評価技術の動向」日本機械学会論文集 C 編 71 巻 705 号(2005)pp.1416–1420(付録:工作機械性能試験の簡単な歴史)p. 1419
  50. Dinglers Polytechnisches Journal 338 巻(1923)S.111「Die Werkzeugmaschinenschau in Leipzig während der Technischen Messe im Frühjahr 1923」(Polytechnische Schau の中)p. 111
  51. ドイツ特許 DE 420689「Gesinterte harte Metallegierung und Verfahren zu ihrer Herstellung」(K. Schröter、出願 1923-03-30、公告 1925-10-30、Google Patents)
  52. Dinglers Polytechnisches Journal 340 巻(1925)S.41「DIN auf der Leipziger Messe」p. 41
  53. ドイツ特許商標庁(DPMAregister)商標 351828「Widia」(出願 1925-12-18、登録 1926-05-06)
  54. MM MaschinenMarkt「Widia: Ein Werkstoff hart wie Diamant」
  55. thyssenkrupp「Krupp corporate history」
  56. 「工具用超硬材料の進化の歴史」SEI テクニカルレビュー 188 号(住友電気工業、2016)p. 11
  57. 国立国会図書館サーチ:G. Schlesinger『Die Arbeitsgenauigkeit der Werkzeugmaschinen』J. Springer(1927)の書誌
  58. 国立国会図書館サーチ:G. Schlesinger『Prüfbuch für Werkzeugmaschinen (Die Arbeitsgenauigkeit der Werkzeugmaschinen)』J. Springer(1931)の書誌
  59. Margarete Winkler『Die Metallindustrie Mitteldeutschlands in ihrer geschichtlichen Entwicklung』(1934)p. 169
  60. タンガロイ「沿革」
  61. 『International Directory of Company Histories』「Gildemeister AG」(Encyclopedia.com 収録)
  62. 国立国会図書館サーチ:G. Schlesinger『Inspection tests on machine tools』Machinery, London(1932)の書誌
  63. 国立国会図書館サーチ:シユレージンガー著・鈴木久蔵訳『ベドー式生産管理』タルポ社(1932)の書誌
  64. Ralf Richter・Jochen Streb「Catching-Up and Falling Behind: Knowledge Spillover from American to German Machine Toolmakers」Journal of Economic History 71(4)(2011)pp.1006–1031
  65. 国立国会図書館サーチ:佐々木重雄『實施方面より見たるドイツの規格統一事業』工業品規格統一調査會(1933)の書誌
  66. 国立国会図書館サーチ:長谷川一郎「独逸における工作機械規格」機械學會誌 40(243)(1937)の書誌
  67. 国立国会図書館サーチ:ゲー・シュレージンガー著・マシナリー編輯部訳『工作機械の檢査法』機械製作資料社(1939)の書誌
  68. TU Berlin 工作機械・工場経営研究所(IWF)
  69. RWTH Aachen 工作機械研究所(WZL)
  70. museum.de「Göppinger Technikforum」
  71. ベルリン州立文書館 B Rep. 250-05「Ludwig Loewe GmbH」(文書群の解説、Archivportal-D)
  72. ザクセン州立文書館 Chemnitz 館 31030「Wanderer-Werke AG, Siegmar-Schönau」(文書群の解説)
  73. M. Weck・H. Starck「Opitz, Herwart」Neue Deutsche Biographie 19(1999)S.550–552
  74. 国立科学博物館 HITNET 産業技術史資料共通データベース「普通旋盤」(日本工業大学 工業技術博物館の収蔵品)
  75. 上野滋「工作機械の ISO 規格の背景と現状」精密工学会誌 78 巻 7 号(2012)pp.577–580
  76. 国立国会図書館サーチ:『工業品規格統一調査會録事 自大正 10 年 4 月 25 日』(1924)の書誌
  77. 米国特許 US 1,549,615「Hard-metal alloy and the process of making same」(K. Schröter、出願 1923-10-31、登録 1925-08-11、Google Patents)
  78. F. Schmitz「Zur Großen Leipziger Frühjahrsmesse 1936」Stahl und Eisen 56 巻 9 号(1936)S.249–251(シレジア工科大学の電子図書館)