GERMANY 01ザクセンとベルリン:ドイツ工作機械の始まり

いまのドイツは、日本と並ぶ工作機械の大国です。けれども 19 世紀のはじめ、ドイツには工作機械を作る工場がほとんどありませんでした。機械は英国から買うか、英国人の職人に作ってもらうものだったのです。この章では、ザクセン王国の Chemnitz(ケムニッツ)とプロイセンの Berlin(ベルリン)を中心に、英国の機械を写すところから、工作機械だけを作る専業の工場が生まれ、米国式の互換生産を取り入れ、1876 年に「安かろう悪かろう」と批判されて巻き返すまでをたどります。年や数字は、当時の技術誌『Dinglers Polytechnisches Journal』、万国博覧会の公式の受賞者の一覧、新ドイツ人名事典(NDB)、ザクセン州立文書館の解説などで1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。

まねから
始めて
手本になった!

マスコットのチップス

この章は「時代の章」です。機械ごとの仕組みの移り変わりは機種の章にまとめています。旋盤とタレット旋盤は第 5 章「ドイツの旋盤の系譜」、フライス盤は第 6 章、研削盤は第 7 章、歯車の機械は第 8 章、平削り盤・ボール盤・中ぐり盤などは第 9 章で詳しく扱います。ドイツが手本にした英国の機械と職人の話は英国工作機械アーカイブ 第 1 章、米国式の互換生産はアメリカ工作機械アーカイブ 第 1 章にあります。

英国の機械と職人に学ぶ(1798〜1847 年)

工作機械は、まず英国で形になりました。ねじ切り旋盤、平削り盤、形削り盤、蒸気ハンマ、正確な平面とねじの基準。米国の研究者 Roe は 1916 年の本で、19 世紀の前半のドイツとフランスの工作機械づくりは英国より 1〜2 世代遅れ、機械のほとんどを英国から輸入していたと書いています[52]。

英国の輸出禁止と、外国の職人

英国は、自国の技術を外に出さないように、職人の出国と機械の輸出を長く法律で縛っていました。1824 年には英国議会の下院の委員会で、輸出の解禁に反対する製造業者の意見が述べられ、ドイツの技術誌がそれを訳して伝えています[6]。この政策が終わるのは 1843 年です[20]。

そのあいだ、ドイツの工場は人を通して英国の技術を入れました。ザクセンでは 1798 年、Chemnitz 近くの Harthau に綿の紡績工場と機械の工房ができ、ウェールズ出身の機械工 Evan Evans が工場長になります。ザクセンで最初のミュール紡績の糸は、Evans の作った機械で紡がれました。Evans は 1807 年に独立し、紡錘を研ぐ機械や往復台つきの旋盤を作って、エルツ山地の工房に広めます[1]。のちに Chemnitz の機械工業の中心人物になる Carl Gottlieb Haubold も、この工房で英国人の職人から紡績機械の作り方を習いました。Haubold は 1826 年に Chemnitz で工場を開き、国から無利子の貸付けを受け、英仏を視察し、1836 年には職人 500 人を抱える株式会社にしています[2][8]。

なぜ紡績機械からなのか。紡績機械には、たくさんの同じ形のローラーや紡錘、歯車が要ります。それを作るために旋盤やボール盤や歯切りの道具が必要になり、機械の工房が育ちました。Chemnitz の工作機械メーカーの多くは、紡績機械や機関車を作るための自分の工場の道具として工作機械を作り始め、それを外にも売るようになったのです。

プロイセンの Beuth と「模型のコレクション」

プロイセンでは、役人の Peter Beuth が国を挙げて技術を集めました。1819 年に工業技術委員会の長になると、若い技術者を外国に送り、展示会を開き、発明を審査して原則 5 年の特許を与えます。1821 年にはベルリンに産業振興協会と技術学校(1827 年から Gewerbeinstitut=工業学校)を作り、輸出禁止をくぐり抜けて外国の機械の模型を集め、試してから写して作らせました[3]。錠前職人の Egells は Beuth の後押しで英仏で修業し、1821 年にベルリンで機械工場を開きます。その工場の英国製の工作機械は国の費用で買われました[5]。Egells の工場で働いた August Borsig は 1837 年に独立し、1841 年に最初の機関車を作ります[15]。

技術者を育てる学校も、このころにそろいます。1825 年に Karlsruhe(いまの KIT)、1828 年に Dresden(いまの TU Dresden)、1836 年に Chemnitz(いまの TU Chemnitz)に工業の学校ができました[7][9][10]。1841 年に Karlsruhe の教授になった Redtenbacher は、機械の設計を計算と理論にもとづくものにし、ほかの工業学校の手本になります[17]。経験と勘の職人の世界に、学校で設計を学んだ技術者が加わり始めたことが、のちのドイツの特色になります(第 2 章)。

Dingler 誌で英国を読む

もう 1 つの窓口が技術誌でした。1820 年に Augsburg の製造業者 Dingler が創刊した『Polytechnisches Journal』は、1931 年まで 111 年続き、いまは全文が無料で読めます[4]。英国の新しい工作機械も、すぐにドイツ語で紹介されました。1839 年に Nasmyth の平削りの機械の特許[16]、1842 年に Whitworth の「研がずにきさげで正確な平面を作る」講演[18]、1843 年に Nasmyth の蒸気ハンマ[19]、1845 年に Whitworth の測長機[23]、1850 年に Whitworth の 2 つの刃物台を持つ旋盤[26]。現場の技術者は、図面入りの記事で英国の最新の機械を学ぶことができたのです。

Chemnitz の工作機械工場と Berlin の Loewe(1848〜1870 年)

Johann Zimmermann:工作機械だけを作る工場

「ドイツの工作機械づくりの父」と呼ばれるのが Johann Zimmermann(1820〜1901 年)です[25]。ハンガリーの Pápa に生まれ、親類の工場で時計と農機具づくりを学び、1839 年に Chemnitz の Sächsische Maschinenbau-Compagnie に入りました。1844 年に独立して紡績機械のローラーを作る小さな工場を開きますが、1848 年の不況でローラーの商売をやめ、工作機械(まず旋盤とボール盤)だけを作ることにします[8]。ほかの機械を作るついでではなく、工作機械そのものを商品にする専業の工場は、ドイツでは最も早い例の 1 つです[24]。

1854 年には、回廊と天井走行クレーンを備えた新しい工場を建てました。1856 年の『ザクセン産業アルバム』は、長さ 350 フィートを超える建屋に蒸気暖房とガス灯がある「模範工場」と書き、約 250 人・30 馬力の蒸気機関で、平削り盤約 20 台(長さ約 31 フィートの大形を含む)、立削り盤、ボール盤、割出しとフライス削りの機械、蒸気ハンマ、往復台つきの鉄の旋盤 36 台を作っていたと伝えます。客は、それまで英国の機械を買っていたドイツの機械工場でした[30]。輸入品の代わりになる国産の工作機械が、ここで初めてまとまった量で出てきたのです。

専業の工作機械工場へ1848 年Zimmermann、Chemnitz[8]
1863 年の職工500〜550 人旋盤 70 台ほかで機械を作る[42]
1872 年末までの納入約 1 万 1,000 台会社が示した数字[21]

創業の年は資料で分かれます。1873 年に会社自身が示した数字と Matschoss(1925 年)は独立を 1844 年、TU Chemnitz の年表は工作機械の専業になった 1848 年、1864 年の見学記は工作機械の工場としての歴史を「約 8 年」(1854 年の新工場から)としています[21][24][42]。このページでは「1844 年に独立、1848 年に工作機械の専業」と書き分けました。

1862 年のロンドン:Whitworth と並ぶ

Zimmermann の名を国の外に知らせたのは、1862 年のロンドン万博です。公式の受賞者の一覧によると、木と金属を削る機械の部門で Zimmermann は「よく作られた機械の一式」、Hartmann は「金属を加工する機械の一式」でそれぞれメダルを受けました。この部門の審査員には Whitworth 本人がいました[38]。英国の評論家 Mallet は、Zimmermann の大きな工作機械は Whitworth のものを含めて会場の最良の機械に並ぶと書き、とくに大形の平削り盤をほめています。これを伝えた Dingler 誌の編集部は、この工場には外国人の技師・職長・職工が 1 人もいないと誇らしげに書き添えました[41]。英国人の職人に頼っていた半世紀前から見ると、大きな変化です。

1863 年の夏に工場を訪ねた記事によると、職工は 500〜550 人、自前の鋳物場と鍛冶場(Naylor の蒸気ハンマ)を持ち、機械場には旋盤 70 台とほかの機械 55 台がありました。売り先はオーストリア・ロシア・オランダ・ベルギー・フランス・スペイン・北欧、さらに米国にも及んでいます[42]。1867 年のパリ万博では、かさ歯車と平歯車の歯を削る歯車平削り盤を出して賞を受けました(歯車の機械の流れは第 8 章)[44]。

Hartmann・Union・Reinecker:Chemnitz の顔ぶれ

同じ Chemnitz で、アルザス出身の鍛冶職人 Richard Hartmann は 1837 年に職人 3 人の工房から始め、紡績機械、1848 年からは機関車を作り、1857 年に工作機械づくりを加えます。工作機械は初め自分の工場用で、まもなく外にも売りました。1862 年には 1,400 人を超える大工場になり、1870 年に株式会社「Sächsische Maschinenfabrik」になります[12][14][8]。Hartmann の工場の工具職人だった David Gustav Diehl は 1852 年に独立し、のちの Werkzeugmaschinenfabrik Union(横中ぐり盤が得意)になりました[24][29]。1857 年には Sondermann & Stier もでき、1873 年には 350 人を抱えています[21]。大きな工場から職人が独立して次の工場を作る。Chemnitz が工作機械の町になっていく様子がよく分かります。

1859 年に工具店と鍛冶場を引き継いだ Julius Eduard Reinecker は、1864 年に工具の製造を始め、1872 年からは米国の機械を手本にフライス盤・研削盤・二番取り旋盤(刃物の逃げ面を削る旋盤)を作ります[34][35]。1883 年の Dingler 誌は、フライス・タップ・ドリルの刃の逃げを削る Reinecker の旋盤を、1885 年には特許の精密測定器を紹介しています[67][68]。重い大形機の Zimmermann とは違い、工具と精密測定から工作機械に入ったメーカーでした。

Berlin の Loewe と Bielefeld の Gildemeister

Berlin では、まったく違う道から工作機械にたどり着いた人がいます。Ludwig Loewe は商人の修業をしてベルリンに出て、機械の修理と販売を始めました。米国の新しい金属加工の話を聞き、1869 年に家庭用ミシンを作る会社 Ludwig Loewe & Co. を作ります。1870 年に技師 Barthelmes と米国を視察し、精度の高い米国製の工作機械を使って、分業・大量生産・互換部品という米国の方法でミシンを作り始めました。輸入の米国製ミシンに勝つには、同じ方法で作るしかないと考えたからです[46][8]。米国の兵器廠で育ったこの方法(アメリカン・システム)は、アメリカ工作機械アーカイブ 第 1 章で詳しく書いています。

同じ 1870 年、Friedrich Gildemeister は Bielefeld に工作機械の工場 Gildemeister & Comp. を作りました。いまの DMG MORI AG の源流です[48]。1880 年の Düsseldorf の産業博には万能ラジアルボール盤を出しています[49]。Düsseldorf では 1866 年に Ernst Schiess も独立しました。Hannover・Karlsruhe・チューリヒで学び、ロンドンとマンチェスターで工作機械の製図をしてから帰国した技術者で、のちに大形の工作機械で世界有数のメーカーになります[43]。

南と西にも、のちの名門が生まれていました。Göppingen では 1844 年に職人の Johann Georg Boehringer が織物工場の機械の修理場を開き、1860 年代に英国の織物機械に押されると、旋盤・フライス盤・平削り盤に重心を移します[22]。Offenbach では 1862 年に Anton Collet と Otto Engelhard が、ほぼ工作機械だけを作る工場を始めました[39][40]。

帝国の成立と兵器の互換生産(1871〜1875 年)

小銃の部品を互換で作る

1871 年にドイツ帝国ができると、軍は新しい小銃をそろえ始めます。Spandau の小銃学校で試された Mauser 兄弟の小銃が、帝国の標準の「71 年式」になりました[50]。何十万丁もの銃を、どれでも部品を取り替えられるように作る。これはまさに、米国が兵器廠で育てた互換生産の仕事です。

ミシンの販売で苦労していた Loewe は、ここに大量生産の場を見つけました。1872 年に 2 度の増資で資金を集め、Spandau の王立小銃工場と、Mauser の特許による歩兵銃の部品を納める契約を結びます[46]。Matschoss によれば、銃 1 丁は部品 66 個・873 工程に分かれていました[8]。1873 年には、輸入の米国製の機械に頼らないため、自分の工場用の旋盤・ねじ切り盤・研削盤・形削り盤・平削り盤を作り始めます[46]。同じころ、米 Pratt & Whitney はドイツ政府から 35 万ドル分の銃の製造機械を受注し、Spandau・Erfurt・Danzig の兵器工場の設備を整えていました[52]。ドイツの兵器工場には、米国製の専用機と、それを手本にした国産の機械が並んでいったのです。

互換生産で、工作機械に何が求められたか。1 台の機械で何でも削る職人の工場では、機械は「万能」であれば足りました。互換生産では、同じ部品を何千個も同じ寸法で削るため、工程ごとに専用の機械と治具を用意し、限界ゲージで検査することになります。機械には、同じ動きを狂わずに繰り返す剛性と、段取りを変えずに数をこなす仕掛け(タレットやフライス削り)が求められました。Loewe がこのあと工作機械メーカーとして大きくなったのは、自分の工場でこの要求を身をもって知っていたからです。

ウィーン 1873 年:賞と、米国のフライス盤

1873 年のウィーン万博では、旧 Zimmermann の工場(Chemnitzer Werkzeugmaschinenfabrik)と旧 Hartmann の工場(Sächsische Maschinenfabrik)がそろって最高の賞の名誉賞状を受けました。同じ群には米 Philadelphia の Sellers や英 Manchester の Sharp, Stewart も並んでいます[51][53]。旧 Zimmermann の工場は、1872 年末までに約 1 万 1,000 台の工作機械を納め、職工は 1858 年の 150 人から 1872 年の 1,050 人に増え、工場には旋盤 170 台・平削り盤 80 台を含む工作機械 375 台が蒸気機関 8 台で動いていました[21]。

ただ、中身をよく見た技術者の評価は厳しいものでした。旋盤では Sellers の親ねじ旋盤がはっきり一番と評され[55]、ドイツ政府の公式報告で工作機械の部を書いた Dresden の Ernst Hartig は、フライス盤のていねいな作り込みはほとんど米国の出品者だけに見られたと書いています。Offenbach の Collet & Engelhard も立てフライス盤を出していましたが、量産の部品を削るフライス盤では米国が先を行っていました[54]。

工作機械を「測って比べる」

その Hartig は、Chemnitz の工業学校と Dresden の工業専門学校で学び、Hartmann の工場で働いたあと 1865 年に Dresden の教授になった人で、機械が使う動力を測る記録式の動力計を作りました[11]。1874 年には、工作機械の仕事量と消費動力を測る実験の結果を発表しています[57]。機械を「見た目」や「評判」ではなく数字で比べるというこの態度は、30 年後に Berlin の Schlesinger が工作機械の研究室を作るときの土台になります(第 2 章)。

「安かろう悪かろう」の批判と巻き返し(1876〜1890 年)

Reuleaux のフィラデルフィアからの手紙

1876 年、米国の独立 100 年を記念するフィラデルフィア万博に、ドイツの審査員として Berlin の Gewerbeakademie(工業大学の前身)の校長 Franz Reuleaux が派遣されました。Reuleaux は機構学(機械の動きの理論)で世界に知られた学者で、ロンドン・パリ・ウィーンの万博も見てきた人です[61][27]。会場からベルリンの新聞に送った手紙は、のちに 1 冊の本『Briefe aus Philadelphia(フィラデルフィアからの手紙)』(1877 年)にまとめられました[60]。

6 月 2 日付の第 1 信で、Reuleaux は、ドイツの出品への非難の中身は「ドイツの工業の原則は billig und schlecht(安くて悪い)」ということだとまとめ、平均すればその通りだと認めました。会場のドイツの区画は愛国的な題材の美術品と、Krupp の巨大な大砲が目立っていたとも書いています[60]。手紙は 6 月 27 日に新聞に載り、ドイツでは数週間にわたる論争になります。英国の新聞は「cheap and nasty」と訳し、ロンドンとニューヨークの新聞も伝えました[61]。7 月 19 日付の第 3 信では、値段だけで競う商売が「安い、だから悪い」を生むのだと言い直しています[60]。

工作機械では米国が首位

工作機械について Reuleaux が書いたのは 7 月 31 日付の第 4 信です。米国は工作機械づくりで、この会場だけでなくおそらく全体として首位にあると認めました。新しい実用的な考え、特定の仕事への巧みな合わせ方、上がっていく精度と見た目の良さを挙げています。そして、ドイツは英国の型を取り入れて発展させ、ドイツらしい工作機械の型が育ち始めていたところだが、米国の型が英国の型を追い越した以上、ためらわずに新しい方式を取り入れるべきだと訴えました[60]。Dingler 誌の特派員も、米国の工作機械は求められればヨーロッパの最良の機械と同じ仕上がりだと書き、Sellers・Pratt & Whitney・Brown & Sharpe・Brainard の万能フライス盤の名を挙げています[58][59]。米国の専業メーカーの時代はアメリカ工作機械アーカイブ 第 2 章にあります。

第 1 信1876 年 6 月 2 日「billig und schlecht」[60]
新聞に載る6 月 27 日数週間の論争に[61]
特許法1877 年 5 月 25 日7 月 1 日に特許庁が開く[62]

特許法と、まねからの卒業

批判の翌年、1877 年 5 月 25 日にドイツ帝国の特許法ができ、7 月 1 日にベルリンで帝国特許庁が仕事を始めました[62][63]。それまでドイツは国ごとに特許の制度が違い、他人の発明を写すことに歯止めがききにくかったのです。Reuleaux も Werner von Siemens とともにこの法律を推しました[27]。特許庁の 7 つの部のうち 2 つは機械の技術だけを扱い[64]、最初の 1 年半で出願 9,194 件、特許 4,390 件。地域別では Berlin・ライン州に次いでザクセン王国が 3 番目でした[65]。工作機械のメーカーも特許を取り始めます。たとえば Hannover の Wohlenberg は 1881 年に旋盤の主軸台の特許(DRP 16474)を取りました[66]。

巻き返し:在庫で作る工作機械と専門メーカー

Loewe は、批判とは逆の道を早くから選んでいました。NDB によると、Loewe は質の悪い品を安く作ることを拒み、品質と精度で会社の評判を固めようとしました。この方針で、1873 年からの不況(「創業者恐慌」)も人を減らさずに乗り切っています[46]。1877〜83 年にドイツとロシアの大きな兵器の注文をこなしたあと工作機械に戻り、1880 年には工場の設備一式を納め、米国からの注文さえ受けました。工作機械を注文を待たずにまとまった数で作って在庫し、値段を下げて納期を縮めたのです[46][8]。注文に合わせて 1 台ずつ作るのが当たり前だった工作機械を、互換部品で量産する。自分の兵器工場で学んだやり方を、工作機械そのものに当てはめたことになります。NDB は、Ludwig Loewe がドイツの工作機械づくりに米国という手本を示したと評しています[46]。

Chemnitz でも、Reinecker が工具と精密測定の専門メーカーとして育ち、1891 年に Gablenz の新工場(職工 226 人・工作機械 211 台)に移ります。1893 年のシカゴ万博には、ドイツの工作機械メーカーでただ 1 社出品しました[34]。1889 年には Leipzig で Wilhelm von Pittler が「Maschinenfabrik Invention」を作り、1890 年にタレットを持つ機械を出しています[74][75]。1885 年には Chemnitz で、のちにフライス盤のメーカーになる自転車の Wanderer も生まれました[69]。大形機の Schiess、タレット旋盤の Pittler、工具と測定の Reinecker というように、何でも作る機械工場から、得意な機種を持つ専門メーカーへと変わっていったのがこの時期です。

兵器の分野では、1887 年に Loewe が Mauser の株の過半を買い、トルコからの連発銃 50 万丁の注文の一部をベルリンで作りました[71]。1896 年には Ludwig の弟 Isidor が兵器部門と Mauser などをまとめて Deutsche Waffen- und Munitionsfabriken(DWM)を作り、Loewe は工作機械のメーカーとして残ります。1896〜98 年には Berlin の Moabit に、米国人の技師を招いて互換生産のための新工場を建てました[70]。

現場で何に効くか。この時代の話は、いまの工場にもつながっています。専用の治具と限界ゲージで検査する互換生産、見込みでまとめて作る量産、機械の性能を数字で測って比べる考え方、そして特許で自分の工夫を守ること。どれもドイツの工作機械づくりが「安かろう悪かろう」から抜け出すときに身につけたものです。中古のドイツ製の機械の銘板に「DRP」(ドイツ帝国特許)の番号があれば、その特許の年からおおよその設計の時代が分かります。

その先へ

1891 年には工作機械メーカーの団体 VDW(ドイツ工作機械工業会)ができ、1904 年には Berlin の工業大学に工作機械の講座が生まれます。1900 年の Dingler 誌は、Reuleaux の「安かろう悪かろう」をドイツの機械工業の出発点として振り返り、その後の努力を認めつつ、米国式の工作機械の広がりに注意を促しています[77]。ドイツの工作機械が、米国の手本を「科学」で追い越そうとする時代の話は、第 2 章「科学としての生産技術」に続きます。

⛩日本とのつながり

この章の時代、日本はまだ工作機械を作り始める前でした。日本の工作機械は、長崎や横須賀の造船所がオランダ・フランスから買った機械から始まります(国産アーカイブ第 1 章)。その中に、ドイツとの縁が 1 つあります。横須賀造船所が 1867 年に買ったフランス製の工作機械の銘板には「Mulhouse 1866」と刻まれていました[45]。Mulhouse(ミュールーズ)はアルザスの機械工業の町で、1871 年の普仏戦争のあとドイツ領になります。1873 年のウィーン万博では、Mulhouse の工作機械メーカー Heilmann, Ducommun & Steinlen がドイツの出品者として名誉賞状を受けています[53]。横須賀の機械がどの会社の物かは記録に書かれていませんが、日本が最初に手にした工作機械の産地が、のちにドイツの工作機械の産地の 1 つになったことになります。

万博も接点でした。日本政府が初めて参加した 1873 年のウィーン万博では、東京で教えていたドイツ人 Gottfried Wagener が佐野常民の準備を助け、日本館の設営と目録の編集にあたりました。Wagener は 1876 年のフィラデルフィア万博でも日本の出品の目録の一部を書き、内務省の勧業寮で産業の振興にも助言しています[56]。そのフィラデルフィアで、Reuleaux は、本館に入った客がまず中国と日本の展示に引き寄せられたと書き、日本の展示がウィーンのときより豊かで、製造業者が自分の名で出品していたことに目を留めました[60]。日本側の参加者については、研究がまとめられています[81]。

Reuleaux の学問そのものも日本に渡りました。京都帝国大学は 1900 年ごろ、ベルリンの Gustav Voigt が作った Reuleaux の機構模型 19 点などを輸入し、いまも京都大学に残っています[76]。機械の動きを模型で学ぶ Reuleaux の教え方は、明治の日本の機械工学の教育にも使われていたのです。日本の工作機械メーカーがドイツの機械を手本にするのは、20 世紀に入ってから、ホブ盤(1906 年ごろに独 Pfauter の機械が輸入)や VDF の旋盤(1930 年代)の時代です(第 2 章、国産アーカイブの歯切り盤の章・旋盤の章)。

⑂メーカーの系図

この章に出てくる主な工作機械メーカーの、名前の移り変わりです。帯の色が変わるところで名前が変わっています。帯の右端は、この章で確かめた時点までで、そこで会社が終わったとは限りません(旧 Zimmermann の工場は 1880 年ごろまでの記録で確かめました)。帯の切れ目は、戦争の終わりの解体・接収で途切れた期間です。戦後の東西の分かれ方は第 3 章で扱います。

182018601900194019802020Richard HartmannSächs. Maschinenfabrik同 vorm. Hartmann AGローラーZimmermannChemnitzer WZM-FabrikD. G. DiehlUnion (vorm. Diehl)Wetzel-UNIONVEB WMF UNIONUNION GmbHJ. E. ReineckerJ. E. Reinecker AGReinecker(Ulm)EMAG グループErnst SchiessErnst Schiess AGSchiess-Defries AGSchiess AGLudwig Loewe & Co.Ludw. Loewe & Co. AGAEGLudwig Loewe(DIAG)Gildemeister & Comp.Gildemeister(いまの DMG MORI AG)Winklhofer & JaenickeWanderer-FahrradwerkeWanderer-Werke AGVEB WandererVEB Fritz-Heckert-WerkInventionPittler AGPittler WZM AGPittler(Langen)帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。
出典:各社の沿革と社史 [14][12][8][21][51][29][24][34][35][43][46][70][47][48][49][69][75][74]

見に行ける所

19 世紀のドイツの工作機械を見られる博物館と、メーカーの文書を持つ文書館です。開館日・見学の可否は、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。

Industriemuseum Chemnitz(ザクセン産業博物館)Chemnitz(ザクセン州)ザクセンの 200 年余りの産業を見せる博物館。建物は、親ねじ旋盤・面板旋盤・平削り盤・ボール盤・形削り盤を作った Hermann & Alfred Escher AG の鋳物工場と機械の建屋(1982 年まで使用)。1896 年の蒸気機関を実演日に動かす。Zimmermann の機械が展示されているかは、公式サイトでは確かめられなかった[78]
Deutsches Technikmuseum Berlin「工作機械」Berlin(ベルリン州)1900 年ごろの金属加工の工場を、天井の伝動軸(ラインシャフト)と蒸気機関で動かして見せる常設展。英国から借りた Whitworth の 1860 年の万能旋盤もある。機械の多くは西ベルリンの工場から来たもの[79]
Deutsches Museum「工作機械」München(バイエルン州)19 世紀の機械工場の再現から NC までをたどる工作機械の部門(1925 年開設)。建物の改修のため閉鎖中で、再開は 2028 年ごろの予定[80]
ザクセン州立文書館 Chemnitz 館Chemnitz(ザクセン州)Reinecker・Hartmann・Wanderer・Union など Chemnitz の工作機械メーカーの文書・カタログ・写真・図面を持つ文書館。文書群ごとの会社の歴史の解説はオンラインで読める(Pittler は Leipzig 館)[35][14][69][29]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてです。番号は出典で、押すとその資料が開きます。「p.」は本・誌面のページ(Dingler 誌は記事のページ)、「コマ」はスキャンの番号です。

英国に学ぶChemnitz の工場批判と巻き返し次の章1800182018401860188019001820184818561862186918731877黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

英国の機械と職人に学ぶ1798〜1847 年

年出来事メーカー・人出典
1798年Bernhard 兄弟が Chemnitz 近くの Harthau に綿の紡績工場と機械の工房を作り、ウェールズ出身の機械工 Evan Evans を工場長に迎える。ザクセンで最初のミュール紡績の糸は、Evans が作った機械で紡がれたSächsische Biografie は Bernhard、NDB の Haubold の項は Bernhardt と書くBernhard(Harthau)[1]
1807年Evans が独立して機械を作り始める。紡錘を研ぐ機械や、往復台つきの旋盤(英語の Slide Turns と呼んだ)、水車で動く溝切りの機械を作り、エルツ山地とフォークトラントの工房に広まったEvan Evans[1]
1807年のちの Chemnitz の機械工業の中心人物 Haubold が、Harthau と Chemnitz の工房で英国人の機械工に紡績機械の作り方を習い始める。1815 年に職人 5 人の自分の工房で最初の打綿機を作るCarl Gottlieb Haubold[2]
1819年Peter Beuth がプロイセンの「工業技術委員会(Technische Deputation für Gewerbe)」の長になる。若い技術者を外国に送り、展示会を開き、発明を審査して原則 5 年の特許を与えた—[3]
1820年★Augsburg の製造業者・化学者 Johann Gottfried Dingler が技術誌『Polytechnisches Journal』(Dingler 誌)を創刊。1931 年まで 111 年続き、英国・米国の機械の記事をドイツ語で紹介し続けた—[4]
1821年★Beuth がベルリンに「プロイセン産業振興協会」と技術学校(1827 年から Gewerbeinstitut=工業学校)を作る。輸出禁止をくぐって外国の機械の模型を集め、試してから写して作らせた協会の設立を 1820 年とする資料もある。ここでは NDB の 1821 年を採った—[3]
1821年Beuth に見いだされた錠前職人 Egells が英仏で修業したあと、国の資金でベルリンに鋳物と機械の工場を開く。工場の英国製の工作機械は国の費用で買われたF. A. Egells[5]
1824年Dingler 誌が、英国議会の下院委員会(1824 年 3 月 26 日)で機械の輸出の解禁に反対した製造業者の意見を伝える。英国はこのころまだ機械の輸出を法律で禁じていた—[6・p.475]
1825年Karlsruhe に「Polytechnische Schule(工業専門学校)」ができる(いまの KIT)—[7]
1826年Haubold が Chemnitz に工場を開き、紡績機械を工場の形で作り始める。1828 年に国から無利子の貸付け、1830 年に英仏などを視察し、1836 年には職人 500 人の会社が株式会社「Sächsische Maschinenbau-Compagnie」になるC. G. Haubold[2][8・p.108]
1828年Dresden に「Technische Bildungsanstalt(技術教育所)」ができる(いまの TU Dresden)—[9]
1836年Chemnitz に「Königliche Gewerbschule(王立工業学校)」ができる(いまの TU Chemnitz)。のちの工作機械の研究者 Ernst Hartig もここで学ぶ—[10][11]
1837年アルザス出身の鍛冶職人 Richard Hartmann が Chemnitz で職人 3 人の工房を開き、紡績機械の修理と模造から始めるRichard Hartmann[12][13][14]
1837年Gewerbeinstitut で学び Egells の工場で働いた August Borsig が、ベルリンに鋳物と機械の工場を作る。1841 年に最初の機関車。NDB は工作機械づくりと工場の組織での功績にも触れるAugust Borsig[15]
1839年Dingler 誌が、James Nasmyth の英国特許(1838 年 9 月)「金属を切り・平削りする機械の改良」を訳して載せる—[16・p.100]
1841年Ferdinand Redtenbacher が Karlsruhe の機械工学の教授になる。機械の設計を計算と理論にもとづくものにし、Karlsruhe はチューリヒ・ミュンヘン・ダルムシュタット・シュトゥットガルトの工業学校の手本になった—[17]
1842年Joseph Whitworth の講演「研がずに(きさげで)正確な平面を作る方法」が Dingler 誌にドイツ語で載る—[18・p.2]
1843年Nasmyth の蒸気ハンマが Dingler 誌で紹介される—[19・p.101]
1843年英国が 1780 年ごろから続けてきた、職人と機械の国外への流出を止める政策が終わる(機械の輸出の禁止が解かれる)研究論文の題が示す 1843 年。解禁の法律の条文は確かめていない—[20]
1844年ハンガリー生まれの Johann Zimmermann が、1839 年から勤めた Chemnitz の Sächsische Maschinenbau-Compagnie を出て独立。最初は紡績機械のローラーを作る小さな工場だった1873 年に会社自身が出した数字(Dingler 誌)も創業を 1844 年とするJohann Zimmermann[8・p.306][21・p.1]
1844年職人の Johann Georg Boehringer が Göppingen に小さな機械の修理場を開き、町の織物・紡績工場の機械を直す。高い輸入関税もあって簡単な織物機械を作るようになり、自分用の蒸気機関や簡単な工作機械も作った。1859 年に亡くなるまでに 35 人の工場になる1860 年代に英国の織物機械に押されて、旋盤・フライス盤・平削り盤・プレスに重心を移した(Fahr p.168–169)Gebr. Boehringer[22・p.168][22・p.212]
1845年Whitworth の測長機(工場用のマイクロメータ)が Dingler 誌で紹介される—[23・p.318]

Chemnitz の工作機械工場と Berlin の Loewe1848〜1870 年

年出来事メーカー・人出典
1848年★1848 年の不況でローラーの商売をやめ、Zimmermann は工作機械(まず旋盤とボール盤)だけを作る工場に切り替える。ドイツで最も早い工作機械の専業メーカーの 1 つで、のちに「ドイツの工作機械づくりの父」と呼ばれる創業の年は資料で分かれる:独立 1844 年(会社の数字・Matschoss)、工作機械の専業 1848 年(Matschoss・TU Chemnitz)、新工場 1854 年。ここでは 1848 年を「専業になった年」としたJohann Zimmermann[8・p.306][24][25]
1848年2月1846 年に英国を視察した Hartmann が機関車づくりに進み、最初の機関車「Glückauf」をザクセン国鉄に納めるRichard Hartmann[12][13]
1850年Whitworth の 2 つの刃物台を持つ旋盤(Doppel-Drehbank)が図入りで Dingler 誌に載る—[26・p.405]
1850年のちに 1876 年の批判を書く Franz Reuleaux が、Karlsruhe で Redtenbacher に機械工学を学び始めるFranz Reuleaux[27]
1852年Hartmann の工場の工具職人だった David Gustav Diehl が Chemnitz で独立。1872 年に株式会社「Werkzeugmaschinenfabrik Union (vormals Diehl)」になり、横中ぐり盤を得意としたD. G. Diehl(のちの Union)[24][28][29]
1854年Zimmermann が回廊と天井走行クレーンを備えた新工場を建てる。1856 年の産業アルバムは、長さ 350 フィートを超える建屋に蒸気暖房とガス灯がある「模範工場」と書くJohann Zimmermann[8・p.306][30]
1856年★Zimmermann の工場は約 250 人・30 馬力の蒸気機関で、工作機械だけを作る。平削り盤約 20 台(長さ約 31 フィートの大形を含む)、立削り盤、ボール盤、割出しとフライス削りの機械、蒸気ハンマ、往復台つきの鉄の旋盤 36 台(長さ 47 フィートまでの親ねじを削れるものを含む)。客は、それまで英国の機械を買っていたドイツの機械工場だった1873 年の会社の数字では 1858 年の職工は 150 人。工場の職工だけを数えた違いと思われるJohann Zimmermann[30]
1856年Zimmermann の特許の車輪旋盤(鉄道車両の車輪を削る旋盤)が Dingler 誌に載る。以後、溝切りボール盤(1857 年)、歯車の割出しとフライス削りの機械(1861 年)なども紹介されるJohann Zimmermann[31・p.10][32]
1857年Hartmann の工場が工作機械づくりを始める。初めは自分の工場用で、まもなくほかの工場にも売った。1862 年には 1,400 人を超える大工場になるRichard Hartmann[12][14][8・p.106]
1857年Chemnitz に Sondermann & Stier ができる(工作機械と木工機械)。1873 年には「Deutsche Werkzeugmaschinenfabrik」の名で 350 人Sondermann & Stier[21・p.1][33・p.433]
1859年Julius Eduard Reinecker が Chemnitz で工具店と鍛冶場を引き継ぐ。1864 年に工具の製造、1867 年に工場になる前の持ち主の名は NDB が G. S. Apffel、文書館が J. S. Apffel と書くJ. E. Reinecker[34][35][8・p.221]
1860年英国の機械の輸出は 383 万ポンド。行き先のドイツ側はハンブルク 15.7 万・ハノーファー 9.4 万・プロイセン 7.3 万ポンドなど(1851 年の輸出の合計は 117 万ポンド)—[36・p.74]
1860年ケルンの技術者 W. Jeep が Dingler 誌に「工作機械のいくつかの仕掛けについて」を書く。題に Werkzeugmaschinen(工作機械)を掲げた早い記事の 1 つ—[37・p.337]
1862年★ロンドン万博で、Zimmermann(木と金属を削るよく作られた機械の一式)と Hartmann(金属加工の機械の一式)がそれぞれメダルを受ける。この部門の審査員には Whitworth 本人がいたMatschoss は「大金メダル」と書くが、1862 年の万博のメダルは 1 種類だけZimmermann・Hartmann[38・p.155][8・p.306]
1862年Anton Collet と Otto Engelhard が Offenbach am Main で、ほぼ工作機械だけを作る工場を約 50 人で始める。1873 年のウィーン万博に立てフライス盤を出すのはこの会社Collet & Engelhard[39・p.579][40・p.196]
1863年★英国の評論家 Robert Mallet は、Zimmermann の大きな工作機械は Whitworth のものを含めて会場の最良の機械に並ぶと書き、特に大形の平削り盤をほめた。Dingler 誌の編集部は、この工場には外国人の技師・職長・職工が 1 人もいないと書き添えるJohann Zimmermann[41・p.233]
1863年1863 年夏の見学記:Zimmermann の工場は職工 500〜550 人、自前の鋳物場と鍛冶場を持ち、機械場に旋盤 70 台とほかの機械 55 台。オーストリア・ロシア・オランダ・ベルギー・フランス・スペイン・北欧、さらに米国にも売っていたこの記事は工作機械の工場としての歴史を「約 8 年」と書く(1854〜55 年の新工場からの数え方)Johann Zimmermann[42・p.9]
1864年Reuleaux がチューリヒからベルリンの Gewerbeakademie(工業大学の前身)に移り、機械学を教える(1868〜79 年は学長)Franz Reuleaux[27]
1865年Chemnitz と Dresden で学び Hartmann の工場で働いた Ernst Hartig が、Dresden の機械工学(機械技術)の教授になる。機械が使う動力を測る記録式の動力計を作った人—[11]
1866年Hannover・Karlsruhe・チューリヒで学び、ロンドンとマンチェスターで工作機械の製図をした Ernst Schiess が、Düsseldorf の Oberbilk で職人 6 人の工場を借りて独立。1869 年に機械工場、1872 年に鋳物場を作り、大形の工作機械の専業になるErnst Schiess[43]
1867年パリ万博で Zimmermann が、かさ歯車と平歯車の歯を削る歯車平削り盤を出して賞を受ける。1873 年の Dingler 誌は「最初の使いものになる」歯車平削り盤と書くパリでの賞の等級は確かめていないJohann Zimmermann[44・p.241][21・p.1]
1867年日本の横須賀造船所が、銘板に「Mulhouse 1866」とあるフランス製の工作機械を買う。Mulhouse はアルザスの機械工業の町で、1871 年にドイツ領になる機械の作り手は資料に書かれていない—[45・コマ60]
1869年★ベルリンで機械の修理と販売をしていた Ludwig Loewe が、資本 2 万 5,000 ターラーで Ludwig Loewe & Co. を作り、家庭用ミシンを米国式に作ることを決めるNDB は会社 1869 年・米国の視察 1870 年、Matschoss は視察 1869 年・開業 1870 年 1 月とするLudwig Loewe & Co.[46][8・p.160][47]
1870年Friedrich Gildemeister が Bielefeld に工作機械の工場 Gildemeister & Comp. を作る(いまの DMG MORI AG の源流)創業の日(10 月 1 日)は会社の沿革の言い伝えで、一次資料では確かめていないGildemeister & Comp.[48][49・p.271]
1870年Loewe が技師 Eduard Barthelmes と米国を視察し、精度の高い米国製の工作機械でミシンを作り始める。分業・大量生産・互換部品という米国の方法でなければ、輸入の米国製ミシンに勝てないと考えた。最初の製品は 1871 年のクリスマスLudwig Loewe & Co.[46][8・p.160]
1870年Hartmann の工場が 300 万ターラーで株式会社「Sächsische Maschinenfabrik zu Chemnitz」になる。Hartmann は監査役会の長にNDB は売却を 1869 年とする(契約と会社の発足の違い)Sächsische Maschinenfabrik[14][12][8・p.106]

帝国の成立と兵器の互換生産1871〜1875 年

年出来事メーカー・人出典
1871年★ドイツ帝国が成立。Spandau の小銃学校で試した Mauser 兄弟の小銃が、プロイセン歩兵の銃、まもなく帝国の標準の「71 年式」になる—[50]
1871年Zimmermann の工場が株式会社「Chemnitzer Werkzeugmaschinenfabrik vorm. Joh. Zimmermann」になる。Zimmermann は 1878 年にベルリンへ移るまで経営を続けた「Sächsische Werkzeugmaschinenfabrik」という社名は確かめた資料には出てこないChemnitzer Werkzeugmaschinenfabrik[8・p.306][51・p.31]
1872年★Loewe が 2 度の増資で資金を集め、Spandau の王立小銃工場と、Mauser の特許による歩兵銃の部品を納める契約を結ぶ。銃 1 丁は部品 66 個・873 工程。1874 年には砲弾の製造も始めるLudwig Loewe & Co.[46][8・p.160]
1872年普仏戦争のすぐあと、米 Pratt & Whitney がドイツ政府から 35 万ドルの銃の製造機械を受注し、Spandau・Erfurt・Danzig の王立兵器工場の設備を整えるLoewe 自身が Pratt & Whitney の機械を買ったという資料は見つからなかったPratt & Whitney[52・p.179]
1872年Reinecker が米国の機械を手本に、フライス盤・研削盤・二番取り旋盤(刃物の逃げを削る旋盤)を作り始めるMatschoss はフライス盤の始まりを 1892 年とする。売り物としてのフライス盤の始まりの違いかもしれないJ. E. Reinecker[34][35]
1872年★旧 Zimmermann の工場は 1872 年末までに約 1 万 1,000 台の工作機械を納めた。職工は 1858 年 150 人 → 1864 年 480 人 → 1872 年 1,050 人、製品の重さは 4,700 → 7 万 5,000 ツェントナーに。工場には工作機械 375 台(旋盤 170・平削り盤 80)と蒸気機関 8 台会社が記者に示した数字Chemnitzer Werkzeugmaschinenfabrik[21・p.1]
1873年★ウィーン万博で、旧 Zimmermann の工場(工作機械)と旧 Hartmann の工場(工作機械・機関車)が最高の賞の名誉賞状を受ける。同じ群で米 Sellers、英 Sharp, Stewart も受賞Chemnitzer Werkzeugmaschinenfabrik・Sächsische Maschinenfabrik[51・p.31][53・p.310]
1873年1871 年にドイツ領になったアルザスの Mulhouse(ミュールーズ)の工作機械メーカー Heilmann, Ducommun & Steinlen も、ウィーン万博でドイツの出品者として名誉賞状を受けるHeilmann, Ducommun & Steinlen[53・p.310]
1873年Loewe が、輸入の米国製の機械に頼らないため、自分の工場用の工具と工作機械を作り始める(旋盤・ねじ切り盤・研削盤・形削り盤・平削り盤)Ludwig Loewe & Co.[46]
1873年ウィーン万博に Offenbach の Collet & Engelhard が立てフライス盤を出す。ただし報告を書いた Hartig は、フライス盤のていねいな作り込みはほとんど米国の出品者だけに見られたと書いたCollet & Engelhard[54・p.171]
1873年ウィーン万博の旋盤では、米 Philadelphia の Sellers の親ねじ旋盤がはっきり一番と評され、1874 年に Dingler 誌が詳しく載せるWilliam Sellers & Co.[55・p.1]
1873年日本政府が初めて参加したウィーン万博で、東京で教えていたドイツ人 Gottfried Wagener が佐野常民の準備を助け、日本館の設営と目録の編集にあたる—[56]
1874年Hartig が工作機械の仕事量と消費動力を測る実験の結果を発表する。工作機械を「測って比べる」研究の早い例—[57・p.188]
1874年Mauser 兄弟が Oberndorf のヴュルテンベルク王立小銃工場を 20 万グルデンで買い、最初に小銃 10 万丁の注文を受けるMauser[50]

「安かろう悪かろう」の批判と巻き返し1876〜1890 年(その後の話を少し)

年出来事メーカー・人出典
1876年Dingler 誌の特派員 Müller-Melchiors も、米国の工作機械は求められればヨーロッパの最良の機械と同じ仕上がりだと書き、Sellers・Pratt & Whitney・Brown & Sharpe・Brainard(万能フライス盤)の名を挙げる—[58・p.193][59・p.97]
1876年Reuleaux は、本館に入った客がまず中国と日本の展示に引き寄せられると書く。日本の展示はウィーンより豊かで、製造業者が自分の名で出品していた。Wagener は日本の出品の目録の一部も書いている—[60・コマ41][56]
1876年6月★フィラデルフィア万博のドイツの審査員 Reuleaux が、ベルリンの新聞に送った第 1 信(6 月 2 日付)で、ドイツの出品への非難の中身は「billig und schlecht(安かろう悪かろう)」だとまとめ、平均すれば当たっていると認めるFranz Reuleaux[60・コマ19][60・コマ17][61]
1876年6月第 1 信は 6 月 27 日に新聞に載り、ドイツで数週間続く論争になる。英国の新聞は「cheap and nasty」と訳し、ロンドンとニューヨークの新聞も伝えた—[61][60・コマ107]
1876年7月★第 4 信(7 月 31 日付)で Reuleaux は、工作機械では米国に「棕櫚の葉(首位)」が与えられるべきだと書く。ドイツは英国型を取り入れて「ドイツの型」が育ち始めていたが、米国型が英国型を追い越した以上、すぐに新しい方式を取り入れるべきだと訴えたFranz Reuleaux[60・コマ36][60・コマ37]
1877年5月★5 月 25 日にドイツ帝国の特許法ができ、7 月 1 日に帝国特許庁がベルリンで仕事を始める。Reuleaux も Werner von Siemens とこの法律を推した。特許庁の 7 つの部のうち 2 つは機械の技術だけを扱った—[62][63・p.645][27][64・p.99]
1878年特許庁の最初の 1 年半(1877 年 7 月〜1878 年末)に出願 9,194 件、特許 4,390 件。地域別ではベルリン 611 件、ライン州 457 件、ザクセン王国 397 件の順—[65・p.160]
1879年ベルリンの Gewerbeakademie と建築学校が合わさり、王立工科大学(TH)Charlottenburg になる(いまの TU Berlin)—[3][27]
1879年「安かろう悪かろう」の言葉は長く残り、1879 年にシドニー博へのドイツの出品を Reuleaux が率いたときも、雑誌がこの言葉を蒸し返した—[61]
1880年Düsseldorf の産業博に、Gildemeister が万能ラジアルボール盤を出すGildemeister & Comp.[49・p.271]
1880年★Loewe は 1877〜83 年にドイツとロシアの大きな兵器の注文をこなしたあと工作機械に戻り、1880 年には工場の設備一式を納め、米国からの注文も受けるようになる。工作機械を在庫用にまとめて作り、値段を下げ納期を縮めたLudwig Loewe & Co.[46][8・p.161]
1881年4月Hannover の H. Wohlenberg が旋盤の主軸台の特許(DRP 16474、4 月 3 日)を取る。1888 年には歯車のフライス盤も Dingler 誌に載るWohlenberg の創業の年は確かめられなかったH. Wohlenberg[66・p.192]
1883年Reinecker の二番取り旋盤(フライス・タップ・ドリルの刃の逃げを削る旋盤)が Dingler 誌に載る。1885 年には特許の精密測定器も紹介され、工具と精密測定の専門メーカーになっていたJ. E. Reinecker[67・p.443][68]
1885年2月Chemnitz で機械工の Winklhofer と Jaenicke が自転車の店を開く。1886 年に自転車の製造を始め、のちの Wanderer-Werke になる(フライス盤づくりは 1890 年代の終わりから)Winklhofer & Jaenicke(のちの Wanderer)[69]
1886年Ludwig Loewe が亡くなり、弟の Isidor Loewe が会社を継ぐ。NDB は、Ludwig がドイツの工作機械づくりに米国という手本を示したと評するLudwig Loewe & Co.[46][70]
1887年Loewe が Mauser の株の過半を買い取る。同じ年に Mauser はトルコから連発銃 50 万丁の注文を受け、1889 年からは外国向けの Mauser 銃の一部をベルリンの Loewe が作ったLudwig Loewe & Co.・Mauser[71][70]
1887年英国が商品標章法(Merchandise Marks Act)を作る。ドイツ製品に「Made in Germany」の表示を求めることにつながった法律が 1887 年にできたことは確かめた。原産国の表示の条文は読んでいない—[72]
1888年Dingler 誌が、英国の工作機械の発達史(Bramah・Maudslay・Clement・Roberts・Nasmyth・Whitworth)を紹介する。ドイツの技術者は英国の歴史を学び直しながら、米国の新しい機械を追っていた—[73・p.499]
1889年Wilhelm von Pittler が Leipzig-Gohlis に「Maschinenfabrik Invention」を作る。1890 年にタレット(刃物を順に回して使う刃物台)を持つ機械を出し、Leipzig の工作機械づくりの始まりになるMaschinenfabrik Invention(W. v. Pittler)[74][75][8・p.204]
1891年Reinecker が Chemnitz-Gablenz の新工場で、職工 226 人・工作機械 211 台で生産を始める。1893 年のシカゴ万博には、ドイツの工作機械メーカーでただ 1 社出品したJ. E. Reinecker[34]
1896年Isidor Loewe が Loewe の兵器部門と Mauser などをまとめて Deutsche Waffen- und Munitionsfabriken(DWM)を作る。Loewe は工作機械のメーカーとして残り、1896〜98 年にベルリンの Moabit に米国人の技師を招いて新工場を建てるLudw. Loewe & Co. AG・DWM[70]
1900年ごろ京都帝国大学が、ベルリンの Gustav Voigt が作った Reuleaux の機構模型 19 点などを輸入する。いまも京都大学に残る論文の要旨で確かめた。展示されているかは確かめていない—[76・p.373]
1900年4月Dingler 誌は 1900 年になっても、Reuleaux の「安かろう悪かろう」をドイツの機械工業の出発点として振り返り、その後の努力を認めつつ、米国式の工作機械の広がりに注意を促している—[77・p.323]

よくある質問

Johann Zimmermann が「ドイツの工作機械づくりの父」と呼ばれるのはなぜですか?
ほかの機械を作るついでではなく、工作機械だけを作って売る専業の工場を、ドイツで最も早く大きく育てたからです。1848 年に Chemnitz で工作機械の専業になり、1856 年には平削り盤・旋盤・ボール盤などを約 250 人で作り、それまで英国の機械を買っていたドイツの工場に売りました。1862 年のロンドン万博では Whitworth の機械に並ぶと評され、1872 年末までに約 1 万 1,000 台を納めています。
「billig und schlecht(安かろう悪かろう)」は工作機械のことを言ったのですか?
いいえ、1876 年のフィラデルフィア万博でのドイツの出品全体への評価です。審査員の Reuleaux が新聞への手紙で、ドイツの工業は「安くて悪い」と非難されていると書き、平均すれば当たっていると認めました。工作機械については別の手紙で、米国が首位で、ドイツは米国の新しい方式をすぐに取り入れるべきだと書いています。
ドイツの工作機械は英国や米国のまねだったのですか?
始まりはそうです。19 世紀の前半は英国の機械と職人を写し、1870 年代からは Loewe や Reinecker が米国の機械と互換生産のやり方を手本にしました。ただ、1862 年には Zimmermann の大形機が Whitworth に並ぶと評され、1876 年には Reuleaux が「ドイツらしい型が育ち始めていた」と書いています。1877 年の特許法のあとは、メーカーが自分の工夫を特許で守るようになりました。
この時代のドイツの工作機械は、どこで見られますか?
Berlin の Deutsches Technikmuseum は、1900 年ごろの工場を天井の伝動軸で動かして見せていて、Whitworth の 1860 年の旋盤もあります。Chemnitz の Industriemuseum は工作機械メーカーの工場の建屋を使った博物館です。München の Deutsches Museum の工作機械の展示は改修で閉鎖中(2028 年ごろ再開予定)です。

この先と関係するページ

出典

技術誌・万博の公式記録・事典は Dingler Online・Internet Archive・バイエルン州立図書館の電子版で 2026 年 10 月に確かめ、使ったページを書いています。Dingler 誌は 1 本の記事ごとに 1 つの出典にし、ページは記事の始まりのページです。Reuleaux の本の「コマ」はバイエルン州立図書館のスキャンの番号(本のページ+14)です。Matschoss(1925 年)と会社の記念の数字は、本人や会社の側から見た記録なので、事典(NDB)や文書館の解説と突き合わせ、年が違うものは年表の注に書きました。日本側の出来事は国産アーカイブの出典を使っています。

  1. Ursula Forberger「Evan Evans (1765–1844)」Sächsische Biografie(ISGV、2005)
  2. Herbert Pönicke「Haubold, Carl Gottlieb」Neue Deutsche Biographie 8(1969)S.71–72
  3. Hans Haussherr「Beuth, Christian Peter Wilhelm」Neue Deutsche Biographie 2(1955)S.200 f.
  4. Dingler Online:Polytechnisches Journal(1820–1931)の全文の電子版(ベルリン=ブランデンブルク科学アカデミー・SLUB Dresden)
  5. Oskar Gromodka「Egells, Franz Anton」Neue Deutsche Biographie 4(1959)
  6. Dinglers Polytechnisches Journal 15 巻(1824)S.475「Ueber die Unklugheit die Ausfuhr der englischen Maschinen gesezlich zu erlauben」p. 475
  7. カールスルーエ工科大学(KIT)「Geschichte」(公式の沿革)
  8. Conrad Matschoss 編『Männer der Technik. Ein biographisches Handbuch』VDI-Verlag, Berlin(1925)p. 106・108・160・161・204・221・306
  9. TU Dresden「Geschichte」(大学の公式の沿革)
  10. TU Chemnitz「Die Technische Universität und ihre Geschichte」(大学の公式の沿革)
  11. Klaus Mauersberger「Ernst Hartig (1836–1900)」Sächsische Biografie(ISGV、2005)
  12. Sybille Haubold「Hartmann, Richard」Neue Deutsche Biographie 7(1966)S.736–737
  13. 『Album der Sächsischen Industrie』第 1 巻(1856)S.6–7「Die Maschinen-Fabrik von Richard Hartmann in Chemnitz」(Wikisource の翻刻)
  14. ザクセン州立文書館 Chemnitz 館 31035「Sächsische Textilmaschinenfabrik vorm. Richard Hartmann AG」(文書群の解説)
  15. Friedrich Schildberger「Borsig, Johann Friedrich August」Neue Deutsche Biographie 2(1955)S.476–477
  16. Dinglers Polytechnisches Journal 73 巻(1839)S.100、James Nasmyth の英国特許(1838 年 9 月 20 日)「金属を切り・平削りし・平らにする機械の改良」p. 100
  17. Kurt Mauel「Redtenbacher, Ferdinand Jacob」Neue Deutsche Biographie 21(2003)S.251–252
  18. Dinglers Polytechnisches Journal 86 巻(1842)S.2、Joseph Whitworth「Ueber Darstellung genau geebneter Metallflächen, ohne sie wie gewöhnlich zu schleifen」p. 2
  19. Dinglers Polytechnisches Journal 88 巻(1843)S.101「James Nasmyth's direct wirkender Dampfhammer」p. 101
  20. David J. Jeremy「Damming the Flood: British Government Efforts to Check the Outflow of Technicians and Machinery, 1780–1843」Business History Review 51(1)(1977)pp.1–34
  21. Dinglers Polytechnisches Journal 209 巻(1873)S.1、Johann Zeman「Notizen aus der Wiener Weltausstellung 1873」p. 1
  22. Jochen Fahr『Die Entwicklung industrieller Repertoires im Maschinenbau』(学位論文、Erlangen-Nürnberg 大学、1969。Boehringer の節は社内誌『Das Boehringer Werk』1954 年による)p. 168・212
  23. Dinglers Polytechnisches Journal 95 巻(1845)雑報 S.318「Whitworth's Mikrometer für mechanische Werkstätten」p. 318
  24. TU Chemnitz 生産システム・プロセス講座「Tradition」(Chemnitz の工作機械づくりの年表)
  25. Deutsche Biographie「Zimmermann, Johann von」(索引の項。1820–1901、工作機械製造者)
  26. Dinglers Polytechnisches Journal 118 巻(1850)S.405「Whitworth's Doppel-Drehbank」p. 405
  27. Wolfhard Weber「Reuleaux, Franz」Neue Deutsche Biographie 21(2003)S.453–454
  28. Dinglers Polytechnisches Journal 253 巻(1884)「O. Helsig's Support zum Aufspannen der Holzkämme auf der Bandsäge」(製造は Werkzeugmaschinenfabrik Union vormals Diehl)
  29. ザクセン州立文書館 Chemnitz 館 31016「VEB Werkzeugmaschinenfabrik UNION」(文書群の解説)
  30. 『Album der Sächsischen Industrie』第 1 巻(Louis Oeser, Neusalza 1856)S.125–127「Maschinenfabrik von Johann Zimmermann in Chemnitz」(Wikisource の翻刻)
  31. Dinglers Polytechnisches Journal 142 巻(1856)S.10「Die Patent-Wagenräder-Drehbank von Joh. Zimmermann in Chemnitz」p. 10
  32. Dinglers Polytechnisches Journal 159 巻(1861)「Rädertheil- und Fräsmaschine von Joh. Zimmermann in Chemnitz」
  33. Dinglers Polytechnisches Journal 204 巻(1872)S.433「Sechsfache Kessel-Bohrmaschine (System Basson) von Sondermann und Stier in Chemnitz」p. 433
  34. Wolfgang Uhlmann「Reinecker, Julius Eduard」Neue Deutsche Biographie 21(2003)S.349
  35. ザクセン州立文書館 Chemnitz 館 31007「J. E. Reinecker AG, Chemnitz-Gablenz」(文書群の解説)
  36. Dinglers Polytechnisches Journal 168 巻(1863)雑報 S.74「Großbritanniens Maschinenausfuhr」p. 74
  37. Dinglers Polytechnisches Journal 156 巻(1860)S.337、W. Jeep「Ueber einige Einrichtungen an Werkzeugmaschinen」p. 337
  38. 『International Exhibition 1862. Medals and Honourable Mentions awarded by the International Juries』London(1862)第 VII 部 B(受賞者の公式の一覧)p. 155
  39. Wilhelm Hoff ほか編『Das Deutsche Eisenbahnwesen der Gegenwart』第 2 巻(Reimar Hobbing、1911)Collet & Engelhard の紹介記事p. 579
  40. 『Weltausstellung Brüssel 1910. Deutsches Reich. Amtlicher Katalog』(ブリュッセル万国博覧会のドイツの公式目録、1910)p. 196
  41. Dinglers Polytechnisches Journal 167 巻(1863)雑報 S.233「Die deutschen Werkzeugmaschinen auf der Londoner Industrie-Ausstellung」p. 233
  42. Dinglers Polytechnisches Journal 173 巻(1864)S.9、Robert Schmidt「Die Werkzeug-Maschinenfabrik und Eisengießerei von Joh. Zimmermann in Chemnitz」p. 9
  43. Horst A. Wessel「Schiess, Ernst David」Neue Deutsche Biographie 22(2005)S.747
  44. Dinglers Polytechnisches Journal 209 巻(1873)S.241、Johann Zeman「Notizen aus der Wiener Weltausstellung 1873」(歯車平削り盤)p. 241
  45. 日本工学会『明治工業史 機械・地学篇』(1930)コマ 60
  46. Hans Christoph Graf von Seherr-Thoß「Loewe, Ludwig」Neue Deutsche Biographie 15(1987)S.77–78
  47. ベルリン州立文書館 B Rep. 250-05「Ludwig Loewe GmbH」(文書群の解説、Archivportal-D)
  48. 『International Directory of Company Histories』「Gildemeister AG」(Encyclopedia.com 収録)
  49. Dinglers Polytechnisches Journal 237 巻(1880)S.271「Gildemeister's Universal-Radialbohrmaschine」p. 271
  50. Wolfgang Seel「Mauser, Wilhelm」Neue Deutsche Biographie 16(1990)S.447 f.
  51. 『Weltausstellung 1873 in Wien. Amtliches Verzeichniss der Aussteller, welchen von der internationalen Jury Ehrenpreise zuerkannt worden sind』Wien(1873)第 XIII 群p. 31
  52. Joseph W. Roe『English and American Tool Builders』Yale University Press(1916。Internet Archive は 1926 年の McGraw-Hill の刷り、同じページ)p. 179
  53. Dinglers Polytechnisches Journal 209 巻(1873)雑報 S.310「Ehrendiplome für deutsche Aussteller auf der Wiener Weltausstellung」p. 310
  54. Dinglers Polytechnisches Journal 217 巻(1875)S.171、Ernst Hartig「Fräsmaschinen auf der Wiener Weltausstellung」(ドイツ政府の公式報告の工作機械の部から)p. 171
  55. Dinglers Polytechnisches Journal 213 巻(1874)S.1「Leitspindel-Drehbank von William Sellers und Comp. in Philadelphia」p. 1
  56. Wolfgang Michel「Wagener, Gottfried」Neue Deutsche Biographie 27(2020)S.190–191
  57. Dinglers Polytechnisches Journal 212 巻(1874)S.188、Ernst Hartig「Ueber Versuche an Werkzeugmaschinen zur Ermittelung der Leistung und des Arbeitsverbrauches」p. 188
  58. Dinglers Polytechnisches Journal 221 巻(1876)S.193、Müller-Melchiors「Notizen von der Weltausstellung in Philadelphia 1876」p. 193
  59. Dinglers Polytechnisches Journal 222 巻(1876)S.97、Müller-Melchiors「Notizen von der Weltausstellung in Philadelphia 1876」(工作機械)p. 97
  60. Franz Reuleaux『Briefe aus Philadelphia』Vieweg, Braunschweig(1877)バイエルン州立図書館(BSB)の電子版 ※番号はスキャンのコマ(本のページ+14)コマ 17・19・36・37・41・107
  61. Andrew G. Bonnell「'Cheap and Nasty': German Goods, Socialism, and the 1876 Philadelphia World Fair」International Review of Social History 46(2)(2001)pp.207–226
  62. ドイツ特許商標庁(DPMA)「Geschichte des deutschen Patentamts」
  63. Dinglers Polytechnisches Journal 224 巻(1877)S.645「Deutsches Patentgesetz」(法律の全文)p. 645
  64. Dinglers Polytechnisches Journal 225 巻(1877)S.99「Verordnung, betreffend die Einrichtung ... des kais. Deutschen Patentamtes」p. 99
  65. Dinglers Polytechnisches Journal 235 巻(1880)雑報 S.160「Bericht des deutschen Patentamtes für das Jahr 1878」p. 160
  66. Dinglers Polytechnisches Journal 244 巻(1882)S.192「Wohlenberg's Drehbankspindelstock」p. 192
  67. Dinglers Polytechnisches Journal 250 巻(1883)S.443「J. E. Reinecker's Drehbank zum Hinterdrehen von rotirenden Schneidewerkzeugen」p. 443
  68. Dinglers Polytechnisches Journal 255 巻(1885)「J. E. Reinecker's Feinmessapparat」
  69. ザクセン州立文書館 Chemnitz 館 31030「Wanderer-Werke AG, Siegmar-Schönau」(文書群の解説)
  70. Hans Christoph Graf von Seherr-Thoß「Loewe, Isidor」Neue Deutsche Biographie 15(1987)S.78–81
  71. Wolfgang Seel「Mauser, Paul von」Neue Deutsche Biographie 16(1990)S.448–449
  72. 英国「Merchandise Marks Act 1887」(50 & 51 Vict. c. 28)legislation.gov.uk
  73. Dinglers Polytechnisches Journal 267 巻(1888)S.499、Pregél「Ueber die Entwickelung des Werkzeugmaschinenbaues」p. 499
  74. Hans Christoph Graf von Seherr-Thoß「Pittler, Julius Wilhelm von」Neue Deutsche Biographie 20(2001)S.491 f.
  75. ザクセン州立文書館 Leipzig 館 20792「Pittler Werkzeugmaschinenfabrik AG, Leipzig」(文書群の解説)
  76. 城下荘平「京都大学が明治に輸入した機械機構模型とルロー・コレクション」日本機械学会 年次大会講演論文集 2002.1, p.373p. 373
  77. Dinglers Polytechnisches Journal 315 巻(1900)雑報 S.323「Die deutsche und die amerikanische Maschinenindustrie」p. 323
  78. Industriemuseum Chemnitz(ザクセン産業博物館)「Standortgeschichte」
  79. Deutsches Technikmuseum Berlin「Werkzeugmaschinen」(常設展)
  80. Deutsches Museum「Werkzeugmaschinen」(展示の案内)
  81. 坂本久子「フィラデルフィア万国博覧会と日本人関係者」日本デザイン学会 第 57 回研究発表大会 概要集(2010)