GERMANY 09ドイツのその他の工作機械

旋盤・フライス盤・研削盤・歯車機械のほかにも、工場には大事な機械がたくさんあります。大きな鋳物に穴をあけるラジアルボール盤、機械の台やケーシングの穴を正確に仕上げる横中ぐり盤、長い案内面を削る平削り盤と、それを受け継いだ門形機、キー溝やスプラインを一気に通すブローチ盤、電気の火花で削る放電加工機、板を切って曲げるプレスと板金の機械、光で切るレーザ加工機、削った物を測る三次元測定機、そして粉から形を作る積層造形(金属 3D プリンタ)です。ドイツはこのどれにも、長く続く会社や、世界の流れを変えた機械を持っています。この章では機種ごとに節を分け、機械の仕組みがどう変わり、現場の加工で何が変わったかを、1919 年の教科書・1910 年の万国博覧会の公式目録・1951 年の見本市の報告・特許・人名事典・博物館の収蔵品で 1 つずつ確かめ、出来事ごとに出典を付けました。

穴あけから
レーザと 3D プリンタ
まで一気に!

マスコットのチップス

この章は「機種の章」です。時代の流れは第 1 章(始まり)・第 2 章(科学としての生産技術)・第 3 章(戦争と東西分断)・第 4 章(NC とインダストリー 4.0)と重なりますが、ここでは旋盤・フライス盤・研削盤・歯車機械以外の機械の中身に絞ってたどります。国産の同じ機種の歴史はボール盤・中ぐり盤の系譜と放電加工機の系譜にあります。年表の区分は時代でなく機種で、本文の節と同じ並びです。

ボール盤:ラジアル・多軸・ジグ中ぐり

ボール盤は、回るドリルを上から下へ送って穴をあける、いちばん身近な工作機械です。小さな部品なら工作物を動かして穴の位置に合わせますが、ボイラの板や大きな鋳物のように重い物はそうはいきません。そこで、柱のまわりを回る長い腕(アーム)に主軸頭を載せ、工作物は動かさずに主軸のほうを穴の位置へ持っていくラジアルボール盤が生まれました。Mannheim の TECHNOSEUM は、この形の機械は 1840 年ごろ英国で生まれたと解説しています[9]。

天井のベルトから 1 台ずつの電動機へ

TECHNOSEUM には、Berlin の Raboma(Maschinenfabrik Hermann Schoening)が 1901〜1910 年ごろに作ったラジアルボール盤が収蔵されています。博物館の説明によれば、この機械は1 台ごとに電動機を付け、歯車箱で回転数を変える新しい作りでした。ただし同じ型は、まだ電気を引いていない工場のために、天井の長い軸からベルトで動力をもらう形でも売られていました[9]。20 世紀の初めは、工場の動力が蒸気機関とベルトから電動機へ移る途中で、メーカーは両方に対応していたのです。

電動機と高速度鋼の刃物が組み合わさると、ボール盤の力は一気に上がります。1919 年の Fr. W. Hülle の教科書『Die Werkzeugmaschinen』(第 4 版)は、Siegen の H. A. Waldrich の直立ボール盤を例に、電動機の歯車箱で主軸を 12 段に変速し、タップ立てのために正転と逆転を切り替えられる作りを図で説明しています。そして、同じ会社の新しい高速ボール盤は 100 PS の電動機を積み、そのときの切削速度を示す速度計、穴の深さの表示、送りの表を備えていると書き、古い機械の動力が 3〜5 PS だったのと並べて「ボール盤がいかに大きく発達したか」を示しました[11]。ドリルの刃先が熱に強くなったので、そのぶん速く回して強く押す機械が必要になった、という流れです。高速で穴をあけるときは、ポンプで送る切削液でドリルを冷やすことも大事だと同じ本は書いています[11]。

戦後の Raboma と Kolb:油圧と前もっての選択

第二次世界大戦のあと、Raboma は分断の影響を直接受けました。1950 年の米 CIA の報告は、解体された Berlin-Oberschöneweide の Raboma の工場の機械が、ソ連の Stry(今のウクライナ)のトラクタ工場に運ばれて使われていると伝えています[17]。それでも Raboma は西ベルリンの Borsigwalde で続き、1951 年のハノーファー見本市には、油圧で操作し、操作の多くを自動にした新しいラジアルボール盤を出しました。報告は、Raboma が前の年に創業 50 年を迎えたことにも触れています[19]。翌年のフランスの業界誌は Raboma の 12 Uh 形を紹介し、主軸の回転数と送りを前もって選んでおく装置、腕と柱を電気と油圧で締め付ける装置、操作部を主軸頭の下にまとめた作りを挙げ、鋼で直径 90 mm までの穴をあけられると書きました[20]。

同じ 1951 年の見本市で目を引いたのが、Köln-Ehrenfeld の Hermann Kolb の大形機です。Kolb も創業 50 年で、柱と腕がほぼ 6 m、穴あけの半径 5,100 mm、床の台から主軸まで 4,800 mm という大きさでした。腕を柱に締め付ける作業を電気と油圧で行う装置も見せています[19]。

なぜ「締め付け」と「前もっての選択」なのか。ラジアルボール盤は、腕を回して主軸頭を動かすたびに、腕を柱に、主軸頭を腕に固く締め付けないと、穴あけの力で腕がたわみ、穴が曲がったり位置がずれたりします。大きな機械ほど締め付けは重労働で、時間もかかりました。これを電気と油圧で一瞬に行い、次の穴の回転数と送りを加工中に選んでおけば、作業者は位置を合わせてレバーを入れるだけになります。大物の穴あけでは、削っている時間より段取りの時間が長いことが多く、戦後のラジアルボール盤の改良はこの「段取りの時間」を削ることに向かいました[19][20]。

多軸ボール盤:穴を一度にまとめてあける

自動車のように同じ部品を大量に作る工場では、穴を 1 つずつあけるのでは間に合いません。1951 年の見本市で Reutlingen の Burkhardt & Weber は、穴あけ用 16 本・タップ用 4 本の合計 20 本の主軸と、6 か所に割り出す直径 1,250 mm の回転テーブルを持つ専用機を出しました。乗用車のディーゼルエンジンのシリンダヘッドにある、燃料噴射ノズル用の斜めの穴(15° 傾き、2 本ずつ 3° ずれている)を、下穴・仕上げ・リーマ・タップまで受け持ち、テーブルが 1 回割り出すたびに 2 個のシリンダヘッドが仕上がります。主軸頭の送り、回転テーブル、締め付けはすべて油圧でした[19]。

ジグ中ぐり盤:Lindner と座標の精度

穴の「位置」を極めたのが、治具やゲージの穴を座標で正確にあけるジグ中ぐり盤です。Berlin の Herbert Lindner は 1918 年に会社を始め、フライス盤の割出し台などの付属品から入って、1926 年にねじ研削盤を売り出しました。1933 年には Leipzig の見本市で最初のジグ中ぐり盤(Lehrenbohrwerk)を見せ、1936〜37 年には座標中ぐり盤の特許を出願しています。人名事典『Neue Deutsche Biographie』は、このジグ中ぐり盤が 1968 年までに約 1,200 台作られたと書いています[10]。ジグ中ぐり盤といえばスイスの SIP がよく知られますが、ドイツにもねじ研削の精度の技術から入った専門メーカーがあったのです。

NC の座標ボール盤へ

1960 年代になると、ラジアルボール盤の老舗も NC に進みます。1960 年の英国の技術誌は、Kolb の座標中ぐり盤が軸ごとの磁気テープと読み取りヘッドで台を止める「プログラム制御」を備えていたと紹介しています[24]。英国の業界誌『Machinery and Production Engineering』の 1969 年後半の巻の索引には、Kolb の座標ボール盤 KBN E 30(Fanuc のオープンループ NC 付き)と、Raboma の NC 座標ボール盤 Rabomat の記事が並んでいます[26]。図面の座標をテープで与え、テーブルが穴の位置まで自動で動くので、けがきもジグも要らなくなります。ここに日本の Fanuc の NC 装置が使われていたことは、あとの「日本とのつながり」で触れます。

横中ぐり盤・シリンダ中ぐり盤・立て旋盤

横中ぐり盤は、水平な主軸に付けた中ぐり棒で、大きな工作物の穴を正確な大きさと位置に仕上げる機械です。工作機械や発電機・ポンプのケーシング、ギヤボックスのように、何か所もの軸受の穴を一直線に、正しい間隔でそろえる仕事は、旋盤やボール盤ではできません。主軸を前後に繰り出し、主軸頭を柱に沿って上下させ、テーブルで工作物を動かして、穴あけ・中ぐり・正面削り・フライス削りまで 1 台でこなすのが横中ぐりフライス盤(ドイツ語で Bohr- und Fräswerk)です。

Union:1852 年創業、横中ぐり盤の専門工場へ

ドイツの横中ぐり盤を語るとき、まず名前が挙がるのが Chemnitz の Union です。1910 年のブリュッセル万国博覧会のドイツの公式目録は、Werkzeugmaschinenfabrik „Union“(vormals Diehl)を「ドイツで 2 番目に古い工作機械工場」と紹介し、1852 年に D. G. Diehl が始め、1872 年に株式会社になったと書いています[2]。1870 年代の輸出業者の住所録でも、„Union“ は「1852 年創業」として、旋盤・ボール盤・機関車や貨車の車輪を削る旋盤、木工機械まで売り込んでいます[3]。創業のころの Union は、何でも作る機械工場でした。

転機は 1900 年です。公式目録によれば、Union はこの年から横中ぐり盤(Horizontalbohrwerk)だけを作る工場に切り替え、自社の設計(一部は特許)の機械を、常に約 150 台作りながら、フランス・ベルギー・英国・オーストリア・イタリア・ロシアの一流の会社に納めていました。1910 年 2 月には、できあがった機械を動かして見せる大きな展示場も建てています[2]。1919 年の Hülle の教科書も、Union の横中ぐりフライス盤を 6 枚の図で詳しく紹介しました[11]。

「1 機種に絞る」ことの意味。19 世紀の機械工場は、旋盤も平削り盤もボール盤も作るのが普通でした。Union が横中ぐり盤に絞ったのは、同じ形の部品をまとめて作り、設計と組立ての経験を 1 つの機種に積み重ねるためです。大形の機械は 1 台ごとに客の注文で寸法が変わりますが、主軸頭や送りの仕組みを共通にしておけば、短い納期で高い精度を出せます。米国の工作機械業界と同じく、ドイツでもこのころ「専門メーカー」の時代が始まりました(第 2 章)。

Union は東西分断のあと東ドイツに属し、人民所有企業 VEB Werkzeugmaschinenfabrik Union Karl-Marx-Stadt として横中ぐり盤を作り続けました。Industriemuseum Chemnitz には、1980 年代の終わりに客に出していた面板つきの横中ぐりフライス盤 BFT 90/3at(1985 年)と、パレット交換と 80 本の工具の自動交換を持つ横形のマシニングセンタ CBFK 90/1(1988 年)の、見本市用の模型が残っています。見本市に本物の大形機を運べないとき、こうした模型を使ったのです[28][30]。横中ぐり盤の会社が工具の自動交換を足して MC へ進むのは、西側と同じ流れでした。

Schiess:Düsseldorf の大形機

西のライン地方で大形の工作機械を代表したのが Ernst Schiess です。Magdeburg に生まれ、Hannover・Karlsruhe・Zürich の工業学校と英国の工場で学んだ Schiess は、1866 年に Düsseldorf 近くの Oberbilk で、6 人の職人とともに借りた工場で開業しました。修理や蒸気機関から入り、1869 年に機械工場、1872 年に鋳物工場を持ち、やがて削る工作機械が本業になります。1891 年に 440 人、1900 年ごろには約 1,000 人が働き、それまでに世界で約 7,000 台の工作機械を売ったといいます[6]。Schiess は 1898 年に工作機械メーカーの団体(今の VDW)をつくる中心になり、亡くなるまで会長を務めました[6]。

会社は 1906 年に Ernst Schieß AG、1925 年に Düsseldorf の Defrieswerke と合併して Schieß-Defries AG になります。第二次世界大戦のあと工場は全部解体されましたが、1951 年に Schieß AG として生産を再開しました[6]。同じ 1951 年のハノーファー見本市には、主軸径 160 mm の横中ぐりフライス盤 WBF 16 を出しています[19]。

Scharmann・Dörries・Droop+Rein

横中ぐり盤の大手はほかにもありました。1885 年に Rheydt(今の Mönchengladbach)で始まった Scharmann、1890 年に Bielefeld で始まった Droop+Rein です[7]。1951 年の見本市では、Scharmann が主軸径 120 mm のテーブル形と床形(工作物を床の定盤に置き、柱のほうが動く形)を、Droop & Rein が主軸径 150 mm の機械を出しました[19]。1884 年には Eifel 地方の Vussem で Dörries が始まっています。Dörries と Scharmann は 1988 年に Voith グループの下で一緒になり、1993 年には経営危機の Schieß AG を Dörries Scharmann が引き取りました[7][6]。2011 年、このグループはスイスの StarragHeckert に買われています[7]。

シリンダ中ぐり盤と「機械を持っていく」機械

蒸気機関やガス機関の長いシリンダを削るには、専用のシリンダ中ぐり盤が使われました。Hülle の教科書は、Rheydt の Otto Froriep の機械(中ぐりの頭の送りを 4 段に変え、両方向に早送りできる)と、Offenbach の Collet & Engelhard(1862 年創業、鉄道の工場の機械が得意)の機械を紹介しています[5]。Collet & Engelhard の機械は、電動機からベルト・歯車・大きなウォームで中ぐり棒を回し、棒そのものを送る作りで、送りねじを棒の外に置いて棒を細らせない工夫がありました[11]。同じ会社は、大きな工作物を定盤に置き、機械のほうを持っていって穴あけや平削りをする可搬式の機械も作っていました。Hülle は、穴や座面がたくさんある蒸気タービンのケーシングの仕事が、こうした機械を育てたと書いています[11]。

立て旋盤:重い円板を水平に回す

直径の大きな円板や輪を削るには、工作物を水平の面板に載せて回す立て旋盤(Karusselldrehmaschine)が向いています。重さで工作物が垂れず、置くだけで心が出しやすいからです。1951 年の見本市で Schiess は、面板径 1,000 mm・約 30 kW、16 段で毎分 310 回まで回る高速の 1 本柱の立て旋盤 EK 100 と、最大旋削径 4,000 mm・切削力 8 t の 2 本柱の立て旋盤を出しました。大きな機械の回転数は離れた操作盤から電気で選び、歯車の切り替えは油圧で行います[19]。旋盤の歴史は第 5 章「ドイツの旋盤の系譜」にまとめています。

平削り盤・形削り盤・立て削り盤と門形機

平削り盤(プレーナ)は、工作物を載せた長いテーブルを往復させ、固定したバイトで平面を削る機械です。工作機械のベッドの案内面のように、長くて平らで正確な面を作るのに欠かせませんでした。ラム(刃物を付けた腕)のほうを往復させて小物を削るのが形削り盤(シェーパ)、ラムを上下に動かしてキー溝や内側の形を削るのが立て削り盤(スロッタ)です。どれも「往復して 1 本の刃で削る」ので、戻りの時間が無駄になります。この機械の歴史は、戻りを速くし、切り替えを確実にする工夫の歴史でもあります。

Billeter & Klunz:片持ち平削り盤と切り替えの工夫

1919 年の Hülle の教科書は、1 本の柱で横の梁を支える片持ち(Einständer)の平削り盤で先頭に立ったのは Aschersleben の Billeter & Klunz だと書いています。柱が片側にしかないので、テーブルより幅の広い工作物も、反対側に補助の台を置いて削れます。同社は 4 つの刃物台を持つ重切削の機械や、大きなはずみ車を削るための特別な形も作っていました[11]。1857 年創業の同社は、1910 年には平削り盤と空気ハンマだけを作る約 300 人の会社で、1930 年には米国の Giddings & Lewis と、作る分担と売る地域を分ける協定を結んでいます[2][4]。

同じ本によると、高速度鋼の刃物を使う平削り盤は、荒削りで毎分 12〜20 m、仕上げで 8〜12 m、戻りは 18〜30 m 以上で動かしていました[11]。重いテーブルを毎回止めて逆に走らせるには、強いクラッチが要ります。Billeter & Klunz は早くから電磁石でベルト車をつなぎ替えて向きを変える仕掛けを使い、Hülle は「当時うれしい進歩だった」と書く一方、摩耗の多さから別の方式のクラッチが広まったとも記しています[11]。さらに同社は、刃物と台を同時に逆向きに動かして、切削と戻りの速さを足し算にする特許(DRP 146 076)も持っていました[11]。

形削り盤と立て削り盤

Hülle は形削り盤の例に、Leipzig の Wotanwerke の機械を挙げています。行程は 600〜800 mm までの小物用で、テーブルは上下・左右に動き、斜めにも 90° まで回せます。ラムをラックとピニオンで動かす形では、ラムの両端でクラッチを切り替えて戻りを速くしていました[11]。重い立て削り盤の例には Düsseldorf の Schiess の機械を挙げ、テーブルの縦・横・回転の送りを同じ軸から分ける作りを説明しています[11]。1951 年の見本市では、Maschinenfabrik Ravensburg が外側で行程 1,000 mm の大形の立て削り盤 SL 500 を、発電機と電動機を組み合わせる Leonard 方式で動かしました。切削と戻りの速さを毎分 4〜27 m の間で無段に変えられ、報告は、油圧と同じ使いやすさを持ちながら、故障しても工場の人が直しやすいと評価しています[19]。

形削り盤は、今では工場からほとんど姿を消しました。Hückeswagen の 3-Städte-Depot には、Solingen の Klopp が 1950 年ごろに作った形削り盤があり、2021 年の水害のあとも直して、動かして見せています[18]。

Waldrich Coburg:平削り盤から門形機へ

平削り盤の会社が、どうやって今の大形の門形機の会社になったか。それをよく示すのが Waldrich Coburg です。1920 年 2 月、Adolf Waldrich と Emil Hardt が Coburg で Globuswerke を始め、工作機械の修理から入りました。1926 年に今の場所へ移って Maschinenfabrik Adolf Waldrich になり、1936 年には Leipzig の見本市で油圧の駆動を見せています。1950 年に息子の Otto Waldrich が継ぐと平削り盤の量産を始め、研削とフライス削りを兼ねる機械も作り、1955 年からは案内面の研削盤と平面研削盤が主力になります[13]。1951 年の見本市の報告も、平削り盤の例に Waldrich の重い平削り盤と、VDF の展示の 2 本柱の標準平削り盤(Boehringer と Billeter)を挙げています[19]。

1971 年に最初の NC 機を納めた Waldrich Coburg は、1973 年、柱ごと走るガントリ形の門形フライス盤の 1 号機を、発電所の機械を作る Kraftwerk Union(Mülheim)に納めました。1975 年にはテーブル幅 5,000 mm、取り付け長さ 18,000 mm の門形フライス盤を作っています[13]。

平削りから「門形のフライス削り」へ。平削り盤は 1 本の刃で往復して削るので、戻りの時間と刃先の摩耗がいつも問題でした。超硬の正面フライスで回して削れば、同じ平面を戻り無しで、何倍も速く削れます。平削り盤の重い門形の骨組み(2 本の柱と横の梁)に、回るフライスの主軸頭を載せたのが門形フライス盤(プラノミラー)で、そこに NC と、案内面を仕上げる研削の主軸頭まで載せたのが今の大形の門形機です。Waldrich Coburg が平削り盤 → 案内面の研削盤 → NC → 門形フライス盤と進んだのは、この流れそのものです[13]。門形の MC は第 6 章「フライス盤・MC の系譜」でも扱います。

その後、Otto Waldrich は 1986 年に会社を米国の Ingersoll グループに売り、Ingersoll の破産のあと 2004 年に競売で Herkules グループが、2005 年に中国の Beijing No.1(北京第一机床厂)が引き取りました[13]。

ブローチ盤

ブローチ盤は、少しずつ大きくなる刃がたくさん並んだ長い工具(ブローチ)を、工作物の穴や外側に 1 回通すだけで、キー溝・スプライン・角穴などを仕上げる機械です。荒削りから仕上げまでの刃が 1 本の工具に並んでいるので、1 回の行程で形が決まり、同じ形の部品を大量に作る自動車や機械の工場で欠かせません。そのかわり工具は形ごとの専用品で、引く力も大きく要ります。

1951 年のハノーファー見本市の報告は、ブローチ盤の展示をまとめて紹介しています。Pforzheim の Kurt Hoffmann は、ブローチの台を油圧で動かす立て形の内面ブローチ盤を出しました。引く力 12 t、行程 1,200 mm、全長 1,750 mm までのブローチを使い、戻りでは工具が工作物から自動で逃げます。会場にはほかに、引く力 3 t の 2 本柱の機械、10 t で工作物の台が回る機械、5 t と 10 t の横形、Forst の立て形と横形のブローチ盤が並び、引く力 2 t・行程 800 mm の小形の外面用・内面用も初めて出ました。一部は溶接の構造で作られていたと報告は書いています[19]。

なぜ油圧なのか。ブローチ削りでは、たくさんの刃が同時に工作物に食い込むので、行程の間ずっと大きな力を一定の速さで出し続ける必要があります。ねじやラックで引く機械式でもできますが、油圧なら力と速さを無段に調整でき、過負荷で止めるのも簡単です。工作物の台が回る形や、工具が戻りで逃げる仕掛けは、工作物の付け外しの間も機械を休ませないための工夫でした[19]。

専用機・加工ライン・FMS

同じ部品を何十万個も作るなら、汎用の機械を並べて人が運ぶより、工程ごとの専用機を並べて工作物を自動で送るほうが速く安くなります。これがトランスファーマシン(トランスファーライン)の考えです。1951 年の見本市で Reutlingen の Burkhardt & Weber は、3 台の一方向の専用機を、工作物の自動の受け渡しでつないだ加工ラインの一部を見せました。自動車のシリンダヘッドの 4 つの面と斜めの点火プラグの穴を削るラインで、工作物は焼入れしたレールの上を滑り、レールを油圧で持ち上げて 900 mm ずつ送ります。送る速さも調整でき、報告は、こうした設備では切りくずの処理に特に気を配る必要があると書いています[19]。工具の台や主軸頭を「標準の単位」にして組み合わせる作り方も、同じ会社の特長として紹介されています[19]。

専用のラインは、1 つの部品を大量に作るのは得意ですが、部品が変わると作り直しになります。そこで、NC の機械と自動の搬送を計算機でまとめ、いろいろな部品を流せるようにしたのが FMS(柔軟な生産システム)です。スイスの Starrag の沿革によれば、東ドイツの Heckert(VEB Werkzeugmaschinenkombinat „Fritz Heckert“)は、1971 年に Chemnitz で最初の FMS PRISMA 2 を動かしました[7]。Heckert は 1990 年に信託公社の下で Heckert Chemnitzer Werkzeugmaschinen GmbH になり、1998 年に Starrag に引き取られています[7]。東ドイツの工作機械のコンビナートについては第 3 章「戦争と東西分断」で詳しく書いています。

放電加工機

放電加工は、工具の電極と工作物のあいだに、油や水の中で小さな火花(放電)を何万回も飛ばし、工作物を少しずつ溶かして取り去る加工です。刃物で削らないので、焼入れした鋼や超硬のような硬い材料でも、細い溝や複雑な型が作れます。国立科学博物館の「放電加工機技術の系統化調査」によれば、ソ連の Lazarenko 夫妻が 1943 年にこの加工を論文で提唱して特許を出し、研究はソ連の影響下の東欧から、英国・スイス・ドイツなど西欧にも広がりました[15]。

AEG-Elotherm:電源と電解加工

西ドイツで放電加工機に取り組んだ会社に、Remscheid の AEG-Elotherm があります。DEPATISnet(ドイツ特許商標庁の検索)で確かめると、同社は 1965 年 1 月にドイツで出願した放電加工機の電源の回路を、英国でも特許にしています(GB 1 096 119、1967 年公開)[25]。放電加工の速さと仕上げ面は、1 回の火花のエネルギーと間隔を決める電源で大きく変わるので、各社は電源の回路で競いました。AEG-Elotherm は、電気分解で金属を溶かし出す電解加工(ECM)の装置でも特許を出しています(GB 1 280 496、1969 年出願)[27]。どちらも「電気で削る」加工で、刃物の届かない形や硬い材料に使われました。

スイスの Agie・Charmilles と日本の追い上げ

ドイツ語圏の放電加工機で世界の先頭に立ったのは、スイスの Agie と Charmilles です。同じ調査によれば、Agie は 1969 年に NC ワイヤ放電加工機 DEM-15 を完成してパリの展示会に出し、当時の世界の代表的なメーカーは欧州の Agie・Charmilles と米国の Elox でした[15]。1970 年代の終わりからは日本のメーカーが性能で追いつき、価格では優位に立ったので、欧州のメーカーから特許の争いを仕掛けられることもあったといいます[15]。

ドイツの電機メーカー Siemens も、放電加工の歴史に名を残しています。ワイヤが切れたとき機械が自分で通し直すワイヤ自動結線装置について、同じ調査は、日本で最初の装置はファナックが Siemens から技術を入れて完成させたもので、当時 Siemens のほかに実用化の例は無かったと伝わる、と書いています[15]。夜通しの無人運転には、ワイヤが切れても止まらないことが欠かせませんでした。

その後、欧米の放電加工機メーカーの多くは市場から消えました。調査は、いまの世界の市場を分けているのはスイスの GF Machining Solutions(旧 Agie と旧 Charmilles)、スペインの ONA、ドイツの EXERON、それに日本の 5 社だとまとめています[15]。今の放電加工機の点検と加工液の管理は放電加工機の保全にあります。

プレス・板金の機械・レーザ加工機

削って形を作る工作機械に対して、板を打ち抜き、曲げ、絞って形を作るのがプレスと板金の機械です。自動車の車体や家電の箱、機械のカバーは、ほとんどが板金で作られます。ドイツには、プレスの Schuler と、板金の機械とレーザの Trumpf という、世界を代表する 2 社があります。この章では成形の機械は軽く触れ、Trumpf のレーザに重心を置きます。

Schuler:手回しから動力、油圧のプレスへ

Göppingen の Schuler は、1839 年に Louis Schuler(父)が始めた錠前の工房から出発し、1852 年から板金の機械も作りました。Chemnitz の Zimmermann の工作機械工場で働き、Chemnitz の工業学校で学んだ息子の Louis Schuler は、1863 年に戻って工房を機械工場に変え、1875 年には動力で動く偏心プレス・絞りプレス・シャーを Nürnberg の板金の展示会に出しました。1895 年には 2 本の油圧シリンダで動かす油圧の絞りプレスの特許(DE 84410)を取り、スライドを機械でなく油圧で押すことで力がむらなくかかり、深絞りの仕上がりがよくなりました。1920 年代からは、欧州と米国の主な自動車メーカーに車体のプレスを納めています[1]。今のプレス機械の点検はプレス機械の保全にあります。

Trumpf:フレキシブルシャフトからニブリング機へ

Trumpf は、1923 年に Christian Trumpf が Stuttgart の Julius Geiger の工場を買い、フレキシブルシャフト(曲がる軸で工具を回す道具)を作ったのが始まりです。1934 年に板金を切る最初の電動ハンドシャー HSP 201 を出し、1937 年に TRUMPF & Co. と名を変えました。1939 年には下請けで航空機の部品を作り、働く人の 3 分の 1 はフランスから連れて来られた強制労働者だったと、会社自身の資料が書いています[14]。戦後の 1947 年、据え置き形のカーブシャー(板を曲線に切る機械)TAS を作り、Trumpf は板金の機械の会社になります[14]。

ここで登場するのが、1950 年に見習いで入った Berthold Leibinger です。カーブシャーの切断の改良を卒業研究にした Leibinger は、1957 年に、板を座標で案内する仕組みの特許(会社は「NC の出発点」と呼ぶ)と、ニブリングの装置の特許の出願にかかわりました[14][21][22]。ニブリングは、小さな丸いパンチで板を少しずつずらしながら打ち抜き、型を作らずに好きな形の穴や輪郭を切る方法です。中空のパンチの中にパイロット(案内のピン)を入れる工夫と座標の案内で、1958 年に最初の据え置き形の倣い・座標ニブリング機が生まれました[22][23]。Leibinger はこの年、米国の Cincinnati Milling Machine Co. に移って働き、1961 年に設計部長として戻ります[16][14](Cincinnati はアメリカのフライス盤の章に出てくる会社です)。

板金と NC は相性がよかった。ニブリングやパンチングでは、板を X と Y に動かして決まった位置で打つだけなので、削る機械よりずっと単純な制御で済みます。座標でテーブルを動かす仕組みに数値の指令をつなげば、そのまま NC 機になります。Trumpf は 1967 年、数値制御の連続経路制御を持つ最初の板金加工機 TRUMATIC 20 を出しました[14][22]。日本でも、1956 年に富士通信機製造(のちのファナック)が開発した民間で最初の NC 装置は、タレットパンチプレスが最初の対象でした[37][38]。

パンチとレーザの複合機、そして自前の発振器

1978 年、社長になった Leibinger は米国の視察から CO2 レーザを持ち帰ります。翌 1979 年、Trumpf はパンチとレーザの複合機 TRUMATIC 180 LASERPRESS を出し、レーザの世界に入りました。ビーム源は米国製の 500 W と 700 W の CO2 レーザでした[14][22]。丸穴や角穴のような決まった形はパンチで速く打ち、パンチでは難しい曲線の輪郭はレーザで切る。1 台で両方ができるので、型を作らずに少量の部品を作れる機械になりました。1981 年には TRUMATIC の 1,000 台目が売れています[22]。

Leibinger は、レーザの発振器を自社で作ることにこだわりました。1985 年、Trumpf は自社で開発・製造した最初の CO2 レーザ TLF 1000(1 kW)を見せ、レーザの発振器のメーカーにもなります[14][22]。1987 年には、重い板を動かさず鏡(光学系)のほうを走らせる「フライングオプティクス」の平面レーザ加工機 TRUMATIC L 3000、1989 年の EMO(Hannover)では、光の通り道を折りたたんで小さくした「折り返し」のレーザを積む TRUMATIC 240 LASERPRESS を出しました[14]。2003 年には出力 4 kW のディスクレーザの試作を見せ、2015 年には積層造形の部門もつくっています[14]。Trumpf のレーザと NC の時代の広がりは第 4 章でも触れています。

三次元測定機

削った部品が図面どおりかを確かめる測定も、工作機械の歴史と切り離せません。三次元測定機(CMM)は、触れて測るプローブを X・Y・Z の 3 方向に動かし、部品の表面の点の座標を集めて、穴の位置や面の傾きを計算する機械です。ノギスやマイクロメータで 1 か所ずつ測るのと違い、複雑な部品の多くの寸法を、決まった手順で何度でも同じように測れます。

ドイツの測定を代表するのは光学の Carl Zeiss です。1846 年に Jena で生まれた Zeiss は(今の本社は Oberkochen)、1919 年に Leipzig の春の見本市で初めて測定器を出し、2019 年を「産業用測定の 100 年」としました[12]。その土台にあるのは、1890 年に Ernst Abbe が厚さ計で示したコンパレータの原理(アッベの原理)、つまり測る物と目盛りを一直線に並べれば誤差が小さくなるという決まりです。1926 年には、ねじの 5 つの要素を付け替えなしで測れる最初の万能測定顕微鏡を出しています[8][12]。

1973 年、Zeiss はUMM 500 を出します。触れて測るプローブと、HP 9810 の卓上計算機と、自社の測定ソフトを組み合わせた CNC の三次元測定機で、工作物を前もって正確に置き直さなくても 0.5 µm の精度で測れました。Zeiss は「最初の CNC 三次元測定機」としています。その成功を受けて、1977 年に精密測定の部門は Industrielle Messtechnik(産業用測定)になり、1978 年には工場の現場で使う WMM 550/850 の系列を出しました[8][12]。

測定機が加工を直す。計算機を持つ測定機は、測るだけでなく、測った結果から加工の設定の直しを計算できます。1987 年の NASA の報告は、米国のヘリコプタメーカー Sikorsky が、Zeiss UMM 500 で航空機のまがりばかさ歯車の歯面の約 45 点を測り、基準の歯車との差から、Gleason のソフトで歯車研削盤の設定の直しを計算する方法を作ったと書いています[29]。職人の勘に頼っていた歯当たりの調整を、数字で決めるやり方への転換でした。歯車の測定と研削は第 8 章「歯車機械の系譜」、今の測定工具の使い方は検査器具・測定工具のデータベースにあります。

積層造形(金属 3D プリンタ)

積層造形は、薄い層を 1 枚ずつ積み重ねて形を作る方法です。削る加工が「塊から要らないところを取り去る」のに対し、積層造形は「要るところにだけ材料を置く」ので、中に冷却の通路がある型や、軽くするための格子の構造のように、削れない形も作れます。金属の積層造形では、薄く敷いた金属の粉にレーザを当てて焼き固める・溶かす方法が主流で、その技術でドイツは世界の中心の 1 つです。

EOS:BMW の光造形から粉末焼結へ

1989 年 4 月、Hans J. Langer が München 近くの Gräfelfing で EOS を始めます。CAD のデータからレーザで直接物を作ることが目標でした。1990 年に BMW が最初の客になり、樹脂を光で固める光造形機 STEREOS 400 を発注します[31][32]。1994 年、EOS は BMW のために開発した最初の粉末焼結機(樹脂の粉をレーザで焼き固める)P 350 を出しました。EOS は、これを欧州で最初の樹脂の粉末焼結機としています[32][31]。欧州で最初の光造形機を買った Electrolux とは、金属の粉を直接レーザで焼き固める DMLS の機械を共同で作り、これがのちに EOS のいちばん大きな市場になりました[32]。EOS は 1997 年までに粉末焼結の特許の権利を世界で手に入れ、粉末焼結の専門になっています[31]。

Fraunhofer ILT の基本特許:粉を「完全に溶かす」

金属の部品をそのまま使える強さで作るには、粉を焼き固めるだけでなく、完全に溶かしてすき間の無い金属にする必要があります。1996 年 12 月、Aachen の Fraunhofer ILT(レーザ技術研究所)の Wilhelm Meiners・Konrad Wissenbach・Andres Gasser は、金属の粉を層ごとに敷き、決まった範囲をレーザで溶かして CAD のデータどおりの部品を作る方法を出願しました(DE 196 49 865、1998 年公開)[33]。これが今の金属 3D プリンタの主流「レーザ粉末床溶融(LPBF、SLM とも)」の基本特許です。ILT の 2021 年の発表によれば、始めたときは研究者 1 人の半分の時間しか割り当てがなく、最初に狙ったのは歯科のインプラントのコバルトクロム合金のように、使い道のはっきりした材料でした。2019 年の金属の積層造形の世界の市場は約 20 億ユーロで、その 8 割を超えるのが LPBF だといいます[34]。

Concept Laser と GE、Trumpf の参入

2000 年には Frank Herzog らが Lichtenfels で Concept Laser を始め、2001 年に最初の金属の積層造形機を売り出しました。方式の名は LaserCUSING です。2016 年 10 月、米国の GE が同社の株の 75% を 5 億 9,900 万ドルで買うことで合意し[35]。板金とレーザの Trumpf も 2015 年に積層造形の部門をつくり[14]、ILT の基本特許の発明者の 1 人 Meiners は、2021 年の時点で Trumpf で働いていました[34]。EOS の産業用 3D プリンタの据え付けは、2025 年に 5,000 台に届きました[31]。

現場の加工は何が変わったか。積層造形の部品は、そのままでは面が粗く、寸法も削った部品ほど正確ではありません。取り付けの面や穴は、今もマシニングセンタや旋盤で仕上げます。そのため、積層と切削を 1 台にまとめた機械も生まれました(日本の例は下の「日本とのつながり」)。積層造形は削る機械を置き換えたのではなく、削れない形を作り、削って仕上げるという新しい分業を生んだのです。

日本とのつながり

ドイツの座標ボール盤に日本の NC

1969 年の英国の業界誌の索引には、Köln の Kolb の座標ボール盤 KBN E 30 が「Fanuc のオープンループ NC 付き」として載っています[26]。オープンループとは、モータを指令の数だけ回し、テーブルの位置を測って戻すことはしない方式の NC です。ドイツのラジアルボール盤の老舗が、1960 年代の終わりに日本の NC 装置を積んだ座標ボール盤を出していたことになります。国産のラジアルボール盤とジグ中ぐり盤の歴史はボール盤・中ぐり盤の系譜にあります。日本の最初のジグ中ぐり盤はスイスの SIP の機械を手本にしましたが、ドイツでは Lindner が独自にジグ中ぐり盤を作っていました(上の節)。

ワイヤ放電加工機:Siemens からファナックへ、そして日本が先頭に

放電加工では、日本とドイツ語圏の関係はもっと深くなります。国立科学博物館の調査は、日本で最初のワイヤ自動結線装置を、ファナックがドイツの Siemens から技術を入れて完成させたと書いています[15](放電加工機の系譜の 1979 年)。一方、1970 年代の終わりからは日本のメーカーがスイスの Agie・Charmilles に追いつき、欧州のメーカーから特許の争いを仕掛けられる局面もありました[15]。1990 年ごろには、日本の放電加工の電源の特許がドイツ・スイス・米国・イタリアでも登録され、「欧米の先行特許に苦しめられた時代から、日本が開発の先頭に立つ時代に変わった」と調査はまとめています[15]。

Trumpf の横浜の子会社と、板金の NC

Trumpf は 1978 年、Leibinger が米国から CO2 レーザを持ち帰ったのと同じ年に、横浜に子会社をつくりました[14]。スイス(1963 年)・米国(1969 年)に次ぐ海外の拠点で、アジアで最初の子会社です[14][22]。板金の機械が NC の最初の舞台になったのは日本も同じで、1956 年に富士通信機製造(のちのファナック)が開発した民間で最初の NC 装置は、タレットパンチプレスを最初の対象にしていました[37][38](国産旋盤の系譜の 1956 年)。

金属の積層と切削の複合機

Fraunhofer ILT の 1996 年の特許から始まった金属の粉末床溶融を、日本のメーカーは切削と組み合わせる方向で発展させました。2002 年、松浦機械製作所は、レーザで金属の粉を固める金属光造形と、マシニングセンタの切削を 1 台にした機械を開発しています[39](複合加工機・5 軸の系譜)。「削れない形を積層で作り、削って仕上げる」分業を、日本は 1 台の機械の中で実現しようとしたのです。

⑂メーカーの系図

この章に出てくる主なメーカーの、社名の移り変わりと買収です。帯の色が変わるところで社名が変わり、赤い矢印は事業の行き先、右端の › は今も続く会社、点線は「その先は確かめていない」ことを示します。Raboma と Kolb の帯の始まりは、1950〜51 年に「創業 50 年」とした見本市の報告からの逆算で、帯の右端は確かめた最後の記事の年です。Union は 1872 年の株式会社化のあと、東西分断で人民所有企業(VEB)になりましたが、切り替わった年は確かめられなかったので 1 本の帯にしています。

18401880192019602000D. G. Diehl(Chemnitz)Union(vormals Diehl)→ VEB Union Karl-Marx-StadtErnst Schiess(Düsseldorf)Ernst Schieß AGSchieß-Defries AGSchieß AGDörries Scharmann へScharmann(Rheydt)Dörries と統合Dörries(Vussem)Dörries ScharmannStarragGlobuswerkeAdolf Waldrich(Coburg)Waldrich Coburg(Ingersoll)HerkulesWaldrich Coburg(北京第一机床厂)Raboma(Hermann Schoening、Berlin)Hermann Kolb(Köln-Ehrenfeld)Herbert Lindner(Berlin)MSODiedesheim グループBuderus へ(Wetzlar)Julius GeigerTRUMPF(Stuttgart→Ditzingen)Carl Zeiss(Jena→Oberkochen)EOS(Gräfelfing→Krailling)Concept Laser(Lichtenfels)GE が 75%帯の区切りが社名の変更。赤い矢印は合併・事業の譲渡の行き先。右端の › は今も続く会社。点線はその先が未確認。
出典:各社の沿革と社史 [2][3][30][6][7][19][13][9][26][10][14][12][31][32][35]

見に行ける所

ここに挙げた機械は大きく、多くは工場で使い切られて残っていません。博物館の収蔵品は常設の展示に出ているとは限らないので、公開日・見学の可否・展示の入れ替えは、行く前にそれぞれの施設の案内で確かめてください。歯車機械の章の見に行ける所もあわせてどうぞ。

TECHNOSEUM(州立 技術と労働の博物館)Mannheim(バーデン=ヴュルテンベルク州)Berlin の Raboma のラジアルボール盤(1901〜1910 年ごろ、電動機の個別駆動と歯車変速、所蔵番号 EVZ:1984/0057)を収蔵する。常設の展示に出ているかは、行く前に博物館の案内で確かめてください[9]
Industriemuseum Chemnitz(Chemnitz 産業博物館)Chemnitz(ザクセン州)東ドイツの VEB Werkzeugmaschinenfabrik Union の横中ぐりフライス盤 BFT 90/3at(1985 年)とマシニングセンタ CBFK 90/1(1988 年)の、見本市用の模型を収蔵する。Union は 1852 年創業の横中ぐり盤の老舗[28][30]
3-Städte-Depot e.V.Hückeswagen(ノルトライン=ヴェストファーレン州)Solingen の Klopp の形削り盤(1950 年ごろ)を直して動く状態にし、展示の中で動かして見せている。Bergisches Land(ベルク地方)の工業の品を集めるボランティアの会[18]
Technisches Denkmal Brikettfabrik „Louise“(技術記念物 ルイーゼ練炭工場)Domsdorf(ブランデンブルク州)1882 年の練炭工場がそのまま残る。工場の中の工作室に Leipzig の H. Tröpsch の平削り盤(立て削り盤)がある。案内つきの見学で工場の中を見られる[36]

⌛年表

この章で確かめた出来事のすべてを、本文の節と同じ機種ごとに並べました。番号は出典で、押すとその資料(ページが分かるものはそのページ)が開きます。「コマ」は Internet Archive のスキャンの通し番号、「p.」は報告書のページです。

創業の時代電動機と高速度鋼油圧と専用機NC・レーザ・CMM積層造形と再編1840188019201960200018521900193319511967197919891996黄色の点は大事な出来事(下の表の ★、年は混み合うところを省略)。時代の区切りの年は目安です。

ボール盤:ラジアルボール盤・多軸ボール盤・ジグ中ぐり盤1900〜1969 年

年出来事メーカー・機種出典
1901〜10年Berlin の Raboma のラジアルボール盤。1 台ごとに電動機を付け、歯車箱で回転数を変える作りで、同じ型はベルト駆動でも売られた(電気の無い工場がまだ多かったため)。いま Mannheim の TECHNOSEUM が収蔵する製造年は博物館の目録で 1901〜1910 年Raboma(Hermann Schoening)ラジアルボール盤[9]
1918年Herbert Lindner が Berlin で自分の会社を始める。初めはフライス盤の割出し台や旋盤の付属品を作り、1926 年にねじ研削盤を売り出すHerbert Lindner(Berlin)[10]
1919年Hülle の教科書が、Siegen の H. A. Waldrich の直立ボール盤を紹介する。電動機で 12 段の回転数を持ち、新しい高速ボール盤は 100 PS の電動機・切削速度計・穴の深さの表示を備える。同じ本の古い機械は 3〜5 PS だったH. A. Waldrich(Siegen)高速ボール盤[11・コマ266][11・コマ267]
1933年★Lindner が Leipzig の見本市で最初のジグ中ぐり盤を出す。治具やゲージの穴を座標で正確にあける機械で、1936〜37 年には座標中ぐり盤の特許も出願し、1968 年までに約 1,200 台が作られたHerbert Lindner(Berlin)ジグ中ぐり盤(Lehrenbohrwerk)[10]
1950年米 CIA の報告が、解体された Berlin-Oberschöneweide の Raboma の工場の機械が、ソ連の Stry(今のウクライナ)のトラクタ工場に運ばれて使われていると伝えるRaboma[17]
1951年ハノーファー見本市で、Berlin-Borsigwalde の Raboma が油圧で操作し、操作の多くを自動にした新しいラジアルボール盤を出す。前の年に創業 50 年を迎えていたRaboma(Berlin-Borsigwalde)油圧操作のラジアルボール盤[19・コマ35]
1951年★創業 50 年の Kolb が、柱と腕がほぼ 6 m、穴あけの半径 5,100 mm、床から主軸まで 4,800 mm の大形ラジアルボール盤を出す。腕を電気と油圧で締め付ける装置も見せるHermann Kolb(Köln-Ehrenfeld)大形ラジアルボール盤[19・コマ35][19・コマ36]
1951年Burkhardt & Weber が、穴あけ 16 本・タップ 4 本の主軸と、6 か所に割り出す直径 1,250 mm の回転テーブルを持つ専用機を出す。乗用車のディーゼルのシリンダヘッドの斜めの穴を、1 回の割出しごとに 2 個ずつ仕上げるBurkhardt & Weber(Reutlingen)20 軸の多軸ボール盤[19・コマ37]
1952年フランスの業界誌が Raboma の 12 Uh 形を紹介する。主軸の回転数と送りを前もって選んでおく装置、電気と油圧で腕と柱を締める装置、操作部の集中を持ち、鋼で直径 90 mm までの穴をあけられるInternet Archive の目録は 1951 年 11 月号だが、誌面の表記は 1952 年 11 月(T. XXXV)Raboma12 Uh 形ラジアルボール盤[20・コマ48]
1960年6月英国の技術誌が、Köln の Hermann Kolb の座標中ぐり盤の「プログラム制御」を紹介する。軸ごとの磁気テープに記録した磁気のしるしを読み取りヘッドが拾い、台の動きを止める仕組みで、図面の座標の位置決めを機械に任せた1965 年の英国の業界誌の索引には、Kolb の数値制御の座標ボール盤の記事(p.466)も載るHermann Kolb(Köln)[24・p.94]
1969年英国の業界誌が、Kolb の座標ボール盤 KBN E 30(日本の Fanuc のオープンループ NC 付き)と、Raboma の NC 座標ボール盤 Rabomat を取り上げる。ラジアルボール盤の老舗が NC の座標ボール盤に進むHermann Kolb・RabomaKolb KBN E 30・Raboma Rabomat[26・コマ9]

横中ぐり盤・シリンダ中ぐり盤・立て旋盤1852〜2011 年

年出来事メーカー・機種出典
1852年★D. G. Diehl が Chemnitz で工作機械の工場を始める。1872 年に株式会社になり、のちの Werkzeugmaschinenfabrik „Union“(vormals Diehl)として、1910 年の公式目録は「ドイツで 2 番目に古い工作機械工場」と書くD. G. Diehl(Chemnitz)[2・コマ226][3・コマ268]
1862年Anton Collet と Otto Engelhard が Offenbach am Main で工作機械の工場を約 50 人で始める。1910 年ごろには約 400 人・自社の工作機械約 300 台の工場になり、機関車の車輪旋盤、車軸の旋盤と研削盤、ラジアルボール盤、車輪を押し込む油圧プレスなど、鉄道の工場の機械一式を得意としたHoff の本の記事は会社の紹介文。ブリュッセル万博の公式目録も創業 1862 年・400 人とする。1971 年の解散は確かめていないCollet & Engelhard(Offenbach)[5・p.579][2・コマ224]
1866年Ernst Schiess が Düsseldorf 近くの Oberbilk で 6 人の工場を借りて機械工場を始める。1869 年に機械工場、1872 年に鋳物工場を持ち、やがて大形の工作機械が本業になるErnst Schiess(Düsseldorf)[6]
1873年ごろ輸出業者の住所録に、Chemnitz の „Union“ が「1852 年創業」として載り、旋盤・ボール盤・機関車の車輪旋盤・木工機械を売り込む。この頃はまだ何でも作る工場だった„Union“(vormals D. G. Diehl)[3・コマ268]
1884年Eifel 地方の Vussem で Dörries が始まる。1988 年に Scharmann と一緒になるDörries(Vussem)[7]
1885年Rheydt(今の Mönchengladbach)で Scharmann が始まる。のちの横中ぐり盤の大手Scharmann(Rheydt)[7]
1890年Bielefeld で Droop+Rein が始まる。のちに大形の横中ぐり盤と門形機を作るDroop+Rein(Bielefeld)[7]
1898年Schiess が工作機械メーカーの団体 Verein deutscher Werkzeugmaschinenfabriken(今の VDW)の設立の中心になり、亡くなるまで会長を務めるErnst Schiess[6]
1900年★Union が横中ぐり盤の専門工場に切り替える。1910 年の公式目録によれば、自社の設計(特許あり)だけを作り、いつも約 150 台を製作中で、フランス・ベルギー・英国・オーストリア・イタリア・ロシアへ納めたWerkzeugmaschinenfabrik Union(Chemnitz)横中ぐり盤(Horizontalbohrwerk)[2・コマ226]
1900年ごろSchiess の工場は約 1,000 人になり、それまでに世界で約 7,000 台の工作機械を売ったErnst Schiess[6]
1919年Hülle の教科書が、Union の横中ぐりフライス盤(Bohr- und Fräswerk)を 6 枚の図で紹介するWerkzeugmaschinenfabrik Union(Chemnitz)Union-Bohr- und Fräswerk[11・コマ282]
1919年同じ本が、蒸気機関などのシリンダを削るシリンダ中ぐり盤を紹介する。Froriep の機械は中ぐりの頭の送りを 4 段に変えられ、Collet & Engelhard の機械は電動機から歯車とウォームで中ぐり棒を回し、棒そのものを送るOtto Froriep(Rheydt)・Collet & Engelhard(Offenbach)シリンダ中ぐり盤[11・コマ289][11・コマ290][11・コマ291][11・コマ293]
1919年大きな工作物を定盤に置き、機械のほうを持っていって穴あけや平削りをする可搬式の機械。Hülle は、蒸気タービンのケーシングの仕事がこの種の機械を育てたと書くCollet & Engelhard(Offenbach)可搬式のボール盤と平削り盤[11・コマ595][11・コマ596]
1925年Schiess の会社が Düsseldorf の Defrieswerke と合併し、Schieß-Defries AG になるSchieß-Defries AG[6]
1930年Billeter & Klunz が、米国 Fond du Lac の横中ぐり・フライス盤の専門メーカー Giddings & Lewis と、高級な工作機械を一部分担して作る協定を結ぶ。欧州では Billeter & Klunz が、米国とカナダでは Giddings & Lewis が売るBilleter & Klunz・Giddings & Lewis(米国)[4・p.169]
1951年ハノーファー見本市に横中ぐりフライス盤が並ぶ。Schiess は主軸径 160 mm の WBF 16、Rheydt の Scharmann は主軸径 120 mm のテーブル形と床形、Bielefeld の Droop & Rein は主軸径 150 mm の機械Schiess・Scharmann・Droop & Rein横中ぐりフライス盤[19・コマ38]
1951年戦後に工場を全部解体された Schiess が、1951 年に Schieß AG として再開する。同じ年の見本市には、面板径 1,000 mm・約 30 kW の高速の 1 本柱の立て旋盤 EK 100 と、最大旋削径 4,000 mm の 2 本柱の立て旋盤を出すSchieß AG(Düsseldorf)立て旋盤 EK 100 ほか[6][19・コマ30][19・コマ53]
1985年東ドイツの Union が、面板つきの横中ぐりフライス盤 BFT 90/3at を出す。見本市では本物の代わりに模型を使うこともあり、その模型が Industriemuseum Chemnitz にある年は模型の製作年(博物館の目録)。機械の提供は 1980 年代の終わりVEB Werkzeugmaschinenfabrik Union Karl-Marx-StadtBFT 90/3at[28]
1988年Union が、パレット交換と 80 本の工具の自動交換を持つ横形のマシニングセンタ CBFK 90/1 を出す。横中ぐり盤のメーカーが MC に進んだ例VEB Werkzeugmaschinenfabrik Union Karl-Marx-Stadtマシニングセンタ CBFK 90/1[30]
1988年Voith グループの下で Dörries と Scharmann が一緒になる(1996 年に Dörries Scharmann GmbH)Dörries・Scharmann[7]
1993年経営危機の Schieß AG を Mönchengladbach の Dörries Scharmann が引き取るSchieß AG → Dörries Scharmann[6]
2011年スイスの StarragHeckert が Dörries Scharmann のグループ(Dörries・Scharmann・Droop+Rein・Berthiez)を買い、翌年 Starrag Group になるStarragHeckert[7]

平削り盤・形削り盤・立て削り盤と門形機1919〜2005 年

年出来事メーカー・機種出典
1857年Aschersleben に Billeter & Klunz の機械工場ができる。初めは農業機械や褐炭の鉱山の機械も作る一般の機械工場で、のちに工作機械に切り替え、最後は工作機械だけを作るようになるBilleter & Klunz(Aschersleben)[4・p.28][4・p.110][2・コマ224]
1910年ブリュッセル万国博覧会のドイツの公式目録は、Billeter & Klunz を片持ち(1 本柱)と門形(2 本柱)の平削り盤と空気ハンマだけを作る約 300 人の会社と紹介する。出品した片持ち平削り盤(2,500×1,050×900mm)は、回る向きを変えられる電動機 1 台で直接動かしたBilleter & Klunz(Aschersleben)[2・コマ224]
1919年Hülle は、片持ち(1 本柱)の平削り盤で先頭に立ったのは Aschersleben の Billeter & Klunz だと書く。4 つの刃物台を持つ重切削の機械や、はずみ車を削る特別な形も紹介するBilleter & Klunz(Aschersleben)片持ち平削り盤[11・コマ491][11・コマ492][11・コマ493]
1919年同じ本は、Billeter & Klunz が少し前に特許 DRP 146 076 を得たと書く。刃物と台を同時に逆向きに動かし、切削と戻りの速さを足し算にする考え特許の年は確かめられなかった(DEPATISnet の書誌に日付なし)Billeter & Klunz(Aschersleben)DRP 146 076[11・コマ504]
1919年高速度鋼の刃物で、平削り盤は荒削り毎分 12〜20 m、仕上げ 8〜12 m、戻り 18〜30 m 以上で使われていた。Billeter & Klunz は電磁石で台の向きを切り替える仕掛けを早くから使ったBilleter & Klunz ほか[11・コマ494][11・コマ499]
1919年Hülle が Leipzig の Wotanwerke の形削り盤(シェーパ)を例に、行程 600〜800 mm までの小物用の機械を説明する。旋回して傾けられるテーブルや、ラックで動かすラムの切り替えを持つWotanwerke(Leipzig)形削り盤(Stößelhobelmaschine)[11・コマ512][11・コマ518][11・コマ520]
1919年同じ本が Schiess の重い立て削り盤(スロッタ)を紹介する。テーブルの縦・横・回転の送りを同じ歯車から分けるSchieß AG(Düsseldorf)重立て削り盤(Stoßmaschine)[11・コマ547]
1920年Adolf Waldrich と Emil Hardt が Coburg で Globuswerke を始める。工作機械の修理から入り、1926 年に今の場所へ移って Maschinenfabrik Adolf Waldrich になるGlobuswerke → Maschinenfabrik Adolf Waldrich(Coburg)[13]
1936年Waldrich が Leipzig の見本市で油圧の駆動を見せるAdolf Waldrich(Coburg)[13]
1950年Otto Waldrich が会社を継ぎ、平削り盤の量産を始める。研削とフライス削りを兼ねる機械も作るAdolf Waldrich(Coburg)平削り盤[13]
1950年ごろSolingen の Klopp の形削り盤。長く工場で使われたあと、Hückeswagen の 3-Städte-Depot に寄贈され、2021 年の水害のあとも直して動く状態で見せているKlopp(Solingen)形削り盤[18]
1951年ハノーファー見本市の報告は、平削り盤に大きな進歩は無いとしつつ、Waldrich の重い平削り盤と、VDF の展示の 2 本柱の標準平削り盤(Boehringer と Billeter)を挙げる。Ravensburg は行程 1,000 mm の立て削り盤 SL 500 を、Leonard 方式の電気駆動で動かして見せたAdolf Waldrich(Coburg)・Boehringer / Billeter・Maschinenfabrik Ravensburg[19・コマ46]
1971年Waldrich Coburg が最初の NC つきの機械を納めるWaldrich Coburg[13]
1973年★Waldrich Coburg が、柱ごと動くガントリ形の門形フライス盤の 1 号機を、発電所の機械を作る Kraftwerk Union(Mülheim)へ納める。平削り盤の会社が大形の門形機の会社に変わるWaldrich Coburg門形フライス盤(ガントリ形)[13]
1975年テーブル幅 5,000 mm、取り付け長さ 18,000 mm の門形フライス盤を作るWaldrich Coburg門形フライス盤[13]
1986年Otto Waldrich が会社を米国の Ingersoll グループに売るWaldrich Coburg → Ingersoll[13]
2004〜05年Ingersoll の破産のあと、2004 年に競売で Herkules グループが買い、2005 年に中国の Beijing No.1(北京第一机床厂)が引き取るWaldrich Coburg → Herkules → 北京第一机床厂[13]

ブローチ盤1951 年

年出来事メーカー・機種出典
1951年★ハノーファー見本市で、Kurt Hoffmann がブローチの台を油圧で動かす立て形の内面ブローチ盤を出す。引く力 12 t、行程 1,200 mm、全長 1,750 mm までのブローチを使い、戻りで工具が自動で逃げるKurt Hoffmann(Pforzheim)立て形内面ブローチ盤[19・コマ46]
1951年同じ見本市に、引く力 3 t の 2 本柱の機械、10 t で工作物の台が回る機械、5 t と 10 t の横形、Forst の立て形と横形のブローチ盤が並ぶ。引く力 2 t・行程 800 mm の小形の外面・内面用も初めて出て、一部は溶接の構造で作られたForst ほか立て形・横形ブローチ盤[19・コマ46]

専用機・加工ライン・FMS1951〜1998 年

年出来事メーカー・機種出典
1951年★Burkhardt & Weber が、3 台の一方向の専用機を、工作物の自動の受け渡しでつないだ加工ラインの一部を見せる。自動車のシリンダヘッドの 4 面と斜めの点火プラグ穴を削り、工作物は焼入れしたレールの上を油圧で持ち上げて 900 mm ずつ送る。切りくずの処理に特に気を使ったBurkhardt & Weber(Reutlingen)シリンダヘッドの加工ライン(一部)[19・コマ37]
1971年★東ドイツの Heckert が、最初の FMS(工作機械と搬送を計算機でまとめた柔軟な生産システム)PRISMA 2 を Chemnitz で動かすIndustriemuseum Chemnitz の会報は「1960 年代の終わりに開発・設置」と書く。年は Starrag の沿革に従ったVEB Werkzeugmaschinenkombinat „Fritz Heckert“(Karl-Marx-Stadt)PRISMA 2[7]
1990〜98年1990 年に信託公社(Treuhand)の下で Heckert Chemnitzer Werkzeugmaschinen GmbH ができ、1998 年にスイスの Starrag が引き取る(従業員 198 人)Heckert → Starrag[7]

放電加工機1943〜2023 年

年出来事メーカー・機種出典
1943年ソ連の Lazarenko 夫妻が、放電で金属を取り去る加工を論文で提唱し特許を出す。研究は東欧から英国・スイス・ドイツなど西欧にも広がる—[15・p.11]
1965年Remscheid の AEG-Elotherm が、放電加工機を動かす電源の回路をドイツで出願する(英国特許 GB 1 096 119、1967 年公開)AEG-Elotherm(Remscheid)[25]
1969年スイスの Agie が NC ワイヤ放電加工機 DEM-15 を完成し、パリの展示会に出すAgie(スイス)DEM-15[15・p.26]
1969年AEG-Elotherm が電解加工(ECM)の装置を出願する(英国特許 GB 1 280 496)。放電とならぶ「電気で削る」加工AEG-Elotherm(Remscheid)[27]
1970年代放電加工機の世界の代表はスイスの Agie と Charmilles、米国の Elox だった。1970 年代の終わりから日本のメーカーが性能で追いつき、欧州のメーカーは特許で日本のメーカーを訴えることもあった—[15・p.34]
1979年★日本で最初のワイヤ自動結線装置(切れたワイヤを機械が自分で通し直す)は、ファナックがドイツの Siemens から技術を入れて完成させた。当時、Siemens のほかに実用化の例は無かったと伝わるSiemens → ファナックワイヤ自動結線装置[15・p.67]
2023年国立科学博物館の調査は、欧米の放電加工機メーカーの多くが消え、いまはスイスの GF Machining Solutions(旧 Agie と旧 Charmilles)、スペインの ONA、ドイツの EXERON と日本の 5 社が世界の市場を分けているとまとめる—[15・p.13]

プレスと板金の機械・レーザ加工機1839〜1989 年

年出来事メーカー・機種出典
1839年Louis Schuler(父)が Göppingen で錠前の工房を始める。1852 年から板金の機械も作り、のちのプレスの大手 Schuler の始まりになるSchuler(Göppingen)[1]
1875年息子の Louis Schuler が、動力で動く偏心プレス・絞りプレス・シャーを Nürnberg の板金の展示会に出す。手回しから動力へ、板金を工場で大量に加工する時代の始まりSchuler(Göppingen)動力のプレス・シャー[1]
1895年Schuler が 2 本の油圧シリンダで動かす絞りプレスの特許を取る。スライドを機械でなく油圧で押すので力がむらなくかかり、深絞りの仕上がりがよくなったSchuler(Göppingen)油圧絞りプレス(DE 84410)[1]
1920年代〜Schuler が、欧州と米国の主な自動車メーカーに車体のプレスを納めるようになるSchuler(Göppingen)[1]
1923年Christian Trumpf が Stuttgart の Julius Geiger の工場を買い、フレキシブルシャフト(曲がる軸)を作る。1937 年に TRUMPF & Co. と名を変えるJulius Geiger GmbH → TRUMPF[14]
1934年Trumpf が板金を切る最初の電動ハンドシャー HSP 201 を出すTRUMPFHSP 201[14]
1947年Trumpf が据え置き形のカーブシャー(曲線に切る機械)TAS を作り、板金の機械の会社になる。1950 年には行程を変えられる TAS 4TRUMPFTAS(カーブシャー)[14][16]
1957年★Trumpf が板を座標で案内する仕組みの特許を取る(会社は NC の出発点と呼ぶ)。若い技術者 Berthold Leibinger が、カーブシャーやニブリング機の装置の特許を次々に出願するTRUMPF(Berthold Leibinger)座標案内・ニブリング[14][21][22]
1958年Trumpf が最初の据え置き形の倣い・座標ニブリング機を出す。小さなパンチで少しずつ打ち抜き、型を作らずに好きな形の穴や輪郭を切るTRUMPF倣い・座標ニブリング機[22][23]
1958年Leibinger が Trumpf を離れ、米国の Cincinnati Milling Machine Co. で働く(1961 年に Trumpf の設計部長として戻る)Berthold Leibinger[16][14]
1967年★Trumpf が、数値制御の連続経路制御を持つ最初の板金加工機 TRUMATIC 20 を出す社史の事典は TRUMATIC の始まりを 1968 年とする。年は会社の資料に従ったTRUMPFTRUMATIC 20[14][22]
1978年Leibinger が米国の視察から CO2 レーザを持ち帰る。同じ年、Trumpf は横浜に子会社をつくる社史の事典は日本の子会社を 1977 年とする。年は会社の資料に従ったTRUMPF[14]
1979年★Trumpf がパンチとレーザの複合機 TRUMATIC 180 LASERPRESS を出し、レーザの世界に入る。ビーム源は米国製の 500 W と 700 W の CO2 レーザだったTRUMPFTRUMATIC 180 LASERPRESS[14][22]
1985年Trumpf が自社で開発・製造した最初の CO2 レーザ TLF 1000(1 kW)を見せ、レーザの発振器のメーカーにもなる。1981 年には TRUMATIC の 1,000 台目が売れていたTRUMPFTLF 1000[14][22]
1987年板を動かさず、鏡(光学系)のほうを走らせる「フライングオプティクス」の平面レーザ加工機 TRUMATIC L 3000 を出すTRUMPFTRUMATIC L 3000[14]
1989年Hannover の EMO で、光の通り道を折りたたんで小さくした「折り返し」のレーザを積む TRUMATIC 240 LASERPRESS を見せるTRUMPFTRUMATIC 240 LASERPRESS[14]

測定機と三次元測定機1890〜1987 年

年出来事メーカー・機種出典
1890年Ernst Abbe が、測る物と目盛りを一直線に並べる「コンパレータの原理(アッベの原理)」で厚さ計を作る。今も測定の基本の決まりCarl Zeiss(Jena)[8]
1919年Zeiss が Leipzig の春の見本市に初めて測定器を出す。Zeiss は 2019 年を「産業用測定の 100 年」としたCarl Zeiss[12]
1926年Zeiss が最初の万能測定顕微鏡を出す。ねじの 5 つの要素を付け替えなしで測れたCarl Zeiss万能測定顕微鏡[8][12]
1973年★Zeiss が、触れて測るプローブと HP 9810 の計算機を持つ CNC の三次元測定機 UMM 500 を出す。工作物を正確に置き直さなくても 0.5 µm の精度で測れたZeiss は「最初の CNC 三次元測定機」とするが、第三者の資料では確かめていないCarl Zeiss(Oberkochen)UMM 500[8][12]
1977年UMM 500 の成功を受けて、Zeiss の精密測定の部門が Industrielle Messtechnik(産業用測定)になるCarl Zeiss[12]
1978年工場の現場で使う三次元測定機の系列 WMM 550/850 を出すCarl ZeissWMM 550/850[8]
1987年米国の Sikorsky が、Zeiss UMM 500 で航空機のまがりばかさ歯車の歯面の約 45 点を測り、Gleason のソフトで歯車研削盤の設定の直しを計算する方法を、NASA・米陸軍の報告にまとめるCarl Zeiss・GleasonUMM 500[29]

積層造形(金属 3D プリンタ)1989〜2025 年

年出来事メーカー・機種出典
1989年4月★Hans J. Langer が München 近くの Gräfelfing で EOS を始める。CAD のデータからレーザで直接物を作るのが目標だったEOS(Gräfelfing)[31][32]
1990年BMW が EOS の最初の客になり、光造形(樹脂を光で固める)機 STEREOS 400 を発注するEOSSTEREOS 400[31][32]
1994年EOS が BMW のために開発した最初の粉末焼結機(樹脂の粉をレーザで焼き固める)P 350 を出す。EOS は欧州で最初の樹脂の粉末焼結機としているEOS の記事は「1990 年代の初め」とだけ書くEOSEOSINT P 350[32][31]
1990年代半ば欧州で最初の光造形機を買った Electrolux と組み、金属の粉を直接レーザで焼き固める DMLS の機械を作る。のちに EOS のいちばん大きな市場になるEOS・Electrolux[32]
1996年12月★Aachen の Fraunhofer ILT の Meiners・Wissenbach・Gasser が、金属の粉を層ごとにレーザで完全に溶かして部品を作る方法を出願する。今の金属 3D プリンタの主流「レーザ粉末床溶融(LPBF、SLM)」の基本特許になるFraunhofer ILT(Aachen)DE 196 49 865[33][34]
2000年Frank Herzog らが Lichtenfels で Concept Laser を始め、2001 年に最初の金属の積層造形機を売り出す。方式の名は LaserCUSINGConcept Laser(Lichtenfels)[35]
2015年Trumpf が積層造形(Additive Manufacturing)の部門をつくるTRUMPF[14]
2016年10月米国の GE が Concept Laser の株の 75% を 5 億 9,900 万ドルで買うことで合意するConcept Laser → GE[35]
2019年金属の積層造形の世界の市場は約 20 億ユーロ。そのうち 8 割を超えるのがレーザ粉末床溶融(LPBF)だと Fraunhofer ILT はまとめる—[34]
2025年EOS の産業用 3D プリンタの据え付けが 5,000 台に届く(5,000 台目は米国の工場の金属機)EOSEOS M 400-4[31]

よくある質問

ドイツのラジアルボール盤の代表的なメーカーはどこですか?
この章で確かめたのは、Berlin の Raboma(Hermann Schoening)と Köln-Ehrenfeld の Hermann Kolb です。どちらも 1950〜51 年に創業 50 年を迎え、1951 年のハノーファー見本市に油圧で操作するラジアルボール盤や、穴あけの半径 5,100 mm の大形機を出しました。1960 年代の終わりには、どちらも NC の座標ボール盤(Kolb KBN E 30、Raboma Rabomat)に進んでいます。Mannheim の TECHNOSEUM には、1901〜1910 年ごろの Raboma の機械が収蔵されています。
横中ぐり盤の老舗 Union とはどんな会社ですか?
1852 年に D. G. Diehl が Chemnitz で始めた工作機械工場で、1910 年のブリュッセル万博の公式目録は「ドイツで 2 番目に古い工作機械工場」と紹介しています。1900 年から横中ぐり盤の専門になり、常に約 150 台を作りながら欧州各国へ納めました。東西分断のあとは東ドイツの VEB Werkzeugmaschinenfabrik Union Karl-Marx-Stadt として、1980 年代には横中ぐりフライス盤 BFT 90/3at やマシニングセンタ CBFK 90/1 を作っていました。
Trumpf はなぜレーザ加工機のメーカーになったのですか?
もとは板金を切るハンドシャーとカーブシャー、そして小さなパンチで少しずつ打ち抜くニブリング機の会社でした。1957 年に板を座標で案内する特許を取り、1967 年に NC の板金加工機 TRUMATIC 20 を出します。パンチでは難しい曲線の輪郭を切るため、1979 年に米国製の CO2 レーザを積んだパンチとレーザの複合機 TRUMATIC 180 LASERPRESS を出し、1985 年には自社製の CO2 レーザ TLF 1000 を作って、発振器のメーカーにもなりました。
金属 3D プリンタ(レーザ粉末床溶融)はドイツで生まれたのですか?
今の主流の「金属の粉を層ごとにレーザで完全に溶かす」方法の基本特許は、1996 年 12 月に Aachen の Fraunhofer ILT が出願したものです(DE 196 49 865)。粉末焼結では EOS(1989 年創業)が 1990 年代に樹脂と金属の機械を出し、2000 年には Concept Laser も始まりました。ただし、EOS が最初に作ったのも樹脂の光造形機で、層を積み重ねて形を作る方法そのものはそれ以前からあり、「ドイツだけで生まれた」わけではありません。

この先と関係するページ

出典

本と業界誌は Internet Archive のスキャンで、特許はドイツ特許商標庁の DEPATISnet の書誌で、博物館の収蔵品は museum-digital で、メーカーの沿革と報道資料は各ページを 2026 年 10 月に確かめました。Internet Archive の資料の番号はスキャンのコマ、国立科学博物館の報告書は p.(ページ)です。1951 年の見本市の報告は、ドイツの業界誌『Werkstatt und Betrieb』などの誌面を米 CIA が集めて残した写しです。「最初」「世界初」は、何の最初か(特許・製品・会社の自称)を本文に書き分け、資料で年が食い違うものは年表の注に両方を書いています。

  1. M. Adelhardt「Schuler, Louis」『Neue Deutsche Biographie』23 巻(2007)pp.682〜683
  2. 『Weltausstellung Brüssel 1910. Deutsches Reich. Amtlicher Katalog』(1910 年ブリュッセル万国博覧会 ドイツの公式目録)コマ 224・226
  3. 『Adressbuch der Export-Geschäfte des Deutschen Reiches und Oesterreich-Ungarns』(Leuchs、Nürnberg、1873 年ごろ)コマ 268
  4. Margarete Winkler『Die Metallindustrie Mitteldeutschlands in ihrer geschichtlichen Entwicklung』(1934)p. 28・110・169
  5. Wilhelm Hoff ほか編『Das Deutsche Eisenbahnwesen der Gegenwart』第 2 巻(Reimar Hobbing、1911)Collet & Engelhard の紹介記事p. 579
  6. H. A. Wessel「Schiess, Ernst David」『Neue Deutsche Biographie』22 巻(2005)p.747
  7. Starrag「History」(Dörries・Scharmann・Droop+Rein・Heckert の沿革)
  8. ZEISS「History of industrial metrology」(技術の節目)
  9. TECHNOSEUM(Mannheim)収蔵品「Radialbohrmaschine」EVZ:1984/0057(museum-digital)
  10. H. C. Graf von Seherr-Thoß「Lindner, Herbert」『Neue Deutsche Biographie』14 巻(1985)pp.612〜613
  11. Fr. W. Hülle『Die Werkzeugmaschinen』第 4 版(Julius Springer、1919)コマ 266・267・282・289・290・291・293・491・492・493・494・499・504・512・518・520・547・595・596
  12. ZEISS 報道資料「ZEISS looks back at 100 years of measuring technology」(2019 年 5 月 6 日)
  13. WALDRICH COBURG「History」
  14. TRUMPF「The history of the company at a glance」(会社資料 PDF、2022 年 5 月)
  15. 岩崎健史「放電加工機技術の系統化調査」国立科学博物館『技術の系統化調査報告』第 32 集(2023)p. 11・13・26・34・67
  16. TRUMPF「1950–1959」(沿革のページ)
  17. 米 CIA 報告「Tractor plant in Stry」(1950、CIA-RDP83-00415R010900090006-5)
  18. 3-Städte-Depot e.V.(Hückeswagen)収蔵品「Waagerechtstoßmaschine Fa. Klopp / Solingen」105-2017(museum-digital)
  19. K. Schulz ほか「Leistungsschau des Werkzeugmaschinenbaues」『Werkstatt und Betrieb』84 巻(1951)ほか:1951 年ハノーファー見本市の報告(米 CIA が集めた写し、CIA-RDP80-00926A004000470001-6)コマ 30・35・36・37・38・46・53
  20. 「Raboma」『La Pratique des industries mécaniques』T. XXXV 11 号(1952 年 11 月)p.359〜360コマ 48
  21. DE 1 177 453「Nibbeleinrichtung an Kurven-, Nibbel- und Aushaumaschinen」(B. Leibinger、Trumpf & Co.、出願 1957 年 12 月 6 日)
  22. 「TRUMPF GmbH + Co. KG」『International Directory of Company Histories』(Encyclopedia.com 掲載)
  23. CH 373 622「Nibbelmaschine zum Herstellen von Schnittlinien wechselnder Richtungen in Werkstofftafeln」(B. Leibinger、Trumpf & Co.、出願 1958 年 9 月 29 日)
  24. 『The Engineers’ Digest』(英国)21 巻 6 号(1960 年 6 月)工作機械のプログラム制御の解説p. 94
  25. GB 1 096 119「A circuit arrangement for operating a spark erosion machine」(AEG-Elotherm、出願 1966 年 1 月 7 日、ドイツの優先日 1965 年 1 月 16 日)
  26. 『Machinery and Production Engineering』115 巻(1969 年 7〜12 月)索引コマ 9
  27. GB 1 280 496「Improvements in and relating to apparatus for the electrochemical machining of workpieces」(AEG-Elotherm、出願 1969 年 8 月 11 日)
  28. Industriemuseum Chemnitz 収蔵品「Modell Waagerecht-Bohr- und Fräsmaschine BFT 90/3at」04/0049(museum-digital)
  29. NASA Technical Memorandum「Automated Inspection and Precision Grinding of Spiral Bevel Gears」(1987、NTRS 19870016145)
  30. Industriemuseum Chemnitz 収蔵品「Modell Maschinenbearbeitungszentrum CBFK 90/1」04/0048(museum-digital)
  31. EOS ブログ「5,000 Machines and Counting」(2025 年 3 月 9 日)
  32. J. Woodcock「EOS — Two decades of risk and rewards」『TCT Magazine』(2014 年 1 月 22 日)
  33. DE 196 49 865 C1「Verfahren zur Herstellung eines Formkörpers」(Fraunhofer-Gesellschaft、発明者 Meiners・Wissenbach・Gasser、出願 1996 年 12 月 2 日)
  34. Fraunhofer ILT 報道資料「Ein prägendes Patent: 25 Jahre metallischer 3D-Laser-Druck」(2021 年 11 月 15 日)
  35. GE 報道資料「GE reaches agreement to acquire a 75% stake in Concept Laser GmbH」(2016 年 10 月 27 日)
  36. Technisches Denkmal Brikettfabrik „Louise“(Domsdorf)収蔵品「Hobelmaschine (Stoßmaschine)」(museum-digital)
  37. ファナック「ファナックの歴史」
  38. 電気学会「でんきの礎 NC装置(数値制御装置)」(2013年顕彰)
  39. 松浦機械製作所「沿革について」